【島津義弘】島津が誇る最強バーサーカー、鬼島津と恐れられた男の生涯【ゆっくり解説】
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- Опубліковано 17 січ 2024
- 今回紹介する武将は
島津が誇る最強バーサーカー
鬼島津こと島津義弘、
島津家で最も戦に強く、数々の修羅場を潜り抜ける
異常な戦闘力をもつ男
そんな彼の生涯を解説します。
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#2ch #ゆっくり歴史解説 #ゆっくり解説 #島津義弘
#鬼島津#バーサーカー - Розваги
こんな死に急ぐような戦い方で暴れ回ってたのに戦国大名の中でもトップクラスに長生きなのがいちばん怖い
実は、死んでる事に気が付いて無かったのに、死んでいた事にようやく気が付いて亡くなった、とか…(笑)。
やっぱ島津義弘推しはやめれんなぁ
伍から離れたら死罪、前方以外にズレても死罪、伍の中で一人一殺出来なければ死罪、連座で伍の仲間と親族も死罪、伍の仲間が殺されたら仇討出来なければ死罪、味方大将が獲られた場合首を取り返さなければ死罪。みたいなエグい軍律だったらしいからそりゃ強いよなwけど、義弘は家臣や一兵卒と飯囲んで食べたり、最高のもてなし風呂解放してたり、声かけして励ましたり、キツい代わりに付いて行きたくなる大将なんやろね
岩剣城跡は週末登山家だった頃に息子と二人で登ったことがあります。
なかなかの急峻なところで下から攻めるのは無理ゲーレベル。
仕事も出来るし面倒見もいい。
加治木まんじゅうの生みの親。
理想の上司、戦国武将No.1☆
乱世で戦ばかりの時代で医療も今とは比べ物にならないくらい低い中で平均年齢の倍近く生きたのもバケモノだよな。
島津兵、一人一人がバキの登場人物くらいの強さはしてそう
関ヶ原から薩摩に戻る途中で、奥さんを大阪城から救出して、道中では立花宗茂と偶然助け合い、九州では黒田官兵衛と海戦までやってのけてるんだよねー。
志賀親次「島津義弘? 何度も撃退したことあるよ」
義久と義弘は秀吉によって仲が悪くなったとされるが、島津の存続のために常にどっちに転んでもいいように手を打っていた説。
九州征伐の時は全力抗戦をして島津の怖さを印象付けていたからこそ和睦時に家と領地が守れた。
伏見は鳥居が囮になる作戦だったから余計な損害を与えたくなかったんじゃないかと思う。
島津退き口が元となって日置の妙円寺詣りとして伝説が受け継がれている。
ドリフターズ漫画見て。島津家のヤバさを知った。ホントに強いのね。
歴史に残ってるのが凄いよね。
家康が島津を不問にした結果、260年後に子孫の薩摩藩が徳川に恨みを持つ長州藩(毛利家)と結託されて倒幕されたのが何とも...
釣り野伏って知っててもやられるんやから相当駆け引き上手いんやな。
コメントありがとうございます。
たしかに!見破られていても倒せない…最強過ぎますね笑
軍神やん。
同じ日本男児として憧れるわ。
コメントありがとうございます。
やはりこの時代の人達は生き様がカッコいいですよね!
俺は義弘晩年の家臣の子息に初お目見えする時のエピソードが好きやな!(笑)
寡兵をさらに分散させるとか本来は愚策なのに絶大な戦果上げるのが島津のイカれてるところよなw
仕掛ける度に確実に指揮官まで突破して首取ってるんだろうけど、少数に分けてもやってのけるから島津は足軽であってもバーサーカー…
鳥居元忠は伏見城で討ち死にする覚悟だったから島津を道連れにひないように城に入れなかったって説もあるよな。
島津主従が鳥居元忠と伏見城にたてこもったら伏見城包囲軍は地獄を見たろうな。
@@user-rh5mb9ur8q関ヶ原に着く前に西軍が削られて、家康は上杉を倒して見どころなく西軍終了だったかも?
23:18 もし豊久が生きていたら喜んで介護しただろうな。
義弘「お豊や~晩御飯はまだかの~~」
豊久「伯父上~~さっき召し上がりましたぞ~~」
ああなんかほっこりする☺☺☺
そういうifストーリーいいですね!
ほっこりします☺笑
@@kotonoha-2ch-history
そうでしょう!そうでしょう!
7000の兵で20万を蹴散らしたんだからいくら天下人でも島津と喧嘩したいわけがない
10:57戦国乙女のドンフランキー砲ってここからきてたのかw
調べた際に全く同じことを思いました!
ちなみに、小早川ヒデアキの武器である大鎌は、秀秋の旗印「違い鎌」からみたいですね!
設定が細かい…
この時代に85歳まで生きたのはとんでもないな
信長の野望武将風雲禄の「島津義弘見参!御大将覚悟めされい!」からのバグった鉄砲隊の移動力には大変お世話になりました。
大変面白かったです。是非上杉謙信もお願いします。
戦場でヒャッハーしまくる義弘はまさに戦国最強!討ち取った武将の首の数々が証明している。
島津兄弟では一番の戦上手は島津豊久。
豊久ではなくてその父親の島津家久です。
島津豊久もいい勝負でね
泣く子も黙る 「妖怪首置いてけ」ですね!
ドリフターズを読んで「めちゃくちゃな人や」と思ったのですが、史実はもっとめちゃくちゃという(良い意味で)クレイジーなお方です。
@@kotonoha-2ch-history
豊久の実父である
家久もなかなかです
物見に来た騎馬武者
3騎を見つけて
自ら狩りに行く
普通の武将は
絶対にしません。
釣り野伏せも家久が
一番上手いって
ありました。
そりゃー御大将が
自ら囮になるから
策に落ちるよね。
「国崩し」自国の財布事情も冬が来るほどの兵器である。
すみません、阿蘇山は熊本県なので、薩摩の場合、噴火が怖いのは桜島では?でも確かこの時代、激しく噴火してたのは、大隅国の霧島山の高千穂峰かな?
鹿児島県の人に聞いたことあるけど、霧島連山が噴火している時は桜島はおとなしく、桜島が激しい時は霧島連山はおとなしいそう。今は桜島が激しく、霧島連山はおとなしいので想像しにくいけど、霧島連山もかなり大変な活火山です。
こういう話を聞いていつも思うのだけれど、薩摩軍の統率ヤバい。
流石、中国の歴史書に名を残すだけのことはある。
釣り野伏せ、普通の部隊がやろうとすれば自滅するだけなのに、当たり前の様に成功させるヤバさ
中国のどこの歴史書に名を残したんですか?
ちなみに鬼島津という異名も中国や韓国の史料には確認されてません
泗川の戦いの武功に関しても慶長の役で殆ど手柄なかったからこれを過剰に喧伝してアピールしよう!と島津忠恒が本国に書状が現存されています
戦果はまだしも中国や韓国での評判的な逸話は江戸時代以降に作られた薩摩藩の自画自賛アピールだろうと島津研究の第一人者の新名一仁氏を始め多くの歴史研究家から指摘されております
個人的な意見だが義弘公&島津軍団が(ソ連による)対日参戦にタイムスリップしていたら、世界一のパーサーカー軍のソ連にどんな方法で戦っていたのかな。ソ連にも被害者が出ていたのではないかな?と思う。
朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで義弘に十分な兵を送ることが立て続けに出来なかった理由としては、当時の島津家が荒れていたのが一番の原因であると思う。
朝鮮出兵のさなかで島津家臣の”梅北国兼の乱”、梅北の乱の後に島津四兄弟の一人である”島津歳久の誅殺”といった状況が立て続けに起きた。
そして関ヶ原の戦いの前年には大規模な島津家の内紛である”庄内の乱”が起きていたから…。
今、ウクライナ侵略でひどい目にあっているウクライナに島津義弘、家久兄弟が作戦参謀として加わったらロシアもかなり苦戦するだろうな。
プーさんが全速力で逃げそうです(笑)。
家久は国際法?知るか!って好き放題やりそうで支援切られそうだし(惣無事令?知るか!と大友との和睦とか破って国衆調略したのが秀吉に目付けられてしまった)、ロシア自体が兵力どんだけ磨り潰されてもゴリ押してくるから相性悪すぎる
@@user-ub7tt4gl8y まあそれは戦う前に島津兄弟に教えておきましょう。
島津兄弟の他に政治家としての才能ないゼレン大統領には小早川隆景&黒田官兵衛を政治顧問につけよう。ロシア人も裸足で逃げ出すよ。
@@user-rh5mb9ur8q 「大統領が座ったまま、失神してしまいました!!」(笑)。
義弘の好きなところは、こんな鬼神のように強いのに愛妻家で嫁にべた惚れしてた人間らしいところ
…へうげものだと、御国言葉の壁が原因みたいに描かれてましたね
阿蘇山じゃないだろうか桜島
呼、ワイワイ澤井、和
某漫画で復権する前は
悪司馬の小説の影響で
虎の威を借りる狐扱いで
すんげぇ人気なかったよ
仙谷秀久
当時の人は戦になると脳が活性化するんやろな
大河ドラマでやってほしいが、朝鮮忖度で出来ないんだろな。見せ場が多くて面白い内容になるのに残念だ。
島津家の各武将も凄いが、よくよく考えるとそんな武将に付いて行ってる名もなき一般兵が凄いんでしょう。
武将1人が強くても、寡兵で大軍倒すとなると、1人1人が一騎当千の活躍しないと無理だろうし。
種子島(銃)の扱いとか、その辺にも強くなった要因があると考える。
弱兵と言われていた尾張で、信長や銃を主軸にして弱兵でも勝てる戦を模索した様な時代の先を見た戦の仕方だったのではないだろうか。
コメントありがとうございます。
ほんとにおっしゃる通りで、挙げた武功や強さをみるとただの脳筋部隊じゃないような気もしますよね。
後ろに引き下がって指揮をとるだけでなく、義弘公個人でも敵の首をとるなどの武功をあげ続けていたそうです。
そういった姿があるからこそ下の武士の士気が上がり、この方の為なら死んでも構わないと並外れた戦ぶりを発揮できたのではないでしょうか。
その象徴が関ヶ原の戦いではないでしょうか。
一般兵の戦闘力も凄かったでしょうね☺️
@@jacksonmichael644 確かにご指摘の通りかと思います。
関ケ原撤退時の「捨て奸(すてがまり)」なんて、死兵となって追撃部隊を足止めしてるようですしね。
戦場は常軌を逸した行動を取り易いのでしょうが、ほぼ死ぬのがわかるのに義弘を生かす為に、豊久を始め少数で死力を尽くす様を考察すると本当に恐ろしい兵士です。
家久の評価が低すぎる。
実際に戦が一番強いのは家久やろ。もちろん四男の方の家久な。
阿蘇山じゃなくて桜島やな
晩年の逸話は現代でも似たようなのがある。
人間、身体に染み着いた動きは絶対忘れないんだよな。
ある老人ホームで認知症を患ったお爺さんに
三八式歩兵銃のモデルガンを渡してみたら、
戦争にいたときのことを思い出したように
目付きを変えて急に立ち上がりキビキビと歩きだした。
日本の戦国武将達が強すぎた!
島津の大河観たいけど朝鮮出兵で活躍した人は無理っぽいね。。。残念
関ヶ原とか家久の死とか謎が多いな。
捨てがまり。結跏趺坐で坐禅の座り方は腰を入れて姿勢を正し呼吸を作りセロトニン効果で幸福感が出て安定する座り方。もちろん逃げる事は捨ててる。本物の仏教徒やな。念仏より禅を取るとはやはり何かが違うな。キリスト教が南九州にまでは入ってこれなかったと言うより行動として禅の教えを会得してれば教育としての宗教に入る余地はないからな。
示現流は島津が生み出した剣法でしたっけ?。
解説お疲れさまです。
義弘の息子の忠常が島津家の流派としてめしかかえてますね。それまではタイ捨流。
島津を九州全体から薩摩に押し込めた豊臣秀吉。小さいながら日向南部に伊東藩を設置。そう、10年ほど前に日向から島津に追い出された伊東です。数十年にわたり島津と戦っていた伊東。裏切ることは無いと思っていたのでしょうね。現に江戸時代初期まで犬猿の仲でした。でも、関ヶ原では伊東は徳川方です、反島津? なお、江戸時代伊東の居城、日南市の飫肥城は戦国時代、領地が島津だった時に義弘(20代半ば)が2年ほど住んでいたことがあります。
関ヶ原の時豊久死んじゃってますよ
暗君無しってのがまずやべぇ
10倍の敵を包囲して殲滅するという現実で包囲殲滅陣を成功させるなろう系戦国武将島津義弘
確か大将首を挙げた数が全戦国武将中トップなんですよね
愛妻家の面も紹介してほしかったわ
コメント・情報ありがとうございます!
まだまだ掘り下げが足りませんでしたね😂
もう一本作れそうですね…🤔
こちらのチャンネル最初の動画はどれだっけ?と振り返って連休を過ごしました。
歴史人物のセリフがこちらの動画に脳内変換される病に「パッパー、やで」
コメントありがとうございます!
ワイも脳内変換病かかっとるんやでー☺
朝鮮出兵したのはそんな簡単な理由じゃないけどな
島津義弘は
初陣の際に死にかけたwww
途中からカードゲームネタ
もしその時死んでいたら島津は関ヶ原辺りで滅亡していたかも。
@@user-rh5mb9ur8q
島津義弘の傍らに
有能な家臣団がいて
義弘の難儀を救ってた
あまり有名じゃない
けど古強者ばかりです
でも本人は、弟の家久が生きてたらワシよりも強いでえぇぇぇぇと言ってたらしいで。😂😂😂
島津義弘はテルモピュライの戦いに参戦したレオニダス一世を超える猛将かも
スリーハンドレッドしても生きて帰ってきてるし
うーん…レオニダス一世は30万対300だから全然規模が違うんだけどなぁ…
島津義弘の名前の変遷は
忠平→義珍(よしたか)→義弘です
あぁ…少ない兵をさらに分散させて…
こら負け確やろなぁ
今度うちで食の細い祖父にやってみようと思います。
「空襲だーッ!!!」
明軍というか中華王朝の軍隊って乱戦やら山岳戦とか陣や隊列が組めない闘いって苦手で大軍でもよく負けるのよね
仙石の次に軍監になった尾藤は消極的過ぎて秀吉の怒り買って追放されたのであった。
精矛神社お参りしてきた😊
バーサーカーというよりは…………「戦国時代のヤン・ウェンリー」かも(^_^;)
常に少数で大敵を倒すとか、釣り野伏もヤン艦隊の十八番だし
ムライ「ウチの艦隊は逃げる真似ばかり上手くなって…………(-_-;)」
島津四兄弟は人類史上最強の兄弟だと思うが、島津義弘が戦国最「凶」はありえない。
身内だけでも三男の島津悪久こと島津忠恒(家久)の方が遙かに凶悪。
四兄弟で一番人望あった人だからなぁ〜
家臣に節目節目の贈り物を欠かさず戦で怪我人が出れば自ら治療して回るような大将だから木崎原や関ヶ原等などの激戦で最期まで戦い続けた将兵が滅茶苦茶多い
忠恒は義弘の次男な。家康の家の字を貰って家久と改名した。こっちが悪久で叔父の家久は善久な。
実際には、義弘は、家督譲られていない。後世に17代当主にカウントされたややこしさ。
コメント・情報ありがとうございます!
その辺りの情報知りませんでした!
ありがとうございます😊調べて直してみます!!
そもそも徳川とやたら仲悪いのってなんか理由あるんかな?
神降りば、せぃ
朝鮮戦の損害2人は転んだとかやろ
義弘の名前が足利義昭から貰ったの?義弘の方が年上だし足利義昭が将軍になった時には義弘すでに30歳を余裕ですぎてるんだけど
義の字は義昭ではなく13代義輝から貰った。動画では省略されていたけど忠平→義珍(よしたか)→義弘と改名した。尚、兄義久も忠良→義辰→義久と改名した。
関ヶ原で突っ込んでくる時に徳川家康もビビってクソ漏らしてそう
👍🫶🫶🫶🫶👍
余裕で九州統一とか雷神様が生きてるうちに勝ってから言えよ。
コメントありがとうございます!
「天下人は天が決める。じゃからお主らが十年遅く生まれてきたこともすべて天の決めたことなのじゃ」
って原哲夫先生が言ってました!😕