三平たっぷり!これが昭和の爆笑王だ【落語】
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- Опубліковано 28 лис 2024
- 0:48 たらちね 11:49 清書無筆 25:45 快気興行祝い~四天王を斬る
34:20 源平盛衰記 52:35 湯屋番
「たらちね」
別題に「たらちめ」。たらちね(垂乳根)は母にかかる枕詞。元は上方落語で「延陽伯(えんようはく)」の題で演じられる。難しいとされる女房の言葉遣い(女房言葉)は、江戸落語では格式のある京言葉、上方落語では格式張った漢語とされる。独り者の八五郎が大家に縁談を持ちかけられる。とても良い娘だが、言葉遣いが古典的で丁寧すぎて伝わらないことがあると説明を受けるが、八五郎はそんなことは気にしないと言ってこの縁談を受けるのだが・・・。
「清書無筆」
江戸(東京)では「清書無筆」上方で「無筆の親」として知られていた噺を明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで細部を改作したものと思われます。 明治27年には二代目小さんによる 類話「無筆の女房」の速記も見られる。また明治28年の二代目(禽語楼)小さん明治29年の三代目小さん師弟の、ほとんど同時期の速記が残ります。三代目三遊亭金馬は昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作し張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしてモダン風俗を取り込んでいました。先代林家三平もこの噺を三代目金馬から教わり同じ内容で演じていますが題名は「清書無筆」です.
「快気興行祝い~四天王を斬る」
1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に高座に復帰した。「快気興行祝い」と銘打った快気祝いを兼ねた興行から現存する音源を編集
「源平盛衰記」
「祇園精舎の鐘の声~」のくだりをひとくさり述べたあと『平家物語』の粗筋を断片的に話し、それに関係しているかしていないか微妙なギャグやジョーク、小噺(時事ネタなど、現代の話でも全くかまわない)を連発、一段落ついたところでまた『平家物語』に戻る、という構成がとられる。小噺で笑いを取るほうが重要で、極端に言えば『平家物語』は数々の小噺をつなぎ止める接着剤の役割になっている。
「湯屋番」
大家の若旦那、遊びが過ぎて勘当中で出入りの大工職人の熊五郎の家の2階に居候の身の上。何もしないで食っちゃ寝てばかりいるので熊さんの女房は迷惑だ。女房にせっつかれ、熊さんは若旦那に湯屋へ奉公を勧める。紹介状を持って奴湯へ来た若旦那、早速女湯の入口から入ろうとする。湯屋の鉄五郎に外回りで、リヤカーを引いておが屑、かんな屑を集める仕事と言われた若旦那、それは断り番台に座ると言い出すが・・・。
初代 林家 三平
二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。五代目小さんは自らの前名で柳派の出世名である「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。これは柳派の正式な一員として育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに三平本人の父の前名でもあった。一方、師匠七代目橘家圓蔵もまた自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、さまざまな画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。三平は師匠圓蔵案(師匠の名を襲名)を一貫して拒み続けた。しかも小さん案(父の名を襲名)も受け入れず結局どの名跡も襲名することはなく「林家三平」のままで真打となったのである。そして三平の名を一代で大看板にした。
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落語の蔵: / @repli455
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三平師匠あげて頂き有りがとうございます。改めて聴くとやっぱり不器用の照れ隠しにしか思えない、初心者には受けるんでしょうか?
私も初心者なので~
子供の頃テレビで観たときはゲラゲラ笑ってました
今、聴くと落語の枠を飛び越えた自由さに驚きました
初心者に受けるというよりは驚くって感じでしょうね
談志師匠がこの人はアドリブ落語の天才😂落語界のお化けだって言ってましたね~正解😅🙏🎉
やっぱり天才なんでしょうね
なんかテレビでも高座でもナチュラルすぎて
三平師匠の天才性に気づいていない気がします
落語としては色々な意見を言われることも多かったが掛け値なしに笑える話芸だったね!
就学前の子供だった私は三平師匠を探して
チャンネルをガチャガチャ回してましたよ
正に掛け値なしというか本能的に笑えました(^^♪