Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
目白と目黒ってガチでセットで誕生したんだ・・・。
ぐちゃぐちゃの「のの字」かわいい笑
1:01 山手線めちゃくちゃいい距離間隔での駅配置で草
6:03 追加1972年(昭和47年)7月15日総武快速線 東京―錦糸町間開業1980年(昭和55年)10月1日横須賀線、総武快速線 相互直通運転開始(横須賀・総武快速線 開業)2001年(平成13年)12月1日湘南新宿ライン開業2015年(平成27年)3月14日上野東京ライン開業
総武快速・横須賀線も欲しいですよね
赤羽~品川って等間隔に駅を配置したのかなってくらい綺麗。
大阪の人間ですが、最初に西側ができていたので山手線って言うんですね。東京駅ができたのも けっこう後半だったのも知りませんでした。なんですぐそこまで来ているのに、繋げないんだろうと思いましたが、そもそも当時の人々には、鉄道を環状で走らせるという発想が無かったのかも知れませんね。
あの辺は昔からの中心地だった為に用地の買収が難しかったみたいですよ。だから迂回する形で山の手に線路を走らせたとの事
東からだったらもしかしたら東京環状線だったのかも
@@new-limited-Express下町線かもしれないw
@@makotoo3951関東大震災後の区画整理で土地を確保して繋いでます。総武本線の御茶ノ水〜両国も同様です。
大阪の大阪環状線も、元は城東線と西成線と関西本線東側については山手線と経緯が似ている大阪鉄道のターミナル、湊町から大阪駅に繋ごうとしたけど市街地で無理だったから天王寺より東回りで大阪駅へ入る路線を作ったのが起源大阪は東京と違い、その後に都心を高架で貫通する国電は造られなかったが(なのでメイン路線が御堂筋線になった)なにわ筋線が地下線として大阪鉄道が本来造りたかった路線をようやく実現させることになりそう
すごく分かりやすい。
おもしろい。こうしてみると東京駅ってかなり新しいんだなー。にしてもほんと当時の人の計画性がすごいわ。
1930年代からほぼ変わってないんだなぁ…
ほぼ完成形って感じですよね。そのかわり地面の下は大変なことになってますけどねww
上野‐秋葉原は当初は貨物線として開業していますが、当時は勿論地上線でした。旅客化の時に高架化していますが、現在上野‐御徒町間にあるアメヤ横丁の道路はその地上戦の跡に出来た?とか考えてしまいますね。
国鉄だけは戦前からほぼ完成していたのか
中央線ってあんなちまちま延伸してたんだなーやっぱ中心市街地だから用地確保難しかったのか
これは良い出来。常磐線ものの字形運転やっとったね。山手線は やまのてせん→やまてせん→やまのてせん だっけか。いつ変わった?
これはとても興味深い
現中央線のほうが先に東京乗り入れをしている関係で、当時の電車線は上野‐田端‐池袋‐新宿‐渋谷‐品川‐東京‐四谷‐新宿‐中野だったそうですね。大江戸線の「のの字運転」を1世紀ほど前にしていたとは。
いきなり1971年に飛んで草
ww2のせい
1914の東京の横のローマ字Tokyになってね?
ご指摘ありがとうございます。確かに「Toky」になっています。正しくは「Tokyo」です。
秋葉原からは中央総武線ですけど?
@@nagatarock7 そういう言い方しかできないんですか?
新橋が開業してから東京駅までの延伸に42年もかかってるのか、、、
上野・熊谷のあいだが1883年(明治16年)てのは、尋常じゃなく早かったんですね・・・おそらく我らが埼玉県は、明治政府側にとって「近くて遠い、未開の地」だったのかな神奈川県や千葉県の方面をつなぐよりも、埼玉県方面をつなぐほうが「掘り起こし価値」が高いという当時の判断だったのかも
@@silverkey933 未開の地というより群馬と埼玉の養蚕物輸送がめちゃ大事だった(外貨収入的に)のと、当時は東京〜京都を結ぶ鉄道計画が中山道経由とされていたため、東京〜高崎の敷設はその一部を成すので急がれた、って理由があります当時の北武蔵と上野は未開の地どころか殖産興業政策の要の地とされ、富岡製糸場に代表されるように投資が盛んにされた国家プロジェクトの要ですよ…
@@asakazefuji 「未開の地」でなく「投資が盛んだった」と言ってくださると、何となく埼玉県民の溜飲が下がりますw 感謝です
未開の地は千葉でしょうね。(私は千葉県民)利根川と江戸川で隔離された陸の孤島という地理条件。戦後の高度成長による工業化とベッドタウン化まではド田舎だったとのことで、埋め立てが始まるまでは千葉市の海岸で海水浴、潮干狩りが出来たそうです。埋め立ての最中でも作業員の食事に供する貝を、埋め立て中のまさにその海岸で採ってきていたとか。
アキバって初めは意外と二次元と関係無さそうですね。
元は電気街、その前は青果市場と貨物駅です秋葉原って神田川の目の前なので、船と貨物の載せ替えができるって意味でも重要だったんですよ
@@asakazefuji なるほど。忙しい働き者達のイメージが飛んできました。
初めどころか、そうなったのは平成中期やな😉
山手通りに沿ってたかるなあ
まぁ1924年に通水するまで、荒川(放水路)は存在していなかったんですけどねー
コメントありがとうございます。今調べて見て初めて知りました。勉強になります。背景地図は最新のものをベースにしていますので、ご了承下さい。
東京の下町出身として荒川に関する歴史は知ってましたが、むしろ現在ベースのがわかりやすいので有難かったです〜
そう言って頂けると励みになります。
ゲートウェイは何かダサいなあ・・・なぜ高輪だけではダメだったのか
徳川幕府の頃に江戸の入口となる大木戸があったところから大木戸を英訳してつけた名前なのですが、高輪だけでいいと思いますね。
目黒駅ってめっちゃ初期からあるんだね。何でだろう
こんにちは
どうせなら赤羽線は黄色にしてほしかったなぁ
コメントありがとうございます。赤羽線単独時代は黄色の車体だったんですね。今確認しました。勉強になります。
赤でええがな😉
東京駅の開業遅すぎますねスギィ!
東十条、王子、上中里「解せぬ」
山手線じゃないからじゃない?
@@けけ-l7b 私はタイトルの文字が読めない人類です…
品鶴線......
次の次の次くらいに
東京駅できるの遅っ!!
「動く路線図」って何?
コメントありがとうございます。「動かない路線図」の反対の意味です。
文京区避けるのやめろ
丸ノ内線あれば十分よ?
文京区は地価高すぎて用地取得難しかったんじゃないかな積極的に文京区に線路を敷くメリットもあまりないだろうし
ほんのちょっとだけ不便なのよね...都心なのに
目白の住民達が原因、だから大塚駅が大塚にない。
目白と目黒ってガチでセットで誕生したんだ・・・。
ぐちゃぐちゃの「のの字」かわいい笑
1:01 山手線めちゃくちゃいい距離間隔での駅配置で草
6:03 追加
1972年(昭和47年)7月15日
総武快速線 東京―錦糸町間開業
1980年(昭和55年)10月1日
横須賀線、総武快速線 相互直通運転開始
(横須賀・総武快速線 開業)
2001年(平成13年)12月1日
湘南新宿ライン開業
2015年(平成27年)3月14日
上野東京ライン開業
総武快速・横須賀線も欲しいですよね
赤羽~品川って等間隔に駅を配置したのかなってくらい綺麗。
大阪の人間ですが、最初に西側ができていたので山手線って言うんですね。
東京駅ができたのも けっこう後半だったのも知りませんでした。
なんですぐそこまで来ているのに、繋げないんだろうと思いましたが、そもそも当時の人々には、鉄道を環状で走らせるという発想が無かったのかも知れませんね。
あの辺は昔からの中心地だった為に用地の買収が難しかったみたいですよ。だから迂回する形で山の手に線路を走らせたとの事
東からだったらもしかしたら東京環状線だったのかも
@@new-limited-Express下町線かもしれないw
@@makotoo3951関東大震災後の区画整理で土地を確保して繋いでます。
総武本線の御茶ノ水〜両国も同様です。
大阪の大阪環状線も、元は城東線と西成線と関西本線
東側については山手線と経緯が似ている
大阪鉄道のターミナル、湊町から大阪駅に繋ごうとしたけど
市街地で無理だったから天王寺より東回りで大阪駅へ入る路線を作ったのが起源
大阪は東京と違い、その後に都心を高架で貫通する国電は造られなかったが(なのでメイン路線が御堂筋線になった)
なにわ筋線が地下線として大阪鉄道が本来造りたかった路線をようやく実現させることになりそう
すごく分かりやすい。
おもしろい。こうしてみると東京駅ってかなり新しいんだなー。
にしてもほんと当時の人の計画性がすごいわ。
1930年代からほぼ変わってないんだなぁ…
ほぼ完成形って感じですよね。
そのかわり地面の下は大変なことになってますけどねww
上野‐秋葉原は当初は貨物線として開業していますが、当時は勿論地上線でした。
旅客化の時に高架化していますが、現在上野‐御徒町間にあるアメヤ横丁の道路はその地上戦の跡に出来た?とか考えてしまいますね。
国鉄だけは戦前からほぼ完成していたのか
中央線ってあんなちまちま延伸してたんだなー
やっぱ中心市街地だから用地確保難しかったのか
これは良い出来。
常磐線ものの字形運転やっとったね。
山手線は やまのてせん→やまてせん→やまのてせん だっけか。いつ変わった?
これはとても興味深い
現中央線のほうが先に東京乗り入れをしている関係で、当時の電車線は上野‐田端‐池袋‐新宿‐渋谷‐品川‐東京‐四谷‐新宿‐中野だったそうですね。大江戸線の「のの字運転」を1世紀ほど前にしていたとは。
いきなり1971年に飛んで草
ww2のせい
1914の東京の横のローマ字Tokyになってね?
ご指摘ありがとうございます。
確かに「Toky」になっています。
正しくは「Tokyo」です。
秋葉原からは中央総武線ですけど?
@@nagatarock7 そういう言い方しかできないんですか?
新橋が開業してから東京駅までの延伸に42年もかかってるのか、、、
上野・熊谷のあいだが1883年(明治16年)てのは、尋常じゃなく早かったんですね・・・
おそらく我らが埼玉県は、明治政府側にとって「近くて遠い、未開の地」だったのかな
神奈川県や千葉県の方面をつなぐよりも、埼玉県方面をつなぐほうが「掘り起こし価値」が高いという当時の判断だったのかも
@@silverkey933 未開の地というより
群馬と埼玉の養蚕物輸送がめちゃ大事だった(外貨収入的に)のと、
当時は東京〜京都を結ぶ鉄道計画が中山道経由とされていたため、東京〜高崎の敷設はその一部を成すので急がれた、って理由があります
当時の北武蔵と上野は未開の地どころか殖産興業政策の要の地とされ、富岡製糸場に代表されるように投資が盛んにされた国家プロジェクトの要ですよ…
@@asakazefuji
「未開の地」でなく「投資が盛んだった」と言ってくださると、何となく埼玉県民の溜飲が下がりますw 感謝です
未開の地は千葉でしょうね。(私は千葉県民)
利根川と江戸川で隔離された陸の孤島という地理条件。戦後の高度成長による工業化とベッドタウン化まではド田舎だったとのことで、埋め立てが始まるまでは千葉市の海岸で海水浴、潮干狩りが出来たそうです。埋め立ての最中でも作業員の食事に供する貝を、埋め立て中のまさにその海岸で採ってきていたとか。
アキバって初めは意外と二次元と関係無さそうですね。
元は電気街、その前は青果市場と貨物駅です
秋葉原って神田川の目の前なので、船と貨物の載せ替えができるって意味でも重要だったんですよ
@@asakazefuji なるほど。
忙しい働き者達のイメージが飛んできました。
初めどころか、そうなったのは平成中期やな😉
山手通りに沿ってたかるなあ
まぁ1924年に通水するまで、荒川(放水路)は存在していなかったんですけどねー
コメントありがとうございます。
今調べて見て初めて知りました。
勉強になります。
背景地図は最新のものをベースにしていますので、ご了承下さい。
東京の下町出身として荒川に関する歴史は知ってましたが、むしろ現在ベースのがわかりやすいので有難かったです〜
そう言って頂けると励みになります。
ゲートウェイは何かダサいなあ・・・なぜ高輪だけではダメだったのか
徳川幕府の頃に江戸の入口となる大木戸があったところから大木戸を英訳してつけた名前なのですが、高輪だけでいいと思いますね。
目黒駅ってめっちゃ初期からあるんだね。何でだろう
こんにちは
どうせなら赤羽線は黄色にしてほしかったなぁ
コメントありがとうございます。
赤羽線単独時代は黄色の車体だったんですね。今確認しました。勉強になります。
赤でええがな😉
東京駅の開業遅すぎますねスギィ!
東十条、王子、上中里「解せぬ」
山手線じゃないからじゃない?
@@けけ-l7b 私はタイトルの文字が読めない人類です…
品鶴線......
次の次の次くらいに
東京駅できるの遅っ!!
「動く路線図」って何?
コメントありがとうございます。
「動かない路線図」の反対の意味です。
文京区避けるのやめろ
丸ノ内線あれば十分よ?
文京区は地価高すぎて用地取得難しかったんじゃないかな
積極的に文京区に線路を敷くメリットもあまりないだろうし
ほんのちょっとだけ不便なのよね...
都心なのに
目白の住民達が原因、だから大塚駅が大塚にない。