第752回「何が見ているのか、何が聞いているのか」2023/1/28【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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  • Опубліковано 14 січ 2025
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    ■管長日記「何が見ているのか、何が聞いているのか」
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    ■note
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    最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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    白隠禅師のお弟子の東嶺和尚が書かれた『入道要訣』という書物を修行僧と共に読んでいます。
    そのなかで東嶺和尚は、仏さまも私たちも同じ心の本質を具えていると説かれています。
    同じ心をもっているのであります。
    ただ心の向きが違うというのです。
    迷っている私たちは、たえず心が外に向かってはたらいています。
    目ではものを見たり、耳では音や声を聞いたり、鼻で匂いを嗅いだりというように、常に外の対象を追いかけています。
    それは、生き物としては当然のはたらきなのであります。
    目や耳や鼻で、外の世界にたえず意識を向けて、敵か味方かを判断しないとわが身を守れないのであります。
    目や耳などは、外の世界を知覚するためにこそあるものでしょう。
    しかしながら、その外の世界に振り回されてしまうのです。
    目でみると、心地よいか、不愉快かを感じて、心地よいとなると、もっと欲しいと思います。
    不愉快なら目を背けようとします。
    音や声でも同じであります。
    匂いも、味わいもそうです。
    舌で味わって、自分にとっておいしく感じるものなら、もっと欲しいと思ってしまいます。
    嫌な味なら避けようとします。
    しかしながら、いつも自分にとって心地よいものばかりが身の回りにあるわけではありません。
    そのように、心が外界に振り回されて、思うようにならないといっては苦しむのであります。
    そこで、心の向きを変えよと東嶺和尚は説くのです。
    心を内に向けて、ものを見るときには、その見るものは何者か、聞くときには、聞いているものは何者かと工夫しなさいというのです。
    これが仏の心の向け処だというのであります。
    臨済禅師は、お説法のなかで、あなた方がもし祖師や仏とは何かを知りたいと思うのなら、今この目の前で話を聞いているあなた自身だとはっきり述べています。
    しかし、いきなりそう言われても、ピンとこないものです。
    臨済禅師もそのことをじゅうぶんにご存じの上で、あなたたちは、そのことを信じ切れないから、外に向かって求めるのだと指摘されています。
    外に向かって求めるとは、仏とはどこかにいらっしゃるのではとあちこち探し回るのです。
    あるいは、仏の教えというのが、どこかの書物に書いているかと思って、本を探しまわるのです。
    どこかの老師が素晴らしい教えを示してくれるのではないかと求めてまわるのであります。
    そうして、素晴らしいことばを自分でノートに書いて集めたりするのであります。
    決して悪いことのようには思えませんが、しかし、そんなことをして、たとえ求め得たように思っていても臨済禅師は、それは帳面に文字をきれいに並べただけの概念に過ぎないと厳しく仰せになっています。
    そこには、生きた仏さまも祖師もいないというのです。
    臨済禅師は、
    「お前達、わしの見解からすれば、この自己と釈迦と別ではない。
    現在、日常のはたらきに何が欠けているのか。
    六根を通じての自由なはたらきは、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。
    もしよくこのように徹底することが出来ればこれこそ一生大安心の出来ためでたい人である。」
    と語録に説かれています。
    仏とは、今ここでこの話を聞いているあなた自身だとはっきり説いてくださっているのであります。
    更に臨済禅師は、では一体話を聞いているのは何ものかと問いかけます。
    この肉体が聞いているのではないと言います。
    たしかに肉体がないと聞けませんが、肉体があっても意識がなかったりすると、全く聞けません。
    内臓が聞いているのかというと、内臓でもありません。
    虚空が聞いているのかというと、そうでもありません。
    今の時代ならば、脳が聞いているように思うかもしれませんが、脳のなかを探しても、いろんな神経細胞があって、そこに聞いているものを見出すことはできないでしょう。
    ではいったい何が聞いているのかというと、臨済禅師は、いまこの面前にはっきりとあって、姿形を持たずに、独自の輝きを発しているものだと説いてくださっています。
    このことに気がつけば、祖師や仏さまと同じなのだというのです。
    さて何が聞いているのか、難しいものです。
    今庭では早くも梅の花がちらほら咲き始めています。
    あの梅の花はどこから来たのか、考えてみるとどうでしょうか。
    木の幹を割ってみても、花を見いだせません。
    花の色も香りも木の中にはありません。
    根っこを掘ってもないでしょう。
    しかし、その花の色や香りは、梅の幹があり、根っこがあり、根で大地から水や養分を得て、それが花になります。
    幹から枝が出て葉が茂り、その葉が太陽の光を浴びて、花になります。
    太陽の光も大地の養分も皆必要です。
    それに春夏秋冬の暑さ寒さも必要であります。
    なぜ暑さ寒さがあるかというと、地球が回転しているからであります。
    しかも微妙に傾いて回転しているからでしょう。
    回転するには、太陽の力もありますし、他の星との関係もあります。
    そう考えていくと、一輪の花の色や香りには、この地球はもとより宇宙すべてのものが関わっていると言えましょう。
    見たり聞いたりしている主というのは、同じようなものです。
    これについては唐代の禅僧無業禅師がはっきりと仰せになっています。
    あなた方見たり聞いたり感じているその主というのは、大宇宙と同じ寿命なのだというのです。
    原文では太虚と同じ寿命だと言っています。
    太虚というのは、虚空です。宇宙と言いましたが、今、宇宙というとビッグバンが始まって一三〇数億年という寿命がありますが、その始まりのないものです。
    今も宇宙は膨張しているといいますが、そのような端がないものです。
    この太虚と同じ寿命で、生じることもなく滅することもないというのであります。
    ほかの言葉で言えば「生き通し」なのであります。
    盤珪禅師は不生と説かれたのでした。
    この不生不滅の本性に気がつかずに、外の世界に一喜一憂して苦しみを生み出すというのであります。
    それが迷いの様子です。
    無業禅師は、この本性はもとから具わっているものであって、何か特別な修行をして作り出すものではないと説かれています。
    ただ気がつくか、どうかだけの問題なのです。
    私たちが、一喜一憂している外の世界などというのは、この本性から見れば影のようなもの、幻のようなものに過ぎないというのです。
    外界はすべて実体のない空であると気がつけば、何も心に煩うことがなくなると説かれています。
    これが馬祖禅師に参じた無業禅師の最後のお説法の言葉であります。
    このことに気がつくために、目でものを見ては、何が見ているのか、聞いては何が聞いているのか、工夫すべきと東嶺和尚が示されたのでした。
     
     
    横田南嶺
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