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上陸に成功した侵攻軍が船に戻るって、撤退以外にありえないよなぁ。鎌倉武士がそれだけ強かったってことだと思う。
文永の役で突然、元軍の船が日本から去ったのは、元軍が持参した矢が尽きたのが最大の原因のようです。九州に上陸し、博多付近まで侵攻した元軍はそこから猛烈な地元の武士達の反撃をうけ、かなりの損害を受け西に退却しますが、そこで矢が尽き指揮官の判断でただちに船で帰還したようです。戦闘の主体は弓矢合戦で、矢がなくなれば、長刀を自在に使う日本の武士達との白兵戦になるのを嫌がったのでしょう。主力はモンゴル兵で高麗兵の大半は壱岐に残留していて無傷だったので、高麗の指揮官は退却に反対し戦いの継続を主張しました。帰途に嵐にあいましたがそれほど被害をうけず朝鮮に無事帰還できたようですが、元軍は戦闘では兵士の1/3を失ったと記録にあります。退却する元軍の乗船時に鎌倉武士の本隊が攻撃すれば、元軍は全滅したかもしれません。モンゴル軍の見事な撤退作戦ですが、それを取り逃がした幕府軍の大きな失態ともいえます。
集団戦法に苦戦したというのは事実ではないです。そもそも古墳時代には新羅や百済などの朝鮮半島の国を臣従させて高句麗とも戦争していて集団戦は常識。鎌倉幕府も源平合戦という集団戦による戦の末に成立している。鎌倉時代に一騎打ちをするのは本当にごくごく稀な例。元軍側の史料にも一騎打ちの記述はないです。また、水城に日本軍が撤退したというのは「八幡愚童訓」によるおそらく創作です。元軍との戦が始まったのが10月20日でその夜には元軍が日本から退却。水城まで日本軍が退却する時間がありません。また日本軍は元軍を追い回しており退却する理由もない。流れとしては「赤坂の戦い」→日本勝利→元軍逃げる→「鳥飼潟の戦い」→日本勝利→元軍逃げる→「百道原・姪浜の戦い」→日本勝利、となっており退却する必要性が全くない。逆に元軍が撤退した理由は簡単で「追い込まれた」からです。
ここで戦ったのは元軍という名の元高麗軍。
元軍が勝っているのになぜか退却したという意味不明な結末ではなく、橋頭堡すら築くことが出来なかった元国の属国高麗軍の敗北ですね
手を出して来ない相手には冷酷無惨で滅法強いが、反撃されたらそそくさと逃げ出すのは今も昔も変わらないんだな。
@@MON_MOSO_MON いや、今はこっちの考えが主流じゃない?
@@MON_MOSO_MON 具体的に
日本軍の弓が長くて、飛距離があったので、敵将を仕留め、士気が落ち、バラバラになったと聞いたが、そのような戦いぶりにも触れてほしかった。
苦手だった日本史に興味を持つことができました。わかりやすくて面白いです。これからたくさん見て勉強しなおそうと思います。有り難うございます。
サムネの古き絵でも、侍側から元軍に向かって矢が多数、飛んでいる。真実は、そういう事なんだろうね。
大学の用事で福岡に行った時に聞いた地名が出ていて嬉しくなりました。筥崎宮に行った時「敵国降伏」の四字が高く掲げられていて、すごい神社だなと思いました。まっすぐ海岸に向けて大きな道(参道?)があって、ここから日本軍が出兵したのかな、と勘違いしてましたが、陸地戦が主だったんですね。元軍が夜の間にいなくなったということは、元軍は陸ではなくて船を拠点にしていたということですか?
仰るとおり元軍は船を拠点としていましたその後ろにある対馬が侵略後補給基地のような役割をしたようです
「元軍は陸ではなくて船を拠点にしていたということですか?」←元軍は陸地に拠点を作ろうとしたが、鳥飼潟の戦いで元軍が敗北。日本軍が百道、姪浜まで追撃をかけ元軍は船に逃げ込んで、そのまま撤退という流れですね。日本軍が苦戦したり水城に撤退したというのは創作ですね。博多の街も箱崎軍も無事でした(箱崎軍は失火で燃えるが)
教科書通りの流れで解説するとこうなるって事なんだろうな。謎の撤退みたいな話が出てくるあたりでつじつまが合わなくなってるんだから、おかしいと考えるような思考力を養うのが教育だと思うね。
消えた理由…曲がりなりにも高麗とは交易をしてきた間柄だし、南宋(中華)への忠義が厚い高麗なので、適当に博多や北九州を焼き払って満足して帰ったか、冬を前に離島で戦線を維持するのは難しいと見たか、いずれにせよ何らかの理由で撤退したのは確かだろうね弘安の役を見ても、日本のような気候の島国の侵略がいかに難しいか伺える
私は、高麗史や元史から考えておそらく、矢も尽きて指揮官も戦死した時点で侵攻は失敗。ならば多少の小雨が、暴風雨だったことにして撤退しよう、という魂胆だったのではないかと思います。もともと、高麗は乗り気じゃなかったようですからね。
高麗史に記されている撤退前の軍議の様子をみると、撤退は兵法の知識があり不利になりつつある状況での戦の継続を避けたい元軍の総司令官クドゥンの決定で、高麗軍の将軍の金方慶はそれに反対してさらに軍を進めて戦うことを願い出ているので、高麗と日本の交易などの関係への配慮や、高麗が乗り気かどうかではないようです。
日本は大部分が山岳で、わずかな平地には無数の河川があって、橋を壊せば馬は使えません。仮に上陸しても、そういう地形では元軍は無理だったでしょうね。
元寇の主体は、指揮官をのぞき朝鮮や南宋 今のロシアみたいに士気は低かったうえ、船酔いだった
おもしろい!! グーマップの干潟の再現! おつかれ様です。 コメ欄がまたおもしろい。歴中(?)たちの熱気を感じる!
湿地帯で重武装で戦った武士達クレイジーすぎる。
世界的にも珍しい重装軽騎兵ということらしいッス。
今回紹介されたのは従来の説ですね。てつはうは後世に書き足されて実際には存在しなかった説も。亀甲船が存在しなかったのと同じ。
てつはうは鉄砲とも表現されるかも。戦前の発音では甲府はかふふ、蝶々はてふてふのように表現した。
てつほうは考古学で陶器製の実物出てると思う「蒙古襲来絵巻」の逃げる蒙古軍が江戸時代に加筆されたと聞いたことがあるZE
昨日NHKの番組で元寇について取り上げていました。それでは、元の船が平底型だったので元軍の兵士たちや一緒に連れてきた馬たちが酷い船酔いで体調を崩した、という説を紹介していましたね。にしても幕府が元に対して無視したというのが実に面白いです。日本側の真の意図はともかく、それが元寇を引き起こしたのは間違いないし、でも元軍の来襲に対して日本もそれなりに準備ができていたというのも何だか不思議に思えます。
この動画…失礼ながら、鎌倉武士の猛烈な迎撃がかなり過小評価されている気がするのですが…。いかがでしょうか。
当時の書簡が残っているのは本当に凄い。日本文化の奥深さを感じる。
フビライの発音は、「フ」と「ク」の中間のような発音だと聞いた事あるが。難しい発音です。
先日、長崎沖にて元寇襲来時に沈んだ船が発見されました。800年前のものとは思えないほど状態も良く、歴史的資料として一級品だとか。沈没船の調査で元寇に関する新しい発見があるかも!楽しみです。
とてもわかりやすいです!あと、平安時代の荘園(寄進地系荘園など)について詳しく解説して欲しいです!
ありがとうございます以前はリクエストを受け付けていましたが、大量に届きすぎて対応できなくなってしまいましたので現在は申し訳ないですが対応できない状況です、、、
Kazushi Inoueこの元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家、竹崎家とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に親族姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気を今のアホ政治屋共の媚中韓派に訊かせてやりたい。
時宗のスイッチが入った時輔の乱まで描かれ、わかりやすく上質な動画ですね。個人的には、弘安の役前後での亀山上皇と幼い後宇多天皇の振る舞いは、興味を持っています。白村江で天智が作った水城が数百年経て役立った視点もいいですね。さらにそこは令和発祥の地大宰府。初めて感想を描きましたが、次の展開がどう描かれるのか、いつも楽しみにしています。
内容から推察するに、結構初期の頃から見てくださっているんですね!「昔から見ている人が初めてコメントする」というのは達成感のようなものを感じて、個人的にすごく嬉しい出来事です。ありがとうございます。
日本軍の兵力は何人くらいだったんですかね?
クビライ(フビライ)は皇帝なのでカン(ハン、王)ではなく、カアン(ハーン、皇帝)です。これは「どっちでもええやん」ではなく、天皇と将軍、あるいは将軍と執権を間違えるようなものです。×フビライ・ハン(王)〇フビライ・ハーン(皇帝)
でもフビライハンで習った
吾妻鑑は元寇が始まる前までしか書かれてないから、元寇に関しては公式の歴史がないんだよな。それぞれの日記やら何やらを照らし合わせるしかない。
とても、わかりやすいです😊
非常に解りやすい。そこで元史では司令官重傷の記述があるのであの絵巻は勝敗を決めた鳥飼の場面という事になるんだな。菊池氏が前線を崩し披露困憊で陣の立て直し中の元軍に撤退したと思ったところに奇襲の新手の竹崎が襲ったのか?強引に恩賞を求める行為は当然だな。鎌倉幕府は当然恩賞を与えた。司令官は当然モンゴル人だよ。乱戦は日本刀の威力と幼い時からの訓練の剣速の武士にはアウトレンジの緩慢動作では天敵になるだろう。
元コウの大河ドラマもやって欲しい!
めっちゃ分かりやすい!
基本菊池ってぶっ飛んでる。てか菊池武光公の像かっこよすぎ。元寇とは違うけどね
はじめまして。鎌倉のお隣、逗子市にはご子孫菊池タクシー社があります。是非お越し下さい😸
二月騒動って、なんか世界史っぽい名前ですね〜
どの国も昔から対応が変わらない(笑)
火薬って何に使うんだ?もう南宋って鉄砲作ってたのかな
元寇が一回目と二回目に分かれるのは一回目は南宋が残っていた状態だったこと、二回目は南宋が滅んだ後だったことです。
武士として初めての武家外交問題かなと思います。それ以前は 貴族中心社会です。初めてだからこそ いろんな問題が起きる。例 読み書きが出来ないなどで いわゆる情報が 鎌倉政権に性格的な情報が伝わってない説があり 混乱を招く。文永の役では1日で立ち去る なぜ1日なのかわかっていない。 その後 次の蒙古軍襲うことを考えて 御家人(幕府に仕える)と本所領家(朝廷や寺社に仕える)人たちが 非常事態として、鎌倉政権が1つにして 指揮権を握る。クビライは 南宋を陥落させるために 大理、安南、高麗を支配(服属)し 日本も支配することを考えました。日本は前もって 元に対して準備してました。その根拠は南宋から多くの僧侶が日本に逃げて 元の様子を知ることができました。その中で有名なのが蘭渓道隆 時宗の頃には無学祖元僧侶がおり、おそらく 時宗は 中国僧侶のいろんなアドバイスを元に元に対して対抗したことが考えられます。
台風が来たくだり無かったのは創作だったのでしょうか?神風吹くやつです(*゚▽゚)ノ
弘安の役だと思います!
元軍が撤退した理由は幾つか考えられますが。 外交の延長にある戦争と兵站に占領地の維持の問題から撤退したと推測出来ますが如何でしょうか? 圧倒的軍事力で日本を懲らしめ属国化するつもりで引き上げたけど、日本がそれでも「黙殺」の態度を取る訳ですから、フビライはどう思ったか…憤怒では生易しいと想像します(苦笑い)
単純に負けたから撤退しただけですよね。橋頭保すら作れずに船に逃げ込んでますからね。しかも、日本側は続々と後続の武士団が到着していましたし。
私は、兵站の方が理にかなっていると思いますね。文永の役時点では、「最初から日本の占拠は考えていなかった。」ですね。もし、「占拠しようとしたが、跳ね返されてたため1日で逃げ帰った。」のであれば、元側の責任者は即刻死刑ですな。1日で退却して良い理由があったとするのが理にかなっているかと。。。文永の役の後に博多湾に元寇防塁が延々と築かれたことは間違いない事実のようです。もし、文永の役で比較的簡単に元を追い返すことができたならば、こんな工事はしないと思いますね。
いろいろ考えがあって当然ですね。今のとこ私としては「占拠しようとしたが、1日で逃げ帰った司令官は、当然死刑。しかし、死刑にはなってなく出世したらしい。であれば、戦う前から占領が絶体命令ではなかった。」と考えますね。戦いは1日で終わったことは間違いない事実。あと、1日で跳ね返せたなら「元、恐るるに足らず」で、この後に博多湾他に延々と防塁など築くことはしなかったでしょうね。
刀と薙刀の切れ味に蒙古がビビりまくりだったらしい。
無視して返事を送らなかった理由は大蒙古国皇帝と言うのが幕府が信書を無視した結果だと言われています。何故なら中国の国名は一文字というのが原則だったからです。なので二文字の帝国を信用できなかったのでしょう。
この動画は旧説だよな。動画の出典の八幡愚童訓は後世の創作です。
何故船が消えたのか。玄海灘の波がきつく高麗の手抜きの船は難破しそうなになった。高麗の副将が矢に当たりけがをした。水城より向こうに攻めることが難しかった。実際この玄界灘の波で難破し多くの兵が死んでいる。なお文永は台風ではない。
少弐景資の矢で負傷した劉復亨のことでしたら、高麗軍ではなく元の蒙漢軍の副将です。
これは最新の説ではないな。とにかく、元寇のことは分からないことが多すぎ。
なんか情報が古くないかな?
「誉れ」
フビライは名前です。モンゴルの尊号ではセチェン・カアンが正しい言い方だそうです。
ゴーストオブツシマから
めっちゃ分かりやすいし、イケボで聴きやすいw
フビライハン色々と察し悪くて草
ゴーストオブツシマから来た
大和魂!
コメ欄過去最悪じゃん。こういう自分の知識をひけらかしたい人たちのせいで日本史の解説はつまらなかったんだね。そんなに文句言うなら各自どうぞ分かりやすい動画つくってください。主が素晴らしいスルースキルを持ち合わせてるから良かったものの、おじいちゃんたちの批判に耐えかねて動画解説やめられたら歴史が苦手でこの動画に逃げてきた受験生はたまったもんじゃない。
逆だろ(笑)おじいちゃん世代の「中国万歳史観」が、最新の研究で全部覆されているんだよね。学生さんって情報早いから、知ってる人多いよ。ここの動画は良くまとまっているので好きですが、元寇については正直良くないです。受験生は納得したうえで覚えたいとおもいますので「非株式会社いつかやる」を参考にしたらいいとおもうよ。チャンネル主さん、お疲れ様です。チャンネル登録してますので、これからも応援しています!
そもそも日本遠征って難しいよな。どんなけ金も色々かかるっての
??北条時宗=そろり、ソロリ&ハム、ハムの人の印象しか出てこない‼️
九州武士団最強
一番驚くのが日本側動員数。三千程度。騎馬千であとは歩兵。八幡愚童訓でも深夜神々が現れて追っ払ったような書かれ方だから夜襲でしょう。何故神々が?ですが、祈祷料捻出に思う。幕府も朝廷も調伏を寺社にしてるから。
面白いチャンネルだと思いますが、声が早そうです。音がゆっくりできてもらえませんか。教えてくれてありがとうございます!
博多と釜山が如何に近いかが分かる
どうも。蒙古襲来は日本軍と蒙古軍、そして文永と弘安。「本気」というキーワードにして考えると奥深さが見えてくる。今回は文永の日本軍・蒙古軍の視点から見ると。日本軍は本気を出せなかったと見るべきでしょうな。今までに見たことがない武器や兵法を見せられてリズムがかなり狂ったと思われる。それに承久の乱から半世紀近く経っていて戦を経験した武士があまりいなかったことも影響しているのではないか。一方の蒙古軍は毎日が戦の日々。なので戦闘経験は豊富やったと思うのね。さらに6:43の段階で情報面で権威をも示しているので、蒙古軍は本気をあまり出してないと思う。出しているとしたら3割も満たしてないでしょう。権威とあまり出してない軍事力だけで蒙古は日本を圧倒してしまったわけ。★蒙古襲来は両軍の総大将が国境を中心にして火花を散らした戦なんよね。今までとはかなり違う戦のスタイル。詳しくは弘安の時に書くとして。文永の軍配は本気を出さなかったフビライの圧勝ということで。★中学時代(27年前の中1)に社会のテストの問題に出たんよ。Q蒙古軍が使用した武器は?うちの同級生は100人いるのよ。その同級生のほとんどが「火薬」と答えて正解をもらってる中で。うちだけ「てつはう」と答えて先生に褒められたことを。教科書や資料集にも載ってない「てつはう」をどこで調べたん?と聞かれ図書室に置いてあった漫画を職員室で先生に見せつけてやったわ。そしたら先生、そのページをコピーして教材として採用してくれて。この時ほど嬉しかったことはなかった。★今回はいつもより長い解釈・視点になりましたな。今後も小中学校時代の思い出も交えながらコメントしてまいりますよ。お互いにコロナには屈せずに頑張ろう、同志!
説明する人によって内容がかなり違う
👍👍👍
昔の考察ですね。だから最後が破綻してる。
書を忠実に、写したんだね!!
フムフム!☺
文永の役 1174年壱岐(1)対馬(2)情け(7)知らずの(4)猛攻(蒙古)よ
壱岐、対馬を襲って、皆殺しにしたモンゴル今、穏やかやけど、許さん
兵は高麗人
戦闘に関して、この動画の説明はかなり古い資料に基づいているようだ。まず、日本に上陸したのはモンゴル兵が主体で、高麗兵の多くは後方の島々にいた。だから彼等は殆どが無傷で、嵐の後も70%が母国に生還している。しかしモンゴル兵の過半数は死亡してしまった。 また、撤退の最大の原因は、元軍が持参した矢が尽きてしまったためで、逃げ足の速さはさすがといえる。また大宰府付近には元軍は上陸できず、筥崎宮が焼失したのは別の日である。元軍は威力偵察などではなく、7年前から準備していて本気で日本に攻めてきたが、上陸したら、当初は優勢に戦いを進めたが、意外にも日本の武士達が強く、後半は劣勢になり、撤退をしたのだと思われる。もし、踏みとどまって矢がない状態で日本の武士達と白兵戦をやったら、元軍は全滅してしまったのではないだろうか。日本の弱点は元や高麗の様な大型の船がなかったことであり、これは後の秀吉の朝鮮侵略の時も同様である。 また、武士の戦死者より、一般市民の死者数がはるかに多く、従来の日本人が経験していない戦闘だった。山が多い対馬と違い平坦で逃げ場のない壱岐の島がひどかったらしい。つまり住民虐殺が目立つ酷い戦さだった。
なんか、元軍にモンゴル兵いなかったみたいに言う人もいるようだけど、蒙古襲来絵詞に書かれた元軍は東洋人ぽくないですよね。たぶん高麗人は人足だったのではないかと
定説どおりの内容で聞きやすいと思います。が、定説を批判する人が多いようですね。もし、「占拠しようとしたが、跳ね返されてたため1日で逃げ帰った。」のであれば、元側の責任者は即刻死刑ですね。1日で退却して良い理由があったとするのが理にかなっていると思います。文永の役の後に博多湾に元寇防塁が延々と築かれたことは間違いない事実のようです。もし、文永の役で比較的簡単に元を追い返すことができたならば、「元、恐るるに足らず。」で、こんな工事はしないと思いますね。
蹂躙する気満々で来て、ほぼ皆殺しになって逃げかえったのに、この説明はおかしくないでしょうか。
残念もっと深堀してほしかった…
日蓮はどうしようもないな…。
なんだ古い説か...
左翼史観の歴史教科書の内容に沿った動画。
私が日本にいるということで、日本に来た私の援軍。死傷者0。馬も、おそらく、死んでいない。
3万対5千で戦い健闘したでしょ
元寇について、対馬を見捨てたとかは、ない。1) 対馬を見捨てたのではなく、島迄日本側が行っても相手が大軍島を囲まれたら靈してしまう。2)対馬や志賀島で戦いより、後方の地理に適した本土本陣側で、戦う方が勝目がある。3)対馬志賀には、先鋭隊を派遣、なるべく相手の動向など、逐次本陣に報告。4) 本土側で防壁・防塁等で相手の攻撃力を弱める方が勝目あり。5) 2回目の引安の役は味方の結束を高める為に各陣中のleaderの少弐経資少弐景資少弐資能等他各軍御家人・水軍が集合・陣中会議に大方の話が決定。これが子孫に伝わっている幕府御家人陣中秘話。
9
まあGHQ史観、敗戦国史観を教えるんじゃない。
ホント、「教科書」の内容を映像で少しだけ深堀しただけで、なにも新しい考察も着眼点もない。台風がそもそも文永の役の季節の11月の終わりに来るわけもない。といかく昔の日本の歴史研究はひどい。デタラメ研究者たちの「こうあるべきだ」が、科学的考察をどれだけ殺してきたか。タイトルが教科書だからいいじゃん、ってのは、ネットに溢れる「コメントのコメント」レベル。もう見ない。
ん?
おじさんは見なくていいよ
これ、現代に通じる話ですね。現在の日本政府に学んで欲しいです。支那からの使者に言いたい放題言われててる隣でニヤニヤ笑ってるアホ大臣にこの時代の政治家の骨太な印象は全くありません。(ーдー)💧
有権者が骨太な議員を支持すれば良いのでは?有権者が政治を御座なりにしているから現状だと思うんですが。
申し訳ございませんが、解説のテンポの悪さにびっくりです。。時折挟む、現在の現地写真による補足説明・・・必要ですか?笑土地勘無いから理解できないし、これにより本筋の解説が幾度も途切れ、ついて行けない。まさに蛇足。。『非株式会社いつかやる』チャンネルを視聴してからこちらを観ると、同じ題材でも構成・見せ方の違いがハッキリ分かれていて面白いですね!(私は断然、いつかやるに一票!)他のコメントにも指摘されている通り、誤った情報もいくつかあるみたいなので、もう少し精査された方がよろしいかと。。
申し訳ない。アナウンスの声が高いのが(-_-;)
当時、日本という国家も組織もない。分かりやすく伝える為とはいえ、日本軍という表記はおかしい。
鎌倉時代当時、というかそれ以前から、国内でも、大陸の国の認識でも、日本という国家はありますよ。旧唐書や新唐書には日本のことが「日本國」と表記されて書かれており、倭国が名前が雅ではないから日本と改名したのか、それとも小国だった日本が倭国の地を併せたのかのどちらかと認識していたようです。もちろん元史においても日本のことは日本と表記されていますし、まさに元寇のその前に日本に送られたクビライの国書でもそうです。例えば元寇の前の日本への使者派遣については「三年八月、命兵部侍郎黑的、給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本」というように記されており、クビライの国書には「大蒙古國皇帝奉書日本國王」と書かれています。
@@黒山恵 それはあくまで日本列島を指す呼び名。当時は国歌も国旗もない、統治者こそいれど、国としての体裁はない。
@@田中俊-w8i元史の日本についての記述は「日本國在東海之東」、「以高麗人趙彝等言日本國可通」など、何度も日本を「國(国)」と表記しており、日本を「国」と位置付けていますし、クビライの国書では天皇のことを「日本國王」と呼んでいます。当時も日本は単に島の呼び名ではなく、はっきりと国名という扱いで使われていますよ。
@@田中俊-w8i元寇の前の文永七(1270)年に、日本では朝廷が元への返書の案を作成したことがあり(結局返書はしませんでした)、その書き出しは「日本國太政官牒蒙古國中書省附高麗國使人牒送」から始まっています。唐や元など大陸の国々から見て日本が「日本国」と認識されていたと同時に、日本もまた大陸の国々に対して「日本国」と自称していたのです。また国内でも、例えば元寇の時代の僧、日蓮の書状にも「しはらく日本國の人をたすけんと」など度々日本は「日本国」と書かれています。つまり、当時でも外国から日本、日本から外国、日本国内、そのすべてで「日本」また「日本国」という表記は使われていますよ。
@@田中俊-w8i現代ほど進んだ物ではないというだけで統治の仕組みはちゃんとありますよ日蓮の例をみても当時の日本人には日本が国だという意識がありますし、それが政治に携わる人間ではないから根拠にならないというなら、上に書いたように政治に携わる朝廷が日本を国だと、しかも外国の朝廷に対して意識した例もあります。幕府にしても形式としては朝廷から任じられる将軍を(実権はないとしても)頂いており、国の認識について朝廷と対立するような状態にはありませんでした。政治に携わる朝廷が国家を名乗り、政治に携わらない日本人もそう認識しており、少なくともこの時代において日本が国家だったというに足るものは既にある時代です。
2500年前の欧州は草木も生えない田舎であった。ペルシャの王はギリシャまでが文明と思っていた。だが即に過ちががわかる。私が尊敬するティムール大帝とアレキサンダー大王の出番
面白い歴史が最高、モンゴルはアジアを征服したが東の外れ樺太ではアイヌ民族が猛威を振るいモンゴル人も制圧不可、アイヌ人はモンゴル人が呆れる戦闘民族であった。後に日本にも来襲し古来日本人と合流民族は史上最高?鎌倉から戦国までの戦闘民族日本の理由はある。
当時、全北海道のアイヌの人口は女子供合わせて1万5千から2万人程度、それに対しモンゴルは結氷した間宮海峡から1万騎の騎馬兵を樺太に上陸させたという。それはオーバーな数字だが数千騎はいただろう。かなり本気の戦いだった。アイヌでも参戦したのは北部の日高あたりまでで道南は参戦しなかったらしい。さすが勇猛なアイヌも一時期、樺太から撤退したが、再び樺太に上陸してモンゴルと戦い、形式的な服属と朝貢をし講和、アイヌの樺太の居住を認めさせた。アイヌの本来の目的は大陸との交易だったので、大陸での略奪行為は主目的ではなかった。結局、アイヌが優勢の形で戦いは決着した。アイヌも倭寇の日本人と同様、交易と同時に海賊行為をする同じ海洋民族の血が流れていたのだろう。
イスラム民族に聞きたいどうして我々アジア人が冷静に判断できる指導者がいない?アラーの神は偉大でアジア人には理解不能か?
上陸に成功した侵攻軍が船に戻るって、撤退以外にありえないよなぁ。鎌倉武士がそれだけ強かったってことだと思う。
文永の役で突然、元軍の船が日本から去ったのは、元軍が持参した矢が尽きたのが最大の原因のようです。九州に上陸し、博多付近まで侵攻した元軍はそこから猛烈な地元の武士達の反撃をうけ、かなりの損害を受け西に退却しますが、そこで矢が尽き指揮官の判断でただちに船で帰還したようです。戦闘の主体は弓矢合戦で、矢がなくなれば、長刀を自在に使う日本の武士達との白兵戦になるのを嫌がったのでしょう。主力はモンゴル兵で高麗兵の大半は壱岐に残留していて無傷だったので、高麗の指揮官は退却に反対し戦いの継続を主張しました。帰途に嵐にあいましたがそれほど被害をうけず朝鮮に無事帰還できたようですが、元軍は戦闘では兵士の1/3を失ったと記録にあります。退却する元軍の乗船時に鎌倉武士の本隊が攻撃すれば、元軍は全滅したかもしれません。モンゴル軍の見事な撤退作戦ですが、それを取り逃がした幕府軍の大きな失態ともいえます。
集団戦法に苦戦したというのは事実ではないです。
そもそも古墳時代には新羅や百済などの朝鮮半島の国を臣従させて高句麗とも戦争していて集団戦は常識。鎌倉幕府も源平合戦という集団戦による戦の末に成立している。鎌倉時代に一騎打ちをするのは本当にごくごく稀な例。元軍側の史料にも一騎打ちの記述はないです。
また、水城に日本軍が撤退したというのは「八幡愚童訓」によるおそらく創作です。元軍との戦が始まったのが10月20日でその夜には元軍が日本から退却。水城まで日本軍が退却する時間がありません。また日本軍は元軍を追い回しており退却する理由もない。流れとしては「赤坂の戦い」→日本勝利→元軍逃げる→「鳥飼潟の戦い」→日本勝利→元軍逃げる→「百道原・姪浜の戦い」→日本勝利、となっており退却する必要性が全くない。
逆に元軍が撤退した理由は簡単で「追い込まれた」からです。
ここで戦ったのは元軍という名の元高麗軍。
元軍が勝っているのになぜか退却したという意味不明な結末ではなく、橋頭堡すら築くことが出来なかった元国の属国高麗軍の敗北ですね
手を出して来ない相手には冷酷無惨で滅法強いが、反撃されたらそそくさと逃げ出すのは今も昔も変わらないんだな。
@@MON_MOSO_MON いや、今はこっちの考えが主流じゃない?
@@MON_MOSO_MON 具体的に
日本軍の弓が長くて、飛距離があったので、敵将を仕留め、士気が落ち、バラバラになったと聞いたが、そのような戦いぶりにも触れてほしかった。
苦手だった日本史に興味を持つことができました。わかりやすくて面白いです。これからたくさん見て勉強しなおそうと思います。有り難うございます。
サムネの古き絵でも、侍側から元軍に向かって矢が多数、飛んでいる。
真実は、そういう事なんだろうね。
大学の用事で福岡に行った時に聞いた地名が出ていて嬉しくなりました。
筥崎宮に行った時「敵国降伏」の四字が高く掲げられていて、すごい神社だなと思いました。まっすぐ海岸に向けて大きな道(参道?)があって、ここから日本軍が出兵したのかな、と勘違いしてましたが、陸地戦が主だったんですね。
元軍が夜の間にいなくなったということは、元軍は陸ではなくて船を拠点にしていたということですか?
仰るとおり元軍は船を拠点としていました
その後ろにある対馬が侵略後補給基地のような役割をしたようです
「元軍は陸ではなくて船を拠点にしていたということですか?」←元軍は陸地に拠点を作ろうとしたが、鳥飼潟の戦いで元軍が敗北。日本軍が百道、姪浜まで追撃をかけ元軍は船に逃げ込んで、そのまま撤退という流れですね。日本軍が苦戦したり水城に撤退したというのは創作ですね。博多の街も箱崎軍も無事でした(箱崎軍は失火で燃えるが)
教科書通りの流れで解説するとこうなるって事なんだろうな。
謎の撤退みたいな話が出てくるあたりでつじつまが合わなくなってるんだから、おかしいと考えるような思考力を養うのが教育だと思うね。
消えた理由…曲がりなりにも高麗とは交易をしてきた間柄だし、南宋(中華)への忠義が厚い高麗なので、適当に博多や北九州を焼き払って満足して帰ったか、冬を前に離島で戦線を維持するのは難しいと見たか、いずれにせよ何らかの理由で撤退したのは確かだろうね
弘安の役を見ても、日本のような気候の島国の侵略がいかに難しいか伺える
私は、高麗史や元史から考えておそらく、矢も尽きて指揮官も戦死した時点で侵攻は失敗。ならば多少の小雨が、暴風雨だったことにして撤退しよう、という魂胆だったのではないかと思います。
もともと、高麗は乗り気じゃなかったようですからね。
高麗史に記されている撤退前の軍議の様子をみると、撤退は兵法の知識があり不利になりつつある状況での戦の継続を避けたい元軍の総司令官クドゥンの決定で、高麗軍の将軍の金方慶はそれに反対してさらに軍を進めて戦うことを願い出ているので、高麗と日本の交易などの関係への配慮や、高麗が乗り気かどうかではないようです。
日本は大部分が山岳で、わずかな平地には無数の河川があって、橋を壊せば馬は使えません。仮に上陸しても、そういう地形では元軍は無理だったでしょうね。
元寇の主体は、指揮官をのぞき朝鮮や南宋 今のロシアみたいに士気は低かったうえ、船酔いだった
おもしろい!! グーマップの干潟の再現! おつかれ様です。
コメ欄がまたおもしろい。歴中(?)たちの熱気を感じる!
湿地帯で重武装で戦った武士達クレイジーすぎる。
世界的にも珍しい重装軽騎兵ということらしいッス。
今回紹介されたのは従来の説ですね。てつはうは後世に書き足されて実際には存在しなかった説も。亀甲船が存在しなかったのと同じ。
てつはうは鉄砲とも表現されるかも。戦前の発音では甲府はかふふ、蝶々はてふてふ
のように表現した。
てつほうは考古学で陶器製の実物出てると思う
「蒙古襲来絵巻」の逃げる蒙古軍が江戸時代に加筆されたと聞いたことがあるZE
昨日NHKの番組で元寇について取り上げていました。それでは、元の船が平底型だったので元軍の兵士たちや一緒に連れてきた馬たちが酷い船酔いで体調を崩した、という説を紹介していましたね。
にしても幕府が元に対して無視したというのが実に面白いです。日本側の真の意図はともかく、それが元寇を引き起こしたのは間違いないし、でも元軍の来襲に対して日本もそれなりに準備ができていたというのも何だか不思議に思えます。
この動画…失礼ながら、鎌倉武士の猛烈な迎撃がかなり過小評価されている気がするのですが…。いかがでしょうか。
当時の書簡が残っているのは本当に凄い。日本文化の奥深さを感じる。
フビライの発音は、「フ」と「ク」の中間のような発音だと聞いた事あるが。難しい発音です。
先日、長崎沖にて元寇襲来時に沈んだ船が発見されました。800年前のものとは思えないほど状態も良く、歴史的資料として一級品だとか。
沈没船の調査で元寇に関する新しい発見があるかも!楽しみです。
とてもわかりやすいです!
あと、平安時代の荘園(寄進地系荘園など)について詳しく解説して欲しいです!
ありがとうございます
以前はリクエストを受け付けていましたが、大量に届きすぎて対応できなくなってしまいましたので
現在は申し訳ないですが対応できない状況です、、、
Kazushi Inoue
この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家、竹崎家とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に親族姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気を今のアホ政治屋共の媚中韓派に訊かせてやりたい。
時宗のスイッチが入った時輔の乱まで描かれ、わかりやすく上質な動画ですね。
個人的には、弘安の役前後での亀山上皇と幼い後宇多天皇の振る舞いは、興味を持っています。
白村江で天智が作った水城が数百年経て役立った視点もいいですね。さらにそこは令和発祥の地大宰府。
初めて感想を描きましたが、次の展開がどう描かれるのか、いつも楽しみにしています。
内容から推察するに、結構初期の頃から見てくださっているんですね!
「昔から見ている人が初めてコメントする」というのは
達成感のようなものを感じて、個人的にすごく嬉しい出来事です。
ありがとうございます。
日本軍の兵力は何人くらいだったんですかね?
クビライ(フビライ)は皇帝なのでカン(ハン、王)ではなく、カアン(ハーン、皇帝)です。これは「どっちでもええやん」ではなく、天皇と将軍、あるいは将軍と執権を間違えるようなものです。
×フビライ・ハン(王)
〇フビライ・ハーン(皇帝)
でもフビライハンで習った
吾妻鑑は元寇が始まる前までしか書かれてないから、元寇に関しては公式の歴史がないんだよな。それぞれの日記やら何やらを照らし合わせるしかない。
とても、わかりやすいです😊
非常に解りやすい。そこで元史では司令官重傷の記述があるのであの絵巻は勝敗を決めた鳥飼の場面という事になるんだな。菊池氏が前線を崩し披露困憊で陣の立て直し中の元軍に撤退したと思ったところに奇襲の新手の竹崎が襲ったのか?強引に恩賞を求める行為は当然だな。鎌倉幕府は当然恩賞を与えた。司令官は当然モンゴル人だよ。乱戦は日本刀の威力と幼い時からの訓練の剣速の武士にはアウトレンジの緩慢動作では天敵になるだろう。
元コウの大河ドラマもやって欲しい!
めっちゃ分かりやすい!
基本菊池ってぶっ飛んでる。てか菊池武光公の像かっこよすぎ。元寇とは違うけどね
はじめまして。鎌倉のお隣、逗子市にはご子孫菊池タクシー社があります。是非お越し下さい😸
二月騒動って、なんか世界史っぽい名前ですね〜
どの国も昔から対応が変わらない(笑)
火薬って何に使うんだ?
もう南宋って鉄砲作ってたのかな
元寇が一回目と二回目に分かれるのは一回目は南宋が残っていた状態だったこと、二回目は南宋が滅んだ後だったことです。
武士として初めての武家外交問題かなと思います。それ以前は 貴族中心社会です。
初めてだからこそ いろんな問題が起きる。例 読み書きが出来ないなどで いわゆる情報が 鎌倉政権に性格的な情報が伝わってない説があり 混乱を招く。
文永の役では1日で立ち去る なぜ1日なのかわかっていない。 その後 次の蒙古軍襲うことを考えて 御家人(幕府に仕える)と本所領家(朝廷や寺社に仕える)人たちが 非常事態として、鎌倉政権が1つにして 指揮権を握る。
クビライは 南宋を陥落させるために 大理、安南、高麗を支配(服属)し 日本も支配することを考えました。
日本は前もって 元に対して準備してました。その根拠は南宋から多くの僧侶が日本に逃げて 元の様子を知ることができました。
その中で有名なのが蘭渓道隆 時宗の頃には無学祖元僧侶がおり、おそらく 時宗は 中国僧侶のいろんなアドバイスを元に
元に対して対抗したことが考えられます。
台風が来たくだり無かったのは創作だったのでしょうか?神風吹くやつです(*゚▽゚)ノ
弘安の役だと思います!
元軍が撤退した理由は幾つか考えられますが。
外交の延長にある戦争と兵站に占領地の維持の問題から撤退したと推測出来ますが如何でしょうか?
圧倒的軍事力で日本を懲らしめ属国化するつもりで引き上げたけど、日本がそれでも「黙殺」の態度を取る訳ですから、フビライはどう思ったか…憤怒では生易しいと想像します(苦笑い)
単純に負けたから撤退しただけですよね。橋頭保すら作れずに船に逃げ込んでますからね。しかも、日本側は続々と後続の武士団が到着していましたし。
私は、兵站の方が理にかなっていると思いますね。文永の役時点では、「最初から日本の占拠は考えていなかった。」ですね。
もし、「占拠しようとしたが、跳ね返されてたため1日で逃げ帰った。」のであれば、元側の責任者は即刻死刑ですな。1日で退却して良い理由があったとするのが理にかなっているかと。。。
文永の役の後に博多湾に元寇防塁が延々と築かれたことは間違いない事実のようです。もし、文永の役で比較的簡単に元を追い返すことができたならば、こんな工事はしないと思いますね。
いろいろ考えがあって当然ですね。
今のとこ私としては「占拠しようとしたが、1日で逃げ帰った司令官は、当然死刑。しかし、死刑にはなってなく出世したらしい。であれば、戦う
前から占領が絶体命令ではなかった。」と考えますね。戦いは1日で終わったことは間違いない事実。
あと、1日で跳ね返せたなら「元、恐るるに足らず」で、この後に博多湾他に延々と防塁など築くことはしなかったでしょうね。
刀と薙刀の切れ味に蒙古がビビりまくりだったらしい。
無視して返事を送らなかった理由は大蒙古国皇帝と言うのが幕府が信書を無視した結果だと言われています。
何故なら中国の国名は一文字というのが原則だったからです。
なので二文字の帝国を信用できなかったのでしょう。
この動画は旧説だよな。動画の出典の八幡愚童訓は後世の創作です。
何故船が消えたのか。玄海灘の波がきつく高麗の手抜きの船は難破しそうなになった。高麗の副将が矢に当たりけがをした。水城より向こうに攻めることが難しかった。実際この玄界灘の波で難破し多くの兵が死んでいる。なお文永は台風ではない。
少弐景資の矢で負傷した劉復亨のことでしたら、高麗軍ではなく元の蒙漢軍の副将です。
これは最新の説ではないな。とにかく、元寇のことは分からないことが多すぎ。
なんか情報が古くないかな?
「誉れ」
フビライは名前です。
モンゴルの尊号ではセチェン・カアンが正しい言い方だそうです。
ゴーストオブツシマから
めっちゃ分かりやすいし、イケボで聴きやすいw
フビライハン色々と察し悪くて草
ゴーストオブツシマから来た
大和魂!
コメ欄過去最悪じゃん。こういう自分の知識をひけらかしたい人たちのせいで日本史の解説はつまらなかったんだね。そんなに文句言うなら各自どうぞ分かりやすい動画つくってください。
主が素晴らしいスルースキルを持ち合わせてるから良かったものの、おじいちゃんたちの批判に耐えかねて動画解説やめられたら歴史が苦手でこの動画に逃げてきた受験生はたまったもんじゃない。
逆だろ(笑)
おじいちゃん世代の「中国万歳史観」が、最新の研究で全部覆されているんだよね。
学生さんって情報早いから、知ってる人多いよ。
ここの動画は良くまとまっているので好きですが、元寇については正直良くないです。
受験生は納得したうえで覚えたいとおもいますので「非株式会社いつかやる」を参考にしたらいいとおもうよ。
チャンネル主さん、お疲れ様です。
チャンネル登録してますので、これからも応援しています!
そもそも日本遠征って難しいよな。どんなけ金も色々かかるっての
??北条時宗=そろり、ソロリ&ハム、ハムの人の印象しか出てこない‼️
九州武士団最強
一番驚くのが日本側動員数。
三千程度。
騎馬千であとは歩兵。
八幡愚童訓でも深夜神々が現れて追っ払ったような書かれ方だから夜襲でしょう。
何故神々が?ですが、祈祷料捻出に思う。幕府も朝廷も調伏を寺社にしてるから。
面白いチャンネルだと思いますが、声が早そうです。音がゆっくりできてもらえませんか。教えてくれてありがとうございます!
博多と釜山が如何に近いかが分かる
どうも。蒙古襲来は日本軍と蒙古軍、そして文永と弘安。「本気」というキーワードにして考えると奥深さが見えてくる。今回は文永の日本軍・蒙古軍の視点から見ると。日本軍は本気を出せなかったと見るべきでしょうな。今までに見たことがない武器や兵法を見せられてリズムがかなり狂ったと思われる。それに承久の乱から半世紀近く経っていて戦を経験した武士があまりいなかったことも影響しているのではないか。一方の蒙古軍は毎日が戦の日々。なので戦闘経験は豊富やったと思うのね。さらに6:43の段階で情報面で権威をも示しているので、蒙古軍は本気をあまり出してないと思う。出しているとしたら3割も満たしてないでしょう。権威とあまり出してない軍事力だけで蒙古は日本を圧倒してしまったわけ。★蒙古襲来は両軍の総大将が国境を中心にして火花を散らした戦なんよね。今までとはかなり違う戦のスタイル。詳しくは弘安の時に書くとして。文永の軍配は本気を出さなかったフビライの圧勝ということで。★中学時代(27年前の中1)に社会のテストの問題に出たんよ。Q蒙古軍が使用した武器は?うちの同級生は100人いるのよ。その同級生のほとんどが「火薬」と答えて正解をもらってる中で。うちだけ「てつはう」と答えて先生に褒められたことを。教科書や資料集にも載ってない「てつはう」をどこで調べたん?と聞かれ図書室に置いてあった漫画を職員室で先生に見せつけてやったわ。そしたら先生、そのページをコピーして教材として採用してくれて。この時ほど嬉しかったことはなかった。★今回はいつもより長い解釈・視点になりましたな。今後も小中学校時代の思い出も交えながらコメントしてまいりますよ。お互いにコロナには屈せずに頑張ろう、同志!
説明する人によって内容がかなり違う
👍👍👍
昔の考察ですね。だから最後が破綻してる。
書を忠実に、写したんだね!!
フムフム!☺
文永の役 1174年
壱岐(1)対馬(2)
情け(7)知らずの(4)
猛攻(蒙古)よ
壱岐、対馬を襲って、皆殺しにしたモンゴル今、穏やかやけど、許さん
兵は高麗人
戦闘に関して、この動画の説明はかなり古い資料に基づいているようだ。まず、日本に上陸したのはモンゴル兵が主体で、高麗兵の多くは後方の島々にいた。だから彼等は殆どが無傷で、嵐の後も70%が母国に生還している。しかしモンゴル兵の過半数は死亡してしまった。 また、撤退の最大の原因は、元軍が持参した矢が尽きてしまったためで、逃げ足の速さはさすがといえる。また大宰府付近には元軍は上陸できず、筥崎宮が焼失したのは別の日である。元軍は威力偵察などではなく、7年前から準備していて本気で日本に攻めてきたが、上陸したら、当初は優勢に戦いを進めたが、意外にも日本の武士達が強く、後半は劣勢になり、撤退をしたのだと思われる。もし、踏みとどまって矢がない状態で日本の武士達と白兵戦をやったら、元軍は全滅してしまったのではないだろうか。日本の弱点は元や高麗の様な大型の船がなかったことであり、これは後の秀吉の朝鮮侵略の時も同様である。 また、武士の戦死者より、一般市民の死者数がはるかに多く、従来の日本人が経験していない戦闘だった。山が多い対馬と違い平坦で逃げ場のない壱岐の島がひどかったらしい。つまり住民虐殺が目立つ酷い戦さだった。
なんか、元軍にモンゴル兵いなかったみたいに言う人もいるようだけど、蒙古襲来絵詞に書かれた元軍は東洋人ぽくないですよね。
たぶん高麗人は人足だったのではないかと
定説どおりの内容で聞きやすいと思います。
が、定説を批判する人が多いようですね。
もし、「占拠しようとしたが、跳ね返されてたため1日で逃げ帰った。」のであれば、元側の責任者は即刻死刑ですね。1日で退却して良い理由があったとするのが理にかなっていると思います。
文永の役の後に博多湾に元寇防塁が延々と築かれたことは間違いない事実のようです。もし、文永の役で比較的簡単に元を追い返すことができたならば、「元、恐るるに足らず。」で、こんな工事はしないと思いますね。
蹂躙する気満々で来て、ほぼ皆殺しになって逃げかえったのに、この説明はおかしくないでしょうか。
残念もっと深堀してほしかった…
日蓮はどうしようもないな…。
なんだ古い説か...
左翼史観の歴史教科書の内容に沿った動画。
私が日本にいるということで、日本に来た私の援軍。死傷者0。馬も、おそらく、死んでいない。
3万対5千で戦い健闘したでしょ
元寇について、
対馬を見捨てたとかは、ない。
1) 対馬を見捨てたのではなく、島迄日本側が行っても相手が大軍島を囲まれたら靈してしまう。
2)対馬や志賀島で戦いより、後方の地理に適した本土本陣側で、戦う方が勝目がある。
3)対馬志賀には、先鋭隊を派遣、なるべく相手の動向など、逐次本陣に報告。
4) 本土側で防壁・防塁等で相手の攻撃力を弱める方が勝目あり。
5) 2回目の引安の役は味方の結束を高める為に各陣中のleaderの少弐経資少弐景資少弐資能等他各軍御家人・水軍が集合・陣中会議に大方の話が決定。
これが子孫に伝わっている幕府御家人陣中秘話。
9
まあGHQ史観、敗戦国史観を教えるんじゃない。
ホント、「教科書」の内容を映像で少しだけ深堀しただけで、なにも新しい考察も着眼点もない。台風がそもそも文永の役の季節の11月の終わりに来るわけもない。といかく昔の日本の歴史研究はひどい。デタラメ研究者たちの「こうあるべきだ」が、科学的考察をどれだけ殺してきたか。タイトルが教科書だからいいじゃん、ってのは、ネットに溢れる「コメントのコメント」レベル。もう見ない。
ん?
おじさんは見なくていいよ
これ、現代に通じる話ですね。現在の日本政府に学んで欲しいです。支那からの使者に言いたい放題言われててる隣でニヤニヤ笑ってるアホ大臣にこの時代の政治家の骨太な印象は全くありません。(ーдー)💧
有権者が骨太な議員を支持すれば良いのでは?
有権者が政治を御座なりにしているから現状だと思うんですが。
申し訳ございませんが、解説のテンポの悪さにびっくりです。。
時折挟む、現在の現地写真による補足説明・・・必要ですか?笑
土地勘無いから理解できないし、これにより本筋の解説が幾度も途切れ、ついて行けない。まさに蛇足。。
『非株式会社いつかやる』チャンネルを視聴してからこちらを観ると、同じ題材でも構成・見せ方の違いが
ハッキリ分かれていて面白いですね!(私は断然、いつかやるに一票!)
他のコメントにも指摘されている通り、誤った情報もいくつかあるみたいなので、もう少し精査された方がよろしいかと。。
申し訳ない。アナウンスの声が高いのが(-_-;)
当時、日本という国家も組織もない。分かりやすく伝える為とはいえ、日本軍という表記はおかしい。
鎌倉時代当時、というかそれ以前から、国内でも、大陸の国の認識でも、日本という国家はありますよ。
旧唐書や新唐書には日本のことが「日本國」と表記されて書かれており、倭国が名前が雅ではないから日本と改名したのか、それとも小国だった日本が倭国の地を併せたのかのどちらかと認識していたようです。
もちろん元史においても日本のことは日本と表記されていますし、まさに元寇のその前に日本に送られたクビライの国書でもそうです。
例えば元寇の前の日本への使者派遣については「三年八月、命兵部侍郎黑的、給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本」というように記されており、クビライの国書には「大蒙古國皇帝奉書日本國王」と書かれています。
@@黒山恵 それはあくまで日本列島を指す呼び名。当時は国歌も国旗もない、統治者こそいれど、国としての体裁はない。
@@田中俊-w8i
元史の日本についての記述は「日本國在東海之東」、「以高麗人趙彝等言日本國可通」など、何度も日本を「國(国)」と表記しており、日本を「国」と位置付けていますし、クビライの国書では天皇のことを「日本國王」と呼んでいます。
当時も日本は単に島の呼び名ではなく、はっきりと国名という扱いで使われていますよ。
@@田中俊-w8i元寇の前の文永七(1270)年に、日本では朝廷が元への返書の案を作成したことがあり(結局返書はしませんでした)、その書き出しは「日本國太政官牒蒙古國中書省附高麗國使人牒送」から始まっています。
唐や元など大陸の国々から見て日本が「日本国」と認識されていたと同時に、日本もまた大陸の国々に対して「日本国」と自称していたのです。
また国内でも、例えば元寇の時代の僧、日蓮の書状にも「しはらく日本國の人をたすけんと」など度々日本は「日本国」と書かれています。
つまり、当時でも外国から日本、日本から外国、日本国内、そのすべてで「日本」また「日本国」という表記は使われていますよ。
@@田中俊-w8i現代ほど進んだ物ではないというだけで統治の仕組みはちゃんとありますよ
日蓮の例をみても当時の日本人には日本が国だという意識がありますし、それが政治に携わる人間ではないから根拠にならないというなら、上に書いたように政治に携わる朝廷が日本を国だと、しかも外国の朝廷に対して意識した例もあります。
幕府にしても形式としては朝廷から任じられる将軍を(実権はないとしても)頂いており、国の認識について朝廷と対立するような状態にはありませんでした。
政治に携わる朝廷が国家を名乗り、政治に携わらない日本人もそう認識しており、少なくともこの時代において日本が国家だったというに足るものは既にある時代です。
2500年前の欧州は草木も生えない田舎であった。ペルシャの王はギリシャまでが文明と思っていた。だが即に過ちががわかる。私が尊敬するティムール大帝とアレキサンダー大王の出番
面白い歴史が最高、モンゴルはアジアを征服したが東の外れ樺太ではアイヌ民族が猛威を振るいモンゴル人も制圧不可、アイヌ人はモンゴル人が呆れる戦闘民族であった。
後に日本にも来襲し古来日本人と合流民族は史上最高?鎌倉から戦国までの戦闘民族日本の理由はある。
当時、全北海道のアイヌの人口は女子供合わせて1万5千から2万人程度、それに対しモンゴルは結氷した間宮海峡から1万騎の騎馬兵を樺太に上陸させたという。それはオーバーな数字だが数千騎はいただろう。かなり本気の戦いだった。アイヌでも参戦したのは北部の日高あたりまでで道南は参戦しなかったらしい。さすが勇猛なアイヌも一時期、樺太から撤退したが、再び樺太に上陸してモンゴルと戦い、形式的な服属と朝貢をし講和、アイヌの樺太の居住を認めさせた。アイヌの本来の目的は大陸との交易だったので、大陸での略奪行為は主目的ではなかった。結局、アイヌが優勢の形で戦いは決着した。アイヌも倭寇の日本人と同様、交易と同時に海賊行為をする同じ海洋民族の血が流れていたのだろう。
イスラム民族に聞きたいどうして我々アジア人が冷静に判断できる指導者がいない?アラーの神は偉大でアジア人には理解不能か?