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謙信や元就なら「とらなかった」も分かるが、元親に関しては「とりたくてもとれない」が正解だよなぁ。場所と時期が悪すぎるわ。
元就はともかく謙信もなぁとは思うけれどね
四国統一は考えていても天下を取りに行く考えはなかったと思います
取りたいとは考えてたと思うぞ。土佐すら統一してない時期に美濃の織田の家臣の家から嫁を迎えるくらいだしな。四国で収まりたいなら、四国内から嫁をもらうだろうし、相当の野心家だったのかもしれない。しかし所詮は鳥なき島の蝙蝠。力が及ばないのは明らかだけど。笑
ここが天下とってたら、春日局の人生はもっと波瀾万丈になってそう。
中央京付近に出られるチャンスもなく、雌伏して天下を窺うにも嫡男の死からもう覇気も何も消えた。立地もタイミングも何もかも全てが「何故」にすらなってない。
我が先祖は今から450年前に阿波国三好郡の江口山口城にて長宗我部を迎撃、足かけ2年数次の戦闘で落城致しました。そんなことも知らずにたまたま自転車旅行で「六地蔵峠」を通りかかり、ちいさな地蔵が六体並ぶのを感慨もなく見入りましたが、そこが落城後さらに追討軍に6人の武将が打たれたという伝説の地であったのです。山口城址には祖父が石碑を建てているので見学に来て下さい。NHKに三好長慶のドラマを作らせようと徳島県を挙げて誘致しています。連ドラで牧野富太郎を行い次にやなせたかしをするのは追い風になっている模様。徳島に消費者庁は来なかったがNHKはさてどうなる?
かつての土佐國は「遠流之地」とされて居た。一条教房は、応仁の乱を逃れ、奈良経由で家領があった土佐國幡多荘に移った。現在の高知県中村市が「土佐の小京都」と称される様な街並みとなった理由は、教房が京都を偲んでそういう街作りをしたのだと思う。因みにうちの何十代か前は、津野氏の家来だったと聞いたが、江戸開府後は曾祖父の代である幕末まで郷士だったらしい。
運次第では四国統一前に天下取りも可能でしたね大河ドラマ化されて欲しい戦国大名最有力候補です2つ名がカッコイイ✨
20:51 高知の若宮八幡宮に長宗我部の九州出兵の逸話が残ってる天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。
秀吉が毛利と組んだ時点で詰み
四国は石高が低いから天下取りは難しいな。それに勢力拡大のために誰と味方になるかは重要だが、信長と反目、秀吉vs柴田勝家では勝家に味方、秀吉vs家康では家康に味方、元親死後は関ヶ原で西軍、大阪の陣では豊臣方と常に敗者側に付いてるし。これじゃ天下取りなんて無理。
デカくなった時には中央政権が成立してたからというか細川にしろ三好にしろ四国なので中世においては影響ばりばりでは?国親元親父子は京兆家当主から偏諱されてるのを見るに土佐は細川家の影響力が大きいねぇ
戦国時代に『天下を取ろう』なんて考えていたのは織田信長だけ。将軍家や管領家の人間は『家業を継ごう、家業を復興させよう』と考えていただけだし、三好家も細川京兆家の家業を奪っただけ。豊臣秀吉も織田信長の野望を受け継いだだけだし、徳川家康が天下取りに動いたのは戦国時代が終わった後。織田信長以外、誰も天下なんて意識していなかったというのが正確な話。
四国統一後直ぐに秀吉に四国を侵攻されて物量の差で負けてしまったから天下を取るに取れんかったって奴では(?_?)
三好長慶が四国から京に上がって実質「天下人」になったわけだから地理的強みは確かにあるね。でも元親が四国を席巻したときは時期的に海を渡れば毛利、織田の大勢力が待ってるわけだから難しいね。「信長の野望」だと超初心者向けの国だけど
土佐一条家が五摂家の一つ一条家分家である上に大友、大内、伊東、島津と姻戚関係を持つど偉い存在だっただけに、同じ五摂家の近衛家と対立して大内を滅ぼした反土佐一条ネットワークの毛利家に逃げ込んだ足利義昭や結果的に土佐一条ネットワークと対立した島津義久同様に天下狙える立場に成り難しい
信長の前の天下人が三好長慶というのに異論はないでしょう。阿波から近畿には船ですぐ行けるのに、土佐からは当時の船ではまず無理。徒歩で行くにしても。四国山地が控えてる。地理的に厳しい。
四国はデカいけど山ばかりだからね。 兵の動員数は他の地域と比べると低すぎる。 とても中央に討って出る動員力はない。 3万人動員するだけでも大したもんだよ。
元親が土佐を統一した同じ年にはすでに織田信長は京都や何カ国も押さえ、武田勝頼を長篠で大破している。やはり中央や畿内と比べると、海を隔てた土佐や四国とは流れが全く違っていたように思う。信長は元親を「鳥無き島のコウモリ」と言ったが、信長の戦いに比べると四国の戦いは児戯に映ったのかもしれない。でも、土佐七雄と呼ばれた国人衆の中で一番貫高が低い家だった長宗我部家から身を興して土佐を平らげ、さらには四国をほぼ手中に収めるまでに上り詰めたのだから、それなりの器量は持っていたと言えるのではないか。そんな元親、天下取る野心は無かったと思う。四国の王として、信長や秀吉と言った権力者に従う…元親が考えていたのは、四国全土が元親のもとで安寧に過ごせるようにする事だったのでは…と思う。
なぜ天下をとらなかったのか?でもね、取れなかったのか?の方が本当でしょ
四国全部合わせても近江一国の石高にも届かないからちょっと無理だよ。30年早く生まれてたら畿内に手が出せてたかも知れない
仮に信長より10年前に元親が生まれてて信長が美濃取ったタイミングで四国統一してたとしても天下統一は難しかっただろうと思う四国という枠から元親が出てくタイプとはどうしても思えないから
この動画を視聴しての感想ですが、長宗我部元親は天下を望むべく要素が全く見当たりませんでした。印象は豊臣秀長軍に圧倒され、秀吉から秀長への書状到着後に瞬〇されたです。
国親の父親は隠居で殺されてはいない説もあり国親の国が大平氏の通字である事から大平氏の庇護下で成人して偏諱を受けたって話もあるよ。
取れなかったんじゃないすかね
土佐から四国統一したけど、機内を押さえて兵備の質、量ともに凌駕した豊臣秀吉。せめて中国山陽地方まで勢力を拡大すれば、もう少しなんとか対抗できたかも。でも九州の鬼島津。関東の覇者後北条。これらが勝てなかったから無理か‥
天下の意識なんて中央周辺の大名しかできない、人間そんなもん
武装の面で最初から無理で時代遅れです。
四国から天下って無理すぎꉂ🤣w𐤔
天下人の三好長慶がいます。
謙信や元就なら「とらなかった」も分かるが、元親に関しては「とりたくてもとれない」が正解だよなぁ。場所と時期が悪すぎるわ。
元就はともかく謙信もなぁとは思うけれどね
四国統一は考えていても天下を取りに行く考えはなかったと思います
取りたいとは考えてたと思うぞ。
土佐すら統一してない時期に美濃の織田の家臣の家から嫁を迎えるくらいだしな。
四国で収まりたいなら、四国内から嫁をもらうだろうし、
相当の野心家だったのかもしれない。
しかし所詮は鳥なき島の蝙蝠。力が及ばないのは明らかだけど。笑
ここが天下とってたら、春日局の人生はもっと波瀾万丈になってそう。
中央京付近に出られるチャンスもなく、雌伏して天下を窺うにも嫡男の死からもう覇気も何も消えた。
立地もタイミングも何もかも全てが「何故」にすらなってない。
我が先祖は今から450年前に阿波国三好郡の江口山口城にて長宗我部を迎撃、足かけ2年数次の戦闘で落城致しました。そんなことも知らずにたまたま自転車旅行で「六地蔵峠」を通りかかり、ちいさな地蔵が六体並ぶのを感慨もなく見入りましたが、そこが落城後さらに追討軍に6人の武将が打たれたという伝説の地であったのです。
山口城址には祖父が石碑を建てているので見学に来て下さい。NHKに三好長慶のドラマを作らせようと徳島県を挙げて誘致しています。連ドラで牧野富太郎を行い次にやなせたかしをするのは追い風になっている模様。徳島に消費者庁は来なかったがNHKはさてどうなる?
かつての土佐國は「遠流之地」とされて居た。
一条教房は、応仁の乱を逃れ、奈良経由で家領があった土佐國幡多荘に移った。
現在の高知県中村市が「土佐の小京都」と称される様な街並みとなった理由は、教房が京都を偲んでそういう街作りをしたのだと思う。
因みにうちの何十代か前は、津野氏の家来だったと聞いたが、江戸開府後は曾祖父の代である幕末まで郷士だったらしい。
運次第では四国統一前に天下取りも可能でしたね
大河ドラマ化されて欲しい戦国大名最有力候補です
2つ名がカッコイイ✨
20:51 高知の若宮八幡宮に長宗我部の九州出兵の逸話が残ってる
天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。
秀吉が毛利と組んだ時点で詰み
四国は石高が低いから天下取りは難しいな。
それに勢力拡大のために誰と味方になるかは重要だが、信長と反目、秀吉vs柴田勝家では勝家に味方、秀吉vs家康では家康に味方、元親死後は関ヶ原で西軍、大阪の陣では豊臣方と常に敗者側に付いてるし。これじゃ天下取りなんて無理。
デカくなった時には中央政権が成立してたから
というか細川にしろ三好にしろ四国なので中世においては影響ばりばりでは?
国親元親父子は京兆家当主から偏諱されてるのを見るに土佐は細川家の影響力が大きいねぇ
戦国時代に『天下を取ろう』なんて考えていたのは織田信長だけ。
将軍家や管領家の人間は『家業を継ごう、家業を復興させよう』と考えていただけだし、三好家も細川京兆家の家業を奪っただけ。
豊臣秀吉も織田信長の野望を受け継いだだけだし、徳川家康が天下取りに動いたのは戦国時代が終わった後。
織田信長以外、誰も天下なんて意識していなかったというのが正確な話。
四国統一後直ぐに秀吉に四国を侵攻されて物量の差で負けてしまったから天下を取るに取れんかったって奴では(?_?)
三好長慶が四国から京に上がって実質「天下人」になったわけだから地理的強みは確かにあるね。
でも元親が四国を席巻したときは時期的に海を渡れば毛利、織田の大勢力が待ってるわけだから難しいね。
「信長の野望」だと超初心者向けの国だけど
土佐一条家が五摂家の一つ一条家分家である上に大友、大内、伊東、島津と姻戚関係を持つど偉い存在だっただけに、同じ五摂家の近衛家と対立して大内を滅ぼした反土佐一条ネットワークの毛利家に逃げ込んだ足利義昭や結果的に土佐一条ネットワークと対立した島津義久同様に天下狙える立場に成り難しい
信長の前の天下人が三好長慶というのに異論はないでしょう。阿波から近畿には船ですぐ行けるのに、土佐からは当時の船ではまず無理。徒歩で行くにしても。四国山地が控えてる。地理的に厳しい。
四国はデカいけど山ばかりだからね。 兵の動員数は他の地域と比べると低すぎる。 とても中央に討って出る動員力はない。 3万人動員するだけでも大したもんだよ。
元親が土佐を統一した同じ年にはすでに織田信長は京都や何カ国も押さえ、武田勝頼を長篠で大破している。やはり中央や畿内と比べると、海を隔てた土佐や四国とは流れが全く違っていたように思う。信長は元親を「鳥無き島のコウモリ」と言ったが、信長の戦いに比べると四国の戦いは児戯に映ったのかもしれない。でも、土佐七雄と呼ばれた国人衆の中で一番貫高が低い家だった長宗我部家から身を興して土佐を平らげ、さらには四国をほぼ手中に収めるまでに上り詰めたのだから、それなりの器量は持っていたと言えるのではないか。そんな元親、天下取る野心は無かったと思う。四国の王として、信長や秀吉と言った権力者に従う…元親が考えていたのは、四国全土が元親のもとで安寧に過ごせるようにする事だったのでは…と思う。
なぜ天下をとらなかったのか?
でもね、取れなかったのか?
の方が本当でしょ
四国全部合わせても近江一国の石高にも届かないからちょっと無理だよ。30年早く生まれてたら畿内に手が出せてたかも知れない
仮に信長より10年前に元親が生まれてて
信長が美濃取ったタイミングで四国統一してたとしても
天下統一は難しかっただろうと思う
四国という枠から元親が出てくタイプとはどうしても思えないから
この動画を視聴しての感想ですが、長宗我部元親は天下を望むべく要素が全く見当たりませんでした。
印象は豊臣秀長軍に圧倒され、秀吉から秀長への書状到着後に瞬〇されたです。
国親の父親は隠居で殺されてはいない説もあり国親の国が大平氏の通字である事から大平氏の庇護下で成人して偏諱を受けたって話もあるよ。
取れなかったんじゃないすかね
土佐から四国統一したけど、機内を押さえて兵備の質、量ともに凌駕した豊臣秀吉。せめて中国山陽地方まで勢力を拡大すれば、もう少しなんとか対抗できたかも。でも九州の鬼島津。関東の覇者後北条。これらが勝てなかったから無理か‥
天下の意識なんて中央周辺の大名しかできない、人間そんなもん
武装の面で最初から無理で時代遅れです。
四国から天下って無理すぎꉂ🤣w𐤔
天下人の三好長慶がいます。