【掛川市】 八坂神社祇園祭 宵宮

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  • Опубліковано 12 жов 2024
  • 静岡県掛川市の南部、中地区の「八坂神社祇園祭(県指定文化財)」です。かつて中(なか)という村(中村四ヶ郷)であったため、神社は「中八坂神社」や「中村祇園社」、「中村のお天王様」などの呼称もあります。夏に行われるべき祇園祭が、秋の時期に行われる(明治以降秋に移動)のは農村地帯で農閑期に行わざるを得なかった事情があるようです。
    映像は大祭(本祭二日目)を翌日に控え、地域の中心的な寺院である満勝寺に参拝する様子です。この一帯は徳川家康が遠州(静岡県西部)支配の要であった高天神城(武田家が支配)を攻略するために築いた6砦のひとつ、中村砦の付近です。神輿は一週間ほど前(かつて旧暦6月7日)に御仮屋(御旅所)である八坂神社旧社跡(元宮)に渡御しており、大祭の還御(旧暦時代は6月14日)まで留め置かれている状況です。このため、この日の山車は町内周りや他町への巡行が主となります。中地区は毛森・公文・下方・高塚の4町で構成されていますが、満勝寺にいちばん離れた毛森は日中に参拝を済ませています。満勝寺は祇園祭を当地に伝承指導した日蓮宗寺院で、大祭当日にも参拝する場面があります。宵宮に行われる参拝については、過去の祭礼運営にあたり領主と発生したトラブルを寺が仲裁したことがきっかけ、との言い伝えがあります。言い伝えには他にも「泣き宮」の伝承があり、御祭神が泣き悲しむことから当祭礼には雨がつきものとされ、実際翌日は雨の一日となりました。
    山車は遠州(静岡県西部)中東部でよくみられる一本柱万度型の二輪屋台(遠州では花屋台と呼ぶのが一般的)です。夜装の提灯万燈はこの宵宮のみでみられる略装で、大祭の山車人形に提灯の正装姿とは異なるものです。
    御仮屋(御旅所:青谷) 1:33
    夜支度(姿替え) 9:14
    満勝寺参拝 18:38

КОМЕНТАРІ • 7

  • @iwasana75
    @iwasana75  11 місяців тому +3

    お尋ねします。
    中東遠(遠州の中東部)では一本柱万度型などの二輪屋台が主流ですが、中地区を中心とした一帯では、夜装で花(おそらく牡丹)の図柄が入った提灯を掲げています。
    祇園社・天王社(八坂神社・津島神社)の神紋である木瓜紋、満勝寺(日蓮宗)の宗紋である橘紋とも異なります。牡丹柄の提灯は盆提灯のイメージが強いので、かつての徳川武田の大規模攻防戦(高天神城争奪戦)の弔い(北西側隣接地区に千人塚)とか、当初の開催時期と一帯が農村地帯であることから「虫送り」の風習が関係するような気もします。
    花柄提灯の意味は何なのでしょうか。

    • @黄色い閃光-r4f
      @黄色い閃光-r4f 11 місяців тому

      提灯が牡丹の図柄の理由はまず、満勝寺を開山したのが京都本満寺の日秀上人という人でこの人は近衛道嗣の嫡子です。そのため満勝寺が建てられた時に近衛の資格と10万石の領土を貰い、満勝寺は近衛家の家紋である近衛牡丹を使っています。そして明治以前の中村八坂神社祇園祭は神仏習合で主祭は満勝寺でした。なので満勝寺の象徴である近衛牡丹をモチーフにして提灯に牡丹の絵柄が使われています。

    • @iwasana75
      @iwasana75  10 місяців тому +1

      お返事ありがとうございます。
      牡丹柄は満勝寺固有の寺紋に由来する、ということですね。映像をよくよく見ると本堂の屋根瓦の意匠にも牡丹らしきものがありますね。

    • @iwasana75
      @iwasana75  10 місяців тому

      「高天神を制するものは遠州を制す」の意味も理解できたような気がします。
      堅固な山城だからという地形的理由だけでなく、あの立地が満勝寺(日蓮宗)をはじめ貞永寺(安国寺:臨済宗)、尊永寺(真言宗)、遠州の熊野三山(熊野信仰)などの遠州の基幹寺社に目が届きやすい位置・距離なので、間接的に遠州中央部一帯(旧笠原荘やその周辺部)を支配できたという理由もありそうです。

    • @黄色い閃光-r4f
      @黄色い閃光-r4f 10 місяців тому +1

      @@iwasana75満勝寺参拝の時に和尚さんの両隣に檀家さんが1人ずついたと思いますがその檀家さんが持っていた提灯に近衛家の家紋である近衛牡丹が描かれているのでもし、撮られていたら確認してみてください。

    • @黄色い閃光-r4f
      @黄色い閃光-r4f 10 місяців тому +2

      @@iwasana75 満勝寺は格式が高かったです。そのエピソードとして江戸時代、横須賀城主が参勤交代をしてる時に中村では祭りを行っていました。土曜日の日で海戸村【現高塚と東大坂の東側部分(昔は公文、大石、毛森、下方、海戸の5か村で行っていた)】に向かっている時に横須賀城主が通りました。中村の祭りは太鼓を止めてはいけないため、台(山車、練裡)の上から見下す形になり、それに横須賀城主は怒りました。人々は満勝寺に逃げ込み、助けを求めました。横須賀藩8万石に対して満勝寺10万石と満勝寺の方が位が高かったため、和尚さんがその場を治め、城主を帰したと言われています。そのことで土曜日は満勝寺に感謝の意味で参拝するようになりました。