弥生時代の社会の様子がよく伝わってきます。銅鐸などの鋳造技術は現在の技術から見てもかなり高度なものですよね。鹿を霊獣とした祭祀も、その後の日本の民俗につながっていくのかなと見入ってしまいました。弥生時代を改めて見直しました!
銅鐸の鋳造はかなり高度な技術が必要だったのでしょうね!こうした技術があったからこそ、古墳時代の鏡なども作れたんでしょうね。弥生時代に源流を持つ事も結構あるのかもしれませんね。
ジオラマが想像力をかきたてますね!復元された環濠を見て、大きなムラを実感したいです。春になったら行きたいな。でも行っても空からの眺めは無理ですね😁
唐古・鍵遺跡のことがわかりやすくまとまっています。観にいきたくなりますね。
コメントありがとうございます。唐古鍵遺跡は、きれいに整備されているので、とても見学しやすいですよ。唐古鍵考古学ミュージアムは、こことは別に出土遺物を展示していますので、合わせてご覧になることをオススメします。
盆地中央に在所しながらも、この遺跡には環濠はあっても柵や侵入防止の逆茂木がない。おそらく盆地全てが一体的な集落の認識があったんだと思います。そして、広大な盆地の内側と外側という世界観もあったんではと思います。
なのでこの大規模集住地奈良盆地に比べれば、他地域は小規模集落にすぎず、後の権力確立へと向かったと思います
なかなか難しい問題ですね。柵はなかったんですかね? 逆茂木も朝日遺跡が有名ですが、それほど頻出するものでもないイメージがあります。唐古・鍵遺跡の成立は、おそらく河内湖周辺の集落からの影響が大きいと思いますし、河内湖周辺は弥生時代を通じて常に先進的な地域であると思いますので、奈良盆地以外の地域が小規模集落であるとは言えないのではないでしょうか。ただ、大和の中では唐古・鍵遺跡が弥生時代を通じて中核的な集落であったことは間違いないでしょうね。
なぜ唐古・鍵が衰退して纏向に移っていったのだろう
そう思いますよね!私も田原本町の職員さんに同じ事をお聞きしました。職員さんが仰るには、ヤマト王権の人々は、理由はわかりませんが、纒向一帯の地を新しい王権の場所として選んだ、そしてそのメンバーの中には、唐古鍵の代表者も加わっていたとのことでした。纒向の地を選んだ理由は、実利的なものなのか、宗教・観念的なものなのか、それとも全く別の何かなのか、想像が膨らみますね。
弥生時代は暦はどうしていたのでしょうか?暦に基づいて農作業をしないと、稲作はうまく行かないと思います。稲作と共に渡来人が伝えたものを、集落のボスが持っていて、いろいろな 指 示をしていたのでしょうか?それとも、月とか星をみて、独自のこよみを作っていたのでしょうか。
糸島市の平原遺跡の紹介動画があるので、UA-cam内で検索してみてください。
クシフル岳(これは天孫降臨の場所です。南九州ではなく、糸島市が天孫降臨の場でした)や日向峠がありまして、太陽がそれらの山にかかるのが農耕カレンダーになっていました。動画の中で丁寧に説明してあります。
他の地域は他の地域で、「XXX山の上に太陽が来る」から、種まき・・・というようになっていたようです。
原田大六先生の研究にあります。
ちなみに、平原遺跡は神武天皇の母である玉依姫の墓と比定されていて、ずばり、三種の神器が出土しています。八咫鏡と同じデザインの鏡がいくつもでているので、ネットで検索すると写真などがあるはずです。伊都国だったので、神武天皇の前身は伊都国王になります。古代ハイテク国家です。
(優秀人材がいなくなったので、伊都国は邪馬台国の属国になったようです。そりゃあ、王様と一門が何百人も畿内に移住したら、正直老人病人、よんどころない事情で残った人しかいませんから、国力落ちます。)
縄文時代から弥生時代に移行した最大の理由は、稲作の伝播・普及というのが衆目の一致するところかと思います。
では弥生時代から古墳時代/ヤマト王権に一気に移行した最大の理由はなんなのでしょうか。大量の人骨が奈良盆地で発見されたとは
聞いてないので、大規模な内戦があったようには思えないし。なぜ更に山際に近い地域が発展していったのでしょうか?
すいません。1日考えましたが、高度過ぎて私に回答できるレベルの問いではありません。弥生時代を通じて先進地であり続けた北部九州から、大和に政治の中心が移る理由は何なのでしょうかね? それが何なのか、とても興味深いですが、私ではわかりません。
戦争の痕跡ですが、個人的には発掘調査で見つけることは非常に難しいのではと思っています。直接的な戦場の跡地のようなものは見つかっていませんし、集落で戦いが行われた痕跡というのもどうなんでしょうか。鳥取県の青谷上寺地遺跡で、弥生時代後期の、少なくとも10人分の、殺傷痕がある人骨が見つかっていますが、それでも、何らかの争いがあったことが考えられるという見解です。それが集落間の抗争によるものなのか、内輪揉めによるものなのか、あるいは何らかの儀礼に伴うものなのか、確定することは難しいのではないでしょうか。
とは言え、地道な調査成果の積み重ねの上で考えていくしかありませんので、いつの日かわかる日が来るかもしれませんね。私もお答え出来るように努力していこうと思います。とりとめのない回答で申し訳ありません。
@@koukogaku 様 面倒くさい質問をしてしまったようで、申し訳ございません。1日真剣に考えられたとのことで、本当に恐縮の限りでございます。
毎回とても分かり易く見易い動画で勉強させていただいております。これからも楽しみにしておりますので、頑張って下さい。
弥生の稲作・銅鐸祭祀集落は北東アジア人の流入がもたらしたのでしょう。現代人には縄文人同様に2割未満遺伝子が受け継がれています。残り6割は中韓同様に東アジア人で彼らが古墳の主でしょう。半島からちょっと手強い北九州を避けて、中国の干渉のない平和な本州側を襲撃するだけで良いのです。鉄製鎧に鉄の武器、征服は簡単でしょう。4隅突出墳出現にみられるよう幾つかの半島勢力が征服を開始し、小競り合いもあったでしょうが、最終的に機内政権の母体になる勢力が吉備の勢力と結びつき圧倒的軍事力で畿内を支配し、弥生人は耕作地を放棄させられて古墳造成に駆り出されようになる。弥生時代に鉄製道具が入っても奪い合う状況ではなく平和は保たれていたわけですが、2c後半殺傷人骨が出る頃には外来勢力の為に危険な状態になっていたと思います。戦争や宗族という概念は東アジア人が持ち込んだのです。
現在、イナカくさーい道の駅が建っております。🎉🎉
というかこんだけ太い柱が植わってるのを見ると、もともとあった建物は復元した、だっさい見張り台よりも立派でデカかったんでしょうね。
霊能力者よんできて、それ建ててほしいですな。
この時代、文字が無いとか聞いた事があるのですが、どうやってそれなら、巨大な建築物や高度な鋳物を作れるのか?ものすごく不思議です。
ご視聴ありがとうございます。私もよくわかりませんが、文字よりも言語によるコミュニケーションの方が重要だったのではないでしょうか。ただ、建物の図面や、金属器の形・文様の割付はどのように行っていたのか、不思議ですね。
あれだけ規模の大きな土器や石器の交易をおこなっていたのなら、文字とまでは言えなくても、何かの符号のようなもので記録を残しておこうと考えたひとがいたかもしれません
@@TOSHIHIROTADA
ありがとうございます😊
そうですよね。大阪と奈良の間に二上山という山がありますが、そこなんかは、古墳の為の石切場になっていて、しかも岩場に仏様が掘ってあったりします。
ノミの跡もあり、なかなか凄くロマンを感じますね。そこに記号みたいなもの?も残っているかも知れませんね。
いえ、福岡県行橋市の下稗田遺跡で硯が出土しています。弥生時代です。紀元前2世紀くらいです。したがって、唐古・鍵遺跡の時代には実は漢字が使われていたことになりますが、唐古・鍵遺跡があまり渡来文化になれていない縄文系のようなので、あまり使われていないだけで、九州北部にいた豪族、首長クラスは読み書きができた可能性が高いです。
それに、天照大神の岩戸隠れのときに、中臣氏の先祖がすでにいて、中臣氏はハプログループからみてOグループで中国・朝鮮半島由来の渡来人です。渡来系であれば、エリートクラスは漢字の読み書きができたと思われます。
(ちなみに天皇は縄文人ですので、渡来人ではありません。アメリカのDNA分析会社が子孫を調べてわかっています。)
弥生渡来時代
7:40「唐古・鍵遺跡に代わって、大和盆地東南部に纏向遺跡が出現」だが…。記紀によると、唐古・鍵遺跡付近は欠史8代の1人である第7代孝霊天皇の宮があった場所。第10代崇神天皇や第11代垂仁天皇の頃になると、巻向などの大和盆地東南部に移るので、記紀の内容がどこまで歴史的事実を伝えてられているのかも含め興味深い。
唐古・鍵遺跡からは吉備地方の土器も出土していますね。
孝霊天皇の子には吉備津彦や倭迹迹日百襲媛が居りますし、加えて百襲媛陵墓とされる箸墓古墳出土の特殊器台は吉備の様式。
唐古・鍵遺跡〜纒向への流れは孝霊、孝元、開化、崇神期辺りの史実である可能性は充分ありそうです。