天皇に怒られるほどの女好きだった初代内閣総理大臣 伊藤博文68歳の生涯 農民から総理大臣に大出世

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  • Опубліковано 15 вер 2024
  • 長州藩の農民の身分から日本初の内閣総理大臣にまで上り詰めた伊藤博文
    まだ制度が確立していないなか、44歳の若さで現代にも続く内閣制度を作り上げ、近代日本の基礎を確立しました。
    そんな伊藤博文は、安重根にハルビンで暗殺されてしまいますが、韓国併合には反対だったという説、そして女遊びの激しさ、焼討ち、暗殺とやりたい放題だった志士時代など、様々なエピソードを持っています。
    伊藤博文の68年の障害について解説しています。
    大河ドラマ #青天を衝け 解説動画です。

КОМЕНТАРІ • 70

  • @rosan6179
    @rosan6179 Місяць тому

    初代内閣総理大臣だし、そろそろ大河ドラマの主役にしてもよいのではないか。
    幕末にあれだけの優秀な人材を出した長州藩なのに、大河ドラマで主役になったのは大村益次郎だけというのが不思議です。

  • @二郎岩田
    @二郎岩田 2 роки тому +18

    伊藤が当初韓国併合反対派だったのに、1909年の春ごろ、桂太郎首相が併合を進言したことに対し、伊藤が併合に賛同したと言う話は、私は怪しいと思っています。というのもそれを聞いたのは、たしか伊藤を訪問し説得に当たったとされる桂首相と小村外相だけで、しかもそれが明らかとされるのは伊藤の死後のことです。晩年の伊藤の政治上の側近と言えるほど近しい関係にあった原敬が、伊藤の暗殺後、1月ほどして桂首相の訪問を受け、桂から、「実は伊藤は生前韓国併合の方針を立て(なお、韓国の処理を明治政府は統監の伊藤に一任すると決定していました)、韓国統監を辞めて帰国する際、後任の統監にそれを申し送り事項として伝えていた」との説明を原にしたと原が日記に記しています。そして原は「初めて聞いた」と日記に記しています。原自身は、韓国併合派であり、それを伊藤と会った際に何度も進言しており、従って、伊藤が韓国併合に意見を変えたのなら、伊藤の暗殺前に何度も合うチャンスがあった原に何かを語ったとしてもおかしくないのに、伊藤からその話を聞いたことが無い(少なくとも毎日書いていた詳細な日記にその旨の記録がない)のはどう考えても不自然です。それに、原にした説明は、その後桂が公(おおやけ)にした伊藤の意見の変更談とも違っています。ここには、併合派による伊藤の暗殺を奇貨として一気に併合を進めようとの陰謀があったのではないでしょうか。原自身、併合賛成派ではありましたが、それは拙速に行うべきではなく何年もかけて朝鮮人の納得を得ながらやるべきだと考えていました。それゆえ、伊藤の死後1年も経たないうちに併合が断行されたことを批判しています。
    私は伊藤は最後まで併合反対の意見を変えてはいなかったのではないかと考えています。伊藤が統監として赴任した当初は、日本政府内でもゆくゆくは併合しようと申し合わせがあった様であり、伊藤にもそのつもりはあったようです。ただ伊藤の凄いところは、実際家であるところです。自分で経験してみてこれはだめだと思ったらあっさり方針を変えてしまうところがあるのです。彼は幕末の志士として当初は攘夷を決行しました。しかし英国留学を経て攘夷は不可と判断すると、一転開国派に転向しました。それは大変危険なことで、実際何度も攘夷派に裏切者として狙われ切られかかっています。また彼は首相となって以降も、数年に一度海外に数ケ月もの間出かけており、ヨーロッパ、アメリカ、中国の全てを見ています。こんな政治家、それも最高の地位にあった政治家は当時日本はもちろん、欧米にも皆無だったと思います。つまり彼は自らの目と耳で実際の世界を見聞きし、世界を肌で知っていたのです。彼には恐らく、もう領土を拡大することが大国となる条件であるなどという帝国主義の時代は終わったと感じていたのではないかと思うのです。このように世界を知っていた伊藤は、韓国の統監として朝鮮人に接するにつれて、併合の難しさを痛感し、韓国併合に積極的に反対の気持ちになっていったのではないかと思うのです。事実彼は原にしばしば韓国人の分からずやに手を焼いており、彼らの度し難さをこぼしており、辟易させられていたようであり、さらに伊藤は韓国の高官らを前に「併合など頼まれても御免被る」と発言している記録もあります。私はこれは本音だったと思っています。そして韓国人も伊藤が併合に反対であることを知っていたのです。まして統監を辞めた後の伊藤を殺す理由が韓国側にはありません。喩えて言えば、日本の右翼が、GHQの最高司令官を解任されて帰国したマッカーサーを米国まで追いかけて行って暗殺するようなものです。伊藤を殺すことは朝鮮の独立の維持に何の役にも立たないどころか、併合反対派の巨頭を殺すことはむしろ政治的には逆効果です。朝鮮人もそこまで馬鹿であるはずはありません。
    伊藤は日韓併合の最大の障害でした。特に伊藤は明治天皇から絶大な信頼を得ており(宮中への出入り自由)、明治天皇は、政府からの問題ある議案の上奏について、しばしば韓国にいる伊藤の意見も聞けと命じています。伊藤が日韓併合に反対の場合、明治天皇の裁可は恐らく不可能でした。伊藤の暗殺には裏があると考えるべきです。私は、韓国と日本の両法の併合推進勢力の共謀があったのではないかと疑っています。

    • @user-mc5eu2kz4j
      @user-mc5eu2kz4j Рік тому

      それは感じます。安倍晋三暗殺事件も何故SPなど周りが安倍を護らなかったのか今も不思議です。山上徹也烈士の狙撃の映像が流されないのも不思議です。

  • @pochicancan55
    @pochicancan55 2 роки тому +18

    男で女好きはごく普通だと思うがな(女癖が悪いとは別)。

  • @user-jq7wz9cs4b
    @user-jq7wz9cs4b 2 роки тому +39

    伊藤博文だけが日韓併合に反対していて暗殺されなければ日韓併合も阻止できたかもしれないのに殺した犯人が韓国の英雄扱いされてるのが始末が悪い

    • @野坂慶一
      @野坂慶一 2 роки тому +7

      ちょっと調べれば分かりますが、そんな事ないですよ。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s 2 роки тому

      伊藤博文の暗殺を指示したのは陸軍の明石元二郎だよな
      絶対に朝鮮半島を手に入れたい陸軍にとって
      韓国併合に反対の伊藤は邪魔でしかなったからね

    • @jiropushkin3563
      @jiropushkin3563 2 роки тому +1

      伊藤が、日本に大きな負担がかかる併合論に反対だったことは事実。しかし、1909年4月10日の桂太郎・小村寿太郎との三巨頭会談で、伊藤は持論を撤回、併合に賛成し統監を辞任した。7月6日に内閣で併合を決定、天皇の裁可も得て正式に併合が日本の方針として決まっている。伊藤が暗殺されたのは同年の10月26日。伊藤が殺されたから併合になったのだ、というようなのは俗論。

    • @kinntoki812
      @kinntoki812 Рік тому +3

      「英雄扱い」された安重根の顕彰碑が日本の去るお寺に存在するのも皮肉なもの。

    • @Bshshak
      @Bshshak Рік тому

      私は韓国人で、日本が好きだ。 しかし、安重根がテロリストだということは認められない。 1905年、日本が大韓帝国を強圧して締結した条約である乙巳勒約と精米勒約がある。 日本が過去に韓国にしてはならないことをしたのは事実だ。 正直、韓国の安重根にテロリストと呼ぶ人は日本だけだ。 全ての国が認めて安重根義士を尊敬しているのに、なぜ日本だけがその事実を否定するのか。 現在、韓国人のほとんどは日本人を憎んでいない。 しかし、過去に韓国に犯したことを認め、謝罪することを望むだけだ。 日本政府がこれ以上誤った歴史を日本人に教えるのをやめてほしいと願う。

  • @川野寛-j5b
    @川野寛-j5b 2 місяці тому

    明治維新はあやまてり。まさにその代表。西郷さんが生きていたら、おそらく首をはねたい人物だろう。

  • @tetsumiyokoyama823
    @tetsumiyokoyama823 Рік тому +3

    伊藤博文は明治天皇に対して唯一冗談が言えた元勲だった。
    その様な間柄だったからこそ女性問題を叱責できたのでしょう。

  • @yu-yaxnaoe4100
    @yu-yaxnaoe4100 2 роки тому +14

    伊藤博文は外交や内政を重視し、積極外征派の山県有朋と対立しており、第三次伊藤内閣総辞職もそれが背景の一因にあった。第四次伊藤内閣では、就任直後から伊藤叩きが始まり、在任期間も短かったが、政党政治を始め日本の近代政治・国家の礎を築いた彼の功績は高い。
    ちなみに、アイコンは伊藤博文を尊敬しているので用いました。

  • @xrqli5550
    @xrqli5550 2 роки тому +7

    大河の主人公に愛人がいないやつはいない

  • @黒瀬亮治
    @黒瀬亮治 2 роки тому +1

    夏目漱石の前の旧千円札が懐かしい。

  • @宮広-h3m
    @宮広-h3m Рік тому

    面白かった

  • @kotaro-mny
    @kotaro-mny 2 роки тому +10

    女好きは、次の一万円札の肖像になる渋沢栄一も同じだよね~
    まぁ、金や地位や名誉があれば、女も寄ってくるだろうし、囲えるだけの資金も環境もあったんだろうね

  • @あかしんく
    @あかしんく 2 роки тому +4

    豊臣と伊藤の共通点
    出自もだが、朝鮮との関係をこじらせた点もあるね。

  • @TAICHI-kp1ff
    @TAICHI-kp1ff 2 роки тому +2

    天皇に怒られるほどの男好きだった初代内閣総理大臣 伊藤博文

  • @吉井冬児
    @吉井冬児 2 роки тому +1

    40年前の漫画日本史が間違っていたかわかりました❗

  • @ny4433
    @ny4433 2 роки тому +6

    伊藤俊輔、気転のきく、小回りのうまい如才ない若者が、先輩志士が次から次へ亡くなり前に押し出された格好。大久保利通にも重用され、日本の近代化に貢献した偉人。運が良かったのもあるけど。

  • @hiiro1967
    @hiiro1967 2 роки тому +9

    外に愛人をいっぱい作っていたことは有名ですが、当時の価値観なら至極普通のことで、
    民法でも合法とされてました。
    それでも、自分が尊敬できるのは「天皇陛下の他は妻だけだ」と公言していて、ずっと妻には頭が上がらなかったようですね。
    逆に、当時の価値観からすれば、「妻を尊敬する」と公言できた伊藤博文は、
    どれだけ妻を大事にしていたかが分かるエピソードだと思います。

  • @hirokey2685
    @hirokey2685 9 місяців тому +3

    幕末から明治の偉人ってみんなイカれてて現代日本だとやっていけない政治家ばかりだよなぁ
    ヤバい奴でも政治家としてはピカイチみたいな人がやっぱり国を動かしていくのにはいいんだろうな

  • @rokusuke1000
    @rokusuke1000 2 роки тому +12

    病的な女好きを除けば、偉大な政治家だと思います。

    • @user-dl2uv3rs5c
      @user-dl2uv3rs5c 5 місяців тому +1

      お金があれば女性からも寄って来たと思います

  • @j88pm
    @j88pm 2 роки тому +11

    当時でも伊藤は、日本を大国へと育てていける大政治家として海外でも認識されていたようですね。
    実際に実現しましたから、その認識は間違っていなかった訳ですが。
    大久保もそうですが、あの大動乱期にこういう人物をトップに戴くことができたというのは日本にとって大変な幸福だったと思いますね。
    渋沢栄一もそうですが、これだけの器量がある人物なら多少女癖が悪くても構わないと思いますよ。
    伊藤がいないことで起きえた大混乱を考えれば大した問題ではありません。
    清の和珅(ヘシェン)が、国家予算の15年分も汚職で懐に入れていたのとはレベルも違いますね(笑)
    山県については、肯定しかねる部分もありますが...

  • @高矩松平
    @高矩松平 Рік тому +1

    1881年(明治14年)憲法制定論議の高まるなかで立憲体制の今後について意見の分かれた大蔵卿の大隈重信を政府から追放し、伊藤博文を中心とした薩長派で固められた藩閥政府が誕生しました。これが「明治十四年の政変と呼ばれる政変です。翌年、明治天皇より憲法調査の命を受けた伊藤博文は渡欧。ベルリンを中心とした欧州各地で歴史法学や行政を学びました。憲法の制定に自信を得て、1883年(明治16年)に帰国の途につきますが、伊藤博文の帰国を待たず政府の実力者であった岩倉具視が病死。大久保利通の後継者として伊藤博文を内務卿に選んだ岩倉具視は、宮廷や華族に対して依然として大きな影響力を持つ人物でした。岩倉具視の死により、伊藤博文は名実ともに明治政府の重鎮の座につくこととなります。憲法調査を終えた伊藤博文が帰国してから、1889年(明治22年)2月11日に「大日本帝国憲法」が発布されるまでの数年間は、近代国家としての日本の基礎が構築されていった重要な時期です。
    1885年(明治18年)に成立した日本最初の内閣で、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。自ら定めた内閣制度による政府運営の見本を示し、翌年より憲法の作成も開始されました。1888年(明治21年)には憲法審議の最高責任者である枢密院議長に就任するため、内閣総理大臣を辞任しています。伊藤博文のこうした努力を経て発布された大日本帝国憲法は「永遠不磨の法典」と言われ、この憲法のもとにある明治天皇制国家は伊藤博文の作り上げた「芸術品」と称されることがあります。貧しい農民から初代内閣総理大臣にまで上り詰めた伊藤博文は、その後も1892年(明治25年)に第2次、1898年(明治31年)に第3次、1900年(明治33年)に第4次伊藤内閣を組閣。近代国家としての日本を成立させるために尽力します。伊藤博文の政治家人生をたどる上で欠かせない人物が山県有朋です。「伊藤博文のライバル」として比較されることの多い山県有朋は、同じ松下村塾の塾生でありながら伊藤博文とは対照的なキャリアを重ねました。伊藤博文が政府官僚としての道を選んだのに対して、山県有朋は軍人としての道を選び、軍政改革によって日本の軍隊の近代化に大きな功績を残しています。第1次伊藤内閣では内務卿を務めました。大日本帝国憲法の発布の際は自治行政視察のため渡欧中で憲法発布の式典には参加できず、憲法発布によって世の注目を一身に浴びる伊藤博文を、ライバルとして苦々しく思ったことでしょう。初代韓国統監に就任、ハルビンで暗殺されます。第2次伊藤内閣の時期にあたる1894年(明治27年)、日本は「日清戦争」に勝利し、翌年の「下関条約」で日本は清国に韓国の独立を認めさせたものの、ロシアが南下を止めず、日本の朝鮮半島における存在感は不安定なままでした。そのため1904年(明治37年)、韓国を正式に日本の監督下に置き、特殊権益を確保することを大きな目的として「日露戦争」を開戦します。この戦争に辛くも勝利した日本は1905年(明治38年)、「日韓保護条約」を締結し、漢城に「韓国統監府」を設立。伊藤博文はその初代統監に就任しました。これにより日本は、実質的に韓国の統治権を手にしました。第二次日韓協約を締結して韓国を日本の保護国とするなど、あまりにも露骨な植民地政策だったため、韓国では反日感情が高まり、各地ではテロや抵抗運動が頻発しました。民衆達のその怒りは最終的に伊藤博文に向けられ、1909年(明治42年)に東清鉄道のハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されます。68歳でした。ときの内閣総理大臣だった桂太郎はこの惨事を利用し1910年(明治43年)に「韓国併合条約」に調印。新たに「朝鮮総督府」が設置され、韓国のすべての統治権が日本の手に渡りました。伊藤博文はしばしば「英雄ではなくリアリストである」と評されます。つまり、日本の国家建設に必要な物は何かを選び分ける力があり、政治家として反対の立場の人とも妥協性を持って付き合える、頭の良い事務官僚の親玉タイプ。そういったバランス感覚が、近代化を目指す日本にあって大いに活かされたことは間違いありません。

  • @fumiosoeda6004
    @fumiosoeda6004 2 роки тому +1

    女好きな、鶴田浩二、村田英雄も伊藤博文の子孫かも知れないな。 天皇が総理を怒れた時代を観たかったな。

  • @ムーミン-u2y
    @ムーミン-u2y Рік тому

    好きな人物

  • @user-zx3xx8yq4t
    @user-zx3xx8yq4t 2 роки тому +1

    先日銃撃され死亡した安倍晋三元首相も伊藤博文と重なってしまう…

    • @user-ug7el8kv3z
      @user-ug7el8kv3z 2 роки тому +1

      安重根と山上はテロリストだが祖国、東方平和のためにやった安重根と個人的な恨みのために無関係の人を狙った山上は大きな違い

    • @user-dl2uv3rs5c
      @user-dl2uv3rs5c 5 місяців тому +1

      安倍さんは、自分が個人的に行った事で暗殺されております
      百姓出身で国のトップに上り詰め
      お金を惜しみなく使う性格は田中角栄氏と重なる人物だと思います

  • @rarararararararara
    @rarararararararara Рік тому

    三木武夫氏が史上最年少の41歳で総理になるチャンスがあったらしいけど連立与党で一番小規模の政党のトップでは連立与党内を纏められないと考えたのか軽く断ってたけど。

  • @kaisermuto
    @kaisermuto 2 роки тому +1

    伊藤は無類の女好きだった。卑猥な話で悪いが、伊藤の趣味は芸者の〇〇に刺身をつけて食べたことが知られている。要するに助平。

  • @user-hp6zv9br9x
    @user-hp6zv9br9x 2 роки тому +2

    尊敬だわ

  • @anjing2728
    @anjing2728 2 роки тому +1

    伊藤公暗殺の裏にボルシェビキだよ‼️

  • @jacojaco6402
    @jacojaco6402 Рік тому +3

    女好きの伊藤、金に汚い山県、女と金の両方だった井上。
    この頃は、おおらかでいいなあ。

  • @user-hp6zv9br9x
    @user-hp6zv9br9x 2 роки тому +2

    伊藤博文やっぱ最高やな

  • @fp-ss
    @fp-ss 10 місяців тому

    昔。「伊藤博文は初代内閣総理大臣で、とても立派な方だ。」と学校で習い、それ故に「札」にもなったのだから「凄い方だ!!」と思っていたけど、社会に出て「無類の女好き!!」と聞いた時には正直、ガッカリしたわッ(笑)!!彼と夏目漱石って、どっちが「女好き」だったのかなッ!?かくいう私も「女好き」ですが、彼等に比べたら「こわっぱ」ですよ(笑)。

  • @user-yo4fj3gc8t
    @user-yo4fj3gc8t Рік тому

    だいたい、アンちゃんが英雄とは、、、情けない。

  • @レッドバロン-z4q
    @レッドバロン-z4q Рік тому

    女好き。あの顔でモテるとは思えないんでカネと権力で抱くしかないわけだけど、虚しくないかなあ?

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому

      当時は武家が没落して生活に苦しむ女性も多い中、金を持っていて女性に金を渡せる甲斐性があることの価値が高かった時代ですからね…
      むしろ誇りにすら思っていたと思われます。。

  • @takasina8459
    @takasina8459 2 роки тому

    田布施一味!

  • @user-gf7bw3fj1h
    @user-gf7bw3fj1h 2 роки тому

    伊藤之雄の本が詳しいよw

  • @山田国雄-s4m
    @山田国雄-s4m 2 роки тому

    孝明天皇と睦実親王の仇討ちもせず、侍とはよく言うぜ。

    • @user-hw3id7np6k
      @user-hw3id7np6k 2 роки тому +1

      うん?てか、張本人では…?

    • @山田国雄-s4m
      @山田国雄-s4m 2 роки тому +1

      @@user-hw3id7np6k 毛利敬親と毛利元徳は田布施朝鮮部落民の伊藤博文にこうと睦仁親王を暗殺させた。

  • @ynorman4076
    @ynorman4076 2 роки тому

    「帚」と言われたが併合派ではない

  • @TAICHI-kp1ff
    @TAICHI-kp1ff 2 роки тому +2

    エタ動画  田布施広報

  • @프리트리퍼
    @프리트리퍼 Рік тому +1

    안중근 선생님 고마워요

  • @ぽんぽん-d1g
    @ぽんぽん-d1g 2 роки тому

    山口県でも萩の方では伊藤が卒族だからという理由で軽視しているお年寄りはいましたね。小柄な体にコンプレックスを持っており、大柄な外国人に対しては気後れするところもあったようで、それを気にしていたこともあったみたいです。そういった性格も彼の政治的な判断に影響を与えていたのかもしれません。

  • @tanchin2774
    @tanchin2774 2 роки тому +3

    維新の志士たちは 単なる地方の半グレ。

  • @user-rf1dp3in7g
    @user-rf1dp3in7g 2 роки тому +1

    総理大臣になった宮崎勉‼️

  • @user-ol2bw8yy2h
    @user-ol2bw8yy2h 2 роки тому

    戦争が戦争を呼ぶんだ
    国が分かれてバラバラになってるのを
    別に一つにする必要はなかった
    小国ならみんなを幸せにできる
    政治ができるんだよ

  • @Bshshak
    @Bshshak Рік тому +2

    私は韓国人で、日本が好きだ。 しかし、安重根がテロリストだということは認められない。 1905年、日本が大韓帝国を強圧して締結した条約である乙巳勒約と精米勒約がある。 日本が過去に韓国にしてはならないことをしたのは事実だ。 正直、韓国の安重根にテロリストと呼ぶ人は日本だけだ。 全ての国が認めて安重根義士を尊敬しているのに、なぜ日本だけがその事実を否定するのか。 現在、韓国人のほとんどは日本人を憎んでいない。 しかし、過去に韓国に犯したことを認め、謝罪することを望むだけだ。 日本政府がこれ以上誤った歴史を日本人に教えるのをやめてほしいと願う。

    • @まる-b8b
      @まる-b8b 22 дні тому

      俺も韓国は嫌いではない
      ただ安重根が殺したのは韓国独立を支持してた伊藤博文だ
      韓国の友人になろうとした日本人を殺したのだ
      韓国はしてはならないことをしたのは事実だ
      世界で安重根をテロリスト扱いしてないのは韓国だけなのに、何故韓国は過ちを認めないのか
      現在の日本人は韓国嫌いではない人が多いので、過ちを認めて日本に謝罪するだけだ
      韓国が誤った歴史を教えるのはやめたほうがいい
      繰り返すが、伊藤博文は韓国独立を目指してた

  • @高矩松平
    @高矩松平 Рік тому +1

    1881年(明治14年)憲法制定論議の高まるなかで立憲体制の今後について意見の分かれた大蔵卿の大隈重信を政府から追放し、伊藤博文を中心とした薩長派で固められた藩閥政府が誕生しました。これが「明治十四年の政変と呼ばれる政変です。翌年、明治天皇より憲法調査の命を受けた伊藤博文は渡欧。ベルリンを中心とした欧州各地で歴史法学や行政を学びました。憲法の制定に自信を得て、1883年(明治16年)に帰国の途につきますが、伊藤博文の帰国を待たず政府の実力者であった岩倉具視が病死。大久保利通の後継者として伊藤博文を内務卿に選んだ岩倉具視は、宮廷や華族に対して依然として大きな影響力を持つ人物でした。岩倉具視の死により、伊藤博文は名実ともに明治政府の重鎮の座につくこととなります。憲法調査を終えた伊藤博文が帰国してから、1889年(明治22年)2月11日に「大日本帝国憲法」が発布されるまでの数年間は、近代国家としての日本の基礎が構築されていった重要な時期です。
    1885年(明治18年)に成立した日本最初の内閣で、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。自ら定めた内閣制度による政府運営の見本を示し、翌年より憲法の作成も開始されました。1888年(明治21年)には憲法審議の最高責任者である枢密院議長に就任するため、内閣総理大臣を辞任しています。伊藤博文のこうした努力を経て発布された大日本帝国憲法は「永遠不磨の法典」と言われ、この憲法のもとにある明治天皇制国家は伊藤博文の作り上げた「芸術品」と称されることがあります。貧しい農民から初代内閣総理大臣にまで上り詰めた伊藤博文は、その後も1892年(明治25年)に第2次、1898年(明治31年)に第3次、1900年(明治33年)に第4次伊藤内閣を組閣。近代国家としての日本を成立させるために尽力します。伊藤博文の政治家人生をたどる上で欠かせない人物が山県有朋です。「伊藤博文のライバル」として比較されることの多い山県有朋は、同じ松下村塾の塾生でありながら伊藤博文とは対照的なキャリアを重ねました。伊藤博文が政府官僚としての道を選んだのに対して、山県有朋は軍人としての道を選び、軍政改革によって日本の軍隊の近代化に大きな功績を残しています。第1次伊藤内閣では内務卿を務めました。大日本帝国憲法の発布の際は自治行政視察のため渡欧中で憲法発布の式典には参加できず、憲法発布によって世の注目を一身に浴びる伊藤博文を、ライバルとして苦々しく思ったことでしょう。初代韓国統監に就任、ハルビンで暗殺されます。第2次伊藤内閣の時期にあたる1894年(明治27年)、日本は「日清戦争」に勝利し、翌年の「下関条約」で日本は清国に韓国の独立を認めさせたものの、ロシアが南下を止めず、日本の朝鮮半島における存在感は不安定なままでした。そのため1904年(明治37年)、韓国を正式に日本の監督下に置き、特殊権益を確保することを大きな目的として「日露戦争」を開戦します。この戦争に辛くも勝利した日本は1905年(明治38年)、「日韓保護条約」を締結し、漢城に「韓国統監府」を設立。伊藤博文はその初代統監に就任しました。これにより日本は、実質的に韓国の統治権を手にしました。第二次日韓協約を締結して韓国を日本の保護国とするなど、あまりにも露骨な植民地政策だったため、韓国では反日感情が高まり、各地ではテロや抵抗運動が頻発しました。民衆達のその怒りは最終的に伊藤博文に向けられ、1909年(明治42年)に東清鉄道のハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されます。68歳でした。ときの内閣総理大臣だった桂太郎はこの惨事を利用し1910年(明治43年)に「韓国併合条約」に調印。新たに「朝鮮総督府」が設置され、韓国のすべての統治権が日本の手に渡りました。伊藤博文はしばしば「英雄ではなくリアリストである」と評されます。つまり、日本の国家建設に必要な物は何かを選び分ける力があり、政治家として反対の立場の人とも妥協性を持って付き合える、頭の良い事務官僚の親玉タイプ。そういったバランス感覚が、近代化を目指す日本にあって大いに活かされたことは間違いありません