茨城県の歴史!これが見たかった!
ありがとうございます🙏☺️
坂東平氏こそ関東の覇者たるべき!
などとテンション上がっていますが、お許しを。
現在の茨城県が人気のない県らしいですが、あんなもの全く興味ありませんね。
茨城県大好きです。もちろん、関東すべての歴史もです。
初めて茨城県に行った時もなんか懐かしい感じがして、わたしは感動しました。
茨城県を応援してます!!!
県民としてありがとうございます🙇あんなランキングほぼ場所です。都会の人は北や南に憧れ、反対に地方の人は都会に魅力を感じます。東京の人が直ぐ行ける関東に魅力を感じないし、関西以西は場所も知らなかったりします。それにしてもネモフィラ見に行く方が凄くて、この季節ジョイホンにもファックルにも行けません😅ほしいも神社には観光バスが何台も参拝に訪れてます。
自分はひたちなか出身なのですが漠然と佐竹氏がいたよなーぐらいしか知らなかったので、こんなに混乱の時代があったことを知って大変勉強になりました。ひたちなかって甲斐武田氏発祥の地とかいって武田家にちなんだものとか武田氏にちなんだ祭とか結構やってたりします。武田という姓だってあのへんの地名から取ったものですし。平安時代ぐらいに甲斐に移動したんですが、その後戦国の世になって佐竹氏と甲斐武田氏が手を組んだり、おもしろい運命ですね。
たまたま見つけた動画、勉強になったので登録しました。
私は浅草産まれですが、どっぷりと茨城県ひたちなか市で育ちました。今は千葉市民です。
茨城の歴史、知ってる様で知らない事だらけでした😭
知名度を上げるには大河ドラマで取り上げて貰わないとですね。
茨城の実家の家紋は九曜ぼしで、平将門公と同じ家紋です。明後日の日曜日、平将門公祭りに行く予定です😊
因みに私の母方の先祖は、源頼朝や北条家に仕えた平山季重でございます。
@@rekishitravel 様
明後日の日曜日は真冬の寒さになるらしいですが、良かったら平将門公祭り行ってみて下さいね。私は國王神社に行ってみた事が有りますが、将門様のお祭りは初めてなので楽しみにしています😊
茨城県ひたちなか市在住です。常陸の国の歴史面白かったです。ご先祖さまは佐竹氏家臣だったとのことで、本家の周辺には佐竹氏の家紋が付いた神社とか多くありますね。
多賀谷城址公園で子供のころ良く遊んでいましたがこんなに手のひら返して生き残ったのは面白過ぎる。母方の実家の小野崎家も出てきて嬉しい
コメントありがとうございます!
結城氏に対して離反や和睦を繰り返しつつ、多賀谷氏はしたたかに生き残りましたよね^ ^ 常陸・下総の戦国史のキーパーソンですね!
茨城の武将といえば水谷正村・真壁氏幹や最後の頃の太田資正などゲームでお世話になった優れた武将が多いので、親近感があります。関東はグダグダな身内の争いが続きすぎて大きな勢力が出来にくかったのが響いて、戦国時代的には辺境扱いされてしまうのがもったいないですね。
茨城県の平野部は大河川がたくさん流れており、北から久慈、那珂、涸沼、桜、小貝、五行、鬼怒、古利根などです。これらはどれも水量も多く水深も深いですが、大部隊を渡河するのはどのようにしたのでしょうね。歩兵のみなら小舟でも可能でしょうが、大規模な騎馬部隊を渡河させるのは大変でしょうね。茨城の水田地帯はほとんどが河川の氾濫原か湿地帯、沼地だったそうです。固い地盤の土地は少なかったようです。
佐竹氏の系譜は武田氏や小笠原氏と同じ義光流甲斐源氏となります。義光の孫昌義が常陸国佐竹郷に土着したのが起こりです。
すごく分かりやすかったです。私の家系は大掾氏系列で、ネットで中世、戦国の記述を読んでも完全に流れが理解できませんでしたが、この動画でよく理解できました。
自分は茨城出身ですが、知らない事が結構多かったです。ここまで詳しく教えていただきありがとうございます。
茨城と言えば、ひたちなか市武田町が甲斐武田氏の発祥として有名ですね。そのおかげで山梨出身の職場の同僚とは何かとバトルに(笑)
小田氏治も何気に全盛期は石岡南部、常総、牛久、かすみがうら、阿見とかなり勢力デカいのよね(下妻、常総、牛久、守谷辺りを制圧した多賀谷重経が約25万石)
平塚の戦いでは2,3倍の兵力の結城晴朝に大勝して関東諸大名に小田の武名を知らしめたり山王堂の戦いではあの上杉謙信相手に夕方まで丸一日死闘繰り広げたりと、野戦は結構強いから勢力回復できるのも納得だし、大掾貞国守る三村城攻めでは1千の兵で落としたり当時の評価は猛将なのも面白い
茨城県の歴史ありがとうございます。
自分の地元は部垂城の近くで、部垂義元の部垂の乱については、子供の頃学校で教わりました。当時はおそらく部垂城の石垣とかも残っていました。
本日仕事の合間で、小田城跡を見学してきました。
近くに立派な資料館があります。
周辺は昔ながらの城下町の造りで細い道が入り組んでます。
城跡は保存の為にだいぶ盛ったようですが、発掘結果に基づいた再現が成されてます。
堅固な造りではありませんが、400年以上続いた小田氏の栄華を想像できました。
小田城から望む筑波山と宝篋山はとても迫力あります。
つくば周辺にお立ち寄りの際には是非見学してほしいと思います。
茨城の戦国時代を分かりやすく見せることは本当に重要ですね。
それにしても大掾氏は面白いですね。桓武平氏の流れを汲んでたり一族が多くいたり
それなのに江戸時代まで大名として存続できず盛者必衰ですね
茨城県、待ってました!当方、茨城県南守谷市在住です。
茨城県南は常陸ではなくて下総だということは、意外と地元でも認知されていないんです。
このあたりは、江戸時代の利根川東遷など川に着目してもいろいろと面白いです。
守谷はむかしからの地元の人はみんな下総って知ってるよ。
ニュータウンの人は意外と知らないかも?
守谷の叔母はうちらの家は方川向こうの筑波郡のとなり村なんで、ヒタチんちなんて言ってたよ。
信長の野望などで佐竹義重は強い武将として有名なんですけど、佐竹氏の茨城県民の認知度はめちゃくちゃ低いですね…
それこそ常陸太田市でも太田城より徳川光圀が晩年を過ごした西山荘のが有名ですし…やはり江戸時代になって水戸藩が
御三家の一角を占めたことと、時代劇の水戸黄門の存在が悪い意味で長く名門であった佐竹氏の存在を吹き飛ばしてしまいましたね。
佐竹氏が秋田に移ったことで佐竹と言ったら秋田のイメージも強くなってしまいました。
小田城といえば、北畠親房がここに数年留まって神皇正統記を書いたのですね。しかし後に小田氏は南朝を見限って親房を追い出したんですね。
次回は南北朝・室町時代の歴史解説をお願いします。
佐竹藩が美人をみんな秋田に連れて行ってしまったので水戸はこのようになってしまったと中学の社会科の先生が言ってました。
小田氏治はよく弱いと言われがちですが、やっぱり相手が悪過ぎたんだと思います。ただでさえ北条、佐竹など周囲を他の大名に囲まれているのに、それに加えていつ攻めてくるかわからない上杉のことも気にしていないといけないわけですから、立ち回りには苦労したことでしょう。
相手が悪いというなら結城氏や佐野氏もそうだけどな。
結城に関しては小田よりも北条領に近いし、後ろには佐竹がいる。佐野氏は武田や上杉が関東に入るたびに脅威に晒される位置に存在するし。結局は立ち回りでしょ。
とても簡潔でわかりやすかったです。
ただ当時の常陸の国、海岸線こそ今とあまり変わりませんが霞ケ浦は結構違いますよね。
香取海のとんでもない大きさについても一言触れて欲しかったかも知れません💦
日立、水戸が生まれ育った地域(今は首都圏在住)なので、佐竹氏や御三家水戸の知識は人並程度あったと思うのですが、関ヶ原で佐竹氏が西軍となった経緯を知りませんでした。この動画で豊臣との繋がりを知り、成る程なと。
ちなみに有名ですが、関ヶ原敗戦後、佐竹氏が秋田に追いやられ、その際、水戸をはじめ、美人な女性の殆どを秋田まで同行させた為、それが俗に言う「秋田美人」の発祥となり現代まで続いている、と良く地元では話題になっていました(笑)
貴重な動画の配信、有難う御座います。
コメントありがとうございます!
地元ご出身の方に楽しんで頂けて励みになります!
また貴重な地元のお話もありがとうございます^ ^ 関ヶ原前後の佐竹氏の動きも面白いのでいずれ取り上げたいと思います^ ^
マイナーな茨城の動画を作って頂き有難うございます。
ただ、鹿行地域としては、佐竹のやった南方三十三館の仕置きの悪行を忘れないで欲しいです。ドラマにしても良いぐらいエグいのに先祖代々住んでいる地元民でさえ今や知らない人が多いのです。
コメントありがとうございます!
南方三十三館の事件は重要なので、動画に盛り込むべきでしたね…>_<
今回、鹿島郡・行方郡が登場時間短めとなってしまったのは反省点です…!
下妻城の多賀谷氏が対北条の最前線。つい最近まで「総構」の土塁が残っていました。八千代町の太田城、坂東市の逆井城など戦国期の城跡も残ってます。わかりやすい動画で、下妻地域の歴史研究会でも紹介したいです
佐竹氏の南奥州への影響力についても入れて欲しかった。
コメントありがとうございます!
仰る通り、佐竹氏を語るには南奥への介入は外せないですね^ ^ 今回は出来る限り「茨城」に特化すべく泣く泣くカットしてしまいました…>_
大変面白い動画でした。最後の方で、【小田原征伐】の後、常陸領内の《江戸氏・大掾氏・小野崎氏》を討伐したとの事ですが、秀吉が発布した≪惣無事令≫に違反していると思うのですが、御咎めなしなのは、やはり、小田原征伐以前から、佐竹義宣が秀吉と”よしみを通じて”いたからでしょうか?
@@rekishitravel 早速の御解答有難うございました。ヤッパリそうだったんですね。じゃないと、東北で起こった【葛西大崎一揆】が辻褄が合わなくなるからですね。
佐竹氏宗家は、よく滅びず現代まで残ったな。
武田氏と同じ、源義家(源頼朝の先祖)の弟の源義光の子孫だが、最初、縁があった平家の味方をして、領地で揉めていた上総氏や千葉氏の勧めで富士川の戦いで勝った頼朝に攻められる。
室町時代も足利尊氏に味方をし、勝ち馬に乗るも、6代将軍、足利義教に討伐を食らいそうになる。
12代目が山内上杉氏からの、婿養子だった事から、100年近く一族間で争う。(山入の乱)
戦国時代は勢力を伸ばすも、伊達、後北条、上杉に囲まれる。関ヶ原の戦いで西軍寄りの曖昧な態度で、秋田にとばされる。戊辰戦争で、奥羽列藩同盟から離脱し庄内藩に猛烈に攻められる。
佐竹義宣は、後に秋田藩主で幕末の繁栄を極めた武将で石田三成襲撃事件で三成救出する為女装したという逸話ありますよ。中でも独眼龍王の最大のライバルであり親戚だったらしいですよ。あーそうそう佐竹義宣の子孫いますよ。何と秋田県知事勤めていますよ。もし大河ドラマ出たら人口増えたらいいなぁ。
古河公方について詳しく知りたいと思って以前古河歴史博物館へ行ったことがありますが、雪の結晶の絵とか鷹見泉石の肖像画とか、関係ないものばかりでがっかりしました。古河城跡もあちこちに石碑があるだけです。
古河公方が発給した文書なども各地にあると思うので、それらを収集して古河公方について学べる資料館を作ってほしいと思います。
茨城県内の動きが良くわかる 動画あででした 我郷土の動きが 理解できました 竹原城の攻略で練飯ほどの者がた といつ勝つされすぐに落城したのがよくわかります 府中城の支城の竹原城等ひとひねりでしたね でも竹原城として 田圃の中に
おお城跡が残りますよ、近くの鹿島神社の馬場先はお城に向いています (鎌倉時代 創建 本殿は 桃山時代の彫りものが
中々凄いですよ 。
あれ?足利高基って最初は「高氏」ってなのってなかったけ?
コメントありがとうございます!
仰るです!政氏との第二次抗争の頃に「高基」に改名してますね。今回の動画ではややこしいので「高基」で統一しました〜
ご先祖が同一である武田氏と佐竹氏の軍事同盟が上手く行っていたら・・・と思うと、
何か起きたのか?何も起きないのか?。。。歴史にIFは無いけど、とても気になります
親子喧嘩って言うか、同族でガチガチですね。
物部系の戦闘民族達ですね。
ユダヤ人見てると良く分かります。
縄文人のDNAが残ってて今の時代が出来たんだと思います。
結城って結城紬ですね。思い切り物部、長幡部神社ですね。
もともと、出雲系だったのが崇神に虐殺されて逃げてきた一族ですね。
面白いです、分かりやすいです!チャンネル登録しました。
幕府、公方、管領のシステムが完全崩壊して東北関東を統治できる革新的な人物が出て来なかったのですね。
年配の秋田県民は今でも県知事を佐竹の殿様って言ってるらしいね
茨城は幕末まで内紛が多いなと思った。
似たりよったりの勢力ばかりだったのか、一頭地を抜く勢力というのが無かったんかな…
今の感覚だと、小田城より土浦城の方が本拠に適していたんじゃないかなと感じるけど、当時は土浦の方が辺境の地だったのかな
海上で、江戸と仙台を結ぶ中間点も茨城県の北にはあります。
仙台藩の管轄重要地点でした。
その辺りは黒船よりも前に上陸してます。水戸藩や仙台藩の近辺藩の兵を出して警戒したらしい。
キチンと対応し、追い返して、まるで無かった事に?
今の外交スタイルと似てる点が見付かると思います。
7:24 大掾氏に佐竹義昭弟の昌幹が入ったなんてマイナーな出来事を記すとはすばらしい。この昌幹は 8:00 の謙信による第二次小田城攻略戦の数ヶ月後に大掾貞国によって府中城を追い出され、元の養子先の山能小野崎氏に戻されてしまいます。このようなことが貞国の独断で可能とは思えず、おそらく謙信の内示を受けてのものと思われます。
昌幹は小田城戦の直前に占領したと思われる小田領を子飼の家臣団に宛行っていますが、これは小田氏の片野柿岡領の範囲であり、後に太田資正、梶原政景親子が入城する所領です。この太田親子の片野柿岡入封は上杉謙信の「上意」を受けて小田氏治と佐竹義重が承諾したものであり、結果大掾昌幹による前述の小田領の宛行は反故にされたものと見られます。つまりは片野柿岡への太田親子入封と大掾昌幹の府中城からの追放は連動したものであり、これは上杉謙信の上意によってなされたものである可能性が高いです。これは謙信による佐竹権力の否定であり、結果佐竹義重が上杉氏から距離を置くことへとつながっていきます。また謙信は本来対等の関係である佐竹氏からも人質を取るなどし、さらには臼井城での上杉の敗北もあって佐竹氏の上杉離れは加速することになります。これら上杉上意の体制は、佐竹氏の意を受けた太田親子、真壁氏による小田氏挑発からの手這坂の合戦で反故にされ、その割りを小田氏治が食うことになってしまいます。
コメントありがとうございます!
このへんの謙信と佐竹氏のせめぎ合いは緊迫感があって面白いですね!謙信の思い通りにはさせない義重の巧妙さも好きです^ ^
私の母方のご先祖は江戸氏の臣下?だったようです。
苗字の由来を調べると、武田氏や佐竹氏同様、清和源氏に関係があるようなのですが、
ホントかなあ…という感じです。
@@rekishitravel さん
母方の曾祖父母は茨城県那珂市の船橋さんと平野さんで、
江戸氏の武将にどちらの名前もあったかと思います。
もしどちらも清和源氏がルーツなら、どういった経緯で江戸氏に仕えたのか気になります。
江戸氏は清和源氏系列の佐竹氏に滅ぼされていますが、
船橋と平野はその後も土着していますから、
もしや…清和源氏方の壮大な計画だったかもしれませんね…笑
曾祖母の母方は植田で、
姫様が信州から落ち延び常陸に来た事、上田から植田に変えた事を記した古文書が出てきたそうなのですが、
これも眉唾だなあと思いますね。
ネットで調べてみただけだと分からない事が多いです。
@@いしよりジョージはな
ご丁寧にお教え頂きありがとうございます!
江戸氏への関心が高まりました^ ^ 佐竹氏や江戸氏は今後も動画テーマで積極的に取り上げる予定なのでリサーチしたいと思います^ ^
他県人だけど正直戦国時代の茨城には大した印象がなかった
りんりんロード走ってる時に小田城跡と資料館に寄って「最弱の生き残り武将」小田氏治のことを知っていたくらいで・・・。
真壁氏はどうなったの?
コメントありがとうございます!
動画では取り上げませんでしたが、小田原征伐時は佐竹氏に従っており、江戸時代も佐竹氏の家臣として秋田に移っていますね!
真壁氏……
大子の小川大和守居城跡に真壁と言う名字の方がいらっしゃいます。
近くのお寺には三十三館関連のかたのお墓も有るそうです。
真壁は同級生に居たので気には成ってましたが詳しくは知りません。
被差別部落って東北やチバラギの沿岸部にはほとんど無いのに、旧下総の古河のあたりは多い。(西日本の比ではないが)
平将門のころから戦で負けた側が根絶やしにされず被差別部落へ落とされたからで、南北朝のころもそうだった。茨城では長吏と呼ばれた。
被差別部落の成り立ちは千差万別で一様ではないとはいえ、近畿、西日本にあれだけの被差別部落や被差別民がいるのは人口だけでなく歴史があるからってことかなと妄想してみる
地元の歴史を説明していただいてありがとうございます。自分の行動範囲なのでとても面白かったです。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ 茨城県の戦国史は特に群雄割拠で戦国末期まで終始面白いですよね^ ^