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長崎県民です。父が被爆者でした。私が小学生の時、先生からお父さんに「その時の様子を聞いてきて、みんなの前で発表しなさい。」父に尋ねると温厚な父が「うるさい。」と怒鳴りました。母が「まだ旧制中学校の生徒だった若かったお父さんには身内の人が大勢死に、焼け焦げた人を沢山見た経験は、思い出したくないのよ。」説明されました。小学校の若い先生には、不熱心な子だと嫌われたようです。でも、何らかの形で伝えるべきだと思います。ぜひ今後とも配信をご努力ください。
ありがとうございます!
返信ありがとうございます
京都が原爆投下の筆頭候補だったが矮小な盆地なので原爆の効果確認に不向きなので外されました。
4つの目標都市のうち 京都が次の理由から第一候補地とされていた。人口100万を超す大都市であること。日本の古都であること。多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。小さな軍需工場が多数存在していること。原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官が強く反対した。(1945年6月14日、京都市が除外)
@@ジョージアS 長官の反対はデマのようです。
小学生の子供と視聴しました。私も子供もすごく勉強になり、また戦争と平和について考える機会をいただきました。ありがとうございます。
小倉でしたよね?小倉に投下予定が天候や状況が悪くて、急遽長崎に変更になったって読んだ事があります。
小倉が雨だったから長崎に。
投下前日の8月8日に隣町の八幡が空襲に遭ったので、その煙で目標確認ができなかったということです。原爆投下はトップシークレットだったので爆撃情報の共有ができなかったようです。
長崎はキリスト教会の真上に原爆投下した。
広島市で言えば相生橋みたいな爆撃目標地点を、たしか爆撃手・機長・副機長の3人が目視確認して意見が一致したら、投下可能だったかな?先行していた気象観測機の連絡では爆撃可能でしたが、小倉市へ向かいましたが前日の小規模な空襲の火災の影響で煙が漂っており、なおかつ霧とゆうかガスがかかっており、3往復?しましたが目標の意見が一致しなかったんよ。ボックスカーは燃料系統にトラブルを抱えており、日本側の迎撃機が上昇してきた事もあり、急遽長崎市へ投下目標を変更した経緯です。長崎市も、あいにく雲におおわれてましたが、地表が目視確認出来た地点があり、そこが爆心地の浦上地区でして、本来は出島の東側2~3キロの地点だったかな?3発目があるなら確実に小倉市でしょうし、あとは新潟市が候補地に入ってたから4発目で、次は分かりかねます。まぁ~11月?には鹿児島県の吹上浜と千葉県の九十九里浜へ上陸予定が入っており、原爆の製造が間に合ってなかったから、当分原爆の投下は無かったと思いますよ?
数年前の新聞記事で「八幡製鉄所で煙幕を焚いた。」とする記事がありまして、「その所為で長崎の人が多く犠牲となったことを悼み、70余年、話すことが出来なかった。」とのことでした。当時は軍や特高警察などが検閲したり、「危険思想」の人たちを暴行聴取したり突然連行したりと人権蹂躙甚だしいことが行われていたので、言えなかったということ、またどの都市でも持ち場を離れず消火せよ、戦争に協力せよというのがありましたから、かなりつらい思いをされたことが容易に想像できます。大阪でも「大空襲の際に地下鉄が走り業火の中から午前2時〜4時の間逃げる人々を安全な場所まで搬送し続けた。」と所々伝えられているようですが、当時国家総動員が決まっていましたから、勝手に走らせることができないはずの地下鉄が、走ることができない時間帯になぜ走ったのかはまだ分かっていないとされます。おそらく軍部の知らないところで大阪市民の安全を優先して軍や特高警察にはお構いなしで対応した駅員がいるはずですが、今でも分かりません。なお、新潟には当時の10円兌換紙幣に似せた紙で作製された「伝単」なるものが相当数当時の米軍機より撒かれ、近々新型爆弾を投下する旨が書かれていたことから、日本の軍部はそのようなことは真実ではないと伝単回収を断行、火消しに回りますが、パニックになった新潟市民が終戦間際に新潟市街に逃げようとしたという話が残っております。
長崎原爆史料館にも来てくれるか 案内する!! 幼い妹を背負う兄の立ち姿は泣ける!! 戦争に負けたからの命 恐いもんは無い!! 今の相手は中国 韓国 北朝鮮 ロシア 負けない 岸田下ろしを!! 長崎生まれ!
これには色々諸説があるが金沢も候補地だった富山に福井はすでに空襲を受けていた(福井は更に地震のすぐ後に水害のトリプルパンチ)
今年広島の方に行きました。海外の方がたくさんおりました。序盤はまだ笑顔が見られた人達が後半に近付くにつれて表情か暗くなって行くのが印象的でした。失礼かも知れませんが、日本人の団体は終始変わらぬ表情でした。これが平和ボケってことなのかなぁ…と思わされました。
新潟に投下する予定が曇ってたので、広島、小倉に投下予定が又曇ってたので長崎に投下された。と聞いたけど。
新潟は8月2日の時点で原爆投下候補から外されていましたので原爆を積んだB29が新潟に向かった事実はありません。候補から外れた理由は「工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当」と米軍に判断されたためです。
結果だけ見ると早く降伏しとけばよかったのに…ってなるけど、当時今より海外の情報も入りにくいだろうし、戦争に負けたら死ぬより酷い目に合うって思っててもしょうがないよなあ
広島市は人口100万人くらいの印象だったのですが、1940年代は人口40万人程度だった事を最近知りました。つまり今まで原爆で亡くなったのは人口の10%くらいだと思っていたのですが実際には25%だった事に気づいた時はゾッとしました
12:45 長崎は造船所狙うとの理由があったけど、海から離れた浦上地区に原爆落ちる。長崎原爆が誤爆と言われる所以。実際長崎行ったことあるけど、原爆跡地とか廻ってると、誤爆感ありありなのです。
長崎は第二目標。第一目標の北九州が視界不良の為 長崎に向かったが、長崎も雲で覆われていた。雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。そこが、投下地点。
なぜかって日本帝国がいつまでも戦争を続けたかららしいけど。
アメリカの資料もっとよく見よう。(知らんが何かかいてある希ガス)
でも、1945年の約10年後には、アメリカが水爆実験してるんだから広島と長崎にはほぼさつがいのためじゃねぇかって思ってしまう。
長崎にはキリスト教の教会がたくさんあったけど、当然原爆の衝撃でボロボロになり、キリスト教が中心のアメリカではその写真が公開されることはなかったと聞く。未だに三発目の原爆が戦闘で使われないのは、あまりにもすさまじい威力と、その後の放射能の被害の大きさが制御不可能だからだと思われる。現在の核兵器の威力は広島長崎とは比べものにならない程の破壊力になっており、三発目が戦闘で使われた時に世界各地で核兵器の報復合戦となり、人類は終わるだろう。
浦上天主堂を 原爆ドームの様に 破壊されたまま残す予定だったのを、アメリカは 必死に建て替えましたね。
広島の原爆資料館には1996年に中学の修学旅行で、長崎の原爆資料館には1989年位と1993年は修学旅行で行きましたね。
新潟県長岡市左近町には模擬原子爆弾が落とされました
あぁパンプキン爆弾の事ですね。
お疲れさまです、それは、福岡ですか?
ついにネットに蔓延るデマの情報を流すUA-camrもでてきたか!
両親共に京都出身で、戦時下は祖親世代一族郎党、出征していた一部の男性以みんな京都で生活してた。もし京都に投下されてたら今の自分は間違いなく生まれてなかったよ。なんかそう考えると怖い。
広島では12人のアメリカ人捕虜が爆心地から1.2km程の位置で被曝しました。
残念ながらまだ行った事がありません。平和教育はとても大事ですね🙇いつ核戦争が起きるか分からないですから。しかも今の核は威力がメガトン級の弾道ミサイルですから。
日本が降伏しなかったのは「正気じゃなかった」と言うのはどうでしょうか。わかった上でそう書かれたんだと思いますが、継戦方法(軍部、皇族の移転等)やアメリカ兵に被害を出すことによる少しでも有利な降伏方法、何より昭和天皇がどのように扱われるか解らない、と言った軍部は冷静だったと思いますよ。当然末端には「正気じゃない」人は大勢いてましたけど。だからこそ昭和天皇が自分がどうなってもいいから降伏する様に(当然本当かどうかは異論あると思いますが)言ったからこそ降伏したのでしょうけど。実際、玉音放送流すまでに「正気とは思えない」狂信的な戦争継続派や天皇崇拝者からの恐ろしいまでの妨害もあったそうですが。
19発です。
二発の爆弾の次にさらにどんなタイプの爆弾を実験しようとしてたの?
興味深く見させてもらいました。むろん私にも意見がたくさんあります。だが、すべて書き込むとコメント欄がパンクしても到底足りなくなるので、わずかな事だけ述べさせて下さい。原子爆弾研究が最も進んでいたのがアメリカ・ドイツ・ソ連との指摘には異論があります。確かにドイツも原爆製造を目指していましたが、もともとアメリカに比べれば国力は小さく、ユダヤ人迫害で多くの優れた科学者がアメリカに移住・亡命するなどで遅れを取っていました。ヨーロッパからたくさんの科学者を受け入れたアメリカが圧倒的優位に立ったのも間違いない。後に明らかにされた所によれば、ドイツは原子爆弾製造の前段階である原子炉建設の時点でイギリスの妨害によって挫折しており、原爆を完成する可能性はありませんでした。トルーマン大統領に、ドイツに先駆けての原爆開発を進言したアインシュタインが、「ドイツが原爆を作れないと知っていたら、私は指一本動かさなかっただろう」と後悔した逸話はよく知られています。ソ連は更に遅れていて、アメリカに潜入させたスパイが原子爆弾の資料を盗み出し、ようやく完成しました。この点に関し、ソ連、それに日本の左翼は、ソ連が原爆の資料を盗んだというのはソ連の評判を落とすためのアメリカによるデマだと主張していましたが、ソ連が最初の原爆実験を行なったのが終戦後4年もたってからと遅かった事から見れば、アメリカからデータを盗んだと見られても致し方ありますまい。「戦陣訓」についても、これを発表したのが東条英機という事もあって悪評が高い。これについても論じているとさらに長文になるので、今回はこれまで。
資料館に行った事有りますよ。まぁ、左翼のサタニストが起こした終末思想の戦争だし、宇宙人が関わっていると思われるので、お好み焼きとちゃんぽんを作りたかっただけかも知れないです。
長崎県民です。父が被爆者でした。私が小学生の時、先生からお父さんに「その時の様子を聞いてきて、みんなの前で発表しなさい。」父に尋ねると温厚な父が「うるさい。」と怒鳴りました。母が「まだ旧制中学校の生徒だった若かったお父さんには身内の人が大勢死に、焼け焦げた人を沢山見た経験は、思い出したくないのよ。」説明されました。小学校の若い先生には、不熱心な子だと嫌われたようです。でも、何らかの形で伝えるべきだと思います。ぜひ今後とも配信をご努力ください。
ありがとうございます!
返信ありがとうございます
京都が原爆投下の筆頭候補だったが
矮小な盆地なので原爆の効果確認に不向きなので外されました。
4つの目標都市のうち 京都が次の理由から第一候補地とされていた。
人口100万を超す大都市であること。
日本の古都であること。
多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
小さな軍需工場が多数存在していること。
原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。
しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官が強く反対した。(1945年6月14日、京都市が除外)
@@ジョージアS 長官の反対はデマのようです。
小学生の子供と視聴しました。私も子供もすごく勉強になり、また戦争と平和について考える機会をいただきました。
ありがとうございます。
小倉でしたよね?小倉に投下予定が天候や状況が悪くて、急遽長崎に変更になったって読んだ事があります。
小倉が雨だったから長崎に。
投下前日の8月8日に隣町の八幡が空襲に遭ったので、その煙で目標確認ができなかったということです。原爆投下はトップシークレットだったので爆撃情報の共有ができなかったようです。
長崎はキリスト教会の真上に原爆投下した。
広島市で言えば相生橋みたいな爆撃目標地点を、たしか爆撃手・機長・副機長の3人が目視確認して意見が一致したら、投下可能だったかな?
先行していた気象観測機の連絡では爆撃可能でしたが、小倉市へ向かいましたが前日の小規模な空襲の火災の影響で煙が漂っており、なおかつ霧とゆうかガスがかかっており、3往復?しましたが目標の意見が一致しなかったんよ。
ボックスカーは燃料系統にトラブルを抱えており、日本側の迎撃機が上昇してきた事もあり、急遽長崎市へ投下目標を変更した経緯です。
長崎市も、あいにく雲におおわれてましたが、地表が目視確認出来た地点があり、そこが爆心地の浦上地区でして、本来は出島の東側2~3キロの地点だったかな?
3発目があるなら確実に小倉市でしょうし、あとは新潟市が候補地に入ってたから4発目で、次は分かりかねます。
まぁ~11月?には鹿児島県の吹上浜と千葉県の九十九里浜へ上陸予定が入っており、原爆の製造が間に合ってなかったから、当分原爆の投下は無かったと思いますよ?
数年前の新聞記事で「八幡製鉄所で煙幕を焚いた。」とする記事がありまして、「その所為で長崎の人が多く犠牲となったことを悼み、70余年、話すことが出来なかった。」とのことでした。
当時は軍や特高警察などが検閲したり、「危険思想」の人たちを暴行聴取したり突然連行したりと人権蹂躙甚だしいことが行われていたので、言えなかったということ、またどの都市でも持ち場を離れず消火せよ、戦争に協力せよというのがありましたから、かなりつらい思いをされたことが容易に想像できます。大阪でも「大空襲の際に地下鉄が走り業火の中から午前2時〜4時の間逃げる人々を安全な場所まで搬送し続けた。」と所々伝えられているようですが、当時国家総動員が決まっていましたから、勝手に走らせることができないはずの地下鉄が、走ることができない時間帯になぜ走ったのかはまだ分かっていないとされます。おそらく軍部の知らないところで大阪市民の安全を優先して軍や特高警察にはお構いなしで対応した駅員がいるはずですが、今でも分かりません。
なお、新潟には当時の10円兌換紙幣に似せた紙で作製された「伝単」なるものが相当数当時の米軍機より撒かれ、近々新型爆弾を投下する旨が書かれていたことから、日本の軍部はそのようなことは真実ではないと伝単回収を断行、火消しに回りますが、パニックになった新潟市民が終戦間際に新潟市街に逃げようとしたという話が残っております。
長崎原爆史料館にも来てくれるか
案内する!! 幼い妹を背負う兄の立ち姿は泣ける!! 戦争に負けたからの命 恐いもんは無い!! 今の相手は中国 韓国 北朝鮮 ロシア 負けない 岸田下ろしを!! 長崎生まれ!
これには色々諸説があるが金沢も候補地だった
富山に福井はすでに空襲を受けていた(福井は更に地震のすぐ後に水害のトリプルパンチ)
今年広島の方に行きました。海外の方がたくさんおりました。
序盤はまだ笑顔が見られた人達が後半に近付くにつれて表情か暗くなって行くのが印象的でした。
失礼かも知れませんが、日本人の団体は終始変わらぬ表情でした。これが平和ボケってことなのかなぁ…と思わされました。
新潟に投下する予定が曇ってたので、広島、小倉に投下予定が又曇ってたので長崎に投下された。と聞いたけど。
新潟は8月2日の時点で原爆投下候補から外されていましたので原爆を積んだB29が新潟に向かった事実はありません。候補から外れた理由は「工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当」と米軍に判断されたためです。
結果だけ見ると早く降伏しとけばよかったのに…ってなるけど、当時今より海外の情報も入りにくいだろうし、戦争に負けたら死ぬより酷い目に合うって思っててもしょうがないよなあ
広島市は人口100万人くらいの印象だったのですが、1940年代は人口40万人程度だった事を最近知りました。
つまり今まで原爆で亡くなったのは人口の10%くらいだと思っていたのですが実際には25%だった事に気づいた時はゾッとしました
12:45 長崎は造船所狙うとの理由があったけど、海から離れた浦上地区に原爆落ちる。
長崎原爆が誤爆と言われる所以。
実際長崎行ったことあるけど、原爆跡地とか廻ってると、誤爆感ありありなのです。
長崎は第二目標。
第一目標の北九州が視界不良の為 長崎に向かったが、長崎も雲で覆われていた。
雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。
そこが、投下地点。
なぜかって日本帝国がいつまでも戦争を続けたかららしいけど。
アメリカの資料もっとよく見よう。(知らんが何かかいてある希ガス)
でも、1945年の約10年後には、アメリカが水爆実験してるんだから広島と長崎にはほぼさつがいのためじゃねぇかって思ってしまう。
長崎にはキリスト教の教会がたくさんあったけど、当然原爆の衝撃でボロボロになり、キリスト教が中心のアメリカではその写真が公開されることはなかったと聞く。
未だに三発目の原爆が戦闘で使われないのは、あまりにもすさまじい威力と、その後の放射能の被害の大きさが制御不可能だからだと思われる。
現在の核兵器の威力は広島長崎とは比べものにならない程の破壊力になっており、三発目が戦闘で使われた時に世界各地で核兵器の報復合戦となり、人類は終わるだろう。
浦上天主堂を 原爆ドームの様に 破壊されたまま残す予定だったのを、アメリカは 必死に建て替えましたね。
広島の原爆資料館には1996年に中学の修学旅行で、長崎の原爆資料館には1989年位と1993年は修学旅行で行きましたね。
新潟県長岡市左近町には模擬原子爆弾が落とされました
あぁパンプキン爆弾の事ですね。
お疲れさまです、それは、福岡ですか?
返信ありがとうございます
ついにネットに蔓延るデマの情報を流すUA-camrもでてきたか!
両親共に京都出身で、戦時下は祖親世代一族郎党、出征していた一部の男性以みんな京都で生活してた。
もし京都に投下されてたら今の自分は間違いなく生まれてなかったよ。
なんかそう考えると怖い。
広島では12人のアメリカ人捕虜が爆心地から1.2km程の位置で被曝しました。
残念ながらまだ行った事がありません。平和教育はとても大事ですね🙇いつ核戦争が起きるか分からないですから。しかも今の核は威力がメガトン級の弾道ミサイルですから。
日本が降伏しなかったのは「正気じゃなかった」と言うのはどうでしょうか。わかった上でそう書かれたんだと思いますが、継戦方法(軍部、皇族の移転等)やアメリカ兵に被害を出すことによる少しでも有利な降伏方法、何より昭和天皇がどのように扱われるか解らない、と言った軍部は冷静だったと思いますよ。当然末端には「正気じゃない」人は大勢いてましたけど。
だからこそ昭和天皇が自分がどうなってもいいから降伏する様に(当然本当かどうかは異論あると思いますが)言ったからこそ降伏したのでしょうけど。
実際、玉音放送流すまでに「正気とは思えない」狂信的な戦争継続派や天皇崇拝者からの恐ろしいまでの妨害もあったそうですが。
19発です。
二発の爆弾の次にさらにどんなタイプの爆弾を実験しようとしてたの?
興味深く見させてもらいました。むろん私にも意見がたくさんあります。だが、すべて書き込むとコメント欄がパンクしても到底足りなくなるので、わずかな事だけ述べさせて下さい。
原子爆弾研究が最も進んでいたのがアメリカ・ドイツ・ソ連との指摘には異論があります。確かにドイツも原爆製造を目指していましたが、もともとアメリカに比べれば国力は小さく、ユダヤ人迫害で多くの優れた科学者がアメリカに移住・亡命するなどで遅れを取っていました。ヨーロッパからたくさんの科学者を受け入れたアメリカが圧倒的優位に立ったのも間違いない。後に明らかにされた所によれば、ドイツは原子爆弾製造の前段階である原子炉建設の時点でイギリスの妨害によって挫折しており、原爆を完成する可能性はありませんでした。トルーマン大統領に、ドイツに先駆けての原爆開発を進言したアインシュタインが、「ドイツが原爆を作れないと知っていたら、私は指一本動かさなかっただろう」と後悔した逸話はよく知られています。
ソ連は更に遅れていて、アメリカに潜入させたスパイが原子爆弾の資料を盗み出し、ようやく完成しました。この点に関し、ソ連、それに日本の左翼は、ソ連が原爆の資料を盗んだというのはソ連の評判を落とすためのアメリカによるデマだと主張していましたが、ソ連が最初の原爆実験を行なったのが終戦後4年もたってからと遅かった事から見れば、アメリカからデータを盗んだと見られても致し方ありますまい。
「戦陣訓」についても、これを発表したのが東条英機という事もあって悪評が高い。これについても論じているとさらに長文になるので、今回はこれまで。
資料館に行った事有りますよ。まぁ、左翼のサタニストが起こした終末思想の戦争だし、宇宙人が関わっていると思われるので、お好み焼きとちゃんぽんを作りたかっただけかも知れないです。