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[解説]海界の村を歩く 熊毛諸島(山口県)

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  • Опубліковано 22 лют 2021
  • 祝島
    上関港から南西16kmの波高い周防灘の東端にポッカリと浮かんでいる周囲12kmの島。祭祀が行われていたらしい巨石群もあり、古来行き交う航行安全を守る神霊の鎮まり給う島として崇められてきた。このことは都にも広くしられていて、「万葉集」にも登場する。今から、1000年以上前から伝承されている無形文化財「神舞神事」も四年に一回行われている。江戸時代には岩見島と呼ばれていた。かつては冬期に酒造杜氏として各地で出稼ぎをすることで知られていた。主産業は農漁業。ビワ、ミカン、サヨリ、タイなど特産品も豊富で、現在ブランド化を進めている。独特な石垣をめぐらせた町並みが美しい島である。(「シマダス」参考)
    祝島の集落は一カ所。このような小さな島にしては、比較的大きい。しかも、密集している一軒一軒の屋敷が大きく、一定の繁栄を経験した姿であろう。石積みを土で塗り固めた練塀は、各地で見られないことはないが、丸石を積んだものは珍しい。白地(茶色地)に石がポツポツと図を作り、大変美しいものである。この辺りは台風の通り道になることが多く、季節風も強いようで、防風と密集地であるがゆえの延焼防止を目的に築かれたものであろう。島里の景観としては、全国でも一二を競うものである。
    八島
    上関港の南約12kmの山口県最南端に位置する。南北に細長く、中部は平地になっているため1島であるが2島の観がある。古くは屋嶋・矢嶋とも記されていた。島内からは弥生式土器・土師器は出土している。かつては北部の古浦に集落があったが、現在は八島港の周辺に集中している。明治以降、ハワイへの移住者を多く出した島としても知られている。最近まで牛の放牧が営まれていた。観光事業としてキャンプ場を設置して島の振興を図っている。(「シマダス」参照)
    島へは室津半島先端の上関港から高速艇で約50分。島の中間あたりの北斜面から平地にかけて集落が形成されている。港から緩やかに上るメインストリートに、島とは思えない立派な家が並ぶ。隣の祝島は、練塀の特徴的な集落であるが、八島は異なるスタイルである。町並み度的には、どちらも負けず劣らずの一級品の島里である。
    佐合島
    平生町佐賀地区の南西海上1.9km、瀬戸内海国立公園内にある島。北と南に100mを超える山があり、ほとんどが丘陵傾斜地で、平たん地は5%程度にすぎない。古くは佐郷島・佐河島とも記され、中世には京都賀茂社領があったと伝えられる。慶長5年(1600)の検地帳にも島の名がみえ、天保13年(1842)には694人、明治22年には975人の人口を数えている。今では農漁業とも衰退し、一本釣などが細々と続けられている。定年後、島に里帰りした人たちも多い。美しい海岸には自然の薬草が自生、また潮干狩や岩場でのフィッシングが楽しめ、とくに夏場は海水浴客で賑わう。(「シマダス」参照)
    佐合島へは、室津半島の西岸にある佐賀港より船が出る。沖合約1.9kmと肉眼で家々が見えるほどの近さで所要時間8分。集落は一か所で、半島側を望む島の東側、弓なりの砂丘上に形成されている。農漁業が衰退しているため、空き家が多いが、割と気軽に渡れる距離でありビーチがあるためか、島外からの訪問者が多い。
    馬島
    田布施町の麻里府港から南へ2.6km、瀬戸内海国立公園の中にある島。平安時代から馬を飼育する馬牧として「馬飼い島」と呼ばれ、後年馬島になったといわれる。文治2年(1186)以降に開拓され、水軍の根拠地となったこともあるという。江戸時代には海運業が営まれ、瀬戸内海沿岸航路の重要な中継地となっていた。沿岸漁業が盛んであり、冬場でも釣り客が多く訪れ、岩場や遊漁船で釣る人の姿が多くみられる。白い砂浜が円弧を描く入江は海水浴に最適で、夏には大勢の海水浴客など、たくさんの観光客を集めている。(「シマダス」参照)
    室津半島の付け根近くの西側にある島で、佐合島と列をなしている。佐合島も砂浜が発達しており、両島とも海水浴でにぎわう島として、渡船の便数も多く、地域の人々から親しまれた島である。平地があり集落はゆったりと広がっているが、建っている家の数は少なかった。しかし、かつては海運業で栄えたようで、空き地にも屋敷跡の縁石が見られるので、以前はもっと家が建ち並んでいたのであろう。その集落の後ろから上っていく馬島八幡宮の参道は素晴らしい空間で、神社も立派であり、かつての繁栄ぶりを偲ぶことでいる。

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