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最近更新頻度が高くて助かってます戦国おじさんサイコー!
ありがとうございます!
最高の動画です。長宗我部氏はとても気になっていました。非常に勉強になりました。
金曜日にアップロードしてくださることが多いですね。1週間仕事頑張った後、お酒を飲みながら、この動画を見るのはすごく楽しみです。
投稿ありがとうございます。今回の内容も、そのときの諸将の生き残りのための判断を、肌に感じられるような緊張感でした。すばらしい動画、今後もお待ちしております。
いつものことながら、なぜこんなに方言が自然なのか。。。自分の地元しかわかりませんが、他の方言もいかにもそれっぽいのが凄いです!
待ってたぜェ!!この瞬間をよォ!!
本能寺ってマジでいろんな人達のターニングポイントだったんだな。
続き楽しみです!
山ばっかりなせいで動きようがないから野戦だの迂回だの取れる作戦の選択肢がほぼないせいでほぼ同じ条件になった太平洋戦争での島嶼戦みたいになってる大内といい三好といい一時的に天下を握った勢力なのに最後は線香花火みたいになってしまって
相変わらず良い涎出してますね💛
長宗我部プレイマジで好きだから、史実はマジうれしいわー。
いつも見てます♪
四国の戦いもなかなか激しいな
長宗我部元親さんの四国統一への道はなかなか険しかったのですね('ω')12:05息子さんの信親さんは信長さんから一字拝領されたのではなく自分から名付けていたのですね('ω')7:13一条兼定さんの暗〇計画があったのは初めて知りました。ゲーム「信長の野望-全国版-」では簡単に暗〇できる大名なんですけどね。なんなら四国統一は暗〇で可能という今考えたらすごいゲームだったなー('ω')
待ってました!
実休が生きてたら多分衝突してないと思うけど三好実休vs長宗我部元親見てみたいな
まってた!
四国に平地が殆ど無いのが改めて分かる
河野氏を「こうの」じゃなくて「かわの」と呼んでいて良いなと思いました。
平家物語や倭名類聚抄、蒙古襲来絵巻では「カワノ」だったのですが、いつの間にか「コウノ」に変わりましたね…。なぜ「コウノ」にウ音便したのか、歴史的にも興味深いテーマですね。
長宗我部三兄弟優秀すぎる…
ノブヤブやってても兄弟勢は結構使えますよね。
信長の野望もこういう国衆とか小大名同士の小競り合いをうまく楽しめたらいいのに
信長の時に助かった経験からか、秀吉が四国征伐で来た時も徹底抗戦やっちゃったね
せやかて大阪本拠の秀吉からしたら、地政学的に四国統一してる勢力があるというのは厳しいもんがあるよ
そもそもが光秀と秀吉の確執は長宗我部派か反長曾我部派かだったので。それまで長曾我部支援策だった方針を秀吉と堺衆が信長に讒訴して三好支援策に変更させた。本能寺の変が起きる直前の話。 堺は三好と関係が深くてその財力は秀吉も信長も必要だったので三好支援策に転じたものと思われる。 長宗我部支援策を推していた光秀が謀反起こしている時点で三好支援策派の秀吉に単純に従えるかどうかってこと。
地図が山と海しかねぇ・・・
信長の鳥なき島の蝙蝠と評したのはは江戸時代半ばになってから作られた話。鳥なき島というのならその島の勢力の残光に過ぎない三好三人衆にすら苦戦していた信長はどうなんだ?となる。 それにしても元親の戦略は調べれば調べるほどに上手い。讃岐や阿波では武力一辺倒で攻められたというイメージを持つ老人方が多いけど実際は攻める前に必ず調略と外交で屈服させて戦力を損なわない方法で侵攻している。そして屈服した国人を先鋒にその土地の敵対勢力を叩く。阿波の山岳地帯では山岳宗教の連合体を後押ししてその連合体の力で白地から讃岐西部へと侵攻している。 白地の大西氏らが服属したのもその連合体の影響はあっただろうし、豊臣政権になった時に各地の山岳部で一揆が起きているのもそのためだろう。 堺衆が豊臣・三好の支援に回って長曾我部の讒言を信長にしたことによって信長の四国戦略が変更。長曾我部の光秀や公家らが慌てたとの記録があって、その直後に本能寺の変が起きているところとか世間にあまり知られていない事実が埋もれているので当時の四国情勢はもっと研究されて欲しいと思います
土佐弁やっぱかっけえ
久武しかり、吉良親貞しかり大事な局面で死亡するの四国魔境過ぎる三好実休も確か戦死だったし
久武親信、福留親政の戦死は痛かった
久武親信の地位は弟の久武親直が継ぐ事になった。←オワタ
やっとキター!
仙石許すまじこいつのせいで
前の長宗我部元親の顔とちょっと違うような気がする前回から時間が空いたから、ではなくて、この時間軸よりあとの戸次川の戦いの動画でも同じ顔だったので
時間が空いたからというのは、投稿間隔が空いたからという意味ではないです。念のため。
お遍路やってるとわかるわだけど四国八十八か所の大半のお寺を焼き尽くしてんだよな、この人。
焼かれたという由緒は江戸末期に創られたものですしほかの勢力に焼かれたり元親が侵攻したときには既に破壊されていた寺も多いですよ。例として88番目の大窪寺は元親に焼かれたと説明していますが三好に焼かれたと各文書が書いてあります。寺の一番古い由緒「大窪寺密記」にも三好とは書いていませんが元親が来た時には既に焼かれていたと書かれています。寺がその文書や由緒禄を改ざんして元親に焼かれたと説明しています。 讃岐国分寺も焼かれたと説明していますがここには長曾我部軍(しかも讃岐国人中心の)が本陣を置いたとの記録があるだけで焼かれたという事実はなく寺の由緒禄にも焼かれたとは書いていませんし発掘調査でも焼かれた後は見つかっていません。 また、元親に否定的な三好の家臣が当時書いた昔阿波物語では長曾我部が焼いたという記録はなく、むしろ敵方の三好が焼いたとの記述があるのです。他にもひとつひとつあげて行けば枚挙に暇がありません。長曾我部は子孫がいないのでいろんな冤罪を擦り付けられているようです
なんでみんなよだれをたらしてるんだろう?きちがいだらけということか?
毛利輝元がスネ夫のモノマネで歌うUA-camrに見えて仕方ない
長宗我部元親に多分、先祖殺されてるわ!
ぜよ
常に名前出したほうがいい、ながら見してるから誰かわかんなくなって話の筋見失う
冷静に日本人、全国津々浦々で殺し合いしすぎだろ
西南戦争まで殺し合いをし 戦争に負けるまでは勇猛だった日本人を骨抜きにしたGHQの洗脳教育
長曾我部っていうのは信長が包囲網で苦戦してるなか、四国で信長のお墨付きという武威を借りて安全な戦いをして領土を広めてたに過ぎない。細川や三好は畿内で紛争があると阿波から援軍を得ていたが、長曾我部が信長を支援できるまでの勢力があったら信長も利用価値を認めて長曾我部を粗略に扱わなかったはず。鳥なき島の蝙蝠と揶揄されても仕方がない。本能寺の変は長曾我部にとっても息を吹き返すポイントだったが、そのあと秀吉と関係を築けなかったのが敗北。秀吉と敵対して小牧長久手で家康の誘いにのったけど、大坂を攻められず家康の信頼を裏切ったのが敗北。結局利用価値のない小狡いだけの田舎大名として名を残しちゃったな。
鳥なき島の蝙蝠は後世につくられたものですよ。それからもともと本能寺の変の前に秀吉は経済的理由から堺衆と関係を構築していて堺衆は三好と関係が深かった。秀吉と堺衆の信長への働きかけが信長の四国の方針を変更させてそれに光秀らが反発していた。光秀の謀反は反長曾我部の秀吉への反発が一因にあったのにそれをきっかけに秀吉と関係が築けなかったのが敗因というのはちょっとおかしい。 ちなみにそんな中でも元親は蜂須賀に書状を送って秀吉との関係構築をしようとしている。
成りあがりもの故、無謀に勝てない相手に勝負を挑むところは笑える。織田信長・豊臣・徳川の3者に戦いを挑んだのは長宗我部ぐらいなものだろう。
河野こうの、です
あっしもそれを思ったのですがウィキペディアでは「かわの(かはの)」とされてますね('ω')競輪みたいに、もともとは「きょうりん」と呼んでたのに鳴尾事件で「けいりん」と呼ばせるようになったとか(新聞で「狂輪」と書かれたため)不名誉な理由で現代の読み方が変わったわけでもなさそうですが('ω')
平家物語のどこに「こうの」と書かれているのか、証拠を見せてください。
地元ではこうのなんですよ✨方言大事にされてるから地元読みでいいんでは
@@たつ-i3y5i 分かっていますよ。でも地元と仰るならば、松山市湯築城の館長さんは「元の読みはカワノです」と仰っていましたよ。ですのでカワノがなぜコウノに変わったのか考えてみるのも良いかもしれませんね。少なくとも平安時代の最初から「コウノ」読みではありません。
最近更新頻度が高くて助かってます
戦国おじさんサイコー!
ありがとうございます!
最高の動画です。
長宗我部氏はとても気になっていました。非常に勉強になりました。
金曜日にアップロードしてくださることが多いですね。
1週間仕事頑張った後、お酒を飲みながら、この動画を見るのはすごく楽しみです。
投稿ありがとうございます。
今回の内容も、そのときの諸将の生き残りのための判断を、肌に感じられるような緊張感でした。
すばらしい動画、今後もお待ちしております。
いつものことながら、なぜこんなに方言が自然なのか。。。
自分の地元しかわかりませんが、他の方言もいかにもそれっぽいのが凄いです!
待ってたぜェ!!この瞬間をよォ!!
本能寺ってマジでいろんな人達のターニングポイントだったんだな。
続き楽しみです!
山ばっかりなせいで動きようがないから野戦だの迂回だの取れる作戦の選択肢がほぼないせいでほぼ同じ条件になった太平洋戦争での島嶼戦みたいになってる
大内といい三好といい一時的に天下を握った勢力なのに最後は線香花火みたいになってしまって
相変わらず良い涎出してますね💛
長宗我部プレイマジで好きだから、史実はマジうれしいわー。
いつも見てます♪
四国の戦いもなかなか激しいな
長宗我部元親さんの四国統一への道はなかなか険しかったのですね('ω')
12:05息子さんの信親さんは信長さんから一字拝領されたのではなく自分から
名付けていたのですね('ω')
7:13一条兼定さんの暗〇計画があったのは初めて知りました。
ゲーム「信長の野望-全国版-」では簡単に暗〇できる大名なんですけどね。なんなら
四国統一は暗〇で可能という今考えたらすごいゲームだったなー('ω')
待ってました!
実休が生きてたら多分衝突してないと思うけど三好実休vs長宗我部元親見てみたいな
まってた!
四国に平地が殆ど無いのが改めて分かる
河野氏を「こうの」じゃなくて「かわの」と呼んでいて良いなと思いました。
平家物語や倭名類聚抄、蒙古襲来絵巻では「カワノ」だったのですが、いつの間にか「コウノ」に変わりましたね…。
なぜ「コウノ」にウ音便したのか、歴史的にも興味深いテーマですね。
長宗我部三兄弟優秀すぎる…
ノブヤブやってても兄弟勢は結構使えますよね。
信長の野望もこういう国衆とか小大名同士の小競り合いをうまく楽しめたらいいのに
信長の時に助かった経験からか、秀吉が四国征伐で来た時も徹底抗戦やっちゃったね
せやかて大阪本拠の秀吉からしたら、地政学的に四国統一してる勢力があるというのは厳しいもんがあるよ
そもそもが光秀と秀吉の確執は長宗我部派か反長曾我部派かだったので。それまで長曾我部支援策だった方針を秀吉と堺衆が信長に讒訴して三好支援策に変更させた。本能寺の変が起きる直前の話。 堺は三好と関係が深くてその財力は秀吉も信長も必要だったので三好支援策に転じたものと思われる。 長宗我部支援策を推していた光秀が謀反起こしている時点で三好支援策派の秀吉に単純に従えるかどうかってこと。
地図が山と海しかねぇ・・・
信長の鳥なき島の蝙蝠と評したのはは江戸時代半ばになってから作られた話。鳥なき島というのならその島の勢力の残光に過ぎない三好三人衆にすら苦戦していた信長はどうなんだ?となる。 それにしても元親の戦略は調べれば調べるほどに上手い。讃岐や阿波では武力一辺倒で攻められたというイメージを持つ老人方が多いけど実際は攻める前に必ず調略と外交で屈服させて戦力を損なわない方法で侵攻している。そして屈服した国人を先鋒にその土地の敵対勢力を叩く。阿波の山岳地帯では山岳宗教の連合体を後押ししてその連合体の力で白地から讃岐西部へと侵攻している。 白地の大西氏らが服属したのもその連合体の影響はあっただろうし、豊臣政権になった時に各地の山岳部で一揆が起きているのもそのためだろう。 堺衆が豊臣・三好の支援に回って長曾我部の讒言を信長にしたことによって信長の四国戦略が変更。長曾我部の光秀や公家らが慌てたとの記録があって、その直後に本能寺の変が起きているところとか世間にあまり知られていない事実が埋もれているので当時の四国情勢はもっと研究されて欲しいと思います
土佐弁やっぱかっけえ
久武しかり、吉良親貞しかり
大事な局面で死亡するの
四国魔境過ぎる
三好実休も確か戦死だったし
久武親信、福留親政の戦死は痛かった
久武親信の地位は
弟の久武親直が継ぐ事になった。←オワタ
やっとキター!
仙石許すまじ
こいつのせいで
前の長宗我部元親の顔とちょっと違うような気がする
前回から時間が空いたから、ではなくて、
この時間軸よりあとの戸次川の戦いの動画でも同じ顔だったので
時間が空いたからというのは、投稿間隔が空いたからという意味ではないです。
念のため。
お遍路やってるとわかるわだけど
四国八十八か所の大半のお寺を焼き尽くしてんだよな、この人。
焼かれたという由緒は江戸末期に創られたものですしほかの勢力に焼かれたり元親が侵攻したときには既に破壊されていた寺も多いですよ。例として88番目の大窪寺は元親に焼かれたと説明していますが三好に焼かれたと各文書が書いてあります。寺の一番古い由緒「大窪寺密記」にも三好とは書いていませんが元親が来た時には既に焼かれていたと書かれています。寺がその文書や由緒禄を改ざんして元親に焼かれたと説明しています。 讃岐国分寺も焼かれたと説明していますがここには長曾我部軍(しかも讃岐国人中心の)が本陣を置いたとの記録があるだけで焼かれたという事実はなく寺の由緒禄にも焼かれたとは書いていませんし発掘調査でも焼かれた後は見つかっていません。 また、元親に否定的な三好の家臣が当時書いた昔阿波物語では長曾我部が焼いたという記録はなく、むしろ敵方の三好が焼いたとの記述があるのです。
他にもひとつひとつあげて行けば枚挙に暇がありません。長曾我部は子孫がいないのでいろんな冤罪を擦り付けられているようです
なんでみんなよだれをたらしてるんだろう?きちがいだらけということか?
毛利輝元がスネ夫のモノマネで歌うUA-camrに見えて仕方ない
長宗我部元親に多分、先祖殺されてるわ!
ぜよ
常に名前出したほうがいい、ながら見してるから誰かわかんなくなって話の筋見失う
冷静に日本人、全国津々浦々で殺し合いしすぎだろ
西南戦争まで殺し合いをし 戦争に負けるまでは勇猛だった日本人を骨抜きにしたGHQの洗脳教育
長曾我部っていうのは信長が包囲網で苦戦してるなか、四国で信長のお墨付きという武威を借りて安全な戦いをして領土を広めてたに過ぎない。
細川や三好は畿内で紛争があると阿波から援軍を得ていたが、長曾我部が信長を支援できるまでの勢力があったら信長も利用価値を認めて長曾我部を粗略に扱わなかったはず。
鳥なき島の蝙蝠と揶揄されても仕方がない。
本能寺の変は長曾我部にとっても息を吹き返すポイントだったが、そのあと秀吉と関係を築けなかったのが敗北。
秀吉と敵対して小牧長久手で家康の誘いにのったけど、大坂を攻められず家康の信頼を裏切ったのが敗北。
結局利用価値のない小狡いだけの田舎大名として名を残しちゃったな。
鳥なき島の蝙蝠は後世につくられたものですよ。それからもともと本能寺の変の前に秀吉は経済的理由から堺衆と関係を構築していて堺衆は三好と関係が深かった。秀吉と堺衆の信長への働きかけが信長の四国の方針を変更させてそれに光秀らが反発していた。光秀の謀反は反長曾我部の秀吉への反発が一因にあったのにそれをきっかけに秀吉と関係が築けなかったのが敗因というのはちょっとおかしい。 ちなみにそんな中でも元親は蜂須賀に書状を送って秀吉との関係構築をしようとしている。
成りあがりもの故、無謀に勝てない相手に勝負を挑むところは笑える。
織田信長・豊臣・徳川の3者に戦いを挑んだのは長宗我部ぐらいなものだろう。
河野
こうの、です
あっしもそれを思ったのですがウィキペディアでは「かわの(かはの)」と
されてますね('ω')
競輪みたいに、もともとは「きょうりん」と呼んでたのに鳴尾事件で「けいりん」と
呼ばせるようになったとか(新聞で「狂輪」と書かれたため)
不名誉な理由で現代の読み方が変わったわけでもなさそうですが('ω')
平家物語のどこに「こうの」と書かれているのか、証拠を見せてください。
地元ではこうのなんですよ✨方言大事にされてるから地元読みでいいんでは
@@たつ-i3y5i 分かっていますよ。
でも地元と仰るならば、松山市湯築城の館長さんは「元の読みはカワノです」と仰っていましたよ。
ですのでカワノがなぜコウノに変わったのか考えてみるのも良いかもしれませんね。
少なくとも平安時代の最初から「コウノ」読みではありません。