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この事故は私が生まれる前の事ですが伯母から話を聞いたりUA-camで見たりして知りショックを受けました。モハ63系という戦時中に作られた車両で安全は考えてない設計で燃えやすかったため多くの方々が苦しみながら亡くなって悲惨な事になりました。この事故は忘れてはいけないと思います。もっとたくさんの人に事件を知ってもらえるように桜木町にもっと大きな慰霊碑をつくり語り継がれて行く事が供養となる気がします。小田急タイムさんがこの事故を取り上げてくださった事は大変良かったと思います。ありがとうございます。
実は2024年の1月、京浜東北線の北与野近くで新幹線の架線が垂れ下がる事故が起きています。新幹線は燃えなかったものの、垂れ下がった架線で作業員が燃えてしまいました。脱出以前に送電を止める方法を考えないと事故は繰り返します。
「‥大事故であつたその責任を痛感し吾々が遭難された方々のご冥福を‥」事故からちょうど1年後の昭和27年4月24日には、観音菩薩像と慰霊碑が総持寺に建立されます。「吾々」の代表は当時の東京駅駅長と国労委員長、様々な事件の背景に国鉄労使の対立が取りざたされていましたが、桜木町事故は、労使の対立をはるかに超えた危機感を与えるものだったようです。
桜木町事件は本当に不幸な事故だったと思います。63系電車自体は、戦後の車輌不足・輸送力増強に貢献した車輌であったことは間違いないと思うのです。(戦災で疲弊した私鉄に送られ活躍した事からも間違いないと思います)ただ、屋根材が燃えやすい素材であったり客室窓が全開できなかったりといった戦時設計の弱点と、当時の関東の国電では貫通路が殆ど使われておらず貫通路扉も内開きであったため人が殺到して開けられなかったなどが悲劇につながったと言われていますね。事件以降の車輌改善で72系へと進化し、大都市圏に大量配備され高度経済成長を支えたことが救いでしょうか。
小さい頃から桜木町駅を利用してました。東横線によく乗っていましたが今では東急東横線の桜木町駅は廃止されてしまい寂しいものとなりました。桜木町駅地下にはゴールデンセンターがあり飲食店街があったのですが、今では様変わりしていまい、その面影も無くなってしまいましたね。残念です。
正に戦時形タイプによる旧型国電🚃(モハ63系)の火災事故ですね。これが教訓になって、新性能通勤電車🚃の101系が誕生するのですよね😢。私は、関西の出身なので、直近の事故で言えば、福知山線脱線事故は非常に衝撃的でした。JR西日本の日勤教育の常態化と過密ダイヤが引き起こした、事件を思い出します。時代背景は違いますが、今後、悲惨な列車事故が起きないことを切に願うばかりです✨。
事故から10年以上も経っていたが祖父から聞かされた3段窓が開かずに逃げられなかったと仏像のときは「りゅうぞう」(立像)と読んでほしいところ
生きたまま焼かれる…どんな苦痛だったのか涙が出てきちゃいます
今回も横浜周辺ですね👍サカタのタネの本社近くの反町公園をお願いたします。昔、博覧会があって、その後1960年台はジェットコースターやゴーカートなどがありました。近年まで、格納庫を転用したスケート場もありました。🙇
捜索お疲れさまでした。悲惨な事故でした。
窓が全開に出来ないどころか隣の車両にも移動できない、消火活動が始まり水をかけられても逆に蒸し焼き状態で、まさに焼け石に水だったようです😢
国民的漫画『サザエさん』でも、桜木町事故を題材にした回があったそうです。
いろいろな不運が重なり、犠牲となられた方のご冥福をお祈りするばかりです。霊能者の冝保愛子さんが、何度かこの電車に乗り合わせていたことを話しておられました。戦死されたお兄さんが守護霊として時々決定的なアドバイスをされたそうで、事故が発生する直前にひとつ前の駅で降りて、難を逃れたという話です。
Merci beaucoup pour cette vidéo et très bon week-end ! 👍🙏
桜木町のは自分が見た資料の本の中の写真では、黒焦げの死体や半焼け死体などの写真が生々しく載っていたなぁ…この資料の本は他にも色々な事件の死体写真が多数…当時の新聞社が発行した本。鶴見の事故の写真は生きてる救出者に、カンフル剤の点滴を打っている写真とかあった。鶴見の事故は親戚のおばさんが若い頃に、東京から横浜市内の実家に来て、東京に帰って数時間後に起きたらしい。
私は、いつものように桜木町から乗って、鶴見まで行っている。桜木町と思い浮かぶのが、桜木町事故の事が浮かんでくる。この事故が発生した年は、一番上の姉が生まれた年まだ姉が生まれてなかったため図書館で調べたら、パンダグラフが垂れかかっていた架線が引っかかりその炎症して火災が起こり多数の人が逃げ遅れた。原因だったらしいけど、
犠牲者の皆さんの魂が、今は安らかでありますようにと、祈らずにはいられません涙
桜木町事故。。。悲惨な事故ではありましたが、列車の安全設計の根本を変えたターニングポイントになったと思います。この事故を元にモハ63系は3段窓の中間を動かせるようになり、安全設計も強化した72系電車に生まれ変わりました。また車体を燃えにくくすると言う観点も、桜木町事故を契機に取り入れられるようになり数々の試作車が登場。試作車の集大成として事故から6年後、国鉄でも車体が全て金属で作られた電車が量産されるようになりました。忘れてはいけない事故だと思っています。
事故当時、海側にあった三菱重工横浜造船所に少年工として勤めていた方から話を聞いた事がありますが、高架線だったため救助にも行けず、燃え盛る車両を茫然と見るしかなかったとの事です。
懐かしの桜木町。最後に行ったのはもう30年以上も前・・・・・
27年前横浜に住んでましたが全く知りませんでしたただ桜木町駅に行くといつどんな時も気分が曇るが感じがあったのは今思えばそれが原因かなと横浜の繁華街なのに何故か気分がどんよりしてたので
父親から聞いたことがありますが、63系は後年いろいろな私鉄に払い下げられて、私の地元の東武鉄道でも走っていたらしいです。
車体を乗せ替えたものが7300系電車ですね。
桜木町事件を取り扱っていだだきおもしろかったです。できたら、荒川区の三河島事故も。もともと、荒川区は3本の川に’囲まれている所から、三河島郡という地名から郡だけ、荒川区から消え去りました。しかし、余りにも悲惨な事故でもあり、三河島という地名は成るべくかえたい、という地元民の声から、荒川区は三河島1~4丁目を全部荒川1~4丁目に地名変更をしたほどです。三河島事故の元々は、南千住の貨物操車場、への貨物を引く蒸気機関車が時間道理に間違えずに、地上から6メーター上の、今の高架線路に上り詰めたところ、上野発各駅停車客車が10分もおくれて三河島ホームを出発したこと、その信号や貨物の信号との接点にて、やっと重たい貨物を引っ張った蒸気機関車は、合流地点で、遅れてきた各駅停車の列車に、突っ込み、そのため機関車は横倒しになり、上野発の下り列車も、左からおされて、右側の登り線路に被さる様に客車が倒れ掛かり、そこへ登り列車が反対側から突っ込んだ、死傷者が200余名にも登る、ことで東京住の救急車をよんでも追い付かず、事故地点近くの病院は患者でごった返し、大変な事になりました。あまりに事故の死者たちの痛みが激しく、着ているものでも名前が判別付かない人々が30数名にも登り、それらは無縁仏として線路北側のお寺に納めた程でした。上野行き登り列車には夜間であったことで、線路をあるく人が次々と列車にj撥ね飛ばされ、ある人は6メーター高架線路下に撥ね飛ばされ、そのかずは約40名程にも登りました。この事故から、国鉄はやっと、全国にATC自動制御で止まる、装置を使った切っ掛けとなった程です。なぜゆえ地名まで変えなくテはならないのか、それは、余りにも悲惨なゆえでしょう。三河島3重事故を忘れないためにも、現地の当時の写真をなど、入れて今の三河島地区のどうがお願いします。当方、ロンドンにすんでますが、私が三河島事故知った野は、当方が7才の時でした。
「桜木町事件を取り扱っていだだきおもしろかったです。」面白かったです。ではなく良かったです。では?。
鉄道事故ではないですが、豊島区椎名町も町名を変更していますね。
遠く九州の田舎暮らしながら「昭和」という過ぎ去った青春時代を思い起こしながらいつも興味深く鑑賞しています。毎々小田急TIMEさまの企画と演出が心に沁みます。この番組の大ファンでありますから、気づきながら、非常にいらんことを(重箱の隅をつつくようですみません)申し上げます。鑑賞させていただくことに「疲れは全く感じません」むしろ、楽しみとありがたさしかありません。そこで、一番最初の小田急TIMEさまのご挨拶は「みなさまご機嫌いかがですか?」とか「今日もご視聴ありがとうございます」がお似合いだと思います。いつも楽しみに鑑賞させていただいています。いらぬお節介お許しください。
僕が生まれる前の事件です。ある本によると路線が高架というのもありますが、当時の消防士達が電線に放水しても大丈夫かと思って消火作業を拒んだ事が事を大きくした一面もあるらしいそうです。当然架線が雨に濡れる事はいくらでもあるのに何でためらったのか不思議だとありました。迷わず消火していればもう少し犠牲者を減らせたのではないかと思ってます
鉄道の架線に限らず、高圧電線に対して地上に足をつけた人間が放水したら感電しますよ。
安全設計の考えが無かった…事故が起きないと誰も考えないものなのかな
戦時設計の車両は資材が足りないので、安全性を犠牲にしました。
おふくろとおばあちゃんが この電車に乗る予定が早めについて 一本先に乗れたそうだ運よく回避できたので私は生まれてこれた
窓を割ろうと必死だっただろうなぁ想像しただけで地獄だ
事故の12年後に鶴見事故が起きる。
復興がだいぶすすんだ
間違いが有ります。消化では無く、消火です。
今だったら動画投稿すれば大バズりなのに😂
最低だなあんた
鉄道発祥の記念碑はあるのに、事故の碑は桜木町駅には無いんですね。殺人に近い事故なのに。
横浜勤務時代も感じましたが、慰霊碑とか事故を追悼する説明やモニュメントがあってもいいと思いますよね。あれだけの駅なのに,東のランドマーク側に比べて国道側はなぜかひっそりしてるイメージもあります。
この事故は私が生まれる前の事ですが伯母から話を聞いたりUA-camで見たりして知りショックを受けました。モハ63系という戦時中に作られた車両で安全は考えてない設計で燃えやすかったため多くの方々が苦しみながら亡くなって悲惨な事になりました。この事故は忘れてはいけないと思います。もっとたくさんの人に事件を知ってもらえるように桜木町にもっと大きな慰霊碑をつくり語り継がれて行く事が供養となる気がします。小田急タイムさんがこの事故を取り上げてくださった事は大変良かったと思います。ありがとうございます。
実は2024年の1月、京浜東北線の北与野近くで新幹線の架線が垂れ下がる事故が起きています。
新幹線は燃えなかったものの、垂れ下がった架線で作業員が燃えてしまいました。
脱出以前に送電を止める方法を考えないと事故は繰り返します。
「‥大事故であつたその責任を痛感し吾々が遭難された方々のご冥福を‥」事故からちょ
うど1年後の昭和27年4月24日には、観音菩薩像と慰霊碑が総持寺に建立されます。
「吾々」の代表は当時の東京駅駅長と国労委員長、様々な事件の背景に国鉄労使の対立が
取りざたされていましたが、桜木町事故は、労使の対立をはるかに超えた危機感を与える
ものだったようです。
桜木町事件は本当に不幸な事故だったと思います。
63系電車自体は、戦後の車輌不足・輸送力増強に貢献した車輌であったことは間違いないと思うのです。(戦災で疲弊した私鉄に送られ活躍した事からも間違いないと思います)
ただ、屋根材が燃えやすい素材であったり客室窓が全開できなかったりといった戦時設計の弱点と、当時の関東の国電では貫通路が殆ど使われておらず貫通路扉も内開きであったため人が殺到して開けられなかったなどが悲劇につながったと言われていますね。
事件以降の車輌改善で72系へと進化し、大都市圏に大量配備され高度経済成長を支えたことが救いでしょうか。
小さい頃から桜木町駅を利用してました。
東横線によく乗っていましたが今では東急東横線の桜木町駅は廃止されてしまい
寂しいものとなりました。桜木町駅地下にはゴールデンセンターがあり飲食店街があったのですが、
今では様変わりしていまい、その面影も無くなってしまいましたね。残念です。
正に戦時形タイプによる旧型国電🚃(モハ63系)の火災事故ですね。これが教訓になって、新性能通勤電車🚃の101系が誕生するのですよね😢。私は、関西の出身なので、直近の事故で言えば、福知山線脱線事故は非常に衝撃的でした。JR西日本の日勤教育の常態化と過密ダイヤが引き起こした、事件を思い出します。時代背景は違いますが、今後、悲惨な列車事故が起きないことを切に願うばかりです✨。
事故から10年以上も経っていたが祖父から聞かされた
3段窓が開かずに逃げられなかったと
仏像のときは「りゅうぞう」(立像)と読んでほしいところ
生きたまま焼かれる…どんな苦痛だったのか涙が出てきちゃいます
今回も横浜周辺ですね👍
サカタのタネの本社近くの反町公園をお願いたします。
昔、博覧会があって、その後1960年台はジェットコースターやゴーカートなどがありました。
近年まで、格納庫を転用したスケート場もありました。🙇
捜索お疲れさまでした。
悲惨な事故でした。
窓が全開に出来ないどころか隣の車両にも移動できない、
消火活動が始まり水をかけられても逆に蒸し焼き状態で、まさに焼け石に水だったようです😢
国民的漫画『サザエさん』でも、桜木町事故を題材にした回があったそうです。
いろいろな不運が重なり、犠牲となられた方のご冥福をお祈りするばかりです。
霊能者の冝保愛子さんが、何度かこの電車に乗り合わせていたことを話しておられました。
戦死されたお兄さんが守護霊として時々決定的なアドバイスをされたそうで、
事故が発生する直前にひとつ前の駅で降りて、難を逃れたという話です。
Merci beaucoup pour cette vidéo et très bon week-end ! 👍🙏
桜木町のは自分が見た資料の本の中の写真では、
黒焦げの死体や半焼け死体などの写真が生々しく載っていたなぁ…
この資料の本は他にも色々な事件の死体写真が多数…
当時の新聞社が発行した本。
鶴見の事故の写真は生きてる救出者に、
カンフル剤の点滴を打っている写真とかあった。
鶴見の事故は親戚のおばさんが若い頃に、
東京から横浜市内の実家に来て、
東京に帰って数時間後に起きたらしい。
私は、いつものように桜木町から乗って、鶴見まで行っている。桜木町と思い浮かぶのが、桜木町事故の事が浮かんでくる。この事故が発生した年は、一番上の姉が生まれた年まだ姉が生まれてなかったため図書館で調べたら、パンダグラフが垂れかかっていた架線が引っかかりその炎症して火災が起こり多数の人が逃げ遅れた。原因だったらしいけど、
犠牲者の皆さんの魂が、今は安らかでありますようにと、祈らずにはいられません涙
桜木町事故。。。悲惨な事故ではありましたが、列車の安全設計の根本を変えたターニングポイントになったと思います。
この事故を元にモハ63系は3段窓の中間を動かせるようになり、安全設計も強化した72系電車に生まれ変わりました。
また車体を燃えにくくすると言う観点も、桜木町事故を契機に取り入れられるようになり数々の試作車が登場。
試作車の集大成として事故から6年後、国鉄でも車体が全て金属で作られた電車が量産されるようになりました。
忘れてはいけない事故だと思っています。
事故当時、海側にあった三菱重工横浜造船所に少年工として勤めていた方から話を聞いた事がありますが、高架線だったため救助にも行けず、燃え盛る車両を茫然と見るしかなかったとの事です。
懐かしの桜木町。最後に行ったのはもう30年以上も前・・・・・
27年前横浜に住んでましたが全く知りませんでした
ただ桜木町駅に行くといつどんな時も気分が曇るが感じがあったのは今思えばそれが原因かなと
横浜の繁華街なのに何故か気分がどんよりしてたので
父親から聞いたことがありますが、63系は後年いろいろな私鉄に払い下げられて、
私の地元の東武鉄道でも走っていたらしいです。
車体を乗せ替えたものが7300系電車ですね。
桜木町事件を取り扱っていだだきおもしろかったです。
できたら、荒川区の三河島事故も。
もともと、荒川区は3本の川に’囲まれている所から、三河島郡という地名から郡だけ、荒川区から消え去りました。
しかし、余りにも悲惨な事故でもあり、三河島という地名は成るべくかえたい、という地元民の声から、荒川区は三河島1~4丁目を全部荒川1~4丁目に地名変更をしたほどです。
三河島事故の元々は、南千住の貨物操車場、への貨物を引く蒸気機関車が時間道理に間違えずに、地上から6メーター上の、今の高架線路に上り詰めたところ、上野発各駅停車客車が10分もおくれて三河島ホームを出発したこと、その信号や貨物の信号との接点にて、やっと重たい貨物を引っ張った蒸気機関車は、合流地点で、遅れてきた各駅停車の列車に、突っ込み、そのため機関車は横倒しになり、上野発の下り列車も、左からおされて、右側の登り線路に被さる様に客車が倒れ掛かり、そこへ登り列車が反対側から突っ込んだ、死傷者が200余名にも登る、ことで東京住の救急車をよんでも追い付かず、事故地点近くの病院は患者でごった返し、大変な事になりました。
あまりに事故の死者たちの痛みが激しく、着ているものでも
名前が判別付かない人々が30数名にも登り、それらは無縁仏として線路北側のお寺に納めた程でした。
上野行き登り列車には夜間であったことで、線路をあるく人が次々と列車にj撥ね飛ばされ、ある人は6メーター高架線路下に撥ね飛ばされ、そのかずは約40名程にも登りました。この事故から、国鉄はやっと、全国にATC自動制御で止まる、装置を使った切っ掛けとなった程です。
なぜゆえ地名まで変えなくテはならないのか、それは、余りにも悲惨なゆえでしょう。
三河島3重事故を忘れないためにも、現地の当時の写真をなど、入れて今の三河島地区のどうがお願いします。
当方、ロンドンにすんでますが、私が三河島事故知った野は、当方が7才の時でした。
「桜木町事件を取り扱っていだだきおもしろかったです。」面白かったです。ではなく良かったです。では?。
鉄道事故ではないですが、豊島区椎名町も町名を変更していますね。
遠く九州の田舎暮らしながら「昭和」という過ぎ去った青春時代を思い起こしながらいつも興味深く鑑賞しています。
毎々小田急TIMEさまの企画と演出が心に沁みます。この番組の大ファンでありますから、気づきながら、非常にいらんことを(重
箱の隅をつつくようですみません)申し上げます。鑑賞させていただくことに「疲れは全く感じません」むしろ、楽しみとありがたさしか
ありません。そこで、一番最初の小田急TIMEさまのご挨拶は「みなさまご機嫌いかがですか?」とか「今日もご視聴ありがとうござい
ます」がお似合いだと思います。いつも楽しみに鑑賞させていただいています。いらぬお節介お許しください。
僕が生まれる前の事件です。ある本によると路線が高架というのもありますが、当時の消防士達が電線に放水しても大丈夫かと思って消火作業を拒んだ事が事を大きくした一面もあるらしいそうです。当然架線が雨に濡れる事はいくらでもあるのに何でためらったのか不思議だとありました。迷わず消火していればもう少し犠牲者を減らせたのではないかと思ってます
鉄道の架線に限らず、高圧電線に対して地上に足をつけた人間が放水したら感電しますよ。
安全設計の考えが無かった…
事故が起きないと誰も考えないものなのかな
戦時設計の車両は資材が足りないので、安全性を犠牲にしました。
おふくろとおばあちゃんが この電車に乗る予定が早めについて 一本先に乗れたそうだ
運よく回避できたので私は生まれてこれた
窓を割ろうと必死だっただろうなぁ
想像しただけで地獄だ
事故の12年後に鶴見事故が起きる。
復興がだいぶすすんだ
間違いが有ります。
消化では無く、消火です。
今だったら動画投稿すれば大バズりなのに😂
最低だなあんた
鉄道発祥の記念碑はあるのに、事故の碑は桜木町駅には無いんですね。殺人に近い事故なのに。
横浜勤務時代も感じましたが、慰霊碑とか事故を追悼する説明やモニュメントがあってもいいと思いますよね。あれだけの駅なのに,東のランドマーク側に比べて国道側はなぜかひっそりしてるイメージもあります。