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嗚呼、、あああー、しびれる、幾春別、懐かしい、いい思い出、
懐かしい。鉄道博物館や巨大アンモナイト等見て回ったなあ。更科食堂で食べましたよ。当時は由来を知らなかったので、ちょこちょこ聞いたような。旧市街地は更地になっていた一方で、でかいイオンモールがあったのには驚いた。
昔を思い出す、幾春別、隣り近所も思い出の中に、、あの子はどうしているかな、80才に向かってる。
炭鉱で栄た町は炭鉱の閉山で衰退、私の住んでる街は製鉄の衰退により人口減少が止まりません。それでも、大きな街ですが。
幾春別川が中学校裏手にありました、
炭鉱の町と言えば繁栄から衰退でゴーストタウンのイメージで前回の夕張ほど街の衰退してなさそうでしたね。
夕張は炭鉱閉山後に箱ものがたくさんつくられて、それがなくなったのも余計に影響しているかもしれませんね。
私は三笠の柳町で生まれました。父は当時、奔別炭鉱に勤めており、閉山の約一年前に離職しました。母は、婦人会で構内に入った事が有ると言っています。時々墓参りの際に縦構を見に寄ります。勿論お蕎麦も食べます😊
@@kingosaitoh789 わたくしは三笠の奔別でしたよ
母は奔別炭鉱病院で看護婦をしていた。懐かしい。
私は三笠の弥生緑町に住んでました。先週弥生から奔別までタクシーで周りましたが緑町は更地になって弥生小学校までの道も無かったので寂しかったです。父が閉山に伴い関東へ。子供の頃に過ごした弥生桜木町幾春別は良い想い出です。火曜日だったので更科食堂さんはお休みでした。
ルイ子さん、食堂の娘さんかな。、、
倉橋ルイ子の幾春別の詩を思い出した
桂沢湖から三笠に向かうと幾春別ですね、奔別炭鉱立坑櫓には何度も行きましたが、すぐ前がコンクリート製品工場かなんかでさすがに廃墟に入って行くことはできませんでした。最後に訪れたのが20年位前だけど、映像で見る町並みはずいぶん寂しくなりましたね、でも幾春別っていい地名ですね。幌内炭鉱は立坑櫓の幌内の文字は見てるのですが、いつも素通りでした。多分これから大廻りをして、美流渡から万字炭山を経て夕張へ出るコース(あるいは桂沢湖から真っすぐ清水沢に出るコース)だったので、時間もなかったのでしょう。芦別を早朝出発して、頼城に寄って三笠周りか清水沢周りで夕張を訪れて、その日のうちに札幌·小樽を越えるか、由仁から千歳へ出て支笏湖·洞爺湖越えるかして、いずれにしろ長万部を越えて函館に近づく段取り(天気によるけど)だったので、今思えばもっと各地の炭鉱遺跡を訪れれば良かったと悔やまれます。
日本再生の要でもあった訳だし、御疲れ様でした・・と声を掛けたいですね・・・
櫓の下には、数百メートルもの深さの坑道があってそんな恐るべき深さの場所で石炭を採掘していた人々がいたんですね。炭鉱発見の契機となった林業にしても、300年くらい前の原始の北海道の森に入って、岐阜からやってきたきこりたちが、ヒグマと戦いながら原始林の大木を伐採していたなんて信じられません。ただ、原始の大木をもう少し現代にも残しておいて欲しかったです。大木の林立する森に、巨大ヒグマ、オオカミのいる森を今も見る事ができたらなあ、とロマンに浸ってしまいますね。
炭鉱と林業は北海道の開拓の歴史では外せないものですね。ヒグマやオオカミがいる森…人間は近づけなさそうですが、そんな場所が少しはあってもいいかもですね。
7月の暑い日、小学校帰り道、立坑寄った、建物の中は、良い風で涼しくすごく気持ち良かった66年前のこと。懐かしい、
替此城市的悲慘命運感到傷心😂!
嗚呼、、あああー、しびれる、幾春別、懐かしい、いい思い出、
懐かしい。
鉄道博物館や巨大アンモナイト等見て回ったなあ。
更科食堂で食べましたよ。
当時は由来を知らなかったので、ちょこちょこ聞いたような。
旧市街地は更地になっていた一方で、でかいイオンモールがあったのには驚いた。
昔を思い出す、幾春別、隣り近所も思い出の中に、、あの子はどうしているかな、80才に向かってる。
炭鉱で栄た町は炭鉱の閉山で衰退、
私の住んでる街は製鉄の衰退により人口減少が止まりません。
それでも、大きな街ですが。
幾春別川が中学校裏手にありました、
炭鉱の町と言えば繁栄から衰退でゴーストタウンのイメージで前回の夕張ほど街の衰退してなさそうでしたね。
夕張は炭鉱閉山後に箱ものがたくさんつくられて、それがなくなったのも余計に影響しているかもしれませんね。
私は三笠の柳町で生まれました。
父は当時、奔別炭鉱に勤めており、閉山の約一年前に離職しました。
母は、婦人会で構内に入った事が有ると言っています。
時々墓参りの際に縦構を見に寄ります。勿論お蕎麦も食べます😊
@@kingosaitoh789 わたくしは三笠の奔別でしたよ
母は奔別炭鉱病院で看護婦をしていた。懐かしい。
私は三笠の弥生緑町に住んでました。
先週弥生から奔別までタクシーで周りましたが緑町は更地になって弥生小学校までの道も無かったので寂しかったです。
父が閉山に伴い関東へ。
子供の頃に過ごした弥生桜木町幾春別は良い想い出です。火曜日だったので更科食堂さんはお休みでした。
ルイ子さん、食堂の娘さんかな。、、
倉橋ルイ子の幾春別の詩を思い出した
桂沢湖から三笠に向かうと幾春別ですね、奔別炭鉱立坑櫓には何度も行きましたが、すぐ前がコンクリート製品工場かなんかでさすがに廃墟に入って行くことはできませんでした。最後に訪れたのが20年位前だけど、映像で見る町並みはずいぶん寂しくなりましたね、でも幾春別っていい地名ですね。幌内炭鉱は立坑櫓の幌内の文字は見てるのですが、いつも素通りでした。多分これから大廻りをして、美流渡から万字炭山を経て夕張へ出るコース(あるいは桂沢湖から真っすぐ清水沢に出るコース)だったので、時間もなかったのでしょう。芦別を早朝出発して、頼城に寄って三笠周りか清水沢周りで夕張を訪れて、その日のうちに札幌·小樽を越えるか、由仁から千歳へ出て支笏湖·洞爺湖越えるかして、いずれにしろ長万部を越えて函館に近づく段取り(天気によるけど)だったので、今思えばもっと各地の炭鉱遺跡を訪れれば良かったと悔やまれます。
日本再生の要でもあった訳だし、御疲れ様でした・・と声を掛けたいですね・・・
櫓の下には、数百メートルもの深さの坑道があってそんな恐るべき深さの場所で石炭を採掘していた人々がいたんですね。炭鉱発見の契機となった林業にしても、300年くらい前の原始の北海道の森に入って、岐阜からやってきたきこりたちが、ヒグマと戦いながら原始林の大木を伐採していたなんて信じられません。ただ、原始の大木をもう少し現代にも残しておいて欲しかったです。大木の林立する森に、巨大ヒグマ、オオカミのいる森を今も見る事ができたらなあ、とロマンに浸ってしまいますね。
炭鉱と林業は北海道の開拓の歴史では外せないものですね。
ヒグマやオオカミがいる森…人間は近づけなさそうですが、そんな場所が少しはあってもいいかもですね。
7月の暑い日、小学校帰り道、立坑寄った、建物の中は、良い風で涼しくすごく気持ち良かった66年前のこと。懐かしい、
替此城市的悲慘命運感到傷心😂!
倉橋ルイ子の幾春別の詩を思い出した