【炭鉱のまち②】三笠の歴史と今(幾春別・奔別・幌内)

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  • Опубліковано 7 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 24

  • @aaaaaa-kb3ec
    @aaaaaa-kb3ec Місяць тому

    嗚呼、、あああー、しびれる、幾春別、懐かしい、いい思い出、

  • @FLAKPANZER2000
    @FLAKPANZER2000 Рік тому +2

    懐かしい。
    鉄道博物館や巨大アンモナイト等見て回ったなあ。
    更科食堂で食べましたよ。
    当時は由来を知らなかったので、ちょこちょこ聞いたような。
    旧市街地は更地になっていた一方で、でかいイオンモールがあったのには驚いた。

  • @aaaaaa-kb3ec
    @aaaaaa-kb3ec Місяць тому

    昔を思い出す、幾春別、隣り近所も思い出の中に、、あの子はどうしているかな、80才に向かってる。

  • @上村良治
    @上村良治 Рік тому +2

    炭鉱で栄た町は炭鉱の閉山で衰退、
    私の住んでる街は製鉄の衰退により人口減少が止まりません。
    それでも、大きな街ですが。

  • @aaaaaa-kb3ec
    @aaaaaa-kb3ec Місяць тому

    幾春別川が中学校裏手にありました、

  • @チャンやまもと
    @チャンやまもと Рік тому +3

    炭鉱の町と言えば繁栄から衰退でゴーストタウンのイメージで前回の夕張ほど街の衰退してなさそうでしたね。

    • @akihiroba
      @akihiroba  Рік тому +4

      夕張は炭鉱閉山後に箱ものがたくさんつくられて、それがなくなったのも余計に影響しているかもしれませんね。

    • @kingosaitoh789
      @kingosaitoh789 Рік тому +3

      私は三笠の柳町で生まれました。
      父は当時、奔別炭鉱に勤めており、閉山の約一年前に離職しました。
      母は、婦人会で構内に入った事が有ると言っています。
      時々墓参りの際に縦構を見に寄ります。勿論お蕎麦も食べます😊

    • @ガッチャマンー-u5f
      @ガッチャマンー-u5f Рік тому

      @@kingosaitoh789 わたくしは三笠の奔別でしたよ

    • @博愛竹原
      @博愛竹原 9 місяців тому

      母は奔別炭鉱病院で看護婦をしていた。懐かしい。

    • @saku-o3q
      @saku-o3q 6 місяців тому +1

      私は三笠の弥生緑町に住んでました。
      先週弥生から奔別までタクシーで周りましたが緑町は更地になって弥生小学校までの道も無かったので寂しかったです。
      父が閉山に伴い関東へ。
      子供の頃に過ごした弥生桜木町幾春別は良い想い出です。火曜日だったので更科食堂さんはお休みでした。

  • @aaaaaa-kb3ec
    @aaaaaa-kb3ec 2 дні тому

    ルイ子さん、食堂の娘さんかな。、、

  • @阿部剛-i1b
    @阿部剛-i1b 5 місяців тому

    倉橋ルイ子の幾春別の詩を思い出した

  • @伊東敏明-j2v
    @伊東敏明-j2v Рік тому +1

    桂沢湖から三笠に向かうと幾春別ですね、奔別炭鉱立坑櫓には何度も行きましたが、すぐ前がコンクリート製品工場かなんかでさすがに廃墟に入って行くことはできませんでした。最後に訪れたのが20年位前だけど、映像で見る町並みはずいぶん寂しくなりましたね、でも幾春別っていい地名ですね。幌内炭鉱は立坑櫓の幌内の文字は見てるのですが、いつも素通りでした。多分これから大廻りをして、美流渡から万字炭山を経て夕張へ出るコース(あるいは桂沢湖から真っすぐ清水沢に出るコース)だったので、時間もなかったのでしょう。芦別を早朝出発して、頼城に寄って三笠周りか清水沢周りで夕張を訪れて、その日のうちに札幌·小樽を越えるか、由仁から千歳へ出て支笏湖·洞爺湖越えるかして、いずれにしろ長万部を越えて函館に近づく段取り(天気によるけど)だったので、今思えばもっと各地の炭鉱遺跡を訪れれば良かったと悔やまれます。

  • @NEWLAYZNER
    @NEWLAYZNER Рік тому

    日本再生の要でもあった訳だし、御疲れ様でした・・と声を掛けたいですね・・・

  • @tigerbig8430
    @tigerbig8430 10 місяців тому

    櫓の下には、数百メートルもの深さの坑道があってそんな恐るべき深さの場所で石炭を採掘していた人々がいたんですね。炭鉱発見の契機となった林業にしても、300年くらい前の原始の北海道の森に入って、岐阜からやってきたきこりたちが、ヒグマと戦いながら原始林の大木を伐採していたなんて信じられません。ただ、原始の大木をもう少し現代にも残しておいて欲しかったです。大木の林立する森に、巨大ヒグマ、オオカミのいる森を今も見る事ができたらなあ、とロマンに浸ってしまいますね。

    • @akihiroba
      @akihiroba  10 місяців тому +1

      炭鉱と林業は北海道の開拓の歴史では外せないものですね。
      ヒグマやオオカミがいる森…人間は近づけなさそうですが、そんな場所が少しはあってもいいかもですね。

  • @aaaaaa-kb3ec
    @aaaaaa-kb3ec Місяць тому

    7月の暑い日、小学校帰り道、立坑寄った、建物の中は、良い風で涼しくすごく気持ち良かった66年前のこと。懐かしい、

  • @leonhsiung
    @leonhsiung Рік тому

    替此城市的悲慘命運感到傷心😂!

  • @阿部剛-i1b
    @阿部剛-i1b 5 місяців тому +2

    倉橋ルイ子の幾春別の詩を思い出した