Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
直江兼続はもめ事で訴えてきた者に「皆が納得出来る様に閻魔大王の御栽可を聞いて参れ」と斬ったのもあります。
家臣が使用人を無礼討ちにして、訴えてきた遺族が引き際誤ったのが最大の失策。兼続が仕方なく金で解決しようとしたんだけど「〇〇を返せ」の一点張りで聞く耳持たなかったからな。
直江兼続「え?令和人ってワシのこと義と愛の人だって言ってんの?俺でさえ義と愛だなんて令和はどれだけ乱れてんの?」
直江兼続の外道ぶりはあまりに酷くて清々しいまであるけど、子ども全員に先立たれて養子をとる提案をされても上杉家の財務状況に配慮して断り直江家を終わらせる決断をしたり、関ヶ原の後に改易されても牢人以外は例外なく米沢へ連れて行った辺り忠誠心は本物なんだよな… 政務官としては超一流だし。
青森の八戸とか旧南部藩地域の人に間違って津軽というと真顔で訂正してくるのは為信のせい
南部信直のお父ちゃんだまし討ちにしたのがまずかったんだな
実家が藤島城の近くです。直江兼続の非道に中々注目されないけど取り上げてくれてありがとうございます。
上杉憲政の場合は歴代の古河公方、関東管領山内上杉のツケを払わされただけで若年相続の割には後北条、甲斐武田相手によく抗ったし長尾影虎(後の上杉謙信)を養子とし関東管領職と上杉家を継がせ当主として最低限の仕事をこなしたし只の無能でも卑怯者でもないですね。直江兼続の場合は秀吉の評価、直江状、花の慶次のツーベースヒット、送りバント、タイムリーを決め込んだだけで特段飛び抜けた軍才も政治センスもない忖度家老というイメージです。一揆に対する対処も山内一豊も似たような形で反対勢力を排除したし当時としては目立った治国方法ではないのだと思います。
親が弘前在住です。「公園(弘前城)は大事だけど、津軽家は大嫌い」とよく言ってます。
家どころか有楽町は名を残しまくりで草
戦国とは、卑怯でも生き残れない時代だった。
卑怯者で名を残せたならまだいい
状況によるけどある程度は仕方がない
あの時代は、天から愛された大悪党が生き残る時代。卑怯なだけの人間と聖者は生き残れない。だから三英傑はそんな奴等より遥かに大悪党だけど天に愛された男達だった。
聞いただけの話なので真偽の程は不明ですが……津軽為信は祖父だか曽祖父までを南部一族に頃されており、少なくとも石川高信についてはその復讐の一環、とも言えるんじゃないかと( ̄▽ ̄;)苦笑まぁその他の件については、そうでもしなければ家を保って行けなかった、という事かと( ̄▽ ̄;)苦笑焼き討ちや騙し討ち等は、当時の大名なら大なり小なりどこの家でもやっていた事。この動画を全否定なんて事はする気はありませんが、戦国時代は、どこの家でも卑怯な面を持っていなければ生き残れない、そういう時代だったでしょうし。更に言うなら「卑怯な!!」と言うなら、その卑怯な事をされる状況を許した方が甘いんです。
キングオブザ卑怯者、京童から童歌で人外とまで罵倒された有楽斎殿が満を辞してご登場!
その頃まだ「愛」は「LOVE」では無かった。
そうですね、愛=武神でしたもんね。個人的には彼の前立ては愛染明王ですが、山城守にかけて愛宕権現でも悪くはないと思います。
自分しか愛さない自己性愛という意味では?
正三角形の三ツ鱗紋は執権北条氏の家紋で、二等辺三角形の三ツ鱗が後北条氏の家紋です。
義だの愛だのというが兼続の愛は愛染明王からきているという説があるからそういう意味なら愛は愛情とは別ものなので卑怯者でもしょうがない。戦国の世はちょっとでも隙見せれば裏切られる世界なので保身に走る者は卑怯な手段に走るのは人間の弱さからくるものでどうしようもない。しかし長益おめーは当時も今も変わらず人間として最低じゃ。信忠と共に腹切らんかい。
まー当時は愛の意味が今とは全く違うからな北信愛とか安東愛季とかの諱から分かる通り、愛染明王や愛宕権現から来てる事が殆どで、彼の前立ても毘沙門を崇拝していた旧主謙信の影響もありこの二つのどちらかを崇めていた可能性が高いとされてますね。
今は愛宕権現の愛が有力説らしい。どっちにしろLOVEの愛ではないね
直江兼続、漫画の主人公になれるような人物じゃないな
兼続の評価は酷かったのは事実で、エピソードにあった庄内地方では痕跡が綺麗さっぱり隠されており、せっかく寄進した証文も隠されていた位。一揆鎮圧後火炙りの刑が起源ではないか?とされる火祭りも残ってます(厄払いとは言われてますが)。上杉家が子が居ないと言う理由で、名宰相?という直江家を兼続亡き後すぐ絶家にするでしょうか?悪人扱いの最上家の方がむしろ開墾事業や後の庄内藩を支えたとして、最上町や神社が建立されてます。さぞ当時のご当人達はあの世で今の扱いを苦笑いされているでしょうね。
元々、庄内地方は大宝寺氏滅亡後、対立していた最上義光の物になるはずだった。しかし、どさくさ紛れに上杉が横領しやがった。
@@user-ol1us7xr6vどさくさには紛れていません。大宝寺の養子は本庄家の人です。ただし、問題を起こしたとして本庄家から召し上げ、上杉直轄地にしたんですけどね。問題があるなら会津に転封しても庄内と佐渡を飛び地にした秀吉の采配です。慶長出羽合戦の遠因にもなりましたし直江兼続がマトモだったのは減俸された後だけなのでは?ってのも事実です。
信忠自害させておいて自分だけ逃げた挙句「織田を立て直す」とか完全に二枚舌&騙し討ちじゃん。
チキって逃げただけならまだいい、なんで信忠に自刃を勧めてるんだっていうのが意味不明。有楽斎が脱出できたのなら信忠も危機を脱して美濃に戻れただろうに…
信忠逃がせば秀吉に織田政権乗っ取られるの防げたかもしれないのに。
有楽は本能寺の変で甥の信忠に自決を勧めておきながら自分はそそくさと逃げる。信長の野望ではあのハゲは処断する。
各作で、戦後処理時に命乞いしてくるやつですね。「天地神明に誓ってお役に立てまする、どうかご慈悲を…」みたいなこと言ってきて、シカトして首切ったら「ぎゃっ!」ちょい良心が痛むやつww
大坂でも結局兄・信雄と同じく逃げだす始末やw
関ヶ原では武功上げてるから…(申し訳程度の擁護)
足利義晴より晴の字を賜ったのが武田晴信(信玄)です。信玄は妹婿の諏訪頼重を騙し討ちにしたため信州衆に嫌われたため、頼重の孫の勝頼に諏訪家を継がせなければ旧諏訪衆を支配する事が出来ませんでした。武田家を継ぐはずの義信は妻が同盟国の駿河の今川家の出なので、桶狭間敗北後の信玄手のひら返しの今川敵対行動に反発し離反した義信の廃嫡(殺害)となります。勝頼は諏訪との関係で武田家後継と出来なかったため、信玄の遺言を無視して当主となった勝頼と家臣団との対立が原因となり、武田家の内紛からの弱体化と滅亡となります。信玄の最悪な性格からきた卑怯卑劣な行動が戦国最強の武田家の無惨な呆気ない滅亡に繋がりました。
その後、上杉家に養子に入ったのが長尾景虎、後の上杉謙信そして事実上の最後の関東管領だった。
為信に関しては、青森県では内容の全く正反対で、長年南部氏に支配からの独立戦争の英雄。岩手では内容の通りの梟雄。見る方向で全然違う典型ですね。余談ながら、江戸時代の当主の席次が理由で「相馬大作事件」とかも起こったぐらい根深いようですね。
直江兼続、愛の前立てとのギャップすごいな😱
まぁ当時の愛は今とは意味が全く違うからな
多分愛宕明神の愛だしね
愛欲のほうの愛
自己性愛の愛。
@@rodoringo 愛染明王の愛だったはず。
為信はあれだけ裏切りながら謎に石田、豊臣には義理堅い
発覚すれば改易の可能性がありながら自分を認めてくれた恩義を忘れなかった。
関ヶ原の戦い後、津軽氏は石田三成の息子を代々家老(大名家の最上級家臣)として家臣に召し抱えたし、娘を為信の息子の妻にしたし生まれた子どもは跡継ぎとして大名になりましたね。きっと人生の最後に自分のやってきた後ろめたい事を償う為に何か良い行いをしたかったのかもしれませんね。
@@user-lx4so1yb6q 幕末に石田の子孫が家老として藩を指揮して新政府に上手く取り入ってるし最後の最後で徳川家に勝利出来たのは津軽家のおかげなんだよね
まあ南部人には嫌われてたんですけどね
@@user-of5bn4zk5tさん江戸時代初期にも家老で活躍したもん!杉山吉成🙋
勝てば官軍、負ければ賊軍
勝っても卑怯者、小早川秀秋
@@user-km8hw5hr8m盾裏の反逆はルールで禁止スよね
それはそうだが、筋が通る卑怯なら官軍と個人的に思う
爽やか系武将の代表だと思ってた直江兼続が卑怯者だったとは...ちなみに兼続に滅ぼされた藤島は、ウド鈴木の出身地です。
なおエだから😊
@@patagonia70元は樋口なw
卑怯の意味を改めて考える動画ですね。
生き残るための卑怯は卑怯じゃないそれは生存戦略という、自分の欲望のための卑怯こそ卑怯という
@@7kyuubey197 「武士とは犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことこそ本にて候」って朝倉家のじーさんも言ってたしね
津軽為信さんは卑怯者じゃないやろ、むしろ信義の人自分を認めてくれた秀吉に忠誠誓ってたし、関ヶ原後に家康に付く人が続出しても最後まで曲げずに忠誠誓ってた人やで
織田長益の卑怯振りは当時も今日に至るまでも有名だが、直江兼続の悪逆振りは初めて知った。兜に「愛」と表してたそうだが「悪」の方が相応しいな!
愛染明王の愛ですぞ
自分しか愛さないという意味では?
少なくともLOVEではないw
そもそも当時の日本において『愛』という漢字にLOVEの意味はないんで、直江の兜の愛の文字は軍神や古来の山神の頭文字を採用したというのが一般的だUA-camの歴史解説動画を見に来るくらいならもっと歴史を勉強してから来い
マジ?昭和のころの評価はこんなもんよ。今の清水宗治や山中鹿之助のマイナー化の方が不思議だ。
一番の卑怯は関白にして跡継ぎ確定で推してたのに秀頼産まれたら用済みの如く謀叛疑惑かけて秀次を排除した秀吉だな
秀吉は卑怯というよりは非道の部類だと思う。
年取って判断力がおかしくなったってフォローしたいところだけど、農民出生隠したいから異父兄弟姉妹を皆殺しにしたのを考えると資質やろな
@@teriyakilovemanほー、秀長と旭日姫は秀吉がやったのか、学会に発表するべきだな。
直江兼続は主君にだけ徹底して義の人であったんでしょうが、主君以外に対しては容赦のない人だったんでしょうね。しかし、主君に対する義だけは終始一貫していたからこれだけの事をしておきながらも人気があるんでしょうね。
直江状は挑発じゃなくて本心だったんか
直江状の内容見たけど、あれをみたら流石の家康も怒りますわ今で例えると長文でデイスってくる化け物と同じ
@@user-mo2qg7wg1gどこぞの狸も十分化け物なので残当
三国志で言うところの、官渡の戦い前に陳綝が曹操にむけて発したと言われる檄文みたいなものかな?
越後は国衆や各領主の力が強かったからね。謙信も苦しんだ。だから彼らを弱める意味があった
兼続が寵臣、失政、上杉弱体の現況ってのは、花の慶次が始まるまでは一般的でしたね。
宇喜多直家いなかったなあの人浦上宗景が成り上がり決めてた時に謀反して一時は敗北して従ったのに再度造反、秀吉と組んで主君宗景は信長の朱印状貰ってたのに結局主君を追いやったまぁ秀家が関ヶ原の戦いで負けて八丈島送りになったけど浦上宗景は確か黒田預かりでこの世を去ったとか裏切るのも裏切られるのもあまり良い死に方をしないな
米沢城跡=松が岬公園内に直江兼続が主君の上杉景勝と寄り添う姿の銅像があります。大河ドラマ『天地人』放映に合わせて建立されましたが、あれを見ると反吐が出る気分ですよ。兼続の存在って上杉家の繁栄のためになったかな?逆に上杉家が滅亡する寸前まで追い込んだ張本人だったのでは、と思います。兼続の死後現在まで直江の家名が再興しないのは、やはり上杉家中で兼続への評価が相当低かったからでしょうね。
藤島城の絵がなぜか現弘前城😂
江戸幕府が、南部と津軽が同席しなくていいとしていたのが納得。
動画で説明された件以外にも、津軽為信は祖父だか曽祖父までを南部一族に頃されているそうですしね( ̄▽ ̄;)言ってみれば川中島の合戦当時の武田・上杉どころじゃないくらいにはお互いに敵意丸出しだったろう事は想像に難くないかと( ̄▽ ̄;)苦笑
津軽人は素朴で控えめで良い人が多いけど、一部、性格捻じ曲がってる奴はとことん猜疑心が強いというかなんというか。
へうげもの読んでから有楽斎大好きになった
たしかに直江兼続は過大評価だわな。上杉がよくやった遠征先の民の人攫いなんか謙信以上にやってたし、主家を没落させた1番の張本人なのに、責任も取らずにのうのうと生き残るツラの皮の厚さ。直江兼続の使う「ぎ」は「義」ではなく、「偽」が正解。
木下藤吉郎「呼んだ?」
上杉が人攫いは聞かないな小田城の件は小田と敵対していた佐竹氏の顔をたてただけで、実際は奴隷解放でしょう戦国屈指の財テク手腕をもつ謙信が人買市を自ら差配し大赤字価格を提示したのは家族による買い戻しをしゃすくした為とされる。そもそも上杉が遠征先で人攫いをよくやっていたというか小田城の件以外、史料がないし出稼ぎ説は否定されています
花の慶次の直江兼続は外道だったんだな、隆慶一郎 原哲夫がこの動画の直江兼続で花の慶次に出したら、前田慶次は直江兼続と親友になるどころか敵対するかももしくは同じ穴の狢で前田慶次も直江兼続と同じ外道になるか
同じ外道になるんじゃない?史実で仲が良かったというのは覆せない事実だろうし
ハントー人ファビョってて草
リスンチンは外道
原作小説では上杉が太閤検地で出羽に駐留している兼続を慶次が訪ねる話がある。さすがに騙し討ちはカットされたけど、検地をスムーズにするために農民の子どもを人質にしたり、一揆勢を皆殺しにする描写がある。人質の件は秀吉の命令だけど慶次は非難していたし、皆殺しの件は慶次が京都に戻った後に実行された。
@@chevalier0316 悲しいな現実そんなところなんだよねえ、個人的には慶次が直江兼続の所業にブチ切れてガチ喧嘩してほしいとは思うけど
上杉は会津じゃ評判良いけどねー。確かに処断が必要な時はすげーことやってたけど、越後じゃそんなえげつない事やってたのか。
3年しかいなかったのに評判が良いのか。
明智光秀「戦国時代にこんなに卑怯な奴らいるなんて 私は信長の忠臣だから 彼らを反面教師にします。」
あの時代に聖者なんていない。理由は聖者が生きられるような甘い時代じゃないし、今の時代でも言える事だけど、聖者が作るような時代なんて高が知れた時代。
有楽町として、地名や駅名に残り、流行歌にもなってんだからクズでも名を残すのもありなのかも
為信は下剋上の時代は当たり前の行動では?
直江兼続、主家を没落させておいて、現代で持ち上げられるの納得いかない。新発田重家に背かれたせいで、魚津城失陥してるし、天正壬午の乱にも遅れをとってる。会津転封時に越後の年貢持ち去って堀家に恨まれたり、藤田信吉を蹴落として関ヶ原の原因作ってる。米沢減封時にも家臣団の整理を怠り、後年上杉鷹山がめっちゃ苦労してる。どこが名宰相やねん。
本能寺の変が無ければ、織田信長と新発田重家に挟まれて、上杉は間違い無く、滅亡していた。政治、戦略の才が無い癖に運だけは恵まれている。
同じ関ヶ原の敗者でも毛利家が上杉同様に削減された領地では、これまでの部下達を養えない事を互いに理解した上で、帰農を奨励し他家への再就職の斡旋を行うなど、早い段階で身の丈にあった領国経営を行い後の幕末の活躍につながる基礎を築いたのとは対象的だ。
信濃川の治水工事やろ
卑怯で最低な人間の方が社会でも生きていけるし長生きできるよな
畠山義継は出てこなかったね。まぁ最後伊達政宗に殺されたけど。
上杉から憲政と米沢藩一の嫌われ者直江山城が出てくるとはなw直江は最近評価が変わり有名人(主に兜が原因か?)になったが、それまでは鷹山以外誰にも認められなかったらしいからなw
兼続が上杉家中で評価が高ければ、嫡子に先立たれ養子だった本多政重には出ていかれて後継者がいなかった直江家は兼続の死後に他の家臣の子息に家名を継がせますよ。それが無くて断絶したということは、それだけ上杉家中での評価が低い=誰も直江の家名を継ぎたがらなかった、ということですよ。
まさか直江兼続がそんなに酷い奴だったとは…。
これを知ってたら、妻夫木聡さんもやらなかったな
@@user-id2sv5wb9b天地人の記者会見で妻夫木さんは兼続の策士としての黒い部分も出していきたいと意気込み語っていたので寧ろその一面を演じたがったみたいです
@@user-tk3dt6zn3tよっぽど村上さんの方が直江山城もしては出来てたよな天地人は名前とOPだけは大層なものだけど、内容はなぁ……
直江兼続は戦国無双で知りました。まさかここまでやばいことしてたとは驚き・・・
一番卑怯なのは家康。
浪岡城主が石川氏?やりなおーし
源吾は切腹して火をかけようとしたが、火をかける役割の兵がやられてしまい、そして源吾には気付かずに行ってしまったから「あ、ここで死ぬの勿体ない」と思って逃げ出したとも。どっちみち卑怯には変わりないけど。ただ終生きわどい生き方(信長⇒信雄⇒秀吉⇒家康)をしながらも深刻な恨みを買うこともなかったのは「逃げの源吾」と揶揄されていたからかもしれない。
荒木村重も加えろ
ならば自分な大名ならどうする自分の一族を守るためには謀略や裏切りを重ねないといけない
どうしよう、自分も有楽斉みたいなことやっちゃうと思う。笑 他人とは思えない。
直江兼続の政治手腕があったから、上杉家は没落しなかった
慶長6年9月、景勝は米沢に移りました。と同時に、家臣やその家族など合わせて数万人が一緒に移り住んだといわれています。小さな城下町は突然人であふれ、住まいの確保は至難の業でした。兼続は早急にまちづくりにかかります。本丸、二の丸の整備、三の丸の新設、侍町、町人町の整備、それに伴う生活用水路の整備など、短期間のうちにまちの骨格を作り上げました。治水事業 兼続は特に治水事業に力をいれました。米沢の東を流れる松川はたびたび氾濫を起こし、川沿いの村は水害に苦しんでいました。そこで、約10kmわたって谷地川原堤防を築き、田畑や村民を守りました。今でも「直江堤公園」として一部が保存されています。 また、掘立川や木場川、御入水川を開削。猿尾堰、帯刀堰を築き、農地の灌漑用水や城下の生活用水の確保に努めました。現在も流雪溝などに形を変えてはいますが、この2つの堰から取り入れられた水は、米沢の市民生活に欠かせない大切なものとなっています。殖産興業 兼続は、米沢藩の収入を増やすため殖産興業にも力を入れました。青苧、紅花、漆などの換金作物の栽培、鯉の養殖、ソバやウコギの栽培などを奨励しました。これらのものは、その後中興の祖上杉鷹山に受け継がれ、今では米沢の名産品になっています。 そして、農民の生活にも目を向け、月毎に農民がどのような心構えで働いたらよいかを記した「地下人上下共身持之書(四季農戒書)」を表し、日常生活の隅々まで気を使った指導をしました。
直江兼続の兜の愛の文字は、武田信玄と北条氏政の打倒を祈願した愛宕神社の名称から採られている
元々、米沢の地は直江に与えられた土地だったから、主家に差し出したのは、奴の数少ない、善行だわ(笑)。
上杉鷹山が立て直しをしなかったら財政赤字で崩壊してたんですが
道糞や弾正や出羽の狐とかも居るな
オラの地元のお殿様を卑怯呼ばわりせんといて〜南部家のお家騒動ナリ😢ちなみに為信公は宗家側(南部晴政)にいたのよ南部晴政vs石川高信↓津軽為信vs南部信直たしかに卑怯なやり方をしないと津軽統一なんて出来ないのも分かる!
新発田好きだから直江はホンマに嫌い
「頑張ったのはお兄ちゃんで、、君は他家にいたんだから家督相続で十分よな」て節があるわな個人的には兼続からしたら乱当初にすぐ味方しないで情勢を日和見していたのが信頼ならなかったのだと思う。それでも味方してからは芦名に睨みきかせたり三条攻めしたり武田との外交に尽力したのだから少しは報われるべきとおもうがな同じ国人でも斎藤朝信は早くから景勝支持を表明し、景虎方の主将格の上杉景信と北条景広の連携を阻止したり武田外交も新発田長敦とともに担当、直江の居城与板城の救援や長岡方面の攻略担当をし子息ともども手厚い報奨を得ているから、これまでの豪族連合ではなく、中央集権化させたかった思惑があったのではないかと。にしても酷いわなw新発田を誘った安田顕元さんは申し訳ない気持ちのあまりに切腹してしまったし、論功行賞ひどすぎたね
後に上杉は吉良上野介の息子を藩主にしたけど、皮肉にも景勝が抹殺した景虎の兄弟の子孫。ただでさえ財政難なのに破綻していく。
初っ端、毛利の写真で草
有楽wwwオモロい
戦国時代って卑怯でも仕方ない時代でしたよ批判されたら武将たちが可哀想です😊
上田衆による謙信暗殺説ってのもある。
マジかよ…おのれ喜平次
@@lx1125 江戸時代に紀州藩士になった元上杉家臣が「上杉当主には初めて聴くと魂消る様な秘密がある。(意訳)」と語ったとされているのと上杉謙信の遺体調査の一切を歴代上杉当主が拒否しているらしい所から来たトンでも説だけどね。他には新発田に対する不遇は長沢勘五郎を取られた逆恨みなんて話も
津軽は江戸中期に断絶して他家の血筋になったからまさに因果応報になった。
直江兼続も子供が無く、コイツの死後、直江家は断絶。上杉景勝の血も江戸時代中期に男系は絶え、吉良上野介の子孫が継ぐ羽目に。因果は本当に巡るwww。ザマアミロ(笑)。
幕末ね!
直江兼継「愛ゆえに!!」
直江兼続の卑怯と言えば陸奥仕置で南部の陪臣九部直実の籠城に苦戦して「降伏すれば城兵は助け大阪で裁きにかける」と申し出て直実が投降したら副将の豊臣秀長が無体と制止するの無視して城兵皆殺しにして直実と近侍も帰還途中で斬首したお話ですね、どの面下げて愛一文字の兜被るのかと(#^^#)
兜の前立ては愛染明王から取ってる「愛」だから、愛情とは無関係。
直家を忠家と言ってました
卑怯者で何が悪い?
直江兼続と織田長益(織田有楽斎)は嫌いなので入っていて良かった
自分、先祖が南部家に雇われていて(武士ではない)姓も江戸時代に南部藩から賜ったもの。それもあってか津軽為信は大嫌い。弘前城行った事あるけど展示物に唾吐きかけたくなった(やらなかったけど)。
面の皮の厚さランキングはまだですか?
この動画を信用してる人が多いのにビックリ。やっぱ自分でちゃんと調べるの大事だな。
地元が上杉景勝の出生地の近くで、つまり上田衆の上田、今の南魚沼地方なんだけど、知ってる樋口姓の奴ホントろくな奴はいないから(笑)。兼続なんて言うまでもない。
直江兼続は1つ目はともかく2つ目は別にいいんじゃね日本を平定した者の政治に刃向かうってのはよっぽどの覚悟をしなきゃいけないだろう開城する方が甘くて間抜けとしか思えんが
武闘派暴力団の縄張り争いだもの!卑怯でも非情でも、成果をあげたヤツが出世できるんだよ!
コメントほとんど瓜男やな
北条氏康も大概卑怯だよね、昨今上杉謙信や武田信玄と並び立つ名将扱いされているけど人間的には一番嫌いだわ
ハントー人ほるほる動画
長政、長政と人の名前をそんなに連呼しないでくれます?こんな短時間に何十回も名前を呼ばれたのは初めてだよ😅
卑怯?そんなの当時の人からすれば関係ありません。今の価値観と違いますからね。
直江兼続に墓は要らない。
直江兼続はもめ事で訴えてきた者に「皆が納得出来る様に閻魔大王の御栽可を聞いて参れ」と斬ったのもあります。
家臣が使用人を無礼討ちにして、訴えてきた遺族が引き際誤ったのが最大の失策。
兼続が仕方なく金で解決しようとしたんだけど「〇〇を返せ」の一点張りで聞く耳持たなかったからな。
直江兼続「え?令和人ってワシのこと義と愛の人だって言ってんの?俺でさえ義と愛だなんて令和はどれだけ乱れてんの?」
直江兼続の外道ぶりはあまりに酷くて清々しいまであるけど、子ども全員に先立たれて養子をとる提案をされても上杉家の財務状況に配慮して断り直江家を終わらせる決断をしたり、関ヶ原の後に改易されても牢人以外は例外なく米沢へ連れて行った辺り忠誠心は本物なんだよな… 政務官としては超一流だし。
青森の八戸とか旧南部藩地域の人に間違って津軽というと真顔で訂正してくるのは為信のせい
南部信直のお父ちゃんだまし討ちにしたのがまずかったんだな
実家が藤島城の近くです。直江兼続の非道に中々注目されないけど取り上げてくれてありがとうございます。
上杉憲政の場合は歴代の古河公方、関東管領山内上杉のツケを払わされただけで若年相続の割には後北条、甲斐武田相手によく抗ったし長尾影虎(後の上杉謙信)を養子とし関東管領職と上杉家を継がせ当主として最低限の仕事をこなしたし只の無能でも卑怯者でもないですね。
直江兼続の場合は秀吉の評価、直江状、花の慶次のツーベースヒット、送りバント、タイムリーを決め込んだだけで特段飛び抜けた軍才も政治センスもない忖度家老というイメージです。一揆に対する対処も山内一豊も似たような形で反対勢力を排除したし当時としては目立った治国方法ではないのだと思います。
親が弘前在住です。「公園(弘前城
)は大事だけど、津軽家は大嫌い」とよく言ってます。
家どころか有楽町は名を残しまくりで草
戦国とは、卑怯でも生き残れない時代だった。
卑怯者で名を残せたならまだいい
状況によるけどある程度は仕方がない
あの時代は、天から愛された大悪党が生き残る時代。
卑怯なだけの人間と聖者は生き残れない。
だから三英傑はそんな奴等より遥かに大悪党だけど天に愛された男達だった。
聞いただけの話なので真偽の程は不明ですが……
津軽為信は祖父だか曽祖父までを南部一族に頃されており、少なくとも石川高信についてはその復讐の一環、とも言えるんじゃないかと( ̄▽ ̄;)苦笑
まぁその他の件については、そうでもしなければ家を保って行けなかった、という事かと( ̄▽ ̄;)苦笑
焼き討ちや騙し討ち等は、当時の大名なら大なり小なりどこの家でもやっていた事。
この動画を全否定なんて事はする気はありませんが、
戦国時代は、どこの家でも卑怯な面を持っていなければ生き残れない、そういう時代だったでしょうし。
更に言うなら「卑怯な!!」と言うなら、その卑怯な事をされる状況を許した方が甘いんです。
キングオブザ卑怯者、京童から童歌で人外とまで罵倒された有楽斎殿が満を辞してご登場!
その頃まだ「愛」は「LOVE」では無かった。
そうですね、愛=武神でしたもんね。
個人的には彼の前立ては愛染明王ですが、山城守にかけて愛宕権現でも悪くはないと思います。
自分しか愛さない自己性愛という意味では?
正三角形の三ツ鱗紋は執権北条氏の家紋で、二等辺三角形の三ツ鱗が後北条氏の家紋です。
義だの愛だのというが兼続の愛は愛染明王からきているという説があるからそういう意味なら
愛は愛情とは別ものなので卑怯者でもしょうがない。戦国の世はちょっとでも隙見せれば裏切られる
世界なので保身に走る者は卑怯な手段に走るのは人間の弱さからくるものでどうしようもない。
しかし長益おめーは当時も今も変わらず人間として最低じゃ。信忠と共に腹切らんかい。
まー当時は愛の意味が今とは全く違うからな
北信愛とか安東愛季とかの諱から分かる通り、愛染明王や愛宕権現から来てる事が殆どで、彼の前立ても毘沙門を崇拝していた旧主謙信の影響もありこの二つのどちらかを崇めていた可能性が高いとされてますね。
今は愛宕権現の愛が有力説らしい。どっちにしろLOVEの愛ではないね
直江兼続、漫画の主人公になれるような人物じゃないな
兼続の評価は酷かったのは事実で、エピソードにあった庄内地方では痕跡が綺麗さっぱり隠されており、せっかく寄進した証文も隠されていた位。一揆鎮圧後火炙りの刑が起源ではないか?とされる火祭りも残ってます(厄払いとは言われてますが)。上杉家が子が居ないと言う理由で、名宰相?という直江家を兼続亡き後すぐ絶家にするでしょうか?悪人扱いの最上家の方がむしろ開墾事業や後の庄内藩を支えたとして、最上町や神社が建立されてます。さぞ当時のご当人達はあの世で今の扱いを苦笑いされているでしょうね。
元々、庄内地方は大宝寺氏滅亡後、対立していた最上義光の物になるはずだった。しかし、どさくさ紛れに上杉が横領しやがった。
@@user-ol1us7xr6v
どさくさには紛れていません。
大宝寺の養子は本庄家の人です。
ただし、問題を起こしたとして本庄家から召し上げ、上杉直轄地にしたんですけどね。
問題があるなら会津に転封しても庄内と佐渡を飛び地にした秀吉の采配です。
慶長出羽合戦の遠因にもなりましたし直江兼続がマトモだったのは減俸された後だけなのでは?ってのも事実です。
信忠自害させておいて自分だけ逃げた挙句「織田を立て直す」とか完全に二枚舌&騙し討ちじゃん。
チキって逃げただけならまだいい、なんで信忠に自刃を勧めてるんだっていうのが意味不明。
有楽斎が脱出できたのなら信忠も危機を脱して美濃に戻れただろうに…
信忠逃がせば秀吉に織田政権乗っ取られるの防げたかもしれないのに。
有楽は本能寺の変で甥の信忠に自決を勧めておきながら自分はそそくさと逃げる。信長の野望ではあのハゲは処断する。
各作で、戦後処理時に命乞いしてくるやつですね。
「天地神明に誓ってお役に立てまする、どうかご慈悲を…」みたいなこと言ってきて、シカトして首切ったら「ぎゃっ!」
ちょい良心が痛むやつww
大坂でも結局兄・信雄と同じく逃げだす始末やw
関ヶ原では武功上げてるから…(申し訳程度の擁護)
足利義晴より晴の字を賜ったのが武田晴信
(信玄)です。
信玄は妹婿の諏訪頼重を騙し討ちにしたため信州衆に嫌われたため、頼重の孫の勝頼に諏訪家を継がせなければ旧諏訪衆を支配する事が出来ませんでした。
武田家を継ぐはずの義信は妻が同盟国の駿河の今川家の出なので、桶狭間敗北後の信玄手のひら返しの今川敵対行動に反発し離反した義信の廃嫡(殺害)となります。
勝頼は諏訪との関係で武田家後継と出来なかったため、信玄の遺言を無視して当主となった勝頼と家臣団との対立が原因となり、武田家の内紛からの弱体化と滅亡となります。
信玄の最悪な性格からきた卑怯卑劣な行動が戦国最強の武田家の無惨な呆気ない滅亡に繋がりました。
その後、上杉家に養子に入ったのが長尾景虎、後の上杉謙信そして事実上の最後の関東管領だった。
為信に関しては、青森県では内容の全く正反対で、長年南部氏に支配からの独立戦争の英雄。岩手では内容の通りの梟雄。見る方向で全然違う典型ですね。余談ながら、江戸時代の当主の席次が理由で「相馬大作事件」とかも起こったぐらい根深いようですね。
直江兼続、愛の前立てとのギャップすごいな😱
まぁ当時の愛は今とは意味が全く違うからな
多分愛宕明神の愛だしね
愛欲のほうの愛
自己性愛の愛。
@@rodoringo
愛染明王の愛だったはず。
為信はあれだけ裏切りながら謎に石田、豊臣には義理堅い
発覚すれば改易の可能性がありながら自分を認めてくれた恩義を忘れなかった。
関ヶ原の戦い後、津軽氏は石田三成の息子を代々家老(大名家の最上級家臣)として家臣に召し抱えたし、娘を為信の息子の妻にしたし生まれた子どもは跡継ぎとして大名になりましたね。きっと人生の最後に自分のやってきた後ろめたい事を償う為に何か良い行いをしたかったのかもしれませんね。
@@user-lx4so1yb6q
幕末に石田の子孫が家老として藩を指揮して新政府に上手く取り入ってるし
最後の最後で徳川家に勝利出来たのは津軽家のおかげなんだよね
まあ南部人には嫌われてたんですけどね
@@user-of5bn4zk5tさん
江戸時代初期にも家老で活躍したもん!
杉山吉成🙋
勝てば官軍、負ければ賊軍
勝っても卑怯者、小早川秀秋
@@user-km8hw5hr8m
盾裏の反逆はルールで禁止スよね
それはそうだが、筋が通る卑怯なら官軍と個人的に思う
爽やか系武将の代表だと思ってた直江兼続が卑怯者だったとは...
ちなみに兼続に滅ぼされた藤島は、ウド鈴木の出身地です。
なおエだから😊
@@patagonia70元は樋口なw
卑怯の意味を改めて考える動画ですね。
生き残るための卑怯は卑怯じゃないそれは生存戦略という、自分の欲望のための卑怯こそ卑怯という
@@7kyuubey197 「武士とは犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことこそ本にて候」って朝倉家のじーさんも言ってたしね
津軽為信さんは卑怯者じゃないやろ、むしろ信義の人
自分を認めてくれた秀吉に忠誠誓ってたし、関ヶ原後に家康に付く人が続出しても最後まで曲げずに忠誠誓ってた人やで
織田長益の卑怯振りは当時も今日に至るまでも有名だが、直江兼続の悪逆振りは初めて知った。兜に「愛」と表してたそうだが「悪」の方が相応しいな!
愛染明王の愛ですぞ
自分しか愛さないという意味では?
少なくともLOVEではないw
そもそも当時の日本において『愛』という漢字にLOVEの意味はない
んで、直江の兜の愛の文字は軍神や古来の山神の頭文字を採用したというのが一般的だ
UA-camの歴史解説動画を見に来るくらいならもっと歴史を勉強してから来い
マジ?昭和のころの評価はこんなもんよ。今の清水宗治や山中鹿之助のマイナー化の方が不思議だ。
一番の卑怯は関白にして跡継ぎ確定で推してたのに秀頼産まれたら用済みの如く謀叛疑惑かけて秀次を排除した秀吉だな
秀吉は卑怯というよりは非道の部類だと思う。
年取って判断力がおかしくなったってフォローしたいところだけど、農民出生隠したいから異父兄弟姉妹を皆殺しにしたのを考えると資質やろな
@@teriyakiloveman
ほー、秀長と旭日姫は秀吉がやったのか、学会に発表するべきだな。
直江兼続は主君にだけ徹底して義の人であったんでしょうが、主君以外に対しては容赦のない人だったんでしょうね。しかし、主君に対する義だけは終始一貫していたからこれだけの事をしておきながらも人気があるんでしょうね。
直江状は挑発じゃなくて本心だったんか
直江状の内容見たけど、あれをみたら流石の家康も怒りますわ
今で例えると長文でデイスってくる化け物と同じ
@@user-mo2qg7wg1g
どこぞの狸も十分化け物なので残当
三国志で言うところの、官渡の戦い前に陳綝が曹操にむけて発したと言われる檄文みたいなものかな?
越後は国衆や各領主の力が強かったからね。謙信も苦しんだ。だから彼らを弱める意味があった
兼続が寵臣、失政、上杉弱体の現況ってのは、花の慶次が始まるまでは一般的でしたね。
宇喜多直家いなかったな
あの人浦上宗景が成り上がり決めてた時に謀反して一時は敗北して従ったのに再度造反、秀吉と組んで主君宗景は信長の朱印状貰ってたのに結局主君を追いやった
まぁ秀家が関ヶ原の戦いで負けて八丈島送りになったけど
浦上宗景は確か黒田預かりでこの世を去ったとか
裏切るのも裏切られるのもあまり良い死に方をしないな
米沢城跡=松が岬公園内に直江兼続が主君の上杉景勝と寄り添う姿の銅像があります。大河ドラマ『天地人』放映に合わせて建立されましたが、あれを見ると反吐が出る気分ですよ。
兼続の存在って上杉家の繁栄のためになったかな?逆に上杉家が滅亡する寸前まで追い込んだ張本人だったのでは、と思います。
兼続の死後現在まで直江の家名が再興しないのは、やはり上杉家中で兼続への評価が相当低かったからでしょうね。
藤島城の絵がなぜか現弘前城😂
江戸幕府が、南部と津軽が同席しなくていいとしていたのが納得。
動画で説明された件以外にも、
津軽為信は祖父だか曽祖父までを南部一族に頃されているそうですしね( ̄▽ ̄;)
言ってみれば川中島の合戦当時の武田・上杉どころじゃないくらいにはお互いに敵意丸出しだったろう事は想像に難くないかと( ̄▽ ̄;)苦笑
津軽人は素朴で控えめで良い人が多いけど、一部、性格捻じ曲がってる奴はとことん猜疑心が強いというかなんというか。
へうげもの読んでから有楽斎大好きになった
たしかに直江兼続は過大評価だわな。上杉がよくやった遠征先の民の人攫いなんか謙信以上にやってたし、主家を没落させた1番の張本人なのに、責任も取らずにのうのうと生き残るツラの皮の厚さ。直江兼続の使う「ぎ」は「義」ではなく、「偽」が正解。
木下藤吉郎「呼んだ?」
上杉が人攫いは聞かないな
小田城の件は小田と敵対していた佐竹氏の顔をたてただけで、実際は奴隷解放でしょう
戦国屈指の財テク手腕をもつ謙信が人買市を自ら差配し大赤字価格を提示したのは家族による買い戻しをしゃすくした為とされる。
そもそも上杉が遠征先で人攫いをよくやっていたというか小田城の件以外、史料がないし出稼ぎ説は否定されています
花の慶次の直江兼続は外道だったんだな、隆慶一郎 原哲夫がこの動画の直江兼続で花の慶次に出したら、前田慶次は直江兼続と親友になるどころか敵対するかももしくは同じ穴の狢で前田慶次も直江兼続と同じ外道になるか
同じ外道になるんじゃない?史実で仲が良かったというのは覆せない事実だろうし
ハントー人ファビョってて草
リスンチンは外道
原作小説では上杉が太閤検地で出羽に駐留している兼続を慶次が訪ねる話がある。さすがに騙し討ちはカットされたけど、検地をスムーズにするために農民の子どもを人質にしたり、一揆勢を皆殺しにする描写がある。人質の件は秀吉の命令だけど慶次は非難していたし、皆殺しの件は慶次が京都に戻った後に実行された。
@@chevalier0316 悲しいな現実そんなところなんだよねえ、個人的には慶次が直江兼続の所業にブチ切れてガチ喧嘩してほしいとは思うけど
上杉は会津じゃ評判良いけどねー。確かに処断が必要な時はすげーことやってたけど、越後じゃそんなえげつない事やってたのか。
3年しかいなかったのに評判が良いのか。
明智光秀「戦国時代にこんなに卑怯な奴らいるなんて 私は信長の忠臣だから 彼らを反面教師にします。」
あの時代に聖者なんていない。
理由は聖者が生きられるような甘い時代じゃないし、今の時代でも言える事だけど、聖者が作るような時代なんて高が知れた時代。
有楽町として、地名や駅名に残り、流行歌にもなってんだからクズでも名を残すのもありなのかも
為信は下剋上の時代は当たり前の行動では?
直江兼続、主家を没落させておいて、現代で持ち上げられるの納得いかない。
新発田重家に背かれたせいで、魚津城失陥してるし、天正壬午の乱にも遅れをとってる。
会津転封時に越後の年貢持ち去って堀家に恨まれたり、藤田信吉を蹴落として関ヶ原の原因作ってる。
米沢減封時にも家臣団の整理を怠り、後年上杉鷹山がめっちゃ苦労してる。
どこが名宰相やねん。
本能寺の変が無ければ、織田信長と新発田重家に挟まれて、上杉は間違い無く、滅亡していた。政治、戦略の才が無い癖に運だけは恵まれている。
同じ関ヶ原の敗者でも毛利家が上杉同様に削減された領地では、これまでの部下達を養えない事を互いに理解した上で、帰農を奨励し他家への再就職の斡旋を行うなど、早い段階で身の丈にあった領国経営を行い後の幕末の活躍につながる基礎を築いたのとは対象的だ。
信濃川の治水工事やろ
卑怯で最低な人間の方が社会でも生きていけるし長生きできるよな
畠山義継は出てこなかったね。まぁ最後伊達政宗に殺されたけど。
上杉から憲政と米沢藩一の嫌われ者直江山城が出てくるとはなw
直江は最近評価が変わり有名人(主に兜が原因か?)になったが、それまでは鷹山以外誰にも認められなかったらしいからなw
兼続が上杉家中で評価が高ければ、嫡子に先立たれ養子だった本多政重には出ていかれて後継者がいなかった直江家は兼続の死後に他の家臣の子息に家名を継がせますよ。
それが無くて断絶したということは、それだけ上杉家中での評価が低い=誰も直江の家名を継ぎたがらなかった、ということですよ。
まさか直江兼続がそんなに酷い奴だったとは…。
これを知ってたら、妻夫木聡さんもやらなかったな
@@user-id2sv5wb9b天地人の記者会見で妻夫木さんは
兼続の策士としての黒い部分も出していきたい
と意気込み語っていたので寧ろその一面を演じたがったみたいです
@@user-tk3dt6zn3tよっぽど村上さんの方が直江山城もしては出来てたよな
天地人は名前とOPだけは大層なものだけど、内容はなぁ……
直江兼続は戦国無双で知りました。まさかここまでやばいことしてたとは驚き・・・
一番卑怯なのは家康。
浪岡城主が石川氏?やりなおーし
源吾は切腹して火をかけようとしたが、火をかける役割の兵がやられてしまい、そして源吾には気付かずに行ってしまったから
「あ、ここで死ぬの勿体ない」と思って逃げ出したとも。どっちみち卑怯には変わりないけど。
ただ終生きわどい生き方(信長⇒信雄⇒秀吉⇒家康)をしながらも深刻な恨みを買うこともなかったのは「逃げの源吾」と揶揄されていたからかもしれない。
荒木村重も加えろ
ならば自分な大名ならどうする
自分の一族を守るためには謀略や裏切りを重ねないといけない
どうしよう、自分も有楽斉みたいなことやっちゃうと思う。笑 他人とは思えない。
直江兼続の政治手腕があったから、上杉家は没落しなかった
慶長6年9月、景勝は米沢に移りました。と同時に、家臣やその家族など合わせて数万人が一緒に移り住んだといわれています。小さな城下町は突然人であふれ、住まいの確保は至難の業でした。兼続は早急にまちづくりにかかります。本丸、二の丸の整備、三の丸の新設、侍町、町人町の整備、それに伴う生活用水路の整備など、短期間のうちにまちの骨格を作り上げました。
治水事業
兼続は特に治水事業に力をいれました。米沢の東を流れる松川はたびたび氾濫を起こし、川沿いの村は水害に苦しんでいました。そこで、約10kmわたって谷地川原堤防を築き、田畑や村民を守りました。今でも「直江堤公園」として一部が保存されています。
また、掘立川や木場川、御入水川を開削。猿尾堰、帯刀堰を築き、農地の灌漑用水や城下の生活用水の確保に努めました。現在も流雪溝などに形を変えてはいますが、この2つの堰から取り入れられた水は、米沢の市民生活に欠かせない大切なものとなっています。
殖産興業
兼続は、米沢藩の収入を増やすため殖産興業にも力を入れました。青苧、紅花、漆などの換金作物の栽培、鯉の養殖、ソバやウコギの栽培などを奨励しました。これらのものは、その後中興の祖上杉鷹山に受け継がれ、今では米沢の名産品になっています。
そして、農民の生活にも目を向け、月毎に農民がどのような心構えで働いたらよいかを記した「地下人上下共身持之書(四季農戒書)」を表し、日常生活の隅々まで気を使った指導をしました。
直江兼続の兜の愛の文字は、武田信玄と北条氏政の打倒を祈願した愛宕神社の名称から採られている
元々、米沢の地は直江に与えられた土地だったから、主家に差し出したのは、奴の数少ない、善行だわ(笑)。
上杉鷹山が立て直しをしなかったら財政赤字で崩壊してたんですが
道糞や弾正や出羽の狐とかも居るな
オラの地元のお殿様を卑怯呼ばわりせんといて〜
南部家のお家騒動ナリ😢
ちなみに為信公は宗家側(南部晴政)にいたのよ
南部晴政vs石川高信
↓
津軽為信vs南部信直
たしかに卑怯なやり方をしないと津軽統一なんて出来ないのも分かる!
新発田好きだから直江はホンマに嫌い
「頑張ったのはお兄ちゃんで、、君は他家にいたんだから家督相続で十分よな」
て節があるわな
個人的には兼続からしたら乱当初にすぐ味方しないで情勢を日和見していたのが信頼ならなかったのだと思う。
それでも味方してからは芦名に睨みきかせたり三条攻めしたり武田との外交に尽力したのだから少しは報われるべきとおもうがな
同じ国人でも斎藤朝信は早くから景勝支持を表明し、景虎方の主将格の上杉景信と北条景広の連携を阻止したり武田外交も新発田長敦とともに担当、直江の居城与板城の救援や長岡方面の攻略担当をし子息ともども手厚い報奨を得ているから、
これまでの豪族連合ではなく、中央集権化させたかった思惑があったのではないかと。
にしても酷いわなw新発田を誘った安田顕元さんは申し訳ない気持ちのあまりに切腹してしまったし、論功行賞ひどすぎたね
後に上杉は吉良上野介の息子を藩主にしたけど、皮肉にも景勝が抹殺した景虎の兄弟の子孫。ただでさえ財政難なのに破綻していく。
初っ端、毛利の写真で草
有楽www
オモロい
戦国時代って卑怯でも仕方ない時代でしたよ
批判されたら
武将たちが可哀想です😊
ハントー人ファビョってて草
上田衆による謙信暗殺説ってのもある。
マジかよ…おのれ喜平次
@@lx1125 江戸時代に紀州藩士になった元上杉家臣が「上杉当主には初めて聴くと魂消る様な秘密がある。(意訳)」と語ったとされているのと
上杉謙信の遺体調査の一切を歴代上杉当主が拒否しているらしい所から来たトンでも説だけどね。
他には新発田に対する不遇は長沢勘五郎を取られた逆恨みなんて話も
津軽は江戸中期に断絶して他家の血筋になったからまさに因果応報になった。
直江兼続も子供が無く、コイツの死後、直江家は断絶。上杉景勝の血も江戸時代中期に男系は絶え、吉良上野介の子孫が継ぐ羽目に。因果は本当に巡るwww。ザマアミロ(笑)。
幕末ね!
直江兼継「愛ゆえに!!」
直江兼続の卑怯と言えば陸奥仕置で南部の陪臣九部直実の籠城に苦戦して「降伏すれば城兵は助け大阪で裁きにかける」と申し出て直実が投降したら副将の豊臣秀長が無体と制止するの無視して城兵皆殺しにして直実と近侍も帰還途中で斬首したお話ですね、どの面下げて愛一文字の兜被るのかと(#^^#)
兜の前立ては愛染明王から取ってる「愛」だから、愛情とは無関係。
直家を忠家と言ってました
卑怯者で何が悪い?
直江兼続と織田長益(織田有楽斎)は嫌いなので入っていて良かった
自分、先祖が南部家に雇われていて(武士ではない)姓も江戸時代に南部藩から賜ったもの。
それもあってか津軽為信は大嫌い。弘前城行った事あるけど展示物に唾吐きかけたくなった(やらなかったけど)。
面の皮の厚さランキングはまだですか?
この動画を信用してる人が多いのにビックリ。
やっぱ自分でちゃんと調べるの大事だな。
地元が上杉景勝の出生地の近くで、つまり上田衆の上田、今の南魚沼地方なんだけど、知ってる樋口姓の奴ホントろくな奴はいないから(笑)。兼続なんて言うまでもない。
直江兼続は1つ目はともかく2つ目は別にいいんじゃね
日本を平定した者の政治に刃向かうってのはよっぽどの覚悟をしなきゃいけないだろう
開城する方が甘くて間抜けとしか思えんが
武闘派暴力団の縄張り争いだもの!卑怯でも非情でも、成果をあげたヤツが出世できるんだよ!
コメントほとんど瓜男やな
北条氏康も大概卑怯だよね、昨今上杉謙信や武田信玄と並び立つ名将扱いされているけど人間的には一番嫌いだわ
ハントー人ほるほる動画
長政、長政と人の名前をそんなに連呼しないでくれます?
こんな短時間に何十回も名前を呼ばれたのは初めてだよ😅
卑怯?そんなの当時の人からすれば関係ありません。今の価値観と違いますからね。
直江兼続に墓は要らない。