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六年間、五島でお仕事をさせていただきました。今は諫早市在住ですが、五島での生活はとても懐かしく感じられます。五島の人々に感謝しています。ありがとうございました。
福江島で生まれ育って良かった。島を出て初めてわかった。
風景が懐かしい(T-T)五島は第二の故郷、福江島の下崎山の思い出が、小学校の頃に大阪から長崎に夜行ブルートレインで、毎年夏休みを利用して五島に、長崎港から福江島迄4時間半、途中に軍艦島が見え、船の側を飛び魚が飛んでいました。福江島のバスターミナルに行き崎山方面にあの頃はまだ舗装されておらず、ボンネットバスでした。ギャーのガッガーとするバスもちろん二度踏みしてギャチンジしていました。土埃をあげ崎山に到着、近くに郵便局があったように記憶しています。下崎山には徒歩白浜漁港に、近くには美しい遠浅の砂浜。そこが私の故郷、豆腐と食料品の店を営むおばあちゃんの家、裏には豚を飼っていました。縁側には白浜海岸が見え、丸まった石を越えれば、砂浜、夜は潮騒の子守り唄、天空輝く星空、水平線には漁り火の灯り忘れなれないロケーションです。でも難点が幾つかあり、先ずは豚の匂いと、トイレの匂いは苦手でした。あの頃はどの家でも同じ、牛や豚飼っていました。磯に行くとサザエやアワビ、毎日3食イカの造りや刺身さすがに飽きてしまいました、今思うと贅沢な限りでした。五島のはたなかの銘菓の治やんここがあり、私の好物です。
私も貴方と同じようなおもいです。私の父は五島の人で若松島の対面の中通り島の荒川郷の人でした。そこからの諫早農林学校から朝鮮の京城師範学校を、卒業して敗戦を平壌近くの国民学校の校長をしていたそうで敗戦後ソ連の鉄条網を教え子の父兄が鉄条網を切って38度線を突破して帰国したのですが当時私は3歳でしたが父の故郷で3〜5歳まで爺ちゃん婆ちゃんの元で過ごしました。毎日毎日トウイモト魚の食事で米のご飯は偶にしか食べられませんでしたが今思えば飛んでもなく贅沢な食事でしたが、いくら今贅沢といえ毎日毎日同じような物ばかり食べると嫌になるものです。それはとにかく昔の島の生活は貧乏なのか贅沢なのか分かりかねますが、懐かしい美しい風景がよみがえり思いでです。爺ちゃんは、船も作るし山仕事、畑仕事もやれる本当に立派な漁師でした。カンコロ餅作ったりするめを干す婆ちゃんの姿も今は昔のこと。
@@恭治-m4y 中通島は上五島ですね。行った事はないのですが、昨今は五島は注目されていますよね。去年封切された、コトー診療所映画を見ていると、五島を思い出します。ロケーションが五島に良く似ていて、物思いにふけ、涙腺が緩みます。五島で生まれ育った訳では無いけれど故郷を感じるのは不思議です。それ程インパクトが幼少の頃にあったと思います。私の妻は長崎県出身で良く働き子供を育ててくれました。子供も立派に成長し、何故かの縁でしょうか、息子は長崎大学を卒業、娘は国立病院機構の看護師から今は大手企業の看護師として働いています。私は、年金で生活しています狭心症や心筋梗塞を患い隠居。昔の思い出を回想する日々を送っています。
父が下崎山の出身でした、今も本家があるので長崎から貨物船で行きます。美しかった白浜は埋め立てられて海岸線は遠くへ行ってしまいました。それでも所々変わらない風景に安堵します。すっかり世代も代わって徒然草ですが、行けば旧道を辿って先祖の歩いた道を歩くのが趣味です。
@@kouzi9561 返信ありがとうございます。下崎山の無形文化財のヘトマトがある場所が動画で映ります。そこが私の想い出の場所です。近くに暗渠排水溝があります。今は、畑になっていますが、まさしくその場所がお婆さんの家でした。平屋の小さな家見覚えないでしょうか?小さな食料品や雑貨を営んでいました。その場所から白浜浦がすぐそこに!性は林でした。墓地は下崎山中学の上あたり、又もう一つの墓地は上崎山にありました。また五島でモグラもみました!白浜浦の右手から上がる道、岬の方へそこは磯があります。グーグルで見る景色は懐かしくもあり、風景が変わっているのが寂しく思います、時代ですね。下崎山向町には親戚がいます。
@@ジェシカマックイーンさま、最初の記憶は50年以上前なので、その頃の下崎山で買い物が出来る商店は数軒しかなかったのか?。バス停を降りて白浜へ続く道路へ入ると、山城神社へ行く道に坂があってその先に祖父の離れがありました。坂の手前には牛が繋がれていて、良く牛を見ました。神社へ行く別れ道の所から浜まで直線道路になっていて、真っ直ぐ進むと左にカーブして港へ続き、カーブの手前を右に行けば海岸側にサカイ商店があってその先の右側に伯父宅があります。九区だったか海水浴の時は木札をどこかに渡して泳いでました。墓は同じ所ですね、昔はよく草刈りに行きました。コロナ前に丘を越えて箕岳へ登ると、海岸線が侵食で手前に来ていたので半世紀でこんなに変わるのかと驚きました。
37分25秒、楓丸の雄姿が動画で見られるとは思わなかった。昭和32年の就役だから、令和五年で66年。もはやご存命ではないだろうけど、事故に遭わず起こさず天寿を全うしたと信じたい。タイムマシンがあったら、もう一度乗ってみたい。
平成生まれ五島育ち小学の修学旅行は長崎市内中学でも九州のどこか船での見送り紙テープは3月末の風物詩です
毎年夏に旅行へ行く五島列島。昔の映像なのに見たことのある教会が出て来たら、過去の映像に懐かしさをおぼえる不思議な気持ちになった。
はぁ、、、。教会な。なめんな
@@damm123 あ、ホントだ間違ってる。先輩!間違いの指摘ありがとうございます✨
@@BESStoMUGI 人間が出来てらっしゃる。
愛💖と平和✨を感じますね。ありがとうございます🙏。🥰
今では、福江~長崎間は、ジェットフォイルで1時間25分。この頃は、福江~長崎間は、フェリーで約5時間。。子供たちにとっては、ワクワクドキドキの大冒険だったんですよね😄
昼に長崎港を出て、着いたらもう夕日が海の向こうにあると聞いた。聞いた話では、フェリーはなくてよく揺れる小さな船で乗客が吐きまくりながら八時間近くかかって航行していたとのことだが、いつの時代なんだろう。
今は亡き両親の新婚旅行先が黒部と長崎でした。この映像は両親が行った頃です
五島福江島には二度まいりました。夕暮れ時の堂崎天主堂は物寂しく感じました。二度ともカトリック教会を訪ねる旅でした。思い起こすと懐かしい旅でした。
五島のオープニングの教会は、おそらく桐教会…桐ノ小島は、山頂まで段々畑だったんですね… 半世紀以上も前の五島列島ならよく見られた風景…白黒ですが、青空と高台にある白亜の教会とエメラルドグリーンの海が思い起こされます。
平戸のエメラルドグリーンの海もなかなかですゾ★☆(*´з`*)☆★
私の知ってる〈教会〉です。ラテン語のミサ、聖歌、ベール、男の子の侍者。原爆記念日の新聞記事はながらく長崎の教会のミサの写真でした。今は見られなくなりました。
これはいい。。。心に染み入る
五島で洗礼を受けた赤ん坊も還暦前なんだな。この動画に映ってる人は何人生きているだろうか。
ねずみ島行きと同じ形のポンポン船、鶴丸が映ってた😮懐かしい。焼玉エンジンだったのよね😊
私の従叔父も福江で勤務していました。最盛期に比べて、人口は半減したと聞きますが、行ってみたいなあ。
汽車もエレベーターもテレビで見るだけ・・・スゴイ時代でした。参考になります。
五島列島育ちとか根性ありそう
あぁ~♪長崎の~♪鐘はなる~♪
長崎見る前に、ソ連!ソビエト連邦!!そうその通りでした!
ワシが三才ぐらいの頃はギリギリ舗装されてない道路があった!!!その後、すぐアスファルトになったから・・・・舗装されてない道ってのは新興住宅地出来る前位じゃね? 今で味わうとしたら
長崎の街場面では旧車の王道年代車両が沢山いる
激動すぎる…
16:33 一隻三鳥うまっ
この中にばーちゃんいたら笑うwww
まじでいるかもしれない。絶対、誰かしら居る気がして人物全員を注視して見てる。
河野太郎衆議院議員伊東智美です。
自分用メモ 15:35
早く帰りたいなあ。コーローナー(怒)
ちなみに、五島には今もあるか解らんが聖水と呼ばれる奇跡の水っぽいのがあったよ洞窟内で獲れる水で、多くの信者が汲みに来てたよ。
NHKは我々国民の血税で成り立つ組織なのだからそれらが持つ映像や音声の一切の権利は我々国民にある。従って、NHKが持つ一切の映像または音声作品はインターネットにおいて全国の国民が無料で視聴できるようにするのが正しいあり方であり今すぐそうすべきである。
イヌ、あっち行け―だよな全く!
隠れキリシタン舟隠し外目うむうむ
水揚げ量日本一??
58:15茂木の人間は今も昔も、、、
「土人の踊り」とNHKが人種差別してるな。
ソビエト言うとる…いつやろか。
ソ連崩壊は1991(平成3)年12月ですから、それ以前ですかね
李承晩ラインはやめてくれ。
まったくです。
うちの親戚、李ラインまで行って命からがら逃げ帰ったらしい。長崎新聞には連日のように「李ライン!」と大きく見出しが出て漁師が捕まったニュースで大騒ぎしていたと聞いた。漁師は相当に恐れていたそうだよ。何で、李承晩がそんなことをするのかとの理由まで噂話が流れていた。
六年間、五島でお仕事をさせていただきました。今は諫早市在住ですが、五島での生活はとても懐かしく感じられます。五島の人々に感謝しています。ありがとうございました。
福江島で生まれ育って良かった。
島を出て初めてわかった。
風景が懐かしい(T-T)
五島は第二の故郷、福江島の下崎山の思い出が、小学校の頃に大阪から長崎に夜行ブルートレインで、毎年夏休みを利用して五島に、長崎港から福江島迄4時間半、途中に軍艦島が見え、船の側を飛び魚が飛んでいました。福江島のバスターミナルに行き崎山方面にあの頃はまだ舗装されておらず、ボンネットバスでした。ギャーのガッガーとするバスもちろん二度踏みしてギャチンジしていました。土埃をあげ崎山に到着、近くに郵便局があったように記憶しています。下崎山には徒歩白浜漁港に、近くには美しい遠浅の砂浜。そこが私の故郷、豆腐と食料品の店を営むおばあちゃんの家、裏には豚を飼っていました。縁側には白浜海岸が見え、丸まった石を越えれば、砂浜、夜は潮騒の子守り唄、天空輝く星空、水平線には漁り火の灯り忘れなれないロケーションです。でも難点が幾つかあり、先ずは豚の匂いと、トイレの匂いは苦手でした。あの頃はどの家でも同じ、牛や豚飼っていました。磯に行くとサザエやアワビ、毎日3食イカの造りや刺身さすがに飽きてしまいました、今思うと贅沢な限りでした。五島のはたなかの銘菓の治やんここがあり、私の好物です。
私も貴方と同じようなおもいです。私の父は五島の人で若松島の対面の中通り島の荒川郷の人でした。
そこからの諫早農林学校から朝鮮の京城師範学校を、卒業して敗戦を平壌近くの国民学校の校長をしていたそうで敗戦後ソ連の鉄条網を教え子の父兄が鉄条網を切って38度線を突破して帰国したのですが当時私は3歳でしたが父の故郷で3〜5歳まで爺ちゃん婆ちゃんの元で過ごしました。
毎日毎日トウイモト魚の食事で米のご飯は偶にしか食べられませんでしたが今思えば飛んでもなく贅沢な食事でしたが、いくら今贅沢といえ毎日毎日同じような物ばかり食べると嫌になるものです。それはとにかく昔の島の生活は貧乏なのか贅沢なのか分かりかねますが、懐かしい美しい風景がよみがえり思いでです。
爺ちゃんは、船も作るし山仕事、畑仕事もやれる本当に立派な漁師でした。カンコロ餅作ったりするめを干す婆ちゃんの姿も今は昔のこと。
@@恭治-m4y 中通島は上五島ですね。行った事はないのですが、昨今は五島は注目されていますよね。
去年封切された、コトー診療所映画を見ていると、五島を思い出します。
ロケーションが五島に良く似ていて、
物思いにふけ、涙腺が緩みます。
五島で生まれ育った訳では無いけれど
故郷を感じるのは不思議です。
それ程インパクトが幼少の頃にあったと思います。私の妻は長崎県出身で良く働き子供を育ててくれました。
子供も立派に成長し、何故かの縁でしょうか、息子は長崎大学を卒業、娘は国立病院機構の看護師から今は大手企業の看護師として働いています。
私は、年金で生活しています狭心症や心筋梗塞を患い隠居。昔の思い出を回想する日々を送っています。
父が下崎山の出身でした、今も本家があるので長崎から貨物船で行きます。美しかった白浜は埋め立てられて海岸線は遠くへ行ってしまいました。それでも所々変わらない風景に安堵します。すっかり世代も代わって徒然草ですが、行けば旧道を辿って先祖の歩いた道を歩くのが趣味です。
@@kouzi9561 返信ありがとうございます。下崎山の無形文化財のヘトマトがある場所が動画で映ります。そこが私の想い出の場所です。近くに暗渠排水溝があります。今は、畑になっていますが、まさしくその場所がお婆さんの家でした。平屋の小さな家見覚えないでしょうか?小さな食料品や雑貨を営んでいました。その場所から白浜浦がすぐそこに!性は林でした。墓地は下崎山中学の上あたり、又もう一つの墓地は上崎山にありました。また五島でモグラもみました!白浜浦の右手から上がる道、岬の方へそこは磯があります。グーグルで見る景色は懐かしくもあり、風景が変わっているのが寂しく思います、時代ですね。下崎山向町には親戚がいます。
@@ジェシカマックイーンさま、最初の記憶は50年以上前なので、その頃の下崎山で買い物が出来る商店は数軒しかなかったのか?。バス停を降りて白浜へ続く道路へ入ると、山城神社へ行く道に坂があってその先に祖父の離れがありました。坂の手前には牛が繋がれていて、良く牛を見ました。神社へ行く別れ道の所から浜まで直線道路になっていて、真っ直ぐ進むと左にカーブして港へ続き、カーブの手前を右に行けば海岸側にサカイ商店があってその先の右側に伯父宅があります。九区だったか海水浴の時は木札をどこかに渡して泳いでました。墓は同じ所ですね、昔はよく草刈りに行きました。
コロナ前に丘を越えて箕岳へ登ると、海岸線が侵食で手前に来ていたので半世紀でこんなに変わるのかと驚きました。
37分25秒、楓丸の雄姿が動画で見られるとは思わなかった。昭和32年の就役だから、令和五年で66年。もはやご存命ではないだろうけど、事故に遭わず起こさず天寿を全うしたと信じたい。タイムマシンがあったら、もう一度乗ってみたい。
平成生まれ五島育ち
小学の修学旅行は長崎市内
中学でも九州のどこか
船での見送り紙テープは3月末の風物詩です
毎年夏に旅行へ行く五島列島。
昔の映像なのに見たことのある教会が出て来たら、過去の映像に懐かしさをおぼえる不思議な気持ちになった。
はぁ、、、。教会な。なめんな
@@damm123
あ、ホントだ間違ってる。
先輩!間違いの指摘ありがとうございます✨
@@BESStoMUGI 人間が出来てらっしゃる。
愛💖と平和✨を感じますね。ありがとうございます🙏。🥰
今では、福江~長崎間は、ジェットフォイルで1時間25分。
この頃は、福江~長崎間は、フェリーで約5時間。。
子供たちにとっては、ワクワクドキドキの大冒険だったんですよね😄
昼に長崎港を出て、着いたらもう夕日が海の向こうにあると聞いた。
聞いた話では、フェリーはなくて
よく揺れる小さな船で乗客が吐きまくりながら
八時間近くかかって航行していたとのことだが、いつの時代なんだろう。
今は亡き両親の新婚旅行先が黒部と長崎でした。この映像は両親が行った頃です
五島福江島には二度まいりました。夕暮れ時の堂崎天主堂は物寂しく感じました。二度ともカトリック教会を訪ねる旅でした。思い起こすと懐かしい旅でした。
五島のオープニングの教会は、おそらく桐教会…
桐ノ小島は、山頂まで段々畑だったんですね… 半世紀以上も前の五島列島ならよく見られた風景…
白黒ですが、青空と高台にある白亜の教会とエメラルドグリーンの海が思い起こされます。
平戸のエメラルドグリーンの海もなかなかですゾ★☆(*´з`*)☆★
私の知ってる〈教会〉です。ラテン語のミサ、聖歌、ベール、男の子の侍者。原爆記念日の新聞記事はながらく長崎の教会のミサの写真でした。今は見られなくなりました。
これはいい。。。心に染み入る
五島で洗礼を受けた赤ん坊も還暦前なんだな。
この動画に映ってる人は何人生きているだろうか。
ねずみ島行きと同じ形のポンポン船、鶴丸が映ってた😮懐かしい。焼玉エンジンだったのよね😊
私の従叔父も福江で勤務していました。
最盛期に比べて、人口は半減したと聞きますが、行ってみたいなあ。
汽車もエレベーターもテレビで見るだけ・・・スゴイ時代でした。参考になります。
五島列島育ちとか根性ありそう
あぁ~♪長崎の~♪鐘はなる~♪
長崎見る前に、
ソ連!ソビエト連邦!!そうその通りでした!
ワシが三才ぐらいの頃はギリギリ舗装されてない道路があった!!!
その後、すぐアスファルトになったから・・・・
舗装されてない道ってのは新興住宅地出来る前位じゃね? 今で味わうとしたら
長崎の街場面では旧車の王道年代車両が沢山いる
激動すぎる…
16:33 一隻三鳥うまっ
この中にばーちゃんいたら笑うwww
まじでいるかもしれない。
絶対、誰かしら居る気がして人物全員を注視して見てる。
河野太郎衆議院議員
伊東智美です。
自分用メモ 15:35
早く帰りたいなあ。コーローナー(怒)
ちなみに、五島には今もあるか解らんが
聖水と呼ばれる奇跡の水っぽいのがあったよ
洞窟内で獲れる水で、多くの信者が汲みに来てたよ。
NHKは我々国民の血税で成り立つ組織なのだからそれらが持つ映像や音声の一切の権利は我々国民にある。従って、NHKが持つ一切の映像または音声作品はインターネットにおいて全国の国民が無料で視聴できるようにするのが正しいあり方であり今すぐそうすべきである。
イヌ、あっち行け―だよな全く!
隠れキリシタン
舟隠し
外目
うむうむ
水揚げ量日本一??
58:15
茂木の人間は今も昔も、、、
「土人の踊り」とNHKが人種差別してるな。
ソビエト言うとる…いつやろか。
ソ連崩壊は1991(平成3)年12月ですから、それ以前ですかね
李承晩ラインはやめてくれ。
まったくです。
うちの親戚、李ラインまで行って命からがら逃げ帰ったらしい。
長崎新聞には連日のように「李ライン!」と大きく見出しが出て
漁師が捕まったニュースで大騒ぎしていたと聞いた。
漁師は相当に恐れていたそうだよ。
何で、李承晩がそんなことをするのかとの理由まで噂話が流れていた。