レビ記 Leviticus【概観】

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  • Опубліковано 26 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 26

  • @kazuyoshisakamoto4096
    @kazuyoshisakamoto4096 Рік тому +7

    この動画に出逢えたことに感謝します。

  • @lplplolo5638
    @lplplolo5638 4 роки тому +36

    素晴らしい!これ楽しく聖書学べますね

  • @phoebegrace6170
    @phoebegrace6170 4 роки тому +20

    翻訳のお働きに感謝します!レビ記の理解を深めるために拝見しました。
    日本語でこういった動画が見られるのは本当に素晴らしいことだと思います。主が翻訳に携わっているお一人お一人を豊かに支えてくださいますよう、お祈りします🌸

  • @030zoro5
    @030zoro5 4 роки тому +39

    素晴らしいです!このチャンネルに出逢えたことを神に感謝してます!

    • @shuwww6686
      @shuwww6686 4 роки тому +9

      レビ記をちゃんと解説してるコンテンツは殆どない!教会の説教でも、一部の聖句のみが比喩的に引用されるだけ。ちゃんと理屈で解説してるのは素晴らしい。

    • @gmyk8216
      @gmyk8216 3 роки тому +1

      ほんとうです。

    • @佐藤眞知子-q2g
      @佐藤眞知子-q2g 5 місяців тому

  • @bellchrist8475
    @bellchrist8475 2 роки тому +3

    とても分かりやすく参考になりました。ありがとうございます😃

  • @北山剛士-z2p
    @北山剛士-z2p 3 роки тому +6

    和解がテーマか。清いとは分離されているということなのか。感謝と謝罪の心を持って神と和解したいですね。

  • @MWa-zz6kr
    @MWa-zz6kr 3 роки тому +3

    わかりやすい解説短時間でありがとうございます。
    今出エジプト記読んでいます。

  • @goodsarapark
    @goodsarapark 2 роки тому +1

    すばらしいです。

  • @章松原-x7y
    @章松原-x7y Рік тому

    神は素晴らしい

  • @白うさぎ-x4x
    @白うさぎ-x4x 3 роки тому +2

    素晴らしいです。レビ記を与えられた目的・意味を理解する事ができました。クリスチャングループでの学びに使わせていただきます。感謝!!

  • @John-micg
    @John-micg 2 роки тому +1

    難しいレビ記が分かり易く説明されていますね!蒲焼きは好きなんですけどね😱

  • @marsmallow_17
    @marsmallow_17 18 днів тому +1

    Just a Christian who's learning Japanese here. ❤

  • @ueno915
    @ueno915 3 роки тому +1

    遂にAIが聖書を分析か。

  • @nehemiahbuilding1109
    @nehemiahbuilding1109 3 роки тому

    死体は触って良いんです。だっても昔のルールだだから今のやることはモウセイのルールではなく

  • @MrEjidorie
    @MrEjidorie 3 роки тому +3

    レビ記第25章第44節から46節にある奴隷制度を肯定した記載と、21世紀に生きる我々の価値観との整合性を説明して下さい。さらには同じくレビ記第18章第22節に見られるようなLGBTに対する否定的な見解は許されるべきものとクリスチャンはお考えなのでしょうか?

    • @hishouga4631
      @hishouga4631 3 роки тому +12

      こんにちは!めちゃくちゃ鋭い質問だと思いますし、私が興味あるトピックなので、一人のクリスチャンとして、考えを述べたいと思います。どちらに関しても、私自身も違和感を感じるのが正直なところです。創世記1章26-27節や新約聖書を見ると、主人や奴隷など関係なく、どんな人でも「神のかたち」であり、平等に扱われるべき、というのが聖書の掲げているビジョンです。これは21世紀の私たちにとって、重要なビジョンだと思います。一方で、レビ記が書かれたのは3000年以上前で、当時の世界では奴隷は物同然で、主人は好きにしていいのが当時の常識で、且つ社会や、経済の基盤になってしまっていました。奴隷制度を一日で排除するのは残念ながら可能ではなかったのです。(例えば、今日からCO2排出を禁止することはできず、30年かけて無くそうとしていますよね)レビ記や申命記(特に申命記15章)は当時の世界の中で、奴隷制度が蔓延している世界の中では画期的なくらいに奴隷に良い扱いを教えていたのです。21世紀にも奴隷として働かされている人がいます。聖書を信じている者としては、今日にでも無くなってほしいものですが、現実的にはそれは少しずつしか変わっていかないのです。一つずつ、制度が変わり、会社が変わり、消費者意識が変わり、百円でも給料を上げ、一人ずつ救われるためには、妥協とも捉えられそうな、地道なステップが必要なのかもしれない、そういう風に捉えています。
      同性愛の箇所についてですが、まずLGBTという「人」と同性愛という「行為」を切り分け、レビ記は行為の方を話していることが大事かと思います。そもそも聖書が教える良い性というのは世の中から見ると境界線が非常に狭く見えると思います。簡単に言うと、愛し合う夫婦の関係の中で存分に楽しむ、というのクリスチャンのあるべき性の考え方です。そういう意味では、不倫はともかく、婚前のセックス、一切のポルノに対しても否定的です。なので聖書全体では、LGBTの方々を狙い撃ちして否定しているのではなく、そもそも性に関して、聖書の価値観は古代中近東の社会、ギリシャ・ローマの社会、21世紀に社会、どれとも大きく異なっていたのです。一方で、クリスチャンは誰を肯定して、誰を否定する、と言える立場ではありません。マタイ書5章では「情欲を抱いて女性を見る者」、この様な人も、聖書が教える生き方をできていないということです。ということは、私ももちろん、誰もがアウトなのです。そして、アウトな人は皆平等にアウトなので、神様からの赦しとセカンドチャンスが必要としています。LGBTの方を否定することなんてしたら、自分も否定することになるのです。なので、本来は誰もが性的に問題を抱えていて、より良く性を扱って行けるよう神様に助けを求める。これがクリスチャンのスタンスかと思います。
      長くなりましたが、参考になりましたでしょうか。

    • @MrEjidorie
      @MrEjidorie 3 роки тому +2

      @@hishouga4631 丁重にご返事頂まして、大変ありがとうございます。私は以前から日本人の知的弱点は聖書の無知にあると考えておりました。因みに私はクリスチャンでありませんし、いかなる宗教にも帰依しておりません。ただ学生時代から異文化コミュニケーションに関心があり、その事を自分のライフワークとして学んでまいりました。昨今英語教育改革が盛んに叫ばれていますが、その内容は専ら英語の4技能を中心としたスキルの向上のみに関心が集中し、英語が広く話されている欧米社会の精神的支柱であるキリスト教に全く言及されていないのは大変残念です。聖書の知識や見識無くして英語の習得は不可能と言うのが私の考えです。以下は私のHisho Ugaさんに対する質問です。お気を悪くする内容があるかもしれませんがどうぞお許し下さい。
      >一方で、レビ記が書かれたのは3000年以上前で、当時の世界では奴隷は物同然で、主人は好きにしていいのが当時の常識で、且つ社会や、経済の基盤になってしまっていました。奴隷制度を一日で排除するのは残念ながら可能ではなかったのです。
      3000年以上昔に奴隷制度は人間が作ったものですか?それとも神が作ったものですか?それとも神の認可の下で人間が作ったものでしょうか?神は全知全能ですから神の了承なしに奴隷制度が出来上がるとは考えられません。もし神の許可なく奴隷制度が出来上がったとしたら神は全治全能ではなくなってしまいます。
      >レビ記や申命記(特に申命記15章)は当時の世界の中で、奴隷制度が蔓延している世界の中では画期的なくらいに奴隷に良い扱いを教えていたのです。
      神がレビ記や申命記でどんなに奴隷を人道的に扱うように説いたとしても、そもそもそのような制度を最初に容認した神の真意は何なのでしょうか?
      「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイによる福音書:第5章28節)
      上記の新約聖書の一節について私はクリスチャンにとってとても不愉快な質問をさせて下さい。お気を悪くされるかもしれませんが、これはノンクリスチャンにとって極めて素朴な疑問です。イエスとて30代前半の男盛りです。当然オナニーはしたともいます。そのとき何をオナペット(所謂オカズ)にしたのでしょうか?これは真面目な質問です。当然イエスは女性を姦淫の目で見る事を自ら断っています。ここから私はイエスは同性愛者ではなかったかの言う可能性を感じています。12使徒はすべて男性です。どうしてイエスは女性を使徒として登用しなかったのでしょうか?まさか森喜朗氏のように女がいると時間がかかると思っていたわけはないと思います。私はイエスと特にペテロの間に師弟愛以上のものを感じます。世の中には自分が同性愛者の為に罪の意識に悩むクリスチャンがたくさんいます。もしイエスが同性愛者かも知れないという可能性があればこうした人達に対する大きな福音となります。決して珍説でもなければイエスを冒涜する異端説でもないと私は考えます。
      クリスチャンの中には聖書の無謬性を頑なに主張する人達がいます。これがキリスト教のアキレス腱となっており、日本でクリスチャンが増えない最大の原因となっていると思います。21世紀に入り社会の変化や科学の進歩が加速度的に速くなっています。2000年から3000年以上も昔に書かれた書物の内容を絶対視すると必ず世の中の変化や進歩との整合性が保たれなくなります。その結果キリスト教は人々から信頼されなくなります。事実そのような現象は世界中で見られます。聖書無謬論(Biblicism)は単なる原理主義であり反知性的でさえあると思います。一字一句聖書の文言を無条件に信じる事が果たして神の御心に沿うものなのか私には疑問に思います。このような事を言うとクリスチャン(特に福音派の人達)は私を異端視します。でもモーセ五書を聖典とするユダヤ教徒から見れば新約聖書を聖典とするキリスト教徒は異端です。そもそもイエス自身が生まれて8日目に割礼を施されたユダヤ教徒でした。(ルカによる福音書:第2章第21節)そして彼が十字架に掛けられた時もイエスはユダヤ教徒として死にました。イエス自身キリスト教徒ではありません。このように自分達の立ち位置を絶対視し他を異端扱いするのは神の摂理に反するものと考えます。そもそも全宇宙を支配する全知全能の神から見れば、異端とか正統とかいうのは人間の認知による僅かな誤差に過ぎません。他人の信仰を異端呼ばわりできるのは神だけです。往々にして神の権威を衣にかけて人を異端視扱いしたり批判するのは、神を冒涜するものだと思います。元々人間の認知で理解できないのが神です。それを人間の意識と言う雛型に押し込めて論理化する試み自体が無謀でありバベルの塔を建設しようと試みるような神に対する挑戦です。一人一人の心に自然と素直に感じるもの。私はそれを信仰と考えています。神の権威による理性と分別を封印した結果の信仰、同調圧力による信仰、或いは周りの人々に対する承認要求に基づく信仰は、神を欺く行為であり真の信仰とは思いません。

    • @hishouga4631
      @hishouga4631 3 роки тому +5

      @@MrEjidorie さん、クリスチャンではないにも関わらず、相当の知識と関心をお持ちでびっくりしています。非常に鋭い考察お持ちなので、これらのトピックについて真剣に取り組まれていることが伝わります。
      奴隷制度を含め人の尊厳を貶める制度作ったのは人間です。根本的に神は人に自由意志、善と悪を選ぶことを許し、その上で、人間は悪を選ぶことが多く、それは奴隷制度などに発展してしまいました。
      マタイ5:28について、とてもストレートな質問ですね。(笑)馬鹿にする質問ではなく、真剣に考えている質問ならタブーはないと私は考えているので、この様な質問を聞けて嬉しいです。これはあくまでも個人的な見解としてご理解ください。「情欲を抱いて女を見る者」、ここで強調されているのは「情欲を抱いて」だと考えています。もし同性愛者の男性が情欲を抱いて男を見たら、それは同等の罪になると思います。ちなみに、ルカ書8:2-3では、多くの女性がイエスに同行したと書かれています。(残念ながら)福音書でもその後の新約聖書も男性の記述の方が多いですが、よく見ると多くの女性も働きに関わっていました(ローマ書16章など)。イエスは愛のことについて多く語っていますが、それはギリシャ語で性的な愛(エロス)ではなく、アガペー(無条件の愛)についてなので、私たちが「愛」とだけ、記述を読むとそこを勘違いしやすいです。イエスが語る親密な愛は相手の喜びや悲しみに寄り添ったり、犠牲を払ってでもその人の徳を求めたり、謙遜に仕える事で、性的なものではないです。イエスは同性愛志向だったとは言い難いですが、ヘブル書2:18にあるようにイエスは人間として試み(誘惑)を経験してきたからこそ、同性愛者であれ、へトロセクシャルであれ、あらゆる葛藤に深く共感をしてくれていると思います。
      また、異端や聖書無謬説などについてもとても良い考察がありますね。私は高校生の時に聖書に出会い、そしてイエス様に出会い、人生が変わりました。しかし、十年以上経って、信仰の理解は成長したと思います。高校生の時の私は今から見ると異端的な考えもあったのかもしれませんし、今の私も誤った考えがあるかもしれません(いや、確実にあります)。仰る通り、誰かを異端と断定する前に、自分を吟味し、自分の考え、そして行動が聖書に示されているものと合っているのか見極める、謙虚な姿勢が必要だと思います。ただ、一方で、聖書を勉強した上で、そして神様と歩んできた中で経験したことのゆえに、確信があることはストレートに語っていきたいです。このバランスは難しいですね・・・。実際のところ、(教祖の崇拝など)明らかな異端について研究し、警鐘を鳴らす専門家の必要はあります。しかし、ほとんどのクリスチャンにとっては、他者が異端かどうか判断するのではなく、自分に誤った理解や生き方があるのか、これに集中することが求められるいると思います。
      ちなみに、私も異文化コミュニケーションは好きで最近では「異文化理解力」という本を読み、とても勉強になりました。言葉だけではなく、文化の理解も大事ですよね。

    • @MrEjidorie
      @MrEjidorie 3 роки тому +1

      @@hishouga4631 先日は丁重なご返事を頂きまして恐縮しております。人と信仰について意見を交換する事は極めて困難な事であり、世界中何処でもこの話題を避ける傾向があります。しかしそれは信仰が人間の本質に深く根差した問題だからだろうと考えています。日本人は全般的に普段この問題を個人で深く考える事が少ないように思われます。多くの場合日本人は周りとの和を重んじるため、まず自分の考えをまとめ、それを表現するよりも周りの空気を読み相手を忖度し、最後は長いものに自然に巻かれる事を最優先にする傾向があります。何よりも和を以て貴しとなす事が日本人の美徳とされ、そこから外れると未熟者、理屈っぽい、協調性がない、空気が読めない、目立ちたがりなどの恰も社会的不適合者のように見なされる事があります。高度に均一化された日本社会では、全体の調和のために個人を犠牲にする事が推奨される気風があるように思われます。このような社会でクリスチャンとして生きていく事には色々とご苦労があるのではないかと推察いたします。
      さて私がこのようにLGBTについてたびたび取り上げるのは私にとってかけがえのない人がLGBTだからです。それまではこの問題は他人事としてほとんど関心がありませんでした。私自身はヘテロセクシャルですがこの問題は私の重大な関心事となりました。と同時にこのLGBTもクリスチャンにとって大変重い課題となっているのではないでしょうか。社会の潮流はLBGTを同じ人間として尊重する方向に向かっており、私達の住む日本も例外ではありません。当然キリスト教も同性愛者を単に罪人として退ける事ができなくなりました。なぜならそのようなスタンスを取り続ける事はキリスト教は社会から孤立する事となるからです。いま世界のクリスチャンは如何に聖書の記述内で社会の進歩との整合性を取ろうかと模索しているように思われます。下記のサイトにもありますように日本の司法は同性婚を合憲と見なしています。ua-cam.com/video/E7hu2qOEPcU/v-deo.html 
      「同性婚」認めないのは違憲 賠償請求は棄却(2021年3月17日)
      そして日本のクリスチャンのこの問題に対する対応の模索が以下のサイトです。この取り組みについての私の意見は、そのサイトのスレに投稿致しましたのでもし宜しかったらご覧下さい。(追伸:投稿したサイトが二度に渡ってあっという間に削除されてしまいました。絶えず検閲しているのでしょうか?自分と異なる意見に対するクリスチャンの不寛容さを感じました。ハーベストタイムミニストリーの中川健一牧師のサイトも意見をスレできない設定となっています。やはり同じ理由からでしょうか?)因みに私が投稿したスレは次の通りです。『LGBTの人達をあるべき人間の模範からの逸脱者、病人、可哀そうな人達、救われなければならない人達と言う思い上がった独りよがりな態度が彼らをますます追い込み、その結果精神病発症率の高さ、自殺率の高さを生み出しています。LGBTはすべて後天的なものであるという根拠はあるのでしょうか?LGBTを罪と見る発想はかつて女性をより罪深き性と見なした時代を想起させます。』
      ua-cam.com/video/hIL9noEvWlM/v-deo.html
      [CGN FOCUS]994編 現代のジェンダー意識について考えるセミナー
      それからハーベストタイムミニストリーの中川健一牧師の同性愛者に対する考えが以下のサイトです。彼はいかにも福音派の牧師らしく聖書に則てはっきりとLGBTを罪と見なし、しかしLGBTであってもクリスチャンとして受け入れると言っています。しかし同性愛はあくまで罪として認め悔い改める事が必要です。即ち自身のセクシャリティを否定する事で助けてあげるという上から目線の態度です。絶対にLGBTは彼の教会には訪れないでしょう。そこには救いはありません。
      ua-cam.com/video/aDzCSmlL_hs/v-deo.html
      Q39私の教会に、同性愛者のクリスチャンがいます。どう考えたらよいのでしょうか?【3分でわかる聖書】
      そして最後は下記のサイトです。二人の若い神学生が同性愛や自由神学について意見と交換するというか、罵詈雑言を浴びせています。正直私は切なくて最初の部分しか見ていません。キリスト教は愛の宗教ですよね。でも彼らの言葉には自分と異なる価値観を持つ者に対する憎悪しか感じられませんでした。彼らの言動は人々の救済を叫びながら自分と異なる考えを持つ人間を冷酷に粛清した共産主義者のようです。
      ua-cam.com/video/sAmvqQYpMm0/v-deo.html
      【自由主義神学】ゲイクリスチャンを抱きしめる神学生たち。韓国よりブラジル産の愛を込めて❤
      しかしこのような他に対して不寛容で独善的なクリスチャンが多くいる一方で、聖書に拘束されず自由に意見を語るリベラルなクリスチャンのサイトも国内外に多数存在します。この事は私にとっても大きな救いです。
      最後になりましたが、私は聖書無謬論と原罪論がキリスト教が日本で福音を広めるうえでの最大の障壁になっていると思います。取り分け神の創造物の最高傑作であり自身の姿に似せて作った人間を罪深きものとした原罪の考えは神に対する最大の冒涜と私は考えます。人間は色々と欠点もありますが基本的には素晴らしいものであり決して罪深いものではありません。別にキリスト教に帰依しなくても神を感ずる者はすべてその瞬間に救われます。私が考える神と人間は以下の通りです。
      例えばよちよち歩きの幼子が今独り歩きを始めたとします。当然危なっかしい歩き方です。そしてその幼子がふと振り返るとそこにお母さんが立っている。お母さんが助けてくれるかどうかは分からないが、そこにいてくれるだけで幼子は歩く勇気が与えられます。神と私の関係或いはイメージはそれによく似ています。でもそれが本当にお母さんなのかは幼子には分かりません。もしかしたら不二家のペコちゃん人形を自分の母親と勘違いしているかもしれないし、只の幻影かも知れない。実際に助けてくれるかも分からないしただの幻影にすぎない眼差しを母親のものと感じた時、幼子は恵みを救いを感じるのではないでしょうか?
      以上が私が考える神と人間の関係です。そもそも神の実在など誰にも分かりません。神は存在すると断言できる根拠も実在しないという根拠もどちらもありません。なぜなら神は人間の認知を遥かに超越したものだからです。但しにも拘らず人間は古今東西神を感じてきた事は否定できない事実です。何人も神を感じて生きています。自称無神論者でさえ神を感じてます。只顕在意識で認知していないだけです。従ってこの世にノンクリスチャンは存在しても不信心者などは存在しません。神に対する認知が違うだけです。 「イエスは彼(トマス)に言われた。『わたしが道であり,真理であり,いのちなのです。わたしを通してでなければ,だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6) 私はイエスだけが神への道とは考えていません。私達一人一人が神への道だと私は個人的には考えています。

  • @pontarou01
    @pontarou01 Рік тому

    生贄にされる動物が可哀想だ。
    荒野に放たれたら、ヤギ死んじゃうじゃん。

  • @竹田憲二-q7k
    @竹田憲二-q7k Рік тому +1

    内容は、いいのですが、話しが早すぎる、ゆっくり話して下さい。