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あの大戦の記憶、歴史を、人々の生きた証を語り継いでいく事がこの国の未来に繋がるこれは、私が病院で出会った元海軍パイロットの、大空の記憶...ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー皆さんご無沙汰しております。今回の動画は、本当は終戦記念日に投稿出来たら一番良かったのですが終戦記念日二日前に唐突に昔、病院で出会った元帝国海軍艦攻パイロットのおじいさんに聞かせて頂いた話を思い出し、大急ぎで動画を作り始め何とか完成させる事が出来ました。元々、この話を動画にする予定はなかったのですが、大戦中の話を直接お聞きできる機会も少なくなり、このまま私の心の中に抱えていては、いつか忘れられてしまうのだろうな、と思い制作を決断しました。今思い返せば、もっと沢山の事を聞けたはずだったと後悔が残っていますがお話して頂きメモを取った内容で、動画を構成しています。
自分も偶然入院した時に元パイロットのお爺さんと仲良しなって色々毎日話聞かせてもらいました😊✨家族の方々は爺さんと仲良くしてるのがビックリだったそうで😆普段は口数少ない頑固ジイ様なんですよね💦との事でした。戦争行った方々は話したくても話せない、本当は聞いてもらいたいけど口数少ないがゆえ聞いて貰えないのがあったみたいですね💦偶然病院の喫煙室で他の方が戦争の経験談してたのをその頑固爺さんが本当の戦いも知らねくせに‼と小言言ってたのを自分が聞いてゼロ戦何型乗ってたんですか??俺プラモデルいっぱい作りました‼‼って話したのが始まりでしたね😊☝️
@@むんみ様 あの大戦を経験された方にお話を伺える機会も本当に少なくなってきましたね…私が話を聞かせて頂いた方は空の話をする時に目を輝かせていましたね~ 過酷な空ではあったのだと思いますが、そこには青春もあったのだなと思いました。
ぼくのひいおじいちゃんも陸軍でしたあまり戦争の話はしなかったのですがやはり韓国や中国が嫌いなようでした中国戦線で戦っていたことは知っています
私の曽祖父の父も陸軍でした南方の東南アジアで戦ってマラリアで戦死したと曽祖父に聞かされています安らかに眠っててください…
俺のじいちゃんも大東亜戦争時に満州へ出兵していたそうです。没後になんでその時の話を聞いておかなかったのか、後悔しかありません。じいちゃんは話したがらなかったかもしれませんが、当時を生き抜いた生き証人の言葉は、又聞きでは決して理解できない真実があったはずです。俺の記憶の中のじいちゃんは、とても従軍経験者とは思えないほど朗らかで優しい人です。あの辛い時代を生き抜き、今という未来に命を繋いでくれた祖父やその戦友の方々には、ただただ感謝しかありません。
私の祖父も満州にいて、終戦時にソ連に連行抑留されました。一度だけその話を聞いたことがあります。カスピ海の沿岸を列車で数日かけて移動したこと。強制労働としてジャガイモなどを作らされたこと。同じ宿舎にドイツ兵もいて、言葉は通じなかったが、身振り手振りで意思疎通ができたこと等。ソ連といっても広いですが、「じいちゃん」様も過酷なご経験をされたのではないかと思います。いつ帰れるかわからない、もしかしたら二度と日本に帰れないかもしれない絶望に近い状況に負けず、よく生きて帰ってきてくれたと改めて感謝したいです。私の父は当時10歳前後で、田舎の親戚に疎開して肩身の狭い思いをし、子供ながらに「こんなときに親父がいてくれたら」といつも考えていたそうです。そんなある日、畑仕事を手伝っていると、「ようっ」という声が聞こえ顔を上げると、そこに祖父が立っていたと・・・・日本全国にこういった一家の主人の帰還ストーリーがあったんでしょうね。
私の父もロシアに抑留されました。辛かったでしょうが、5体満足、手足もちゃんとして、ナホトカから舞鶴港に昭和23年11月の終わり頃、帰ってきたそうです。その後、母と結婚、私達姉弟が生まれました。もう他界していますが、生前もっと話を聞いておけば良かったと思います。「ウラルを越えて」という本を読んでおります。
国を、子孫を守るために戦ってくれた方々にただ感謝。
10年ほど前に地元兵庫県のとある町の映画館で「永遠の0」を一人で観に行きました。その時にバリアフリーエリアで車椅子の老人の方が家族の方と来ていらして、上映後に号泣されていたのを覚えています…
私の祖父は陸軍でした。戦時中の話をよくしてくれましたが、レイテ島の攻防戦だけは決してしませんでした。悲惨な戦いだった事を知って祖父にその事を話すとそれまで口にする事がなかった忘れたくても忘れられないあの時の事を涙ながらに語ってくれました。私も一緒に泣いた祖父との思い出として今でも覚えてます。
レイテ島攻防戦... まさに地獄だったと思います...貴重なお話ですね。 私も聞かせて頂いたこの話をずっと忘れないようにしたいと思います。
@@kezu0120Studio さんレイテ島攻防戦は学校でサラッと学んだだけでした。図書館やネットで調べてその悲惨さを祖父にそれを聴こうとした事を謝った時に話してくれました。当事者だから語る事が許されるような私の知らなかった決して文字や写真では分からない話でした。
お祖父さまは主様に伝えておきたかったんでしょうね。そのくらい人生で戦争が大きな存在だと思います。
レイテ沖海戦 戦艦武蔵が撃沈されたところ生き残った乗員は徒歩で転進途中、カニバリズムに合い命を落した乗員も居る映画:野火 は、実話に近いだろうね兵站が絶たれるとそうなるしか無いのかな同じ日本人同士なのに本当の地獄を見た人達は語らないよね
昔施設で働いていた時に偵察機に乗っていたお爺さんが写真を見せてくれた。私達がもし今飛行機に乗る訓練をしたならば同じ笑顔をしただろうと言うような笑顔だった。青春だったんだよ、我々と同じ人間だから。あと航空巡洋艦最上に乗っておられた方も写真を見せていただいたが、船首がもげてねと教えて頂きました。施設時代はまだ現役兵だった方が80代後半でおられたのでよく教えていただきました。南京突入された方、通信手、戦艦勤務に飛行機乗り、台湾に輸送中足を貫通銃創、打通後の中国で機関銃手、ノモンハン事件で戦闘、昔の日本は凄いわ。
前半九七式、後半が天山。10代、20代を戦争に生きた方々は紛れもなくそれが青春だったはずで、辛さや理不尽さや若々しさがリアルで涙がこぼれた。
私に話をしてくれた方も目を輝かせて語ってくれました辛い事も沢山あったと思いますが、それと同時に大空を駆けた事が青春だったのだなと気付きましたね
動画の始めが97式の1号ですね。(緑で機首もスマートなのが3号で97式の代表だが)開発時には零戦にも使ったエンジン「栄」の開発も進んでおり何れ載せ換える前提で1号は「光」を使っていました。そのため機首が少し大きな光のおかげで1号の見分けになってます。(機体そのものは栄に合わせて作った)そのため1号は数が少ない。2号は?となりますが2号は三菱の機体で採用試験で相当に実力があり本採用決める寸前に「中島機の方を本採用するが三菱は中島機(のちの3号)の結果が出るまで本採用とする」という指示で残された。2号は99式艦爆と同じ固定脚機ですので遠目では99式に見間違えてたとか。
私の父は死ぬまで戦時中の話をしてくれませんでした。今回の映像は戦後まで生き抜いた父の代弁をしてくれているようで心に沁みました。
そうなのですね…視聴して下さってありがとうございました。
私のお爺さんも、絶対に話してくれませんでした。当時、どんな事があったのか、分かりません。ですが、沖縄に行った時、沖縄戦の悲惨さを知りました。語り部さんからの話の途中から涙が出て止まらなくなって、、話す事も辛いだろうと。、戦争は、絶対にしてはいけない事!なんです。ゲームの中で追体験したら分かるよね。FPSゲームやるから、実際にはもっと悲惨なんだって分かる。
素晴らしいと言う言葉では当てはまらないとは思いますが…感激いたしました。先人の方々にただただ感謝です。日本人であって良かった誇り高く感じております。私たちも後世に頑張って繋げないと、あらためて思いました…
私の父親も海軍のパイロットでした。やはり空を飛ぶのが大好きなようでした。プラモデルの飛行機を持ったらいつまでも飛ばせて遊んでいましたね。
戦時中、まだ子供だった人の話です。大戦末期、次々と飛び立っていく特攻機を見送りながら、おじいさんが、「彼らはもう二度と戻って来ることはない。こんな老いぼれが生き残り、未来の国作りに必要な若者たちがどんどん死んでゆく。」と呟いたのが何十年経った今も決して忘れられない光景として心に残っているそうです。
実際の光景を目の当たりにされたのですね…確かに、あの大戦では未来を担うハズの若者が大勢亡くなってしまいました。あんな惨劇は二度と繰り返してはいけないと思っています。貴重なお話をありがとうございます。
亡くなった祖父を思い出して泣いてしまいました。父方祖父は南方戦線で、母方祖父は知覧で戦いました。今の平和があるのは先人の努力と忍耐の賜物です。
とても良い映画でした。鹿屋から出撃された特攻隊員は薩摩富士を横に見ながら南に向かい、山が見えなくなると気持ちが特攻モードに切り替わったそうです。そんな話を思い出しました。2度とこんな事があってはいけません。
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。そうですね... あのような悲劇を、絶対に繰り返してはいけませんね。
綺麗な映像とあの日の記憶。戦争は美化されるものではないけど、あの戦いの中で散っていった英霊の方々にはいつも深く感謝の念をいだきます。あの日、命がけで守って戦ってくれた方々に誇れる日本を末永く残して受け継いでいきたいそんな気持ちで一杯になりました。ありがとうございます。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。そうですね、あの時代の悲劇と未来を信じて必死に戦った人たちが居た事を、この先も語り継いでいかなくてはなりませんね… 平和な日本であり続ける為にも。
素晴らしい動画ありがとう…戦時の話は胸が詰まりますね…日本人が日本人を守る為に神風となり、敵に向かう…私たちより崇高な魂を持った若者が…神風の映像は涙が出て止まりません良いお話ありがとうございました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。本当に私もそう思います...
艦攻パイロットによる空戦指揮任務…そんなのあったんだ。やっぱ当事者しか知らない事って沢山ありますね。あとIL2からWTに映画みたいに切り替わるところ、編集うますぎ。
ありがとうございます。私も初耳で、聞いた時は本当に驚きました。現在で言う空中管制機(AWACS)に似たようなものだったのでしょうか?しかし、米軍の練度あるパイロット達による緻密な連携と数の前には必死の抵抗も虚しく多くが撃墜されてしまったのだと思います...
朝日に染まるプロペラが綺麗で・・・。美しいがゆえに、その後の特攻、全機撃墜とか。胸が苦しくなりますねぇ。大変貴重なお話と、素晴らしい映画、ありがとうございました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。本当に辛いですよね... この話をして下さったおじいさんはもっと辛かったと思います...
この動画のおかげで、苦難の時代を生きたおじいさんの生涯が、今を生きる多くの人の心にに染み渡ることと思います。うまく言葉が見つかりませんが、戦争のような無益な争いのない世の中を作るのにきっと役に立つと思います。
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。
本当に、元海軍パイロットのおじいさんの天国の様に、平和で、ずーっと広がる空が実現するといいですね……
そうですね...同感です。
とても良い動画でした!!やはり戦場にいた方の話はとても貴重ですね...天国でも平和な空を飛んでほしいですね...
ありがとうございます!_(._.)_お話を伺った方は日中戦争以前から航空隊に所属していて、背筋もまっすぐでとても元気な方でした「操縦も数学も、僕が一番だった」ととても自信に満ち溢れていたのがとても印象深かったです。どうか、天国では平和な空を自由気ままに飛んでいてほしいですね。大好きな飛行機と一緒に。
趣味で飛行機の操縦をしていた者ですが、操縦桿を握って空を飛ぶというのはとても面白いものです。雲の上から眺める景色や天気、地形を読んで航法したり、風と格闘しながら着陸したり、僅かに空いた時間に同僚パイロットとたわいの無い話をしたり、もう夢のような時間でした。戦時中は命を取り合う戦いをしていたのでしょうがそれでも少しの間は飛行機の操縦を楽しむなんて瞬間はあったのでしょうか。諸先輩方には敬意しかありません
ありがとうございます私が話を伺った方は目を輝かせて当時の空と航空機たちを振り返っていたので、戦争の過酷な空でも青春が確かにあったのだなと感じました
私も仕事でたまたまお会いしたご年配の方で、戦艦武蔵の元乗組員だった方とお会いした事がありました。その方は武蔵が撃沈された時には運良く違う艦に搭乗されていたため今日まで生き延びる事ができたと仰っていました。そしてその方も海兵として戦った事を誇りにされていました。素晴らしい動画ありがとうございました。どうか戦争のない平和な日々がずっと続きますように。世界から戦争がなくなりますように。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。戦艦武蔵ですか!とても貴重なお話ですね。そうですね...同感です。平和に暮らせることが一番良いですよね。
素晴らし作品ありがとうございました。パイロットの気持ちを分かっていただいて、伝えていただいてとても嬉しいです。今度大空と戦闘機のお話をしませんか?元航空自衛隊 飛行教導隊 上級教導資格 部隊歴:第2航空団第203飛行隊、飛行教導隊(アグレッサー)、第8航空団第304飛行隊 F15部隊に18年間在籍、F15飛行時間約3000時間の元イーグルドライバーです!(^^)!
こちらこそ視聴して頂きありがとうございますm(_ _)mとても凄い経歴ですね!私は飛行機が好きな普通の若者ですが、自衛隊を、そこで働いていた方をとても尊敬しています!
@@kezu0120Studio さん ありがとうございます。これからも素晴らしい作品をお願いします!(^^)!
艦攻は強力な対艦、対地攻撃能力と引き換えに足が遅く 敵戦闘機や対空砲火による攻撃で損耗率が高いそうだが それでも終戦まで戦い抜き 戦果を挙げたのは本当に凄いと思います。
お話を聞かせて頂いたおじいさんは、大戦以前から航空隊に所属していたそうですが、日中戦争から終戦まで、約8年間戦い続けてきたと考えると本当に凄いと思います。
八年も戦い続けて、しかも生き残るとは本当に凄いですね。
聞いた話を元に映像を作り残すのは有意義だと思いました。他の動画も見てみたいと思います。
ありがとうございます
貴重なお話し、ありがとうございました。ただただ飛行機が好きで、空を翔ぶ事が好きな若者たちだったんですよね😢向こうの世界では仲間達と、どんな表情でどんな言葉を交わしながら翔んでるんですかね。
そうですね...私がお話を聞かせて頂いた方は純粋に空が好きで、戦争という過酷な時代ではありましたが、青春でもあったのだなと思いました
やはり戦争の出来事を正しく知るためには、戦争体験者の方の話しを聞くのが一番だと思います。 貴重な経験をこのように動画として投稿してくださり有り難うございました。
ありがとうございます。年々、戦争体験者の方々の高齢化により話を直接伺う事も中々難しくなっています...こういった貴重な話は、どういった形でも良いので残していかなければなりませんね。
貴重な動画を見せて頂いて誠にありがとうございます。この海軍パイロットの方を、ただただ尊敬するばかりです。自分も、先人の方々に対して、恥ずかしくない生き方をしていこうと改めて思いました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。そうですね... 今思い返しても本当に凄い方だったと思います。あの大戦に携わった方々が残してくれた今の日本を、しっかりと生きていきたいと思いますね。
kezuさんは本当にすごい。戦争というものを、戦争に関わった人を、完全に理解した上で作品を作っているのですね。だからこそ我々の胸を打つ作品が世に出るのでしょう。ありがとうございます。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。全てを理解しているとは思っていませんが、あの大戦を戦った人たちを想いながら作品を作っています。
生粋の艦攻乗りのお言葉なんですね。お乗りになっていたのは「天山」でしょうか。30年以上前になりますが、ハワイ真珠湾の記念館に展示してあった、撃墜された日本海軍の97艦攻のひしゃげた無線機の波長調整板を見て言葉を失った事を想い出しました。当時、命を賭けて事に臨んだ方々のお陰で、今日の我々が在る事を改めて感謝申し上げます。
何に乗っていたかは聞くことが出来ませんでした...あの大戦の記憶は忘れてはいけませんね…
仕事を続けてください、あなたは歴史を生かし続けています、そして私はこのようなことをもっと見たいと思っています.
ありがとうございます。これからも続けていきたいと思います
涙流れました。貴重なお話有り難う御座いました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
圧倒的な物量を誇る米軍に対して、祖国の為に最後まで戦い抜いた戦士達に感謝しかないですね😃👏我々は同胞として、彼らの愛国心と敢闘精神を永遠に忘れてはいけませんね!!
そうですね...守りたい人々、国の未来を信じて戦われた方々が居た事、彼らが残してくれた平和な今の為にも忘れてはいけませんね。
話が進むに連れて涙が頬を伝っている自分に気がつきました…
自分の祖父は父方が身体が小さく役場の仕事をして招集礼状や戦死通知を届けていたそうです。祖父が生前涙を流しながらできる事なら自分を行きたかった。周りの友人、知人を送り出して本人は申し訳ない気持ちで辛い日々だったそうです。その代わりかどうかは分かりませんが、弟が負傷して帰還後又、出征してルソン島で戦死されたそうです。母方の祖父は中国戦線から無事に生還したと聞いています。父方の祖父が出征出来なかった事で今があり、こうして生きています。英霊の皆様にはどうか安らかにおやすみください。日本を守ってくださりありがとうございました。今の日本をどう見えているかわかりませんが、未来永劫日本人が繁栄していく為に先の大戦を語り続けていきたいと思います。
クオリティ高いからまじで作品何度見ても飽きない…
ありがとうございます!
私の祖父も天山機で沖縄特攻寸前の生き残りでした。残った5機で、千葉県香取基地で再編成(勿論、特攻)され終戦。最期の飛行は皆で富士山上空を一周して、鈴鹿市で機体を引渡したそうです。同じように『戦争でなけりゃ、飛行機ほど面白いモンは無いよ』とよく言ってました。 オリジナルでしょうか?表題の絵が素晴らしいです。天山に向う人の姿が祖父に思えて、いきなり涙がでそうになりました。そして、誇らしく感じたのは事実です。いい動画を有り難うございました。
ありがとうございます。そうだったのですね。私がお話を伺ったおじいさんも、空で飛ぶことが一番楽しかったと言っていました。きっと、あの時代もパイロットになった人たちは、大空を誰よりも高く、速く、自由に飛ぶことに憧れを持ち、それを誇りに飛んでいたのだと思います。動画の表紙はオリジナルで合成したモノです。戦闘機と飛行場はゲーム内で撮影した画像で、背景の雲と、隊員の方の後ろ姿が映った写真を着色し切り抜き、合成して作成しました。テキストが入っていないバージョンの画像もTwitterにて公開しているので、よろしければご覧ください。twitter.com/kezu0120/status/1561682412085489664/photo/1
最後涙が出てきました。素晴らしいです、お話を共有いただきありがとうございました
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございました。
素晴らしい動画でした。戦争そのものに是非はあると思いますが、敵味方関係なく純粋に祖国のために戦った兵士の方々は本当に偉大であり、尊敬に値します。おじいさんも靖国で旧友との再会をなさっていらっしゃると信じています。
ありがとうございます。そうですね。同感です...戦争は悲惨で起きてはならない事ですが、そこに携わり守りたいものの為に戦った人たちの精神は国や陣営に関係なく称えられるべきだと思います。
@@kezu0120Studio 些少ですが、別動画にて寄付させていただきました。今後も楽しみにしております‼
日本の未来を守るために戦った大日本帝國陸海軍の兵士の皆様には本当に感謝してるし、尊敬もしてる。貴重な話をこうやって色んな人に知ってもらう本当にいい動画。
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。こういった貴重なお話は、どんな形であれ残して語り継ぐことが大切ですよね...
@@sushiromifune7096 日本は、悪いこともしたし、いいこともした、だから、どちらか一方に決めつけるのはよくないよ。
素晴らしい動画を公開してくださり、ありがとうございます。この動画は決して戦争を賛美するトーンにはなっていません。かといって反戦のメッセージが連呼されてもいません。時代や運命に翻弄され、意図せずあの戦争で悲惨な戦いに身を投じることになった無名の兵士の方々への敬意と鎮魂の思いに溢れています。迫力ある戦闘シーンも一級品で、レシプロ軍用機ファンの私には堪りませんが、きっと最後まで見終えた方は戦争はもう絶対にしてはいけない、避けねばならないと思うのではないでしょうか。作品という形でいつまでも戦争の悲惨さを伝え続けてください。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。当チャンネルでは戦争の歴史を出来るだけありのままの姿で、両視点から映像化する事を信念としています。このお話は病院で偶然聞かせて頂いたものだったのですが、近年戦争を経験された方が少なくなり、こうしたお話も伺えなくなってきている現実を前に、映像化して残し、伝えていかなければならないと思いました。私も軍用機が好きでたまらないので、戦闘シーンは飛行シーンは、拘って作りました。
私の一番上の叔父さんは、一式陸上攻撃機に搭乗しておりました。開戦から終戦までです。最後の任務は、沖縄特攻の戦闘機部隊を誘導する任務でした。種子島沖合いまで誘導し、真っ直ぐ飛べば沖縄だよ。涙が出ても何も出来ない誘導任務。8月13日が最後の任務だったそうです。私達の今日が有るのも、先人の皆様方のお陰です。 今を生きる私達も、後世を生きる皆様方に何かを残せればと、思います。先人の皆様方、有り難うございます。
大昔、仕事で知り合った爺さんと仲良くなって、右手の中指と薬指の先が無いものだから、「爺さん、旋盤か何かで、指先を飛ばしたんか? 労災事故か?」と聞いたんだ。そうしたら 「違う、違う、グラマンにやられたんだ!」と答えが帰ってきた。爺さんは局地戦闘機雷電に乗っていて、撃墜されて海上に居たら、グラマンがそれでも機銃掃射してきて、海に潜ったんだけど、指に当たってしまった。沿岸近くだったから掃海艇に救われたんだと。雷電は操縦しにくい飛行機だったとか言っていた。もう30年ほど前の事だから、もう存命では無いだろう。
ものすごく貴重な話ですね。雷電は機体の運用構想上、ゼロ戦のような軽快さは無く、翼の関係で失速事故が多かったと聞きますが高速性や一撃離脱戦法に特化した素晴らしい戦闘機でした。脱出したパイロットを攻撃する事はジュネーブ条約で禁止されていましたが、相手がベテランであるほど、殺しておかないと戦闘経験をフィードバックされ味方に被害が拡大する為、そんなことを律儀に守っていた国はほとんどいなかったと聞きますね...
@@kezu0120Studio ものすごく元気な方で、軍隊で鍛えられたと言って、その質問をした時に、腕を後ろに回してピョンピョンとウサギ跳びをして見せてくれました。また後日、飛行帽を被った写真も見せてもらいました。
私の叔父は、台湾で特攻の順番待ち(正確には飛ぶ飛行機がなく)終戦を迎えました。子供の頃夏休み田舎に行くと、必ず戦争での体験談を聞かせてくれました。苦しかった事悲惨だったこと、そんな中でも楽しかった事、色々と・・・。貴重な話を聴けたことは私の財産に等しいものです。
そうだったのですね…私もお聞かせ頂いたこの話を忘れないようにしたいですね
私の亡くなった曾お祖父さんは陸軍で中国へ派遣されたらしいです。その後負傷して帰ってきたらしいですが、足にできた弾のような跡は「ネズミに噛まれた」と言い話してくれませんでした。周りに戦争のことを話してくれる、空で飛んだことを誇りに思える方から話が聞けたのはとても羨ましいです
ありがとうございます特に陸軍は地獄すら生ぬるい程の想像を絶する戦いをしていましたから、話そうとしない人も多いですよね...
@@kezu0120Studio そうなんですね. . .返信ありがとうございます
素晴らしい映像を有り難うございます。動かない写真や書物でしか解らない、戦争の現場の体験者の言葉を見事に映像化していただき、ただただ涙が止まりません。本当に良い作品を有り難うございました。😂
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます本当はもっと色々とお聞きしたかったのですが… 色々と悔やまれる所もありましたが、私が聞かせていただいたお話を可能な限り映像化しました。
良い動画を、ありがとうございます。対艦雷撃を3回やって生き残った者はいない、と言われるほど厳しい戦場を生き抜かれた搭乗員さんへの感謝とご冥福をお祈りします。合せてこのお話を動画にまとめてくれたkezu0120_Studioさんにも感謝を。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。今話を振り返っても本当に凄い方だったと思います。もっと詳しいお話をお聞きしておけばよかったと、後悔が残っていますが、動画という形で残すことが出来て良かったです。お話をして下さったおじいさん、そしてあの大戦で亡くなられた全ての方のご冥福をお祈りいたします。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます!_(._.)_
動画後半、肉体を離れて夕日の中を一人で飛び、天国へ向かうお爺さん。いつの間にか懐かしい愛機に収まって操縦桿を握っている。「あぁ、そっか。俺も向こうに行くんだったな。」一人で寂しくも自由に飛んでいる。だがやはり寂しい。俺もとうとう一人生き残った。その罰として一人で行かなきゃならんらしいな。途方に暮れながらも風防越しに景色を見るといつか南国で見たものと同等か、それ以上に美しい夕日の中を飛ぶ。発動機は念入りに分解整備され、良好良質な部品と潤滑油で仕上げられたかのように凄まじく快調だ。だがやはり寂しい。誰かいないものか、と今一度見渡すと雲の切れ間から先に散っていった予科練の同期や部隊で共に戦った先輩、後輩たちが迎えにきた。あの日、ついに戻らなかった者。あの日、目の前で火だるまになり、砕け散った者。あの日、自分を庇うために決死の覚悟で敵機の大群に挑んだ者と様々だが皆一様にあのときのままだった。「迎えにきてくれたのか。」独り言を言いつつも涙が溢れ、頬を伝う。その涙は悔恨と悲壮の涙。毎晩のように魘された。俺が代わりになれば良かった、俺だけが生き延びてしまった、死なば共にと団結までしておきながらとうとう一人だけ生き延びてしまった。散っていった仲間の中には所帯を持ったばかりの人間や慰問袋と共に内地から送られた手紙に家族と子供の写真が添えられた、幸せいっぱいの人間までいた。皆生き延びたかったのに俺だけ一人、おめおめと生き延びて子供だけでなく孫にまで恵まれた。罪悪感で毎日がいっぱいで毎晩、夢の中で待ってくれ、待ってくれ、行くな、と無我夢中で叫んだ。目を醒ます度に涙を流してただただすまない、と何度謝罪の言葉を述べただろうか。「何哭いてんだよ、貴様は俺たちの分まできっちり人生走ったじゃねーか、それを俺たちが知らない訳ないだろ。貴様が罪悪感に囚われる必要はどこにもないだろうが。何一つ後ろめたい事はないじゃないか。」無線なのか、死後の意思疎通方法なのか、わからないが彼らの一人から声をかけられた。あの日、偵察に出動して、とうとう戻って来なかった一人だ。部隊配属から最後の日まで面倒を見てくれた、気のいい兄貴肌だった。「やっと来たか。ずいぶん待っていたぞ。俺たちの分までしっかり生きていたようだな。長生きしやがって。宴会の準備は終わっているが向こうまではまだ先が長い。邪魔もいないから存分に飛ぶぞ。」その声はかつての上官、冷静ながらどこか血の気が濃い武人肌、空を愛し酒と喧嘩には凄まじい強さを持っていたが女房と子供にはすこぶる弱い家庭人、目の前で逆さ落としを喰らって火だるまになった。散々どやされたがそれでも飛行と理論、そして男とは、を切々と説いたまさに父親そのものだった。「向こうは綺麗な桜が咲いているぞ。桜見ながら一杯やろうぜ、積もる話はじっくり聞かせてもらうからな。それまでにその涙顔はどうにかしておけよ。」そして彼は予科練の同期にして護衛の戦闘機乗り、抜群の運動神経と野生の勘を武器に終戦間際まで共に行動していたが沖縄方面での作戦行動中に敵機に追われていた自分を助けるために囮となり、ついに部下数人と共に敵機の大群に戦いを挑み、結局帰って来なかった。忘れられないその顔、その声、そして脳裏に焼き付いて離れない、最後に見た彼らの表情。かけがえのない仲間たちから思い思いの言葉が次々に耳に入る。お爺さんはここにきてようやく、そして改めて実感した。生きられなかった彼らの時間分は存分に生きられた。人生という戦い、人生という長い長い道のりを全力で走りきった。ふと下界を、雲の下を覗き込む。病院のベッドで人生の最後の最後で自らが体験した出来事を伝えた若者があくせくと働いている。思えば肉体を離れる数日前に戦時中の出来事や彼らの話をしていたな、と今さら思い出した。そうだ、彼に話した時に多少軽くなれたような気がする、今まで話をすることすら躊躇いがあったがこれは誤りだった。本当はもう少しでいいから話をもっと深掘りすれば良かった。だがこれでいい。我が過去を伝え未来を託した若人よ。「あとは頼むぞ。」短く、誰にも聞こえない程度の声で呟いたお爺さん、腕も勘も若さも取り戻した、仲間たちも誰一人欠けずにいる。銀翼連ねて彼らは往く。こんなところかな?
泣いてしまいました
情景が浮かび、涙が溢れ止まりません。。私達が今在るのは英霊や、復興に尽力されたおじぃ様方のような方々のおかげです。皆様に恥じない生き方をせねばと、改め強く思いました。∠(`・ω・´) (/"`・ω・´)
・・・すばらしい動画をありがとうございました。あなたとその元海軍パイロットであるご老人に・・・。
こちらこそ視聴して頂きありがとうございますもっとお話を聞きたかったですが、もう今は叶いませんね…
私たちは皆、この大戦を生き抜いた優秀で運の良い方達の子孫です。なので苦しくても決してあきらめずに、生き抜かなければいけないと思いました。
確かに運も有ったのかも知れないけど、『大空のサムライ』を書かれた坂井三郎さんみたいに何があろうと生きて帰る。部下にも「自爆など絶対にしてはならん」と言っていた様ですし、そう言った坂井さん以外にも生きる努力をしていた方々も居て、そのお陰で今の自分があると思いたい。
貴重なお話、動画をありがとうございます。日本を守るため、国家の存亡をかけた戦いに従事した大日本帝国軍の兵士に敬意を表します。私事で申し訳ないのですが、私の曾祖父が陸軍だったそうで、少しだけ話を聞いたことがあります。私自身も中学生の時の出来事だったのであまり覚えていないのですが、「国を守るとかそんな大きなことをしなくていいから、身近にいる人たちを守っていけるような立派な大人になりなさい。」と言われたことははっきりと覚えています。その曾祖父の言葉のお陰もあってか自衛隊の一般曹候補の試験を合格することが出来て来年から、陸上自衛隊の一員になります。曾祖父の働きに負けぬよう、一生懸命、大切な人のため、国のために働きたいと思っています。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。あの厳しい時代を経験しているからこそ、なお一層意味のある言葉だと感じますよね...私には自衛隊に入隊しようと思える程の根気はありませんが、こういった歴史や物語を多くの方に知ってもらい、平和について、今一度考えて貰えるよう努力していく所存です。陸上自衛隊での勤務、頑張ってください!応援しています。(^-^)ゞ
初めまして。このお爺さんと私の叔父と経歴が似ていたので驚きました。叔父も艦攻のパイロットとして、日中戦争に参加しています。その後1945年4月に小禄基地から鹿屋串良基地に移動。5月夜に夜間雷撃作戦のため出撃し、そのまま還らぬ人となりました。ですので、この動画を見ながら涙が止まらなかったです。素晴らしい動画を作成していただき、ありがとうございました 。
初めまして、こちらこそ視聴して下さってありがとうございます。そうなのですね…もしかすると、どこかで関わりがあったかもしれませんね…
97式1号、3号、天山と時系列もしっかりしたとても素敵な短編映画でした。もっともっと同様な短編映画を期待します!と同時に私の家の近くの鹿屋基地も興味深く視聴させていただきました。合掌、感謝!
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。私が実際に伝え聞いたお話は、今回のモノしか無いので、実録系短編映画は今作のみになりますが他にも、今まで史実を元にした話や架空戦記を投稿しています。
@@kezu0120Studio ありがとうございます!これからはニュースソースとなり得るコメントは少なくなるかと思いますがまた機会がありましたらお願いします!
うちの祖父は開戦時に五航戦瑞鶴で最後は関東の何処か(茂原だか郡山?と言ってた)で終戦を迎えて郷里に帰って来たと言ってました。ずっと戦闘機搭乗員で生前に零戦でどうやってグラマンやシコルスキーに勝てるか聞いたら先に見つけ上を取るんだと言われました。相手がどんな戦闘機でも勝てる自信が有ったと言ってましたが、唯一苦手がB29だったと。とても尊敬する祖父でしたが今年101歳で逝きました。
ありがとうございます。物凄く貴重なお話ですね。 やはり、空中戦においては、敵機に対して有利な位置を確保し先制攻撃を仕掛けた者が制するのですね。 機体性能以前に、やはりココが一番肝心なのだと実感します。ベテランパイロットは堅牢なグラマンF6FやヴォートシコルスキーF4Uを相手にしても、正確にエンジンなどの弱点を狙い撃ちにし、撃墜できたと聞きます。B29は大型機故の堅牢さは勿論、コンピューター制御された銃座や、その他現代機に通ずる40年代にしてはオーバーテクノロジーとも言える技術が沢山盛り込まれていたので、撃墜は本当に難しかったと思います。
俺の曾祖父は0歳の祖父を残して満州に出征。無事に復員し、家族と再会した時は最初誰だかわからなかったと祖父が言ってた。この話を聞かせてくれたのは俺が中国に留学が決まったと報告した時。中国では抗日ドラマが盛んに放送されており、見るたびに曽祖父の話を思い出しては切なくなった。戦争はダメだ。家族の貴重な時間を奪い、後に残るのは悲しい記憶だけ。
お久しぶりです。最後の言葉に、グッと来ました。このお話を見れて、本当に良かったです。これからも、楽しみにしてます。
お久しぶりです_(._.)_激戦を生き抜いてきた人だからこそ、より一層意味のある言葉だと感じました。
@@kezu0120Studio 本当に、力強く、グッと背中を、押してくれますよね。
素晴らしい動画をありがとうございます。語り継ぐべき貴重な体験談ですね。私たちは、忘れてはならない。戦争で何があって、起きたのか。上手く言葉になりませんが…。幾多の犠牲の上に、私たちは生かされている事を心の片隅に。
こちらこそ視聴して下さってありがとうございます。そうですね...同感です。
母方の祖父がジャワ島の陸軍航空の整備兵でした兄二人も含めてすごくかわいがってもらいましたが自分が19の時に72で他界今思えばちゃんと話を聞いておけばと後悔していますただ、残っていたその頃の写真の祖父はすごく楽しそうな笑顔で隊の仲間と写っていました戦争という厳しい時代でも祖父にとっては青春の日々だったんだろうなぁとちなみに復員の汽車が熱田駅に着いた改札で待ち構えたばあちゃんに捕まって(共犯大叔母)そのまま結婚だったそうですwウチだけかもしれませんが女性もたくましく青春してたみたいですw
ありがとうございます。私の家にも多くの兵隊さん方が映った写真が物置の奥にひっそりと仕舞われていました。モノクロの写真で私の知り得ない時代の事ですが、確かにそこに人々が生きていて一人一人に青春があり、人生があったのだと実感しますね。
コメントするのは久しぶりですがちょくちょくkezuさんの動画は拝見していました。先人たちが命をかけて守ったこの国を護るため海上自衛隊に入隊しました。kezuさんの動画はかつての戦いや記憶をなどを風化させないためにも役に立っていると思うのでこれからも応援しています。
お久しぶりです。ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。_(._.)_海上自衛隊への入隊、おめでとうございます!これから大変な訓練などが待ち受けていると思いますが、頑張ってください。私も応援しています。
いつも感動しながら見させて頂いています。ブラジルのアマゾン移住地出身です。戦後移住の戦争経験者のじいちゃん達からお話しを聞きましたが、今思えばもっとお話しを聞いていればと後悔しております。当時は意味のわからなかった親父たちの○○さんは特攻くずれだから根性が違うとか、ガダルカナルの生き残りの方、シベリア抑留の方、満州引き上げの方たちも多くいらっしゃいました。皆さん鬼籍に入られ今となって後悔しています。ブラジルから日本に何十年ぶりに日本に帰られた人たちで戦争経験者の方は必ず靖国神社に参拝に頼まれて連れて行きました。回りのみなさんまで涙涙でした。また素晴らしい作品見させて頂きます。ありがとうございました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。そうだったのですね… 私ももっと多くの事をお伺いしていればと後悔が残っています。それでも、お話し頂いた内容は貴重で、今も忘れる事が出来ません。
91歳で亡くなった義父が海軍航空隊三重12期で、台湾で終戦を迎えたそうです。特攻にも志願しており、あと数日終戦が遅れていたら、女房はこの世に生まれていませんでした。同い年の実父は終戦当時大学生で、神宮で学徒出陣で先輩たちを見送って、1年早く生まれていれば、自分も行っていたそうです。私は団塊の世代ですが、防空壕後で遊んでいて怒られた記憶がありますね。平和はいいことです。本当に。ただ、備えはしなくてはいけません。74歳老人の独り言でした。
戦争は多くの人の運命を狂わせますね…平和が素晴らしい事だと私も思いますが、それを守っていく為には力もまた必要ですね
言葉では言い表せない・・・真のラストサムライとはこの方ですね。日本を守っていただきありがとうございました。
30年近く前に入院した時に元ゼロのパイロットだったお爺さんと仲良しなり色々話聞きました。初めての空戦は怖くて撃ちまくり弾切れした事や特攻隊護衛の話😢凄いヵ頑固ジイ様だったみたいだけど俺が話聞くと何でも話してくれた優しいお爺さんでした。最後に…もし死んだらあの世で仲間や敵だったパイロット達と皆で大空飛びたいなぁ…戦いの空でなくて皆楽しい空で。と遠く見つめて言ってました😢今頃敵味方関係無く楽しく飛んでるかな??英霊に感謝です😭🙏
最後の「飛行機で空を飛ぶのが一番楽しかった!」のコメントに、生まれてくる時代が違ったらもっと楽しかったでしょうね…。小生も過去に現代版の海軍軍用機に乗っていたので、平和な時代に空を飛ばせていただき感謝します。
ありがとうございます。お話を聞かせて頂いている間、ずっと目を輝かせていたので、本当に空を飛ぶのが大好きだったのだなと感じました。
太陽との航空機の映像、景色が奮っていました。 なるほど、実話だったんですね。 数年前のことです。私も最前線で戦ったことのある人の話を直に聴く機会がありました。それがおそらく実戦経験者の話を聴く最後の機会となりました。千葉県の木更津のあたりの隊に属していたそうですが、もろ パレンバン攻略の落下傘部隊員としてオランダ軍と ドンパチやったときのことを語ってくれました。最前線経験者の話というのは 違うものだなあと思いました。実に生々しくて、身長160cmに満たないような 100歳の爺さんでしたが、驚くほど、生き生きとして若々しい動きと 活気ある語りの人でした。 底力のある元気って こんなものかーと思いました。
ありがとうございます。それは貴重なお話ですね…私がお話を伺った元海軍パイロットのおじいさんも、100歳近い方とは思えない程、ハキハキと喋り、全身から元気が溢れ出ている方でした。陸軍の話は聞いたことがありませんが、本当に悲惨な経験をされた方が多いと思います...
いつも素晴らしい映像とストーリーを楽しみにしております。おじいさんの貴重なお話でした。貴方に聞いてもらいとても良かったのではないでしょうか。このような映像で残していただく事が出来、沢山の方々に知ってもらう事ができました
ありがとうございます。私も貴重なお話をお聞かせ頂けて本当に良かったです。あの大戦の記憶を、人々が生きた証を、色々な方の知ろうと思うきっかけにしてもらえると幸いです。
好い作品を拝見させていただきました。ありがとうございます。
こちらこそ、視聴して頂きありがとうございます
天山は美しいですね。素敵な動画をありがとうございます。親戚の叔父は予科練で訓練中に終戦となりました。隣の家のおじいさんは北方にて対潜任務のため航空機に乗っていました。潜水艦とクジラを見間違える事もあったそうです。「敵潜発見か!と思うたら、何が、クジラじゃったわい。笑」戦中を生き抜いた方は皆明るく元気でした。生きている事自体が奇跡なんでしょうね。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。そんな事もあったんですね(笑)私がお話を伺った方もその年齢からは考えられない程ハキハキしていて、背筋がまっずぐでした。
ありがとうございます。ありがとうございます。
貴重なお話をありがとうございます。あの戦争を戦った方の体験談を聞ける機会自体がとても少ないのに、今後はもっと聞けなくなって行きますね…。自分はこれと言った戦争体験を直接聞けた機会は無いですが、戦中に海軍へ行って亡くなった曾祖父の言っていた言葉は胸に残っています。「皆が行っているのに自分だけが行かない訳にはいかない」と。もし生きていたら、色々な話を聞いてみたかったです。
ありがとうございます。私が話を伺ったおじいさんも、もう一度話を聞きたいと思ったときには既に他界されていました…この先、どんどん話を伺える機会が無くなっていくと思うので、少しでも伝え聞いたことはどんな形であれ、残していきたいですね…
感激しました。とても素晴らしい短編映像でした。
私の知り合いのおじいさんは回天の基地で働いていたそうです。😭遺族年金は同じ特攻でも海軍の方が陸軍より少し高いそうです。😭
命をかけてこの国を守ってくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになりました。同時に今のこの国をどう思ってるのだろうと。
素晴らしい動画でした。悲しくもありますが。戦後高齢で亡くなった祖父を思い出しました。祖父は少し戦争中の話をしてくれてましたね。駆逐艦の水兵であったこと。駆逐艦は戦没したこと。戦艦大和を見て乗ってた駆逐艦と同じ艦とは思えなかった事。東南アジアで日本では高価なバナナを食べれて嬉しかった事。戦友が沢山亡くなった事。敵の艦載機の機銃掃射が怖かった事等です。
ありがとうございました。大空にて安らかに・・・・
そうですね...同感です
ただ日本の為否日本の将来の為、東亜の将来の為に戦った日本軍とその将兵に感謝と追悼を。先の大戦、必ずや正しい総括が行われる事と成るでしょう。
343空「剣部隊」の偵察隊と同じ空中管制をなさっていたのですね。「3度雷撃をやったものはいない」と言われた消耗が激しい攻撃を担当し危難を潜り抜けて来られた。貴重なお話の機会を頂けたのですね
本当に貴重なお話を聞かせて頂きました。一生忘れることは無いと思います。
うちは直に軍人の話を聞く事は無かったけど、ご先祖様3人が戦争に征ったと母から聞きました。一人は朝鮮系で重巡「愛宕」乗組員でレイテ沖海戦に参加、戦後まで生き延びました。酒好きで酔っ払うと手がつけられなかったそうです。もう一人は陸軍か海軍かは分からないですが、飛行機の整備兵をしていました。戦後は自動車会社に勤めて出世したそうです。さらにもう一人は...海軍の人で上の役職(恐らく佐官クラス)にいたそうですが、帰って来ませんでした。母によれば、元から帰る気は無かったようです。国の守り人の記憶を風化させてはいけませんね。
同感です。あの大戦の記憶を、人々の生きた歴史を、これからの日本の為にも風化させてはいけませんね…
初めて太平洋戦争に、日本の航空機に興味を持って色々調べていた中学2年生の夏を思い出しました。今一度考えさせられる素敵な動画をありがとうございました。
ありがとうございます。私も同じようなキッカケで戦争の事を調べるようになりました。こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
太平洋戦争ではなく、大東亜戦争です。
配信、拝見致しました!父は整備士、香取に命を受け、トラック島に、後に、横須賀に転勤!戦後は回天の慰霊式に毎年、参列していました!義母、実母、共に被爆者です!平和🕊️となります様に!
とてもイイ話ですね私も約23年前、仕事で道内の広尾町の現場でヒグマ対策としてきてくれていたハンターから聞いた話があります。その方の父親か祖父だったと思うのですが、日本海軍の航空母艦『加賀』に整備兵として乗艦していたそうで、転機となった、ミッドウェー沖海戦で加賀がアメリカの艦載機の爆撃で格納庫内が地獄だったと言っていたことが、今でも思い出します(`・ω・´)ゞ動画アップありがとうございましたm(__)m
こちらこそ視聴して下さってありがとうございます。そうなんですね… 空母加賀は爆弾が直撃、格納庫が誘爆し大炎上、地獄よりおぞましい光景が広がっていたそうですね…
この苦しかった過去を二度と忘れてはいけないとこの動画を見て思いました。この動画は私の心をそして昔おじいちゃんから聞いた大戦中の話の記憶を蘇らせてくれましたありがとうございます。この動画は絶対に未来につなげていきます
そうですね...同感です。大戦の記憶は、継承し未来につなぐことが大切だと思います。同じ悲劇を繰り返さない為にも
同感です
貴重な体験談。その方も、自分の体験した戦争のことを伝えておきたい。と、貴方に託したのでしょうね。素晴らしい動画でした。艦攻乗りで、日中戦争~大戦末期まで生き延びたのは。相当に腕の良いパイロットだったのでしょうね。運も持ち合わせてたのでしょうね。日本海軍の航空機は、防弾がほぼ無いので。
貴重なお話をして頂けて本当に良かったです。日本の攻撃機は防御性能も低く、艦砲や敵機のマトにされ損耗率が非常に高かったという文献をよく目にします。そんな中で、終戦まで戦い抜き、生き残ったのは本当に凄いと思います。話をして下さったおじいさんは「僕の操縦はとっても上手かったんだ。」と誇らしげに語ってくれました。
特攻に志願したが。自分ではなく、部隊で二番目に腕の良いパイロットが指名され出撃。見送る時の心痛はいかばかりだったか、、。大戦末期、特攻に志願しても。本当に優秀なパイロットは、上の判断で。特攻から外すことは度々あったようです。死ねなかった、何故、自分だけが生かされてしまったのか?。仲間の死を胸に秘めて、悔恨の日々を送った元パイロットも多かったと思いますし。そう言った話しを、直接に聴くことは。この先不可能になります。UA-camを通じ、戦争の体験を伝えていくことは。とても重要なことだと思います。軍人だけでなく、一般人の戦争体験も貴重なのですが。皆、高齢化。記憶の継承が必要ですね。私が中学生くらいの頃は、戦争体験の話しを聞かせてくれる人々がいました。その方々も、皆、鬼籍に入ってしまいました。
同じ海軍でも、俺のお爺ちゃんの兄は戦艦武蔵の高角砲担当でした。決して兄の話はしないお爺ちゃんだったので詳細はわかりませんが、当時戦った方に対しての敬意は忘れたことがありません。
そうなのですね…あの時代、必死に戦った人たちが未来の礎になってくれたからこそ、今の日本があるのだと思います。
支邦事変から鹿屋まで。相当に名をはせた方でしょうね。艦攻の爆弾搭載状況がよくわかりました。
私も最初に話を伺ったときにビックリしました。艦攻乗りは生存率が低いと聞いたことがあるので、猶更驚きましたね…
妻の祖父が帝國海軍の方でした。93歳で亡くなられましたが、生前にお会いする機会が少なくお話を聞く機会が余り無かったことが残念です。妻が幼い頃にはよくお話しをしてくれていたそうですが、当時は子供だったのでよく解らなかったらしく今にして思えば貴重な話しをしてくださっていたんだと思います。
ありがとうございます。私も、もっと詳しい事を沢山聞きたかったと後悔が残っています。大戦中の話は本当に貴重で、何とか形にして残していけたら良いなと思っています。
叔父が陸軍で隼のパイロットでした。もう少し戦争が続いていたら今、君とこうして話すこともなかったろうねと言っていた事を思い出しました叔父の仏壇には、隼を後ろにした写真があります。もっと話を聞きたかったのですがズケズケを尋ねる事なんてできませんでした。
素晴らしい映画でしたありがとうございますどうしても泣いてしまいますきっと戦争に行かれた先人の方たちはもっもっと話したかったと思いますなのに戦後の誤った教育によって歪められてしまい、今となっては語り部がほぼお亡くなりになってしまった戦後の我々はとても大きな過ちを犯したと思います今いる我々を豊かに幸せにするために散っていかれたこと、改めて自覚をする必要があると思います合掌
こちらこそ、視聴して頂きありがとうございます私にとっては恐らくこれが最初で最後の貴重な機会だったと思います
家族を守り。大切な人を守り。この國を守ろう。私達も。敬礼。
日本歴史の戦没者、英霊・世界の戦没者方々に合掌。この日本國が現在、他国侵攻の危機に在る事を国民が目覚めるよう祈り。
うぽつです。先の大戦のお話を伝えるのは大切なことですね
ありがとうございます。これから実体験をお聞きできる機会がどんどん少なくなっていくと思うので、記録として残していく事は大切だと思います。
街の集団墓地で町別で戦没者を集めた集団墓地があり先祖の墓参りには感謝に必ず手を合わせに寄ります、その中に母の兄(長男)の墓石もあり戦死地も刻まれています
ありがとうございます。今の日本があるのはあなた達おかげです。
全くの同感です...あの時代を生き抜いた方々の記憶を、忘れないよう継承していかなくてはなりませんね。
戦った人はもう殆どいないないから,kezu0120さんの体験が羨ましい限りです。元海軍のおじいさんも話せて嬉しかったと思います。
私も、貴重なお話を聞くことが出来て本当に良かったです。こういった話は貴重なので形として残していかないといけませんね…
私の母の弟(長男)は終戦の年に海軍予備学生として航空隊に配属され戦闘機パイロットになり特攻隊の直掩隊として出撃したそうです。子供の頃、私が戦争中の話を聞いても全く語ろうとはしませんでした。その訳は後にその叔父の葬儀に際し、少し理解できました。参列した人々の中には腕のない人や顔中ケロイドの人々がいたからです。話したくない悲惨な思い出が沢山あったのだろうと思います。😟
お話ありがとうございます。戦争中であっても青春を忘れず、中には私がお話を伺った方のように誇りに思っていた方も居ると思いますが、大部分は悲惨な思いをされた方が多いと思います。
話したかった事話せて本当に良かった
生き残られた零戦のベテラン搭乗員の方の証言本色々読みました。「敵の弾の飛んでこない空を、思いっきりもう一度零戦で自由に飛んでみたい」撃墜のプロというだけでなく、生来飛ぶのがお好きなんだなって思いました。
あの時代、空を自分の手足で飛ぶことを夢見て戦闘機パイロットになった方が多かったと思います。軍用機、特に戦闘機は民間機と違い、誰よりも速く強く飛ぶ為の性能が詰まっているので、皆憧れたのでしょうね…
ラバウル上空で散ってしまった曽祖父、帝国の英霊たちの為にも、平和な時代を続けられるようにしなきゃな...それが今私の出来る感謝だから。
そうですね…平和な日本であり続ける為に必要な事を国民一人一人が意識できると良いですね…
私の中学校の国語の先生がゼロ戦乗りでした。授業中に先生に消しゴムをちぎって投げてふざけていたら、先生が教卓の陰に隠れ、箒で竹やりを真似て空をつつくような仕草の後、「俺は人殺しだ!」と訳の分からないことを言い始めました。その後、戦争経験者でゼロ戦乗りで人を殺した経験があることを話してくれました。教室は静まり返り、ゼロ戦に被弾し、機体右下の被弾した穴から海が見え死んでなるものかと右足に大けがを負いながら帰還したことや、空中戦の経験などを話してくれました。当時私は戦争に興味は無く、「授業がつぶれるならいいや」程度に聞いていました。今思えば、もっと話を聞きたかったなぁと、当時の先生の顔を思い出しました。とりとめの無い話でスミマセン。
ありがとうございます。そういった貴重なお話程、後になってもっと聞いておけばよかったと後悔しますよね...
あの大戦の記憶、歴史を、人々の生きた証を
語り継いでいく事がこの国の未来に繋がる
これは、私が病院で出会った
元海軍パイロットの、大空の記憶...
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皆さんご無沙汰しております。
今回の動画は、本当は終戦記念日に投稿出来たら一番良かったのですが
終戦記念日二日前に唐突に昔、病院で出会った元帝国海軍艦攻パイロットのおじいさんに聞かせて頂いた話を思い出し、大急ぎで動画を作り始め何とか完成させる事が出来ました。
元々、この話を動画にする予定はなかったのですが、大戦中の話を直接お聞きできる機会も少なくなり、このまま私の心の中に抱えていては、いつか忘れられてしまうのだろうな、と思い制作を決断しました。
今思い返せば、もっと沢山の事を聞けたはずだったと後悔が残っていますが
お話して頂きメモを取った内容で、動画を構成しています。
自分も偶然入院した時に元パイロットのお爺さんと仲良しなって色々毎日話聞かせてもらいました😊✨家族の方々は爺さんと仲良くしてるのがビックリだったそうで😆普段は口数少ない頑固ジイ様なんですよね💦との事でした。戦争行った方々は話したくても話せない、本当は聞いてもらいたいけど口数少ないがゆえ聞いて貰えないのがあったみたいですね💦偶然病院の喫煙室で他の方が戦争の経験談してたのをその頑固爺さんが本当の戦いも知らねくせに‼と小言言ってたのを自分が聞いてゼロ戦何型乗ってたんですか??俺プラモデルいっぱい作りました‼‼って話したのが始まりでしたね😊☝️
@@むんみ様 あの大戦を経験された方にお話を伺える機会も本当に少なくなってきましたね…
私が話を聞かせて頂いた方は空の話をする時に目を輝かせていましたね~ 過酷な空ではあったのだと思いますが、そこには青春もあったのだなと思いました。
ぼくのひいおじいちゃんも陸軍でした
あまり戦争の話はしなかったのですがやはり韓国や中国が嫌いなようでした
中国戦線で戦っていたことは知っています
私の曽祖父の父も陸軍でした
南方の東南アジアで戦ってマラリアで
戦死したと曽祖父に聞かされています
安らかに眠っててください…
俺のじいちゃんも大東亜戦争時に満州へ出兵していたそうです。
没後になんでその時の話を聞いておかなかったのか、後悔しかありません。
じいちゃんは話したがらなかったかもしれませんが、当時を生き抜いた生き証人の言葉は、又聞きでは決して理解できない真実があったはずです。
俺の記憶の中のじいちゃんは、とても従軍経験者とは思えないほど朗らかで優しい人です。
あの辛い時代を生き抜き、今という未来に命を繋いでくれた祖父やその戦友の方々には、ただただ感謝しかありません。
私の祖父も満州にいて、終戦時にソ連に連行抑留されました。
一度だけその話を聞いたことがあります。
カスピ海の沿岸を列車で数日かけて移動したこと。
強制労働としてジャガイモなどを作らされたこと。
同じ宿舎にドイツ兵もいて、言葉は通じなかったが、身振り手振りで意思疎通ができたこと等。
ソ連といっても広いですが、「じいちゃん」様も過酷なご経験をされたのではないかと思います。
いつ帰れるかわからない、もしかしたら二度と日本に帰れないかもしれない絶望に近い状況に負けず、よく生きて帰ってきてくれたと改めて感謝したいです。
私の父は当時10歳前後で、田舎の親戚に疎開して肩身の狭い思いをし、子供ながらに「こんなときに親父がいてくれたら」といつも考えていたそうです。
そんなある日、畑仕事を手伝っていると、「ようっ」という声が聞こえ顔を上げると、そこに祖父が立っていたと・・・・
日本全国にこういった一家の主人の帰還ストーリーがあったんでしょうね。
私の父もロシアに抑留されました。辛かったでしょうが、5体満足、手足もちゃんとして、ナホトカから舞鶴港に昭和23年11月の終わり頃、帰ってきたそうです。その後、母と結婚、私達姉弟が生まれました。もう他界していますが、生前もっと話を聞いておけば良かったと思います。「ウラルを越えて」という本を読んでおります。
国を、子孫を守るために戦ってくれた方々にただ感謝。
10年ほど前に地元兵庫県のとある町の映画館で「永遠の0」を一人で観に行きました。その時にバリアフリーエリアで車椅子の老人の方が家族の方と来ていらして、上映後に号泣されていたのを覚えています…
私の祖父は陸軍でした。戦時中の話をよくしてくれましたが、レイテ島の攻防戦だけは決してしませんでした。悲惨な戦いだった事を知って祖父にその事を話すとそれまで口にする事がなかった忘れたくても忘れられないあの時の事を涙ながらに語ってくれました。私も一緒に泣いた祖父との思い出として今でも覚えてます。
レイテ島攻防戦... まさに地獄だったと思います...
貴重なお話ですね。 私も聞かせて頂いたこの話をずっと忘れないようにしたいと思います。
@@kezu0120Studio さん
レイテ島攻防戦は学校でサラッと学んだだけでした。図書館やネットで調べてその悲惨さを祖父にそれを聴こうとした事を謝った時に話してくれました。当事者だから語る事が許されるような私の知らなかった決して文字や写真では分からない話でした。
お祖父さまは主様に伝えておきたかったんでしょうね。そのくらい人生で戦争が大きな存在だと思います。
レイテ沖海戦 戦艦武蔵が撃沈されたところ
生き残った乗員は徒歩で転進
途中、カニバリズムに合い命を落した乗員も居る
映画:野火 は、実話に近いだろうね
兵站が絶たれるとそうなるしか無いのかな
同じ日本人同士なのに
本当の地獄を見た人達は語らないよね
昔施設で働いていた時に偵察機に乗っていたお爺さんが写真を見せてくれた。
私達がもし今飛行機に乗る訓練をしたならば同じ笑顔をしただろうと言うような笑顔だった。青春だったんだよ、我々と同じ人間だから。
あと航空巡洋艦最上に乗っておられた方も写真を見せていただいたが、船首がもげてねと教えて頂きました。
施設時代はまだ現役兵だった方が80代後半でおられたのでよく教えていただきました。南京突入された方、通信手、戦艦勤務に飛行機乗り、台湾に輸送中足を貫通銃創、打通後の中国で機関銃手、ノモンハン事件で戦闘、昔の日本は凄いわ。
前半九七式、後半が天山。10代、20代を戦争に生きた方々は紛れもなくそれが青春だったはずで、辛さや理不尽さや若々しさがリアルで涙がこぼれた。
私に話をしてくれた方も目を輝かせて語ってくれました
辛い事も沢山あったと思いますが、それと同時に大空を駆けた事が青春だったのだなと気付きましたね
動画の始めが97式の1号ですね。(緑で機首もスマートなのが3号で97式の代表だが)開発時には零戦にも使ったエンジン「栄」の開発も進んでおり何れ載せ換える前提で1号は「光」を使っていました。そのため機首が少し大きな光のおかげで1号の見分けになってます。(機体そのものは栄に合わせて作った)そのため1号は数が少ない。2号は?となりますが2号は三菱の機体で採用試験で相当に実力があり本採用決める寸前に「中島機の方を本採用するが三菱は中島機(のちの3号)の結果が出るまで本採用とする」という指示で残された。2号は99式艦爆と同じ固定脚機ですので遠目では99式に見間違えてたとか。
私の父は死ぬまで戦時中の話をしてくれませんでした。今回の映像は戦後まで生き抜いた父の代弁をしてくれているようで心に沁みました。
そうなのですね…
視聴して下さってありがとうございました。
私のお爺さんも、絶対に話してくれませんでした。
当時、どんな事があったのか、分かりません。
ですが、沖縄に行った時、沖縄戦の悲惨さを
知りました。語り部さんからの話の途中から涙が出て止まらなくなって、、話す事も辛いだろうと。、
戦争は、絶対にしてはいけない事!なんです。
ゲームの中で追体験したら分かるよね。
FPSゲームやるから、実際にはもっと悲惨なんだって分かる。
素晴らしいと言う言葉では当てはまらないとは思いますが…
感激いたしました。
先人の方々に
ただただ感謝です。
日本人であって良かった
誇り高く感じております。
私たちも
後世に頑張って繋げないと、あらためて思いました…
私の父親も海軍のパイロットでした。
やはり空を飛ぶのが大好きなようでした。
プラモデルの飛行機を持ったらいつまでも飛ばせて遊んでいましたね。
戦時中、まだ子供だった人の話です。
大戦末期、次々と飛び立っていく特攻機を見送りながら、おじいさんが、「彼らはもう二度と戻って来ることはない。
こんな老いぼれが生き残り、未来の国作りに必要な若者たちがどんどん死んでゆく。」と呟いたのが何十年経った今も決して忘れられない光景として心に残っているそうです。
実際の光景を目の当たりにされたのですね…
確かに、あの大戦では未来を担うハズの若者が大勢亡くなってしまいました。
あんな惨劇は二度と繰り返してはいけないと思っています。
貴重なお話をありがとうございます。
亡くなった祖父を思い出して泣いてしまいました。父方祖父は南方戦線で、母方祖父は知覧で戦いました。今の平和があるのは先人の努力と忍耐の賜物です。
とても良い映画でした。
鹿屋から出撃された特攻隊員は薩摩富士を横に見ながら南に向かい、山が見えなくなると気持ちが特攻モードに切り替わったそうです。そんな話を思い出しました。
2度とこんな事があってはいけません。
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。
そうですね... あのような悲劇を、絶対に繰り返してはいけませんね。
綺麗な映像とあの日の記憶。戦争は美化されるものではないけど、あの戦いの中で散っていった英霊の方々にはいつも深く感謝の念をいだきます。あの日、命がけで守って戦ってくれた方々に誇れる日本を末永く残して受け継いでいきたいそんな気持ちで一杯になりました。ありがとうございます。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
そうですね、あの時代の悲劇と未来を信じて必死に戦った人たちが居た事を、この先も語り継いでいかなくてはなりませんね… 平和な日本であり続ける為にも。
素晴らしい動画ありがとう…
戦時の話は胸が詰まりますね…
日本人が日本人を守る為に神風となり、敵に向かう…
私たちより崇高な魂を持った若者が…神風の映像は涙が出て止まりません
良いお話ありがとうございました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
本当に私もそう思います...
艦攻パイロットによる空戦指揮任務…そんなのあったんだ。やっぱ当事者しか知らない事って沢山ありますね。あとIL2からWTに映画みたいに切り替わるところ、編集うますぎ。
ありがとうございます。
私も初耳で、聞いた時は本当に驚きました。
現在で言う空中管制機(AWACS)に似たようなものだったのでしょうか?
しかし、米軍の練度あるパイロット達による緻密な連携と数の前には必死の抵抗も虚しく多くが撃墜されてしまったのだと思います...
朝日に染まるプロペラが綺麗で・・・。
美しいがゆえに、その後の特攻、全機撃墜とか。
胸が苦しくなりますねぇ。
大変貴重なお話と、素晴らしい映画、ありがとうございました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
本当に辛いですよね... この話をして下さったおじいさんはもっと辛かったと思います...
この動画のおかげで、苦難の時代を生きたおじいさんの生涯が、今を生きる多くの人の心にに染み渡ることと思います。
うまく言葉が見つかりませんが、戦争のような無益な争いのない世の中を作るのにきっと役に立つと思います。
ありがとうございます。
そう言って頂けて嬉しいです。
本当に、元海軍パイロットのおじいさんの天国の様に、平和で、ずーっと広がる空が実現するといいですね……
そうですね...
同感です。
とても良い動画でした!!
やはり戦場にいた方の話はとても貴重ですね...
天国でも平和な空を飛んでほしいですね...
ありがとうございます!_(._.)_
お話を伺った方は日中戦争以前から航空隊に所属していて、背筋もまっすぐでとても元気な方でした
「操縦も数学も、僕が一番だった」ととても自信に満ち溢れていたのがとても印象深かったです。
どうか、天国では平和な空を自由気ままに飛んでいてほしいですね。大好きな飛行機と一緒に。
趣味で飛行機の操縦をしていた者ですが、操縦桿を握って空を飛ぶというのはとても面白いものです。雲の上から眺める景色や天気、地形を読んで航法したり、風と格闘しながら着陸したり、僅かに空いた時間に同僚パイロットとたわいの無い話をしたり、もう夢のような時間でした。戦時中は命を取り合う戦いをしていたのでしょうがそれでも少しの間は飛行機の操縦を楽しむなんて瞬間はあったのでしょうか。諸先輩方には敬意しかありません
ありがとうございます
私が話を伺った方は目を輝かせて当時の空と航空機たちを振り返っていたので、戦争の過酷な空でも青春が確かにあったのだなと感じました
私も仕事でたまたまお会いしたご年配の方で、戦艦武蔵の元乗組員だった方とお会いした事がありました。その方は武蔵が撃沈された時には運良く違う艦に搭乗されていたため今日まで生き延びる事ができたと仰っていました。そしてその方も海兵として戦った事を誇りにされていました。
素晴らしい動画ありがとうございました。どうか戦争のない平和な日々がずっと続きますように。世界から戦争がなくなりますように。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
戦艦武蔵ですか!とても貴重なお話ですね。
そうですね...同感です。平和に暮らせることが一番良いですよね。
素晴らし作品ありがとうございました。パイロットの気持ちを分かっていただいて、伝えていただいてとても嬉しいです。今度大空と戦闘機のお話をしませんか?元航空自衛隊 飛行教導隊 上級教導資格 部隊歴:第2航空団第203飛行隊、飛行教導隊(アグレッサー)、第8航空団第304飛行隊 F15部隊に18年間在籍、F15飛行時間約3000時間の元イーグルドライバーです!(^^)!
こちらこそ視聴して頂きありがとうございますm(_ _)m
とても凄い経歴ですね!私は飛行機が好きな普通の若者ですが、自衛隊を、そこで働いていた方をとても尊敬しています!
@@kezu0120Studio さん ありがとうございます。これからも素晴らしい作品をお願いします!(^^)!
艦攻は強力な対艦、対地攻撃能力と引き換えに足が遅く 敵戦闘機や対空砲火による攻撃で損耗率が高いそうだが それでも終戦まで戦い抜き 戦果を挙げたのは本当に凄いと思います。
お話を聞かせて頂いたおじいさんは、大戦以前から航空隊に所属していたそうですが、日中戦争から終戦まで、約8年間戦い続けてきたと考えると本当に凄いと思います。
八年も戦い続けて、しかも生き残るとは本当に凄いですね。
聞いた話を元に映像を作り残すのは有意義だと思いました。他の動画も見てみたいと思います。
ありがとうございます
貴重なお話し、ありがとうございました。ただただ飛行機が好きで、空を翔ぶ事が好きな若者たちだったんですよね😢向こうの世界では仲間達と、どんな表情でどんな言葉を交わしながら翔んでるんですかね。
そうですね...
私がお話を聞かせて頂いた方は純粋に空が好きで、戦争という過酷な時代ではありましたが、青春でもあったのだなと思いました
やはり戦争の出来事を正しく知るためには、戦争体験者の方の話しを聞くのが一番だと思います。 貴重な経験をこのように動画として投稿してくださり有り難うございました。
ありがとうございます。
年々、戦争体験者の方々の高齢化により話を直接伺う事も中々難しくなっています...
こういった貴重な話は、どういった形でも良いので残していかなければなりませんね。
貴重な動画を見せて頂いて誠にありがとうございます。この海軍パイロットの方を、ただただ尊敬するばかりです。
自分も、先人の方々に対して、恥ずかしくない生き方をしていこうと改めて思いました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
そうですね... 今思い返しても本当に凄い方だったと思います。あの大戦に携わった方々が残してくれた今の日本を、しっかりと生きていきたいと思いますね。
kezuさんは本当にすごい。戦争というものを、戦争に関わった人を、完全に理解した上で作品を作っているのですね。だからこそ我々の胸を打つ作品が世に出るのでしょう。ありがとうございます。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
全てを理解しているとは思っていませんが、あの大戦を戦った人たちを想いながら作品を作っています。
生粋の艦攻乗りのお言葉なんですね。お乗りになっていたのは「天山」でしょうか。
30年以上前になりますが、ハワイ真珠湾の記念館に展示してあった、撃墜された日本海軍の
97艦攻のひしゃげた無線機の波長調整板を見て言葉を失った事を想い出しました。
当時、命を賭けて事に臨んだ方々のお陰で、今日の我々が在る事を改めて感謝申し上げます。
何に乗っていたかは聞くことが出来ませんでした...
あの大戦の記憶は忘れてはいけませんね…
仕事を続けてください、あなたは歴史を生かし続けています、そして私はこのようなことをもっと見たいと思っています.
ありがとうございます。
これからも続けていきたいと思います
涙流れました。貴重なお話有り難う御座いました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
圧倒的な物量を誇る米軍に対して、祖国の為に最後まで戦い抜いた戦士達に感謝しかないですね😃👏我々は同胞として、彼らの愛国心と敢闘精神を永遠に忘れてはいけませんね!!
そうですね...
守りたい人々、国の未来を信じて戦われた方々が居た事、彼らが残してくれた平和な今の為にも忘れてはいけませんね。
話が進むに連れて涙が頬を伝っている自分に気がつきました…
自分の祖父は父方が身体が小さく役場の仕事をして招集礼状や戦死通知を届けていたそうです。
祖父が生前涙を流しながらできる事なら自分を行きたかった。
周りの友人、知人を送り出して本人は申し訳ない気持ちで辛い日々だったそうです。
その代わりかどうかは分かりませんが、弟が負傷して帰還後又、出征してルソン島で戦死されたそうです。
母方の祖父は中国戦線から無事に生還したと聞いています。
父方の祖父が出征出来なかった事で今があり、こうして生きています。英霊の皆様にはどうか安らかにおやすみください。
日本を守ってくださりありがとうございました。
今の日本をどう見えているかわかりませんが、未来永劫日本人が繁栄していく為に先の大戦を語り続けていきたいと思います。
クオリティ高いからまじで作品何度見ても飽きない…
ありがとうございます!
私の祖父も天山機で沖縄特攻寸前の生き残りでした。残った5機で、千葉県香取基地で再編成(勿論、特攻)され終戦。最期の飛行は皆で富士山上空を一周して、鈴鹿市で機体を引渡したそうです。同じように『戦争でなけりゃ、飛行機ほど面白いモンは無いよ』とよく言ってました。 オリジナルでしょうか?表題の絵が素晴らしいです。天山に向う人の姿が祖父に思えて、いきなり涙がでそうになりました。そして、誇らしく感じたのは事実です。いい動画を有り難うございました。
ありがとうございます。
そうだったのですね。私がお話を伺ったおじいさんも、空で飛ぶことが一番楽しかったと言っていました。
きっと、あの時代もパイロットになった人たちは、大空を誰よりも高く、速く、自由に飛ぶことに憧れを持ち、それを誇りに飛んでいたのだと思います。
動画の表紙はオリジナルで合成したモノです。
戦闘機と飛行場はゲーム内で撮影した画像で、背景の雲と、隊員の方の後ろ姿が映った写真を着色し切り抜き、合成して作成しました。
テキストが入っていないバージョンの画像もTwitterにて公開しているので、よろしければご覧ください。
twitter.com/kezu0120/status/1561682412085489664/photo/1
最後涙が出てきました。素晴らしいです、お話を共有いただきありがとうございました
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございました。
素晴らしい動画でした。
戦争そのものに是非はあると思いますが、敵味方関係なく純粋に祖国のために戦った兵士の方々は本当に偉大であり、尊敬に値します。
おじいさんも靖国で旧友との再会をなさっていらっしゃると信じています。
ありがとうございます。
そうですね。同感です...
戦争は悲惨で起きてはならない事ですが、そこに携わり守りたいものの為に戦った人たちの精神は国や陣営に関係なく称えられるべきだと思います。
@@kezu0120Studio
些少ですが、別動画にて寄付させていただきました。
今後も楽しみにしております‼
日本の未来を守るために戦った大日本帝國陸海軍の兵士の皆様には本当に感謝してるし、尊敬もしてる。
貴重な話をこうやって色んな人に知ってもらう本当にいい動画。
ありがとうございます。
そう言って頂けて嬉しいです。
こういった貴重なお話は、どんな形であれ残して語り継ぐことが大切ですよね...
@@sushiromifune7096 日本は、悪いこともしたし、いいこともした、だから、どちらか一方に決めつけるのはよくないよ。
素晴らしい動画を公開してくださり、ありがとうございます。この動画は決して戦争を賛美するトーンにはなっていません。かといって反戦のメッセージが連呼されてもいません。時代や運命に翻弄され、意図せずあの戦争で悲惨な戦いに身を投じることになった無名の兵士の方々への敬意と鎮魂の思いに溢れています。迫力ある戦闘シーンも一級品で、レシプロ軍用機ファンの私には堪りませんが、きっと最後まで見終えた方は戦争はもう絶対にしてはいけない、避けねばならないと思うのではないでしょうか。作品という形でいつまでも戦争の悲惨さを伝え続けてください。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
当チャンネルでは戦争の歴史を出来るだけありのままの姿で、両視点から映像化する事を信念としています。
このお話は病院で偶然聞かせて頂いたものだったのですが、近年戦争を経験された方が少なくなり、こうしたお話も伺えなくなってきている現実を前に、映像化して残し、伝えていかなければならないと思いました。
私も軍用機が好きでたまらないので、戦闘シーンは飛行シーンは、拘って作りました。
私の一番上の叔父さんは、一式陸上攻撃機に搭乗しておりました。開戦から終戦までです。最後の任務は、沖縄特攻の戦闘機部隊を誘導する任務でした。種子島沖合いまで誘導し、真っ直ぐ飛べば沖縄だよ。涙が出ても何も出来ない誘導任務。8月13日が最後の任務だったそうです。私達の今日が有るのも、先人の皆様方のお陰です。
今を生きる私達も、後世を生きる皆様方に何かを残せればと、思います。先人の皆様方、有り難うございます。
大昔、仕事で知り合った爺さんと仲良くなって、右手の中指と薬指の先が無いものだから、「爺さん、旋盤か何かで、指先を飛ばしたんか? 労災事故か?」と聞いたんだ。そうしたら 「違う、違う、グラマンにやられたんだ!」と答えが帰ってきた。爺さんは局地戦闘機雷電に乗っていて、撃墜されて海上に居たら、グラマンがそれでも機銃掃射してきて、海に潜ったんだけど、指に当たってしまった。沿岸近くだったから掃海艇に救われたんだと。雷電は操縦しにくい飛行機だったとか言っていた。もう30年ほど前の事だから、もう存命では無いだろう。
ものすごく貴重な話ですね。
雷電は機体の運用構想上、ゼロ戦のような軽快さは無く、翼の関係で失速事故が多かったと聞きますが
高速性や一撃離脱戦法に特化した素晴らしい戦闘機でした。
脱出したパイロットを攻撃する事はジュネーブ条約で禁止されていましたが、相手がベテランであるほど、殺しておかないと戦闘経験をフィードバックされ味方に被害が拡大する為、そんなことを律儀に守っていた国はほとんどいなかったと聞きますね...
@@kezu0120Studio
ものすごく元気な方で、軍隊で鍛えられたと言って、その質問をした時に、腕を後ろに回してピョンピョンとウサギ跳びをして見せてくれました。また後日、飛行帽を被った写真も見せてもらいました。
私の叔父は、台湾で特攻の順番待ち(正確には飛ぶ飛行機がなく)終戦を迎えました。子供の頃夏休み田舎に行くと、必ず戦争での体験談を聞かせてくれました。苦しかった事悲惨だったこと、そんな中でも楽しかった事、色々と・・・。貴重な話を聴けたことは私の財産に等しいものです。
そうだったのですね…
私もお聞かせ頂いたこの話を忘れないようにしたいですね
私の亡くなった曾お祖父さんは陸軍で中国へ派遣されたらしいです。その後負傷して帰ってきたらしいですが、足にできた弾のような跡は「ネズミに噛まれた」と言い話してくれませんでした。
周りに戦争のことを話してくれる、空で飛んだことを誇りに思える方から話が聞けたのはとても羨ましいです
ありがとうございます
特に陸軍は地獄すら生ぬるい程の想像を絶する戦いをしていましたから、話そうとしない人も多いですよね...
@@kezu0120Studio そうなんですね. . .返信ありがとうございます
素晴らしい映像を有り難うございます。
動かない写真や書物でしか解らない、戦争の現場の体験者の言葉を見事に映像化していただき、ただただ涙が止まりません。本当に良い作品を有り難うございました。😂
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます
本当はもっと色々とお聞きしたかったのですが… 色々と悔やまれる所もありましたが、私が聞かせていただいたお話を可能な限り映像化しました。
良い動画を、ありがとうございます。対艦雷撃を3回やって生き残った者はいない、と言われるほど厳しい戦場を生き抜かれた搭乗員さんへの感謝とご冥福をお祈りします。合せてこのお話を動画にまとめてくれたkezu0120_Studioさんにも感謝を。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
今話を振り返っても本当に凄い方だったと思います。もっと詳しいお話をお聞きしておけばよかったと、後悔が残っていますが、動画という形で残すことが出来て良かったです。
お話をして下さったおじいさん、そしてあの大戦で亡くなられた全ての方のご冥福をお祈りいたします。
ありがとうございます!
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます!_(._.)_
動画後半、肉体を離れて夕日の中を一人で飛び、天国へ向かうお爺さん。
いつの間にか懐かしい愛機に収まって操縦桿を握っている。
「あぁ、そっか。俺も向こうに行くんだったな。」
一人で寂しくも自由に飛んでいる。
だがやはり寂しい。俺もとうとう一人生き残った。その罰として一人で行かなきゃならんらしいな。
途方に暮れながらも風防越しに景色を見るといつか南国で見たものと同等か、それ以上に美しい夕日の中を飛ぶ。
発動機は念入りに分解整備され、良好良質な部品と潤滑油で仕上げられたかのように凄まじく快調だ。
だがやはり寂しい。誰かいないものか、と今一度見渡すと雲の切れ間から先に散っていった予科練の同期や部隊で共に戦った先輩、後輩たちが迎えにきた。
あの日、ついに戻らなかった者。
あの日、目の前で火だるまになり、砕け散った者。
あの日、自分を庇うために決死の覚悟で敵機の大群に挑んだ者と様々だが皆一様にあのときのままだった。
「迎えにきてくれたのか。」
独り言を言いつつも涙が溢れ、頬を伝う。
その涙は悔恨と悲壮の涙。
毎晩のように魘された。
俺が代わりになれば良かった、俺だけが生き延びてしまった、死なば共にと団結までしておきながらとうとう一人だけ生き延びてしまった。
散っていった仲間の中には所帯を持ったばかりの人間や慰問袋と共に内地から送られた手紙に家族と子供の写真が添えられた、幸せいっぱいの人間までいた。
皆生き延びたかったのに俺だけ一人、おめおめと生き延びて子供だけでなく孫にまで恵まれた。
罪悪感で毎日がいっぱいで毎晩、夢の中で待ってくれ、待ってくれ、行くな、と無我夢中で叫んだ。
目を醒ます度に涙を流してただただすまない、と何度謝罪の言葉を述べただろうか。
「何哭いてんだよ、貴様は俺たちの分まできっちり人生走ったじゃねーか、それを俺たちが知らない訳ないだろ。貴様が罪悪感に囚われる必要はどこにもないだろうが。何一つ後ろめたい事はないじゃないか。」
無線なのか、死後の意思疎通方法なのか、わからないが彼らの一人から声をかけられた。あの日、偵察に出動して、とうとう戻って来なかった一人だ。
部隊配属から最後の日まで面倒を見てくれた、気のいい兄貴肌だった。
「やっと来たか。ずいぶん待っていたぞ。俺たちの分までしっかり生きていたようだな。長生きしやがって。宴会の準備は終わっているが向こうまではまだ先が長い。邪魔もいないから存分に飛ぶぞ。」
その声はかつての上官、冷静ながらどこか血の気が濃い武人肌、空を愛し酒と喧嘩には凄まじい強さを持っていたが女房と子供にはすこぶる弱い家庭人、目の前で逆さ落としを喰らって火だるまになった。
散々どやされたがそれでも飛行と理論、そして男とは、を切々と説いたまさに父親そのものだった。
「向こうは綺麗な桜が咲いているぞ。桜見ながら一杯やろうぜ、積もる話はじっくり聞かせてもらうからな。それまでにその涙顔はどうにかしておけよ。」
そして彼は予科練の同期にして護衛の戦闘機乗り、抜群の運動神経と野生の勘を武器に終戦間際まで共に行動していたが沖縄方面での作戦行動中に敵機に追われていた自分を助けるために囮となり、ついに部下数人と共に敵機の大群に戦いを挑み、結局帰って来なかった。
忘れられないその顔、その声、そして脳裏に焼き付いて離れない、最後に見た彼らの表情。
かけがえのない仲間たちから思い思いの言葉が次々に耳に入る。お爺さんはここにきてようやく、そして改めて実感した。
生きられなかった彼らの時間分は存分に生きられた。人生という戦い、人生という長い長い道のりを全力で走りきった。
ふと下界を、雲の下を覗き込む。病院のベッドで人生の最後の最後で自らが体験した出来事を伝えた若者があくせくと働いている。
思えば肉体を離れる数日前に戦時中の出来事や彼らの話をしていたな、と今さら思い出した。
そうだ、彼に話した時に多少軽くなれたような気がする、今まで話をすることすら躊躇いがあったがこれは誤りだった。
本当はもう少しでいいから話をもっと深掘りすれば良かった。だがこれでいい。
我が過去を伝え未来を託した若人よ。
「あとは頼むぞ。」
短く、誰にも聞こえない程度の声で呟いたお爺さん、腕も勘も若さも取り戻した、仲間たちも誰一人欠けずにいる。
銀翼連ねて彼らは往く。
こんなところかな?
泣いてしまいました
情景が浮かび、涙が溢れ止まりません。。
私達が今在るのは英霊や、復興に尽力されたおじぃ様方のような方々のおかげです。
皆様に恥じない生き方をせねばと、改め強く思いました。∠(`・ω・´) (/"`・ω・´)
・・・すばらしい動画をありがとうございました。あなたとその元海軍パイロットであるご老人に・・・。
こちらこそ視聴して頂きありがとうございます
もっとお話を聞きたかったですが、もう今は叶いませんね…
私たちは皆、この大戦を生き抜いた優秀で運の良い方達の子孫です。
なので苦しくても決してあきらめずに、生き抜かなければいけないと思いました。
そうですね...
同感です。
確かに運も有ったのかも知れないけど、『大空のサムライ』を書かれた坂井三郎さんみたいに何があろうと生きて帰る。部下にも「自爆など絶対にしてはならん」と言っていた様ですし、そう言った坂井さん以外にも生きる努力をしていた方々も居て、そのお陰で今の自分があると思いたい。
貴重なお話、動画をありがとうございます。
日本を守るため、国家の存亡をかけた戦いに従事した大日本帝国軍の兵士に敬意を表します。
私事で申し訳ないのですが、私の曾祖父が陸軍だったそうで、少しだけ話を聞いたことがあります。私自身も中学生の時の出来事だったのであまり覚えていないのですが、「国を守るとかそんな大きなことをしなくていいから、身近にいる人たちを守っていけるような立派な大人になりなさい。」と言われたことははっきりと覚えています。
その曾祖父の言葉のお陰もあってか自衛隊の一般曹候補の試験を合格することが出来て来年から、陸上自衛隊の一員になります。
曾祖父の働きに負けぬよう、一生懸命、大切な人のため、国のために働きたいと思っています。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
あの厳しい時代を経験しているからこそ、なお一層意味のある言葉だと感じますよね...
私には自衛隊に入隊しようと思える程の根気はありませんが、こういった歴史や物語を多くの方に知ってもらい、平和について、今一度考えて貰えるよう努力していく所存です。
陸上自衛隊での勤務、頑張ってください!応援しています。(^-^)ゞ
初めまして。このお爺さんと私の叔父と経歴が似ていたので驚きました。叔父も艦攻のパイロットとして、日中戦争に参加しています。その後1945年4月に小禄基地から鹿屋串良基地に移動。5月夜に夜間雷撃作戦のため出撃し、そのまま還らぬ人となりました。ですので、この動画を見ながら涙が止まらなかったです。素晴らしい動画を作成していただき、ありがとうございました 。
初めまして、こちらこそ視聴して下さってありがとうございます。
そうなのですね…
もしかすると、どこかで関わりがあったかもしれませんね…
97式1号、3号、天山と時系列もしっかりしたとても素敵な短編映画でした。もっともっと同様な短編映画を期待します!
と同時に私の家の近くの鹿屋基地も興味深く視聴させていただきました。
合掌、感謝!
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。
私が実際に伝え聞いたお話は、今回のモノしか無いので、実録系短編映画は今作のみになりますが
他にも、今まで史実を元にした話や架空戦記を投稿しています。
@@kezu0120Studio ありがとうございます!これからはニュースソースとなり得るコメントは少なくなるかと思いますがまた機会がありましたらお願いします!
うちの祖父は開戦時に五航戦瑞鶴で最後は関東の何処か(茂原だか郡山?と言ってた)で終戦を迎えて郷里に帰って来たと言ってました。ずっと戦闘機搭乗員で生前に零戦でどうやってグラマンやシコルスキーに勝てるか聞いたら先に見つけ上を取るんだと言われました。相手がどんな戦闘機でも勝てる自信が有ったと言ってましたが、唯一苦手がB29だったと。とても尊敬する祖父でしたが今年101歳で逝きました。
ありがとうございます。
物凄く貴重なお話ですね。 やはり、空中戦においては、敵機に対して有利な位置を確保し先制攻撃を仕掛けた者が制するのですね。 機体性能以前に、やはりココが一番肝心なのだと実感します。
ベテランパイロットは堅牢なグラマンF6FやヴォートシコルスキーF4Uを相手にしても、正確にエンジンなどの弱点を狙い撃ちにし、撃墜できたと聞きます。
B29は大型機故の堅牢さは勿論、コンピューター制御された銃座や、その他現代機に通ずる40年代にしてはオーバーテクノロジーとも言える技術が沢山盛り込まれていたので、撃墜は本当に難しかったと思います。
俺の曾祖父は0歳の祖父を残して満州に出征。
無事に復員し、家族と再会した時は最初誰だかわからなかったと祖父が言ってた。
この話を聞かせてくれたのは俺が中国に留学が決まったと報告した時。
中国では抗日ドラマが盛んに放送されており、見るたびに曽祖父の話を思い出しては切なくなった。
戦争はダメだ。
家族の貴重な時間を奪い、後に残るのは悲しい記憶だけ。
お久しぶりです。
最後の言葉に、グッと来ました。
このお話を見れて、本当に良かったです。
これからも、楽しみにしてます。
お久しぶりです_(._.)_
激戦を生き抜いてきた人だからこそ、より一層意味のある言葉だと感じました。
@@kezu0120Studio 本当に、力強く、
グッと
背中を、
押してくれますよね。
素晴らしい動画をありがとうございます。
語り継ぐべき貴重な体験談ですね。私たちは、忘れてはならない。戦争で何があって、起きたのか。上手く言葉になりませんが…。
幾多の犠牲の上に、私たちは生かされている事を心の片隅に。
こちらこそ視聴して下さってありがとうございます。
そうですね...同感です。
母方の祖父がジャワ島の陸軍航空の整備兵でした
兄二人も含めてすごくかわいがってもらいましたが自分が19の時に72で他界
今思えばちゃんと話を聞いておけばと後悔しています
ただ、残っていたその頃の写真の祖父はすごく楽しそうな笑顔で隊の仲間と写っていました
戦争という厳しい時代でも祖父にとっては青春の日々だったんだろうなぁと
ちなみに復員の汽車が熱田駅に着いた改札で待ち構えたばあちゃんに捕まって(共犯大叔母)そのまま結婚だったそうですw
ウチだけかもしれませんが女性もたくましく青春してたみたいですw
ありがとうございます。
私の家にも多くの兵隊さん方が映った写真が物置の奥にひっそりと仕舞われていました。
モノクロの写真で私の知り得ない時代の事ですが、確かにそこに人々が生きていて
一人一人に青春があり、人生があったのだと実感しますね。
コメントするのは久しぶりですがちょくちょくkezuさんの動画は拝見していました。
先人たちが命をかけて守ったこの国を護るため海上自衛隊に入隊しました。
kezuさんの動画はかつての戦いや記憶をなどを風化させないためにも役に立っていると思うのでこれからも応援しています。
お久しぶりです。
ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。_(._.)_
海上自衛隊への入隊、おめでとうございます!
これから大変な訓練などが待ち受けていると思いますが、頑張ってください。私も応援しています。
いつも感動しながら見させて頂いています。ブラジルのアマゾン移住地出身です。戦後移住の戦争経験者のじいちゃん達からお話しを聞きましたが、今思えばもっとお話しを聞いていればと後悔しております。当時は意味のわからなかった親父たちの○○さんは特攻くずれだから根性が違うとか、ガダルカナルの生き残りの方、シベリア抑留の方、満州引き上げの方たちも多くいらっしゃいました。皆さん鬼籍に入られ今となって後悔しています。
ブラジルから日本に何十年ぶりに日本に帰られた人たちで戦争経験者の方は必ず靖国神社に参拝に頼まれて連れて行きました。回りのみなさんまで涙涙でした。また素晴らしい作品見させて頂きます。ありがとうございました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
そうだったのですね… 私ももっと多くの事をお伺いしていればと後悔が残っています。
それでも、お話し頂いた内容は貴重で、今も忘れる事が出来ません。
91歳で亡くなった義父が海軍航空隊三重12期で、台湾で終戦を迎えたそうです。特攻にも志願しており、あと数日終戦が遅れていたら、女房はこの世に生まれていませんでした。同い年の実父は終戦当時大学生で、神宮で学徒出陣で先輩たちを見送って、1年早く生まれていれば、自分も行っていたそうです。私は団塊の世代ですが、防空壕後で遊んでいて怒られた記憶がありますね。平和はいいことです。本当に。ただ、備えはしなくてはいけません。74歳老人の独り言でした。
戦争は多くの人の運命を狂わせますね…
平和が素晴らしい事だと私も思いますが、それを守っていく為には力もまた必要ですね
言葉では言い表せない・・・真のラストサムライとはこの方ですね。日本を守っていただきありがとうございました。
30年近く前に入院した時に元ゼロのパイロットだったお爺さんと仲良しなり色々話聞きました。初めての空戦は怖くて撃ちまくり弾切れした事や特攻隊護衛の話😢凄いヵ頑固ジイ様だったみたいだけど俺が話聞くと何でも話してくれた優しいお爺さんでした。最後に…もし死んだらあの世で仲間や敵だったパイロット達と皆で大空飛びたいなぁ…戦いの空でなくて皆楽しい空で。と遠く見つめて言ってました😢今頃敵味方関係無く楽しく飛んでるかな??英霊に感謝です😭🙏
最後の「飛行機で空を飛ぶのが一番楽しかった!」のコメントに、生まれてくる時代が違ったらもっと楽しかったでしょうね…。
小生も過去に現代版の海軍軍用機に乗っていたので、平和な時代に空を飛ばせていただき感謝します。
ありがとうございます。
お話を聞かせて頂いている間、ずっと目を輝かせていたので、本当に空を飛ぶのが大好きだったのだなと感じました。
太陽との航空機の映像、景色が奮っていました。 なるほど、実話だったんですね。 数年前のことです。私も最前線で戦ったことのある人の話を直に聴く機会がありました。それがおそらく実戦経験者の話を聴く最後の機会となりました。千葉県の木更津のあたりの隊に属していたそうですが、もろ パレンバン攻略の落下傘部隊員としてオランダ軍と ドンパチやったときのことを語ってくれました。
最前線経験者の話というのは 違うものだなあと思いました。実に生々しくて、身長160cmに満たないような 100歳の爺さんでしたが、驚くほど、生き生きとして若々しい動きと 活気ある語りの人でした。 底力のある元気って こんなものかーと思いました。
ありがとうございます。
それは貴重なお話ですね…
私がお話を伺った元海軍パイロットのおじいさんも、100歳近い方とは思えない程、ハキハキと喋り、全身から元気が溢れ出ている方でした。
陸軍の話は聞いたことがありませんが、本当に悲惨な経験をされた方が多いと思います...
いつも素晴らしい映像とストーリーを楽しみにしております。
おじいさんの貴重なお話でした。貴方に聞いてもらいとても良かったのではないでしょうか。
このような映像で残していただく事が出来、沢山の方々に知ってもらう事ができました
ありがとうございます。
私も貴重なお話をお聞かせ頂けて本当に良かったです。
あの大戦の記憶を、人々が生きた証を、色々な方の知ろうと思うきっかけにしてもらえると幸いです。
好い作品を拝見させていただきました。ありがとうございます。
こちらこそ、視聴して頂きありがとうございます
天山は美しいですね。素敵な動画をありがとうございます。
親戚の叔父は予科練で訓練中に終戦となりました。
隣の家のおじいさんは北方にて対潜任務のため航空機に乗っていました。
潜水艦とクジラを見間違える事もあったそうです。
「敵潜発見か!と思うたら、何が、クジラじゃったわい。笑」
戦中を生き抜いた方は皆明るく元気でした。
生きている事自体が奇跡なんでしょうね。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
そんな事もあったんですね(笑)
私がお話を伺った方もその年齢からは考えられない程ハキハキしていて、背筋がまっずぐでした。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
貴重なお話をありがとうございます。あの戦争を戦った方の体験談を聞ける機会自体がとても少ないのに、今後はもっと聞けなくなって行きますね…。
自分はこれと言った戦争体験を直接聞けた機会は無いですが、戦中に海軍へ行って亡くなった曾祖父の言っていた言葉は胸に残っています。「皆が行っているのに自分だけが行かない訳にはいかない」と。もし生きていたら、色々な話を聞いてみたかったです。
ありがとうございます。
私が話を伺ったおじいさんも、もう一度話を聞きたいと思ったときには既に他界されていました…
この先、どんどん話を伺える機会が無くなっていくと思うので、少しでも伝え聞いたことはどんな形であれ、残していきたいですね…
感激しました。
とても素晴らしい短編映像でした。
ありがとうございます。
そう言って頂けて嬉しいです。
私の知り合いのおじいさんは回天の基地で働いていたそうです。😭遺族年金は同じ特攻でも海軍の方が陸軍より少し高いそうです。😭
命をかけてこの国を守ってくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになりました。同時に今のこの国をどう思ってるのだろうと。
素晴らしい動画でした。悲しくもありますが。戦後高齢で亡くなった祖父を思い出しました。祖父は少し戦争中の話をしてくれてましたね。駆逐艦の水兵であったこと。駆逐艦は戦没したこと。戦艦大和を見て乗ってた駆逐艦と同じ艦とは思えなかった事。東南アジアで日本では高価なバナナを食べれて嬉しかった事。戦友が沢山亡くなった事。敵の艦載機の機銃掃射が怖かった事等です。
ありがとうございました。大空にて安らかに・・・・
そうですね...同感です
ただ日本の為否日本の将来の為、東亜の将来の為に戦った日本軍とその将兵に感謝と追悼を。
先の大戦、必ずや正しい総括が行われる事と成るでしょう。
343空「剣部隊」の偵察隊と同じ空中管制をなさっていたのですね。「3度雷撃をやったものはいない」と言われた消耗が激しい攻撃を担当し危難を潜り抜けて来られた。
貴重なお話の機会を頂けたのですね
本当に貴重なお話を聞かせて頂きました。
一生忘れることは無いと思います。
うちは直に軍人の話を聞く事は無かったけど、ご先祖様3人が戦争に征ったと母から聞きました。
一人は朝鮮系で重巡「愛宕」乗組員でレイテ沖海戦に参加、戦後まで生き延びました。酒好きで酔っ払うと手がつけられなかったそうです。
もう一人は陸軍か海軍かは分からないですが、飛行機の整備兵をしていました。戦後は自動車会社に勤めて出世したそうです。
さらにもう一人は...海軍の人で上の役職(恐らく佐官クラス)にいたそうですが、帰って来ませんでした。母によれば、元から帰る気は無かったようです。
国の守り人の記憶を風化させてはいけませんね。
同感です。
あの大戦の記憶を、人々の生きた歴史を、これからの日本の為にも風化させてはいけませんね…
初めて太平洋戦争に、日本の航空機に興味を持って色々調べていた中学2年生の夏を思い出しました。今一度考えさせられる素敵な動画をありがとうございました。
ありがとうございます。
私も同じようなキッカケで戦争の事を調べるようになりました。
こちらこそ、視聴して下さってありがとうございます。
太平洋戦争ではなく、大東亜戦争です。
配信、拝見致しました!父は整備士、香取に命を受け、トラック島に、後に、横須賀に転勤!戦後は回天の慰霊式に毎年、参列していました!義母、実母、共に被爆者です!平和🕊️となります様に!
とてもイイ話ですね
私も約23年前、仕事で道内の広尾町の現場でヒグマ対策としてきてくれていたハンターから聞いた話があります。
その方の父親か祖父だったと思うのですが、日本海軍の航空母艦『加賀』に整備兵として乗艦していたそうで、
転機となった、ミッドウェー沖海戦で加賀がアメリカの艦載機の爆撃で格納庫内が地獄だったと言っていたことが、今でも思い出します(`・ω・´)ゞ
動画アップありがとうございましたm(__)m
こちらこそ視聴して下さってありがとうございます。
そうなんですね… 空母加賀は爆弾が直撃、格納庫が誘爆し大炎上、地獄よりおぞましい光景が広がっていたそうですね…
この苦しかった過去を二度と忘れてはいけないとこの動画を見て思いました。この動画は私の心をそして昔おじいちゃんから聞いた大戦中の話の記憶を蘇らせてくれましたありがとうございます。この動画は絶対に未来につなげていきます
そうですね...同感です。
大戦の記憶は、継承し未来につなぐことが大切だと思います。
同じ悲劇を繰り返さない為にも
同感です
貴重な体験談。その方も、自分の体験した戦争のことを伝えておきたい。と、貴方に託したのでしょうね。素晴らしい動画でした。艦攻乗りで、日中戦争~大戦末期まで生き延びたのは。相当に腕の良いパイロットだったのでしょうね。運も持ち合わせてたのでしょうね。日本海軍の航空機は、防弾がほぼ無いので。
貴重なお話をして頂けて本当に良かったです。
日本の攻撃機は防御性能も低く、艦砲や敵機のマトにされ損耗率が非常に高かったという文献をよく目にします。
そんな中で、終戦まで戦い抜き、生き残ったのは本当に凄いと思います。
話をして下さったおじいさんは「僕の操縦はとっても上手かったんだ。」と誇らしげに語ってくれました。
特攻に志願したが。自分ではなく、部隊で二番目に腕の良いパイロットが指名され出撃。見送る時の心痛はいかばかりだったか、、。大戦末期、特攻に志願しても。本当に優秀なパイロットは、上の判断で。特攻から外すことは度々あったようです。死ねなかった、何故、自分だけが生かされてしまったのか?。仲間の
死を胸に秘めて、悔恨の日々を送った元パイロットも多かったと思いますし。そう言った話しを、直接に聴くことは。この先不可能になります。UA-camを通じ、戦争の体験を伝えていくことは。とても重要なことだと思います。軍人だけでなく、一般人の戦争体験も貴重なのですが。皆、高齢化。記憶の継承が必要ですね。私が中学生くらいの頃は、戦争体験の話しを聞かせてくれる人々がいました。その方々も、皆、鬼籍に入ってしまいました。
同じ海軍でも、俺のお爺ちゃんの兄は戦艦武蔵の高角砲担当でした。
決して兄の話はしないお爺ちゃんだったので詳細はわかりませんが、当時戦った方に対しての敬意は忘れたことがありません。
そうなのですね…
あの時代、必死に戦った人たちが未来の礎になってくれたからこそ、今の日本があるのだと思います。
支邦事変から鹿屋まで。
相当に名をはせた方でしょうね。
艦攻の爆弾搭載状況がよくわかりました。
私も最初に話を伺ったときにビックリしました。
艦攻乗りは生存率が低いと聞いたことがあるので、猶更驚きましたね…
妻の祖父が帝國海軍の方でした。93歳で亡くなられましたが、生前にお会いする機会が少なくお話を聞く機会が余り無かったことが残念です。
妻が幼い頃にはよくお話しをしてくれていたそうですが、当時は子供だったのでよく解らなかったらしく今にして思えば貴重な話しをしてくださっていたんだと思います。
ありがとうございます。
私も、もっと詳しい事を沢山聞きたかったと後悔が残っています。
大戦中の話は本当に貴重で、何とか形にして残していけたら良いなと思っています。
叔父が陸軍で隼のパイロットでした。もう少し戦争が続いていたら今、君とこうして話すこともなかったろうねと言っていた事を思い出しました叔父の仏壇には、隼を後ろにした写真があります。
もっと話を聞きたかったのですがズケズケを尋ねる事なんてできませんでした。
素晴らしい映画でした
ありがとうございます
どうしても泣いてしまいます
きっと戦争に行かれた先人の方たちはもっもっと話したかったと思います
なのに戦後の誤った教育によって歪められてしまい、今となっては語り部がほぼお亡くなりになってしまった
戦後の我々はとても大きな過ちを犯したと思います
今いる我々を豊かに幸せにするために散っていかれたこと、改めて自覚をする必要があると思います
合掌
こちらこそ、視聴して頂きありがとうございます
私にとっては恐らくこれが最初で最後の貴重な機会だったと思います
家族を守り。大切な人を守り。この國を守ろう。私達も。
敬礼。
日本歴史の戦没者、英霊・世界の戦没者方々に合掌。この日本國が現在、他国侵攻の危機に在る事を国民が目覚めるよう祈り。
うぽつです。先の大戦のお話を伝えるのは大切なことですね
ありがとうございます。
これから実体験をお聞きできる機会がどんどん少なくなっていくと思うので、記録として残していく事は大切だと思います。
街の集団墓地で町別で戦没者を集めた集団墓地があり先祖の墓参りには感謝に必ず手を合わせに寄ります、その中に母の兄(長男)の墓石もあり戦死地も刻まれています
ありがとうございます。今の日本があるのはあなた達おかげです。
全くの同感です...
あの時代を生き抜いた方々の記憶を、忘れないよう継承していかなくてはなりませんね。
戦った人はもう殆どいないないから,kezu0120さんの体験が羨ましい限りです。元海軍のおじいさんも話せて嬉しかったと思います。
私も、貴重なお話を聞くことが出来て本当に良かったです。
こういった話は貴重なので形として残していかないといけませんね…
私の母の弟(長男)は終戦の年に海軍予備学生として航空隊に配属され戦闘機パイロットになり特攻隊の直掩隊として出撃したそうです。子供の頃、私が戦争中の話を聞いても全く語ろうとはしませんでした。その訳は後にその叔父の葬儀に際し、少し理解できました。参列した人々の中には腕のない人や顔中ケロイドの人々がいたからです。
話したくない悲惨な思い出が沢山あったのだろうと思います。😟
お話ありがとうございます。
戦争中であっても青春を忘れず、中には私がお話を伺った方のように誇りに思っていた方も居ると思いますが、大部分は悲惨な思いをされた方が多いと思います。
話したかった事話せて本当に良かった
生き残られた零戦のベテラン搭乗員の方の証言本色々読みました。「敵の弾の飛んでこない空を、思いっきりもう一度零戦で自由に飛んでみたい」撃墜のプロというだけでなく、生来飛ぶのがお好きなんだなって思いました。
あの時代、空を自分の手足で飛ぶことを夢見て戦闘機パイロットになった方が多かったと思います。
軍用機、特に戦闘機は民間機と違い、誰よりも速く強く飛ぶ為の性能が詰まっているので、皆憧れたのでしょうね…
ラバウル上空で散ってしまった曽祖父、帝国の英霊たちの為にも、平和な時代を続けられるようにしなきゃな...
それが今私の出来る感謝だから。
そうですね…
平和な日本であり続ける為に必要な事を国民一人一人が意識できると良いですね…
私の中学校の国語の先生がゼロ戦乗りでした。
授業中に先生に消しゴムをちぎって投げてふざけていたら、
先生が教卓の陰に隠れ、箒で竹やりを真似て空をつつくような仕草の後、
「俺は人殺しだ!」と訳の分からないことを言い始めました。
その後、戦争経験者でゼロ戦乗りで人を殺した経験があることを話してくれました。
教室は静まり返り、ゼロ戦に被弾し、機体右下の被弾した穴から海が見え
死んでなるものかと右足に大けがを負いながら帰還したことや、
空中戦の経験などを話してくれました。
当時私は戦争に興味は無く、「授業がつぶれるならいいや」程度に聞いていました。
今思えば、もっと話を聞きたかったなぁと、当時の先生の顔を思い出しました。
とりとめの無い話でスミマセン。
ありがとうございます。
そういった貴重なお話程、後になってもっと聞いておけばよかったと後悔しますよね...