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とっても楽しみです😊予習編ありがとうございます🥰初日に行きます~☺
❤🎉たのしみです。
今日、行きました! 偶然、福士さんのお姿も。 たいへん見ごたえのある展示でした❣
本日、4月27日(土) 行かせて頂きます!雪舟の国宝が1度に観ることが出来るなんて!京博さま、ありがとうございます🎉
これは行かねば雪舟伝説展❤トラりんの効果音に爆笑🤣シャキーン✨❤️😆
京都だけかぁ…😿行きたい!!
雪舟の本質を知る者は、現在までの500年余り「ほぼ皆無(例外が江戸期に二人いる)」なのだから、「雪舟の影響」云々と言っても、結局はごく表面的な、ただ図像が似てるとかのレベルの話だけで、雪舟の本質の影響に関わる展示には絶対ならないだろうとは思って実際に見に行ったが、もちろん当然のごとくにそうであり、諸々と浅薄な展示に終始していた。しかし結局は雪舟の本質がよく分からないというこうした展覧会を、美術館や博物館この先何年続けるのだろうか。このままではおそらく300年位はそうなのだろう。それに何でもいいから、若冲を先頭に出せば闇雲に人が集まって来るだろうといった、あざとい発想もなんだかねえ。返信
図像に還元されないような雪舟の本質というのを教えていただきたいです。図像による関連性及び影響を示す展覧会としては十分に成立していたように思えます。そのため、それ以外の本質(目に見えないもの)のため、目で見ることが重視されている展覧会においては仕方がないことのようにも思えます。それは本質が如何なるものかにもよりますが...そのため、ひとまずその本質というものを教えていただきたいです。
@@chatgpt5.0 返信に気付くのが遅れてすみません。雪舟の本質は図像に還元されていないというのではなく、もちろん還元されまくっているのですが、ただその図像に表現された肝心のメンタルな本質部分を、500年間ほとんど誰もが見出せずに来たために、雪舟に影響を受けたという画家たちも例外でなく、ただ物の形とか描き癖だとかの「即物的なモノマネレベル」にとどまっていて、よって今展も単なる「そのような近似した図像の系譜の展示」になるべくしてなったのだというわけです。つまり図像による関連性及び影響を示す展覧会としては至極表層的で、本質的なところでは全然成立していなかったということですね。それで、もしそうした本質までもを企画担当者らが理解していたならば、展示もカタログもそれに基づく全く違ったものとなっていたはずだと思われます。例えばテーマは「雪舟500年の謎・展」とでもして、まず雪舟の作画における究極の目的の提示と、その達成のために絵画語法をいかに生涯工夫を重ね続けたかの例示と解説を行い。そして後の多くの画家たちがその真意に気づかないまま、どのように表面的なマネを繰り返してきたか。またその中でもごく例外的に雪舟の絵画語法の意義だけは理解したと見られる二人の画家がいることを指摘し、その証拠となる絵の展示と解説もする、といった風にですね。そして私が特に指摘したいのは、そのように雪舟画に確実に表現されて存在する「メンタルな本質」、それが一体どのようなことなのかという疑問を持つ人が、雪舟研究者らや今展の企画担当者はもちろん、一般の室町水墨ファンの中にも余りいないのではないかということの不思議さとおかしさなのです。もちろん口幅ったくも、私は雪舟のそれを相当なレベルまで理解していますが、どこの馬の骨とも知れぬ者ゆえ、まともに相手にされるわけもなく、またこのことは少々大袈裟に言えば日本美術史全体を根底から再考せねばならぬという長い話にもなるので、具体的にどこかでその「核心」について述べたということはありません。ただこうしたことの諸々について参考にというのであれば、アマゾンのコメント欄で私が、雪舟研究者の2トップながらも、現代の雪舟観をかように訳のわからないものにしてしまった責任者としての島尾新氏と山下裕二氏の主著作に対して、上から目線で徹底した批判をしているものがありますので、もし宜しかったらどうぞ。(「みんちょう」名で、合計13冊分位もあるのですが、超長ったらしくしつこいのですぐ分かると思います。笑/それと「みんちょう」名をクリックしてもらえれば、他の著者の本へのコメも含めて全て一覧で提示されます。)またユーチューブでしたら「掛軸塾」というところの「誰が雪舟を画聖にしたのか」という番組に「太郎」名でコメントしてありますのでどうぞ。(これが一番簡略で面白いかも)さらには「アートアジェンダ」という美術展覧会情報のサイトにも、今展について「minchou」名で同主旨のコメントしてます。
@@山田太郎-d8w 丁寧な返信ありがとうございます。ひとまず、私は雪舟の精神性という点を深く考えてきていなかったため、気になってコメントしたことを伝えておきます。日本画家には、文人(精神性を重視する)と絵師(技術力を重視)する二分法があるとするならば、雪舟は後者だと勝手にカテゴライズしてしまったために、筆の動き、日本語特有の空間表現などといった図像的な解釈のみに終始していました。太郎さんの、指摘は非常に面白く(Amazonのアカウントも見つけました)、私の雪舟観に影響を与えたのは事実です。いろいろと読ませていただきます。と、ここで大きく話が逸れるのですが、私も(?)美術批評の仕事をしていて、最近村上隆について再考しています。というのも、雪舟伝説展と同じ京都で個展を開催しており、日本画的表現とアニメ、漫画的表現を組み合わせた「スーパーフラット」の提唱者でもある村上隆の位置付けが最近どうもわからなくなってきています。1998年あたりのHIROPON、MSLなどは非常に面白く辻伸雄の取り上げた「奇想」の画家たち(特に琳派)的な流体表現が、撒き散らかされた精子や母乳に見て取れます。ただ、現在京セラで行われてる展示では、そのような表現も少なく、単に面白くないシルクスクリーンを使っただけの平面的な作品でした。太郎さんから見て村上隆に何か思うことがありましたら、何かコメントをいただけると幸いです。また、その京セラでの展示についても、もし見ておられたらよろしくお願いします。(UA-camのコメント欄で行うような会話ではないかもしれませんが...)
@@chatgpt5.0 こんばんは。現代美術には、昔若い頃にはそれなりの関心もあって、作品を見たり考えたりしたこともありましたが、それが年を取ってからはさっぱりで、そもそも村上隆という人の作品は時折ネットで目にすることがあっても実際に見たことがありません。そんな感じなので、何かを語る資格はほぼないのですが、それでもずっと以前に一度、村上氏が主張する「スーパーフラットって何なんだ?」 と疑問に思ってちょっと調べてみたことはあります。その時には確か若冲の動植綵絵の中の「群鶏図」だったかの説明で、画面の中を動く視点がスーパーフラット的だとかの指摘があり、よく分からないながらも、「そうしたものかねえ」とただそれ位の感想でしたね。そしてその後に私も、若冲のいわゆる「千年問題」に関心を持つことがあって、若冲が動植綵絵に込めた「思想」が理解されてくるようになると、村上氏の主張も、基本的にはそう言えるとしても、若冲の「平面性」には、雪舟のメンタルな表現としての「平面主義」と同様の思想的根拠があるということでは、話はもっと深いものがあるのだがなと漠然と思うようにはなっていました。そこで折しもおべっきゃさんの質問もあり、自分の頭の整理も兼ねて、改めてちょっと考えてみた結果が以下のようなことです。(いつもの癖の、根拠不明の上から目線調ですが。)村上氏の活動がコンセプチュアルなものであり、よって当然芸術文化における理念性への集約と拡散という表裏一体化した作業を、単独でこなすことになるのであれば、特にそのスタート地点となる「概念性(理念性)」の立場を確固としたものにしておく必要があると思われます。しかし氏がそのコンセプトを一応日本美術における超2次元性ということに見定め、かつその態様を生成拡散的に表現していった作品群は、どうもそのイメージが、私などには2次平面趣味に開き直った過剰な促進化とでもいった安っぽさに終始しているように思えて、何か肝心なものを見落としているのではないかということが感じられるのです。そしてそれが何かというと、日本という国における「敢えて平面次元化する心の働きとしての精神性の意義」ということなのではないでしょうか。実際日本の第一級の画家らは雪舟にしろ若冲にしろ、その「平面次元性」か「敢えて出発した」のですから、そこには何かしらのメンタルな意図が必然的にあったわけです。しかしその一番肝心なメンタルなことを、日本美術に本質的な「平面次元主義」をコンセプトとして、同様に「敢えて出発する」村上氏が、なぜか無視してしまっているように見える。この矛盾が少々疑問なのですよね。「2次平面的な日本人の方法」を帰納し、そしてそれを理論的に実践するといった、一種の後出しじゃんけんのような、方法の自己目的化した表現であっては、到底メンタル云々の話ではないことになりましょう。モダンアートなのだから、造形化にメンタルな動機などを混入したらカッコ悪いのか、それとも「そんなものは無くて当たり前」の無自覚な先例主義か。はたまた作品のグローバル化にとって、ローカルな要素は残しておいては都合が悪いということなのか。しかしそもそも村上氏は、コンセプチュアルアートという基本的に「何でもありの自由」という自覚の下、そのコンセプトを「単なる概念」というよりは、日本文化美術の「本質を継ぐ」という自負から、「日本的理念」といったものに思い定めたのではなかったか。もしそうならば氏のその肝心な何かを見忘れたような曖昧かつ安直な表現は、何なのだろうかということにもなりますよね。つまりこうしたことに無矛盾であるためには、氏はその表現において、現状のごとく「平面次元主義」と密接不可分かつ表裏一体なメンタルな要素に全くの無関心でいるわけにはいかないのではないかと思われるのです。そしてこうした概念芸術のいわば限界を乗り越えるためには、若冲の「鳥獣花木図屏風」などの「升目描き図」に見られる、その一見のアニメチックな表現を、充実した神秘なものにまで高めた背後にある、精神主義的な絵画語法の構築表現といったことなどが大いに参考になるのではと思うのですが、どうでしょうか。村上氏がこの絵をどう考えているのかは知りませんが、若冲はこの凄い絵を何と200年以上も前に実現してしまったのですよね。ところでもし若冲が村上氏の作品を知ったなら「自分より退歩してしまってるんだから、この絵はもちろん群鶏図でさえも同列に語るな」とクレームを出すかもしれません。笑また村上氏は若冲研究者の辻氏の意見を参考にしているとのことですが、そもそも辻氏は若冲の「千年問題」を考究したことがなく、よって若冲のメンタル的本質には全くの無知なのですから、要は事の核心はそうしたことへの関係者皆の無自覚な無知が全ての原因だ、ということになるのかもしれません。もし辻氏が若冲のそれに気付けていたら、そんな画面上の2次元的視覚移動の特徴的パターンなどといった、浅薄なレベルの話で村上氏の相談に応じるわけがないのですから。(一つだけ核心の秘密を明かしますと、雪舟と若冲はそうした平面次元性への拘りからスタートし、さらにそれを3次元性と相対立させることで、そこにいかなる精神主義的表現の可能性があるかを模索したのであって、よって2次元性だけで若冲画を見てしまうのは、的はずれという話になるわけです。)といった感じなのですが、今回こうして考えてみた私なりの収穫は、結局は雪舟の美術史上最大の功績の一つである「精神的主題の絵画言語的構築」ということの影響が、若冲・蕭白を経て、近代どころか現代美術のそうした論理的主題性にまでシンクロするといった形で連綿と続いているのではないか、という気付きが得られたということでしょうか。とはいえ初めにも述べたように、何せ余り関心がない分野の人であり、また作品を実見したことがなく、さらには氏に関する一般の議論もほとんど知らないということであっては、ゴチャゴチャと論旨不明の見当外れか、陳腐な話になっただけかも知れません。よって参考になるかどうかは分かりませんので、どうぞ悪しからず。それと京セラの展示の方は残念ながら見ていないのですが、こうしたことなら先日の雪舟展のついでに見ておけば良かったとは思っても、関東在なのですでに時遅しですね。コロナに感染してしまい返信遅れました。ではまた。追記:少々修正しました。
とっても楽しみです😊予習編ありがとうございます🥰初日に行きます~☺
❤🎉たのしみです。
今日、行きました! 偶然、福士さんのお姿も。 たいへん見ごたえのある展示でした❣
本日、4月27日(土) 行かせて頂きます!雪舟の国宝が1度に観ることが出来るなんて!京博さま、ありがとうございます🎉
これは行かねば
雪舟伝説展❤
トラりんの効果音に爆笑🤣シャキーン✨❤️😆
京都だけかぁ…😿
行きたい!!
雪舟の本質を知る者は、現在までの500年余り「ほぼ皆無(例外が江戸期に二人いる)」なのだから、「雪舟の影響」云々と言っても、結局はごく表面的な、ただ図像が似てるとかのレベルの話だけで、雪舟の本質の影響に関わる展示には絶対ならないだろうとは思って実際に見に行ったが、もちろん当然のごとくにそうであり、諸々と浅薄な展示に終始していた。
しかし結局は雪舟の本質がよく分からないというこうした展覧会を、美術館や博物館この先何年続けるのだろうか。このままではおそらく300年位はそうなのだろう。
それに何でもいいから、若冲を先頭に出せば闇雲に人が集まって来るだろうといった、あざとい発想もなんだかねえ。
返信
図像に還元されないような雪舟の本質というのを教えていただきたいです。
図像による関連性及び影響を示す展覧会としては十分に成立していたように思えます。そのため、それ以外の本質(目に見えないもの)のため、目で見ることが重視されている展覧会においては仕方がないことのようにも思えます。
それは本質が如何なるものかにもよりますが...
そのため、ひとまずその本質というものを教えていただきたいです。
@@chatgpt5.0
返信に気付くのが遅れてすみません。
雪舟の本質は図像に還元されていないというのではなく、もちろん還元されまくっているのですが、ただその図像に表現された肝心のメンタルな本質部分を、500年間ほとんど誰もが見出せずに来たために、雪舟に影響を受けたという画家たちも例外でなく、ただ物の形とか描き癖だとかの「即物的なモノマネレベル」にとどまっていて、よって今展も単なる「そのような近似した図像の系譜の展示」になるべくしてなったのだというわけです。つまり図像による関連性及び影響を示す展覧会としては至極表層的で、本質的なところでは全然成立していなかったということですね。
それで、もしそうした本質までもを企画担当者らが理解していたならば、展示もカタログもそれに基づく全く違ったものとなっていたはずだと思われます。
例えばテーマは「雪舟500年の謎・展」とでもして、まず雪舟の作画における究極の目的の提示と、その達成のために絵画語法をいかに生涯工夫を重ね続けたかの例示と解説を行い。そして後の多くの画家たちがその真意に気づかないまま、どのように表面的なマネを繰り返してきたか。またその中でもごく例外的に雪舟の絵画語法の意義だけは理解したと見られる二人の画家がいることを指摘し、その証拠となる絵の展示と解説もする、といった風にですね。
そして私が特に指摘したいのは、そのように雪舟画に確実に表現されて存在する「メンタルな本質」、それが一体どのようなことなのかという疑問を持つ人が、雪舟研究者らや今展の企画担当者はもちろん、一般の室町水墨ファンの中にも余りいないのではないかということの不思議さとおかしさなのです。
もちろん口幅ったくも、私は雪舟のそれを相当なレベルまで理解していますが、どこの馬の骨とも知れぬ者ゆえ、まともに相手にされるわけもなく、またこのことは少々大袈裟に言えば日本美術史全体を根底から再考せねばならぬという長い話にもなるので、具体的にどこかでその「核心」について述べたということはありません。
ただこうしたことの諸々について参考にというのであれば、アマゾンのコメント欄で私が、雪舟研究者の2トップながらも、現代の雪舟観をかように訳のわからないものにしてしまった責任者としての島尾新氏と山下裕二氏の主著作に対して、上から目線で徹底した批判をしているものがありますので、もし宜しかったらどうぞ。(「みんちょう」名で、合計13冊分位もあるのですが、超長ったらしくしつこいのですぐ分かると思います。笑/それと「みんちょう」名をクリックしてもらえれば、他の著者の本へのコメも含めて全て一覧で提示されます。)
またユーチューブでしたら「掛軸塾」というところの「誰が雪舟を画聖にしたのか」という番組に「太郎」名でコメントしてありますのでどうぞ。(これが一番簡略で面白いかも)
さらには「アートアジェンダ」という美術展覧会情報のサイトにも、今展について「minchou」名で同主旨のコメントしてます。
@@山田太郎-d8w
丁寧な返信ありがとうございます。
ひとまず、私は雪舟の精神性という点を深く考えてきていなかったため、気になってコメントしたことを伝えておきます。
日本画家には、文人(精神性を重視する)と絵師(技術力を重視)する二分法があるとするならば、雪舟は後者だと勝手にカテゴライズしてしまったために、筆の動き、日本語特有の空間表現などといった図像的な解釈のみに終始していました。
太郎さんの、指摘は非常に面白く(Amazonのアカウントも見つけました)、私の雪舟観に影響を与えたのは事実です。
いろいろと読ませていただきます。
と、ここで大きく話が逸れるのですが、私も(?)美術批評の仕事をしていて、最近村上隆について再考しています。というのも、雪舟伝説展と同じ京都で個展を開催しており、日本画的表現とアニメ、漫画的表現を組み合わせた「スーパーフラット」の提唱者でもある村上隆の位置付けが最近どうもわからなくなってきています。
1998年あたりのHIROPON、MSLなどは非常に面白く辻伸雄の取り上げた「奇想」の画家たち(特に琳派)的な流体表現が、撒き散らかされた精子や母乳に見て取れます。ただ、現在京セラで行われてる展示では、そのような表現も少なく、単に面白くないシルクスクリーンを使っただけの平面的な作品でした。
太郎さんから見て村上隆に何か思うことがありましたら、何かコメントをいただけると幸いです。また、その京セラでの展示についても、もし見ておられたらよろしくお願いします。
(UA-camのコメント欄で行うような会話ではないかもしれませんが...)
@@chatgpt5.0
こんばんは。
現代美術には、昔若い頃にはそれなりの関心もあって、作品を見たり考えたりしたこともありましたが、それが年を取ってからはさっぱりで、そもそも村上隆という人の作品は時折ネットで目にすることがあっても実際に見たことがありません。
そんな感じなので、何かを語る資格はほぼないのですが、それでもずっと以前に一度、村上氏が主張する「スーパーフラットって何なんだ?」 と疑問に思ってちょっと調べてみたことはあります。
その時には確か若冲の動植綵絵の中の「群鶏図」だったかの説明で、画面の中を動く視点がスーパーフラット的だとかの指摘があり、よく分からないながらも、「そうしたものかねえ」とただそれ位の感想でしたね。
そしてその後に私も、若冲のいわゆる「千年問題」に関心を持つことがあって、若冲が動植綵絵に込めた「思想」が理解されてくるようになると、村上氏の主張も、基本的にはそう言えるとしても、若冲の「平面性」には、雪舟のメンタルな表現としての「平面主義」と同様の思想的根拠があるということでは、話はもっと深いものがあるのだがなと漠然と思うようにはなっていました。
そこで折しもおべっきゃさんの質問もあり、自分の頭の整理も兼ねて、改めてちょっと考えてみた結果が以下のようなことです。(いつもの癖の、根拠不明の上から目線調ですが。)
村上氏の活動がコンセプチュアルなものであり、よって当然芸術文化における理念性への集約と拡散という表裏一体化した作業を、単独でこなすことになるのであれば、特にそのスタート地点となる「概念性(理念性)」の立場を確固としたものにしておく必要があると思われます。
しかし氏がそのコンセプトを一応日本美術における超2次元性ということに見定め、かつその態様を生成拡散的に表現していった作品群は、どうもそのイメージが、私などには2次平面趣味に開き直った過剰な促進化とでもいった安っぽさに終始しているように思えて、何か肝心なものを見落としているのではないかということが感じられるのです。
そしてそれが何かというと、日本という国における「敢えて平面次元化する心の働きとしての精神性の意義」ということなのではないでしょうか。
実際日本の第一級の画家らは雪舟にしろ若冲にしろ、その「平面次元性」か「敢えて出発した」のですから、そこには何かしらのメンタルな意図が必然的にあったわけです。しかしその一番肝心なメンタルなことを、日本美術に本質的な「平面次元主義」をコンセプトとして、同様に「敢えて出発する」村上氏が、なぜか無視してしまっているように見える。この矛盾が少々疑問なのですよね。
「2次平面的な日本人の方法」を帰納し、そしてそれを理論的に実践するといった、一種の後出しじゃんけんのような、方法の自己目的化した表現であっては、到底メンタル云々の話ではないことになりましょう。
モダンアートなのだから、造形化にメンタルな動機などを混入したらカッコ悪いのか、それとも「そんなものは無くて当たり前」の無自覚な先例主義か。はたまた作品のグローバル化にとって、ローカルな要素は残しておいては都合が悪いということなのか。
しかしそもそも村上氏は、コンセプチュアルアートという基本的に「何でもありの自由」という自覚の下、そのコンセプトを「単なる概念」というよりは、日本文化美術の「本質を継ぐ」という自負から、「日本的理念」といったものに思い定めたのではなかったか。もしそうならば氏のその肝心な何かを見忘れたような曖昧かつ安直な表現は、何なのだろうかということにもなりますよね。
つまりこうしたことに無矛盾であるためには、氏はその表現において、現状のごとく「平面次元主義」と密接不可分かつ表裏一体なメンタルな要素に全くの無関心でいるわけにはいかないのではないかと思われるのです。
そしてこうした概念芸術のいわば限界を乗り越えるためには、若冲の「鳥獣花木図屏風」などの「升目描き図」に見られる、その一見のアニメチックな表現を、充実した神秘なものにまで高めた背後にある、精神主義的な絵画語法の構築表現といったことなどが大いに参考になるのではと思うのですが、どうでしょうか。
村上氏がこの絵をどう考えているのかは知りませんが、若冲はこの凄い絵を何と200年以上も前に実現してしまったのですよね。
ところでもし若冲が村上氏の作品を知ったなら「自分より退歩してしまってるんだから、この絵はもちろん群鶏図でさえも同列に語るな」とクレームを出すかもしれません。笑
また村上氏は若冲研究者の辻氏の意見を参考にしているとのことですが、そもそも辻氏は若冲の「千年問題」を考究したことがなく、よって若冲のメンタル的本質には全くの無知なのですから、要は事の核心はそうしたことへの関係者皆の無自覚な無知が全ての原因だ、ということになるのかもしれません。
もし辻氏が若冲のそれに気付けていたら、そんな画面上の2次元的視覚移動の特徴的パターンなどといった、浅薄なレベルの話で村上氏の相談に応じるわけがないのですから。(一つだけ核心の秘密を明かしますと、雪舟と若冲はそうした平面次元性への拘りからスタートし、さらにそれを3次元性と相対立させることで、そこにいかなる精神主義的表現の可能性があるかを模索したのであって、よって2次元性だけで若冲画を見てしまうのは、的はずれという話になるわけです。)
といった感じなのですが、今回こうして考えてみた私なりの収穫は、結局は雪舟の美術史上最大の功績の一つである「精神的主題の絵画言語的構築」ということの影響が、若冲・蕭白を経て、近代どころか現代美術のそうした論理的主題性にまでシンクロするといった形で連綿と続いているのではないか、という気付きが得られたということでしょうか。
とはいえ初めにも述べたように、何せ余り関心がない分野の人であり、また作品を実見したことがなく、さらには氏に関する一般の議論もほとんど知らないということであっては、ゴチャゴチャと論旨不明の見当外れか、陳腐な話になっただけかも知れません。よって参考になるかどうかは分かりませんので、どうぞ悪しからず。
それと京セラの展示の方は残念ながら見ていないのですが、こうしたことなら先日の雪舟展のついでに見ておけば良かったとは思っても、関東在なのですでに時遅しですね。
コロナに感染してしまい返信遅れました。ではまた。
追記:少々修正しました。