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辛い訓練を終えてもっと辛い戦地へ向かう。自らそれを選び自分の役目と命を全うした若者達には尊敬と感謝しかありません。
まさか2年後の8月15日に敗戦国になるなど思ってもいなかったでしょう…日本海軍に敬礼
空の雲をバック日本の旗が上がってくシーンカッコいいな。
最後の場面の「帽振れ!」は見送りの際の海軍の伝統ですね。特別攻撃隊の出撃時も、基地の司令、搭乗員、整備兵など全員が「帽振れ」で見送りました。
ハラダタイゾウ さん見送りと共に訣別の合図でもあります
やはり、教班長の言葉に重みがある。卒業したら実戦部隊に配属され二度とこの世に帰れない覚悟はしていると思う。鹿児島の知覧の特攻資料館を見に行くといい。彼らの遺書を読むとハンカチ無しでは語れない。
『決戦の大空』へって映画かなぁ? 予科練の古関裕而さんが作曲の主題歌『若鷲の歌』が入っているところ迄見たかった。
日本の戦時中の事など、今の学校教育では教えませんよね、しかしこの人たちがいたから今の日本があるんだよな。命の尊さなどもう教育現場では教えないんでしょうね。だから若い子の中には、昭和の初め日本とアメリカが戦争をしたことを知らなかったり、第一次世界大戦、第二次世界大戦のあったことも知らない子が、いるのには困った。
どんな日本人がいても今の日本人がいるんだよ。それが歴史の流れ。
今の海上自衛隊と全く同じ。軍艦旗掲揚時のラッパ君が代も同じメロディーです。ロケ地は霞ヶ浦海軍航空隊(今の陸上自衛隊武器学校)ですね。
「ラッパ君が代」?ラッパ譜君が代ではないのか?
終戦後、予科練に居た学生が私達の高校に入って来た。予科練の期間中には、国語、数学、理科等普通の授業はしていないので、年令は上だけれど、二年下の私達のクラスに居た。ほとんど話をした事はなかった。終戦が延びていたらこの人達も特攻隊員として亡くなっていたんだなと思いながら彼等をみていた。
僕の曽叔父さんは海軍士官でしたが、すごくモテたらしいです。しかも出身が長野でしたので、やはり長野で真っ白な制服で短剣を腰からブル下げて白い軍帽をつけて歩くと女性からすごく声をかけられたと言います。ですが、曽叔父は空母になっていましたが戦死されました。戦死はすごく近所でも話題になり、関わったことも無いような方からも国の為にありがとうございましたと言われたそうです。
海軍パイロットだった私の祖父は、決して戦争のことは語る事はなかったです。
そうですね。私の父も昭和12年入隊の予科練出身です。やはり、戦争の事は多く語らなかったですね。操練時代の失敗談何かは、たまには話して呉れる事は有りましたね。特に、初歩練習機で、初単独飛行を許された時のことは、嬉しそうに話して暮れましたね!初飛行から10時間目だったそうです。
私の曾祖父はここを卒業してソロモンで死んだのか、、
最高です
Imperial Japanese Navy. The most amazing navy ever existed.
父が予科練を経て、三重航空隊に所属していました
彼らの年齢は今でいう高校生位かな
そうですね、おおよそ「かぞえ」で17~19歳あたりです。映像の中で「乙種飛行予科練習生」と言ってます。乙種は「高等小学校卒」の学力が条件で、甲種は「中等学校卒」が条件だったと思います。入る年齢等は違っていますが、甲種よりもさらに「体力」が付いていないので、より長い期間、練習生の初期(操縦や座学より体育中心)があります。ですので結局は、予科練卒は、乙種の場合、旧制高等小学校卒(14歳)+4年=18歳だったと思います。但し、16歳くらいで入隊した生徒は、3年ほどで卒業したりしています。ちなみに甲種から算出すると、旧制中学卒(17歳)+2年=19歳が順当だったと思います。その後「飛行練習生?」に進みます。戦前だと、20~21歳(昔は年齢は「かぞえ」ですので、満19~20歳かな?)で実戦部隊に配属されていったそうです。但し、1942年後半からは、それぞれの教習課程が短縮され、もっと早く卒業して行ってますが、甲種と違い乙種は、あくまでも「体が未成熟」とされていましたから、この映像が1943年8月15日あたりの乙種卒生たちとしたら、今の高校2~3年かな?...操縦者増の中心は、甲種予科練+大学在中(学徒)で賄われました。
若くても精神年齢は完全に成熟した大人ですね。
@@Toradge ご指摘のとうり予科練には甲種と乙種が有りました。乙種の受験には高等小学校卒の学力が、甲種は旧制中学の四年の一学期修了が受験資格でした。修業年限は乙種は当初は、約三年でした。一方、甲種は六ヶ月でした。これは体力的なものもあったでしょうが、飛行機という近代科学の粋を集めた物を扱うためにそれ相当の基礎学力(特に物理科学、数学等)が求められたため、乙種の場合は、中学卒業程度の学力を着けさせる目的があったと思います。それから、もう一つ階級の面でも大きく違っています。入隊時は乙種も甲種も最下級兵の四等航空(飛行)兵でしたが、甲種出身者は半年後には兵の一番上の一等航空(飛行)兵に進級です。一方、乙種は三年後の卒業時に一等兵に進級という違いがあります。従って甲種出身者は、兵隊の時はおチョウチンと呼ばれ、下士官に成り立てのときにはボタモチと呼ばれ肩身のせまい思いをしたそうです。因みにボタモチ、おチョウチンは三年毎に付与される善行章がないことを指しています。普通の海軍の下士官兵は一等兵に進級するのに、平均的には三年かかりますが、特に優秀な人は三年立たずに一等へに進級する人がいます。この人達をおチョウチンと呼ばれています。下士官も最下級の三等下士官に進級するのに最低四年かかります。それが、甲種出身者は予科練卒業後、約一年の飛行訓点を経た時点で下士官に任用されますから、当然、善行章は付与されていません!これを称してボタ下士と呼ばれていました。戦争が激しくなってくると人員の補充のために、一般兵科でもおチョウチン、ボタ下士官が増え戦力の低下は避けられなかったでしょうね。なお、甲飛一期の連中で終戦まで生き残っていた人たちは、ほとんどが中尉に進級しています。
俺、同じ年頃の時、受験勉強とか面倒くせいって思ってた。僕が将来考えようと思わなかった時に予科練生は明日、明後日の事考えてたんだろうなぁ…
Are these comments in the same Japanese dialect?
8月15日が意味深...
What film is this from?
予科練を卒業したら、自分が乗りたい機種別の学校に行くので、ほとんど特攻隊なのが悲しい。
婆ちゃんが男に生まれてたら予科練に行きたかったって言っとった。同級生が行って もの凄く羨ましいとも言っとった
この中の出演者は皆本人なら後の特攻の主力部隊ですか?
昨年亡くなった親父は、海軍特別年少兵、それも昭和ニ十年入隊ですからはてさて?どんな?服着ていたのやら?警察予備隊、保安隊、陸自の写真は手元に有りますが、特年兵の頃の写真は有りません、しかし厚生労働省からの軍歴証明書には、従軍記録有りましたし、厚生年金の記録にも有りました。
国に勲章の申請はしましたか? 私の父親は、申請して、当時の安倍首相名で、儀仗隊の方々によって、霊前にて戴きました
映画のタイトルわかる人いますか?
恐らく「ハワイ・マレー沖海戦」だと思われます。
@@シルバーチャリオッツ-b8t さまありがとうございます、探してみようと思います!
@@3玉響様 ヤフオク、アマゾン、DVD販売されてますよ!いいのゲットしてくださいね!
追加します。二つの映画が含まれてるようです。「決戦の大空へ」と「ハワイ、マレー沖」です。完全に映像をコンプリートしたい場合は二つとも購入なさってください。もちろんアマゾン、ヤフオクでも購入できます。
UA-camでも全編アップされています。ですが消される可能性があるらしくその度に誰かがアップされるそうですね。手元に置いておきたい場合はやはりDVDを購入なさった方がいいですね。よろしくお願いします。
同じ場所の陸自武器学校はいくつかの過程でお世話になった。初曹の相浦から武器学校に来た時は天国かと思った。特にここで取った弾薬課程は定年後の生活では、クソの役にも立たない。同じ場所が令和になっても、海と陸は異なれど、国防の学び舎となってるのは趣が深い
このDVDはなんてゆうタイトルでしょうか?
「決戦の大空へ」「ハワイ マレー沖海戦」二つの映画が含まれいるようです。私は全編きちんと見ておきたいのと手元に置いておきたいので二つとも買いました。
大真面目に作った戦意高揚映画なんだけどなんかコミカルなんだよなこの予科練映画
卒業つまり死が待っている
可哀そうなことに、この後、彼らの命は使い捨ての特攻になる。子どもの純情な心に愛国心を刷り込むことなんか簡単にできた時代。
この時代にはオタクも引きこもりもいなかったのだろうな。
パリピもチャラ男もおネエもいませんね
戦後映画ですよね。こんな葬式みたいな卒業式をしただろうか。
なんだこれ
これは北朝鮮ですか?
お前の目は節穴かwwどう見ても北朝鮮ではないだろww これだから低能はユーモアも頭もなくて困るww🤣
いえ、アメリカです
似たようなものです。
辛い訓練を終えて
もっと辛い戦地へ向かう。
自らそれを選び
自分の役目と命を全うした若者達には
尊敬と感謝しかありません。
まさか2年後の8月15日に敗戦国になるなど思ってもいなかったでしょう…
日本海軍に敬礼
空の雲をバック日本の旗が上がってくシーンカッコいいな。
最後の場面の「帽振れ!」は
見送りの際の海軍の伝統ですね。
特別攻撃隊の出撃時も、基地の司令、
搭乗員、整備兵など全員が
「帽振れ」で見送りました。
ハラダタイゾウ さん
見送りと共に訣別の合図でもあります
やはり、教班長の言葉に重みがある。卒業したら実戦部隊に配属され二度とこの世に帰れない覚悟はしていると思う。
鹿児島の知覧の特攻資料館を見に行くといい。彼らの遺書を読むとハンカチ無しでは語れない。
『決戦の大空』へって映画かなぁ? 予科練の古関裕而さんが作曲の主題歌『若鷲の歌』が入っているところ迄見たかった。
日本の戦時中の事など、今の学校教育では教えませんよね、しかしこの人たちがいたから今の日本があるんだよな。命の尊さなどもう教育現場では教えないんでしょうね。
だから若い子の中には、昭和の初め日本とアメリカが戦争をしたことを知らなかったり、第一次世界大戦、第二次世界大戦のあったことも知らない子が、いるのには困った。
どんな日本人がいても今の日本人がいるんだよ。
それが歴史の流れ。
今の海上自衛隊と全く同じ。
軍艦旗掲揚時のラッパ君が代も同じメロディーです。
ロケ地は霞ヶ浦海軍航空隊(今の陸上自衛隊武器学校)ですね。
「ラッパ君が代」?
ラッパ譜君が代ではないのか?
終戦後、予科練に居た学生が私達の高校に入って来た。予科練の期間中には、国語、数学、理科等普通の授業はしていないので、年令は上だけれど、二年下の私達のクラスに居た。ほとんど話をした事はなかった。終戦が延びていたらこの人達も特攻隊員として亡くなっていたんだなと思いながら彼等をみていた。
僕の曽叔父さんは海軍士官でしたが、すごくモテたらしいです。しかも出身が長野でしたので、やはり長野で真っ白な制服で短剣を腰からブル下げて白い軍帽をつけて歩くと女性からすごく声をかけられたと言います。ですが、曽叔父は空母になっていましたが戦死されました。
戦死はすごく近所でも話題になり、関わったことも無いような方からも国の為にありがとうございましたと言われたそうです。
海軍パイロットだった私の祖父は、決して戦争のことは語る事はなかったです。
そうですね。私の父も昭和12年入隊の予科練出身です。やはり、戦争の事は多く語らなかったですね。操練時代の失敗談何かは、たまには話して呉れる事は有りましたね。
特に、初歩練習機で、初単独飛行を許された時のことは、嬉しそうに話して暮れましたね!初飛行から10時間目だったそうです。
私の曾祖父はここを卒業してソロモンで死んだのか、、
最高です
Imperial Japanese Navy. The most amazing navy ever existed.
父が予科練を経て、三重航空隊に所属していました
彼らの年齢は今でいう高校生位かな
そうですね、おおよそ「かぞえ」で17~19歳あたりです。
映像の中で「乙種飛行予科練習生」と言ってます。
乙種は「高等小学校卒」の学力が条件で、甲種は「中等学校卒」が条件だったと思います。入る年齢等は違っていますが、甲種よりもさらに「体力」が付いていないので、より長い期間、練習生の初期(操縦や座学より体育中心)があります。ですので結局は、予科練卒は、乙種の場合、旧制高等小学校卒(14歳)+4年=18歳だったと思います。但し、16歳くらいで入隊した生徒は、3年ほどで卒業したりしています。
ちなみに甲種から算出すると、旧制中学卒(17歳)+2年=19歳が順当だったと思います。その後「飛行練習生?」に進みます。戦前だと、20~21歳(昔は年齢は「かぞえ」ですので、満19~20歳かな?)で実戦部隊に配属されていったそうです。
但し、1942年後半からは、それぞれの教習課程が短縮され、もっと早く卒業して行ってますが、甲種と違い乙種は、あくまでも「体が未成熟」とされていましたから、
この映像が1943年8月15日あたりの乙種卒生たちとしたら、今の高校2~3年かな?...
操縦者増の中心は、甲種予科練+大学在中(学徒)で賄われました。
若くても精神年齢は完全に成熟した大人ですね。
@@Toradge ご指摘のとうり予科練には甲種と乙種が有りました。乙種の受験には高等小学校卒の学力が、甲種は旧制中学の四年の一学期修了が受験資格でした。
修業年限は乙種は当初は、約三年でした。一方、甲種は六ヶ月でした。これは体力的なものもあったでしょうが、飛行機という近代科学の粋を集めた物を扱うために
それ相当の基礎学力(特に物理科学、数学等)が求められたため、乙種の場合は、中学卒業程度の学力を着けさせる目的があったと思います。それから、もう一つ
階級の面でも大きく違っています。入隊時は乙種も甲種も最下級兵の四等航空(飛行)兵でしたが、甲種出身者は半年後には兵の一番上の一等航空(飛行)兵に進級
です。一方、乙種は三年後の卒業時に一等兵に進級という違いがあります。従って甲種出身者は、兵隊の時はおチョウチンと呼ばれ、下士官に成り立てのときには
ボタモチと呼ばれ肩身のせまい思いをしたそうです。因みにボタモチ、おチョウチンは三年毎に付与される善行章がないことを指しています。普通の海軍の下士官兵は
一等兵に進級するのに、平均的には三年かかりますが、特に優秀な人は三年立たずに一等へに進級する人がいます。この人達をおチョウチンと呼ばれています。
下士官も最下級の三等下士官に進級するのに最低四年かかります。それが、甲種出身者は予科練卒業後、約一年の飛行訓点を経た時点で下士官に任用されますから、
当然、善行章は付与されていません!これを称してボタ下士と呼ばれていました。戦争が激しくなってくると人員の補充のために、一般兵科でもおチョウチン、ボタ
下士官が増え戦力の低下は避けられなかったでしょうね。なお、甲飛一期の連中で終戦まで生き残っていた人たちは、ほとんどが中尉に進級しています。
俺、同じ年頃の時、受験勉強とか面倒くせいって思ってた。僕が将来考えようと思わなかった時に予科練生は明日、明後日の事考えてたんだろうなぁ…
Are these comments in the same Japanese dialect?
8月15日が意味深...
What film is this from?
予科練を卒業したら、自分が乗りたい機種別の学校に行くので、ほとんど特攻隊なのが悲しい。
婆ちゃんが男に生まれてたら予科練に行きたかったって言っとった。同級生が行って もの凄く羨ましいとも言っとった
この中の出演者は皆本人なら後の特攻の主力部隊ですか?
昨年亡くなった親父は、海軍特別年少兵、それも昭和ニ十年入隊ですから
はてさて?どんな?服着ていたのやら?
警察予備隊、保安隊、陸自の写真は
手元に有りますが、特年兵の頃の
写真は有りません、しかし厚生労働省からの軍歴証明書には、従軍記録有りましたし、厚生年金の記録にも有りました。
国に勲章の申請はしましたか? 私の父親は、申請して、当時の安倍首相名で、儀仗隊の方々によって、霊前にて戴きました
映画のタイトルわかる人いますか?
恐らく「ハワイ・マレー沖海戦」だと思われます。
@@シルバーチャリオッツ-b8t さま
ありがとうございます、
探してみようと思います!
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追加します。二つの映画が含まれてるようです。「決戦の大空へ」と「ハワイ、マレー沖」です。完全に映像をコンプリートしたい場合は二つとも購入なさってください。もちろんアマゾン、ヤフオクでも購入できます。
UA-camでも全編アップされています。ですが消される可能性があるらしくその度に誰かがアップされるそうですね。手元に置いておきたい場合はやはりDVDを購入なさった方がいいですね。よろしくお願いします。
同じ場所の陸自武器学校はいくつかの過程でお世話になった。初曹の相浦から武器学校に来た時は天国かと思った。特にここで取った弾薬課程は定年後の生活では、クソの役にも立たない。同じ場所が令和になっても、海と陸は異なれど、国防の学び舎となってるのは趣が深い
このDVDはなんてゆうタイトルでしょうか?
「決戦の大空へ」「ハワイ マレー沖海戦」二つの映画が含まれいるようです。私は全編きちんと見ておきたいのと手元に置いておきたいので二つとも買いました。
大真面目に作った戦意高揚映画なんだけどなんかコミカルなんだよなこの予科練映画
卒業つまり死が待っている
可哀そうなことに、この後、彼らの命は使い捨ての特攻になる。子どもの純情な心に愛国心を刷り込むことなんか簡単にできた時代。
この時代にはオタクも引きこもりもいなかったのだろうな。
パリピもチャラ男もおネエもいませんね
戦後映画ですよね。こんな葬式みたいな卒業式をしただろうか。
なんだこれ
これは北朝鮮ですか?
お前の目は節穴かww
どう見ても北朝鮮ではないだろww
これだから低能はユーモアも頭もなくて困るww🤣
いえ、アメリカです
似たようなものです。