移動可能な兵力が30万人、自分の町や村を守る固定防衛兵力が30万人
京都や関東、東北の兵力は投入する間もなく撃退してしまった。というか九州ですら全力投入していない
過去、学校で教わった「夜、船に戻った所を暴風雨に襲われて大損害を出したので撤退」って言うのも冷静に考えたらおかしいよね。どこの世界に夜になったからって占領地放り出して基地に帰っちゃう軍隊があるっていうのw。あれは結局橋頭保(上陸地点)を確保できず夜間の安全を確保するためには自分達の船に帰るしかなかった、って事だよねえ
昔は物を知らなかったので、夜襲を掛けられたら被害が出るから、制圧しても夜には帰って基地代わりに船を使っていたんだよーと説明されて、なるほど! と思っていました
今だったら、んなわけないだろ! 土地を確保できてないから引き上げるよりほか無いんじゃないか! ってツッコミいれますねw
夜襲に備えた方が再び上陸するより絶対被害少ないじゃん……
実際、橋頭堡確保したら増援来るまで死守するだろうな。
上陸作戦の要点は結局兵士や装備を揚陸するための橋頭堡の確保なのだから、
それを放棄するのは本末転倒。
この時代にしては情報をしっかり持ってたらしく、国を滅ぼされてこんな遠征に駆り出されている元宋兵は捕虜として丁重に扱ったけど、元と高麗の捕虜はこの戦いに積極的だったということで首をはねる徹底振りだったらしい
5:27
しかも右の方には日本側の援軍の騎馬武者が弓を構えて突撃する絵が描かれてる
つまり日本側も集団戦法ですね
ちなみに竹崎さんのこの絵は恩賞を貰った後に描かれたもので戦友たちを弔うために描いたそうです。
竹崎さんの出生の話から恩賞について幕府と交渉するシーンまで描かれています。
描き足しについてはもっと後の時代に描き足されたという説もあるようです。
@@gamelite9988 元寇絵詞の全体像をアンゴルモアって漫画の作者さんが紙芝居風にまとめてる動画がニコニコにあります
なかなかおもしろかったです
www.nicovideo.jp/watch/sm33399534
@@kaisermuto モンゴル軍は馬を運べなかったのに他の兵は馬を運べたってこと?
言ってることおかしいって気づきませんか?
絵にかかれているのは紛うことなくモンゴル騎馬ですよ
@@user-ov3qm9us6v
蒙古兵は立って戦っている。また常識的に考えて馬を小さな船で飼いながら船上生活を3か月もできるわけはない。蒙古兵らの食料、水さえ欠乏していたというのに。
蒙古の考えは先発隊が占領してから運ぶつもりだったのだろうし、現地調達を安易に考えていたとおもう。モンゴル船は
13.5mのキールだったから45坪の住宅二つより狭い。この中で馬と人間が3か月同居することは不可能。かりにいたとしても一隻に一頭の馬では戦力にならない。
九州の御家人が竹崎季長のように死を恐れず、
元との戦いで一旗揚げようと戦意高揚だったのも
元にとっては予想外だったと思います。
竹崎季長は大正時代再評価されて従三位を賜ってますね。
@@asakazefuji さん、戦後の左派系の教育者の為に、嘘が多くうんざりでした。黙っていては、駄目だから今知らせないと永久に台風でになってしまいますから。我慢も、これまでと。
海に囲まれた要塞の上に、上陸したところで待ち構えてる戦闘民族。
仮にそこを突破できたとして、草原に適応していたモンゴル騎兵に待ち構えているのは山だの谷だのしかないくらいに最悪の地形……
相性がそもそも悪すぎる
そもそもモンゴルは大陸の民族だから、「海を渡って力で征服」というのがまず難しいんですよね。ただでさえ戦争は守る方が有利で、海を越えてとなるとさらに難易度が上がるのに。
実際元が攻めた国で地続きじゃない国は日本くらいじゃないですかね。日本は高麗とのつながりがなければほっといた気がするし、攻めるのも結局かつての高麗頼みだった。
ただ、地の利や偶然だけで勝ったかというと、後にキリスト教が来た時に「日本人は戦闘力が高いので、武力支配は難しい」と本国に報告しているので、民族として強いのは強かったんだろうと思います。刀狩以前は、農民も戦闘力あった(からこそ刀狩をした)んでしょうし。
最近見直されてる鎌倉御家人軍。面白かったです
@ner sun モンゴル帝国に対して
ミャンマー(ビルマ):滅ぼされる
インド:途中まで侵攻されるも宗教紛争がおき勝利
インドネシア:同盟を組んで後に追い出す
ベトナム:白藤江の戦いで勝利
ポーランド:ボロ負けするもモンゴル軍が葬儀の為に撤退していったので助かった
ハンガリー:ポーランドと同じ
セルビア:属国になる
シリア:ギリ勝ち
武士といえば戦国時代だというイメージが世間一般には広がってるけど、個人的には元寇が一番好きな戦い。「鎌倉武士は弱かった!神風吹かなきゃ日本終わってたネ」みたいな事言ってる人とはおそらく一生分かり合えない。
もしこの時に元に降伏していたら
現代中国は「日本は古来から中国領土」とか言い出していたね
『ちゅーても元ってモンゴルじゃね?』
『いやそれでも自国の歴史ってことで自分に都合よく語るのが中国なんだよっ!』
『そうそう。清王朝とかも別民族の王朝で今の中国と関係ないしな。隋とか唐なんか実際はトルコ系民族の国だったし。』
『そういう別民族が支配してた、ただ中国大陸にあったというだけの国の歴史を、中華人民共和国の歴史ってことにするんだよな。』
『その手前勝手な解釈で台湾やチベット、ウイグルなんかを自分の国の領土だなんて言うんだからタチが悪い』
『え?、、、、マジどうしようもない国だな、、』
元寇の説は色々あって楽しいですよね
元寇についてですが、台風のおかげでたまたま運よく勝ったと教えられるようになったのは戦後からです。
GHQ指導による歴史の書き換えが行われました。
戦前まではちゃんと鎌倉武士団が実力で撃退したと習っていたそうです。
歴史って唯一、調べれば調べるほど教科書とは矛盾してくる面白い教科。
歴史は、最近になるほど事実とかけ離れてくる不思議、某民族や某民族にとって都合がよい話になっていく不思議、日本と日本人が最低の国民族にされていく不思議 事実とは真逆
それをやってるのが東大を初めとするウソ捏造学者、ウソ捏造メディア、ウソ捏造民族. . . .
御家人よりも九州地方の野武士が桁外れに強かったとか笑
何せ、重装騎馬弓兵と言う
変態装備を普通と考えてる
モンゴル兵の上位互換的な
兵種なんだから
そのモンゴル兵にすら勝てない
朝鮮や南宋の現地兵で
勝てるわけ無いんだよなー
@@user-yz6du9jp2i
「やーやー我こそは!!」
↑
教科書で習う嘘の元寇
「関係あるか、全員まとめてぶち殺したれや!!!!」
↑
真実の元寇・・・
#はるか昔の人達本当にありがとうございました
武器を考えてみた。大陸刀は流し込みで皮手袋でつかめばつかめる。実際に西洋剣の動画を見た。攻撃、防御の形で時々相手の剣を皮手袋でつかんで取り上げる場面があった。
これを踏まえて、モンゴル軍の船に乗り込もう。まず狭い船上に多数の蒙古兵。日本刀を構えた鎌倉武士は刀を前に突き出す、すると蒙古兵は皮手袋の手で日本刀をつかむ、武士は刀を思い切り引く。結果モンゴル兵の手のひらはズタズタ。それで戦力外。さあ次へ行こう。・・・そうして馬に乗っていない蒙古兵は次々武士の餌食になっていった。武士たちは手を切られた蒙古兵に次々とどめを刺して引き上げた。短時間の戦いであった。
元軍は、地形で不利だった気がします。
中国大陸は平地が多く、幅広い兵を展開して戦う戦法が得意だったと思いますが、
攻め込んできた地形は、平地が少なく兵を展開して戦う事が出来なかったので、苦戦した気がします。
鎌倉武士は、元軍が疲弊しても昼夜問わずに絶え間なく攻め立てて、
「コイツらヤベエよ・・・」
って、恐れおののいたっていう話を聞いた事があります。
元寇の頃には博多に世界有数の陶磁器マーケットが出来てて、かなりの人数の「交易をやってた宋人」が居住してたんで、元の動きは早く分かってたのでは?
と聞いてます。
博多遺跡群で発掘があると元寇と秀吉の焼き討ちの層の井戸や井戸端には隠した陶磁器がごっそり出てきたりします。
この頃の日本の武士はガラパゴス重弓騎兵のとんでも常備兵だしな
近接から遠距離まで1人でこなせるどこぞの戦闘民族が軍で戦うみたいなもんだし
弱い訳が無いんだよな
スパルタよりよっぽど狂ってるし強い
第二次大戦でも基本米軍以外には負けていない。
こういうとネトウヨがーと思うかもしれないが、だからこそ日本軍上層部は調子に乗っちゃったんだよ。
毛沢東なんか日本軍と戦うのは避けて辺境を荒らして富を蓄え、戦後日本軍とまともに戦ってボロボロになってた蒋介石軍を楽勝で叩いたと本人も認めている。
米軍との戦いも緒戦では圧倒しマッカーサーなんか泣きながら逃げ出している。
トラウマになったほどで終戦で、マッカサーが日本に飛行機で上陸する際ズボンの股間が濡れている写真が残っており、恐怖で漏らしたと言われてるよ。
戦後あれほど苛烈に日本社会をボロボロにしたのはそれが原因かも。
米国がソビエト連邦との冷戦に突入することは既に判っていたのだから日本を過度に叩くのは戦略的に不味かったのにね。
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そうだね、おもらしだとしたら彼が衆目のある場に出てきたとは思えない。
が、今となっては真実を確かめる方法などないんだよ。
5:26の絵巻で後付けをしていない兵士が弓で応戦しているんだけどよく見て見ると目に矢が刺さっていてその矢は実は季長が放った矢ではないかと言われているらしい。理由は刺さった矢の羽の模様と季長が持ってる矢の羽の模様が同じだから。
通信設備のない昔に15万という大軍で不慣れな海上遠征したらそりゃ上手くいくわけないよね
カーナビ普及してないころ、何号線とか確かめながら目的地を目指してましたが、そんな詳細な地図も標識もないころに異国に上陸してたら上陸位置を間違えても仕方ない。
そこへ目尻から光跡をたなびかせるような戦闘民族が襲来してきたら😨
二か月上陸を阻んで神風到来。35年も前だけど、学校で習ったときは「元軍は集団戦をし火薬などの最新兵器もあり、日本は相手にならなかったけど夜になって元軍が船に引き上げ
たら嵐が来て翌朝には元軍壊滅していた」だった。教師が愉快そうに話してた。ついでに「この時神風で勝って、日清戦争、日露戦争で勝って、いざとなったら神風が吹く日本は負けないと調子に乗って日米戦争でああなった」と教訓めいた話を付け足したりしてたのを思い出す。
大変,動画として面白かったです。✨詳しい分析,考察✨為になります。南宋の兵士を丁重に扱ったとか,初耳で驚き,感心しました。✨武士道精神:大岡裁き✨はこの頃既に有ったのですね✨改めて,北条時宗公と,鎌倉武士団に感謝💖🙇。ch.登録致しました😹。
3:50
なんか昔マンガの歴史の本でそんなのあったな、手に穴開けてそこに紐を通して逃げられないようにしたとか、エグ…
日本に取り残され、捕まった蒙古兵のその後が気になりました。今と違い、人権思想がない大昔。残虐行為への返礼として、考えるのもゾッとするよう報復をされたのでしょうか?調べたら、やはり捕まった敵兵は斬首されたとの事。弘安の役とその後 (tamagawa.ac.jp)
捕えた捕虜の手に穴をあけて紐を通して逃げられないようにしたのは高麗人だったって話もありますね。
元の指揮官が「そんなことしたら奴隷として使えねーだろ」って怒った話も聞いた事あります。
祖父や父から聞いた話によれば、戦時中には
北から攻めて来る敵(元)を北条が撃退したのだから
東から攻めて来る敵(米)は東条が撃退する。
そんな景気づけ言葉が言われていたようですね。
でも東条は終戦1年も前に軍政トップを退いていた。
アンゴルモアの新刊出たね‼️
めっちゃオススメ👍
@@user-el7ve2eq3n
めっちゃ分かります‼️
私は伊藤悠の新作と思って間違えて買いました(笑)
今では同じくらい大好きな漫画です👍
色々解って来て随分変わってきたね。戦国時代でも西洋列強の侵略を受けなかったのは鉄砲を数年で大量生産してしまうほどの技術力があったからだし。
@@gamelite9988
黒船来航であたふたした幕府でさえも、咸臨丸で逆にUSAを訪れている。
先例踏襲主義で新しいことには拒否反応を示す幕府でさえも、これだけの危機意識と現状打破意識を持っていたという証拠。
清や李氏朝鮮を初めとするアジア諸国で唯一、欧米列強にボロボロにされなかった理由がこの辺りにあるのかも。薩摩も長州も負けてはいるが、正面から戦っているし。
秀吉の朝鮮出兵も 秀吉が耄碌して 戦争を仕掛けたように なっていたが 世界情勢を鑑み 明をとっておかないと 日本が侵略される可能性があるとして 欧米に対する 緩衝地として 明を侵略することが目的だった 実際 唐入りといって 朝鮮半島はただ通り道としか考えていなかったという説もあるようだ 自分はこれを支持している
@@kazutchi1910 それ、先日NHKスペシャルでやってましたね。秀吉はフィリピンをも攻略視点に入れていたとか。ところが相前後して秀吉もスペインのフェリペ2世が亡くなったことで立ち消えになった・・・
なんかキングダム(漫画)のジャコ王を思い出しますね〜「またしても実力の1/10も出さずに勝ってしまう」みたいな…
あと、浮世絵のダメージ盛り聞いて、下手したらコレが日本の謙遜が広まった原因とか?って思いました!
フビライはモンゴルの中では漢文化にも理解がある方なので開明的と思ってたけど、こと日本征伐に関してはずいぶんと意固地だったんですね。
@@yamaoyaji5739 実のところ、日本では対外国防戦など始めての経験だったからか、少なくとも民間人はこちらでいうほど楽勝ムードはなかったよう。
それが、現代にも伝わる妖怪「モクリコクリ」に現れていて、江戸時代が終わって明治・大正に入っても九州北部では、子供が悪さをすると「モクリコクリ(蒙古人・高麗人)が来て攫ってしまうぞ」と脅されていたそう。
また、東北各地には「もくりこくりの碑」が点在し、往時の恐怖、蒙古襲来恐ろしさを今に伝えています。
確か弘安の役の時、モンゴル軍の一部が長門(現:山口県)に現れたっていう話が有りますね。
ただ資料が殆ど無くてかなり不明な点が多いらしいけど。
誇り高い戦闘民族の血はどこに行ったんやろな……
@@yuuki3561
まあ、雪山での合同演習で米軍が死者まで出す中、合流地点に先に徒歩で到着して雪合戦しながら待ちほうけてたくらいには、おっとりしましたね
勝てなくても死ぬまで戦うって、まさに大東亜戦争の日本軍だな……。
元軍は得意の騎馬部隊を使えず、ほぼ未経験の船を使った戦いでは日本に勝てるわけがないですね。しかも軍の大半はそもそも戦に強くない高麗兵。
御家人の配下だけではなく「自社仏寺の司等至れり」とあることから
九州では総力戦ですよね。
指揮官、司令官クラスで損害がみられることから
決して
竹崎季長は事実窮地に陥っているところを援軍に助けられているから
加筆したにしても実情に合わせたと見る方が妥当では無いかな。
昔はモンゴル軍に苦戦するが神風で辛勝したと言われるが、現在では緒戦で劣勢を強いられたとはいえ、平時でも練成を怠らず練度高い九州武士が地の利を生かして奮闘、そのうえ増援の各地の武士団もヤバいくらいに強い一方、モンゴル軍は多種多様な民族と征服地の人員の混成軍で統制が取れないうえ、得意の騎馬戦術が使えず不慣れな海戦を強いられ不利な条件が重なり相手の土俵で負けてしまったというのが定説として有力になっているんだよね。
九州武士が奮闘した一方で、活躍したとはいえ貢献度が相対的に低い鎌倉幕府も面子を保つために、本当のこととはいえ神風が吹いたというプロパガンダをやるしかなくなるよ。
鎌倉幕府は日本史における中央政府の中でも強制力が強い方じゃないというのもあるせいで・・・。
イスラムやヨーロッパまで遠征してフルボッコにした元軍がここまでやられるなんて。元軍は騎馬民族だったので船で遠征して戦うのに慣れてなかったという説もあるし、兵士の大半が征服された土地の出身てのもあり士気が低かったという説もありますね。それにしても鎌倉武士強いなー!
神風と教わるようになったのは、第二次世界大戦での発揚の為だったんですね。戦後それが継続したのは、戦争を仕掛けないようにしたGHQや国の方針だったのかなと思いました。
海外からの侵略を退けたけど、金や領土を奪ったわけではないので、満足な恩賞を与えられず幕府の弱体化に繋がったと子供の頃に読んだ歴史マンガにあったけど、今は違うのかな。
そのマンガは台風を神風のお陰で勝ったというか助かったという描写だった。
船を作ったのが侵略された高麗と南宋ってあたりもはや勝つ気ないけん…。(一説によれば氾濫起こされたら、大変なんで使い潰しに使ったんじゃね説までありますけども
島津の朝鮮出兵時の強さの話もありますし、九州武士の強さは並外れていたんでしょうね。
最強と言われたモンゴル軍も、いざ海戦となるとなかなか勝手が違ったのでしょう。
それに相手が今まで戦ったことのないくらい強い九州の鎌倉武士。
兵士の9割が帰国できずは、後に恐怖伝説として語り継がれたでしょうね。
1970年代生まれだがその世代が受けてきたに日本史の教育が今現在相当変わってる現実、聖徳太子が厩戸皇子とか和同開珎が富本銭とか年号が変わったりが色んな内容が変わってしまったけど。歴史教育って真実がどこまで本当だか、怖さを覚える時がある。
歴史教育って国のプロパガンダに使えるし。歴史教育って国民のモチベーション誘導にもってこいの教育だよな
当時、欧米の諸国との取引があったらどんな反応になってただろうか
かなり昔から木材とか銅とか輸出してたはず。流れ流れてヨーロッパにも渡って建材に使われてたとか。
すごく材質がよかったらしい。
銅に関しては製錬の技術が優れてたんだったかな?
モンゴルより弓の射程が長かったというのも大きいかも?
モンゴル弓は本来のコンディションなら和弓を上回っていたでしょうけど長期の航海で相当に劣化していたと思われます。矢戦では鎌倉武士が優位に立っていたでしょう。あと、載せてきた馬のコンディションも相当に低かったはずで馬は使えなかったと考えて良さそうです。
なぜ言葉が通じたのかが不思議でならない
あと、歴史ってテキトーなこと教えてたんだな
元からの国書のことでしたら、漢文なので当時の日本には日本人でも読める人もいたでしょうし、当時の日本には南宋出身の僧侶も滞在しており、鎌倉の建長寺にもいました。
また文永の役後に使者の杜世忠一行が殺された時に高麗人の通訳も殺されているので、使者との会話は通訳によっても可能だったかと。
基礎知識だが、竹崎さんが絵巻を書いたのは元寇から大分経ってからだから、とっくに恩賞はもらっている。
当時は神社や寺が自分達の祈祷の成果だとするために暴風雨を誇張した
大東亜戦争中は日本を神格化するために暴風雨を誇張した
戦後は日本軍は弱いけどたまたま勝ったことにするために暴風雨を誇張した
元軍はベトナムとかインドネシアでも敗れてるんですよねえ・・・。
元軍は平原での騎兵による集団戦法でなければ勝てないと思うな。
日本は山あり谷あり。その頃平野は湿地と藪が大半。山は樹木だらけ。
ベトナムはジャングル。アメリカもジャングルでベトコンにやられた。インドネシアも同様だろうよ。
そもそも文永の役のころには江南の地に南宋が必死の抵抗を続けていて、しかも積極的な対外交易を行っていた。元寇を考慮する際に南宋は文永と弘安の役の間に滅んでいるという点にも留意が必要となる。
南宋の交易相手の1つである日本との通交により南宋の力を削ごうというのが当初のフビライの目的だったが、その使者は数度に渡り「黙殺」されることとなった(当初は使者を斬らずに帰らしており、斬るようになったのは文永の役の後で)
使者に対する答礼が無いゆえに皇帝たる威厳にかけて日本は討伐されねばならないというのが元側の論法へと帰結するのだが、一方で日本側にもこの際の元の使者が携えた「国書」に「それいずくんぞ兵を用いるを好まん」とあるのを国内情勢不安(異常気象等により執権体制が揺らいでいた)の解消へとつなげたという点がある。つまりは元が攻めてくるから戦わねば全てを奪われるぞという論法で目先をごまかしたのだ。
これが元寇の真相で、文永の役は上陸こそされたが日本は鎮西本隊(6万)到着以前に元軍が経戦能力を喪失して撤退している。なぜそう言えるかというと古今東西上陸した側が優勢下において船へ引き上げた例は無いからである。少し考えればわかるのだが当時の技術水準では乗船下船の手間は相当のものが有り、少なくとも優勢であるならば、あるいは次の朝にも戦うつもりならば海岸での宿営に留まるだろうことが明白なのだ。
弘安の役?そんなもん日本側の防塁のせいでまともな戦闘にもなっていないw
元軍の小勢が下関方面へ船で迂回したが捕捉撃滅されてるし。
モンゴルの強みと言えば『弓』と思われているし、実際そうではあるのだが、実は他にも注目すべき点はあると思う。
まず真っ先に見るべきは、騎馬民族のお約束である『機動力』、戦力を必要なタイミングで必要な場所に投入できる機動力は極めて重要で、伝令による情報伝達も大きな要因になる。
そして団結と結束、少人数で1部隊を作って、それを集めて100人規模、1000人規模と軍隊を組織することで、少人数の組織による団結と結束を作り、規模が大きくなった時も統率を保てたとか。
忍耐力も凄まじく、あらゆる悪天候と悪食に耐えたというが……情報源が『あの』東方見聞録のマルコポーロさんだから、これは話半分かなぁ……、うん、話1割だとモンゴル軍を舐めすぎになる気がする。
相手に効果が大きそうなのが見せしめ、素直に服従すれば寛大な措置を取るが、犯行するなら徹底した破壊と殺戮の嵐を巻き起こしたのも、大陸で戦った相手を震撼させたのは間違いない。
……で、海を越えやってきた日本。
機動力? 海を越えてきた馬で? 山がちな日本の地形で? 上陸出来る場所も限られているのに?
団結と結束? 敗残兵を集めた元南宋軍や朝鮮人を大量に集めて?
忍耐力? そんな兵の状態じゃ忍耐どころか士気さえ知れてたのでは?
見せしめ? 九州の武士相手に? 後ろに控える鎌倉武士相手に? ガソリン被ってファイアーダンスするレベルで火達磨になりそう……
人数以外に強みを活かしようのない元軍 VS ホームでやる気満々の日本軍
うん、本当に日本に勝ちたかったら、海を埋め尽くす船で日本を侵略するんじゃなく、物理的に日本海を埋め立てて日本と地続きにすべきだった。
@@gamelite9988
そして火をつけられても散開できずに、船団丸ごと上手に焼けましたね。
魏に船同士を繋ぐアドバイスをしに来た人物自体が、呉の刺客だったというオチ。
・構えた盾の上から矢がぶち抜いてきて構えた兵士が死んだ
・盾どころか構えた人ごと大太刀で真っ二つにした
・てつはうに驚いたのは午前中だけで午後には慣れた
・乗ってきた船に小舟で少人数で逆潜入して皆殺しにした
・墓の遺骨を調べたら筋肉の付き過ぎで骨格が歪んでた
ソースは失念して申し訳無いけど、あの時代の武士はプレデターなの?
@@gamelite9988 これまたうろ覚えだけど、平安末期の大鎧が40kg前後で戦国期には大分軽量化されて20kgくらいと聞いた。
勿論従者に至るまでこうだった訳ではないにせよ、少なくとも40kg鎧を馬上どころか陸戦でも動けなくならない化け物があの時代に結構居たんだと思う・・・。
元軍が撤退した後日談として、元は日本の逆襲を恐れていたそうで鎌倉幕府も大陸へ逆上陸して報復する計画を立てたけど実行には移されなかった。とにかく、御家人の活躍には恐れ入る。台風だけで元軍を撤退されるのは理由としては弱く、やはり御家人たちが奮戦したからであって台風は決定打とは言えない。
他の方の元寇の動画にもありましたが、時期がよかったのもありましたね。百年早ければ平安末期の混乱ですし、百年遅ければ南北朝の混乱時代でしたからね。
そもそも南北朝の引き金になったのが鎌倉幕府への不満が募り反乱が起きたからなので、100年遅かったとしても鎌倉政権の崩壊の引き金となった元寇がないので鎌倉政権は強いままだから大丈夫だと思いますよ。
100年早かったら…それはヤバいかもしれない…( ๑"・・)
大東亜戦争中の『神風』の元ネタって「軍縮会議以降の艦艇は重武装化が進み復元率が下がって日本近海での暴風雨に耐えられない」みたいなんだよね。実際にハルゼーさん(だったかな?)の艦隊がかなりのダメージうけてる。
なので「日本は神風が吹くので負けない」の返答は「吹いたけど負けたぞ」が最も限りなく正解に近い
第一次産業革命が起きる前までは日本は世界トップクラスに強かったと思う。
@@user-yq2fn8fj3x
最初に鉄砲を売り付けたスペイン人商人が銃二丁が2000両で売れたもんで
「これは金になる!」って思って、
次に来日した時に、大量に積み込んだ銃を売ろうとしたら、
日本中に銃が出回っていて、大損こいたっていう話もありますね。
この時の鎌倉幕府の意気を日本政府には見習ってもらいたい。遺憾や強い抗議で終わらせないでほしい。戦争は望まないが、相手が困るような報復を実行してくれ。
朝廷のおてがみ強気すぎてすき
世界最強のモンゴル相手に(( ;゚Д゚)))
その昔、聖徳太子も随に対して強気だったなぁ。
幕末の孝明天皇も攘夷派の急先鋒だったし、明治以降もそうだし、
朝廷は昔から「外交は強気」を地で行ってる。
それとも単に外国人が嫌いなのか?
神ですからね😅
@@user-vl7lr2xp6t 随に対して強気だったのはその時の随が日本に構っていられる余裕がなかったからですよ。それを聖徳太子はわかっていたという点で当時の日本は情報戦がかなり強い国でした。
@@user-vl7lr2xp6t それと日出処の天子というのは、仏教の考えで言うと日が出るところというのは弟のことで日の沈むとは兄のことであるので尊敬の念でこう書いているんです。じゃあなんで煬帝が怒ったのかというと、天子は地球にひとりなのにそれを名乗るとは天地も怒る狼藉だ!ということだったからです。ら