神田松之丞「寛永宮本武蔵伝 山田真龍軒」
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- Опубліковано 3 лис 2024
- 武蔵は自らを「生国播磨の武士」と『五輪書』で名乗る。養子の伊織が残した資料によると、姫路城近くの播磨の武士の家に生まれたが、統一過程で敗れた家だったので、少年期に岡山の武士・宮本無二斎の養子となった。
「天下無双」の名を室町将軍から賜った武芸者の無二斎の下で、少年期から剣術を鍛錬し、13歳で初めて勝負して名のある武芸者に勝った。
1600年の関が原合戦の後、21歳で都に上って天下の兵法者と勝負して勝ったという。調べてみると、武蔵は24歳の時に28カ条の剣術書『兵道鏡』を著し、「天下一」を称して円明流を樹立していた。
その後武蔵は全国に武者修行して、29歳までに行った60度以上の命がけの勝負に全て勝ったという。最後の勝負が有名な小次郎との勝負だが、約束の時間に遅れたというのは作り話で、無人島で同時に会して、三尺余の長い刀を遣(つか)う小次郎を、それを上回る長さの大木刀で打ち倒したようだ。
武蔵は30歳を超えてから「なおも深き道理」を追求して、50歳の頃に道に達したと『五輪書』に書く。この間のことを調べてみると、34歳となる1615年、大坂夏の陣に徳川方の大名の下で参陣した記録がある。
2年後、姫路城に入った姫路藩の客分となる。家臣ではなく、客分としての自由を持ち、藩主の嫡男などに剣術を指導していた。この時期から剣術の理論を追求し、水墨画も描き始めた。