戦国矢島氏(大井氏)紀行 矢島鶴姫(やじまつるひめ、おふじ)最上義光養女於藤又は矢島鶴「矢島氏が十二頭より孤立、攻められ矢島氏当主満安は逃亡、鶴姫も逃れるが、仁賀保氏に捕らえられ最上配下となる」

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  • Опубліковано 22 сер 2024
  • 戦国矢島氏(大井氏)紀行
    矢島鶴姫
    (やじまつるひめ、おふじ)
    最上義光養女
    於藤又は矢島鶴
    (矢島(大井)満安娘、仁賀保良俊妻?→楯岡満広妻?)
    「矢島氏が十二頭より孤立、攻められ矢島氏当主満安は逃亡、鶴姫も逃れるが、仁賀保氏に捕らえられ最上配下となる」
    ■矢島鶴姫、於藤 (仁賀保良俊妻?→楯岡満広妻?)
    矢島満安逃亡の際に捕らえられ、仁賀保氏に連れ去られたともいう。慶長出羽合戦により由利郡を手に入れた最上氏は、慶長8年(1603年)に重臣の楯岡満茂を4万5千石で入部させた。この時に弟の長門守満広は矢島3千石を与えられ、矢島氏旧臣の仲介により於藤を娶ったという。仁賀保氏での扱いは定かではないが、元和6年(1620年)に楯岡氏(本城氏)治下の矢島で満安未亡人が没したとの寺院記録などから、満広との婚姻は事実ではないかとの説が有力視されている。
    ■鶴姫(矢島満安娘、仁賀保良俊妻)
    大井五郎の息女鶴姫については、於藤(おふじ)と記されたものもあるが、両戦記を調もべてもこれを二人として取扱うことはできない。慶長9年楯岡氏が由利郡領主となって間もなく、鶴姫が長門守の夫人になったとある。
    文禄元年矢島落城の時、姫は4才であったと記されている。これから推算すると、矢島浪人が大井氏再興のためにたった慶長5年には12才で、慶長7年長門守夫人になった時は15才にあたっている。これと共に両軍記には、姫が仁賀保蔵人良俊と結婚したことを述べている。このことを年令的に検討すると、これは問題にならないことが分かる。仁賀保の系図によれば、良俊は寛永8年に39歳で没したとあるから、姫が長門守と結婚したという慶長7年には、9才であったことになる。しかもこの話は天正15年に仁賀保と矢島が和解を図るために考られたという話になっている。この天正15年は、姫の生まれる2年前にあたり、良俊の生まれる7年前ということになる。このことから見ても仁賀保との結婚話は不思議な運命を描がこうとした小説的記述が入り込んだものであろう。なおこの話は、普通の十二頭記にはなく、記事の附加された十二頭記詳本の中にあるところから見ても、後世永慶軍記あたりの記事が挿入したものではなかろうか。その他長門守夫人になったとする方に確実性のあることは、長門守時代の元和6年(1620)に大井五郎夫人楠峰松公(法名)が没していることで、これが福王寺の過去帳に見られることである。この寺に古来大井氏の墓と称する五輪(矢島で見られる最大のもの)があったことも、長門守時代を語るものと考えられる。今後これを中心に鶴姫の消息を今少しくたずねたいものである。
    (由利本荘市解説より)

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