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うわー懐かしい。中1の頃まで住んでました。大きくなってからは駅に来るのに長崎屋の方から上がって来てたから、大利商店街はあまり通らなくなってたんです。あーもう雑貨屋さんも靴屋さんもなくなってたか😢昔は寝屋川市駅は開かずの踏切で有名だったんですよ〜。踏切の横にはパルナスがあって…もう本当に見る影もなくなったなあ
子供の頃の私の遊び場ですが、「悪水(運河)」の横の遊歩道は、水路を埋め立てた通路であって(つまり用水路が二本並行していた)、もともとも生活道路でもなかったのです。寝屋川周辺は、道路ではなく運河や水路を渡す船が交通の主役で、早子町の私の実家にも朽ち果てた舟が置かれていましたよ。それは親戚が住む平池も同じで、昔は舟で運河を渡って行き来してたわけです。京阪電鉄には「豊野駅」が主力駅であり、初代寝屋川駅は車庫への操車場と停留場を兼ねた小さな駅。現在地に移転したときに寝屋川市駅と改名されました。現在アドバンスのある場所は、雑木林が残った湿地帯であり、井戸や茅葺きの屋根の家が残っているような田舎の風情が残っていた。昔の寝屋川を知る人は、もう随分お亡くなりになりましたね。
ご存知だと思いますが、寝屋川駅が北側に移設した際に北隣に有った豊野駅が廃止されました。その豊野駅の東側に大きな運動場が有って、野球場も有って甲子園大会の前身の野球大会も一時開催されていたと聞いています。
おぉ~よくご存知で、豊野駅は京阪グラウンドのために設置された臨時駅でした。廃止直前は2線4面島式ホームと結構大きな駅で利用者数も寝屋川駅より多かったようです。豊野保育園近くの三浦電気さんの前アタリに京阪グラウンドの正門の一部が昭和40年代頃まで残っていました。現在はその事を記した石碑が設置されていると思います。
大正期から直線道が増えるのは、モータリゼーションへの対応が理由ですね。物資輸送の手段として、トラックが想定されるようになりましたからね。道路の直線化は、全国的に見られます。この辺りには、親戚が居り、子供の頃によく遊びに行きました。昭和50年代、田んぼもまだ、沢山残っていました。冬は、稲刈りの終わった田んぼで、凧揚げしたり、遊びまでした。また、高校の通学で寝屋川市駅にもよく下車しました。その頃は、高架化されておらず、今と比べると、ごちゃごちゃとした感じはありましたね。面影は今もありますね。あの道は、旧道だったのだと、この映像で、勉強になりました。
私の実家が寝屋川で、とても興味深く見させて頂きました! とてもわかりやすい動画ありがとうございました!今は遠く長崎に住んでます。今すぐにでも帰りたい😭
親戚が入り口辺りにあり子ども時代によく遊んでいました。虎屋の和菓子屋さん懐かしいですね。清水百貨店を曲がって大利神社に向かってしばらく行くと映画館がありました。商店街の出口の右手に本行寺というお寺があり、ホンコさんという縁日が楽しみでした。
寝屋川高校卒業の古稀の爺です。自宅は枚方だったので、高校のある駅の東側しかわかりませんが、大利という地名や、寝屋川戎は記憶にあります。正月明け、寝屋川戎はここだっせ🎶商売繁盛笹もってこい🎶と、賑やかでした。結構、商店街が残ってるんですね。
昭和59年春まで寝屋川に住んでました。子供の頃は駅が高架になる前。アドバンスがない頃、ニチイ、イズミヤ、長崎屋などありました。マクドナルドもありました。大利商店街のところには映画館。その前辺りにオモチャ屋も、、懐かしいです
映画館の前はおもちゃの南でしたっけね?モデルガンをよく見に行った記憶があります。
補足させて下さい。寝屋川駅は住吉神社前に有りました。そして八坂神社前から池田秦線の間に豊野駅(運動場前駅)が有りその2駅が合併する感じで寝屋川市駅になった感じです。現在の豊野町には非常に大きな京阪グラウンドが京阪電車により作られそのための臨時駅として運動場前駅が出来た。このグランドには大きな寝屋川球場も有り1924年からは全国中等学校優勝野球大会大阪大会の会場ともなっている。その後選抜も開催予定だったが球場の整備や観客輸送の問題から開催を甲子園に譲る事になったようです。京阪が頑張れば甲子園の春夏大会は寝屋川だったのかもと思わせてくれる話です。
最初に出てた、昔からある道。20年ほど前にこの近くの東大利町に住んでいましたが、あの路地が明治期の唯一の通り道だったんですね。当時は狭いし用事もないし、ほとんど通ることはありませんでしたが…。古地図はたまに見ますが、こうやって映像で現在の地図と重ね合わせたりすると凄く分かりやすいですね。興味深い動画をあげてくださりありがとうございました。楽しかったです。
1:20の川ですが、母の実家がすぐ近く(大利)で、50年ほど前はお盆の時に川面まで降りるところがあって、灯籠流しをした記憶があります。ベルおおとしは、昔は大利商店街という名前でしたが、私が物心ついた昭和40年代半ばには既にアーケードがありましたね。従兄弟たちが駅までほぼ雨に濡れずに行けるのが羨ましくて仕方ありませんでした。寝屋川市駅が寝屋川戎のあたりにあったという話も昭和19年生まれの母から聞いたことがあります。
大利商店街の前の橋は以前は車が通れていました。ドイツ薬局もなくなった様ですね。清水百貨店はまだありますね。
遅レス失礼します。ドイツ薬局さん懐かしいですね。あそこは色んな薬品の在庫が有り硫酸や水酸化ナトリウム何かも買えました。印鑑さえ持って行けば買えました。毒劇物取扱主任何て資格持ってますが今では売ってもらえない場合が多いんですよね。
商店街マニアとしては興味深い動画でした。駅が高架になって位置が変わり、商店街が取り残された様子を見ると、旧西宮東口駅からJR西ノ宮駅に通じる商店街を思い出しますね。
近八尾のアーケードもですね(78年の近八尾高架化で移転)
かつては寝屋川駅の京都方にわずか500メートル離れたところに、「運動場前(後に豊野と改称)」駅があり、2駅の統合という形(豊野駅は廃止)での駅移動、という点でも阪神西宮駅と西宮東口駅の関係に似ていますね。
旧道を基にした動画、非常に興味深く拝見しました。昭和30年台の公共施設目線で見ても面白いと思います。このエリアに寝屋川市役所、寝屋川警察署、寝屋川郵便局と主要な施設が有ったので。
寝屋川駅も京阪電車も寝屋川の街も変わってる部分もあるなぁ自分が利用してたのはかれこれ30年前だから懐かしい、、(現在東京住まい)
寝屋川市駅方面へ行く早子商店街入口に「かけうどん屋」さんがあった記憶があります。中学生ころで素うどんが1杯100円でした。蒲鉾とねぎは自由に入れてくださいって感じだった記憶があります。
古い地図との突合ありがとうございます。古い地図を資料として確保して、それを現代の様子と比較するのって、手間で誰でもできないことだなと思いました。あの細い道が入り組んだ町並みがどうして現代に残っているのか。うかがいしれたきがします。道路を整備しないと、現代的な都市として開発することが難しいでしょうね。
大阪電気通信大学出身で今も寝屋川に住んでいます。とはいえ萱島ですが。
昔〇〇があった・・・興奮しますね。鉄道の跡、道の跡、川の跡等、当時の写真や合成の動画で是非ちむどんどんさせて下さい!楽しみにしています。
✂️💈IWASAKI有りましたね(^^)あとパン屋さんも覚えてます。
寝屋川市駅ありがとうございます!千林商店街調べて下さい🥺ほんとにほんとにお願い致します
千林商店街、学生時代によく通りました。♪一十百千せんばやし♪というデューク・エイセスが歌うテーマソングがありますね。京街道も横断していたり、ダイエーの発祥地であったり、かなり濃い内容となると思います。私からも期待しております。
手元に有る「日本地理体系」(昭和36年)に寝屋川駅付近の航空写真が載っていますが、大利、木田両集落以外は田園も多く、解説にも「駅前は未だ農村風景を呈しており、商店街は貧弱」である旨記載されています。昭和30年代前半まではそんな感じだったようです。寝屋川市はこの直後の高度経済成長期に、農道のままの状態で戸建て住宅や木造アパート、文化住宅などが急テンポで造られて人口が急増し、複雑な道路系のまま、密集した市街地が形成されたようですね。同じ頃急速に人口が増加した東京の町田市が公団による団地造成によるもので、「日本一の団地都市」となったのとは好対照として、大学の都市地理学の授業で教わりました。また寝屋川市は、南部の神田地区に低湿地のための輪中集落が見られることでも有名です。
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うわー懐かしい。中1の頃まで住んでました。大きくなってからは駅に来るのに長崎屋の方から上がって来てたから、大利商店街はあまり通らなくなってたんです。あーもう雑貨屋さんも靴屋さんもなくなってたか😢昔は寝屋川市駅は開かずの踏切で有名だったんですよ〜。踏切の横にはパルナスがあって…もう本当に見る影もなくなったなあ
子供の頃の私の遊び場ですが、「悪水(運河)」の横の遊歩道は、水路を埋め立てた通路であって(つまり用水路が二本並行していた)、もともとも生活道路でもなかったのです。寝屋川周辺は、道路ではなく運河や水路を渡す船が交通の主役で、早子町の私の実家にも朽ち果てた舟が置かれていましたよ。
それは親戚が住む平池も同じで、昔は舟で運河を渡って行き来してたわけです。
京阪電鉄には「豊野駅」が主力駅であり、初代寝屋川駅は車庫への操車場と停留場を兼ねた小さな駅。現在地に移転したときに寝屋川市駅と改名されました。現在アドバンスのある場所は、雑木林が残った湿地帯であり、井戸や茅葺きの屋根の家が残っているような田舎の風情が残っていた。昔の寝屋川を知る人は、もう随分お亡くなりになりましたね。
ご存知だと思いますが、寝屋川駅が北側に移設した際に北隣に有った豊野駅が廃止されました。その豊野駅の東側に大きな運動場が有って、野球場も有って甲子園大会の前身の野球大会も一時開催されていたと聞いています。
おぉ~よくご存知で、
豊野駅は京阪グラウンドのために設置された臨時駅でした。廃止直前は2線4面島式ホームと結構大きな駅で利用者数も寝屋川駅より多かったようです。
豊野保育園近くの三浦電気さんの前アタリに京阪グラウンドの正門の一部が昭和40年代頃まで残っていました。現在はその事を記した石碑が設置されていると思います。
大正期から直線道が増えるのは、モータリゼーションへの対応が理由ですね。物資輸送の手段として、トラックが想定されるようになりましたからね。道路の直線化は、全国的に見られます。この辺りには、親戚が居り、子供の頃によく遊びに行きました。昭和50年代、田んぼもまだ、沢山残っていました。冬は、稲刈りの終わった田んぼで、凧揚げしたり、遊びまでした。また、高校の通学で寝屋川市駅にもよく下車しました。その頃は、高架化されておらず、今と比べると、ごちゃごちゃとした感じはありましたね。面影は今もありますね。あの道は、旧道だったのだと、この映像で、勉強になりました。
私の実家が寝屋川で、とても興味深く見させて頂きました!
とてもわかりやすい動画ありがとうございました!
今は遠く長崎に住んでます。
今すぐにでも帰りたい😭
親戚が入り口辺りにあり子ども時代によく遊んでいました。虎屋の和菓子屋さん懐かしいですね。清水百貨店を曲がって大利神社に向かってしばらく行くと映画館がありました。
商店街の出口の右手に本行寺というお寺があり、ホンコさんという縁日が楽しみでした。
寝屋川高校卒業の古稀の爺です。自宅は枚方だったので、高校のある駅の東側しかわかりませんが、大利という地名や、寝屋川戎は記憶にあります。正月明け、寝屋川戎はここだっせ🎶商売繁盛笹もってこい🎶と、賑やかでした。結構、商店街が残ってるんですね。
昭和59年春まで寝屋川に住んでました。
子供の頃は駅が高架になる前。アドバンスがない頃、ニチイ、イズミヤ、長崎屋などありました。
マクドナルドもありました。
大利商店街のところには映画館。その前辺りにオモチャ屋も、、
懐かしいです
映画館の前はおもちゃの南でしたっけね?
モデルガンをよく見に行った記憶があります。
補足させて下さい。
寝屋川駅は住吉神社前に有りました。そして八坂神社前から池田秦線の間に豊野駅(運動場前駅)が有りその2駅が合併する感じで寝屋川市駅になった感じです。
現在の豊野町には非常に大きな京阪グラウンドが京阪電車により作られそのための臨時駅として運動場前駅が出来た。このグランドには大きな寝屋川球場も有り1924年からは全国中等学校優勝野球大会大阪大会の会場ともなっている。その後選抜も開催予定だったが球場の整備や観客輸送の問題から開催を甲子園に譲る事になったようです。
京阪が頑張れば甲子園の春夏大会は寝屋川だったのかもと思わせてくれる話です。
最初に出てた、昔からある道。
20年ほど前にこの近くの東大利町に住んでいましたが、あの路地が明治期の唯一の通り道だったんですね。
当時は狭いし用事もないし、ほとんど通ることはありませんでしたが…。
古地図はたまに見ますが、こうやって映像で現在の地図と重ね合わせたりすると凄く分かりやすいですね。
興味深い動画をあげてくださりありがとうございました。楽しかったです。
1:20の川ですが、母の実家がすぐ近く(大利)で、50年ほど前はお盆の時に川面まで降りるところがあって、灯籠流しをした記憶があります。
ベルおおとしは、昔は大利商店街という名前でしたが、私が物心ついた昭和40年代半ばには既にアーケードがありましたね。従兄弟たちが駅までほぼ雨に濡れずに行けるのが羨ましくて仕方ありませんでした。
寝屋川市駅が寝屋川戎のあたりにあったという話も昭和19年生まれの母から聞いたことがあります。
大利商店街の前の橋は以前は車が通れていました。
ドイツ薬局もなくなった様ですね。
清水百貨店はまだありますね。
遅レス失礼します。
ドイツ薬局さん懐かしいですね。
あそこは色んな薬品の在庫が有り硫酸や水酸化ナトリウム何かも買えました。
印鑑さえ持って行けば買えました。
毒劇物取扱主任何て資格持ってますが今では売ってもらえない場合が多いんですよね。
商店街マニアとしては興味深い動画でした。
駅が高架になって位置が変わり、商店街が取り残された様子を見ると、旧西宮東口駅からJR西ノ宮駅に通じる商店街を思い出しますね。
近八尾のアーケードもですね
(78年の近八尾高架化で移転)
かつては寝屋川駅の京都方にわずか500メートル離れたところに、「運動場前(後に豊野と改称)」駅があり、2駅の統合という形(豊野駅は廃止)での駅移動、という点でも阪神西宮駅と西宮東口駅の関係に似ていますね。
旧道を基にした動画、非常に興味深く拝見しました。
昭和30年台の公共施設目線で見ても面白いと思います。このエリアに寝屋川市役所、寝屋川警察署、寝屋川郵便局と主要な施設が有ったので。
寝屋川駅も京阪電車も寝屋川の街も変わってる部分もあるなぁ
自分が利用してたのはかれこれ30年前だから懐かしい、、(現在東京住まい)
寝屋川市駅方面へ行く早子商店街入口に「かけうどん屋」さんがあった記憶があります。
中学生ころで素うどんが1杯100円でした。
蒲鉾とねぎは自由に入れてくださいって感じだった記憶があります。
古い地図との突合ありがとうございます。古い地図を資料として確保して、それを現代の様子と比較するのって、手間で誰でもできないことだなと思いました。あの細い道が入り組んだ町並みがどうして現代に残っているのか。うかがいしれたきがします。道路を整備しないと、現代的な都市として開発することが難しいでしょうね。
大阪電気通信大学出身で今も寝屋川に住んでいます。
とはいえ萱島ですが。
昔〇〇があった・・・興奮しますね。鉄道の跡、道の跡、川の跡等、当時の写真や合成の動画で
是非ちむどんどんさせて下さい!楽しみにしています。
✂️💈IWASAKI有りましたね(^^)あとパン屋さんも覚えてます。
寝屋川市駅ありがとうございます!
千林商店街調べて下さい🥺
ほんとにほんとにお願い致します
千林商店街、学生時代によく通りました。
♪一十百千せんばやし♪というデューク・エイセスが歌うテーマソングがありますね。
京街道も横断していたり、ダイエーの発祥地であったり、かなり濃い内容となると思います。私からも期待しております。
手元に有る「日本地理体系」(昭和36年)に寝屋川駅付近の航空写真が載っていますが、大利、木田両集落以外は田園も多く、解説にも「駅前は未だ農村風景を呈しており、商店街は貧弱」である旨記載されています。昭和30年代前半まではそんな感じだったようです。
寝屋川市はこの直後の高度経済成長期に、農道のままの状態で戸建て住宅や木造アパート、文化住宅などが急テンポで造られて人口が急増し、複雑な道路系のまま、密集した市街地が形成されたようですね。
同じ頃急速に人口が増加した東京の町田市が公団による団地造成によるもので、「日本一の団地都市」となったのとは好対照として、大学の都市地理学の授業で教わりました。
また寝屋川市は、南部の神田地区に低湿地のための輪中集落が見られることでも有名です。
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