Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
谷沢さんのプロ初打席はよく覚えています。昭和45年4月後楽園球場開幕戦、高橋一三投手からセンター前ヒットでした。解説者が金田正一さん(前年まで現役)、佐々木信也さんでした。自分は早稲田時代から大ファンだった小学6年生、谷沢さんの入団後、いつの間にか中日ファンになっていました。谷沢さんは新人で5月までは首位打者だったと思います。
応援して頂きありがとうございました。どなたが解説していたのか舞い上がっていて周囲が見えてませんでしたね。5月末まで打率トップも梅雨から夏場に掛けて不調になり胸を張れるような新人王では無かったです。覚えていてくれて感謝します。寒暖の差が激しい季節ですが、元気でお過ごしください。
@@谷沢健一-o8i 感激です、返信ありがとうございます。六大学時代も懐かしいですね、法政三羽烏に山中さん、江本さん、早稲田の同級生は荒川さん他、7人がプロ入りされました。解説の山本英一郎さんが谷沢さんのバッティングを誉めてました。
@@ジャック-i7p 7人かな。荒川、阿野、小坂、安田、小田、千藤、谷沢の7人。しかし大学から直にプロへ行ったのは、阿野、小坂、荒川(大洋を拒否した為1年遅れ)、谷沢の実際は3人ですね。あとは皆ノンプロへ。千藤は北海道拓銀へ3年。小田と安田は大昭和製紙へ2年?実際はそんなに強くなかったんだよ。もっと後輩を起用していれば連覇は可能だった。だからグラウンドを訪れる大先輩の方々からは、こんな練習では勝てないと文句を言われてね。挙句に早大卒はプロへ行くのも由としない時代でした。飛田穂洲先生の教えが、石井藤吉郎派と石井連藏派に分裂して可笑しな早稲田が顕れたものが今でも存在してます。こんな派閥に捉われているようでは勝てない。どの年代だろうと情報交換会などで話し合って一つに結集すべきだと思います。要らぬ方向に行って失礼しました。
@@谷沢健一-o8i 返信ありがとうございます、夢のようです。今でも存在しているとは驚きです。派閥は関係ないでしょうが早稲田の打順は少し変わっていて通算19本塁打の荒川さんがトップバッターで18本塁打の谷沢さんが3番(これは順当)4番が小田さんで2番が井石さんだったと思います、あとは覚えてません。巨人のドラフト指名順が抽選上位で、田渕さんや荒川さんが希望通り巨人入りしていたら森さんや黒江さんを巨人は控えかトレードしてたでしょうかねぇ?タラレバはダメですが。職業選択の自由もあり、難しいところです。
初めて首位打者になった時、修学旅行中だった 担任の先生が 谷沢が首位打者になったよ‼️って血相変えて部屋に飛び込んで来た‼️本当にビックリした‼️残り2試合での大逆転 あっぱれだあ‼️本当ビックリした‼️
今回の配信は私にとって極上です!私は中学3年でしたが、当日はニュースで映像を見まくりました! 私のお宝スクラップブック📖の内容を読むと、2球ストライクを見逃した後、ファウル。4球目のフォークボールを見事に中前打! 開幕戦は2安打! 長嶋評として「うまい。あのリストはすばらしい。」と載っています。谷沢さんも「左は苦にならない。最初から三振するつもりでいた。だから追い込まれても平気だった。」とコメントしています。しかし追い込まれて打席を外し、手に砂を掴んだは知りませんでした。とにかく各報道が凄くて、谷沢人気は本当に凄まじいものでした❗️ 中日スポーツの一面は毎日と言ってよいほど谷沢さんで、週間ベースボールの表紙を何回飾ったことか! 特集も多かったです。私は子供?心に、他の中日選手がひがんで、谷沢さんをいじめないかと心配したほどです(笑 でも当時は真面目に思ってました。) ちなみに新人時代のオープン戦記録は76打数21安打の276、12打点(チーム1)、1本塁打を含む長打9本でした。開幕は7番レフトで水原監督は「いつものように6番も考えたが、やはり気楽に打てる7番に下げた」とコメントしてます。 5月23日には.330で打撃首位に立ち、もう人気はうなぎ上りで、オールスターにもファン投票で選出されました。もちろん私も家族全員で投票しました! 新人王に2位の阪神上田投手を三倍差の票で抑えて選ばれた時も谷沢さんは謙虚にインタビューに答えてました。もう痺れました! 私の谷沢ファン度は早稲田4年からですが、プロ一年目に益々加速した次第です。スクラップブックを取り出して当時を思い出すと興奮してしまい、本当に長々と申し訳ありませんでした。谷沢さん、谷沢ファンの皆さまお許し下さい🙇♂️
地上波の変な番組見るより谷沢様のお話は人生の糧になります。
小学1年の夏休みに大洋戦を観に行って抽選に当たって、ライトスタンドの一角で新人の谷沢さんにサイン頂いた思い出があります。人生初めて頂いたサインでした。それ以来のファンです。いつまでも元気なお姿を拝見させてください。
谷沢さんの大学4年間8シーズンは、例の早慶6連戦以来どん底にあえいでいた早稲田を関白さんが立て直し、優勝回数は法政3回に次ぐ2回、Bクラスは1シーズンのみと安定した強さでしたが、2位5回と、もう一歩で黄金時代を作りきれず、特に最上級生の69年春秋は谷沢・荒川と大学トップのスラッガーを擁しながらあと一息で覇権に届かない連続2位と、ファンには不完全燃焼感を遺したのでは?特に同時期、ライバルのラグビー部はまさに対抗戦では無敵状態だったから(笑)。
私のトラウマになっている所を指摘されたのでは何も言いようが無いです。ただ3年時秋の優勝は殆どが3年の活躍でしたが、次のシーズンを見据えた下級生の育成が成されてませんでしたね。それと当時は、一年違うだけで異様な規律があっただけに思い出したくも無い学生生活だった。キャプテンが体たらくでしたよ。一方、ラグビー部は野球部を反面教師として纏まったんでしょうね。
今回はまた大変貴重なエピソードをお話し下さり、とっても興味深かったです。谷沢さん神宮のスーパースターで超鳴り物入りの並外れたルーキーでいらしたんですね!そしてその後16年にも渡り主軸として大活躍され心から尊敬します!
谷沢さんミスターとの新人時代の思い出話、後楽園の噴水、開幕スタメンの話楽しく見させ頂きました。
ドラフト前日のお話、長嶋家での田淵さんを交えた鉄板焼きを囲んだ対談、色紙を頂いたお話、長嶋さんとのツーショットで噴水が上がったお話、どれもこれも貴重で最高のお話をありがとうございました😭
ルーキーで開幕スタメン、126試合出場で打率250なんて凄いと思います。期待どおりの活躍で新人王に輝いたと思います。
貴重なお話、ありがとうございました。私が本格的にプロ野球を見始めたのは昭和52年位からですので、このような谷沢さんの新人時代のお話を伺えるのは非常に嬉しいです!
谷沢さん、生涯打.302、さすがです。王さんが.301、勝ちましたね。しかもプロ入り、6年目までは、3割を打てず2割8.9分止まり、7年目に.355で首位打者を取ってからは、固め打ちのオンパレードで最終的に3割つまりプロ17年毎年3割を打ったのと一緒、とにかくすごい
初めて大学野球をテレビで観たのは早慶戦だったと思います。小坂、安田、長倉、阿野、小田、中村、蓑輪、荒川、千藤、、憧れました
阪神上田二郎さんと、新人王を争ったんですね、たしか9勝したはずです、しかし、251、11ホーマーは流石です
田尾安志も左投げの外野手で受賞してますね
小坂投手阿野捕手は巨人荒川選手は浪人後お父さんのいるヤクルトに入りましたね。あれだけ良い選手が揃っていた早稲田でしたがプロ野球で長く活躍されたのは谷沢さんだけでした。プロ野球で長く活躍するのは本当に大変なことだと思います
デッドボールがストライクは、平松政次さんもすごい、1974.6.9大洋巨人戦、打者河埜にデッドボールを当てたが、途中まではストレートの軌道でストライクたが、そこから直角に、曲がってデッドボール
考えてみると、昭和45年のセ・リーグとパ・リーグの両新人王は背番号14なんだね。この11年後に、谷沢さんの後輩、阪神タイガースの岡田内野手と日本ハムファイターズの木田勇投手がともに背番号16で新人王獲得。
ルーキー時代のお宝がたくさんありましたね。初打席初安打には驚かれたはずです。長嶋さん·田淵さんは新人王獲得経験者ですからまさか自分が新人王獲得とは思わなかったのでしょうね…。あの頃に自分が産まれていたら観たかったですね!!
やっぱり新人の時は体力がなかなかなのかな?と。立浪さんとかも夏前までは良かったけど、ガクーンと打率がダウンしたもの。谷沢さんはそのあたりを克服して大選手になったのが凄いな。それに絶体絶命のピンチに怪我で追いやられても、不屈の精神で治療して復活して、そんな男前さが好きだな✨
谷沢さんのデビューした1970年のセリーグは投高打低のシーズンで3割打ったのは首位打者取った王さんだけです。長嶋さんは打率2割6分9厘でスランプと言われましたがそれでもリーグ10位で十傑入りしてたんです。ですから谷沢さんの2割5分1厘というのは新人王に十分値する成績だったと思います。私が初めてプロ野球生で見たのが正にその1970年。小学6年生の夏休みに今は亡き父と中日球場へ行った事今でも覚えています。阪神戦で先発投手は中日が左腕の小野、阪神は江夏でした。スコアは8対4で中日は負けたのですがとても興奮して観ていましたね。谷沢さんが出ていたかどうかは覚えていませんが多分出場されていたはず。とにかく良い思い出です。これからも楽しい話期待しています。
新人王とってもその後は伸び悩みする選手がいるが、その後長くドラの主力打者で生涯打率三割凄いですよ。
1969年の中日ドラフト一位。当時の水原監督のいの一番のご指名「早稲田の谷沢くんで」だったと聞いております。当時小学生の私は、選手に関する情報を得ておりませんでした。なので、長嶋さん田淵さん更に一茂くんのエピソードは初めて伺った話でありました。貴重なお話、ありがとうございます。後楽園球場の噴水は覚えております。テレビでしか見ておりませんが、ホームランが出ると噴水が噴き出す。あれは、巨人の選手が打つ時だけだったのかなあ。(記憶がはっきりしません) ホーム球場だからそれでも良いか。当時の後楽園は、日ハムの前身の東映フライヤーズも本拠地にしてたと思いますが、東映の選手がホームラン打っても噴水は出たのかなあ?
現在の明石トーカロ球場ですよね。まだオープン戦とかで利用されてますね。先日、仕事帰りに、お城とともに眺めてきました。昔は浜松や豊橋でもキャンプをしてたのですよね。豊橋については昔、父親から聞いただけでよくわからないですが。
豊橋市営球場。今、公式戦をやる市民球場ではなく、同じくお城のそばにある球場です。そこでのキャンプは、高木守道さんが新人だった頃と、父親が言ってたことを思い出しました。谷沢さんがプロ入りする前ですね、失礼しました。
明石トーカロ球場ですか。数年前に宝くじスポーツフェアのドリームBBで子供たちへの野球教室や地元選抜チームとの親善試合を行いました。浜松キャンプは与那嶺監督の時代に6年。豊橋ではキャンプはやってませんね。浜松球場が改修工事となり、中利夫監督時は掛川でキャンプを。79年から確か宮崎の串間市に移りました。
ご丁寧な説明、ありがとうございます。優勝した年だったか、アメリカでのキャンプもありましたね。さらに過去を調べたら、鹿児島、愛媛、奈良とか様々なところでやってますね。豊橋は見つけられませんでしたが、昔は公式戦を30試合くらいやってますね、1950年代とか。
谷沢さんでも足が震えることがあったんですね。それほど新人の、開幕戦というのは特別なんですね!41のイメージが強いので、背番号14の姿は新鮮です!
谷沢さん、私は姓名判断にすごく詳しいのですが、14と言う数字は大凶数で、41は大吉数です。2回の首位打者と酒マッサージでの2000安打は、41番の目には見えない力が幸運を呼び寄せたかも知れないと思っています。
小田義人さん、安田猛さんは、残念ながら亡くなられましたね。荒川尭さんは、惜しかったですね、あの怪我さえなかったら、谷沢さんと同じ、いやそれ以上の成績を残したんじゃないかと思います、1972年に18ホーマーしてその片鱗はうかがえましたけど
小川健太郎投手、伝説の背面投げ4球投じるが、すべてボール、すべて王選手へ、複数試合。少年の頃、野球教本の表紙に載っていました。
開幕戦(1970.4.12)G4-12D スタメン1.バビー 2. 中3. 高木4. ミラー5. 木俣6. 一枝7. 谷沢8. 島谷9. 小川
訂正スコアはG3-10Dちなみに谷沢さんは5打数2安打1盗塁でした。
小川健太郎投手、この直後に...
新人でレギュラーで2割5分の成績で打率が低い・・とはさすが谷沢さんですね!あの時同期の荒川さんが当時のサンケイで一軍昇格後に猛打を連発していたのを思い出しました。
背景の小物が変わってる!動画投稿頑張ってください!
デビュー戦を調べてみたところ7番レフトで、5打数2安打1盗塁でした。
谷沢さん、こんばんは。ミスターが色紙に記してくれる言葉は、谷沢さんへの期待を感じます。ミスターは江川さんが日米野球でアメリカへ行く前に挨拶に行ったら、ドル札でおこずかいを渡すような、本当に気づかいができる方なんですね。
こんにちは谷沢さん☺️以前谷沢さんがライオンズのコーチをした時にセーリグとパリーグの違いを感じましたか?指名打者以外にもパリーグの野球はここが違うと感じた所など有りましたら教えて下さい。
西武ライオンズが巨人の流れを踏襲したチームです。創設期は根本さんが井戸を掘りましたが、広岡さん森さんがチームに導入したのがドジャース戦法です。きめ細かい戦術は川上ー牧野ラインが生み出しました。そこにパリーグのDH制が加味します。当然セリーグよりは豪快に見えますが、実は深い所を耕して来たのです。現在はソフトバンクの工藤監督が負けから学ぶ「必勝法必敗法」が根っ子にあるんです。
@@谷沢健一-o8i ありがとうございます、勉強になりました✨
いいお話し聞けました。高橋一三投手、堀内さんと隔年で調子いい感じでしたね。251で新人王だったんですね。そうゆう意味では清原って本当にすごいですね。
ちょちょちょ、概要欄に興味深いお話があるじゃないですかー
谷沢さんのチャンネルやたら画質良
あの時の早稲田は、当時のスタメンのうち、7人がプロになったんでは、なかったかな~?1970年の開幕戦の土曜日?は、小学校から走って帰ってテレビを観たのを覚えている。初打席のセンター前は、ゴロで抜けたのか?記憶では、ストレートをライナーで打ち返したと記憶していた。(笑)
リクエストをさせていただいたところ、さっそく藤吉郎さんのお話を聞かせていただき、本当に有難う御座います。厚く御礼申し上げます。藤吉郎さんや安部球場や神宮球場の思い出話をまたお聞かせいただけると嬉しく思います。毎回動画を楽しく拝見しています。頑張って継続下さい。
谷沢さん初安打の映像は、1985年のシーズンオフに東海テレビ"鈴木ヒロミツのスーパードラゴンズ"で観ました。当時の肩に龍のマークがあるユニカッコいいです。千葉の先輩ミスターとのエピソード。相手選手をリラックスさせてしまう長嶋さん笑機会があれば習志野の後輩、掛布さんとのエピソードも知りたいなと思います。
谷沢さんが入団1年目の時のエースは小川健太郎さんでしたけどその時の小川健太郎さんをどのような投手として見ていましたか?
明石キャンプ初日の打撃練習でした。いきなり打撃投手を務めたのは小川健太郎さんでした。全球ともミックスで投げて来て、打球がゲージを出なかったことを思い出します。ストレートは浮き上がって来るわスライダーからシンカーまで。テンポも早くついて行くのが必死。背面投げは来なかったです。でもご一緒したのは5月上旬迄でした。黒い霧事件で永久追放になったのです。逮捕される前のカープ戦では準完封試合。準完封と言うのは、一人を抑えるために左投手がリリーフ。小川投手は三塁へ。一人一殺で再び小川さんはマウンドへ。これぞ準完封試合というのか。身辺が騒がしい中でのピッチングは素晴らしかった。もっと教えて貰いたい事もあったのに残念でならない。
谷沢さんは頭が良かったし、切り替えも早かったんだと思います。打撃理論も理解してたから納得のいかないアドバイスは耳をかさなかったんではないですかね。
S 28生まれの私がS47年に社会人野球チームに入った頃、谷沢さんと同期の立教大卒の土井池憲治さんからよく早稲田の谷沢さん、荒川さん、法政の山中さんらの凄さは耳にタコが出来る程聞かされました😅今の選手もレベルは上がりましたが、この頃の人達には猛者と言うに相応しい選手がおられましたネ🙏その土井池さんも二刀流でしたが、私の印象としては打者としてが凄かった‼️との印象です。いつまでも長くご活躍して下さい‼️団塊の世代の先輩🙏
谷沢さんが昭和45年がプロ1年目ですか、僕は昭和45年に産声をあげました。
谷沢さんいいお話ありがとうございます。宇野さんとコラボよろしくお願いします。
谷沢さんは若い頃と体型も顔の大きさも変わりませんね。余程、自己管理ができているのでしょう。世人とは違いますね。
私の父も高校野球の監督をしていましたので中日球場によく連れてってもらいました。谷沢さんがよくヒットを打っていたのを覚えています。新人王は知りませんでした。父は中央大学出身でしたので、藤波さんを応援してました。確か藤波さんも同じ左打者で新人王を取られましたね。私の父の初任は半田商業で、OBに長谷川良平さんがいて、ボールを寄付してくれて、サインが我が家に飾ってありました。長谷川さんがいるので頑張らないといけないので、若い頃は学校に泊まって野球部の指導をやってたみたいです。谷沢さんのお話楽しみにしております。
まさにV9巨人相手のデビュー!
谷沢さんにとってプロ野球1年目~2年目まで監督をしていた水原茂さんをどのような監督として見ていましたか?
明石キャンプで1コマ。一ヶ所打撃(シートバッテング)で私が内野に凡フライを打ち上げると水原監督が、「谷沢もう一本打て」私は打ち直しの打席で右中間を抜く当たりを。水原さんが呼んだコーチ人も良く憶えてます。西村ヘッド、宇野コーチ、大島投手コーチ、森下コーチ、与那嶺コーチなど。水原ファミリーでした。のびのびとプレイさせてくれましたが、コーチ人には厳しく指摘された事も。開幕すると黒い霧事件が勃発。我がチームからも途中退団する人が多かった。それでも水原さんは泰然と状況を見守る方でしたね。水原監督は毎試合、三塁のコーチャーボックスに立ちブロックサインを。米国仕込みのサインでしたから新鮮な野球に引き込まれて行きましたね。
おはようございます✨谷沢さん、自分が谷沢さんとの思い出は代打の切り札で良くタイムリーヒットを打ってライトスタンドから谷沢さんコールした、事を鮮明に覚えてます→代打の時はどの用に打席き向かったのですか?ここ一番で一振に試合が左右される場面も有ります、集中力、試合の流れ、そして心構えと→教えて下さい代打の切り札の役割を今年は福留選手が代打の切り札です1打席にかける思いとは
もう晩年ですしセリーグはDH制では無いので、出場できるチャンスは一度しか。実際は正直良き思い出などありませんね。監督がいい場面で起用してくれるよう準備していましたね。試合の流れを見ながら、そろそろ出番かなと。ベンチの裏の等身大の鏡の前で素振りをして備えました。打席に向かう時は大事な場面ほど冷静に相手投手への狙い球の絞り方とか初球のストレートに照準を合わせるとか、それでも変化球に絞る事だけは出来ませんでしたね。長打を期待されてますからライトスタンドを狙ってました。4打席有ればバッテリーへの読みは可能ですが、そんな余裕はない。ただ、一打席でもファールやボールを選んでいるうちに落ち着きも生まれ、自分の読みが復活して更に集中力も増して来ましたね。
@@谷沢健一-o8i ありがとうございます✨代打の方の気持ちが分かりました。中継の時に良く観てます☺️☺️
谷沢さんは、田淵幸一さんと山本浩二さんより、一学年下ということでしょうか?私は兵庫県の山奥の県立高校で高校で、甲子園に行く予選の試合に明石城の敷地にある明石球場で、6番レフトで試合に出場した思い出はありますが、明石でキャンプなんて出来るのでしょうか?海岸の砂浜もそんなに広くないし信じられません。水原茂監督の時代は、どこを使ってキャンプをしていたのか、ももう少し詳しく教えて下さい。ちなみに、県立高校は、淡路島の洲本実業高校を除いて、私立の強豪高校が君臨しているので公立高校は太刀打ち出来ませんでした。
明石城の城下に球場がありました。駅から近い線路沿いの大手旅館が定宿で球場までは歩いて行けましたよ。雪が舞う日もありましたが、新人としてプロのスタート切ったキャンプ地の雰囲気は忘れられません。大手旅館のご主人には良くして貰い有り難かった。当時はまだ宮崎や沖縄でキャンプを張るチームは無かったですし、取り分け水原さんは巨人時代から明石をキャンプ地に。神戸が好きな方でしたからかも。打ち上げの食事会は神戸でしたよ。田渕さんは一年先輩です。法政の三羽烏の時代は強かった。
@@谷沢健一-o8i さん、ありがとうございました。車で時々、明石に行くことがありますが、信じられません。そんな時代あったんですね。ちなみに、3羽ガラスの富田勝さんだけ、プロ野球で大きな記録を残せずに、確か60歳代で亡くなってしまいましたね。
谷沢さんこんばんは。今回はとても貴重なお話を聞かせて頂き有り難う御座いました。長嶋さんのサインカッコいいですね。ルーキー時代の貴重な写真を見れて嬉しかったです。谷沢さんが新人王を受賞された時の中日スポーツは今でも大切に持っています。次回の配信も楽しみにしております。
谷沢さん入団1年目で2割5分素人目から見てまあまあだと思いますよ、126試合出場あと4試合出場していればフル出場でしたよ、谷沢さんが内野手にコンバート入団何年目だったんですか長嶋さんと田淵さんの会話意外でしたねえ、田淵さんは10年後に西武へ移籍その3年後に谷沢さんのいる中日と田淵さんのいる西武と日本選手権で戦う事になりますから、谷沢さんは権藤投手から死球を受けたとおっしゃってますがストライク素人目から見て危険球だと思います、その時谷沢さんの頭部大丈夫でした?、田淵さんも前年に頭部に死球を受けて選手生命が危ないと言われてましたよ
谷澤栄吉、広島県出身、
谷沢さんのプロ初打席はよく覚えています。昭和45年4月後楽園球場開幕戦、高橋一三投手からセンター前ヒットでした。解説者が金田正一さん(前年まで現役)、佐々木信也さんでした。自分は早稲田時代から大ファンだった小学6年生、谷沢さんの入団後、いつの間にか中日ファンになっていました。谷沢さんは新人で5月までは首位打者だったと思います。
応援して頂きありがとうございました。どなたが解説していたのか舞い上がっていて周囲が見えてませんでしたね。
5月末まで打率トップも梅雨から夏場に掛けて不調になり胸を張れるような新人王では無かったです。覚えていてくれて感謝します。寒暖の差が激しい季節ですが、元気でお過ごしください。
@@谷沢健一-o8i 感激です、返信ありがとうございます。六大学時代も懐かしいですね、法政三羽烏に山中さん、江本さん、早稲田の同級生は荒川さん他、7人がプロ入りされました。解説の山本英一郎さんが谷沢さんのバッティングを誉めてました。
@@ジャック-i7p 7人かな。
荒川、阿野、小坂、安田、
小田、千藤、谷沢の7人。
しかし大学から直にプロへ行ったのは、阿野、小坂、荒川(大洋を拒否した為1年遅れ)、谷沢の実際は3人ですね。あとは皆ノンプロへ。千藤は北海道拓銀へ3年。小田と安田は大昭和製紙へ2年?
実際はそんなに強くなかったんだよ。もっと後輩を起用していれば連覇は可能だった。
だからグラウンドを訪れる大先輩の方々からは、こんな練習では勝てないと文句を言われてね。挙句に早大卒はプロへ行くのも由としない時代でした。
飛田穂洲先生の教えが、石井藤吉郎派と石井連藏派に分裂して可笑しな早稲田が顕れたものが今でも存在してます。
こんな派閥に捉われているようでは勝てない。どの年代だろうと情報交換会などで話し合って一つに結集すべきだと思います。
要らぬ方向に行って失礼しました。
@@谷沢健一-o8i 返信ありがとうございます、夢のようです。今でも存在しているとは驚きです。派閥は関係ないでしょうが早稲田の打順は少し変わっていて通算19本塁打の荒川さんがトップバッターで18本塁打の谷沢さんが3番(これは順当)4番が小田さんで2番が井石さんだったと思います、あとは覚えてません。巨人のドラフト指名順が抽選上位で、田渕さんや荒川さんが希望通り巨人入りしていたら森さんや黒江さんを巨人は控えかトレードしてたでしょうかねぇ?タラレバはダメですが。職業選択の自由もあり、難しいところです。
初めて首位打者になった時、修学旅行中だった 担任の先生が 谷沢が首位打者になったよ‼️って血相変えて部屋に飛び込んで来た‼️本当にビックリした‼️残り2試合での大逆転 あっぱれだあ‼️本当ビックリした‼️
今回の配信は私にとって極上です!
私は中学3年でしたが、当日はニュースで映像を見まくりました! 私のお宝スクラップブック📖の内容を読むと、2球ストライクを見逃した後、ファウル。4球目のフォークボールを見事に中前打! 開幕戦は2安打! 長嶋評として「うまい。あのリストはすばらしい。」と載っています。谷沢さんも「左は苦にならない。最初から三振するつもりでいた。だから追い込まれても平気だった。」とコメントしています。しかし追い込まれて打席を外し、手に砂を掴んだは知りませんでした。とにかく各報道が凄くて、谷沢人気は本当に凄まじいものでした❗️ 中日スポーツの一面は毎日と言ってよいほど谷沢さんで、週間ベースボールの表紙を何回飾ったことか! 特集も多かったです。私は子供?心に、他の中日選手がひがんで、谷沢さんをいじめないかと心配したほどです(笑 でも当時は真面目に思ってました。) ちなみに新人時代のオープン戦記録は76打数21安打の276、12打点(チーム1)、1本塁打を含む長打9本でした。開幕は7番レフトで水原監督は「いつものように6番も考えたが、やはり気楽に打てる7番に下げた」とコメントしてます。 5月23日には.330で打撃首位に立ち、もう人気はうなぎ上りで、オールスターにもファン投票で選出されました。もちろん私も家族全員で投票しました! 新人王に2位の阪神上田投手を三倍差の票で抑えて選ばれた時も谷沢さんは謙虚にインタビューに答えてました。もう痺れました! 私の谷沢ファン度は早稲田4年からですが、プロ一年目に益々加速した次第です。スクラップブックを取り出して当時を思い出すと興奮してしまい、本当に長々と申し訳ありませんでした。谷沢さん、谷沢ファンの皆さまお許し下さい🙇♂️
地上波の変な番組見るより谷沢様のお話は人生の糧になります。
小学1年の夏休みに大洋戦を観に行って抽選に当たって、ライトスタンドの一角で新人の谷沢さんにサイン頂いた思い出があります。
人生初めて頂いたサインでした。それ以来のファンです。いつまでも元気なお姿を拝見させてください。
谷沢さんの大学4年間8シーズンは、例の早慶6連戦以来どん底にあえいでいた早稲田を関白さんが立て直し、優勝回数は法政3回に次ぐ2回、Bクラスは1シーズンのみと安定した強さでしたが、2位5回と、もう一歩で黄金時代を作りきれず、特に最上級生の69年春秋は谷沢・荒川と大学トップのスラッガーを擁しながらあと一息で覇権に届かない連続2位と、ファンには不完全燃焼感を遺したのでは?特に同時期、ライバルのラグビー部はまさに対抗戦では無敵状態だったから(笑)。
私のトラウマになっている所を指摘されたのでは何も言いようが無いです。ただ3年時秋の優勝は殆どが3年の活躍でしたが、次のシーズンを見据えた下級生の育成が成されてませんでしたね。それと当時は、一年違うだけで異様な規律があっただけに思い出したくも無い学生生活だった。キャプテンが体たらくでしたよ。
一方、ラグビー部は野球部を反面教師として纏まったんでしょうね。
今回はまた大変貴重なエピソードをお話し下さり、とっても興味深かったです。
谷沢さん神宮のスーパースターで超鳴り物入りの並外れたルーキーでいらしたんですね!
そしてその後16年にも渡り主軸として
大活躍され心から尊敬します!
谷沢さん
ミスターとの新人時代の思い出話、後楽園の噴水、開幕スタメンの話楽しく見させ頂きました。
ドラフト前日のお話、長嶋家での田淵さんを交えた鉄板焼きを囲んだ対談、色紙を頂いたお話、長嶋さんとのツーショットで噴水が上がったお話、どれもこれも貴重で最高のお話をありがとうございました😭
ルーキーで開幕スタメン、
126試合出場で打率250なんて凄いと思います。
期待どおりの活躍で新人王に輝いたと思います。
貴重なお話、ありがとうございました。私が本格的にプロ野球を見始めたのは昭和52年位からですので、このような谷沢さんの新人時代のお話を伺えるのは非常に嬉しいです!
谷沢さん、生涯打.302、さすがです。王さんが.301、勝ちましたね。しかもプロ入り、6年目までは、3割を打てず2割8.9分止まり、7年目に.355で首位打者を取ってからは、固め打ちのオンパレードで最終的に3割つまりプロ17年毎年3割を打ったのと一緒、とにかくすごい
初めて大学野球をテレビで観たのは早慶戦だったと思います。
小坂、安田、長倉、阿野、小田、中村、蓑輪、荒川、千藤、、
憧れました
阪神上田二郎さんと、新人王を争ったんですね、たしか9勝したはずです、しかし、251、11ホーマーは流石です
田尾安志も左投げの外野手で受賞してますね
小坂投手阿野捕手は巨人荒川選手は浪人後お父さんのいるヤクルトに入りましたね。あれだけ良い選手が揃っていた
早稲田でしたがプロ野球で長く活躍されたのは谷沢さんだけでした。プロ野球で長く活躍するのは本当に大変なことだと思います
デッドボールがストライクは、平松政次さんもすごい、1974.6.9大洋巨人戦、打者河埜にデッドボールを当てたが、途中まではストレートの軌道でストライクたが、そこから直角に、曲がってデッドボール
考えてみると、昭和45年のセ・リーグとパ・リーグの両新人王は背番号14なんだね。この11年後に、谷沢さんの後輩、阪神タイガースの岡田内野手と日本ハムファイターズの木田勇投手がともに背番号16で新人王獲得。
ルーキー時代のお宝がたくさんありましたね。初打席初安打には驚かれたはずです。長嶋さん·田淵さんは新人王獲得経験者ですからまさか自分が新人王獲得とは思わなかったのでしょうね…。あの頃に自分が産まれていたら観たかったですね!!
やっぱり新人の時は体力がなかなかなのかな?と。
立浪さんとかも夏前までは良かったけど、ガクーンと打率がダウンしたもの。
谷沢さんはそのあたりを克服して大選手になったのが凄いな。それに絶体絶命のピンチに怪我で追いやられても、不屈の精神で治療して復活して、そんな男前さが好きだな✨
谷沢さんのデビューした1970年のセリーグは投高打低のシーズンで3割打ったのは首位打者取った王さんだけです。
長嶋さんは打率2割6分9厘でスランプと言われましたがそれでもリーグ10位で十傑入りしてたんです。
ですから谷沢さんの2割5分1厘というのは新人王に十分値する成績だったと思います。
私が初めてプロ野球生で見たのが正にその1970年。小学6年生の夏休みに
今は亡き父と中日球場へ行った事今でも覚えています。阪神戦で先発投手は中日が左腕の小野、阪神は江夏でした。
スコアは8対4で中日は負けたのですがとても興奮して観ていましたね。谷沢さんが出ていたかどうかは覚えていませんが
多分出場されていたはず。とにかく良い思い出です。
これからも楽しい話期待しています。
新人王とってもその後は伸び悩みする選手がいるが、その後長くドラの主力打者で生涯打率三割凄いですよ。
1969年の中日ドラフト一位。当時の水原監督のいの一番のご指名「早稲田の谷沢くんで」だったと聞いております。当時小学生の私は、選手に関する情報を得ておりませんでした。なので、長嶋さん田淵さん更に一茂くんのエピソードは初めて伺った話でありました。貴重なお話、ありがとうございます。後楽園球場の噴水は覚えております。テレビでしか見ておりませんが、ホームランが出ると噴水が噴き出す。あれは、巨人の選手が打つ時だけだったのかなあ。(記憶がはっきりしません) ホーム球場だからそれでも良いか。当時の後楽園は、日ハムの前身の東映フライヤーズも本拠地にしてたと思いますが、東映の選手がホームラン打っても噴水は出たのかなあ?
現在の明石トーカロ球場ですよね。まだオープン戦とかで利用されてますね。先日、仕事帰りに、お城とともに眺めてきました。昔は浜松や豊橋でもキャンプをしてたのですよね。豊橋については昔、父親から聞いただけでよくわからないですが。
豊橋市営球場。今、公式戦をやる市民球場ではなく、同じくお城のそばにある球場です。そこでのキャンプは、高木守道さんが新人だった頃と、父親が言ってたことを思い出しました。谷沢さんがプロ入りする前ですね、失礼しました。
明石トーカロ球場ですか。数年前に宝くじスポーツフェアのドリームBBで子供たちへの野球教室や地元選抜チームとの親善試合を行いました。
浜松キャンプは与那嶺監督の時代に6年。豊橋ではキャンプはやってませんね。浜松球場が改修工事となり、中利夫監督時は掛川でキャンプを。79年から確か宮崎の串間市に移りました。
ご丁寧な説明、ありがとうございます。優勝した年だったか、アメリカでのキャンプもありましたね。さらに過去を調べたら、鹿児島、愛媛、奈良とか様々なところでやってますね。豊橋は見つけられませんでしたが、昔は公式戦を30試合くらいやってますね、1950年代とか。
谷沢さんでも足が震えることがあったんですね。それほど新人の、開幕戦というのは特別なんですね!41のイメージが強いので、背番号14の姿は新鮮です!
谷沢さん、私は姓名判断にすごく詳しいのですが、14と言う数字は大凶数で、41は大吉数です。2回の首位打者と酒マッサージでの2000安打は、41番の目には見えない力が幸運を呼び寄せたかも知れないと思っています。
小田義人さん、安田猛さんは、残念ながら亡くなられましたね。荒川尭さんは、惜しかったですね、あの怪我さえなかったら、谷沢さんと同じ、いやそれ以上の成績を残したんじゃないかと思います、1972年に18ホーマーしてその片鱗はうかがえましたけど
小川健太郎投手、伝説の背面投げ4球投じるが、すべてボール、すべて王選手へ、複数試合。少年の頃、野球教本の表紙に載っていました。
開幕戦(1970.4.12)G4-12D スタメン
1.バビー
2. 中
3. 高木
4. ミラー
5. 木俣
6. 一枝
7. 谷沢
8. 島谷
9. 小川
訂正
スコアはG3-10D
ちなみに谷沢さんは5打数2安打1盗塁でした。
小川健太郎投手、この直後に...
新人でレギュラーで2割5分の成績で打率が低い・・とはさすが谷沢さんですね!あの時同期の荒川さんが当時のサンケイで一軍昇格後に猛打を連発していたのを思い出しました。
背景の小物が変わってる!動画投稿頑張ってください!
デビュー戦を調べてみたところ7番レフトで、5打数2安打1盗塁でした。
谷沢さん、こんばんは。
ミスターが色紙に記してくれる言葉は、谷沢さんへの期待を感じます。ミスターは江川さんが日米野球でアメリカへ行く前に挨拶に行ったら、ドル札でおこずかいを渡すような、本当に気づかいができる方なんですね。
こんにちは谷沢さん☺️以前谷沢さんがライオンズのコーチをした時にセーリグとパリーグの違いを感じましたか?指名打者以外にもパリーグの野球はここが違うと感じた所など有りましたら教えて下さい。
西武ライオンズが巨人の流れを踏襲したチームです。創設期は根本さんが井戸を掘りましたが、広岡さん森さんがチームに導入したのがドジャース戦法です。きめ細かい戦術は川上ー牧野ラインが生み出しました。
そこにパリーグのDH制が加味します。当然セリーグよりは豪快に見えますが、実は深い所を耕して来たのです。
現在はソフトバンクの工藤監督が負けから学ぶ「必勝法必敗法」が根っ子にあるんです。
@@谷沢健一-o8i ありがとうございます、勉強になりました✨
いいお話し聞けました。
高橋一三投手、堀内さんと隔年で調子いい感じでしたね。
251で新人王だったんですね。
そうゆう意味では清原って本当にすごいですね。
ちょちょちょ、概要欄に興味深いお話があるじゃないですかー
谷沢さんのチャンネルやたら画質良
あの時の早稲田は、当時のスタメンのうち、7人がプロになったんでは、なかったかな~?1970年の開幕戦の土曜日?は、小学校から走って帰ってテレビを観たのを覚えている。初打席のセンター前は、ゴロで抜けたのか?記憶では、ストレートをライナーで打ち返したと記憶していた。(笑)
リクエストをさせていただいたところ、さっそく藤吉郎さんのお話を聞かせていただき、本当に有難う御座います。厚く御礼申し上げます。
藤吉郎さんや安部球場や神宮球場の思い出話をまたお聞かせいただけると嬉しく思います。
毎回動画を楽しく拝見しています。頑張って継続下さい。
谷沢さん初安打の映像は、1985年のシーズンオフに東海テレビ"鈴木ヒロミツのスーパードラゴンズ"で観ました。当時の肩に龍のマークがあるユニカッコいいです。
千葉の先輩ミスターとのエピソード。相手選手をリラックスさせてしまう長嶋さん笑
機会があれば習志野の後輩、掛布さんとのエピソードも知りたいなと思います。
谷沢さんが入団1年目の時のエースは小川健太郎さんでしたけどその時の小川健太郎さんをどのような投手として見ていましたか?
明石キャンプ初日の打撃練習でした。いきなり打撃投手を務めたのは小川健太郎さんでした。
全球ともミックスで投げて来て、打球がゲージを出なかったことを思い出します。ストレートは浮き上がって来るわスライダーからシンカーまで。テンポも早くついて行くのが必死。
背面投げは来なかったです。でもご一緒したのは5月上旬迄でした。黒い霧事件で永久追放になったのです。逮捕される前のカープ戦では準完封試合。準完封と言うのは、一人を抑えるために左投手がリリーフ。小川投手は三塁へ。一人一殺で再び小川さんはマウンドへ。
これぞ準完封試合というのか。
身辺が騒がしい中でのピッチングは素晴らしかった。もっと教えて貰いたい事もあったのに残念でならない。
谷沢さんは頭が良かったし、切り替えも早かったんだと思います。打撃理論も理解してたから納得のいかないアドバイスは耳をかさなかったんではないですかね。
S 28生まれの私がS47年に社会人野球チームに入った頃、谷沢さんと同期の立教大卒の土井池憲治さんからよく早稲田の谷沢さん、荒川さん、法政の山中さんらの凄さは耳にタコが出来る程聞かされました😅
今の選手もレベルは上がりましたが、この頃の人達には猛者と言うに相応しい選手がおられましたネ🙏
その土井池さんも二刀流でしたが、私の印象としては打者としてが凄かった‼️との印象です。
いつまでも長くご活躍して下さい‼️団塊の世代の先輩🙏
谷沢さんが昭和45年がプロ1年目ですか、僕は昭和45年に産声をあげました。
谷沢さんいいお話ありがとうございます。宇野さんとコラボよろしくお願いします。
谷沢さんは若い頃と体型も顔の大きさも変わりませんね。余程、自己管理ができているのでしょう。世人とは違いますね。
私の父も高校野球の監督をしていましたので中日球場によく連れてってもらいました。
谷沢さんがよくヒットを打っていたのを覚えています。
新人王は知りませんでした。
父は中央大学出身でしたので、藤波さんを応援してました。確か藤波さんも同じ左打者で新人王を取られましたね。
私の父の初任は半田商業で、OBに長谷川良平さんがいて、ボールを寄付してくれて、サインが我が家に飾ってありました。長谷川さんがいるので頑張らないといけないので、若い頃は学校に泊まって野球部の指導をやってたみたいです。
谷沢さんのお話楽しみにしております。
まさにV9巨人相手のデビュー!
谷沢さんにとってプロ野球1年目~2年目まで監督をしていた水原茂さんをどのような監督として見ていましたか?
明石キャンプで1コマ。一ヶ所打撃(シートバッテング)で私が内野に凡フライを打ち上げると水原監督が、
「谷沢もう一本打て」
私は打ち直しの打席で右中間を抜く当たりを。
水原さんが呼んだコーチ人も良く憶えてます。西村ヘッド、宇野コーチ、大島投手コーチ、
森下コーチ、与那嶺コーチ
など。水原ファミリーでした。
のびのびとプレイさせてくれましたが、コーチ人には厳しく指摘された事も。
開幕すると黒い霧事件が勃発。我がチームからも途中退団する人が多かった。
それでも水原さんは泰然と状況を見守る方でしたね。
水原監督は毎試合、三塁のコーチャーボックスに立ちブロックサインを。米国仕込みのサインでしたから新鮮な野球に引き込まれて行きましたね。
おはようございます✨谷沢さん、自分が谷沢さんとの思い出は代打の切り札で良くタイムリーヒットを打ってライトスタンドから谷沢さんコールした、事を鮮明に覚えてます→代打の時はどの用に打席き向かったのですか?ここ一番で一振に試合が左右される場面も有ります、集中力、試合の流れ、そして心構えと→教えて下さい代打の切り札の役割を今年は福留選手が代打の切り札です1打席にかける思いとは
もう晩年ですしセリーグはDH制では無いので、出場できるチャンスは一度しか。
実際は正直良き思い出などありませんね。監督がいい場面で起用してくれるよう準備していましたね。試合の流れを見ながら、そろそろ出番かなと。
ベンチの裏の等身大の鏡の前で素振りをして備えました。
打席に向かう時は大事な場面ほど冷静に相手投手への狙い球の絞り方とか初球のストレートに照準を合わせるとか、それでも変化球に絞る事だけは出来ませんでしたね。長打を期待されてますからライトスタンドを狙ってました。
4打席有ればバッテリーへの読みは可能ですが、そんな余裕はない。ただ、一打席でもファールやボールを選んでいるうちに落ち着きも生まれ、自分の読みが復活して更に集中力も増して来ましたね。
@@谷沢健一-o8i ありがとうございます✨代打の方の気持ちが分かりました。中継の時に良く観てます☺️☺️
谷沢さんは、田淵幸一さんと山本浩二さんより、一学年下ということでしょうか?
私は兵庫県の山奥の県立高校で高校で、甲子園に行く予選の試合に明石城の敷地にある明石球場で、6番レフトで試合に出場した思い出はありますが、明石でキャンプなんて出来るのでしょうか?海岸の砂浜もそんなに広くないし信じられません。水原茂監督の時代は、どこを使ってキャンプをしていたのか、ももう少し詳しく教えて下さい。ちなみに、県立高校は、淡路島の洲本実業高校を除いて、私立の強豪高校が君臨しているので公立高校は太刀打ち出来ませんでした。
明石城の城下に球場がありました。駅から近い線路沿いの大手旅館が定宿で球場までは歩いて行けましたよ。雪が舞う日もありましたが、新人としてプロのスタート切ったキャンプ地の雰囲気は忘れられません。大手旅館のご主人には良くして貰い有り難かった。
当時はまだ宮崎や沖縄でキャンプを張るチームは無かったですし、
取り分け水原さんは巨人時代から明石をキャンプ地に。神戸が好きな方でしたからかも。打ち上げの食事会は神戸でしたよ。
田渕さんは一年先輩です。法政の三羽烏の時代は強かった。
@@谷沢健一-o8i さん、ありがとうございました。車で時々、明石に行くことがありますが、信じられません。そんな時代あったんですね。ちなみに、3羽ガラスの富田勝さんだけ、プロ野球で大きな記録を残せずに、確か60歳代で亡くなってしまいましたね。
谷沢さん
こんばんは。今回はとても貴重なお話を聞かせて頂き有り難う御座いました。長嶋さんのサインカッコいいですね。ルーキー時代の貴重な写真を見れて嬉しかったです。谷沢さんが新人王を受賞された時の中日スポーツは今でも大切に持っています。次回の配信も楽しみにしております。
谷沢さん入団1年目で2割5分素人目から見てまあまあだと思いますよ、126試合出場あと4試合出場していればフル出場でしたよ、谷沢さんが内野手にコンバート入団何年目だったんですか長嶋さんと田淵さんの会話意外でしたねえ、田淵さんは10年後に西武へ移籍その3年後に谷沢さんのいる中日と田淵さんのいる西武と日本選手権で戦う事になりますから、谷沢さんは権藤投手から死球を受けたとおっしゃってますがストライク素人目から見て危険球だと思います、その時谷沢さんの頭部大丈夫でした?、田淵さんも前年に頭部に死球を受けて選手生命が危ないと言われてましたよ
谷澤栄吉、広島県出身、