Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
食い物にしてるとはいえ眠れる獅子は本気出したらやはり怖いのでは?とビビってた欧米がやっぱり眠れる獅子は眠ったままだと確信して命運が決まってしまった戦争
お前らが寝てた獅子を金縛りにしたんだろ!いい加減にしろ!
獅子どころか豚呼ばわりされたらしいからなぁ
獅子の近くに虎も居たはずなんですが…猫でしたね
なお戦後に義和団事件を起こして更に傷口を広げる模様
詳しくかつ客観的な情報ありがとうございます。黄海海戦は勇敢なる水平の「まだ沈まずや定遠は」で子供の頃から親しんではおりましたが、実際の情報を初めて知りました
昔はNHKくらいでしかこんなシミュレーション見られなかったのに感動した空軍がいない時代の海戦、夢があるなあ
一応気球は既に軍でも採用されてはいるのですが😅軍用とは違いますが、19世紀のフランスのパリが攻め込まれた際には、政府首脳が気球で脱出したエピソードがあります。
@@長野業正-j9l 気球ですか、軍事利用出来たんですねすごいwでもやっぱ、このレーダーがまともにない時代の索敵が好きですねぇ
@@KARAMAZOV_3 主な用途は偵察です。
今じゃNHKでもこんなこと報道しないけどな
15年ほど前にNHKで放送した「坂の上の雲」は良かったですね。もうあんなドラマは作らないかな。
清軍は腐敗が進み過ぎていたのがね、アヘン戦争やアロー戦争の結果の書物を1番活かしたのが幕末の日本人達ってのがもう
ちなみに、南洋艦隊というのもあったらしいが、司令官が日本に買収されていて、全く出撃しないまま終戦に至っている。
@@masatokawahara7923 草
やっぱ幕末に日本人同士で血みどろの戦いをやってたお陰で、戦争のやり方をよく理解してるよなぁ
海軍将兵の練度が違い過ぎたと思われますね。
黄海海戦は2回あり、1回目は日清戦争、2回目は日露戦争の時です。
鎮遠の砲弾が直撃した松島の艦内は想像を絶する悲惨な状況だったそうです当時を伝える「黄海々戦ニ於ケル松島艦内ノ状況」は貴重な資料です
水兵の血液で紅にそまつた
ただ単にどちらかが勝利,敗北というのではなく,戦闘が時間と共に展開していく様子がなぜかわかりませんがとても興味深いです。動画をありがとうございました。😀
老人健康保健施設(ディケア)で働いていた時、旧海軍で青葉に乗ってたご老人が「勇敢なる水兵」が大好きで私がCDを用意したら昼休みになると「(一緒に)聞こう」と必死に車いすを漕いできます。別部屋で3~4人で合唱します。青葉に乗ってたご老人は必ず歌ってる最中に涙声になり「大東亜戦争でも同じような水兵がいて思い出す」時代が変わっても海軍兵士の気概は同じなんですね。
青葉・・・この世界の片隅にでも登場した艦ですね。
重巡青葉。大正年間に建造された旧式艦だが、日本海軍の艦艇の大半がその年代建造。が、装甲を構造材としても活用したセミモノコック構造が物を言って、40年代の新鋭米艦艇に対し、装甲、火力、速度の全てで上回っていた。特に主砲の20.3cm砲は傑作で10キロ以内で米最新鋭戦艦、サウスダコタの主装甲帯を貫通している。軍縮条約に準拠した所謂条約型重巡。条約制限1万トンを守る為、砲塔は断片防御のみに止めたが、砲塔直下の揚弾機を守るバーベッド、弾薬庫、機関室を守るパイタルパートの装甲はのきなみ米重巡を上回る。この設計は当たり、カタログスペック上では砲塔前面の最大装甲圧で優れる米重巡を遥かに上回る抗耐性を発揮する。また問題視される事の多い中央水密隔壁だが、横転の危険性と引き換えに反対舷の機関を守れる訳で一概に欠点とは言えない。米式の水密隔壁だと浮かぶ事に対しては優れているが中央隔壁が無いため、軽微な浸水で容易に全動力を失うわけで、数で勝り、機関室水没で移動できなくとも味方の救援を期待できる米艦と異なり、戦場での動力喪失は死と同意な数的劣勢だった日本海軍に通常の水密隔壁は無意味だったと言える。
本当は古鷹型だけど青葉型ともいう
定遠・鎮遠は間違いなく当時最強クラスの軍艦だったし、少し後の米西戦争でも似たサイズの艦が主力だった。でも10年後の日露戦争では鎮遠が二線級に下がっていたり、あの時期の軍艦の大型化・進歩のペースがエグイですね。
当時における機関の急速な発達を窺い知ることができると思います。大きさは同等でも力のある機関の登場によって、今までと変わらない攻撃力と防御力に割り振った上で速力の向上に割り当てる余裕ができた。
何時も拝聴・深謝。他のSNSで松島艦内の状況の記録を挙げてくれていましたが、涙なしには聞けません。概略説明有難う。我々は皆此の真実を一人でも多く知るべきでしょう。
因みに日清戦争を円滑に遂行する目的で、当時の山陽鉄道の終点だった広島に帝国議会と大本営が移され、広島が一時的に臨時首都の扱いになったそうですね。
当時の明治天皇は気合が入っていたのかな?その広島に臨時で整備した議事堂で1回だけ帝国議会が開催されています。
いまの広島酒出身の首相はなんとなんと売国精神旺盛の権現です。広島のご兄弟さぞかし兄弟なかよく事業に精出されてますでしょう。
明治天皇も、広島におられます。
明治天皇は広島では前線で戦う将兵を思い質素な生活をしていた
大日本帝国初の戦争で呉の海軍が近く連携連絡に適していたから大本営が設営
黄海海戦についてあまり知らなかったのでこの海戦の影響で軍艦における戦い方の基本が確立したと知って驚きました
軍艦が敵前逃亡は草
最初から交戦しないのが戦略だったんで、この逃げた軍艦が日本の海上補給を苦しめることになる。
某栗田「せやな」
単純に逃げたという考え方もできますが、冥王星海戦で沖田艦長がとった判断と同じ気がする
@@ちくわ大明神-t7bよくよく考えたら艦隊決戦するつもり無いから、持久戦に持ち込もうと逃げるのはそこまで間違いでもないよな、タイミングは最悪だけど
@@柴田明人 確かにタイミングは最悪。連合艦隊の第一遊撃隊によって北洋艦隊の右翼が崩されていた上、さらに左翼も崩れてしまった。
対馬沖海戦と比較すると影が薄くなりがちな黄海海戦ですがその詳細を初めて聞きました。しかし明治維新後わずか30年足らずでこれだけの海軍力を保有した日本の飛躍振りは凄いです。しかもその戦法が世界の海軍のスタンダードになるとは。それだけにその後の太平洋戦争における帝国海軍の消滅は本当に残念です。
意外と日本は戦術のパイオニアだったりするよね…。
リッサ海戦の後からの本格的な海戦がこれだから、清の戦術が駄目だとは言い切れない気はするかも。
清国側の速度が速ければ体当たりで何隻かやれて一方的な敗北にならずに第一次世界大戦で衝角とかヤッてたかも😃
実際、イギリスとアメリカではラムアタック専用艦というトンデモ艦が建造されたからなぁ😂😂
少し前のリッサ海戦で旧式で数でも劣るオーストリア艦隊がイタリア艦隊に衝角攻撃で大勝したって戦訓もあったので、衝角が時代遅れとも言えないんですよねただ日本の戦法が時代を先取りしてた
単縦陣による攻撃をしきりに提言して実現させたのが坪井航三という人なんだよな確か。黄海海戦における最大の功労者。でも日露戦争前に死んじゃったので知名度はあまりない。
当時の日本が精いっぱい背伸びして整備した海軍戦力にもかかわらず、相手と同じことをしていては勝てないという悲しいくらい弱小な当時の連合艦隊であった。
定遠鎮遠の装甲を日本の弾丸は貫けず、松島は一発食らって大損害、定遠鎮遠の発射速度が高かったらヤバかった
リッサ海戦は衝角攻撃よりイタリア艦隊司令官のペルサーノが戦闘直前に旗艦変更なんて馬鹿やらかしたせいで味方を混乱させたのが敗因
数で勝り鶴翼に構える相手を数で劣る方が片翼又は両翼から崩して乱戦に持ち込む戦法…これって車懸かり戦法だよなぁ。
最初は艦隊戦かっこいい!とか思って見てたけど自国、他国関係なく沈没とか戦死とかって言葉が出るたびなんか胸がキュってした。2度と戦争が起きないことを願う
うおおおおお日清戦争だ!!!見たかった時代をやってくれた
方伯謙は、艦の損傷が激しく修理する必要があり戦場を離れ旅順に帰還した結果、敵前逃亡を言われて斬首されたんだよね。たぶん敗戦の責任を方伯謙に押し付けたって見方の方が正しいと思います。
気になったのでwikiを見てきましたが、前哨戦となった遭遇戦でまんまと逃げきって(やりかたが少々アレだが間違ってはいない)あの坪井航三をも唸らせたらしいですねで、後に『なんで死刑になったんだ?』『上からの命令で・・・』というやり取りがあったとか
一緒に逃げたとされる『広甲』の艦長は、そこまでの厳罰を食らっていないのですよね。
日清戦争、日本圧勝だと思ってたがこの戦い見ると結構ギリギリだな???てか戦術すげえ‥
当時の連合艦隊は北洋艦隊と同じことをしていては勝てないという、悲しいくらいの弱小ぶりだったのです。しかも、当時の日本が精いっぱい背伸びして整備した海軍戦力。実際、北洋艦隊がまともに海戦できなくなったのは、弾量勝負の殴り合いみたいな戦闘で、定遠級装甲艦を補佐して海戦を有利に導く役割を担う巡洋艦を5隻も失ったことが大きかったのです。
「まだ沈まずや、定遠は」か。なぜか子どもの頃から、このフレーズだけは知ってた。
当時の清国は二つの戦艦を擁する。アジア最強の海軍であり、軍事力ランキングでも海軍力は世界第四位とされていた。それに対して日本海軍は、巡洋艦しかなく。よく憶えてないがランキングも10位以下と引き離されており普通なら清国側の圧勝だったはずだが。結果は逆だった当時の清国は末期症状だった。日清戦争が開戦しても、清国海軍の三つの艦隊のうち、実際に動いたのは一つだけそれも戦闘が始まれば半分は逃げていく有様だった。それに対して日本海軍は終始、一致団結して戦った。さすがにこれでは清国海軍も勝てなかったわけだ
巡洋艦浪速の館長が後に日露戦争で連合艦隊司令長官となる東郷平八郎。威海衛で水雷艇の艇長が後に首相になる鈴木貫太郎。
鈴木貫太郎も連合艦隊司令長官に任じられています。ただし、連合艦隊が常設になってから平時の連合艦隊司令長官でした。
鈴貫は海軍キャリアの他昭和天皇幼少期の教育係の「たか」さんの夫226事件では金〇ふっとばされて終戦時の首相本人は平凡ながら波乱万丈の人ですね
この戦術を応用したのが日本海海戦での連合艦隊の丁字戦法ですな!当時の海軍の戦術柔軟性と、勇敢さがわかります。
日露のあと何故急に大艦巨砲主義に転じたのか…
@@なちな-r8c 日露と第一次大戦の間で技術がかなり進化したからね。たった10年しか離れていない日本海海戦とユトランド沖海戦を見比べて同じ戦艦か?って思うぐらい。
@@なちな-r8c勝ち始めると戦略が1本化される日本の特徴かな空母の運用も併用したけど上手くいかなかったのもある
@@なちな-r8c 条約かなんかで艦艇数の制限をうけたから仕方なく一隻を大きくしようって話が最初だった様な
@@Ambivalenz0x 全然違います。遠距離砲撃でダメージ与えられるんならその他の副砲は要らない。軽くなるし副砲弾薬の誘爆も防げる。同一規格の砲を6門以上揃えれば主砲散布範囲内に捉えた敵艦に確率的に命中が期待出来る。遠距離砲撃は放物線軌道を描くので側舷より甲板に大半が当たるので主装甲を削り、甲板を厚くする必要がある。削った側舷装甲でも遠距離砲撃なら防げる。また長砲身砲は初速が高く遠距離で甲板に鋭角に当たる為、遠距離打撃力が極端に低い。大口径短砲身が遠近共に最強。(この辺米海軍は無能。ドイツは霧の多い北海で戦うので近接戦指向。日英、戦艦先進国はのきなみ大口径短砲身)なので新型タービン機関による高速と厚い甲板装甲を備えたドレッドノート級以降の所謂ド級戦艦は他の軍艦にたいして足の速さで得意な遠距離砲戦を強いる事ができる。厚い甲板装甲で敵の遠距離砲撃は無力化し、自身は大口径同一規格主砲の集中運用で高い命中率の遠距離砲撃を継続する。敵艦は何もできず、追いつくことも逃げる事も出来ずに殲滅される。無茶苦茶強いんだよ大艦巨砲主義は。遠距離戦を指向して甲板装甲が厚いから航空爆弾にも強い。なんで2次大戦でも運用されたんだよ。
他の人も言ってますがこの海戦までのスタンダートがリッサ海戦の衝角突撃なので清の戦術も的外れではないんですよねリッサでは衝角戦術でオーストリアの木造艦がイタリアの鋼鉄艦に勝っていますし。結局日露戦争の日本海海戦まで大口径主砲による艦艇撃沈はなかったので、撃沈させるためには衝角突撃がベターなんです。
定遠級装甲艦が船体に重大な損傷を負ったのは魚雷攻撃でしたね。
私のひい爺様は、この戦いに参戦して居たんだな・・・ひい爺様の船には玉は当たらなかったです。
たまたま
ひい爺様はエリートだったんだな
帝国海軍なのしゅごい
実践経験はどっちも無かったはずなのになぜ一方的に勝てたんだろ?
弘安4年みたいに神風吹いたんだよ(笑)
明治期国土防衛史によると、日露戦争の恐怖が戦場を1mでも本土から遠ざけようと必死になったきっかけなのだそうです。日清戦争の頃、日露戦争初期でも帝國陸海軍は防勢戦略を採用しており、実際鎮台を師団に変えたばかりで攻勢などというのは納得ですし、日露戦争の恐怖が攻勢戦略、常に戦場を遠ざけよう、大陸を戦場にして本土が戦場にならないようにしよう(日本とロシアは隣同士だから)。というのは納得です。ロシアは必ず復讐してくるから、兵を減らして質を上げよう交通兵を作ろうという児玉大将の意見もありました。
16:16 いきなりでりんごジュース吹いたw
明治天皇が東洋一の清国艦隊に勝てるのかと山本権兵衛に下問した時山本権兵衛の説明が凄いんです定遠鎮遠は強力な大砲を所有していますが、我が国の松島や橋立などは快速で相手を撹乱しながら攻撃できますそれに北洋艦隊は練度が低く統率が取れていませんと言ったそうですまた、伊東祐亨の指揮のもと黄海海戦で東洋艦隊を破りました
明治天皇といえば夏の暑い日に伊藤博文は耐えられず和服を着て皇居に参進した際に陛下から「朕に洋服(軍服)を着せてお前は和服を着るのか」と申されたそうですが、これは明治政府と皇室の関係、引いては明治時代を皮肉っているともとれ、散々西洋西洋と言っておきながら自分たちはこれかよというお気持ちもあったのかなと。
@@コクヨかパイロットか 明治天皇は暑い日も寒い日も軍服を纏い威厳を保っていた戦地で戦い日本の為に亡くなった兵士を想いそうしてらしたと話にあります。凄い人だと思います。
天皇陛下の前で「当たらなければ、どうということはない」と言い切った人がいたとは…
20年以上前だったらNHKで取り扱いそうな内容なんですけど、今のNHKでは無理でしょうね。
今の犬HKなら日本のミスばかり特集する
今のあそこなら、日中戦争とか中共内戦とかばかり取り上げそう。
若かりし頃の毛沢東も黄海海戦における日本の勝利を喜んだなんて逸話もあるな
いいね!
当時毛沢東は11歳らしい。草。
@@わいだぶ いやいや、毛沢東は1893年、それもクリスマスの翌日の生まれだから黄海海戦当時はまだ1歳にもなってない筈…?
@@足立政弘-u6m 日露戦争と間違えた😭😭
確か吉野は日清戦争当時は世界最速の軍艦だったんだな
無声指揮の伝統は海自も受け継いでいるが、マジで世代を超えてのながーい期間で形作られるものだから数日でできるものじゃないんよね。伝統の偉大さの最も具体的なものは無声指揮。
解りやすくてよかったです。黄海海戦は単縦陣が成功してもっとすんなり勝利したのかと思ってたけど結構きわどい闘いだったのですね。
江川達也の日露戦争物語で一番の山場がが日清戦争の黄海海戦だったなぁ。あそこまではすごく良かった。
結局日露戦争が始まる前に打ち切り。江川達也のせいでなく編集者が無能なんだわ。小学館だから仕方ない・・。
船の作りも、それまでの世界標準であった「大型の少数砲で大打撃、最終的にはラムアタック(体当たり)で沈める」という戦法が、日本の「砲戦で、できれば速射砲・魚雷にて行う」に変化した
大航海時代の海戦を思わせる解説で懐かしくて涙出た
100発以上命中しても航行できたのに旗艦松島を一発で大破する強キャラ鎮遠が日露戦争では三景艦と並んで戦うって熱い設定
そのような強キャラを分捕ってきた当時の連合艦隊司令長官も大したものである。ちなみに富士型戦艦が納品されるまで連合艦隊では分捕ってきた鎮遠が最強だった。
新鋭戦艦・定遠は開戦前に実質デモンストレーションで日本を訪問している。皆がその威容に驚く中で、東郷平八郎は甲板のあちこちにゴミが散らかっているのを見て、艦は立派だが統率力に難があると見破った。この動画でも言っている敵前逃亡事件などその最たるものだろう。
デモンストレーションつうか威圧だよね上陸した水兵が騒乱事件起こしてるし、当時の政府も弱腰と見える対応でなあなあにしてるから今と変わらない
強い部の靴が綺麗に並んでいるのと同じ理屈でしょうね敵前逃亡の所は間違ってますよ
東郷は艦の整頓がなされていないことと共に水兵たちの服装の乱れや靴が軍靴でなく様々な靴を履いている様子から規律の乱れを感知している。大砲の砲身に洗濯物が干されていたそうである。
@@コメントマシーン その後の日清戦争の講和にあたっては、日本側が講和が成立しないなら北京の喉元に陸軍を上陸させる勢いの交渉を行い、この時の弱腰外交が『?』となるくらいの強気な姿勢を日本側は貫いた。やはり軍事力の裏付けは大事なようである。
整備維持が問題とは聞いていましたがここまでとは思いませんでした。豪華庭園とか造る金で何とかしていれば歴史は変わっていましたね。
軍閥に金を注ぎ込むって事でもあるので清朝の崩壊、軍閥の跋扈は早まったかもしれませんね😉
豪華庭園は国内に回るお金で軍艦整備は国外に出ていくお金。
清国は極東最強とされる定遠級装甲艦を持ちながらも、それを入れることのできる乾ドックが整備されたのが日清戦争後というのも問題。乾ドックの建設は土木工事だから豪華な庭園の整備をせずとも国内へ金は回ったはずなので、西太后がいかに軍閥の勢いを抑えたかったかがわかります。なお、当時の日本は弱小ながらも定遠級装甲艦を入れることのできる乾ドックを長崎に持っていました。
軍事にわかなんだが、当時の無線技術ってモールス通信と手旗信号ぐらいじゃないん?それであんなウネウネ艦隊行動しとるん?バケモノすぎんか
ちょうどこの頃に初の無線の実験が行われたんで、まだモールス通信もできてませんね。探照灯を使ったモールス信号はあったかもしれませんが。
@@machazard はぇ〜そうなんか。サンクス
旗りゅう信号ネルソンの時代も使ってた。
@@machazard 『探照灯を使ったモールス信号』=『発光信号』
この単縦陣戦術を逆手に取ったのが、開発者の連合艦隊が殊勲を挙げた日本海海戦@日露戦争という
清の軍艦は日本より強いからせめて火力だけは清より上にするか!って無理やり巨大な大砲載せた日本軍艦すきその船も巨砲より副砲でバカスカ撃ってたほうが活躍してたのもすき
松島型は重火力の30cm砲を主砲として搭載してたけど、小ぶりで装甲皆無の軽量な船体が災いして照準もまともにできず、何とか射撃できても艦のありとあらゆる設備が故障したとか。裸に大太刀とはよく言ったもんだ。
イメージできてとても分かりやすかった
16:04これは大変なことやと思うよ
各個の将兵が海へ飛び込んで逃げたとかではなく、艦長の意思で艦もろとも逃げたというのは非常に問題です。このようなことを許したら艦もろとも逃げ出すのが続出し、艦隊が瓦解してしまいます。
@@akirakajiwara9478 ただ軍閥が違うんだわ。予算も指揮系統も別の他国の軍艦なんよ。なぜ他国、北洋水師の都合に合わせなきゃならんと方伯謙は思ってた。彼は速射砲と軍艦の規格がそろった日本艦隊相手に正面戦闘は不利だから通商破壊戦に徹すべきと主張してた。これもあながち間違ってない。速力の劣る艦隊の通商破壊戦?に疑問出るけど。近代国家じゃなかった。全てに効率悪く、意思の統一が出来なかったから清国は負けた。
@@七誌権兵衛-p3f 方伯謙は北洋軍閥の軍人で、艦長を務めていた艦も元から北洋水師に所属していた巡洋艦『済遠』。故に艦長の意思による艦もろともの敵前逃亡と判断され次第、厳罰に処せられた。ちなみに黄海海戦において他の軍閥から北洋水師の指揮下に入って戦った艦は広東水師の『広甲』、『広丙』、ならびに福建水師の『福龍』。このうち、黄海海戦では『広甲』が『済遠』と同じ時期に敵前逃亡しているが、軍閥の絡みと『済遠』について行った形になったことで『広甲』の艦長は方伯謙のような厳罰に処せられることはなかった。
@@akirakajiwara9478 おお、有難う。そうか、幾ら弱兵清国と言えど、軍艦の敵前逃亡はあるまいと思っていたが、真実はそうか・・・残念無念。
すっごく詳しい説明を、どうもありがとうございましたm(_ _)m ^ ^
黄海海戦のみに触れるならリッサの海戦にも触れないと、この海戦の結果が定遠級の設計変更呼び、清国艦隊の横一文字の布陣の基礎になってるし、清国艦隊は最後までその陣形を崩しませんでした。清国艦隊も優秀です。ちなみに、中国では黄海海戦で勝ったのは中国で船体の体当たりは有効な戦法と教えてます。
だから漁船の体当たり多いのかね
多分
ナントカのひとつ覚え。造った定遠も鎮遠もボコられてドイツの造船所も悔しかっただろうね。日露戦争で三笠を作ったイギリスの造船所は大喜びだったらしいが。
北洋艦隊の士気が低かった、練度が低かったとよく言われますが、それほどでもなかったようです。士気に関しては威海衛で完全包囲されても日本海軍の水雷艇が泊地へ殴り込み攻撃を繰り返すまでは士気を維持していますので丁提督の人柄が窺えます。この動画が取り上げている黄海海戦でも、最も足の遅い艦に合わせて横隊陣形の維持に努め、乱戦気味になった状況で定遠級装甲艦が主砲の命中弾を叩き出しています。黄海海戦で日本側が勝ったとされるのは、北洋艦隊が定遠級装甲艦を補佐して海戦を有利に導く役割を担う巡洋艦を5隻喪失し、まともな海戦ができなくなったことが大きいです。
因みに日本は此の衝角戦法に依り一度手痛い目に遭ってます。そう、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折り朝鮮海軍の指揮官、李瞬臣が取った体当り戦法,衝角作戦で大敗してます。ですから、この時の敗戦を教訓に足の速さを頭に入れて船を揃えた。対策研究の賜物だと思う
明治時代の海戦のセオリーはよく分からない。
軍艦が登場したてのこの頃は、大砲の命中率がまだ悪くて、体当たりで沈める“衝角”がまだ装備されてたんだよねぇ~
開戦前、主砲砲弾が定遠・鎮遠合計で3発しかなくて慌てて砲弾を購入したとか。
兵站や訓練の問題はこの頃の清の弱点だったようですね陸軍でも多種多様な小銃を運用していたので問題を生じていたとか
各艦の航跡がつぶさにわかって、とても良かったです。
逃亡艦長への処罰が銃殺とかじゃなく斬首ってのに時代を感じる🥵
すげぇ、ネットでほとんど情報がなかったのに…(日本語の場合)
ここで単縦陣がメタになった結果、いろんな種類の砲を積むより有効射程が同じ砲を積んで一斉射したほうが良くね?となってドレッドノートが開発されたのか
細かいことを言うようで申し訳ありませんが、ノット自体がスピードの単位なので、「時速」の表記は必要ないと思います(11:21)。
撤退と言っているが実は敵前逃亡なんだよね。「定遠」級の装甲艦2隻、巡洋艦8隻、砲艦12隻の艦隊だから日本の三景艦に攻撃を集中すれば清側にもチャンスはあった。だけど、特に「定遠」級の装甲艦の主砲の砲弾は高価で不足気味で実弾射撃訓練はほとんどしていなかったんだよ。しかも整備ドックも持っていなかったから装甲艦の修理ができなかった。最新型の「定遠」級装甲艦を整備できるのは香港にあるイギリスのドックか日本の長崎のドックくらい。イギリスのドックで修理依頼なんかしたらドイツは激怒するだろうな。
長崎事件が発生した時も定遠級装甲艦の整備ができるドックの絡みで来日していましたね。定遠級装甲艦の大きさの艦が整備できるドックが清国内に建造されたのは日清戦争の後であるとのこと。
この動画の図のとおりに動いたとするなら、最後の部分は北洋艦隊の巡洋艦が秩序を保っての撤退ではなく、算を乱しての敗走と受け取れます。ちなみに清国において定遠級装甲艦を入れることのできる乾ドックが整備されたのは日清戦争後とのことです。
黄海海戦、日本海海戦と、世界が驚くような大海戦を勝利してきたわけだけど、この時代の日本海軍が「薩の海軍」であったことは、その強さと無関係ではないのかもしれない。
北洋艦隊隊旗が「太陽に襲いかかる五爪の竜」ですからね。建軍当初から対日戦を意識していたと思われます。そして兵力では勝っていたのに勝てなかったのは「見敵必殺」の覚悟が無かったからでしょうか。そして明治維新から清・露・米と大国と戦って今の日本の礎を作って下さった先人の皆様に心から感謝申し上げます。
戦争の何年か前に友好訪問と称して日本各地で乱暴狼藉、やりたい放題やっている清国艦隊でありました。 戦争の大分前から艦隊旗通りの行動。 連合艦隊整備前の日本は泣き寝入り。 日本の日清戦に向けた周到な準備はここから。それでも軍事劣勢なまま
確かに、1945年まで戦艦中心艦隊と巡洋艦中心艦隊とに分ける習慣が残ったと言えなくもありませんが実質的には、第1艦隊が解隊となった1944年2月25日を以てその習慣は終わりを告げた、と言って良いのではありませんか。ま、第2艦隊や第3艦隊が第1艦隊になった訳ではありませんので建前的には、海軍消滅まで残ったと言っても過言ではありませんが。
勉強になりました。
黄海海戦は日本の維新による技術力で圧勝してたイメージだったけどその面では意外と変わらんかったのね
日清戦争で日本軍の原型が出来て、日露戦争でも勝利した事で原理原則化してしまい、それがかえって第二次世界大戦の敗北に繋がってしまったのかもしれない。
縦単陣坪井少将日露戦争時には亡くなっていた
最初の指針って阿片戦争でイギリスが清を下した作戦の焼き直しなのか
煙も見えず雲もなくー
曽祖母が、帰国した兵隊さんを旗を振って迎えた記憶があると話してました😊
菊之助とか八郎太とか、やっぱりこの時代はブシブシネーム?が多いな
2:22 陸海軍を合わせた統一的な戦争方針を決める機関…… ほんとぉー?
明治時代の日清戦争、日露戦争に伴って設置された大本営は、元勲と呼ばれる人たちが制御したこともあって適正に機能していた。陸海軍がバラバラに動くようになった上、互いに騙し合いに近いことをして機能不全に陥るのは昭和になってから設置された大本営。
タルるートくん書いてた人の日露戦争物語の黄海海戦は面白くて何度も読み返しました。日露戦争になる前に絵が横山光輝レベルに酷くなったので17巻あたりでやめちゃいました。当時、テレビなんか出てないで本業を真面目にやれよと思ってたっけ
「未だ沈まず定遠は」を知ったのは、戦記物でも映画でもなく、SF小説の「日本沈没」だった。
凄い
坂の上の雲やってた頃位なら取り上げたりはするんだろうけどね・・中国かロシアに気を使ってるのか状況的にも作り難いのかもね・・
日本側の艦隊行動の見事さと、清国海軍の統率の取れなさも目立つな
機動力をフルに活かした大日本帝国海軍。
鳥瞰図の視点が途中で、南北逆さまになってませんか?
黄海海戦の絵見たけどだいぶ悲惨だった
『日本沈没』に「まだ沈まずや、定遠は」って言葉が出てきてましたが、元ネタはココでしたか…!
中国側はラム(衝角艦首)による突撃が主体戦法、対する日本の砲戦射撃精度向上は、日本に軍配が上がるのは当然!中国(武田騎馬隊)VS日本(織田・徳川鉄砲隊)の図式といえば、わかりやすいと思う!!近代海戦のアウトレンジの戦いは、ここが起点と思う!
東郷平八郎は軍神と崇められ、第二次世界大戦でも権力を持ち、稚拙な戦略を兵隊に強制して多くの死者を出した。
この頃の方が国家としてはまともだった気もする
そら(敵前逃亡したら)そう(そりゃ斬首に処される)よ。おーん。
清国にとっては深刻な後悔海戦だったな。(´ε`;)ウーン…
長崎事件がありました。
同じ日本政府なのに、長崎事件における対応と日清戦争の講和における対応では、天と地の差があります。長崎事件での日本政府は北洋艦隊の水兵が許可なく上陸して暴れたにもかかわらず事件で犠牲になった北洋艦隊の将兵に対する見舞金を支出していますが、日清戦争の講和では直隷地域の長官である李鴻章が出てくるまで清国の使節を相手にせず、李鴻章が出てくるとトンデモな額の賠償金を突きつけた上、遼東半島と台湾の割譲を要求し、これを無理やり突き通しました。なお、三国干渉によって日本政府は遼東半島を清国へ返還することになりますが、遼東半島の返還と引き換えに補償金を受け取っています。
素晴らしい動画。皆さんの感想にも感動。戦後も台湾を民主的に併合。明治以降太平洋戦争までの日本の評価は、私たち日本人の中でも、もっと高く評価されるべき。戦後教育を見直すべき。
♪まだ沈まぬや定遠は、、、、軍歌があるな
題材は良いけど霊夢はともかく魔理沙の口調が気になって仕方ない。
最初のうちに半分に分けていたら変わっていたのかな
確かに損失艦はありませんでした。しかし、日本側も主力艦がズタボロにやられ、このての動画で言われるような圧勝なんかしてません。大体主力艦の砲弾が当たっても敵側の装甲艦にはあまりダメージ無いわ、その主砲自体が1時間に2発しか撃てないわで散々ですし
日清戦争時の連合艦隊は当時の日本が精いっぱい背伸びして整備したものでありましたが、その実態は北洋艦隊と同じことをしていては勝てないという悲しいくらいの弱小艦隊で、威海衛の戦いにおいて北洋艦隊の撃滅を達成したことによって相対的に東アジア最強になったということです。仰せのとおり、黄海海戦では日本海軍も沈みはしなかったものの、沈没の一歩手前のような大破する艦を何隻も出しています。黄海海戦の後、北洋艦隊がまともに海戦ができなくなったのは、定遠級装甲艦の損傷よりも定遠級装甲艦を補佐して海戦を有利に導く役割を担う巡洋艦を5隻喪失したことの方が大きいです。
まだ沈まずや 定遠は
敵味方入り乱れて、まるでドッグ、ファイト。日本はこの戦いで、砲撃より雷撃の有効性に目覚め、以後、時代遅れになっても太平洋戦争終結まで雷撃を重視した。重巡洋艦や防空駆逐艦である秋月型にも魚雷発射管を装備したのが良い証拠。
この日清戦争で日本が勝ったことで今の中国を見下すようになったということだ。
挑戦は自律的になにも出来ないんだよな。
速度が速い方が有利と知りながら、航空機時代が来たのに、あんなデカくて標的になりやすい 大和を作ったんやね 空母や航空機作ればよいのに
大和が作られたのは航空機時代到来前 当時は航空機で戦艦を沈めることは不可能であると思われていたから仕方ない
戦争は無駄死にがほとんどです
そりゃイギリスが先生で海軍そのものを直接伝授されてる日本が負けるわけがない。
火力に優る敵艦隊に決戦求めて荒ぶりすぎや
連合艦隊が海上護衛を兼ね、ヤル気に満ちて黄海に出没するものだから、北洋軍閥は当時の清国皇帝から「あんな弱小艦隊ごときにビビってんじゃねえ! お前らヤル気あるのか?」と怒られたとのこと。
どんでんがいる!!!@_@w
李氏朝鮮の国旗って、今の韓国や北朝鮮のよりカッコイイな!
なぜか?魚雷が当たらない?西京丸
食い物にしてるとはいえ眠れる獅子は本気出したらやはり怖いのでは?とビビってた欧米がやっぱり眠れる獅子は眠ったままだと確信して命運が決まってしまった戦争
お前らが寝てた獅子を金縛りにしたんだろ!いい加減にしろ!
獅子どころか豚呼ばわりされたらしいからなぁ
獅子の近くに虎も居たはずなんですが…猫でしたね
なお戦後に義和団事件を起こして更に傷口を広げる模様
詳しくかつ客観的な情報ありがとうございます。黄海海戦は勇敢なる水平の「まだ沈まずや定遠は」で子供の頃から親しんではおりましたが、実際の情報を初めて知りました
昔はNHKくらいでしかこんなシミュレーション見られなかったのに感動した
空軍がいない時代の海戦、夢があるなあ
一応気球は既に軍でも採用されてはいるのですが😅
軍用とは違いますが、19世紀のフランスのパリが攻め込まれた際には、政府首脳が気球で脱出したエピソードがあります。
@@長野業正-j9l
気球ですか、軍事利用出来たんですねすごいw
でもやっぱ、このレーダーがまともにない時代の索敵が好きですねぇ
@@KARAMAZOV_3
主な用途は偵察です。
今じゃNHKでもこんなこと報道しないけどな
15年ほど前にNHKで放送した「坂の上の雲」は良かったですね。もうあんなドラマは作らないかな。
清軍は腐敗が進み過ぎていたのがね、アヘン戦争やアロー戦争の結果の書物を1番活かしたのが幕末の日本人達ってのがもう
ちなみに、南洋艦隊というのもあったらしいが、司令官が日本に買収されていて、全く出撃しないまま終戦に至っている。
@@masatokawahara7923 草
やっぱ幕末に日本人同士で血みどろの戦いをやってたお陰で、戦争のやり方をよく理解してるよなぁ
海軍将兵の練度が違い過ぎたと思われますね。
黄海海戦は2回あり、1回目は日清戦争、2回目は日露戦争の時です。
鎮遠の砲弾が直撃した松島の艦内は想像を絶する悲惨な状況だったそうです
当時を伝える「黄海々戦ニ於ケル松島艦内ノ状況」は貴重な資料です
水兵の血液で紅にそまつた
ただ単にどちらかが勝利,敗北というのではなく,戦闘が時間と共に展開していく様子がなぜかわかりませんがとても興味深いです。動画をありがとうございました。😀
老人健康保健施設(ディケア)で働いていた時、旧海軍で青葉に乗ってたご老人が「勇敢なる水兵」が大好きで私がCDを用意したら昼休みになると「(一緒に)聞こう」と必死に車いすを漕いできます。別部屋で3~4人で合唱します。青葉に乗ってたご老人は必ず歌ってる最中に涙声になり「大東亜戦争でも同じような水兵がいて思い出す」時代が変わっても海軍兵士の気概は同じなんですね。
青葉・・・この世界の片隅にでも登場した艦ですね。
重巡青葉。大正年間に建造された旧式艦だが、日本海軍の艦艇の大半がその年代建造。が、装甲を構造材としても活用したセミモノコック構造が物を言って、40年代の新鋭米艦艇に対し、装甲、火力、速度の全てで上回っていた。特に主砲の20.3cm砲は傑作で10キロ以内で米最新鋭戦艦、サウスダコタの主装甲帯を貫通している。軍縮条約に準拠した所謂条約型重巡。条約制限1万トンを守る為、砲塔は断片防御のみに止めたが、砲塔直下の揚弾機を守るバーベッド、弾薬庫、機関室を守るパイタルパートの装甲はのきなみ米重巡を上回る。この設計は当たり、カタログスペック上では砲塔前面の最大装甲圧で優れる米重巡を遥かに上回る抗耐性を発揮する。また問題視される事の多い中央水密隔壁だが、横転の危険性と引き換えに反対舷の機関を守れる訳で一概に欠点とは言えない。米式の水密隔壁だと浮かぶ事に対しては優れているが中央隔壁が無いため、軽微な浸水で容易に全動力を失うわけで、数で勝り、機関室水没で移動できなくとも味方の救援を期待できる米艦と異なり、戦場での動力喪失は死と同意な数的劣勢だった日本海軍に通常の水密隔壁は無意味だったと言える。
本当は古鷹型だけど青葉型ともいう
定遠・鎮遠は間違いなく当時最強クラスの軍艦だったし、少し後の米西戦争でも似たサイズの艦が主力だった。でも10年後の日露戦争では鎮遠が二線級に下がっていたり、あの時期の軍艦の大型化・進歩のペースがエグイですね。
当時における機関の急速な発達を窺い知ることができると思います。
大きさは同等でも力のある機関の登場によって、今までと変わらない攻撃力と防御力に割り振った上で速力の向上に割り当てる余裕ができた。
何時も拝聴・深謝。他のSNSで松島艦内の状況の記録を挙げてくれていましたが、涙なしには聞けません。概略説明有難う。我々は皆此の真実を一人でも多く知るべきでしょう。
因みに日清戦争を円滑に遂行する目的で、当時の山陽鉄道の終点だった広島に帝国議会と大本営が移され、広島が一時的に臨時首都の扱いになったそうですね。
当時の明治天皇は気合が入っていたのかな?
その広島に臨時で整備した議事堂で1回だけ帝国議会が開催されています。
いまの広島酒出身の首相はなんとなんと売国精神旺盛の権現です。広島のご兄弟さぞかし兄弟なかよく事業に精出されてますでしょう。
明治天皇も、広島におられます。
明治天皇は広島では前線で戦う将兵を思い質素な生活をしていた
大日本帝国初の戦争で呉の海軍が近く連携連絡に適していたから大本営が設営
黄海海戦についてあまり知らなかったのでこの海戦の影響で軍艦における戦い方の基本が確立したと知って驚きました
軍艦が敵前逃亡は草
最初から交戦しないのが戦略だったんで、この逃げた軍艦が日本の海上補給を苦しめることになる。
某栗田「せやな」
単純に逃げたという考え方もできますが、冥王星海戦で沖田艦長がとった判断と同じ気がする
@@ちくわ大明神-t7bよくよく考えたら艦隊決戦するつもり無いから、持久戦に持ち込もうと逃げるのはそこまで間違いでもないよな、タイミングは最悪だけど
@@柴田明人
確かにタイミングは最悪。
連合艦隊の第一遊撃隊によって北洋艦隊の右翼が崩されていた上、さらに左翼も崩れてしまった。
対馬沖海戦と比較すると影が薄くなりがちな黄海海戦ですがその詳細を初めて聞きました。しかし明治維新後わずか30年足らずでこれだけの海軍力を保有した日本の飛躍振りは凄いです。しかもその戦法が世界の海軍のスタンダードになるとは。それだけにその後の太平洋戦争における帝国海軍の消滅は本当に残念です。
意外と日本は戦術のパイオニアだったりするよね…。
リッサ海戦の後からの本格的な海戦がこれだから、清の戦術が駄目だとは言い切れない気はするかも。
清国側の速度が速ければ体当たりで何隻かやれて一方的な敗北にならずに第一次世界大戦で衝角とかヤッてたかも😃
実際、イギリスとアメリカではラムアタック専用艦というトンデモ艦が建造されたからなぁ😂😂
少し前のリッサ海戦で旧式で数でも劣るオーストリア艦隊がイタリア艦隊に衝角攻撃で大勝したって戦訓もあったので、衝角が時代遅れとも言えないんですよね
ただ日本の戦法が時代を先取りしてた
単縦陣による攻撃をしきりに提言して実現させたのが坪井航三という人なんだよな確か。
黄海海戦における最大の功労者。でも日露戦争前に死んじゃったので知名度はあまりない。
当時の日本が精いっぱい背伸びして整備した海軍戦力にもかかわらず、相手と同じことをしていては勝てないという悲しいくらい弱小な当時の連合艦隊であった。
定遠鎮遠の装甲を日本の弾丸は貫けず、松島は一発食らって大損害、定遠鎮遠の発射速度が高かったらヤバかった
リッサ海戦は衝角攻撃よりイタリア艦隊司令官のペルサーノが戦闘直前に旗艦変更なんて馬鹿やらかしたせいで味方を混乱させたのが敗因
数で勝り鶴翼に構える相手を数で劣る方が片翼又は両翼から崩して乱戦に持ち込む戦法…これって車懸かり戦法だよなぁ。
最初は艦隊戦かっこいい!とか思って見てたけど自国、他国関係なく沈没とか戦死とかって言葉が出るたびなんか胸がキュってした。
2度と戦争が起きないことを願う
うおおおおお日清戦争だ!!!見たかった時代をやってくれた
方伯謙は、艦の損傷が激しく修理する必要があり戦場を離れ旅順に帰還した結果、敵前逃亡を言われて斬首されたんだよね。
たぶん敗戦の責任を方伯謙に押し付けたって見方の方が正しいと思います。
気になったのでwikiを見てきましたが、
前哨戦となった遭遇戦でまんまと逃げきって(やりかたが少々アレだが間違ってはいない)
あの坪井航三をも唸らせたらしいですね
で、後に『なんで死刑になったんだ?』『上からの命令で・・・』というやり取りがあったとか
一緒に逃げたとされる『広甲』の艦長は、そこまでの厳罰を食らっていないのですよね。
日清戦争、日本圧勝だと思ってたがこの戦い見ると結構ギリギリだな???
てか戦術すげえ‥
当時の連合艦隊は北洋艦隊と同じことをしていては勝てないという、悲しいくらいの弱小ぶりだったのです。
しかも、当時の日本が精いっぱい背伸びして整備した海軍戦力。
実際、北洋艦隊がまともに海戦できなくなったのは、弾量勝負の殴り合いみたいな戦闘で、定遠級装甲艦を補佐して海戦を有利に導く役割を担う巡洋艦を5隻も失ったことが大きかったのです。
「まだ沈まずや、定遠は」か。なぜか子どもの頃から、このフレーズだけは知ってた。
当時の清国は二つの戦艦を擁する。アジア最強の海軍であり、軍事力ランキングでも海軍力は世界第四位とされていた。
それに対して日本海軍は、巡洋艦しかなく。よく憶えてないがランキングも10位以下と引き離されており
普通なら清国側の圧勝だったはずだが。結果は逆だった
当時の清国は末期症状だった。
日清戦争が開戦しても、清国海軍の三つの艦隊のうち、実際に動いたのは一つだけ
それも戦闘が始まれば半分は逃げていく有様だった。
それに対して日本海軍は終始、一致団結して戦った。
さすがにこれでは清国海軍も勝てなかったわけだ
巡洋艦浪速の館長が後に日露戦争で連合艦隊司令長官となる東郷平八郎。威海衛で水雷艇の艇長が後に首相になる鈴木貫太郎。
鈴木貫太郎も連合艦隊司令長官に任じられています。
ただし、連合艦隊が常設になってから平時の連合艦隊司令長官でした。
鈴貫は海軍キャリアの他
昭和天皇幼少期の教育係の「たか」さんの夫
226事件では金〇ふっとばされて
終戦時の首相
本人は平凡ながら波乱万丈の人ですね
この戦術を応用したのが日本海海戦での連合艦隊の丁字戦法ですな!当時の海軍の戦術柔軟性と、勇敢さがわかります。
日露のあと何故急に大艦巨砲主義に転じたのか…
@@なちな-r8c 日露と第一次大戦の間で技術がかなり進化したからね。たった10年しか離れていない日本海海戦とユトランド沖海戦を見比べて同じ戦艦か?って思うぐらい。
@@なちな-r8c勝ち始めると戦略が1本化される日本の特徴かな
空母の運用も併用したけど上手くいかなかったのもある
@@なちな-r8c 条約かなんかで艦艇数の制限をうけたから仕方なく一隻を大きくしようって話が最初だった様な
@@Ambivalenz0x
全然違います。遠距離砲撃でダメージ与えられるんならその他の副砲は要らない。軽くなるし副砲弾薬の誘爆も防げる。同一規格の砲を6門以上揃えれば主砲散布範囲内に捉えた敵艦に確率的に命中が期待出来る。遠距離砲撃は放物線軌道を描くので側舷より甲板に大半が当たるので主装甲を削り、甲板を厚くする必要がある。削った側舷装甲でも遠距離砲撃なら防げる。また長砲身砲は初速が高く遠距離で甲板に鋭角に当たる為、遠距離打撃力が極端に低い。大口径短砲身が遠近共に最強。(この辺米海軍は無能。ドイツは霧の多い北海で戦うので近接戦指向。日英、戦艦先進国はのきなみ大口径短砲身)なので新型タービン機関による高速と厚い甲板装甲を備えたドレッドノート級以降の所謂ド級戦艦は他の軍艦にたいして足の速さで得意な遠距離砲戦を強いる事ができる。厚い甲板装甲で敵の遠距離砲撃は無力化し、自身は大口径同一規格主砲の集中運用で高い命中率の遠距離砲撃を継続する。敵艦は何もできず、追いつくことも逃げる事も出来ずに殲滅される。無茶苦茶強いんだよ大艦巨砲主義は。遠距離戦を指向して甲板装甲が厚いから航空爆弾にも強い。なんで2次大戦でも運用されたんだよ。
他の人も言ってますがこの海戦までのスタンダートがリッサ海戦の衝角突撃なので清の戦術も的外れではないんですよね
リッサでは衝角戦術でオーストリアの木造艦がイタリアの鋼鉄艦に勝っていますし。
結局日露戦争の日本海海戦まで大口径主砲による艦艇撃沈はなかったので、撃沈させるためには衝角突撃がベターなんです。
定遠級装甲艦が船体に重大な損傷を負ったのは魚雷攻撃でしたね。
私のひい爺様は、この戦いに参戦して居たんだな・・・ひい爺様の船には玉は当たらなかったです。
たまたま
ひい爺様はエリートだったんだな
帝国海軍なのしゅごい
実践経験はどっちも無かったはずなのになぜ一方的に勝てたんだろ?
弘安4年みたいに神風吹いたんだよ(笑)
明治期国土防衛史によると、日露戦争の恐怖が戦場を1mでも本土から遠ざけようと必死になったきっかけなのだそうです。日清戦争の頃、日露戦争初期でも帝國陸海軍は防勢戦略を採用しており、実際鎮台を師団に変えたばかりで攻勢などというのは納得ですし、日露戦争の恐怖が攻勢戦略、常に戦場を遠ざけよう、大陸を戦場にして本土が戦場にならないようにしよう(日本とロシアは隣同士だから)。というのは納得です。ロシアは必ず復讐してくるから、兵を減らして質を上げよう交通兵を作ろうという児玉大将の意見もありました。
16:16 いきなりでりんごジュース吹いたw
明治天皇が東洋一の清国艦隊に勝てるのかと山本権兵衛に下問した時
山本権兵衛の説明が凄いんです
定遠鎮遠は強力な大砲を所有していますが、我が国の
松島や橋立などは
快速で相手を撹乱しながら攻撃できます
それに北洋艦隊は練度が低く統率が取れていません
と言ったそうです
また、伊東祐亨の
指揮のもと黄海海戦で東洋艦隊を破りました
明治天皇といえば夏の暑い日に伊藤博文は耐えられず和服を着て皇居に参進した際に陛下から「朕に洋服(軍服)を着せてお前は和服を着るのか」と申されたそうですが、これは明治政府と皇室の関係、引いては明治時代を皮肉っているともとれ、散々西洋西洋と言っておきながら自分たちはこれかよというお気持ちもあったのかなと。
@@コクヨかパイロットか
明治天皇は暑い日も
寒い日も軍服を纏い
威厳を保っていた
戦地で戦い日本の為に
亡くなった兵士を想い
そうしてらしたと
話にあります。
凄い人だと思います。
天皇陛下の前で「当たらなければ、どうということはない」と言い切った人がいたとは…
20年以上前だったらNHKで取り扱いそうな内容なんですけど、今のNHKでは無理でしょうね。
今の犬HKなら日本のミスばかり特集する
今のあそこなら、日中戦争とか中共内戦とかばかり取り上げそう。
若かりし頃の毛沢東も黄海海戦における日本の勝利を喜んだなんて逸話もあるな
いいね!
当時毛沢東は11歳らしい。草。
@@わいだぶ いやいや、毛沢東は1893年、それもクリスマスの翌日の生まれだから
黄海海戦当時はまだ1歳にもなってない筈…?
@@足立政弘-u6m 日露戦争と間違えた😭😭
確か吉野は日清戦争当時は世界最速の軍艦だったんだな
無声指揮の伝統は海自も受け継いでいるが、マジで世代を超えてのながーい期間で形作られるものだから数日でできるものじゃないんよね。伝統の偉大さの最も具体的なものは無声指揮。
解りやすくてよかったです。黄海海戦は単縦陣が成功してもっとすんなり勝利したのかと思ってたけど結構きわどい闘いだったのですね。
江川達也の日露戦争物語で一番の山場がが日清戦争の黄海海戦だったなぁ。あそこまではすごく良かった。
結局日露戦争が始まる前に打ち切り。江川達也のせいでなく編集者が無能なんだわ。小学館だから仕方ない・・。
船の作りも、それまでの世界標準であった「大型の少数砲で大打撃、最終的にはラムアタック(体当たり)で沈める」という戦法が、日本の「砲戦で、できれば速射砲・魚雷にて行う」に変化した
大航海時代の海戦を思わせる解説で懐かしくて涙出た
100発以上命中しても航行できたのに旗艦松島を一発で大破する強キャラ鎮遠が日露戦争では三景艦と並んで戦うって熱い設定
そのような強キャラを分捕ってきた当時の連合艦隊司令長官も大したものである。
ちなみに富士型戦艦が納品されるまで連合艦隊では分捕ってきた鎮遠が最強だった。
新鋭戦艦・定遠は開戦前に実質デモンストレーションで日本を訪問している。皆がその威容に驚く中で、東郷平八郎は甲板のあちこちにゴミが散らかっているのを見て、艦は立派だが統率力に難があると見破った。
この動画でも言っている敵前逃亡事件などその最たるものだろう。
デモンストレーションつうか威圧だよね
上陸した水兵が騒乱事件起こしてるし、当時の政府も弱腰と見える対応でなあなあにしてるから今と変わらない
強い部の靴が綺麗に並んでいるのと同じ理屈でしょうね
敵前逃亡の所は間違ってますよ
東郷は艦の整頓がなされていないことと共に水兵たちの服装の乱れや靴が軍靴でなく様々な靴を履いている様子から規律の乱れを感知している。大砲の砲身に洗濯物が干されていたそうである。
@@コメントマシーン
その後の日清戦争の講和にあたっては、日本側が講和が成立しないなら北京の喉元に陸軍を上陸させる勢いの交渉を行い、この時の弱腰外交が『?』となるくらいの強気な姿勢を日本側は貫いた。
やはり軍事力の裏付けは大事なようである。
整備維持が問題とは聞いていましたがここまでとは思いませんでした。
豪華庭園とか造る金で何とかしていれば歴史は変わっていましたね。
軍閥に金を注ぎ込むって事でもあるので清朝の崩壊、軍閥の跋扈は早まったかもしれませんね😉
豪華庭園は国内に回るお金で軍艦整備は国外に出ていくお金。
清国は極東最強とされる定遠級装甲艦を持ちながらも、それを入れることのできる乾ドックが整備されたのが日清戦争後というのも問題。
乾ドックの建設は土木工事だから豪華な庭園の整備をせずとも国内へ金は回ったはずなので、西太后がいかに軍閥の勢いを抑えたかったかがわかります。
なお、当時の日本は弱小ながらも定遠級装甲艦を入れることのできる乾ドックを長崎に持っていました。
軍事にわかなんだが、当時の無線技術ってモールス通信と手旗信号ぐらいじゃないん?
それであんなウネウネ艦隊行動しとるん?バケモノすぎんか
ちょうどこの頃に初の無線の実験が行われたんで、まだモールス通信もできてませんね。探照灯を使ったモールス信号はあったかもしれませんが。
@@machazard はぇ〜そうなんか。サンクス
旗りゅう信号
ネルソンの時代も使ってた。
@@machazard
『探照灯を使ったモールス信号』=『発光信号』
この単縦陣戦術を逆手に取ったのが、開発者の連合艦隊が殊勲を挙げた日本海海戦@日露戦争という
清の軍艦は日本より強いからせめて火力だけは清より上にするか!って無理やり巨大な大砲載せた日本軍艦すき
その船も巨砲より副砲でバカスカ撃ってたほうが活躍してたのもすき
松島型は重火力の30cm砲を主砲として搭載してたけど、小ぶりで装甲皆無の軽量な船体が災いして照準もまともにできず、何とか射撃できても艦のありとあらゆる設備が故障したとか。裸に大太刀とはよく言ったもんだ。
イメージできてとても分かりやすかった
16:04これは大変なことやと思うよ
各個の将兵が海へ飛び込んで逃げたとかではなく、艦長の意思で艦もろとも逃げたというのは非常に問題です。
このようなことを許したら艦もろとも逃げ出すのが続出し、艦隊が瓦解してしまいます。
@@akirakajiwara9478
ただ軍閥が違うんだわ。予算も指揮系統も別の他国の軍艦なんよ。なぜ他国、北洋水師の都合に合わせなきゃならんと方伯謙は思ってた。彼は速射砲と軍艦の規格がそろった日本艦隊相手に正面戦闘は不利だから通商破壊戦に徹すべきと主張してた。これもあながち間違ってない。速力の劣る艦隊の通商破壊戦?に疑問出るけど。近代国家じゃなかった。全てに効率悪く、意思の統一が出来なかったから清国は負けた。
@@七誌権兵衛-p3f
方伯謙は北洋軍閥の軍人で、艦長を務めていた艦も元から北洋水師に所属していた巡洋艦『済遠』。
故に艦長の意思による艦もろともの敵前逃亡と判断され次第、厳罰に処せられた。
ちなみに黄海海戦において他の軍閥から北洋水師の指揮下に入って戦った艦は広東水師の『広甲』、『広丙』、ならびに福建水師の『福龍』。
このうち、黄海海戦では『広甲』が『済遠』と同じ時期に敵前逃亡しているが、軍閥の絡みと『済遠』について行った形になったことで『広甲』の艦長は方伯謙のような厳罰に処せられることはなかった。
@@akirakajiwara9478
おお、有難う。そうか、
幾ら弱兵清国と言えど、軍艦の敵前逃亡はあるまいと思っていたが、真実はそうか・・・残念無念。
すっごく詳しい説明を、どうもありがとうございましたm(_ _)m ^ ^
黄海海戦のみに触れるならリッサの海戦にも触れないと、この海戦の結果が定遠級の設計変更呼び、清国艦隊の横一文字の布陣の基礎になってるし、清国艦隊は最後までその陣形を崩しませんでした。清国艦隊も優秀です。
ちなみに、中国では黄海海戦で勝ったのは中国で船体の体当たりは有効な戦法と教えてます。
だから漁船の体当たり多いのかね
多分
ナントカのひとつ覚え。造った定遠も鎮遠もボコられてドイツの造船所も悔しかっただろうね。日露戦争で三笠を作ったイギリスの造船所は大喜びだったらしいが。
北洋艦隊の士気が低かった、練度が低かったとよく言われますが、それほどでもなかったようです。
士気に関しては威海衛で完全包囲されても日本海軍の水雷艇が泊地へ殴り込み攻撃を繰り返すまでは士気を維持していますので丁提督の人柄が窺えます。
この動画が取り上げている黄海海戦でも、最も足の遅い艦に合わせて横隊陣形の維持に努め、乱戦気味になった状況で定遠級装甲艦が主砲の命中弾を叩き出しています。
黄海海戦で日本側が勝ったとされるのは、北洋艦隊が定遠級装甲艦を補佐して海戦を有利に導く役割を担う巡洋艦を5隻喪失し、まともな海戦ができなくなったことが大きいです。
因みに日本は此の衝角戦法に依り一度手痛い目に遭ってます。そう、豊臣
秀吉が朝鮮出兵の折り朝鮮海軍の指揮官、李瞬臣が取った体当り戦法,衝角
作戦で大敗してます。ですから、この時の敗戦を教訓に足の速さを頭に入
れて船を揃えた。対策研究の賜物だと思う
明治時代の海戦のセオリーはよく分からない。
軍艦が登場したてのこの頃は、大砲の命中率がまだ悪くて、体当たりで沈める“衝角”がまだ装備されてたんだよねぇ~
開戦前、主砲砲弾が定遠・鎮遠合計で3発しかなくて慌てて砲弾を購入したとか。
兵站や訓練の問題はこの頃の清の弱点だったようですね
陸軍でも多種多様な小銃を運用していたので問題を生じていたとか
各艦の航跡がつぶさにわかって、とても良かったです。
逃亡艦長への処罰が銃殺とかじゃなく斬首ってのに時代を感じる🥵
すげぇ、ネットでほとんど情報がなかったのに…(日本語の場合)
ここで単縦陣がメタになった結果、いろんな種類の砲を積むより有効射程が同じ砲を積んで一斉射したほうが良くね?となってドレッドノートが開発されたのか
細かいことを言うようで申し訳ありませんが、
ノット自体がスピードの単位なので、「時速」の表記は必要ないと思います(11:21)。
撤退と言っているが
実は敵前逃亡なんだよね。
「定遠」級の装甲艦2隻、巡洋艦8隻、砲艦12隻の艦隊だから日本の三景艦に攻撃を集中すれば清側にもチャンスはあった。
だけど、特に「定遠」級の装甲艦の主砲の砲弾は高価で不足気味で
実弾射撃訓練はほとんどしていなかったんだよ。
しかも整備ドックも持っていなかったから
装甲艦の修理ができなかった。
最新型の「定遠」級装甲艦を整備できるのは
香港にあるイギリスのドックか日本の長崎のドックくらい。
イギリスのドックで修理依頼なんかしたらドイツは激怒するだろうな。
長崎事件が発生した時も定遠級装甲艦の整備ができるドックの絡みで来日していましたね。
定遠級装甲艦の大きさの艦が整備できるドックが清国内に建造されたのは日清戦争の後であるとのこと。
この動画の図のとおりに動いたとするなら、最後の部分は北洋艦隊の巡洋艦が秩序を保っての撤退ではなく、算を乱しての敗走と受け取れます。
ちなみに清国において定遠級装甲艦を入れることのできる乾ドックが整備されたのは日清戦争後とのことです。
黄海海戦、日本海海戦と、世界が驚くような大海戦を勝利してきたわけだけど、この時代の日本海軍が「薩の海軍」であったことは、その強さと無関係ではないのかもしれない。
北洋艦隊隊旗が「太陽に襲いかかる五爪の竜」ですからね。建軍当初から対日戦を意識していたと思われます。そして兵力では勝っていたのに勝てなかったのは「見敵必殺」の覚悟が無かったからでしょうか。
そして明治維新から清・露・米と大国と戦って今の日本の礎を作って下さった先人の皆様に心から感謝申し上げます。
戦争の何年か前に友好訪問と称して日本各地で乱暴狼藉、やりたい放題やっている清国艦隊でありました。 戦争の大分前から艦隊旗通りの行動。 連合艦隊整備前の日本は泣き寝入り。 日本の日清戦に向けた周到な準備はここから。それでも軍事劣勢なまま
確かに、1945年まで
戦艦中心艦隊と巡洋艦中心艦隊とに分ける習慣が
残ったと言えなくもありませんが
実質的には、第1艦隊が解隊となった1944年2月25日を以て
その習慣は終わりを告げた、と言って良いのではありませんか。
ま、第2艦隊や第3艦隊が第1艦隊になった訳ではありませんので
建前的には、海軍消滅まで残ったと言っても過言ではありませんが。
勉強になりました。
黄海海戦は日本の維新による技術力で圧勝してたイメージだったけどその面では意外と変わらんかったのね
日清戦争で日本軍の原型が出来て、日露戦争でも勝利した事で原理原則化してしまい、それがかえって第二次世界大戦の敗北に繋がってしまったのかもしれない。
縦単陣坪井少将日露戦争時には亡くなっていた
最初の指針って阿片戦争でイギリスが清を下した作戦の焼き直しなのか
煙も見えず雲もなくー
曽祖母が、帰国した兵隊さんを旗を振って迎えた記憶があると話してました😊
菊之助とか八郎太とか、やっぱりこの時代はブシブシネーム?が多いな
2:22 陸海軍を合わせた統一的な戦争方針を決める機関…… ほんとぉー?
明治時代の日清戦争、日露戦争に伴って設置された大本営は、元勲と呼ばれる人たちが制御したこともあって適正に機能していた。
陸海軍がバラバラに動くようになった上、互いに騙し合いに近いことをして機能不全に陥るのは昭和になってから設置された大本営。
タルるートくん書いてた人の日露戦争物語の黄海海戦は面白くて何度も読み返しました。日露戦争になる前に絵が横山光輝レベルに酷くなったので17巻あたりでやめちゃいました。当時、テレビなんか出てないで本業を真面目にやれよと思ってたっけ
「未だ沈まず定遠は」を知ったのは、戦記物でも映画でもなく、SF小説の「日本沈没」だった。
凄い
坂の上の雲やってた頃位なら取り上げたりはするんだろうけどね・・中国かロシアに気を使ってるのか状況的にも作り難いのかもね・・
日本側の艦隊行動の見事さと、清国海軍の統率の取れなさも目立つな
機動力をフルに活かした大日本帝国海軍。
鳥瞰図の視点が途中で、南北逆さまになってませんか?
黄海海戦の絵見たけどだいぶ悲惨だった
『日本沈没』に「まだ沈まずや、定遠は」って言葉が出てきてましたが、元ネタはココでしたか…!
中国側はラム(衝角艦首)による突撃が主体戦法、対する日本の砲戦射撃精度向上は、日本に軍配が上がるのは当然!
中国(武田騎馬隊)VS日本(織田・徳川鉄砲隊)の図式といえば、わかりやすいと思う!!
近代海戦のアウトレンジの戦いは、ここが起点と思う!
東郷平八郎は軍神と崇められ、第二次世界大戦でも権力を持ち、稚拙な戦略を
兵隊に強制して多くの死者を出した。
この頃の方が国家としてはまともだった気もする
そら(敵前逃亡したら)そう(そりゃ斬首に処される)よ。おーん。
清国にとっては深刻な後悔海戦だったな。(´ε`;)ウーン…
長崎事件がありました。
同じ日本政府なのに、長崎事件における対応と日清戦争の講和における対応では、天と地の差があります。
長崎事件での日本政府は北洋艦隊の水兵が許可なく上陸して暴れたにもかかわらず事件で犠牲になった北洋艦隊の将兵に対する見舞金を支出していますが、日清戦争の講和では直隷地域の長官である李鴻章が出てくるまで清国の使節を相手にせず、李鴻章が出てくるとトンデモな額の賠償金を突きつけた上、遼東半島と台湾の割譲を要求し、これを無理やり突き通しました。
なお、三国干渉によって日本政府は遼東半島を清国へ返還することになりますが、遼東半島の返還と引き換えに補償金を受け取っています。
素晴らしい動画。
皆さんの感想にも感動。戦後も台湾を民主的に併合。明治以降太平洋戦争までの日本の評価は、私たち日本人の中でも、もっと高く評価されるべき。戦後教育を見直すべき。
♪まだ沈まぬや定遠は、、、、軍歌があるな
題材は良いけど霊夢はともかく魔理沙の口調が気になって仕方ない。
最初のうちに半分に分けていたら変わっていたのかな
確かに損失艦はありませんでした。しかし、日本側も主力艦がズタボロにやられ、このての動画で言われるような圧勝なんかしてません。大体主力艦の砲弾が当たっても敵側の装甲艦にはあまりダメージ無いわ、その主砲自体が1時間に2発しか撃てないわで散々ですし
日清戦争時の連合艦隊は当時の日本が精いっぱい背伸びして整備したものでありましたが、その実態は北洋艦隊と同じことをしていては勝てないという悲しいくらいの弱小艦隊で、威海衛の戦いにおいて北洋艦隊の撃滅を達成したことによって相対的に東アジア最強になったということです。
仰せのとおり、黄海海戦では日本海軍も沈みはしなかったものの、沈没の一歩手前のような大破する艦を何隻も出しています。
黄海海戦の後、北洋艦隊がまともに海戦ができなくなったのは、定遠級装甲艦の損傷よりも定遠級装甲艦を補佐して海戦を有利に導く役割を担う巡洋艦を5隻喪失したことの方が大きいです。
まだ沈まずや 定遠は
敵味方入り乱れて、まるでドッグ、ファイト。日本はこの戦いで、砲撃より雷撃の有効性に目覚め、以後、時代遅れになっても太平洋戦争終結まで雷撃を重視した。重巡洋艦や防空駆逐艦である秋月型にも魚雷発射管を装備したのが良い証拠。
この日清戦争で日本が勝ったことで今の中国を見下すようになったということだ。
挑戦は自律的になにも出来ないんだよな。
速度が速い方が有利と知りながら、航空機時代が来たのに、あんなデカくて標的になりやすい 大和を作ったんやね 空母や航空機作ればよいのに
大和が作られたのは航空機時代到来前 当時は航空機で戦艦を沈めることは不可能であると思われていたから仕方ない
戦争は無駄死にがほとんどです
そりゃイギリスが先生で海軍そのものを直接伝授されてる日本が負けるわけがない。
火力に優る敵艦隊に決戦求めて荒ぶりすぎや
連合艦隊が海上護衛を兼ね、ヤル気に満ちて黄海に出没するものだから、北洋軍閥は当時の清国皇帝から「あんな弱小艦隊ごときにビビってんじゃねえ! お前らヤル気あるのか?」と怒られたとのこと。
どんでんがいる!!!@_@w
李氏朝鮮の国旗って、今の韓国や北朝鮮のよりカッコイイな!
なぜか?魚雷が当たらない?
西京丸