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八丈島へ流されるも明治時代に新政府によって赦免される宇喜多氏のその後についてこちらの動画で紹介しています!ua-cam.com/video/zvmRR60p8ik/v-deo.html
秀家がもう少し年長だったら秀吉も心置きなく領地を加増して真に豊臣の柱石になっていたでしょうが、この若さでは致し方なしですね。結果は散々ですがやるべきことはしっかりやっていた印象です。
俺もそう思う、秀家は西軍の中では良く頑張ったと思う
当初は羽柴一門として戰場では秀長隊に近いところで働くことが多かったんだけど戸川ら家臣が活躍してもあちらの藤堂さんなんかに持ってかれることが多かった。秀吉も藤堂さんに一国与えても宇喜多勢に加領はなし。上がるのは官位くらい。こういうの続いたことも宇喜多騒動の原因になってるよね。
秀家は、関ヶ原の敢闘賞ですね。せめて空弁当が、無ければと・・・・
なかなかに波乱万丈な人生ですね。前半生が華麗で豪華なだけに、後半生の慎ましさが際立ちます。父親も織田氏と毛利氏の間での難しい政局をうまく切り盛りしていたようで、彼の出生時は波乱の種も減少していたようですね。10歳で家督を継承し、前田利家の娘で秀吉の養女だった督姫を娶り、年若くして五大老の一人となるのは、これ以上ないラッキーな立ち位置です。要注意大名毛利氏の抑えとして、期待された宇喜多氏という地政学的見地もあったのでしょう。秀家が母親の美貌のために秀吉に取り立てられたと揶揄する毛利氏の文書も、面白いです。その後、西軍の敗北で正反対の逆境に陥り、八丈島へ配流、徳川4代将軍家綱の時代まで生存し、83歳で没するとはこれまた長生きですが、島での人生の方がはるかに長く、どんな心情で生きて行ったのかと思うと、ちょっと切ないです。明治時代まで前田家の支援物資が続いたことが、せめてもの慰めです!
戦国の後半に生まれたにしては中々の戦歴で優秀な人だと思う。 関ヶ原で負けて流罪になったのは島津の取りなしもあるけど、秀家の人柄もあるでしょう。 私はかなり優秀な人だと思っている。
家康の立場や性格から家康本人が気に入らない人物であれば他からの助命嘆願など関係なく死罪だったでしょうね。秀家は武功以外にも岡山城下の整備に加え、宇喜多堤による土地の造成などにも功績を残しています。もし徳川に降っていたら前田家のように江戸期100万石いけたかも。
@@上斎入道 秀家は仮にも秀吉の後継者の一人だからねいくら家康でも処刑できなかったのだと思う
@@上斎入道西軍方の諸将で秀家ほど東軍に付く可能性がなかった武将もなかなかいないのでは?
小早川隆景と同じ籠城ではなく野戦を主張し、出撃。碧鍗館の戦いで総大将として、勝利しているので、戦上手な勇将だったと思いますよ。
第二次晋州城攻防戦では配下の家臣が晋州牧使、徐礼元の首を取るという大功を上げている。10000兵を率いるのが初めてだった加藤清正をサポートしオランカイへの進軍を助けていたのも宇喜多家臣の戸川だったというし。改易となったせいか秀家および家臣団の功績が語られていませんね。何もしなかったことになってるような。
上からの圧迫と家臣からの突き上げに終始さらされてて本当にかわいそうなんだよなぁこのお方は
西軍で唯一フルメンバーで戦った上で前線を維持し続けた武将
福島正則隊を500メートルも押し返すとか相当だよな
寄せ集めに近い兵を鼓舞して相手の前線の動きを膠着させイラついた家康本陣を前に出したところまでで秀家は役割をきっちり終えていた。ここから毛利勢が一気に...で勝利のはずだったんだけどなぁ
「八丈島から泳いで参った」と「明石全登は読めません」の人ですね。「母の七光り」は毛利家のネガティブキャンペーンの結果だったとは。内儀は前田家に戻っていたのか知らなかった。
秀吉頼みっていうけど、家康に散々家中弄られてボロボロの状態でも、最前線で最後まで戦ったんだからな。他も秀吉とか豊臣家のためとかいうけど、秀家ぐらいしか本気で戦っていないし、福島正則とかバカは個人的な好き嫌いで動いて豊臣家の為とか上辺だけなのバレたし、そう考えたら1番の忠臣。
大人の事情もあってか関が原で一番輝いていた人だったはずなのにドラマなどではまったく存在感なく描かれてしまう。負けたけど持てる兵を鼓舞して立派に戦った姿に天国の直家、秀吉、利家も喜んだだろう。秀吉は言ったかもね「家康相手の野戦はワシでも無理じゃ。気にすんな。」と。
秀吉の威光ありきの政権基盤だから秀吉がいなくなった時点で誰も秀家に従う担保が無くなってしまった… なまじ譜代らも秀吉の直臣属性もあるから「同格」扱いの譜代だらけで50万石超という大身・家の構造自体が容量オーバーして破裂&末期感が…関ケ原後の最上家等にも言えるかもしれないが よくよく考えたらそんな中でよく1万以上の兵力用意できたよね…
主だった家臣それぞれの石高が他家に比べてけっこう高めで(明石が4万石、ほか2万石超えの大名クラスが数名いて、新参の本多政重にも2万石)、、、ってやっていくと当主の秀家の取り分もすごい少なくなって(5万石くらいだったかな)やりくりが大変だったそうな。そこでケチで有名な前田家のやりかたを導入して財政健全化を図ろうとしたら猛反発されちゃった。(外資系企業に古い日本式経営を導入して役員報酬減らそうとしたら反発されたみたいな)秀家と家臣達のどっちが贅沢だったのかわからんが、後の記録では秀家が贅沢だったということで落ち着いているみたい。でも秀家が残したものの中にそんなに派手で贅沢と思われるものは見つからない(割と質実剛健なのが多い)。秀吉に会う時だけ派手好みを装って話をあわせていたフシはある。
宇喜多秀家の家系が大隈重信の側近として活躍する浮田和民に通じていると考えると「歴史」はやはり繋がりがあって面白い。
秀吉の親族とはいえ五大老に選ばれているので、凄い優秀な人だと思う。
俺もそう思う、少なくとも信頼できる御仁だった
真田昌幸に勝るとも劣らない稀代の梟雄「宇喜多直家」の息子ですからね。半分でも遺伝してるなら五大老に相応しい知力だとおもいますよ。
19:34 人生の半分を八丈島で過ごしたと言う事になりますね。
それも八丈島では藁で簑や菅笠をひたすら編んで暮らしておったと聞き及ぶ…古今東西どこにでも必ず一人はいるであろう変わり者を地でいった人ですな
この人の肖像画、目が綺麗すぎて少年のようで見るたびに笑ってしまう・・
仮にも秀吉の後継者であったお陰で関ヶ原で負けても斬首は免れた八丈島では女性を囲って悠々自適な生活今も八丈島に浮田さんが多いのは彼の子孫が多数居るためである
最後は八丈島で天寿を全う出来て良かったね
どうでもよいことだが、サムネは宇喜多秀家役の役者にござるか。 NHKもイケメンを探したのであろうが、実際の秀家、この役者よりも相当イケメンに御座候。八丈島に流れしも、島の娘たち, 秀家の顔を見たさに 連日こぞって訪れていたそうな。
追伸。アイコンにつきて。 かようなる激怒したる上杉景勝、実際には存在せず。 誠の景勝、殆ど喜怒哀楽なる感情 表に出さざるなり。
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」やっぱり思い出した人いらっしゃいますね!
自分は岡山県に住んでてるけど地元のヒーローです。直家は暗殺や裏切りのオンパレードだった。秀吉に可愛がられ恩義を感じ自分は直家とは異なり最後まで忠義を尽くす道を選んだんだと思う。 家臣の反乱も宇喜田家の弱体化を狙う家康が仕向けたとゆう。1年前に岡山城が令和の大改修したので良かったら是非来て見て下さい。
宇喜多直家の居城の沼城ってどんなだったんだろ。名前がダークでかっこいい。羽柴秀吉も出入りしていたという。宇喜多秀家の時代には高梁川から西の備中国も領有、秀家はこの新しい領地だった現在の倉敷周辺にも結構投資していたはず(土地の造成や下津井というところに城を築いたり)。なのに倉敷出身の人にはほとんど知られてなくて江戸期の天領時代の代官の話くらいしか出てこない(笑)あと、こじつければ毛利秀元も岡山県生まれ。宇喜多秀家と似た毛利のプリンスで嫁は同じく秀吉の幼女(豊臣秀長の長女)。関が原では宇喜多並みの16000兵で布陣。当時の毛利勢の中ではかなりまともな人物だったと思うけど。
近い年齢の奥州の覇者と言われた伊達政宗と比較しても、伊達政宗は戦いの経歴が多く、それに対して宇喜多秀家は、周りが偉くしただけの人だった事が、両者の後の行く末を分けたか。
政宗と違い秀家は早くに秀吉に従属したので、秀吉の号令がなければ戦うことができなかった。なんせ私戦は禁止されてましたから。
なんかやらかして徳川家臣の榊原からきついお咎めを受けたときに「あれは宇喜多殿の誘いをことわれなくて...」みたいな言い訳している手紙が残っていたような...二人は仲良かったみたい。
宇喜多秀家の弱体化の要因の一つに豪姫がキリシタンであるという事。領国はガチガチの日蓮宗なのに豪姫に甘い秀家は領国経営をキリシタンで外様の明石掃部を重用して譜代を軽んじる構図となった。その後、譜代重臣が去ったが宇喜多軍団は強かった。関ヶ原では隣の小西行長に軍勢を貸しながら東軍の主力とぶつかり小早川の側面攻撃にも耐えた。しかし小西行長が崩れた事で敗戦となった。よくこの寄せ集めの兵力で4時間戦ったなと。秀家の金吾(秀秋)への恨み理解できる。
豪姫がキリシタンになったのは関ヶ原後の数年間おねの元にいたときでは? 洗礼を受けた後に前田家に戻ったのでは。
坂崎直盛、石見国吉賀郡3万石の大名で、ここの元領主、吉見広長の跡を継いで、津和野藩初代として入城しました。広長の妹の1人は、吉川広家の息子、政春(後の就頼、毛利一門第六、大野毛利氏初代)です。つまり、形としては、直家の娘、秀家の妹の子供ということになりますよね。
宇喜多さん顔イケメンやなあ
関ケ原後は波乱な一族ですね。本人息子は八丈島へ…。さらに奥方は加賀へ…坂崎直盛は後に御家取り潰しに…。
こんばんは
前田家の嘆願で赦免の話しがあったのを断ってる逸話を聞いた事があります。
子孫の一部はも明治維新で赦免されて離島し、東京に住んだものの、その後八丈島に戻ってしまってますね。
真田信之が東軍扱いだったらまた違うんだが😮
ボンボン育ちの秀家では五大老はおろか武将としての器量も怪しかったか…
それな
毛利も宇喜多もふがいないな・・・石田と上杉だけが家康に立ち向かったのに
八丈島へ流されるも明治時代に新政府によって赦免される宇喜多氏のその後についてこちらの動画で紹介しています!
ua-cam.com/video/zvmRR60p8ik/v-deo.html
秀家がもう少し年長だったら秀吉も心置きなく領地を加増して真に豊臣の柱石になっていたでしょうが、この若さでは致し方なしですね。
結果は散々ですがやるべきことはしっかりやっていた印象です。
俺もそう思う、秀家は西軍の中では良く頑張ったと思う
当初は羽柴一門として戰場では秀長隊に近いところで働くことが多かったんだけど戸川ら家臣が活躍してもあちらの藤堂さんなんかに持ってかれることが多かった。秀吉も藤堂さんに一国与えても宇喜多勢に加領はなし。上がるのは官位くらい。こういうの続いたことも宇喜多騒動の原因
になってるよね。
秀家は、関ヶ原の敢闘賞ですね。
せめて空弁当が、無ければと・・・・
なかなかに波乱万丈な人生ですね。前半生が華麗で豪華なだけに、後半生の慎ましさが際立ちます。父親も織田氏と毛利氏の間での難しい政局をうまく切り盛りしていたようで、彼の出生時は波乱の種も減少していたようですね。10歳で家督を継承し、前田利家の娘で秀吉の養女だった督姫を娶り、年若くして五大老の一人となるのは、これ以上ないラッキーな立ち位置です。要注意大名毛利氏の抑えとして、期待された宇喜多氏という地政学的見地もあったのでしょう。秀家が母親の美貌のために秀吉に取り立てられたと揶揄する毛利氏の文書も、面白いです。その後、西軍の敗北で正反対の逆境に陥り、八丈島へ配流、徳川4代将軍家綱の時代まで生存し、83歳で没するとはこれまた長生きですが、島での人生の方がはるかに長く、どんな心情で生きて行ったのかと思うと、ちょっと切ないです。明治時代まで前田家の支援物資が続いたことが、せめてもの慰めです!
戦国の後半に生まれたにしては中々の戦歴で優秀な人だと思う。 関ヶ原で負けて流罪になったのは島津の取りなしもあるけど、秀家の人柄もあるでしょう。 私はかなり優秀な人だと思っている。
家康の立場や性格から家康本人が気に入らない人物であれば他からの助命嘆願など関係なく死罪だったでしょうね。
秀家は武功以外にも岡山城下の整備に加え、宇喜多堤による土地の造成などにも功績を残しています。もし徳川に降っていたら前田家のように江戸期100万石いけたかも。
@@上斎入道
秀家は仮にも秀吉の後継者の一人だからね
いくら家康でも処刑できなかったのだと思う
@@上斎入道西軍方の諸将で秀家ほど東軍に付く可能性がなかった武将もなかなかいないのでは?
小早川隆景と同じ籠城ではなく野戦を主張し、出撃。碧鍗館の戦いで総大将として、勝利しているので、戦上手な勇将だったと思いますよ。
第二次晋州城攻防戦では配下の家臣が晋州牧使、徐礼元の首を取るという大功を上げている。10000兵を率いるのが初めてだった加藤清正をサポートしオランカイへの進軍を助けていたのも宇喜多家臣の戸川だったというし。改易となったせいか秀家および家臣団の功績が語られていませんね。何もしなかったことになってるような。
上からの圧迫と家臣からの突き上げに終始さらされてて本当にかわいそうなんだよなぁこのお方は
西軍で唯一フルメンバーで戦った上で前線を維持し続けた武将
福島正則隊を500メートルも押し返すとか相当だよな
寄せ集めに近い兵を鼓舞して相手の前線の動きを膠着させイラついた家康本陣を前に出したところまでで秀家は役割をきっちり終えていた。ここから毛利勢が一気に...で勝利のはずだったんだけどなぁ
「八丈島から泳いで参った」と「明石全登は読めません」の人ですね。
「母の七光り」は毛利家のネガティブキャンペーンの結果だったとは。
内儀は前田家に戻っていたのか知らなかった。
秀吉頼みっていうけど、家康に散々家中弄られてボロボロの状態でも、
最前線で最後まで戦ったんだからな。
他も秀吉とか豊臣家のためとかいうけど、秀家ぐらいしか本気で戦っていないし、
福島正則とかバカは個人的な好き嫌いで動いて豊臣家の為とか上辺だけなのバレたし、
そう考えたら1番の忠臣。
大人の事情もあってか関が原で一番輝いていた人だったはずなのにドラマなどではまったく存在感なく描かれてしまう。
負けたけど持てる兵を鼓舞して立派に戦った姿に天国の直家、秀吉、利家も喜んだだろう。
秀吉は言ったかもね「家康相手の野戦はワシでも無理じゃ。気にすんな。」と。
秀吉の威光ありきの政権基盤だから秀吉がいなくなった時点で誰も秀家に従う担保が無くなってしまった… なまじ譜代らも秀吉の直臣属性もあるから「同格」扱いの譜代だらけで50万石超という大身・家の構造自体が容量オーバーして破裂&末期感が…関ケ原後の最上家等にも言えるかもしれないが よくよく考えたらそんな中でよく1万以上の兵力用意できたよね…
主だった家臣それぞれの石高が他家に比べてけっこう高めで(明石が4万石、ほか2万石超えの大名クラスが数名いて、新参の本多政重にも2万石)、、、ってやっていくと当主の秀家の取り分もすごい少なくなって(5万石くらいだったかな)やりくりが大変だったそうな。そこでケチで有名な前田家のやりかたを導入して財政健全化を図ろうとしたら猛反発されちゃった。(外資系企業に古い日本式経営を導入して役員報酬減らそうとしたら反発されたみたいな)
秀家と家臣達のどっちが贅沢だったのかわからんが、後の記録では秀家が贅沢だったということで落ち着いているみたい。でも秀家が残したものの中にそんなに派手で贅沢と思われるものは見つからない(割と質実剛健なのが多い)。秀吉に会う時だけ派手好みを装って話をあわせていたフシはある。
宇喜多秀家の家系が大隈重信の側近として活躍する浮田和民に通じていると考えると「歴史」はやはり繋がりがあって面白い。
秀吉の親族とはいえ五大老に選ばれているので、凄い優秀な人だと思う。
俺もそう思う、少なくとも信頼できる御仁だった
真田昌幸に勝るとも劣らない稀代の梟雄「宇喜多直家」の息子ですからね。半分でも遺伝してるなら五大老に相応しい知力だとおもいますよ。
19:34 人生の半分を八丈島で過ごしたと言う事になりますね。
それも八丈島では藁で簑や菅笠をひたすら編んで暮らしておったと聞き及ぶ…
古今東西どこにでも必ず一人はいるであろう変わり者を地でいった人ですな
この人の肖像画、目が綺麗すぎて少年のようで見るたびに笑ってしまう・・
仮にも秀吉の後継者であったお陰で
関ヶ原で負けても斬首は免れた
八丈島では女性を囲って悠々自適な生活
今も八丈島に浮田さんが多いのは彼の子孫が多数居るためである
最後は八丈島で天寿を全う出来て良かったね
どうでもよいことだが、サムネは宇喜多秀家役の役者にござるか。
NHKもイケメンを探したのであろうが、実際の秀家、この役者よりも相当イケメンに御座候。八丈島に流れしも、島の娘たち, 秀家の顔を見たさに 連日こぞって訪れていたそうな。
追伸。アイコンにつきて。
かようなる激怒したる上杉景勝、実際には存在せず。
誠の景勝、殆ど喜怒哀楽なる感情 表に出さざるなり。
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
やっぱり思い出した人いらっしゃいますね!
自分は岡山県に住んでてるけど地元のヒーローです。
直家は暗殺や裏切りのオンパレードだった。
秀吉に可愛がられ恩義を感じ自分は直家とは異なり最後まで忠義を尽くす道を選んだんだと思う。
家臣の反乱も宇喜田家の弱体化を狙う家康が仕向けたとゆう。
1年前に岡山城が令和の大改修したので良かったら是非来て見て下さい。
宇喜多直家の居城の沼城ってどんなだったんだろ。名前がダークでかっこいい。羽柴秀吉も出入りしていたという。
宇喜多秀家の時代には高梁川から西の備中国も領有、秀家はこの新しい領地だった現在の倉敷周辺にも結構投資していたはず(土地の造成や下津井というところに城を築いたり)。なのに倉敷出身の人にはほとんど知られてなくて江戸期の天領時代の代官の話くらいしか出てこない(笑)
あと、こじつければ毛利秀元も岡山県生まれ。宇喜多秀家と似た毛利のプリンスで嫁は同じく秀吉の幼女(豊臣秀長の長女)。関が原では宇喜多並みの16000兵で布陣。当時の毛利勢の中ではかなりまともな人物だったと思うけど。
近い年齢の奥州の覇者と言われた伊達政宗と比較しても、伊達政宗は戦いの経歴が多く、それに対して宇喜多秀家は、周りが偉くしただけの人だった事が、両者の後の行く末を分けたか。
政宗と違い秀家は早くに秀吉に従属したので、秀吉の号令がなければ戦うことができなかった。なんせ私戦は禁止されてましたから。
なんかやらかして徳川家臣の榊原からきついお咎めを受けたときに「あれは宇喜多殿の誘いをことわれなくて...」みたいな言い訳している手紙が残っていたような...
二人は仲良かったみたい。
宇喜多秀家の弱体化の要因の一つに
豪姫がキリシタンであるという事。
領国はガチガチの日蓮宗なのに豪姫に甘い
秀家は領国経営をキリシタンで外様の明石掃部を
重用して譜代を軽んじる構図となった。
その後、譜代重臣が去ったが宇喜多軍団は強かった。
関ヶ原では隣の小西行長に軍勢を貸しながら東軍の
主力とぶつかり小早川の側面攻撃にも耐えた。
しかし小西行長が崩れた事で敗戦となった。
よくこの寄せ集めの兵力で4時間戦ったなと。
秀家の金吾(秀秋)への恨み理解できる。
豪姫がキリシタンになったのは関ヶ原後の数年間おねの元にいたときでは? 洗礼を受けた後に前田家に戻ったのでは。
坂崎直盛、石見国吉賀郡3万石の大名で、ここの元領主、吉見広長の跡を継いで、津和野藩初代として入城しました。広長の妹の1人は、吉川広家の息子、政春(後の就頼、毛利一門第六、大野毛利氏初代)です。つまり、形としては、直家の娘、秀家の妹の子供ということになりますよね。
宇喜多さん顔イケメンやなあ
関ケ原後は波乱な一族ですね。本人息子は八丈島へ…。さらに奥方は加賀へ…坂崎直盛は後に御家取り潰しに…。
こんばんは
前田家の嘆願で赦免の話しがあったのを断ってる逸話を聞いた事があります。
子孫の一部はも明治維新で赦免されて離島し、東京に住んだものの、その後八丈島に戻ってしまってますね。
真田信之が東軍扱いだったらまた違うんだが😮
ボンボン育ちの秀家では五大老はおろか武将としての器量も怪しかったか…
それな
毛利も宇喜多もふがいないな・・・
石田と上杉だけが家康に立ち向かったのに