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鉄で覆って大砲を装備した巨大な船を作れって言った信長もすごいが、作った九鬼もすごいな
鉄甲船を地中海に浮かべたかった😊
ほうろく玉、ハンマー投げの要領で打ち上げ花火の玉みたいなのを投げ込むのよね
鉄甲船の船足はゼロに等しいので待ち構えることしかできない。この作戦にはうってつけ。
この戦いはモード•アングレの海上バージョンですから、機動力より防御力と火力が優先されるんです。
実質この海戦のためだけに鉄甲船作らせて、それを可能にするだけの予算を賄える織田家の国力の凄さよ
反織田信長勢力…鉄板で囲った船?沈むではないか!( ゚∀゚)アハハ信長…面白き考えよ!そちがやってみい!( •̀ω•́ )イザ!大きな違いはここだった。信長の近世化と中世化(室町時代)にしがみつく連中と考えが違ったのだ。秀吉の出世も反信長勢力の中では決して実現しなかったであろう。
経済力なら親父の代で尾張1国で今川領3国を凌駕する日本最高峰の金満一族
それだけ大阪湾はメリットがあったということだな
当時日本最大の貿易港の堺に加えて、人口が集中してた近畿地方をほとんど手中に治めてましたからね。日本の富を独占してたと言っても過言ではありません。
機動力はほとんど無さそうだから移動できる水上要塞という感じですね。攻めに行くのではなく封鎖目的なら理にかなっています。
大和川の水は東大阪から淀川に流れてのでさらに要塞として強かったんだよな
今の大和川は江戸時代に作られたものだけどね
トップヘビーすぎて嵐で転覆しそう艦上構造物を盛ってしまうのは日本のお家芸なのだろうか
なお織田水軍は制海権を取れなかった模様
動画わかりやすく解説ありがとうございます。一点この当時の大和川の位置が違います。今の大和川の流れ(八尾辺り〜堺河口)は江戸時代に付け替えられたものであり、この当時の流れは淀川へ合流してました。余談ですが、この当時から今の流れになっていたら砂が堆積して大きな船が航行できなくなり、ザビエル来航、鉄炮伝来など国際貿易都市としての堺はなく、信長や秀吉に重要拠点にされる認識はなかったです。
面白いのが毛利側の記述だと鉄甲船遅すぎて草、攻撃効かないから放置して兵糧届けて帰ったわw言ってるのよね。確かに600vs6ならある程度すり抜けられる気もするし、本願寺の降伏も一年半後なのよねぇ。
当時、大和川は北に流れていましたよ。つまり、淀川の支流の1つ。江戸時代に洪水対策で付け替えられて、堺に流れるようになりました。
鉄甲舟は技術的に難しい。出島みたいな砲台場だったのかな?
関の加治衆を総動員をして作った鉄甲船、更に大筒を搭載する❗毛利水軍を撃退する
この時代の大和川は淀川の支流の一つで、徳川幕府の時代に川筋付け替え大工事で現在の川筋になりました。当時の大和川は柏原市の辺りで北西へ川筋を多数分岐し、上町台地の石山本願寺東の湿地帯を流れ今の京阪電車京橋駅のあたりで淀川に合流してます。グーグルマップ等の地形図や航空写真を丹念にみると当時の大和川の川筋が推測できますよ。
鉄甲船。その後はどうなりましたか?秀吉の朝鮮出兵には、使われませんでしたよね。無知ですみません。
こんな昔の時代に、戦艦の様な巨大な船があったなんて信じられません!笑織田信長は本当に戦の天才ですね!
織田家の恐ろしさはやはりその資本力。資金が潤沢にあるから一度や二度負けてもすぐ立て直してくる
それは晩年じゃないか!のし上がる過程が凄い後敗因を、洗い出し鉄甲船を作る発想こそ評価すべき
軍事オタクたちの間でも、「勝つにつれて巨大になっていく織田の常設軍(!)を養うことができた織田方の経済力というか、資金調達能力こそ評価すべきだ」という声がありますね当時、唯一の常設軍で戦闘しかしない集団ですから、そりゃ大半が半農半兵の兵で構成された軍に比べて強いわけです
@@けんけん-u8q8w 本願寺包囲してる時でも直轄領は尾張、美濃、伊勢、南近江とかいう良石高地域だからこれだけで200万石ある鉄鋼船を思い付いても作れなきゃ意味がないから、この経済力が何よりの強みよ
大和川の流れる位置が昔と今じゃあ違うんだよなぁ
うん。確かに
織田軍は勝つには勝ったけど制海権は取れてなくてその後も毛利に兵糧搬入されていたんですよね。状況がかわったのは中国地方への陸路を織田側が抑え始めた事で毛利水軍の出撃地点が遠くなり大阪まで届かなくなった事が大きかったみたいです。
そうだったのか。その後の鉄鋼船の活躍聞かなかったが、実際はすぐに錆だらけになったとは思ってた。
木津川の戦いで村上水軍が敗北した影響で、播磨に進出する織田の妨害が出来なくなったのが大きい秀吉も補給には海路を活用してたけど、それを狙うことが出来ないからね
宇喜多の離反が致命的だったっぽいですね
宇喜多直家の裏切り→毛利軍動揺で援軍撤退→荒木村重「うっわマジかよ…有岡捨ててでも尼崎救援しないとヤバい(有岡も事情承知だったからか荒木退去後も粘った)」
@@Y.H-g9g なるほど、海陸を総合して見る必要があるんですね
鉄甲船の船足が遅いとコメントに書かれているけど船足の速い村上水軍が瀬戸内を出発してからの鈍足の鉄甲船で志摩を出発して大阪湾まで間に合うのか?
潮と風に任せて走る帆船ですから、あまり重いと動かなくなり、下手すると自沈です。鉄甲船は原動機を備えずには実現しませんから、実際は安宅船の設計の流用で、動かせる限界まで船体を拡張し、大砲のような重量物を積めるようにして、木造船体に防火用の鉄板を集中方式で貼り付け、ダメコンを図りつつ、航行性能を確保したと考えます。しかし、速度と機動性が犠牲になったことと、2年掛けて6隻しか生産できなかったという生産性の悪さも影響して、実際の戦績も期待どおりとはいえず、戦力の建て直しという面でも不十分であり、以後、二度と使われなかったことから、やはり数を揃えられないものは運用上の支障をきたすというべきでしょう。
4:01 戦国時代に関空がある😮😮
当時の地図だと大雑把な所あるし、地理再現するのは労力がかかるから仕方ないね。
信長より作った九鬼の技術が凄いわ。
その大和川は江戸以降やで
この鉄鋼船も少ししたら錆びて腐ちてしまったとも聞いたけど、どうなんだろ?そうだとしたら毛利側もちまちま補給はできたのかな?
毛利側はこの後も本願寺への補給は続けていたようです致命的だったのは宇喜多の離反だったようですね
村上水軍が商船に見えました。毛利藩は一体どれくらい手広く商売をしていたのしょうか。
小説、村上海賊の娘のリベンジマッチ
芸人の村上ショージって、村上水軍の子孫って聞いたけど。
真鍋貞友は九鬼水軍でなく淡輪水軍
戦国自衛隊の海戦バージョンやったら面白そう、木船の時代にイージス艦とか空母あったらどうなるんかな、それで毛利を勝たせて歴史改変
燃料切れで、あっという間に終わりですね。戦国時代だと、軽油もジェット燃料も手に入らないから。
小説版戦国自衛隊でありましたね哨戒挺の機銃で無双出来てましたね
見たかった海戦🎉
木津川口の戦いの直前に雑賀衆と戦ってボロガチの九鬼水軍
淀川と大和川の河道が今と全然違うことが反映されていないよ
漫画信長のシェフのこのシーンは凄い。駆け引きも描写も素晴らしい
「おいおい・・・本気かよ・・・」
大阪湾一帯に兵を置いたり木津川河口の左右に砲台を備えたりして、石山本願寺まで辿り着かせない方法もあったんじゃないかなあ。
当時の技術では数km先まで弾を届かせる砲の製造(冶金)技術や火薬、測距法とか弾道学とか限界があると思います。
映画化してほしい。
大和川の位置間違っています現在の大和川は江戸時代に上町台地を掘削して作った運河であり、当時の大和川は現在の寝屋川あたりを流れていて、大阪城の北東で淀川と合流していました
上町(かみまち)台地
最近の研究だと大型船は造られたけど鉄甲船ではなかったって話だけど。
燃えなければいいんですから、ほうろく玉が当たりそうな場所に防火用の薄い鉄板を貼ったんじゃないか?と想像してます
おそらく世界初の鉄の装甲で固めた船を作るとは流石信長。
人類は争いばかりだな
ノッブ、ジャイアン過ぎて引くわー
堺の河口の石山本願寺?
これがあれば世界を制覇出来たな
外海を超えられないでしょ封鎖戦専用の浮き要塞に近い
日本が世界征服出来たかもしれない最初で最後のタイミングが信長の天下統一前後だったらしい
第一次は九鬼水軍ではないような?
第一次は真鍋さん中心の織田水軍vs村上、毛利水軍の戦いですな。第二次が九鬼水軍vs村上、毛利水軍。
戦国時代の地理に関して、もう少し勉強した方が良いですね。大和川が現在の流れになったのは江戸時代中期のことで、それ以前は、淀川に合流していました。それから、淀川に関しても、現在とは流れが違います。現在の淀川は、天保の頃に、人口的に流れを変えたものです。元々は、現在の大川、大阪城の横を流れている川が、昔の淀川です。工事で出た残土を積み上げたのが、現在、日本で一番小さい山と言われている天保山ですね。それから、大阪一帯は、戦国時代は湿地帯で、多くの島がありました。大阪の地名を見ると、XX島(例えば、福島、柴島、堂島等)という地名がありますが、それらは、もともと、島だったのです。江戸時代に、埋め立てられて今のようになっています。それから、天王寺と石山本願寺は、同じ上町台地にあり、石山本願寺は北側、天王寺は南側にあります。陸続きだったので、天王寺砦は絶対に失陥するわけにはいけないということで、明智光秀が入って防御していたわけです。戦国時代は、堺と大阪の間に大きな川がなかったのが、堺が大きくなった1つの要因だったようです。江戸時代に大和川の工事で、大阪と堺の間に移したことにより、大阪のと物流が滞ったこと、大和川から流れてくる土砂の量が多すぎたために、堺の港が埋まってしまったことが、堺がさびれる原因となりました。
はいはい すごいすごい くだらねぇ長文ご苦労様
長文解説ご苦労様です。現在と地形が異なるのを認識しないと合戦などの実態も正確に理解できませんよね。野田や福島も当時は今より海側(河口に近い)によっていますよね。「梅田」は「埋めた」が変化したとも言いますし。それ故地震に強いのは上町台地だと聞いたことがあります。京都宇治の槇島城の戦いで有名な槇島も巨椋池の一部?だったと聞きました。江戸城の立地も当初は江戸湾に面していたと本で読みました。
秀吉、家康も鉄の戦艦を作り続けて、世界に打って出れば領土拡大できたのに
錆びる
長期の外洋航行技術が無かったから無理そう
秀吉が作ったけど重さに耐えられず、船体が裂けて沈んだんじゃなかった?
やはりここでも信長必勝のモード•アングレが炸裂したか。
開戦前に水で濡らした船じゃダメかな
なお鉄甲船の記述は奈良の坊主の日記にあるのみ。内容も船を見たことのない人間が書いたと思われるヘンテコなもの。
これって鉄甲船じゃなかったっていう説が有力になったんじゃなかったっか?焙烙玉は内部構造物の炎上と兵員の殺傷による戦闘力喪失が目的で、側面突き破って沈没させるための兵器じゃないんだから矢倉とかを鉄板張りにはしたかもしれないけど、安宅船の側面を鉄甲にする必要性がないんだよ。それに当時は日本はもちろん世界にも艦隊を壊滅させられる艦砲射撃技術はないと思う。李舜臣の亀甲船もだけど、移乗攻撃を完封して優位な小火器の火力で押したっていうのがイメージだけどな。
私は炎上防止のために船の側面に薄めの鉄板が貼られたと想像します。城の門の金具のように鉄板も黒色だったのではないか?とも。その安宅船を見た兵士たちが「鉄鋼船が来たぁ!」って大騒ぎw なんて、夢想しますw
防火のために船の側面に黒くて薄目の鉄板が貼られてたんじゃないかと、私は思っていますそんな巨大な安宅船を見た兵士たちが驚いて「鉄鋼船が来たぞっっ!」って、大騒ぎw とか夢想して楽しんでますww
この経験を朝鮮での海戦に活かせなかったのかな?
個人的には信長は好きではありませんが(ご先祖様が一向一揆衆だったから)、冷静に敗因を分析し、大胆に改革を実行継続する手腕や財力、こういうところが、矢張信長が不世出の武将たる所以だと感じます。
朝鮮の亀甲船は徹甲戦のエピソードをパチって加飾して自国のエピソードにしたんじゃないかと思えちゃうのがなんとも
顕如かっわいそ
正しくは、安治川の戦いです😔
鉄で覆って大砲を装備した巨大な船を作れって言った信長もすごいが、作った九鬼もすごいな
鉄甲船を地中海に浮かべたかった😊
ほうろく玉、ハンマー投げの要領で打ち上げ花火の玉みたいなのを投げ込むのよね
鉄甲船の船足はゼロに等しいので待ち構えることしかできない。この作戦にはうってつけ。
この戦いはモード•アングレの海上バージョンですから、機動力より防御力と火力が優先されるんです。
実質この海戦のためだけに鉄甲船作らせて、それを可能にするだけの予算を賄える織田家の国力の凄さよ
反織田信長勢力…鉄板で囲った船?沈むではないか!
( ゚∀゚)アハハ
信長…面白き考えよ!そちがやってみい!( •̀ω•́ )イザ!
大きな違いはここだった。信長の近世化と中世化(室町時代)にしがみつく連中と考えが違ったのだ。
秀吉の出世も反信長勢力の中では決して実現しなかったであろう。
経済力なら親父の代で尾張1国で今川領3国を凌駕する日本最高峰の金満一族
それだけ大阪湾はメリットがあったということだな
当時日本最大の貿易港の堺に加えて、人口が集中してた近畿地方をほとんど手中に治めてましたからね。
日本の富を独占してたと言っても過言ではありません。
機動力はほとんど無さそうだから移動できる水上要塞という感じですね。攻めに行くのではなく封鎖目的なら理にかなっています。
大和川の水は東大阪から淀川に流れてのでさらに要塞として強かったんだよな
今の大和川は江戸時代に作られたものだけどね
トップヘビーすぎて嵐で転覆しそう
艦上構造物を盛ってしまうのは日本のお家芸なのだろうか
なお織田水軍は制海権を取れなかった模様
動画わかりやすく解説ありがとうございます。一点この当時の大和川の位置が違います。
今の大和川の流れ(八尾辺り〜堺河口)は江戸時代に付け替えられたものであり、この当時の流れは淀川へ合流してました。
余談ですが、この当時から今の流れになっていたら砂が堆積して大きな船が航行できなくなり、ザビエル来航、鉄炮伝来など国際貿易都市としての堺はなく、信長や秀吉に重要拠点にされる認識はなかったです。
面白いのが毛利側の記述だと
鉄甲船遅すぎて草、攻撃効かないから放置して兵糧届けて帰ったわw
言ってるのよね。確かに600vs6ならある程度すり抜けられる気もするし、
本願寺の降伏も一年半後なのよねぇ。
当時、大和川は北に流れていましたよ。
つまり、淀川の支流の1つ。
江戸時代に洪水対策で付け替えられて、堺に流れるようになりました。
鉄甲舟は技術的に難しい。
出島みたいな砲台場だったのかな?
関の加治衆を総動員をして作った鉄甲船、更に大筒を搭載する❗毛利水軍を撃退する
この時代の大和川は淀川の支流の一つで、徳川幕府の時代に川筋付け替え大工事で現在の川筋になりました。
当時の大和川は柏原市の辺りで北西へ川筋を多数分岐し、上町台地の石山本願寺東の湿地帯を流れ今の京阪電車京橋駅のあたりで淀川に合流してます。
グーグルマップ等の地形図や航空写真を丹念にみると当時の大和川の川筋が推測できますよ。
鉄甲船。その後はどうなりましたか?秀吉の朝鮮出兵には、使われませんでしたよね。無知ですみません。
こんな昔の時代に、戦艦の様な巨大な船があったなんて信じられません!笑
織田信長は本当に戦の天才ですね!
織田家の恐ろしさはやはりその資本力。資金が潤沢にあるから一度や二度負けてもすぐ立て直してくる
それは晩年じゃないか!のし上がる過程が凄い後敗因を、洗い出し鉄甲船を作る発想こそ評価すべき
軍事オタクたちの間でも、「勝つにつれて巨大になっていく織田の常設軍(!)を養うことができた織田方の経済力というか、
資金調達能力こそ評価すべきだ」という声がありますね
当時、唯一の常設軍で戦闘しかしない集団ですから、そりゃ大半が半農半兵の兵で構成された軍に比べて強いわけです
@@けんけん-u8q8w
本願寺包囲してる時でも直轄領は尾張、美濃、伊勢、南近江とかいう良石高地域だからこれだけで200万石ある
鉄鋼船を思い付いても作れなきゃ意味がないから、この経済力が何よりの強みよ
大和川の流れる位置が昔と今じゃあ違うんだよなぁ
うん。確かに
織田軍は勝つには勝ったけど制海権は取れてなくてその後も毛利に兵糧搬入されていたんですよね。
状況がかわったのは中国地方への陸路を織田側が抑え始めた事で毛利水軍の出撃地点が遠くなり大阪まで届かなくなった事が大きかったみたいです。
そうだったのか。その後の鉄鋼船の活躍聞かなかったが、実際はすぐに錆だらけになったとは思ってた。
木津川の戦いで村上水軍が敗北した影響で、播磨に進出する織田の妨害が出来なくなったのが大きい
秀吉も補給には海路を活用してたけど、それを狙うことが出来ないからね
宇喜多の離反が致命的だったっぽいですね
宇喜多直家の裏切り→毛利軍動揺で援軍撤退→荒木村重「うっわマジかよ…有岡捨ててでも尼崎救援しないとヤバい(有岡も事情承知だったからか荒木退去後も粘った)」
@@Y.H-g9g なるほど、海陸を総合して見る必要があるんですね
鉄甲船の船足が遅いとコメントに書かれているけど
船足の速い村上水軍が瀬戸内を出発してからの
鈍足の鉄甲船で志摩を出発して大阪湾まで間に合うのか?
潮と風に任せて走る帆船ですから、あまり重いと動かなくなり、下手すると自沈です。
鉄甲船は原動機を備えずには実現しませんから、実際は安宅船の設計の流用で、動かせる限界まで船体を拡張し、大砲のような重量物を積めるようにして、木造船体に防火用の鉄板を集中方式で貼り付け、ダメコンを図りつつ、航行性能を確保したと考えます。しかし、速度と機動性が犠牲になったことと、2年掛けて6隻しか生産できなかったという生産性の悪さも影響して、実際の戦績も期待どおりとはいえず、戦力の建て直しという面でも不十分であり、以後、二度と使われなかったことから、やはり数を揃えられないものは運用上の支障をきたすというべきでしょう。
4:01 戦国時代に関空がある😮😮
当時の地図だと大雑把な所あるし、地理再現するのは労力がかかるから仕方ないね。
信長より作った九鬼の技術が凄いわ。
その大和川は江戸以降やで
この鉄鋼船も少ししたら錆びて腐ちてしまったとも聞いたけど、どうなんだろ?そうだとしたら毛利側もちまちま補給はできたのかな?
毛利側はこの後も本願寺への補給は続けていたようです
致命的だったのは宇喜多の離反だったようですね
村上水軍が商船に見えました。毛利藩は一体どれくらい手広く商売をしていたのしょうか。
小説、村上海賊の娘のリベンジマッチ
芸人の村上ショージって、村上水軍の子孫って聞いたけど。
真鍋貞友は九鬼水軍でなく
淡輪水軍
戦国自衛隊の海戦バージョンやったら面白そう、木船の時代にイージス艦とか空母あったらどうなるんかな、それで毛利を勝たせて歴史改変
燃料切れで、あっという間に終わりですね。戦国時代だと、軽油もジェット燃料も手に入らないから。
小説版戦国自衛隊でありましたね
哨戒挺の機銃で無双出来てましたね
見たかった海戦🎉
木津川口の戦いの直前に雑賀衆と戦ってボロガチの九鬼水軍
淀川と大和川の河道が今と全然違うことが反映されていないよ
漫画信長のシェフのこのシーンは凄い。
駆け引きも描写も素晴らしい
「おいおい・・・本気かよ・・・」
大阪湾一帯に兵を置いたり木津川河口の左右に砲台を備えたりして、石山本願寺まで辿り着かせない方法もあったんじゃないかなあ。
当時の技術では数km先まで弾を届かせる砲の製造(冶金)技術や火薬、測距法とか弾道学とか限界があると思います。
映画化してほしい。
大和川の位置間違っています
現在の大和川は江戸時代に上町台地を掘削して作った運河であり、
当時の大和川は現在の寝屋川あたりを流れていて、大阪城の北東で
淀川と合流していました
上町(かみまち)台地
最近の研究だと大型船は造られたけど鉄甲船ではなかったって話だけど。
燃えなければいいんですから、ほうろく玉が当たりそうな場所に防火用の薄い鉄板を貼ったんじゃないか?と想像してます
おそらく世界初の鉄の装甲で固めた船を作るとは流石信長。
人類は争いばかりだな
ノッブ、ジャイアン過ぎて引くわー
堺の河口の石山本願寺?
これがあれば世界を制覇出来たな
外海を超えられないでしょ
封鎖戦専用の浮き要塞に近い
日本が世界征服出来たかもしれない最初で最後のタイミングが信長の天下統一前後だったらしい
第一次は九鬼水軍ではないような?
第一次は真鍋さん中心の織田水軍vs村上、毛利水軍の戦いですな。
第二次が九鬼水軍vs村上、毛利水軍。
戦国時代の地理に関して、もう少し勉強した方が良いですね。
大和川が現在の流れになったのは江戸時代中期のことで、それ以前は、
淀川に合流していました。
それから、淀川に関しても、現在とは流れが違います。
現在の淀川は、天保の頃に、人口的に流れを変えたものです。
元々は、現在の大川、大阪城の横を流れている川が、昔の淀川です。
工事で出た残土を積み上げたのが、現在、日本で一番小さい山と言われている天保山ですね。
それから、大阪一帯は、戦国時代は湿地帯で、多くの島がありました。
大阪の地名を見ると、XX島(例えば、福島、柴島、堂島等)という地名がありますが、
それらは、もともと、島だったのです。
江戸時代に、埋め立てられて今のようになっています。
それから、天王寺と石山本願寺は、同じ上町台地にあり、
石山本願寺は北側、天王寺は南側にあります。
陸続きだったので、天王寺砦は絶対に失陥するわけにはいけないということで、
明智光秀が入って防御していたわけです。
戦国時代は、堺と大阪の間に大きな川がなかったのが、堺が大きくなった1つの要因だったようです。
江戸時代に大和川の工事で、大阪と堺の間に移したことにより、大阪のと物流が滞ったこと、
大和川から流れてくる土砂の量が多すぎたために、堺の港が埋まってしまったことが、
堺がさびれる原因となりました。
はいはい すごいすごい くだらねぇ長文ご苦労様
長文解説ご苦労様です。現在と地形が異なるのを認識しないと合戦などの実態も正確に理解できませんよね。野田や福島も当時は今より海側(河口に近い)によっていますよね。「梅田」は「埋めた」が変化したとも言いますし。それ故地震に強いのは上町台地だと聞いたことがあります。京都宇治の槇島城の戦いで有名な槇島も巨椋池の一部?だったと聞きました。江戸城の立地も当初は江戸湾に面していたと本で読みました。
秀吉、家康も鉄の戦艦を作り続けて、世界に打って出れば領土拡大できたのに
錆びる
長期の外洋航行技術が無かったから無理そう
秀吉が作ったけど重さに耐えられず、船体が裂けて沈んだんじゃなかった?
やはりここでも信長必勝のモード•アングレが炸裂したか。
開戦前に水で濡らした船じゃダメかな
なお鉄甲船の記述は奈良の坊主の日記にあるのみ。
内容も船を見たことのない人間が書いたと思われるヘンテコなもの。
これって鉄甲船じゃなかったっていう説が有力になったんじゃなかったっか?焙烙玉は内部構造物の炎上と兵員の殺傷による戦闘力喪失が目的で、側面突き破って沈没させるための兵器じゃないんだから矢倉とかを鉄板張りにはしたかもしれないけど、安宅船の側面を鉄甲にする必要性がないんだよ。それに当時は日本はもちろん世界にも艦隊を壊滅させられる艦砲射撃技術はないと思う。李舜臣の亀甲船もだけど、移乗攻撃を完封して優位な小火器の火力で押したっていうのがイメージだけどな。
私は炎上防止のために船の側面に薄めの鉄板が貼られたと想像します。城の門の金具のように鉄板も黒色だったのではないか?とも。
その安宅船を見た兵士たちが「鉄鋼船が来たぁ!」って大騒ぎw なんて、夢想しますw
防火のために船の側面に黒くて薄目の鉄板が貼られてたんじゃないかと、私は思っています
そんな巨大な安宅船を見た兵士たちが驚いて「鉄鋼船が来たぞっっ!」って、大騒ぎw とか夢想して楽しんでますww
この経験を朝鮮での海戦に活かせなかったのかな?
個人的には信長は好きではありませんが(ご先祖様が一向一揆衆だったから)、冷静に敗因を分析し、大胆に改革を実行継続する手腕や財力、こういうところが、矢張信長が不世出の武将たる所以だと感じます。
朝鮮の亀甲船は徹甲戦のエピソードをパチって加飾して自国のエピソードにしたんじゃないかと思えちゃうのがなんとも
顕如かっわいそ
正しくは、安治川の戦いです😔