Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
19:48 確かに尊氏は政治やるより仲間と酒飲んだり戦場走ってる方が好きそう
18:41 なるほど、異様なまでの源義家アゲは後世の都合だったんすねぇ
歴史はきちんとつながっているということが分かる良質な動画でした。いつも楽しく見せていただいています。
ああ、置き文伝説の巧妙なのは、一度家時を介して更に三代下らせてる所ですね。単に義家七代末だと、斯波氏や吉良氏など足利庶流も対象になってしまう。家時から三代後に繋げる事で尊氏だけが対象になるので。
足利が脆弱だったとしても北条が消えれば足利が最大勢力だったのも事実でそこで棟梁格になったのは自然かと。いちおう足利は鎌倉末期には全国区で所領をもっていて他の源氏とは勢力的に結構な差があったと思う。
鎌倉末期になると佐々木氏始め他の源氏の一族は惣領家の分家への統制が利かなくなっていった一方で足利氏は一門衆が宗家の統制がしっかりしていたので、鎌倉幕府の最有力御家人になっていた訳で。
1:33確か貞時元服?のシーンで、惟康王「わしの名を偏諱せんのか?」みたいな登場でしたねw15:10ここ、改めて大事な認識ですね。そういえば野口実先生の「源氏の血脈」で、義家が源氏の武芸故実の祖となったサブ要因に、北条が平直方子孫を称していたことから、直方(北条の祖)と源頼義の血が混ざった義家を強調したって説もあるようで、尊氏以降に足利が強調する前段としてちょっとした義家アゲみたいな認識は鎌倉時代にもあったのかなと思いました。
そういえば、いつ時点で新田氏が足利一門になったかって話があったかと思いましたが、そこまで触れた動画を希望しちゃうのは贅沢ですかね。一応私も『足利氏と新田氏』の該当箇所は読んで田中先生の説は知っているんですが、確か谷口先生の説は違うんでしたっけ?
現に、足利将軍家の室町時代における扱いって、徳川将軍家やそれこそ源氏三代と違って、大名達とは大きく隔絶していないんだよね。所領の問題もあるけど義満以外は専制を握ることさえなく、北条氏のように外戚の家が強くなることも無かった。
強いて言えば日野家が強くなりましたね。室町幕府は他の幕府と違って公家も積極的に関わってましたから。
尊氏も家康もなぞらえて参考にした源頼朝現代人が思う(評価)より遥かに武士にとって重要で偉大な存在なんだなと改めて痛感します
今川了俊登場の度に義満dis入るの草
他の源氏系一族と差をつけるために朝廷を独占……南北朝時代の足利将軍家の「源氏嫡流」に対する執念深さを感じますな
A利T氏「義光流も弟たちも叩き潰した頼朝はんの優しさ、五臓六腑に染み渡るで」
A利T義「太平記で私を毒殺されたのは頼朝公に倣ったということですか、兄上」
頼朝「斯波と鎌倉を残すようではヌルい」
そうしてみるとのちの時代、大内義興が幕府すっ飛ばして官職もらったのってよほどのことだったんだな
息子の義隆に至っては従二位。将軍より官位が上ですもんね。鎌倉や江戸幕府の時代では考えられない現象です。
自称百済王の末裔
徳川は松平いらい、三河の豪族で藤原姓を系図に採用していたが、家康が征夷大将軍を拝命するために、源氏姓に家系図を書き換えた。このやり方が江戸時代、豪農、大商人が系図を金で買い二本差で歩ける武家のでとなった。幕末、坂本龍馬の先祖、近藤土方も同じ。
tyoeを発見してしまいました。 9:42 あたり、北条時国の捕縛が1184年6月と書かれていますが、家時自害の時期から1284年の誤記かと思われます。明らかな誤記なので動画自体を修正したりする必要はないかと思いますが、どこかでフォローしていただければと思います。それはそうと、頼義より義家をアゲる意外な意味の指摘は勉強になりました。今後も楽しみです。ありがとうございました。
「嘘も百年言い続ければ本当になる」を実践したわけか・・・
河内源氏系図に源義綱が省かれて泣ける。
義綱は六人の息子が全滅しちゃったから仕方ないね.....
鎌倉時代の足利氏は江戸時代の大名なら加賀前田のポジションになっている
なんで外様?例えるなら会津松平でしょ
こうしてみると義満の簒奪計画って実際にはあり得ない話だと改めて感じるな。
祝!いつものOP(注意事項)復活!
頼朝も旗揚げ当時は河内源氏嫡流とするには弱い点が多くて(実力なら新田義重が上、血筋なら木曾義仲は同格か上、武田信義は同格)、源氏嫡流の正当性を得ることや、坂東武者の支持を得るために自分と平将門を重ねるようなことをやったりしてましたね。また、奥州合戦では前九年合戦になぞらえて、終戦を文治五年九月十七日に決めて(前九年合戦は康平五年九月十七日終結)、頼義と重ねようしたと言う見方もありそうです。なんだか尊氏とも尊氏も正当性を得るために頼朝みたいな苦労をしていたように思えて、なんだか同じような気がして面白かったです。
源氏のブランド力を着々と築いていったわけだ
私も太平記は大河の最高傑作だと思います。次は、炎立つ
義家から3代だと頼朝になるから『3代』に意味があるのだと思っておりましたが、そういう意味もあるんですね。
義家のひ孫は、義朝だが。
すんばらしいです☆6つ~♪
尊氏や秀吉や家康、頂点に立つものはなりふり構ってられないですね。
足利→「足利を上げるには源氏の嫡流になるように細工をしなければ!」徳川→「徳川を上げるには藤姓では無理だから源姓に細工しなければ!」
清和源氏嫡流は 大江山鬼退治の源頼光 の家,摂津源氏だよ。頼朝は、お母さんが熱田神宮のちゃんとした家系の娘だったのが他と違って偉ぶって居られた所以だよ。それと北条氏 比企氏 三浦氏 千葉氏の援助のおかげだね。
徳川家康も源氏じゃない先祖は松平氏の間男
関白秀吉とか、力があればなんとでもなるって事で
それ❕
頼朝を河内源氏の棟梁としたのはどう考えても後付け当時は義仲を始め武田や新田など沢山ライバルがいたからね特に範頼や義経等兄弟衆がもっと強い野心持ってたら平家潰せなかったかも
18:28 系図上で、義家-義親-為義-義朝であると思っていました。義親は記されていないのには理由があるのでしょうか?
反逆者になって討伐されたからだろ。
そうそう!平家物語の最初の方でも、コウワのギシン(義親)って、出て来てましたな。
義家の後は4男の義忠が継いで養子として為義につながる感じです
難太平記、共通祖先に注目して競争相手を減らす手立てが本当に巧妙。
範頼、安田、平賀、大内が滅んじゃった残ったのが足利、武田、小笠原、・・・・佐竹
平賀は、武田信玄の初陣の相手として出てくるから、一族やられてはいないぞ。やられたのは時政の娘婿になった奴だけ。
これを見ると徳川はさらに無理矢理感が
元は源氏の血筋ですらないですからね、藤原姓名乗ってた時期もありました。
松平が十八家もある三河じゃ、無理矢理でも家を変えないと仕方なかったんやろーなーって
えー!?家康公は源氏じゃないのですか!?
@@タク-n3z元々は地侍だが、婿養子に入った坊さんが自称新田氏出身なので源氏を名乗ってる
無理も何も100%偽源氏だろw母型に源氏がいるからまぁ…100%偽というわけでも無いか…
後白河法皇からしたらどんな一族でも部下としか見てないから
吉見氏「お、俺らは?!」
石見吉見氏までが足利一門の扱いになってたのはこのせいだったんですね義家の子孫は入れないとだから蒲殿の庶子の子孫もはいってくるという
@@essauouo5251 さん 逆に頼朝の最近親の一族を一門と置くことで、より一層の足利の正統性を強調した意図があったんでしょうね。
足利は源嫡流を名乗るまでかなり画策したと思う。足利は天皇から五七の桐紋を下賜されるのだが此の五七の桐紋を親戚や一族郎党に配りまくった。
新田義貞が鎌倉へ攻める時、始めは集まる武士が少なかったが、尊氏の息子の千寿王(足利義詮)を大将に担いだらドンドン武士が加勢して大群で鎌倉を攻め落とす事が出来た。当時から足利家は武士達から武家の総大将的な清和源氏嫡流的なモノがあった。為義は義家の孫、義親の子です。義家の養子ではある。
素晴らしい解説と洞察です。大変参考になりました。ただ一つ疑問があります。後醍醐天皇様が認められた通り、倒幕の最大の功労者は足利尊氏です。尊氏が旗幟を鮮明にしてまたたく間に倒幕の可能性が大きくなったのは否定出来ないと思います。鎌倉攻めも、足利と母方で一族として繋がっている山名を中心とした新田一族を立ち上がらせたのも、尊氏が決断したからでしょう。ならそこまで影響を及ぼした足利の力の源泉はなんだと思われますか?失笑・嘲笑・侮蔑の対象でしかなかった後醍醐天皇様をあそこまでに押し上げられた力は、ある程度は頼朝の同族という意味合いも大きかったのではないかと思うのですが
三河の陶器にワンチャン三河西部から尾張・美濃東部にかけての地帯は、肥前北西部をも上回る、日本では飛び抜けた粘土埋蔵地帯討北条期には足利氏の主要勢力圏は三河なように見える丹波は高氏の母方である上杉氏の勢力圏でしょう
源氏将軍が途絶えてからの鎌倉将軍も頼朝の同母妹である坊門姫の血縁者であるか、血縁者を妻にしていますよね?やはり、頼朝の血縁との近さが将軍になる決め手になっていったのではないでしょうか?その意味では源氏の嫡流が将軍の要件と言ってもおかしくないように思います。
家系云々とか権力もってれば言ったもん勝ちな部分が多々ある
皇族将軍……自分は「親王将軍」で記憶してましたが、今は名称変わっていたり?
ソレ、北条政子さんの呼び名が、尼御所から、尼将軍に成っちゃった様なもので。
頼朝も尊氏も人間的魅力で天下を取れたのだと思う
カリスマ性で立ち上げた組織は脆いものですね。豊臣政権が良い例。かたや人間的魅力に欠ける徳川政権が先例を反面教師にして堅実な体制を固めた結果、長年の安定政権となりました。
足利によってブランディングされた「源氏嫡流」を利用して、徳川家康は源氏長者になったということか!
足利が源氏の流れを汲む一族だったのは間違いない
そりゃそうだけど源氏だけでも二十一流もあり、その中のひとつ清和源氏の一族だけでも佐竹、新田、武田、石川、足利、多田などたくさんあり、足利の貴種性はさほど高くない。そのままでは「武家の棟梁」「源氏の嫡流」にはほど遠い存在だった
@@umakara55 足利は血筋だけじゃなく源氏内で最大勢力だったから棟梁になれたってことだね
確かに源氏だけど、北条の血が入りまくりでほぼ北条なんだよな。
源惟康 が正しい漢字では?
9:45 1184年ではなく、1284年の間違いでは?
この頃の北条と足利の蜜月を考えると、戦国時代の後北条氏が関東公方足利家を滅ぼすのもなんか因縁めいているな。
このころはほとんど自称で行ったもん勝ちだった
源氏足利なんて、平安時代後期は超弱小領主で、足利荘の主は名門藤原氏の足利氏で、志田義弘の乱で藤原足利が志田義弘側についてしまったために、小山氏に滅ぼされてしまい、偶然足利荘を手に入れることができただけで、小山結城一族には頭の上がらない成り上がりに過ぎなかった。頼朝の親戚という血筋を持って政治的立場を維持するしかなかったのは当然で、弱小であったが故に周りに警戒されず、徐々に実力をつけることができたのだと思う。それはハプスブルグ家が当初は辺境伯にすぎず、諸侯に警戒されず、強大諸侯同士が牽制する中、この弱小田舎伯をドイツ国王にしておけば安心ということで選挙で国王の地位について以降、実力をつけて超名門、強大諸侯になりあがったのと似ている。
そもそも源氏の嫡流が存在するのか?頼朝も河内源氏の嫡流か?源氏一門の最有力者だったから嫡流を名乗ってた
でも、足利以外は皆滅亡なのか?・・・源も、新田も、後嗣は居無いのかな?だから、3番手で足利が、源氏の頭首嫡流なの?…でも、小笠原も、佐竹も、島津も、源氏は沢山いると思うけどね?ま、何が嫡流なのかは知らないけれどね?・・・でも、関東は源氏は多いだろう?
梅松論だけに梅松(賠償)請求すれば。
足利が源氏の嫡流とするなら鎌倉幕府の将軍に置かれなかったのが不思議だよね
それは足利氏が早い段階で頼朝に服属して御家人になったのが大きいと思います。御家人たちが頭を下げるには摂関家や皇族といった「一段高い存在」が必要だったのでしょう。
名門武家は源氏・平氏どちらかの系統に属する。
藤原秀郷の子孫を嘗めてはいけない。
臣籍降下させて、将軍用に源氏にするとは上手いこと考えたねー。
義家は56代清和天皇の清和河内源氏で武家源氏惟康親王は88代後嵯峨天皇の系の後嵯峨源氏当時の幕府得宗家はもとより東国御家人達も惟康親王が真の源氏嫡流なんて思っていなかった。
栃木に集まっているのは足利氏新田が源氏の流れを噛むのは認められていたと思うが嫡流は源性を持つ家だと思う清和源氏と限定すれば別だが。源頼経もいたと思うが北条氏に祭り上げられだ将軍として
足利は源氏のバッタモンって酷いな
いち
に
上総介にちゃんと直した後なのね〜
スペースの都合で義親を省いただけでしょ😅
そもそも「源氏嫡流」ってどういう意味ですか?源氏は様々な天皇から臣籍降下し、その出自によって様々な流れがありますよね。村上源氏とか宇多源氏とか。元を辿って共通している事は天皇家の出という事くらいではないですか?それら全ての源氏の頂きと言えば「源氏長者」ではないですか?「清和源氏嫡流」や「河内源氏嫡流」あるいは「源氏長者」との違いを説明して頂きたいです。
ちょっと!最終投稿日からもう四日も経ったよ?!次まだあ?
世間一般では足利一門と思われていた新田氏を嫡流としてあげあげにして、足利ブランドの箔付けにしようと躍起だったってトコが意味不明です。足利一門である事が事実だったとしたら、(それも世間一般に周知されてたとしたら)そんなでっち上げの話で足利の格が上がるとは思えない。新田は真の嫡流ではあったが鎌倉時代を通して家名が下がり続けて義貞の時代には見る影もなくなってる!という共通認識が武家の間にあればこそ、それを思い起こさせる行為に意味があるのであり、その為にこそ太平記は存在してるのだと思う。足利一門であると世間が新田を認識してたら、そんなヨタ話を誰も信じないだろうし、真面目な話、全く箔付けにならんと思う。箔付けに新田を使ったと主張するならば、やはり新田は足利一門ではないという証拠になると思うけど。
太平記以外に新田が足利と同等だと謳う史料があれば、みんな納得すると思いますよ。
@@tailsub3068 略系図は?
@@多羅尾伴内-g1c 系図って史料として判断できるか不明ですけど、もしかして新田が長兄ってだけで判断してますか?念のため聞きますけど、『嫡子』と『庶長子』って言葉はご存知ですか?あと、平安末期ってまだ武士の立場自体全然確立されてなくて、天皇や藤原氏いいとこ伊勢平氏の名の下土地支配をしてるので、各武士に嫡流って概念自体あまりない(あっても意味がない)んですけど、そこは大丈夫ですか?例 摂津源氏、大和源氏、河内源氏どちらにしても、系図と軍記物だけだと史料的根拠とは言えないですよ。
@@tailsub3068 それ言い出すと武田や佐竹などの他の源氏も怪しくなってくるよ?それこそ確固たる証拠もないのに定説を覆そうとしてるのは、いささか無理があるのでは?
@@多羅尾伴内-g1c 確固たる論拠がないのは新田が嫡流という話こそ当てはまってるじゃないですか?系図と軍記物しかないじゃないですか?そもそも系図に新田が嫡子って記載があったんですか?追記武田や佐竹が怪しくなるって言ってますけど、無論系図(具体的に何の史料の系図を指してるか不明ですが)だけで、研究者は判断してませんよ。他の一次史料と照らし合わせて系図も精査してますよ。だから系図上親子と認識されていたものが、実は兄弟だったって覆ってる例もあって、まともな研究者は系図単品で実証するような精度も何もない研究なんてしてませんよ。例 源義親と源為義
この動画 で しか 解説されない 棟梁 ? に なりたかった足利氏。 家康は とのように ? 元の発音が 正確である 必要 。
つまり足利氏の源氏の嫡流を揺るがしたのはモンゴル帝国…そういえばチンギスハンって源義経がモンゴルに渡って名前を変えた説あるし、ある意味フビライハンは源不備来として源氏の嫡流にすることもできるよね…あっ!(察し)
19:48 確かに尊氏は政治やるより仲間と酒飲んだり戦場走ってる方が好きそう
18:41 なるほど、異様なまでの源義家アゲは後世の都合だったんすねぇ
歴史はきちんとつながっているということが分かる良質な動画でした。
いつも楽しく見せていただいています。
ああ、置き文伝説の巧妙なのは、一度家時を介して更に三代下らせてる所ですね。単に義家七代末だと、斯波氏や吉良氏など足利庶流も対象になってしまう。家時から三代後に繋げる事で尊氏だけが対象になるので。
足利が脆弱だったとしても北条が消えれば足利が最大勢力だったのも事実でそこで棟梁格になったのは自然かと。いちおう足利は鎌倉末期には全国区で所領をもっていて他の源氏とは勢力的に結構な差があったと思う。
鎌倉末期になると佐々木氏始め他の源氏の一族は惣領家の分家への統制が利かなくなっていった一方で
足利氏は一門衆が宗家の統制がしっかりしていたので、鎌倉幕府の最有力御家人になっていた訳で。
1:33
確か貞時元服?のシーンで、
惟康王「わしの名を偏諱せんのか?」
みたいな登場でしたねw
15:10
ここ、改めて大事な認識ですね。
そういえば野口実先生の「源氏の血脈」で、
義家が源氏の武芸故実の祖となったサブ要因に、北条が平直方子孫を称していたことから、
直方(北条の祖)と源頼義の血が混ざった義家を強調したって説もあるようで、
尊氏以降に足利が強調する前段としてちょっとした義家アゲみたいな認識は鎌倉時代にもあったのかなと思いました。
そういえば、いつ時点で新田氏が足利一門になったかって話があったかと思いましたが、
そこまで触れた動画を希望しちゃうのは贅沢ですかね。
一応私も『足利氏と新田氏』の該当箇所は読んで田中先生の説は知っているんですが、
確か谷口先生の説は違うんでしたっけ?
現に、足利将軍家の室町時代における扱いって、徳川将軍家やそれこそ源氏三代と違って、大名達とは大きく隔絶していないんだよね。所領の問題もあるけど義満以外は専制を握ることさえなく、北条氏のように外戚の家が強くなることも無かった。
強いて言えば日野家が強くなりましたね。室町幕府は他の幕府と違って公家も積極的に関わってましたから。
尊氏も家康もなぞらえて参考にした源頼朝
現代人が思う(評価)より遥かに武士にとって重要で偉大な存在なんだなと改めて痛感します
今川了俊登場の度に義満dis入るの草
他の源氏系一族と差をつけるために朝廷を独占……南北朝時代の足利将軍家の「源氏嫡流」に対する執念深さを感じますな
A利T氏「義光流も弟たちも叩き潰した頼朝はんの優しさ、五臓六腑に染み渡るで」
A利T義「太平記で私を毒殺されたのは頼朝公に倣ったということですか、兄上」
頼朝「斯波と鎌倉を残すようではヌルい」
そうしてみるとのちの時代、大内義興が幕府すっ飛ばして官職もらったのってよほどのことだったんだな
息子の義隆に至っては従二位。将軍より官位が上ですもんね。
鎌倉や江戸幕府の時代では考えられない現象です。
自称百済王の末裔
徳川は松平いらい、三河の豪族で藤原姓を系図に採用していたが、家康が征夷大将軍を拝命するために、源氏姓に家系図を書き換えた。このやり方が江戸時代、豪農、大商人が系図を金で買い二本差で歩ける武家のでとなった。幕末、坂本龍馬の先祖、近藤土方も同じ。
tyoeを発見してしまいました。 9:42 あたり、北条時国の捕縛が1184年6月と書かれていますが、家時自害の時期から1284年の誤記かと思われます。明らかな誤記なので動画自体を修正したりする必要はないかと思いますが、どこかでフォローしていただければと思います。それはそうと、頼義より義家をアゲる意外な意味の指摘は勉強になりました。今後も楽しみです。ありがとうございました。
「嘘も百年言い続ければ本当になる」を実践したわけか・・・
河内源氏系図に源義綱が省かれて泣ける。
義綱は六人の息子が全滅しちゃったから仕方ないね.....
鎌倉時代の足利氏は江戸時代の大名なら加賀前田の
ポジションになっている
なんで外様?
例えるなら会津松平でしょ
こうしてみると義満の簒奪計画って実際にはあり得ない話だと改めて感じるな。
祝!いつものOP(注意事項)復活!
頼朝も旗揚げ当時は河内源氏嫡流とするには弱い点が多くて(実力なら新田義重が上、血筋なら木曾義仲は同格か上、武田信義は同格)、源氏嫡流の正当性を得ることや、坂東武者の支持を得るために自分と平将門を重ねるようなことをやったりしてましたね。
また、奥州合戦では前九年合戦になぞらえて、終戦を文治五年九月十七日に決めて(前九年合戦は康平五年九月十七日終結)、頼義と重ねようしたと言う見方もありそうです。
なんだか尊氏とも尊氏も正当性を得るために頼朝みたいな苦労をしていたように思えて、なんだか同じような気がして面白かったです。
源氏のブランド力を着々と築いていったわけだ
私も太平記は大河の最高傑作だと思います。次は、炎立つ
義家から3代だと頼朝になるから『3代』に意味があるのだと思っておりましたが、そういう意味もあるんですね。
義家のひ孫は、義朝だが。
すんばらしいです☆6つ~♪
尊氏や秀吉や家康、頂点に立つものはなりふり構ってられないですね。
足利→「足利を上げるには源氏の嫡流になるように細工をしなければ!」
徳川→「徳川を上げるには藤姓では無理だから源姓に細工しなければ!」
清和源氏嫡流は 大江山鬼退治の源頼光 の家,摂津源氏だよ。
頼朝は、お母さんが熱田神宮のちゃんとした家系の娘だったのが他と違って
偉ぶって居られた所以だよ。それと北条氏 比企氏 三浦氏 千葉氏の援助のおかげだね。
徳川家康も源氏じゃない
先祖は松平氏の間男
関白秀吉とか、力があればなんとでもなるって事で
それ❕
頼朝を河内源氏の棟梁としたのはどう考えても後付け
当時は義仲を始め武田や新田など沢山ライバルがいたからね
特に範頼や義経等兄弟衆がもっと強い野心持ってたら平家潰せなかったかも
18:28 系図上で、義家-義親-為義-義朝であると思っていました。義親は記されていないのには理由があるのでしょうか?
反逆者になって討伐されたからだろ。
そうそう!
平家物語の最初の方でも、
コウワのギシン(義親)
って、出て来てましたな。
義家の後は4男の義忠が継いで養子として為義につながる感じです
難太平記、共通祖先に注目して競争相手を減らす手立てが本当に巧妙。
範頼、安田、平賀、大内が滅んじゃった
残ったのが足利、武田、小笠原、・・・・佐竹
平賀は、武田信玄の初陣の相手として出てくるから、一族やられてはいないぞ。やられたのは時政の娘婿になった奴だけ。
これを見ると徳川はさらに無理矢理感が
元は源氏の血筋ですらないですからね、藤原姓名乗ってた時期もありました。
松平が十八家もある三河じゃ、無理矢理でも家を変えないと仕方なかったんやろーなーって
えー!?家康公は源氏じゃないのですか!?
@@タク-n3z元々は地侍だが、婿養子に入った坊さんが自称新田氏出身なので源氏を名乗ってる
無理も何も100%偽源氏だろw
母型に源氏がいるからまぁ…100%偽というわけでも無いか…
後白河法皇からしたらどんな一族でも
部下としか見てないから
吉見氏「お、俺らは?!」
石見吉見氏までが足利一門の扱いになってたのはこのせいだったんですね
義家の子孫は入れないとだから蒲殿の庶子の子孫もはいってくるという
@@essauouo5251 さん 逆に頼朝の最近親の一族を一門と置くことで、より一層の足利の正統性を強調した意図があったんでしょうね。
足利は源嫡流を名乗るまでかなり画策したと思う。
足利は天皇から五七の桐紋を下賜されるのだが
此の五七の桐紋を親戚や一族郎党に配りまくった。
新田義貞が鎌倉へ攻める時、始めは集まる武士が少なかったが、尊氏の息子の千寿王(足利義詮)を大将に担いだらドンドン武士が加勢して大群で鎌倉を攻め落とす事が出来た。
当時から足利家は武士達から武家の総大将的な清和源氏嫡流的なモノがあった。
為義は義家の孫、義親の子です。
義家の養子ではある。
素晴らしい解説と洞察です。大変参考になりました。
ただ一つ疑問があります。後醍醐天皇様が認められた通り、倒幕の最大の功労者は足利尊氏です。尊氏が旗幟を鮮明にしてまたたく間に倒幕の可能性が大きくなったのは否定出来ないと思います。
鎌倉攻めも、足利と母方で一族として繋がっている山名を中心とした新田一族を立ち上がらせたのも、尊氏が決断したからでしょう。
ならそこまで影響を及ぼした足利の力の源泉はなんだと思われますか?
失笑・嘲笑・侮蔑の対象でしかなかった後醍醐天皇様をあそこまでに押し上げられた力は、ある程度は頼朝の同族という意味合いも大きかったのではないかと思うのですが
三河の陶器にワンチャン
三河西部から尾張・美濃東部にかけての地帯は、肥前北西部をも上回る、日本では飛び抜けた粘土埋蔵地帯
討北条期には足利氏の主要勢力圏は三河なように見える
丹波は高氏の母方である上杉氏の勢力圏でしょう
源氏将軍が途絶えてからの鎌倉将軍も頼朝の同母妹である坊門姫の血縁者であるか、血縁者を妻にしていますよね?やはり、頼朝の血縁との近さが将軍になる決め手になっていったのではないでしょうか?その意味では源氏の嫡流が将軍の要件と言ってもおかしくないように思います。
家系云々とか権力もってれば言ったもん勝ちな部分が多々ある
皇族将軍……自分は「親王将軍」で記憶してましたが、今は名称変わっていたり?
ソレ、北条政子さんの呼び名が、
尼御所から、尼将軍に成っちゃった様なもので。
頼朝も尊氏も人間的魅力で天下を取れたのだと思う
カリスマ性で立ち上げた組織は脆いものですね。豊臣政権が良い例。かたや人間的魅力に欠ける徳川政権が先例を反面教師にして堅実な体制を固めた結果、長年の安定政権となりました。
足利によってブランディングされた「源氏嫡流」を利用して、徳川家康は源氏長者になったということか!
足利が源氏の流れを汲む一族だったのは間違いない
そりゃそうだけど源氏だけでも二十一流もあり、その中のひとつ清和源氏の一族だけでも佐竹、新田、武田、石川、足利、多田などたくさんあり、足利の貴種性はさほど高くない。そのままでは「武家の棟梁」「源氏の嫡流」にはほど遠い存在だった
@@umakara55 足利は血筋だけじゃなく源氏内で最大勢力だったから棟梁になれたってことだね
確かに源氏だけど、北条の血が入りまくりでほぼ北条なんだよな。
源惟康 が正しい漢字では?
9:45 1184年ではなく、1284年の間違いでは?
この頃の北条と足利の蜜月を考えると、戦国時代の後北条氏が関東公方足利家を滅ぼすのもなんか因縁めいているな。
このころはほとんど自称で行ったもん勝ちだった
源氏足利なんて、平安時代後期は超弱小領主で、足利荘の主は名門藤原氏の足利氏で、志田義弘の乱で藤原足利が志田義弘側についてしまったために、小山氏に滅ぼされてしまい、偶然足利荘を手に入れることができただけで、小山結城一族には頭の上がらない成り上がりに過ぎなかった。頼朝の親戚という血筋を持って政治的立場を維持するしかなかったのは当然で、弱小であったが故に周りに警戒されず、徐々に実力をつけることができたのだと思う。それはハプスブルグ家が当初は辺境伯にすぎず、諸侯に警戒されず、強大諸侯同士が牽制する中、この弱小田舎伯をドイツ国王にしておけば安心ということで選挙で国王の地位について以降、実力をつけて超名門、強大諸侯になりあがったのと似ている。
そもそも源氏の嫡流が存在するのか?
頼朝も河内源氏の嫡流か?
源氏一門の最有力者だったから嫡流を名乗ってた
でも、足利以外は皆滅亡なのか?・・・源も、新田も、後嗣は居無いのかな?
だから、3番手で足利が、源氏の頭首嫡流なの?…でも、小笠原も、佐竹も、島津も、源氏は沢山いると思うけどね?ま、何が嫡流なのかは知らないけれどね?・・・でも、関東は源氏は多いだろう?
梅松論だけに梅松(賠償)請求すれば。
足利が源氏の嫡流とするなら鎌倉幕府の将軍に置かれなかったのが不思議だよね
それは足利氏が早い段階で頼朝に服属して御家人になったのが大きいと思います。
御家人たちが頭を下げるには摂関家や皇族といった「一段高い存在」が必要だったのでしょう。
名門武家は源氏・平氏どちらかの系統に属する。
藤原秀郷の子孫を嘗めてはいけない。
臣籍降下させて、将軍用に源氏にするとは上手いこと考えたねー。
義家は56代清和天皇の清和河内源氏で武家源氏
惟康親王は88代後嵯峨天皇の系の後嵯峨源氏
当時の幕府得宗家はもとより東国御家人達も
惟康親王が真の源氏嫡流なんて思っていなかった。
栃木に集まっているのは足利氏新田が源氏の流れを噛むのは認められていたと思うが嫡流は源性を持つ家だと思う清和源氏と限定すれば別だが。源頼経もいたと思うが北条氏に祭り上げられだ将軍として
足利は源氏のバッタモンって
酷いな
いち
に
上総介にちゃんと直した後なのね〜
スペースの都合で義親を省いただけでしょ😅
そもそも「源氏嫡流」ってどういう意味ですか?源氏は様々な天皇から臣籍降下し、その出自によって様々な流れがありますよね。村上源氏とか宇多源氏とか。元を辿って共通している事は天皇家の出という事くらいではないですか?それら全ての源氏の頂きと言えば「源氏長者」ではないですか?「清和源氏嫡流」や「河内源氏嫡流」あるいは「源氏長者」との違いを説明して頂きたいです。
ちょっと!
最終投稿日からもう四日も経ったよ?!
次まだあ?
世間一般では足利一門と思われていた新田氏を嫡流としてあげあげにして、足利ブランドの箔付けにしようと躍起だったってトコが意味不明です。
足利一門である事が事実だったとしたら、(それも世間一般に周知されてたとしたら)そんなでっち上げの話で足利の格が上がるとは思えない。
新田は真の嫡流ではあったが鎌倉時代を通して家名が下がり続けて義貞の時代には見る影もなくなってる!という共通認識が武家の間にあればこそ、それを思い起こさせる行為に意味があるのであり、その為にこそ太平記は存在してるのだと思う。
足利一門であると世間が新田を認識してたら、そんなヨタ話を誰も信じないだろうし、真面目な話、全く箔付けにならんと思う。
箔付けに新田を使ったと主張するならば、やはり新田は足利一門ではないという証拠になると思うけど。
太平記以外に新田が足利と同等だと謳う史料があれば、みんな納得すると思いますよ。
@@tailsub3068 略系図は?
@@多羅尾伴内-g1c
系図って史料として判断できるか不明ですけど、
もしかして新田が長兄ってだけで判断してますか?
念のため聞きますけど、『嫡子』と『庶長子』って言葉はご存知ですか?
あと、平安末期ってまだ武士の立場自体全然確立されてなくて、天皇や藤原氏いいとこ伊勢平氏の名の下土地支配をしてるので、各武士に嫡流って概念自体あまりない(あっても意味がない)んですけど、そこは大丈夫ですか?
例 摂津源氏、大和源氏、河内源氏
どちらにしても、系図と軍記物だけだと史料的根拠とは言えないですよ。
@@tailsub3068
それ言い出すと武田や佐竹などの他の源氏も怪しくなってくるよ?
それこそ確固たる証拠もないのに定説を覆そうとしてるのは、いささか無理があるのでは?
@@多羅尾伴内-g1c
確固たる論拠がないのは新田が嫡流という話こそ当てはまってるじゃないですか?
系図と軍記物しかないじゃないですか?
そもそも系図に新田が嫡子って記載があったんですか?
追記
武田や佐竹が怪しくなるって言ってますけど、無論系図(具体的に何の史料の系図を指してるか不明ですが)だけで、研究者は判断してませんよ。
他の一次史料と照らし合わせて系図も精査してますよ。
だから系図上親子と認識されていたものが、実は兄弟だったって覆ってる例もあって、まともな研究者は系図単品で実証するような精度も何もない研究なんてしてませんよ。
例 源義親と源為義
この動画 で しか 解説されない 棟梁 ? に なりたかった
足利氏。 家康は とのように ? 元の発音が 正確である 必要 。
つまり足利氏の源氏の嫡流を揺るがしたのはモンゴル帝国…
そういえばチンギスハンって源義経がモンゴルに渡って名前を変えた説あるし、ある意味フビライハンは源不備来として源氏の嫡流にすることもできるよね…
あっ!(察し)