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老人介護施設で働いてますが…戦争の記憶を話してくれる方は中々貴重になってきました…激動の時代を生きてきたのですよね…
私も定年まで働いていました。事務職ですがヒマがあると一緒に歌を歌ったり講談やったりしていました。戦後掃海艇で機雷処理した話が凄かった。朝鮮戦争にも行って掃海して「戦死」者も出てたらしいですが、あくまで労災的な処理だったそうで。
同じく看護師で病棟に戦争の話できる人は今1人です。戦争の話出来る方ほんとに少なくなりました。90半ば以上で男性さらに受け答えがしっかりしてる方となると💦
@@伊藤雲黒斎 ああかかかあ
特攻隊を扇動する役目の人もいたと、自分も利用者様に教えて貰った。大勢の若者を死なせた事に、精神が病んだらしいです。
晩年朦朧とした意識の中で部下が戦死した時の光景が繰り返し思い起こされたのか「○○上等兵!伏せろ!伏せろ!」と繰り返し言っていた自分が図書館で借りてきた『ビルマの竪琴』熱心に観てたな
なんとも言えん切ない気持ちになった
仙台市にビルマの竪琴(複製)があるよ。
自分が物心つかない頃、誰も教えて無いのに英語が話せたらしく、大人からは天才扱いだった。祖父が亡くなった時、葬式に知らないおじいさんが尋ねてきて、戦後間もなくの頃にアメリカ兵とのいざこざを、祖父に英語で収めてもらい助かったと、おじいさんが泣きながら話していたそう。祖父が英語が話せた事を母も祖母も知らなかったそうで、みんな仰天したそうです。先日知り合いにその話しをしたら、その方の知り合いも同じように英語ができる事を隠していたそうで、理由は中村学園と言うスパイ養成学校にいたからだそうです。その方と祖父の出身地も同じで、もしかしたら祖父もスパイ養成学校出身かもしれないそうです。でも何より自分が驚いたのは死ぬまで家族に隠していた事を孫の自分にだけ教えていたと言う事自分が英語を話せたのは天才だからでは無く、祖父がこっそり英語を教えてくれてたからだと言う事自分の祖父の印象は、凄く怖いって事と物静かな人って感じだけど、ちゃんと愛されてたんだと実感しました。
介護施設で働いてますけど、飛行機の訓練中に墜落して頭カチ割ったけど生き延びたわガハハ!!ってお風呂の度に話してくれたお爺さんがいました。明るく素敵なお爺さんだったな。自分の祖父は国鉄社員だったので徴兵は免れたそうです。
国鉄ってある意味ロジを支える軍属になるから兵役免除だったのかな?
父方の祖父は満州で通信兵だった戦況がモールス信号でバンバン入ってくるから表沙汰じゃ言わんけど自分も同僚も終戦の1年前から日本が負ける事は悟ってたっぽいちなみにそのモールス信号の技術は叔父にも継承されて食卓でお互い指先でトントンしながら祖母にバレないように内緒話をしてたらしい
この話しはずっと語り継いで欲しい。大和魂って今の日本にはない言葉だけど凄く好き。
わかる
カッコイイよな
@@忘れ物常習犯 カッコいいとかそういうもんじゃない。日本人として受け止めてほしい。
祖母の兄弟が沖縄に徴兵されてたけどある日家族で畑から家に戻る途中大きくて明るい火の玉がぐわ〜って飛んできて屋根の上まで来て消えたのを家族全員見てて、兄弟が戦4して帰ってきたんだって全員が理解したらしい後から知ったけどやっぱり命日がその日だったんだよね、魂だけでも帰ってきたんだって悲しそうに言ってました
母方の祖父は国鉄職員で、軍属としてミャンマー(ビルマ)で鉄道関係の仕事してたらしい。軍属は刀持っても良かったらしく、帯刀でラフな格好してたら士官に見えて、兵卒が間違えて敬礼するので、しれっと答礼してたとかww。引き上げ時は大変で、もう少しで日本、ってところで病死した人もいたとか。
祖父とか曽祖父が従軍経験者なら軍籍簿を厚労省に請求してみると面白いですよ。公的な記録を目の当たりにすると当時の空気感が伝わってくるようで感慨深い。戦時中たしかにそこに自分の先祖がいたのだと。というか請求時に必要な戸籍とった時点ですでに十分面白いんだけど。
軍歴証明書のことしか知らなかったので、参考になりました!
祖母の姉の旦那は近衛兵だったと聞いた事がある天皇陛下の近衛兵になれた事が人生で1番の名誉だと
じーちゃんは火傷で出兵免れた言うてた。出兵した人、みんな死んだ言うてた。彼女の祖母の葬式で、東條英機に抱っこされてる写真があってワロタ。
マジでエリートで草
東條英機は子供にはものすごく優しい人だったみたいですね
うちの曽祖父の教え子だよ。東條英機。曽祖父は陸軍の学校の教官。東條に説得された長女婿が皇道派に変わったとたんに二・二六事件発生。祖父?ミャンマーでマラリアに罹って帰ってきた。どちらも戦争から帰ってきたら妻が病死してて、1人は死にたくて1週間飲食を絶ち、1人は原因の大気汚染に取り組むのに終戦後1年でドイツに渡って粉体の専門家に。
東條英機に抱っこされてるというパワーワード
父方の祖父→戦地へ行く前の訓練中馬に後ろから肩付近を噛まれ入院して戦地へ行けず。母方の祖父→親戚一同蜂蜜を作って兵士の栄養源としてたので兵士として呼ばれなかったが終戦間際に赤紙届く。特攻として決まっていた日の2日前に終戦
ワイの爺ちゃんはチハ戦車で戦争初期から色んな戦地で戦ったらしい自分が小さい頃から自分がヒーローのように話してくれたとても尊敬していたし友達によく爺ちゃんの武勇伝を話しまくる(今も)位好きだった自分が小4の頃に亡くなった
日本の戦車は戦争後半はかなり苦戦したらしいですね
チハで!すげぇな!
8:12字幕では「婆さま」なのに音声では「ばばあさま」になってるの草
うちの祖母は小学生だったらしく、飛行機が来たら竹藪に飛び込んで小さくなってたとか聞いたことある「事あるごとに庭に掘った防空壕に逃げ込んでたけど、今考えたらあんな浅さじゃ爆弾一発でチぬわな〜」って笑ってた
焼夷弾対策として使えるって言っても実際に空襲を受けたら窒息死するだろうね
みんなのじいちゃんばあちゃんが凄すぎて鳥肌たった
祖母いわく手先が器用だったから上官の身の回りの世話(服の仕立てその他)をして可愛がられていたと、戦後他がガリガリで帰って来たのに1人ブクブク太って帰って来たとよく言ってた。
もう亡くなっちゃったけど、おじいちゃん耳が遠かったな。加齢のせいじゃなくて戦争で機関銃か何かをずーっと撃ってたら耳がおかしくなっちゃったらしい。物心付いた頃からおじいちゃんって耳が悪かったから、あんまり疑問に思わなかったなぁ…。
母親の父がどっか東南アジアで死んだって聞いた
竹槍で米兵倒したって言ってるけど年齢的に子供のはずなんだよな…
昔読んだ戦争の漫画に戦時中の男子生徒は将来大人になって兵隊になった時のために子供のうちから米兵を倒す訓練してた描写があったからそれだと思う町の大人達は空き地に集まって竹槍訓練してたそうな
天皇陛下の親衛隊てことは近衛師団ですね。凄い役職ですよ
家柄良さそうだよね
自分の曾祖父さんは近衛師団でしたが日本軍も訓練で成績が良いと休暇を貰うことができたと言ってましたちなみに准尉だったそうです
私の親戚に二人ほど元近衛兵の人がいたから、よく話を聞きました
うちもそうだったから戦争には行かなかったって言ってた
かなりの精鋭だったんだったけ?
うちの曽祖父は雷電?っていう戦闘機でB29を迎撃して、戻って来なかったそう…曾祖母がぼける前に教えてくれた…ありがとう
雷電の損失数は高かったそうですからね...。ご冥福をお祈りします
雷電に…凄いな… ご冥福を祈ります
爺さんは体弱くて徴兵されなかったらしい。戦中のことは話してくれなかったけど戦後はヤのつく職業人に花札売って儲けたって言ってた。その花札作ってたのは今は世界で有名な某社のやつらしいです。
@@diavoli_neri話の流れ的に任侠堂か!
じい様は出征の日が終戦の日で姫路の駐屯地に着くとすぐに戦争が終わったそうな
おぉ‼️それでは俺の親父側の叔父さんが第二攻撃隊で特攻に出る寸前で「終戦」と一緒だな❗️仲間は第一攻撃隊で飛んでいってしまった(ーдー)
同じ姫路だが・・母方の祖父は太平洋戦争が始まってすぐに戦死したと聞いてるわ祖母は10年ほど前に92で亡くなったそんな祖母・・小学校の教師やってて戦後に地域か地区の遺族の代表?で皇居に呼ばれて饅頭貰ってきたって話もある
0:59ガ島から帰れるとはかなりの幸運の持ち主だったんだな…
インパールやスターリングラードと共に語られるエグイ戦場って話はよく聞くな
@@clash4070 戦いよりも食料が配給されなかったから餓島なんて呼ばれ方もあった
ガ島で戦ってたとしか言ってないから、もしかしたら帰ってこれなかった可能性もある…
昭和18年のガダルカナル島の戦いでは撤退戦に成功している。さらに戦局が悪化すると、もはや撤退する戦力が無いので玉砕を強要することに・・・
父方の曽祖父が戦争行ってて隊長的な感じの少し地位の高い兵士だったらしい戦闘中に仲間が次々死んで自身も首を撃たれて死にかけたけど奇跡的に生還して家族や親戚が驚いたとのこと
じいさん、赤紙で招集。しかし戦地に向かう途中終戦になり、そのままとんぼ返り。農家だったから食料に困らず、空襲は近くに堕ちた事はなく、戦争らしい体験あまりしてないわ!すまん!と笑いながら話してたなぁ
それはいいことだ!
じいちゃんがそもそも戦後生まれやわ。笑
同じです。団塊の世代あたりでしょうかね?追記→死んでから分かったんだけど、終戦時4歳だったらしい。
うちも曾祖父母が戦争経験者だわひいじいちゃんは亡くなってるけどひいばあちゃんは今も元気
爺様は、旅行会社の社長やっとった今もあるらしい1回爺さんの連れで行ったことある
曾祖父ちゃんが兵隊さんかな〜白黒の写真見たとき指が2本くらいなくなってた
俺も同じ世代、ひいじいちゃんに聞いてみると話が出てくるやろうな。
良スレ保存版にしてほしい
旧帝大卒だったので暗号解読の部署に行ったそうです。それでオカンが「ある程度の大学を出とけ」と強く言う人間になったのかな。でも爺ちゃんは戦後はケーキ屋さんになっちゃったという・・・
ケーキ屋の方が素敵よ。
母方の爺が帝大(九州)出身で戦前に米留学してました。
ねぇー、この話大切に覚えていたい…どんな話しも、宝物
うちの爺さんは満州行ったり、金沢の方に行ったりして車(トラック?)の運転手をメインにやってたらしい。土砂とか運ぶ時も他の兵隊が汗だくで荷台に積んでる間も運転手は運転席で座ってられて良かったとか、金沢では軍の食糧からサツマイモ1本とか持ってって映画館の女の子に渡して(顔出すと「兵隊さん、持って来てくれた?」って訊かれたらしい)何度もタダで映画を観たとか。あと献血すると美味しい物(多分卵)が食べられて半日休めたから何度もやったと笑ってました。鉄砲玉飛び交うような所には行ってない(爺さんの上のお兄さんは2人戦地で撃たれて亡くなってる)けど、だからこそ当時の色んな面白い話を聞かせてもらった。満州ではマラリアになったけど薬無しで生き延びるくらい頑丈で、煙草はやらなかったけどお酒が大好きな祖父は2年前に亡くなりました。生きてれば98歳。
じいちゃん真珠湾攻撃で どこかの爆撃部隊長やった。亡くなる前に記者が来て 戦時の本を出すからと話を聞いてた。じいちゃんの話が本に残ってる。
すごい、エリートじゃないですか
真珠湾攻撃に出撃したパイロット。言ってしまえばスタメンの中で終戦まで生き延びたのってすごいですね。
戦時中の話は聞いたことがなかったがシベリアから生きて帰ったきた
語り部が死ぬ前にいろんなこときかないとだな。戦争の生き証人誰もいなくなるとまたおきそう。
僕の高祖父と曾祖父は戦時中に活躍しました。曾祖父は階位を忘れてしまいましたが高祖父は陸軍大尉で佐藤栄作内閣の時に「自衛隊育成に大いに役立った」ことで勲六章を授与されました。祖父は私に「おじいちゃんの祖父はなぁ。国から勲章をもらったんだ。だからこのことを自負しておけ。」と言われました。
父方の曾祖父ちゃんが傷痍軍人だったみたいで、勲章とか賞状が沢山飾ってあるんだけど、小さいながら凄いものなんだろうなと思って、お爺ちゃんに聞いたら「近所でもお国のために頑張った兵隊さんって有名だったから(役職?も聞いたけど忘れてしまった、、)、授業参観とかに来てくれるのが嬉しくて誇りだった」というお話をしてくれたのを思い出した🥲コロナで田舎に帰れてないので、元気な間に会いたいなぁ💭💭
どんだけ映画を見ても日本兵ってどうしても硬いイメージしかなかったけど、こういうリアルな話見てると所々に呑気な人もいるんだなって思った。いいものを見た
今も昔も同じ人間なんだなって
@@Tahoe47 ならやっぱり昔の日本人も変態だったんかな
@@Senkaku_is_JAPAN 江戸時代にマトリョーシ姦描いてた奴らやぞ当たり前やろ
@@Senkaku_is_JAPAN江戸時代の浮世絵かなんかにタコと人間がまぐわう奴があるのは有名なお話
母方の祖父はソ連海軍の大佐だった父方は兄弟で兄は満州へ行って弟はマリアナ沖海戦で戦死した
ひいじいちゃんは戦車兵した後、運転免許持ってたから皇族の運転手してたって聞いた
かっこいい話しか出てこないんだよなー。うちの曽祖父は全線で飢えてる兵士なんかどうでもいいというレベルで食い物や生活品を利権で持ってきてた。なのに勲章貰ってる。世の中こんな感じ。日本ってまじでクズがトップになってる国
俺のおじいちゃんはギリギリ戦後生まれやなあひいじいちゃんは逃げまくって生き返ってきてたらしいけど
俺のじいちゃんは自主で歳を誤魔化して零戦乗ってたらしい( ̄▽ ̄;)
何歳サバ読んでいたのか知りたい。
@@一人遊戯 その辺は俺も分からん( ̄▽ ̄;)でも昭和5年産まれらしい
それはけっこう誤魔化しちゃいましたね😂 私の祖父が同い年ですけど、年齢的に戦争にはいかずにすんでしまったと言ってましたので。
曾祖父ちゃんが天皇陛下の親衛隊だったらしくて、いつも婆ちゃんが「顔も良くて身長も高くて頭も良くて性格まで良かった。コロッケを家族の人数分買いに行ったのに帰ってきたら皆ホームレスにあげたとかよく言ってたわ、テレビもウチのとこが一番最初に買ってみんな見に来てた」とかずーっとファザコン見せつけてきてたけどちゃんとすごい人やったんや、、
父方、軍馬育成(戦地行ったら直ぐ死にそうだったらからと言われたそうな)母方、予科練中に終戦だったそうな
母方は子どもだったけど被爆して父方は終戦1ヶ月後までお腹の中にいたそうです
いざ出陣!っていうときに終戦迎えたらしい。訓練の一環で伏せをしたらちょうど財布が落ちててそのお金で仲間と牛丼?食べて帰ったことがあるとか。
戦争中は学生で今の福岡空港作ってたとか言ってた気がするその時、震電っていう試作戦闘機が試験飛行してたとかで「海老が飛んでる!」って声が上がったとか何とか
めっちゃ珍しいもの見てるんやな(震電の試験飛行はたった2回)
マジで!?
震電を見ただと!?
南方で現地民と遊んで快適に暮らしてたって聞いたなデカいトカゲ捕まえて食ったり椰子の実とったりしてのんびりしてたらしい当時からアメリカ文化大好きだったらしく昔の話をする度に戦争相手ではあるけどアメリカは凄いと言ってたあと湯川秀樹は絶対に許さないとも言ってた
湯川秀樹になんの恨みがあるんや
@@jssfhj7096 うちの爺さんに限らずその当時の人は湯川秀樹が完成させた論文をアメリカに持ち込んだせいで原爆が日本に落ちたと言ってた人が多かった当時の軍に本当に携わってた人達の話だから現代で流行ってる陰謀論とかと違って信憑性あると思うわ
@@jssfhj7096核物理学の発展に貢献したからじゃないかな?まあ別にそれで湯川博士が悪いわけじゃないが…(どうせ海外の誰かがいずれ発見する)
父方の家系で戦争に行った人はいないけど、母方の曽祖父は杉山元陸軍元帥のお付きだったらしい
父方の祖父も満州に行ってたと父から子供の頃聞いたことある!そして、その祖父の弟は20歳で戦死したとも聞いた( ´・ω・` )写真が1枚だけあって仏間に飾られてるけど、ちょっとカッコイイ(*ˊ˘ˋ*)
父方の祖父は戦時中は小学生で曽祖父は中島飛行機に部品を作って送る会社の社長みたいな感じの仕事しててそれでいて訓練兵部隊みたいなのを持ってたから戦後に公職追放を受けた。祖母の方は祖母の父親が近衛兵の中隊長(階級は大尉か少佐かと思われる)やってたってのを聞いた。それで東京大空襲のときに祖母の部下の兵隊さんに背負われながら燃え盛る東京の中を逃げたんだけど途中道を埋め尽くすほどの黒焦げの死体があってその兵隊さんが「(死体を)踏むのはあまりにも可哀想だ…」って言っていたてのを聞いた。母方の祖父は戦時中生まれで終戦時は1歳だった。祖母の方は戦後生まれ。
6:25ミサイルは二次戦の産物やで、、、
というよりもロケット弾なのかもね
イ号誘導弾(エロ爆弾)「呼ばれた気がした…」
すでに老人のほとんどが戦後産まれ…戦時中子供だったが残りで、当時若者で経験してかつ頭はっきりしてる人はもう少数。だからまわりで聞ける人いたら今無理矢理ても聞いた方がいい❗昔は日中だか日露戦争経験者の話も聞けたけどもう聞けない…
中には戦争がトラウマな人もいるから無理やりはダメやなでも聞くと結構勉強になる
父方は技術将校だった。今も陸自の分屯地で使われている填薬所の創設に携わり、そのまま填薬所へ配属され大砲の弾作ってました(変わったとこで風船爆弾も作ったとか)。最終は大尉でした。終戦の年に結核で入院。万一の時は自決するように命令され、手榴弾を手に病床で終戦(手榴弾は玉音放送後即回収された)。原隊の填薬所が占領軍に接収にあたり、病をおして米軍に填薬所の引き継ぎ後、悪化して入院タヒかけるが、米から入ってきたペニシリンと肺の壊死した部分の摘出手術で助かったが、晩年はずっと酸素ボンベが手放せなかった。母方は機銃手で満州を転戦後、教官をやれと内地へ戻され終戦。復員後は農民に復帰。
1:11爺ちゃんはこのパターンだった。学徒動員で実家から離れた工場働いていたけど召集令状見せれば書かれた住所までフリーパスだったらしい。
神風の所属で飯が豪華なったからそろそろかと思ってたら終戦したときいてる。
父方は戦闘機の整備士母方は畑やってたらしい親戚の婆さんは帰国子女だったせいでマッカーサー来たときに通訳させられたとグチグチ言ってた
爺ちゃんじゃあなくて爺ちゃんの兄さんなんだけどミンダナオで死んだって聞いた事があるわ。確か階級は伍長だった
お母さんが「おじいちゃん、戦争の話はしなかったけど飛行機に乗ったよ、楽しかったって言ってた」って言ってたのこの動画見て思い出したひいおじいちゃん、もういないけど飛行機のはなししてほしかったな
父方の祖父は、上官に気に入られたらしく戦地には行かず、内地で遺体置場の監視?してたらしい。母方の祖父は、赤紙が来て汽車で向かっている途中で終戦。持って行ったおにぎり食べずにそのまま持ち帰ったそうな。もう死んじゃったけど、二人とも優しくて働き者の良いじいちゃんだった。
曾祖父さんは陸軍大将だったらしい
名前をどうぞ
@@カズマめぐみん 吉田豊彦
じいちゃん、私が物心ついたら、寝たきり。戦争で脊椎やられたかららしい。年小の頃、じいちゃんご臨終の診断。親戚が保育園に迎えに来る。アホの子の私はじいちゃんが好きなかりんとうを勧めるが反応なし(当たり前)頭にきてじいちゃんの足の親指に噛みついたら、じいちゃん復活!医者びっくり。次の年、じいちゃんご臨終の知らせ。大急ぎで私を迎えにくる親戚。間に合わず。いつまで立っても酒の肴にされて、黒歴史に‥最近おじさん(じいちゃんの長男)が危篤になりやはり復活させてきたw私は生き返させ屋じゃない!
長文になりますが、私の祖父母が生きてる時に聞いた戦記を書きます。母方の祖母はサイパンで捕虜になって生還しましたが戦後〜亡くなるまで精神が不安定で定期的に薬を飲んでいました。母方の祖父は名古屋の三菱航空機で戦闘機を作っていました。名古屋空襲のさい、撃墜されてパラシュート脱出したB29の搭乗員が燃え盛る市内に降下して焼けタヒんでしまい、その亡骸の首に紐を掛けて引きずり回す市民を目撃したと言っていました。戦後、沖縄に復員すると、防衛隊だった弟は艦砲射撃の直撃で戦タヒ。母(私の曾祖母)は砲爆撃の最中近所の人と避難してる最中に逸れてしまい、そのまま行方不明。復員した祖父は、母が逸れる直前まで一緒に避難していた近所の人を訪ねて母が最後に目撃された場所を聞きだし、その場所へ行くと無数の遺骨が散らばっていた。その散らばった骨の中から誰のか分からない骨を適当に拾って墓に収めたそうだ。父方の祖父は昭和18年入隊の海軍航空機の整備兵、佐世保鎮守府所属で九州の航空基地を転々としてたそうです。祖父の話では、入隊早々、上官から航空機に関する記録がギッシリ詰まったノート3冊を渡され「3日で覚えろ。」と言われた事、空母乗艦の有無で判断に迷ってた時に夢枕に立った母に「船には乗るな!」と言われ陸上勤務を選択、空母を選択した戦友は誰も生還しなかったそうです。火星や金星エンジンを主に整備してた事、一式陸攻のバッテリーはデカくて重かった事、日本の航空機エンジンはパッキンの技術が低かった事が原因でエンジンの何処かから常に油漏れがあった事、長崎の大村基地で学徒出身の兵が操縦する雷電が着陸速度が早すぎてバウンドして横転した事、雷電について「あの飛行機はワタブー(胴体が太ったデブ飛行機)」と言ってたこと、月光(夜間戦闘)は黒く塗られてた、グラマンやPナントカ(P51)の機銃掃射にあったこと、避難すべき防空壕に間に合わず近くの防空壕に避難したら、本来避難すべきだった防空壕に爆弾が直撃して、その中に居た人が全員戦タヒし祖父は命拾いしたこと。鹿児島の出水や指宿基地では水上機の整備をしてたらしく、「飛んでいった飛行機は殆ど帰ってこなかった」と言っていました。※九州は戦争末期、特攻基地が多く存在した事から、おそらく特攻機の事だと思う。祖父は、国によって命日が決められた特攻隊員の事を語るのは辛いようで、口を濁したので詳しくは聞かなかった。最後は鹿児島の指宿基地で終戦を迎え、機密書類と一緒に自分が記録した火星・金星発動機の記録も一緒に焼却し復員したそうだ。唯一戦地から持ち帰ったのは、絵の上手な戦友に描いたもらった水兵服姿の自画像。これは、戦死した時の遺影にするつもりだったと言っていました。日本の軍隊について祖父が言っていたのは「ある日、街灯のない夜道を歩いてると上官と出会った、街灯のない真っ暗闇で直前まで存在に気が付かず敬礼が遅れた、上官は憤慨し気が済むまで殴ってきた。立場の弱い者をブン殴る事しか頭がないから戦争にも勝てないんだ。」と言っていた。
そういえば戦争の事は聞いたことなかった。祖父は父母双方既に鬼籍なので確認ができないのが悔やまれる。私は自らのルーツを調べた時に偶々情報が各所に残ってたから探り始めることができたけど、それでも知らない事はかなり多い。生きてるうちに祖父祖母父母に色々聞いておいた方がいい。
母方の方は大陸戦線。父方は内地で古参として教育側にまわっていたみたい(兵科は工兵)。父方の祖父の兄は大陸で亡くなって、祖父はレビラト婚となり家を継いだらしい。
亡くなった祖父は郵便局で働いていた経緯から通信兵で沖縄本土に行っていた。最初は沖縄中に通信設備を張り巡らす作業をしていた。最初は平穏だったが、沖縄戦が始まり、流れ弾で脚を負傷し、動ける程度ではあったが隊の皆とは同じ速度では動けずはぐれてしまい、いつのまにか隊の人たちとはちがう島の反対方向に逃げたことで集団自決などにもならずに生き残れた。最後まで一緒にいた仲間の一人が非常に勇猛な人で米軍のキャンプから食料を盗んだりしてくれて生き残れたと、終戦後米軍に投降し、その後本土に帰還したと生前語ってくれた。
うちのばぁちゃんは、終戦直後に産まれて上の兄妹に育てられて自分も下の妹を育てるために小学校も行かず畑したりして就職も漢字が読めませんので教えてくださいって言って真面目に働いて今があるらしい‥兄妹が多くて親じゃなくて兄妹が育ててくれるってところ多かったよね今の少子化問題も仕方ないのかなって思う。
戦争行って帰ってきたら嫁に浮気されて離婚して再婚して母が生まれたと聞いた
父方は南方でセンシした。母方には野原で訓練してたら終戦になったみたいな話を聞いた気がするが、どうやら要人警護任務の憲兵だったらしい事を死後に聞いた。
僕の祖父は満州で戦っていたようです友人が隣で撃たれて殺されたり目の近くに弾が当たって右手か左目かどっちかの目が悪かった気がします小4だったから仕方ないけどもっとたくさん話聞いとけばよかったと思っています毎回老人ホームから帰る時敬礼してくれたので敬礼を返していたのも覚えています
じいちゃんのにいちゃんは醤油飲んで兵役逃れたらしい。ばあちゃんのお父さんは満州で教師やってて生徒と一緒に逃げたとか
満州の方が圧倒的安全なんだなぁ〜
自分の曾祖父は戦前朝鮮半島の北部で陸軍に所属していたらしい自分が産まれたときには既に亡くなっていたので詳しい話は全く知らない。敵兵を何人か射殺したことや戦後のゴタゴタでかなりトラウマになっていたらしく、戦争の話だけは頑なに話さなかったそうだ。
詳しくは教えてもらってないけど殺されて海に捨てられたとか聞いたわ
古参兵レベルの軍歴なのに戦争してないって言ってた威嚇程度に適当に打ち合う小競り合いは経験したけど戦闘は未経験らしい
詳しくは知らないですが、ひいおじいちゃんが輸送船の船長だったと聞いたことあります。1番狙われる危険な任務だったそうですが、無事に帰ってこれたそうです。
ひいじいちゃんが両方海軍で、母方はそろばん3級を持っていたから前線に駆り出されずに喜望峰に行って、父方の方は准尉官で太平洋戦争で死んじゃったとか聞いた。
ウチの先祖は秋田でマタギしてたらしいんで戦争行って、戦後マタギに復帰したってこの時の戦後ってのは太平洋戦争ではなくて日露戦争のことだけどねいつもシャツのボタン飛ばして、マッチョで毛深い胸元見せるから「すけべマタギ」とか呼ばれてたらしいわどんな人だったんだろうな…なぜかアイヌ語が少し分かったんだってまったく家系的に繋がりないのに笑
何してたかは聞いてないけど、上官が敗戦悟っててひたすら前線から逃げ続けてたって言ってたなそんで、物資で宴会騒ぎしてたって
昭和43年生まれのわしが小さい頃、ばあさまに連れられて浅草寺の参道を歩いてたら、傷痍軍人が軍服姿で物乞いをしててさ。それを見たばあさまが「あの人たちは生きてるだけ幸せなんだよ」って。ばあさま、ふだんは戦時中の話はしなかったからなおさら、あの時のことはおさなごころに残ってるわ。ばあさまの旦那(わしの祖父)は戦争の初期に満州で戦死した。銀行員だったのが、なんかいろいろあって満州で軍の会計係みたいなことやってたらしい。じいさまが戦死した時、ばあさまは子供を二人かかえて、三人目がまだおなかにいた。わしの親父が二人目で、叔父は生まれる前に父親を亡くしたわけ。あの世代には珍しくもない話だろうけど、ばあさまは小さい時に関東大震災を生き抜いて、空襲も生き抜いて(東京大空襲の日は疎開してたらしい)、戦後は貸本屋をやりながら幼い子供3人を育てて、養母にはかなりいびられて、どれが一番の修羅場だったのかなぁ。わし、ばあちゃん孝行できたかなぁ。
うちのお爺様は皇居の警備していたそうです。戦争の話しすると機嫌が悪くなる人でした。戦地で命かけて頑張ってる人に申し訳ないと…
自分も小学生の頃被爆された方がお話に来られてて講義の後に大和について聞いたら兄(確か)が大和造っていたとの事で、あの大きい戦艦大和だからかなりの人数居たと思ったら確かにと思いましたpsちなみに自分の先祖の写真が出てきて戦時中は海軍の士官〜将校の辺りの方でした
山にいたら戦争終わったとか何とか言ってたな。で戦後はリアカーに漬物載せて売り歩くところから何やかんやで成功してお金持ちになれたとか言ってたな…。
祖父は戦後を主に生きた人だけど、幼少期に奉公に出されててその縁でその後起こした会社がうまくいった話好き曽祖父は特効に行ったけど体の調子が思わしくなくて引き返したって聞いた。まだ新婚くらいで子供はいなかったからもしそのままいってたら自分はいなかったかもしれませんね
めっちゃ前に聞いたから忘れたけど割と上層部だったらしくどっかの国に司令チームとして行ったけど終戦。終戦後ちょっとの間終わったと知らず隠れてたから帰りが遅く、ろくなもの食べてなかったのもあって帰国して初めて食べたチーズ?アイスクリーム?に感動したって話良くしてた
うちの曾祖父は近衛兵だった。おかげで今でも元気でっす
イケメンだったのね
本日告別式に行ってきました。遺骨は物凄い丈夫で普通残らないような胸骨まで残っていてさすが99歳まで元気だったと思いました。
父方祖父は背が低すぎて徴兵されず、役場で召集令状を配る係をしていたが、落ちてきた焼夷弾を拾って川に投げ込んだという武勇伝がある。
父方の爺ちゃんは海軍少尉でフィリピン辺りで戦死したそうな母方の爺ちゃんはお巡りさんで何処かの副署長だったらしい
我が家系の叔父は満州で機関銃部隊の伍長していた模様。お腹に掠った弾丸跡があったのを、この動画を聴いて思い出した。刀による処刑や敵を狙撃した話を聞いて後悔したものです。あと捕虜にしたソ連のパイロットに女性がいたそうです。記録を調べた事もあったがよくわからなかったっけ。
え!マジですか!?
@@鯛代-o6e 出来たらマジじゃないであって欲しいんですが、本人が語ってましたからマジなんでしょうね。僕より先輩の方の父が、深酒した時たまに語るって話はもっとキツい話でしたが、生で聞く戦争は悲惨…ってか汚いって思う物も多いんですが、この動画に登場する戦争経験の方達が生き残ってくれて本当に良かったと思います。我が家系の方は何人も亡くなりましたからね。
亡くなった方々はきっと天国に行けてます
父方祖父→中国の長江?揚子江?の近くまで行ってたらしい。食事を作ったり楽しい思い出しか話してくれなかった。母方祖父→内地で軍馬の世話係みたいな事をしていたらしい。元気な頃は楽しい話しかしなかったらしいけど、亡くなる前の方になると理不尽に上官に殴られた話とか辛い思い出を話していたと聞く。祖父が前日までいたところが爆撃を受けて戦友たちが多く亡くなった事が2、3度あったと聞く。ちょっと番外編父方祖母→祖父が戦争に行く前に結婚。祖父が戦争から帰らないかもしれないからと、万が一の跡取り候補の小姑もいる家に残される。舅姑小姑と仲が悪く居場所は畑だったらしい。そのせいかあんまり家事スキルは高くなかった。亡くなる数年前まで畑が好きだったなぁ。母方祖母→当時女学生だったが、畑でさつまいもを作ったり授業らしい事はしていなかったと聞いた。もっと色々な事をしたかったって言ってた。
うちの爺ちゃんは左肩を銃で撃たれながらも無事に帰還してくれた。東南アジアの村で匿ってもらって、いつかそこに御礼をしに行きたいって言ってたなぁ。
満州戦線→シベリア抑留→無事帰国ってな感じだったな、、、(曾祖父さんだけどな)
この話でこんなに盛り上がるのって凄いな……自分の母方の爺ちゃんは指が骨折してた為戦争行ってません父方の曾祖父はch民と同じ背が高くて騎馬隊
うちの爺婆は小学生だったがその時からラブラブだったらしい(真偽不明)なお下町っ子なので大空襲の事は話したがらないよ
爺さんが中国戦線で戦ってた。何時もは迫撃砲一発で逃げていくヤツ等が逃げずに撃ちまくって来るので、中国兵にも根性の据わった奴が居るんだなと、更に攻撃してトーチカを爆破した後に中を見に行ったら死んだ中国兵の足が中に渡されたチェーンに針金で縛られていたらしい。爺さんそれがショックだったらしく何度も同じ話を聞かされた。
爺ちゃんどっちも戦後生まれやわ…どっちも自慢の爺ちゃんやで!
うちのじっ様はビルマで捕虜になってたとか言ってたなあ絵心があったから看守に日本画描いてあげたら色々食べ物くれたんだとかどこまでホントか知らんが
家の祖父ちゃん、非国民だった親戚に憲兵いたから、国内に置いとくとヤバいからと、満州の会社に飛ばされて設計士やってたそうだ終戦の時、親しくしていた中国の友人がみんなが逃げた方へ行っては駄目だと、匿ってくれたさらに、逃げる時に自分が信頼する仲間に手紙を書いて守ってくれたそう友人から友人へ、手紙は続き、家族全員誰一人欠ける事無く帰国日中の親交が交わされた時、友人が日本へ行く人に頼んで久方ぶりに手紙を送ってくれた残念ながら、祖父母もご友人も今は亡き人現在の日中の関係を生きていたらどう見たか…戦下の時代でも、国よりも人と人であったのは本当に尊敬出来る祖父が話してくれた戦争は一部の人間の利益だけを得る愚かな行為だから二度と起こしてはならないと言う言葉が何よりの贈り物だ
記憶は曖昧だけどひいおじいちゃん(既に亡くなった)はフィリピンに出兵してて敵と戦ってて引き上げる時に隣にいた兵士に声かけたけど頭に銃弾受けて死んでたらしい。 ひいおじいちゃんはその後運送兵として働いて被爆した。でも長生きしたらしい。これが一番印象的だったんだけど、被爆した人は被爆者手帳貰うんだけど、じいちゃんは家族が風評被害受けないために頑なに貰わなかったらしい。
父方祖父:満州のどっかの部隊長で戦後シベリア抑留。生まれる前に亡くなったけど、葬式には部下が全員参列したそうな。何でも部隊長(祖父)のおかげで全員生き延びられたとこのこと。母方の祖父が父方の祖父の写真見て勲章が上級士官のだって言ってたな母方祖父:18で朝鮮に出兵。何もせずに21で帰還。桃をめちゃくちゃ食って嫌いになったとよく話してたが、戦争関係の話は嫌がってあまり話してくれなかったなぁ。テレビで戦争モノ観てても嫌がられたしあと、親族ではないけど知り合いに戦後の残留邦人の人が居て今は日本に帰化できたけど苦労話をよくしてくれた
老人介護施設で働いてますが…戦争の記憶を話してくれる方は中々貴重になってきました…
激動の時代を生きてきたのですよね…
私も定年まで働いていました。事務職ですがヒマがあると一緒に歌を歌ったり講談やったりしていました。戦後掃海艇で機雷処理した話が凄かった。朝鮮戦争にも行って掃海して「戦死」者も出てたらしいですが、あくまで労災的な処理だったそうで。
同じく看護師で病棟に戦争の話できる人は今1人です。
戦争の話出来る方ほんとに少なくなりました。90半ば以上で男性さらに受け答えがしっかりしてる方となると💦
@@伊藤雲黒斎 ああかかかあ
特攻隊を扇動する役目の人もいたと、自分も利用者様に教えて貰った。大勢の若者を死なせた事に、精神が病んだらしいです。
晩年朦朧とした意識の中で部下が戦死した時の光景が繰り返し思い起こされたのか
「○○上等兵!伏せろ!伏せろ!」と繰り返し言っていた
自分が図書館で借りてきた『ビルマの竪琴』熱心に観てたな
なんとも言えん切ない気持ちになった
仙台市にビルマの竪琴(複製)があるよ。
自分が物心つかない頃、誰も教えて無いのに英語が話せたらしく、大人からは天才扱いだった。
祖父が亡くなった時、葬式に知らないおじいさんが尋ねてきて、戦後間もなくの頃にアメリカ兵とのいざこざを、祖父に英語で収めてもらい助かったと、おじいさんが泣きながら話していたそう。
祖父が英語が話せた事を母も祖母も知らなかったそうで、みんな仰天したそうです。
先日知り合いにその話しをしたら、その方の知り合いも同じように英語ができる事を隠していたそうで、理由は中村学園と言うスパイ養成学校にいたからだそうです。
その方と祖父の出身地も同じで、もしかしたら祖父もスパイ養成学校出身かもしれないそうです。
でも何より自分が驚いたのは死ぬまで家族に隠していた事を孫の自分にだけ教えていたと言う事
自分が英語を話せたのは天才だからでは無く、祖父がこっそり英語を教えてくれてたからだと言う事
自分の祖父の印象は、凄く怖いって事と物静かな人って感じだけど、ちゃんと愛されてたんだと実感しました。
介護施設で働いてますけど、飛行機の訓練中に墜落して頭カチ割ったけど生き延びたわガハハ!!ってお風呂の度に話してくれたお爺さんがいました。
明るく素敵なお爺さんだったな。
自分の祖父は国鉄社員だったので徴兵は免れたそうです。
国鉄ってある意味ロジを支える軍属になるから兵役免除だったのかな?
父方の祖父は満州で通信兵だった
戦況がモールス信号でバンバン入ってくるから表沙汰じゃ言わんけど自分も同僚も終戦の1年前から日本が負ける事は悟ってたっぽい
ちなみにそのモールス信号の技術は叔父にも継承されて食卓でお互い指先でトントンしながら祖母にバレないように内緒話をしてたらしい
この話しはずっと語り継いで欲しい。
大和魂って今の日本にはない言葉だけど凄く好き。
わかる
わかる
わかる
カッコイイよな
@@忘れ物常習犯 カッコいいとかそういうもんじゃない。日本人として受け止めてほしい。
祖母の兄弟が沖縄に徴兵されてたけどある日家族で畑から家に戻る途中大きくて明るい火の玉がぐわ〜って飛んできて屋根の上まで来て消えたのを家族全員見てて、兄弟が戦4して帰ってきたんだって全員が理解したらしい
後から知ったけどやっぱり命日がその日だったんだよね、魂だけでも帰ってきたんだって悲しそうに言ってました
母方の祖父は国鉄職員で、軍属としてミャンマー(ビルマ)で鉄道関係の仕事してたらしい。軍属は刀持っても良かったらしく、帯刀でラフな格好してたら士官に見えて、兵卒が間違えて敬礼するので、しれっと答礼してたとかww。引き上げ時は大変で、もう少しで日本、ってところで病死した人もいたとか。
祖父とか曽祖父が従軍経験者なら軍籍簿を厚労省に請求してみると面白いですよ。
公的な記録を目の当たりにすると当時の空気感が伝わってくるようで感慨深い。
戦時中たしかにそこに自分の先祖がいたのだと。
というか請求時に必要な戸籍とった時点ですでに十分面白いんだけど。
軍歴証明書のことしか知らなかったので、参考になりました!
祖母の姉の旦那は近衛兵だったと聞いた事がある
天皇陛下の近衛兵になれた事が人生で1番の名誉だと
じーちゃんは火傷で出兵免れた言うてた。
出兵した人、みんな死んだ言うてた。
彼女の祖母の葬式で、東條英機に抱っこされてる写真があってワロタ。
マジでエリートで草
東條英機は子供にはものすごく優しい人だったみたいですね
うちの曽祖父の教え子だよ。東條英機。曽祖父は陸軍の学校の教官。東條に説得された長女婿が皇道派に変わったとたんに二・二六事件発生。祖父?ミャンマーでマラリアに罹って帰ってきた。どちらも戦争から帰ってきたら妻が病死してて、1人は死にたくて1週間飲食を絶ち、1人は原因の大気汚染に取り組むのに終戦後1年でドイツに渡って粉体の専門家に。
東條英機に抱っこされてるというパワーワード
父方の祖父→戦地へ行く前の訓練中馬に後ろから肩付近を噛まれ入院して戦地へ行けず。
母方の祖父→親戚一同蜂蜜を作って兵士の栄養源としてたので兵士として呼ばれなかったが終戦間際に赤紙届く。特攻として決まっていた日の2日前に終戦
ワイの爺ちゃんはチハ戦車で戦争初期から色んな戦地で戦ったらしい自分が小さい頃から自分がヒーローのように話してくれたとても尊敬していたし友達によく爺ちゃんの武勇伝を話しまくる(今も)位好きだった自分が小4の頃に亡くなった
日本の戦車は戦争後半はかなり苦戦したらしいですね
チハで!すげぇな!
8:12字幕では「婆さま」なのに音声では「ばばあさま」になってるの草
うちの祖母は小学生だったらしく、飛行機が来たら竹藪に飛び込んで小さくなってたとか聞いたことある
「事あるごとに庭に掘った防空壕に逃げ込んでたけど、今考えたらあんな浅さじゃ爆弾一発でチぬわな〜」って笑ってた
焼夷弾対策として使えるって言っても
実際に空襲を受けたら窒息死するだろうね
みんなのじいちゃんばあちゃんが凄すぎて鳥肌たった
祖母いわく手先が器用だったから上官の身の回りの世話(服の仕立てその他)をして可愛がられていたと、戦後他がガリガリで帰って来たのに1人ブクブク太って帰って来たとよく言ってた。
もう亡くなっちゃったけど、おじいちゃん耳が遠かったな。加齢のせいじゃなくて戦争で機関銃か何かをずーっと撃ってたら耳がおかしくなっちゃったらしい。物心付いた頃からおじいちゃんって耳が悪かったから、あんまり疑問に思わなかったなぁ…。
母親の父が
どっか東南アジアで死んだって聞いた
竹槍で米兵倒したって言ってるけど年齢的に子供のはずなんだよな…
昔読んだ戦争の漫画に戦時中の男子生徒は将来大人になって兵隊になった時のために子供のうちから米兵を倒す訓練してた描写があったからそれだと思う
町の大人達は空き地に集まって竹槍訓練してたそうな
天皇陛下の親衛隊てことは近衛師団ですね。凄い役職ですよ
家柄良さそうだよね
自分の曾祖父さんは近衛師団でしたが日本軍も訓練で成績が良いと休暇を貰うことができたと言ってましたちなみに准尉だったそうです
私の親戚に二人ほど元近衛兵の人がいたから、よく話を聞きました
うちもそうだったから戦争には行かなかったって言ってた
かなりの精鋭だったんだったけ?
うちの曽祖父は雷電?っていう戦闘機でB29を迎撃して、戻って来なかったそう…
曾祖母がぼける前に教えてくれた…ありがとう
雷電の損失数は高かったそうですからね...。ご冥福をお祈りします
雷電に…凄いな… ご冥福を祈ります
爺さんは体弱くて徴兵されなかったらしい。戦中のことは話してくれなかったけど戦後はヤのつく職業人に花札売って儲けたって言ってた。その花札作ってたのは今は世界で有名な某社のやつらしいです。
@@diavoli_neri
話の流れ的に任侠堂か!
じい様は出征の日が終戦の日で姫路の駐屯地に着くとすぐに戦争が終わったそうな
おぉ‼️それでは俺の親父側の叔父さんが第二攻撃隊で特攻に出る寸前で「終戦」と一緒だな❗️仲間は第一攻撃隊で飛んでいってしまった(ーдー)
同じ姫路だが・・母方の祖父は太平洋戦争が始まってすぐに戦死したと聞いてるわ
祖母は10年ほど前に92で亡くなった
そんな祖母・・小学校の教師やってて戦後に地域か地区の遺族の代表?で皇居に呼ばれて饅頭貰ってきたって話もある
0:59ガ島から帰れるとはかなりの幸運の持ち主だったんだな…
インパールやスターリングラードと共に語られるエグイ戦場って話はよく聞くな
@@clash4070 戦いよりも食料が配給されなかったから餓島なんて呼ばれ方もあった
ガ島で戦ってたとしか言ってないから、もしかしたら帰ってこれなかった可能性もある…
昭和18年のガダルカナル島の戦いでは撤退戦に成功している。
さらに戦局が悪化すると、もはや撤退する戦力が無いので玉砕を強要することに・・・
父方の曽祖父が戦争行ってて隊長的な感じの少し地位の高い兵士だったらしい
戦闘中に仲間が次々死んで自身も首を撃たれて死にかけたけど奇跡的に生還して家族や親戚が驚いたとのこと
じいさん、赤紙で招集。しかし戦地に向かう途中終戦になり、そのままとんぼ返り。
農家だったから食料に困らず、空襲は近くに堕ちた事はなく、戦争らしい体験あまりしてないわ!すまん!と笑いながら話してたなぁ
それはいいことだ!
じいちゃんがそもそも戦後生まれやわ。笑
同じです。団塊の世代あたりでしょうかね?
追記→死んでから分かったんだけど、終戦時4歳だったらしい。
うちも曾祖父母が戦争経験者だわ
ひいじいちゃんは亡くなってるけどひいばあちゃんは今も元気
爺様は、旅行会社の社長やっとった
今もあるらしい1回爺さんの連れで行ったことある
曾祖父ちゃんが兵隊さんかな〜白黒の写真見たとき指が2本くらいなくなってた
俺も同じ世代、ひいじいちゃんに聞いてみると話が出てくるやろうな。
良スレ
保存版にしてほしい
旧帝大卒だったので暗号解読の部署に行ったそうです。それでオカンが「ある程度の大学を出とけ」と強く言う人間になったのかな。でも爺ちゃんは戦後はケーキ屋さんになっちゃったという・・・
ケーキ屋の方が素敵よ。
母方の爺が帝大(九州)出身で戦前に米留学してました。
ねぇー、この話大切に覚えていたい…
どんな話しも、宝物
うちの爺さんは満州行ったり、金沢の方に行ったりして車(トラック?)の運転手をメインにやってたらしい。
土砂とか運ぶ時も他の兵隊が汗だくで荷台に積んでる間も運転手は運転席で座ってられて良かったとか、金沢では軍の食糧からサツマイモ1本とか持ってって映画館の女の子に渡して(顔出すと「兵隊さん、持って来てくれた?」って訊かれたらしい)何度もタダで映画を観たとか。あと献血すると美味しい物(多分卵)が食べられて半日休めたから何度もやったと笑ってました。
鉄砲玉飛び交うような所には行ってない(爺さんの上のお兄さんは2人戦地で撃たれて亡くなってる)けど、だからこそ当時の色んな面白い話を聞かせてもらった。
満州ではマラリアになったけど薬無しで生き延びるくらい頑丈で、煙草はやらなかったけどお酒が大好きな祖父は2年前に亡くなりました。
生きてれば98歳。
じいちゃん真珠湾攻撃で どこかの爆撃部隊長やった。亡くなる前に記者が来て 戦時の本を出すからと話を聞いてた。じいちゃんの話が本に残ってる。
すごい、エリートじゃないですか
真珠湾攻撃に出撃したパイロット。言ってしまえばスタメンの中で終戦まで生き延びたのってすごいですね。
戦時中の話は聞いたことがなかったが
シベリアから生きて帰ったきた
語り部が死ぬ前にいろんなこときかないとだな。戦争の生き証人誰もいなくなるとまたおきそう。
僕の高祖父と曾祖父は
戦時中に活躍しました。
曾祖父は階位を忘れてしまいましたが
高祖父は陸軍大尉で佐藤栄作内閣の時に
「自衛隊育成に大いに役立った」ことで
勲六章を授与されました。
祖父は私に「おじいちゃんの祖父はなぁ。
国から勲章をもらったんだ。
だからこのことを自負しておけ。」と言われました。
父方の曾祖父ちゃんが傷痍軍人だったみたいで、勲章とか賞状が沢山飾ってあるんだけど、小さいながら凄いものなんだろうなと思って、お爺ちゃんに聞いたら「近所でもお国のために頑張った兵隊さんって有名だったから(役職?も聞いたけど忘れてしまった、、)、授業参観とかに来てくれるのが嬉しくて誇りだった」というお話をしてくれたのを思い出した🥲
コロナで田舎に帰れてないので、元気な間に会いたいなぁ💭💭
どんだけ映画を見ても日本兵ってどうしても硬いイメージしかなかったけど、こういうリアルな話見てると所々に呑気な人もいるんだなって思った。いいものを見た
今も昔も同じ人間なんだなって
@@Tahoe47 ならやっぱり昔の日本人も変態だったんかな
@@Senkaku_is_JAPAN 江戸時代にマトリョーシ姦描いてた奴らやぞ当たり前やろ
@@Senkaku_is_JAPAN
江戸時代の浮世絵かなんかにタコと人間がまぐわう奴があるのは有名なお話
母方の祖父はソ連海軍の大佐だった
父方は兄弟で兄は満州へ行って弟はマリアナ沖海戦で戦死した
ひいじいちゃんは戦車兵した後、運転免許持ってたから皇族の運転手してたって聞いた
かっこいい話しか出てこないんだよなー。
うちの曽祖父は全線で飢えてる兵士なんかどうでもいいというレベルで食い物や生活品を利権で持ってきてた。なのに勲章貰ってる。世の中こんな感じ。日本ってまじでクズがトップになってる国
俺のおじいちゃんはギリギリ戦後生まれやなあ
ひいじいちゃんは逃げまくって生き返ってきてたらしいけど
俺のじいちゃんは自主で歳を誤魔化して零戦乗ってたらしい( ̄▽ ̄;)
何歳サバ読んでいたのか知りたい。
@@一人遊戯 その辺は俺も分からん( ̄▽ ̄;)でも昭和5年産まれらしい
それはけっこう誤魔化しちゃいましたね😂 私の祖父が同い年ですけど、年齢的に戦争にはいかずにすんでしまったと言ってましたので。
曾祖父ちゃんが天皇陛下の親衛隊だったらしくて、いつも婆ちゃんが「顔も良くて身長も高くて頭も良くて性格まで良かった。
コロッケを家族の人数分買いに行ったのに帰ってきたら皆ホームレスにあげたとかよく言ってたわ、テレビもウチのとこが一番最初に買ってみんな見に来てた」とかずーっとファザコン見せつけてきてたけどちゃんとすごい人やったんや、、
父方、軍馬育成(戦地行ったら直ぐ死にそうだったらからと言われたそうな)
母方、予科練中に終戦だったそうな
母方は子どもだったけど被爆して父方は終戦1ヶ月後までお腹の中にいたそうです
いざ出陣!っていうときに終戦迎えたらしい。訓練の一環で伏せをしたらちょうど財布が落ちててそのお金で仲間と牛丼?食べて帰ったことがあるとか。
戦争中は学生で今の福岡空港作ってたとか言ってた気がする
その時、震電っていう試作戦闘機が試験飛行してたとかで「海老が飛んでる!」って声が上がったとか何とか
めっちゃ珍しいもの見てるんやな(震電の試験飛行はたった2回)
マジで!?
震電を見ただと!?
南方で現地民と遊んで快適に暮らしてたって聞いたな
デカいトカゲ捕まえて食ったり椰子の実とったりしてのんびりしてたらしい
当時からアメリカ文化大好きだったらしく昔の話をする度に戦争相手ではあるけどアメリカは凄いと言ってた
あと湯川秀樹は絶対に許さないとも言ってた
湯川秀樹になんの恨みがあるんや
@@jssfhj7096 うちの爺さんに限らずその当時の人は湯川秀樹が完成させた論文をアメリカに持ち込んだせいで原爆が日本に落ちたと言ってた人が多かった
当時の軍に本当に携わってた人達の話だから現代で流行ってる陰謀論とかと違って信憑性あると思うわ
@@jssfhj7096
核物理学の発展に貢献したからじゃないかな?
まあ別にそれで湯川博士が悪いわけじゃないが…
(どうせ海外の誰かがいずれ発見する)
父方の家系で戦争に行った人はいないけど、母方の曽祖父は杉山元陸軍元帥のお付きだったらしい
父方の祖父も満州に行ってたと父から子供の頃聞いたことある!
そして、その祖父の弟は20歳で戦死したとも聞いた( ´・ω・` )写真が1枚だけあって仏間に飾られてるけど、ちょっとカッコイイ(*ˊ˘ˋ*)
父方の祖父は戦時中は小学生で曽祖父は中島飛行機に部品を作って送る会社の社長みたいな感じの仕事しててそれでいて訓練兵部隊みたいなのを持ってたから戦後に公職追放を受けた。
祖母の方は祖母の父親が近衛兵の中隊長(階級は大尉か少佐かと思われる)やってたってのを聞いた。それで東京大空襲のときに祖母の部下の兵隊さんに背負われながら燃え盛る東京の中を逃げたんだけど途中道を埋め尽くすほどの黒焦げの死体があってその兵隊さんが
「(死体を)踏むのはあまりにも可哀想だ…」って言っていたてのを聞いた。
母方の祖父は戦時中生まれで終戦時は1歳だった。祖母の方は戦後生まれ。
6:25
ミサイルは二次戦の産物やで、、、
というよりもロケット弾なのかもね
イ号誘導弾(エロ爆弾)「呼ばれた気がした…」
すでに老人のほとんどが戦後産まれ…
戦時中子供だったが残りで、当時若者で経験してかつ頭はっきりしてる人はもう少数。
だからまわりで聞ける人いたら今無理矢理ても聞いた方がいい❗
昔は日中だか日露戦争経験者の話も聞けたけどもう聞けない…
中には戦争がトラウマな人もいるから無理やりはダメやな
でも聞くと結構勉強になる
父方は技術将校だった。今も陸自の分屯地で使われている填薬所の創設に携わり、そのまま填薬所へ配属され大砲の弾作ってました(変わったとこで風船爆弾も作ったとか)。最終は大尉でした。終戦の年に結核で入院。万一の時は自決するように命令され、手榴弾を手に病床で終戦(手榴弾は玉音放送後即回収された)。原隊の填薬所が占領軍に接収にあたり、病をおして米軍に填薬所の引き継ぎ後、悪化して入院タヒかけるが、米から入ってきたペニシリンと肺の壊死した部分の摘出手術で助かったが、晩年はずっと酸素ボンベが手放せなかった。
母方は機銃手で満州を転戦後、教官をやれと内地へ戻され終戦。復員後は農民に復帰。
1:11爺ちゃんはこのパターンだった。学徒動員で実家から離れた工場働いていたけど召集令状見せれば書かれた住所までフリーパスだったらしい。
神風の所属で飯が豪華なったからそろそろかと思ってたら終戦したときいてる。
父方は戦闘機の整備士
母方は畑やってたらしい
親戚の婆さんは帰国子女だったせいでマッカーサー来たときに通訳させられたとグチグチ言ってた
爺ちゃんじゃあなくて爺ちゃんの兄さんなんだけどミンダナオで死んだって聞いた事があるわ。確か階級は伍長だった
お母さんが「おじいちゃん、戦争の話はしなかったけど飛行機に乗ったよ、楽しかったって言ってた」って言ってたのこの動画見て思い出した
ひいおじいちゃん、もういないけど飛行機のはなししてほしかったな
父方の祖父は、上官に気に入られたらしく戦地には行かず、内地で遺体置場の監視?してたらしい。
母方の祖父は、赤紙が来て汽車で向かっている途中で終戦。持って行ったおにぎり食べずにそのまま持ち帰ったそうな。
もう死んじゃったけど、二人とも優しくて働き者の良いじいちゃんだった。
曾祖父さんは陸軍大将だったらしい
名前をどうぞ
@@カズマめぐみん 吉田豊彦
じいちゃん、私が物心ついたら、寝たきり。
戦争で脊椎やられたかららしい。
年小の頃、じいちゃんご臨終の診断。親戚が保育園に迎えに来る。
アホの子の私はじいちゃんが好きなかりんとうを勧めるが反応なし(当たり前)
頭にきてじいちゃんの足の親指に噛みついたら、じいちゃん復活!医者びっくり。
次の年、じいちゃんご臨終の知らせ。大急ぎで私を迎えにくる親戚。間に合わず。
いつまで立っても酒の肴にされて、黒歴史に‥
最近おじさん(じいちゃんの長男)が危篤になりやはり復活させてきたw
私は生き返させ屋じゃない!
長文になりますが、私の祖父母が生きてる時に聞いた戦記を書きます。
母方の祖母はサイパンで捕虜になって生還しましたが戦後〜亡くなるまで精神が不安定で定期的に薬を飲んでいました。
母方の祖父は名古屋の三菱航空機で戦闘機を作っていました。
名古屋空襲のさい、撃墜されてパラシュート脱出したB29の搭乗員が燃え盛る市内に降下して焼けタヒんでしまい、その亡骸の首に紐を掛けて引きずり回す市民を目撃したと言っていました。
戦後、沖縄に復員すると、防衛隊だった弟は艦砲射撃の直撃で戦タヒ。
母(私の曾祖母)は砲爆撃の最中近所の人と避難してる最中に逸れてしまい、そのまま行方不明。
復員した祖父は、母が逸れる直前まで一緒に避難していた近所の人を訪ねて母が最後に目撃された場所を聞きだし、その場所へ行くと無数の遺骨が散らばっていた。
その散らばった骨の中から誰のか分からない骨を適当に拾って墓に収めたそうだ。
父方の祖父は昭和18年入隊の海軍航空機の整備兵、佐世保鎮守府所属で九州の航空基地を転々としてたそうです。
祖父の話では、入隊早々、上官から航空機に関する記録がギッシリ詰まったノート3冊を渡され「3日で覚えろ。」と言われた事、空母乗艦の有無で判断に迷ってた時に夢枕に立った母に「船には乗るな!」と言われ陸上勤務を選択、空母を選択した戦友は誰も生還しなかったそうです。
火星や金星エンジンを主に整備してた事、一式陸攻のバッテリーはデカくて重かった事、日本の航空機エンジンはパッキンの技術が低かった事が原因でエンジンの何処かから常に油漏れがあった事、長崎の大村基地で学徒出身の兵が操縦する雷電が着陸速度が早すぎてバウンドして横転した事、雷電について「あの飛行機はワタブー(胴体が太ったデブ飛行機)」と言ってたこと、月光(夜間戦闘)は黒く塗られてた、グラマンやPナントカ(P51)の機銃掃射にあったこと、避難すべき防空壕に間に合わず近くの防空壕に避難したら、本来避難すべきだった防空壕に爆弾が直撃して、その中に居た人が全員戦タヒし祖父は命拾いしたこと。
鹿児島の出水や指宿基地では水上機の整備をしてたらしく、「飛んでいった飛行機は殆ど帰ってこなかった」と言っていました。
※九州は戦争末期、特攻基地が多く存在した事から、おそらく特攻機の事だと思う。
祖父は、国によって命日が決められた特攻隊員の事を語るのは辛いようで、口を濁したので詳しくは聞かなかった。
最後は鹿児島の指宿基地で終戦を迎え、機密書類と一緒に自分が記録した火星・金星発動機の記録も一緒に焼却し復員したそうだ。
唯一戦地から持ち帰ったのは、絵の上手な戦友に描いたもらった水兵服姿の自画像。
これは、戦死した時の遺影にするつもりだったと言っていました。
日本の軍隊について祖父が言っていたのは「ある日、街灯のない夜道を歩いてると上官と出会った、街灯のない真っ暗闇で直前まで存在に気が付かず敬礼が遅れた、上官は憤慨し気が済むまで殴ってきた。
立場の弱い者をブン殴る事しか頭がないから戦争にも勝てないんだ。」と言っていた。
そういえば戦争の事は聞いたことなかった。
祖父は父母双方既に鬼籍なので確認ができないのが悔やまれる。
私は自らのルーツを調べた時に偶々情報が各所に残ってたから探り始めることができたけど、それでも知らない事はかなり多い。
生きてるうちに祖父祖母父母に色々聞いておいた方がいい。
母方の方は大陸戦線。
父方は内地で古参として教育側にまわっていたみたい(兵科は工兵)。
父方の祖父の兄は大陸で亡くなって、祖父はレビラト婚となり家を継いだらしい。
亡くなった祖父は郵便局で働いていた経緯から通信兵で沖縄本土に行っていた。最初は沖縄中に通信設備を張り巡らす作業をしていた。最初は平穏だったが、沖縄戦が始まり、流れ弾で脚を負傷し、動ける程度ではあったが隊の皆とは同じ速度では動けずはぐれてしまい、いつのまにか隊の人たちとはちがう島の反対方向に逃げたことで集団自決などにもならずに生き残れた。最後まで一緒にいた仲間の一人が非常に勇猛な人で米軍のキャンプから食料を盗んだりしてくれて生き残れたと、終戦後米軍に投降し、その後本土に帰還したと生前語ってくれた。
うちのばぁちゃんは、終戦直後に産まれて上の兄妹に育てられて
自分も下の妹を育てるために小学校も行かず畑したりして
就職も漢字が読めませんので教えてくださいって言って真面目に働いて今があるらしい‥
兄妹が多くて親じゃなくて兄妹が育ててくれるってところ多かったよね
今の少子化問題も仕方ないのかなって思う。
戦争行って帰ってきたら嫁に浮気されて離婚して再婚して母が生まれたと聞いた
父方は南方でセンシした。母方には野原で訓練してたら終戦になったみたいな話を聞いた気がするが、どうやら要人警護任務の憲兵だったらしい事を死後に聞いた。
僕の祖父は満州で戦っていたようです
友人が隣で撃たれて殺されたり目の近くに弾が当たって右手か左目かどっちかの目が悪かった気がします
小4だったから仕方ないけどもっとたくさん話聞いとけばよかったと思っています
毎回老人ホームから帰る時敬礼してくれたので敬礼を返していたのも覚えています
じいちゃんのにいちゃんは醤油飲んで兵役逃れたらしい。ばあちゃんのお父さんは満州で教師やってて生徒と一緒に逃げたとか
満州の方が圧倒的安全なんだなぁ〜
自分の曾祖父は戦前朝鮮半島の北部で陸軍に所属していたらしい
自分が産まれたときには既に亡くなっていたので詳しい話は全く知らない。敵兵を何人か射殺したことや戦後のゴタゴタでかなりトラウマになっていたらしく、戦争の話だけは頑なに話さなかったそうだ。
詳しくは教えてもらってないけど殺されて海に捨てられたとか聞いたわ
古参兵レベルの軍歴なのに戦争してないって言ってた
威嚇程度に適当に打ち合う小競り合いは経験したけど戦闘は未経験らしい
詳しくは知らないですが、ひいおじいちゃんが輸送船の船長だったと聞いたことあります。1番狙われる危険な任務だったそうですが、無事に帰ってこれたそうです。
ひいじいちゃんが両方海軍で、母方はそろばん3級を持っていたから前線に駆り出されずに喜望峰に行って、父方の方は准尉官で太平洋戦争で死んじゃったとか聞いた。
ウチの先祖は秋田でマタギしてたらしい
んで戦争行って、戦後マタギに復帰したって
この時の戦後ってのは太平洋戦争ではなくて日露戦争のことだけどね
いつもシャツのボタン飛ばして、マッチョで毛深い胸元見せるから「すけべマタギ」とか呼ばれてたらしいわ
どんな人だったんだろうな…
なぜかアイヌ語が少し分かったんだって
まったく家系的に繋がりないのに笑
何してたかは聞いてないけど、上官が敗戦悟っててひたすら前線から逃げ続けてたって言ってたな
そんで、物資で宴会騒ぎしてたって
昭和43年生まれのわしが小さい頃、ばあさまに連れられて浅草寺の参道を歩いてたら、傷痍軍人が軍服姿で物乞いをしててさ。それを見たばあさまが「あの人たちは生きてるだけ幸せなんだよ」って。ばあさま、ふだんは戦時中の話はしなかったからなおさら、あの時のことはおさなごころに残ってるわ。
ばあさまの旦那(わしの祖父)は戦争の初期に満州で戦死した。銀行員だったのが、なんかいろいろあって満州で軍の会計係みたいなことやってたらしい。じいさまが戦死した時、ばあさまは子供を二人かかえて、三人目がまだおなかにいた。わしの親父が二人目で、叔父は生まれる前に父親を亡くしたわけ。
あの世代には珍しくもない話だろうけど、ばあさまは小さい時に関東大震災を生き抜いて、空襲も生き抜いて(東京大空襲の日は疎開してたらしい)、戦後は貸本屋をやりながら幼い子供3人を育てて、養母にはかなりいびられて、どれが一番の修羅場だったのかなぁ。わし、ばあちゃん孝行できたかなぁ。
うちのお爺様は皇居の警備していたそうです。
戦争の話しすると機嫌が悪くなる人でした。戦地で命かけて頑張ってる人に申し訳ないと…
自分も小学生の頃被爆された方がお話に来られてて講義の後に大和について聞いたら兄(確か)が大和造っていたとの事で、あの大きい戦艦大和だからかなりの人数居たと思ったら確かにと思いました
psちなみに自分の先祖の写真が出てきて戦時中は海軍の士官〜将校の辺りの方でした
山にいたら戦争終わったとか何とか言ってたな。
で戦後はリアカーに漬物載せて売り歩くところから何やかんやで成功してお金持ちになれたとか言ってたな…。
祖父は戦後を主に生きた人だけど、幼少期に奉公に出されててその縁でその後起こした会社がうまくいった話好き
曽祖父は特効に行ったけど体の調子が思わしくなくて引き返したって聞いた。まだ新婚くらいで子供はいなかったからもしそのままいってたら自分はいなかったかもしれませんね
めっちゃ前に聞いたから忘れたけど割と上層部だったらしくどっかの国に司令チームとして行ったけど終戦。終戦後ちょっとの間終わったと知らず隠れてたから帰りが遅く、ろくなもの食べてなかったのもあって帰国して初めて食べたチーズ?アイスクリーム?に感動したって話良くしてた
うちの曾祖父は近衛兵だった。
おかげで今でも元気でっす
イケメンだったのね
本日告別式に行ってきました。遺骨は物凄い丈夫で普通残らないような胸骨まで残っていてさすが99歳まで元気だったと思いました。
父方祖父は背が低すぎて徴兵されず、役場で召集令状を配る係をしていたが、落ちてきた焼夷弾を拾って川に投げ込んだという武勇伝がある。
父方の爺ちゃんは海軍少尉でフィリピン辺りで戦死したそうな
母方の爺ちゃんはお巡りさんで何処かの副署長だったらしい
我が家系の叔父は満州で機関銃部隊の伍長していた模様。お腹に掠った弾丸跡があったのを、この動画を聴いて思い出した。刀による処刑や敵を狙撃した話を聞いて後悔したものです。あと捕虜にしたソ連のパイロットに女性がいたそうです。記録を調べた事もあったがよくわからなかったっけ。
え!マジですか!?
@@鯛代-o6e
出来たらマジじゃないであって欲しいんですが、本人が語ってましたからマジなんでしょうね。僕より先輩の方の父が、深酒した時たまに語るって話はもっとキツい話でしたが、生で聞く戦争は悲惨…ってか汚いって思う物も多いんですが、この動画に登場する戦争経験の方達が生き残ってくれて本当に良かったと思います。我が家系の方は何人も亡くなりましたからね。
亡くなった方々はきっと天国に行けてます
父方祖父→中国の長江?揚子江?の近くまで行ってたらしい。食事を作ったり楽しい思い出しか話してくれなかった。
母方祖父→内地で軍馬の世話係みたいな事をしていたらしい。元気な頃は楽しい話しかしなかったらしいけど、亡くなる前の方になると理不尽に上官に殴られた話とか辛い思い出を話していたと聞く。祖父が前日までいたところが爆撃を受けて戦友たちが多く亡くなった事が2、3度あったと聞く。
ちょっと番外編
父方祖母→祖父が戦争に行く前に結婚。祖父が戦争から帰らないかもしれないからと、万が一の跡取り候補の小姑もいる家に残される。舅姑小姑と仲が悪く居場所は畑だったらしい。そのせいかあんまり家事スキルは高くなかった。亡くなる数年前まで畑が好きだったなぁ。
母方祖母→当時女学生だったが、畑でさつまいもを作ったり授業らしい事はしていなかったと聞いた。もっと色々な事をしたかったって言ってた。
うちの爺ちゃんは左肩を銃で撃たれながらも無事に帰還してくれた。東南アジアの村で匿ってもらって、いつかそこに御礼をしに行きたいって言ってたなぁ。
満州戦線→シベリア抑留→無事帰国ってな感じだったな、、、(曾祖父さんだけどな)
この話でこんなに盛り上がるのって凄いな……
自分の母方の爺ちゃんは指が骨折してた為戦争行ってません
父方の曾祖父はch民と同じ背が高くて騎馬隊
うちの爺婆は小学生だったがその時からラブラブだったらしい(真偽不明)
なお下町っ子なので大空襲の事は話したがらないよ
爺さんが中国戦線で戦ってた。何時もは迫撃砲一発で逃げていくヤツ等が逃げずに撃ちまくって来るので、中国兵にも根性の据わった奴が居るんだなと、更に攻撃してトーチカを爆破した後に中を見に行ったら死んだ中国兵の足が中に渡されたチェーンに針金で縛られていたらしい。爺さんそれがショックだったらしく何度も同じ話を聞かされた。
爺ちゃんどっちも戦後生まれやわ…どっちも自慢の爺ちゃんやで!
うちのじっ様はビルマで捕虜になってたとか言ってたなあ
絵心があったから看守に日本画描いてあげたら色々食べ物くれたんだとか
どこまでホントか知らんが
家の祖父ちゃん、非国民だった
親戚に憲兵いたから、国内に置いとくとヤバいからと、満州の会社に飛ばされて設計士やってたそうだ
終戦の時、親しくしていた中国の友人がみんなが逃げた方へ行っては駄目だと、匿ってくれた
さらに、逃げる時に自分が信頼する仲間に手紙を書いて守ってくれたそう
友人から友人へ、手紙は続き、家族全員誰一人欠ける事無く帰国
日中の親交が交わされた時、友人が日本へ行く人に頼んで久方ぶりに手紙を送ってくれた
残念ながら、祖父母もご友人も今は亡き人
現在の日中の関係を生きていたらどう見たか…
戦下の時代でも、国よりも人と人であったのは本当に尊敬出来る
祖父が話してくれた戦争は一部の人間の利益だけを得る愚かな行為だから二度と起こしてはならないと言う言葉が何よりの贈り物だ
記憶は曖昧だけどひいおじいちゃん(既に亡くなった)はフィリピンに出兵してて敵と戦ってて引き上げる時に隣にいた兵士に声かけたけど頭に銃弾受けて死んでたらしい。 ひいおじいちゃんはその後運送兵として働いて被爆した。でも長生きしたらしい。これが一番印象的だったんだけど、被爆した人は被爆者手帳貰うんだけど、じいちゃんは家族が風評被害受けないために頑なに貰わなかったらしい。
父方祖父:満州のどっかの部隊長で戦後シベリア抑留。生まれる前に亡くなったけど、葬式には部下が全員参列したそうな。何でも部隊長(祖父)のおかげで全員生き延びられたとこのこと。母方の祖父が父方の祖父の写真見て勲章が上級士官のだって言ってたな
母方祖父:18で朝鮮に出兵。何もせずに21で帰還。桃をめちゃくちゃ食って嫌いになったとよく話してたが、戦争関係の話は嫌がってあまり話してくれなかったなぁ。テレビで戦争モノ観てても嫌がられたし
あと、親族ではないけど知り合いに戦後の残留邦人の人が居て今は日本に帰化できたけど苦労話をよくしてくれた