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分かりやすくしてもこれだけややこしいのですね、参考になりました。もはや誰と誰が何と戦ってるのかも分からなくなってきます。
仲 良 く し ろ
もしも全世界が仲良しだったら平坦な歴史が続くのだろうか
覚えることが大変だもんな
確かにこいつらの喧嘩のせいで歴史の勉強で覚えることが増えてると思うと
全員敵は身内身内ほど恐ろしい敵はいない
応仁の乱はややこしいから、これはありがたいです。ほんとに感謝!
ブラタモリでやっていたな。わずか7mの橋の両脇に両軍の本陣を設置して、毎日戦をしていた。話し声が分かる距離に両軍の基地があったなんて想像できない。ドラマでやれば面白い。
このチャンネル一人で編集とナレーションやってるってマジですか?凄すぎますわ
ありがとうこれからも応援よろしく
@@ああ-v2i2g誰やねん
高校の授業や教科書では政局的な人間関係やロジスティックについては何も語られないので、応仁の乱がどのような物だったか本質的な理解ができませんが、短い時間でここまでまとめてあるのは素晴らしい。室町幕府は江戸幕府のような制度による行政能力が乏しいにもかかわらず、その代わりをなすはずの最終意思決定する統治者の政治力・経済力・軍事力が弱かったことが、南北朝から戦国時代までぐだぐだが続いた理由でしょう。
そもそも学校で教える習う必要あるのかな。
応仁の乱は当時の京都住人が「そもそもこの大規模の争いは何で始まって、何で終わったのかそれすら謎」と手紙に残す位兎に角グダグダの内乱。
1 た1
幕府の権威が失墜し、国内の諸勢力をまとめ上げる存在が失われてしまったそれが根本的な理由だ対立の原因も多岐に渡り、将軍家の後継争いだけではなく。幕府内部の対立や守護大名同士の対立さらには大和国内部の対立の国人の対立などが複雑に絡み合って生じていた。それだけにいったん、火が吹けば当人同士も止めようがなかったのだろう。結局、戦争が終わったのは、誰もが疲れ果てて戦う気力を失った時だった
で、千本の塔婆が塔婆が立ったから千本通りとなったそうですほ
確かにグダグダで有名ですね。外国の戦争も結局誰の後ろ盾が誰とかでぐちゃぐちゃになっていきます。
応仁の乱は何がなんだかだったが解りやすく解説してくれてもやっぱり何がなんだかだった
学校で習う何十倍の情報量なんだ笑
テスト前だからテストに出るところ(教科書に記載されているところ)だけ学べばいいはずが面白すぎて高校日本史では深堀りしないところまで見てしまう、、😮💨今回も面白くわかりやすい動画をありがとうございます!
わかりやすくて助かります応仁の乱に興味があったので‼️
これだけわかりやすく整理してくれてもなおゴタゴタするから、如何に応仁の乱が入り込んでるかわかりますね!
応仁の乱、教科書読んでも、登場人物が多い上に「ざっくりと」しか書かれてないので、この半年ずっとこの動画をお待ちしていました。
斯波氏は越前などの守護大名だったが。家臣であった朝倉隆景に追放され、家臣の織田氏と共に尾張に逃れたその家臣の織田氏から織田信長が登場し、斯波氏は尾張からも追放されてしまったわけだ後に織田信長は浅井長政と連合を組んだ朝倉家と戦い勝利し、越前を追放された父祖の屈辱を晴らしたわけだ
応仁の乱から日本各地で守護大名戦国大名が現れるようになる
今って学習に関しては良い時代になったよな。
一回、観ただけじゃ誰が何の為に行った戦か、分からなくなるなw
畠山持富絶対優しい
よく理解していなかった応仁の乱が、少しずつ理解できました。ありがとうございます。日本史の中で南北朝と応仁の乱は、人間関係等が複雑で本当に解りづらいです。応仁の乱は誰かが天下統一したとかハッキリした決着がないのも、また理解を難しくしています。まず足利幕府というのが権力基盤が弱い政権だったことが解りました。会社で言えば社長(将軍)が思うがままに会社を動かせず、重役(管領等)が強い権限を持っていたと。その重役(守護大名)が本社・京都に出向している隙に、地方にある自分らの所領を家臣(守護代等)に強奪される下剋上こそが戦国時代の始まりだったのでは?三管領家に代わり足利幕府体制で「政権交代」を果たした戦国大名は三好長慶でしたが(→14代将軍・足利義栄を擁立)、信長・秀吉・家康の覇業成就により、日本は真の統一国家になったのではないでしょうか。
途中で担いでる御輿が入れ替わるとかいう珍現象
自分の息子を勝元の養子にするほど仲の良かった山名宗全が、なぜ勝元と戦うようになってしまったのか詳しく知りたいです。
解説分かりやすい。「応仁」は歴史理解度とプレゼン力が問われますね。少し意外なのは、今回、朝廷側がほとんど表に出てこないことです。室町初期には南北分裂で相当混乱させたのに。
裏で駆け引きをしていたと思ったほうが理に叶いませんか?朝廷もDevide and Conquer を戦略にしてきた歴史があって、この時だけ関わらなかったと言うのもおかしくないかな?幕府内に権力闘争があって幕府を二分にするチャンスなんて利用しない手はないでしょう?この頃の朝廷に野心はなかった?。。。
後花園天皇はけっこう積極的なんですよね
凄くよくまとめてくれてるのに少しでも作業動画的に聞くと途端に理解出来なくなる応仁の乱って凄いわw
応仁の乱キター‼︎
これ見て思ったのは朝令暮改やべえってことだな。上にいる奴らがことごとく「やっぱ家督こっち」「やっぱこっちにつく」をやりすぎて反乱の目をどんどん育ててる。
教科書では「東軍の細川勝元と西軍の山名宗全に分かれて約11年争った」くらいの簡単な説明で終わってたのにこんなややこしかったんだ…
最近、伊勢宗瑞の小説よんでて、この時代結構面白いな。って、思うようになった
わかりやすかったです!
応仁の乱編、首を長くして待っていました!時の将軍が風見鶏になっている時点でこの幕府だいぶ終わってますね。
当時の将軍は何事も一人で決められるほど影響力は大きくなかった。斯波氏や畠山氏の家督争いに介入して、支持する側をコロコロと変えたのも有力大名の勢力を削ろうとした思惑もあったようだがなにより幕府内部の派閥対立に将軍が煽られてしまった結果らしい
理解出来ました本当に分かりやすかったですありがとうございます🥹
タイムマシンに乗って現場を見に行きたい🔥
ホントこのころに生まれてなくて良かったとつくづく思います.笑.家を焼かれたりした庶民はさぞ大変だったことでしょうね.
これから戦国時代に入ってくると思うと楽しみ
奥深いですね。
とても分かりやすかったです。 昔から応仁の乱の経緯はどうにも説明のしようがないと聞かされていましたが、こんなふうに個々の思惑が推定できたのはいつ頃のことなんでしょか?
日本全国47都道府県に心霊スポットが出来るきっかけは応仁の乱だと言われてます!
こうして見ると争いが絶えない国
室町時代の京都って南北朝や応仁の乱で散々に争いが起きて焼け野原になるなど酷い目にしかあってない
斯波氏と畠山氏の対立が激しくなり、大名と貴族との対立も激しくなった結果、応仁の乱は起き、細川勝元と山名宗全が京都を中心として戦闘を行い、御所を襲ったりした。そして、戦闘が全国に拡大した。とのことか
山名氏の子孫と細川京兆家の子孫は共に豊臣家に使えて大阪の陣で味方として戦うのであった
いつの世にも糧道を絶つのは、定石にござりますな!
なかなか嗣子に恵まれなかった義政が、遅くに正室日野富子に嫡子を得たことでさらにカオスになるのだけれど、その義尚が若くして亡くなるという元の木阿弥が実に悲しい ま、でも京洛の庶民は意味もわからず立て続けの戦に家財を焼かれ続けたんだろうなあ‥
なんでさっきまで東軍だった奴がそんな簡単に西軍に移るんだよww
義政しっかりせい!www
そりゃ教科書じゃ分からんわけだ。
実に面白い! だけどこれを全部覚えるのは至難の業だ
おおにんのらん⇄七面鳥ややこしい~むなしい~心
最終的に義政の後継者争いと言うよりかは細川と山名の争いってことですか?あまりどっちが義視、義尚に着いていたとかは知らなくていい感じですか?義視が東軍から西軍に変わったりして難しい…
ややこしすぎて笑うww
これ、現代の人間が説明を聞いても混乱するんだから、情報伝達手段が限られている当時の人々は理解不能に陥るでしょう。
跡形もなく滅亡してゆく守護大名と成り上がる戦国大名
とてもじゃないけど14分の内容とは思えない濃さ
斯波と畠山のそもそもな部分がよく分かりました。けど、この時代って、どうして武力での内紛があちこち起きるんだろうか。守護と守護代の対立、家督を巡る対立、役職を巡る対立、色々あるけど、武力を用いた対立が多すぎる。鎌倉から室町になって、何がどう変わってしまったがゆえにこうした武力による対立が恒常化していったんだろうか。史学科でこうしたことを学びたかった。。
鎌倉時代まではまだ朝廷の力も強くて、鎌倉幕府も地方政権という意味合いが強かったのが特徴です。しかしその朝廷が後深草天皇が始祖の持明院統、亀山天皇の始祖の大覚寺統に分裂し鎌倉幕府も両統迭立で進めていきます。やがてそれが大覚寺統の後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕と建武後醍醐政権が樹立しました。しかし建武後醍醐政権は武士より公家を重用して、それが武士達の不満となり後醍醐天皇に対抗すべく足利尊氏を擁立し、その足利尊氏が持明院統を支持して南北朝の動乱となりました。(通説ではそうみたいですけど、後醍醐政権は公家より足利尊氏をはじめとした武士を重用したとか…ただ後醍醐天皇の恩賞がどんぶり勘定だったことが武士の不満だったようです。)こうなると朝廷の力が弱まり武力での解決する方がポピュラーとなりました。変な話応仁の乱のそもそも原因は鎌倉時代の朝廷の分裂から始まったとも言えますし、その朝廷の対立が室町幕府の成立とそれまた室町幕府の分裂…更には各守護大名の分裂が戦国時代へと進んでいくことになりました。戦国時代の原点は鎌倉時代…更には平安時代はじめの桓武天皇の政策まで遡ることになると思ってます。更には東日本大震災と同規模だった貞観地震も朝廷が地方に無関心になって武士の台頭に繋がったとも言えます。鎌倉時代から室町時代になってなにがどう変わったかというより、鎌倉時代のうちから武力による解決が顕著になり始めたと言った方がいいと思ってます。
@@コーティー ありがとうございます。天変地異が国政に及ぼした影響って、もう少し歴史で教えてほしいですよね。国内の不安、治安の悪化、一揆の頻発、これって政治だけではなく、機構によるものも多いはずだし、これも含めての日本史ですからね。
@@kumosukeponsuke そうですね。気候の変化や自然災害が日本史に大きく変更した事も大きいです。貞観地震は1000年に一度の大震災だったことを東日本大震災の頃に聞いたことあって、その辺の政治情勢調べたら、貞観地震の影響で朝廷は諸外国との交流を無くしたみたいなんです。その当時は自然災害につけ込まれるのも理由だったのかなって…東日本大震災ではアメリカの友達作戦をはじめとした諸外国からの支援もあった時とは対象的でしたね。貞観地震の頃の天皇は実は清和天皇で摂政はその祖父の藤原良房でした。彼らの政策が関東や東北を無関心にさせて、その彼等の子孫の源頼朝が鎌倉で政権を立てたのは皮肉とも言えますよね。しかも東日本大震災でも細川護煕元首相が都知事選に出馬してこの時は落選してますけど、彼も清和天皇や藤原良房の子孫にあたりますからね。その細川護煕も脱原発・東京五輪返上論を当時から唱えてましたけど、今のコロナ禍でそれも現実味帯びてることも皮肉ですね。
武器普及や戦闘技術の向上も要因かと思います。この頃から戦国末期までに日本は世界有数の軍事大国になります。ただ政治対立→軍事強化の逆もありえるので因果は証明しづらい。
戦国時代がなぜ戦ってるかわからなかったけど NATOとかソ連とかそれに似たもつれが日本の中にもあったって感じですね
応仁の乱 1467年家(1)世継ぎで(4)無益な(6)争い長引いて(7)「人世虚しい」の方が覚えやすいか…
情報量多いけど何も入って来ない.....どうでもいいグダグダの争いじゃねえか!
ついに学習がUA-cam高校に追いついてしまった、、どうしよう
早く江戸解説が見た〜い
弥三郎派と義就派なんですか?教科書には政長と義就となっていて分からなくなってしまいました。
確か赤松政則方が嘉吉の変で失って山名領になってた播磨旧領回復のために和平を反対してそのまま切り取ったって聞いたけどな
これ武士の抗争として見るよりや○ざの抗争として見た方がしっくりしますwww
疑問に思っていたが両軍20万が対峙したのに、応仁の乱は10年も続き、関ヶ原の戦いはわずか1日、実質半日で勝敗が決したのか?
後南朝が最期に確認された戦ですね
応仁の乱を是非NHK大河でやってほしい。( ´∀` )
やりましたよ。1994 年の「花の乱」。
@@MEMORYOF1980視聴率は、よろしくなかったですね
権力に取り憑かれた男たちの争い
強力して何かを成した事は道や橋以外にあるのか?
応仁の乱は足利幕府で起きた家督争いが原因で発生した。京の町は焼かれ、金閣寺や清水寺も焼かれた(8月13日01:24)
結局は応仁の乱は単なる権力争いだったね
やっぱり複雑な争いでしたが乱が勃発したのは幕府の周りに天才的な策士がいなかったためだと思います。
激しいマウントの取り合いで振り上げた拳下ろせなくなった結果がこれ
どうやったら二年半も籠城できるの?
そもそも出てくる人みんな名前が似すぎてて誰が誰かわからなくなる
内ゲバに次ぐ内ゲバ..
山名政豊は山名持豊(宗全)の「孫」説が有力ではないでしょうか。「子」説もあるようですが。
義政の代わりに義輝や義昭が将軍だったら、もう少しマシな顛末になっていたのかね。
この頃の京都の住人の生活の様子がなかなか想像できない😅焼け野原の上に掘っ立て小屋でも建てて凌いでいたのだろうか・・いずれにしても,いつの時代も弱者が犠牲に(T_T)
中学生カップルかってほど引っ付いたり離れたりするやん
義教ほどではないけれども、義政も気が短い方なんですかね…🤔
この時代の人たちって封建制という固定社会の中でみんな好き勝手に生きてるカンジがして、なんか好きなんだよなぁ。江戸時代の武士みたいに堅苦しくない。
どーーーーーーーーーしてもケンカしたいのね。この人達
結局みんな、他人の家の喧嘩に介入しすぎて騒動がでかくなるんだよなw
8:13 この頃ってある意味北朝鮮みたいな感じだったんだと思うわ。俺らが想像する以上にこの頃の将軍って金正恩みたいな感じだったんたと思うぜ(笑)
この時代の日本は裏切りと争いの世だね
京都の観光してると色んな所で「応仁の乱の為に焼き払われ再建されました」というフレーズを見て、大嫌いだった戦です。郊外で戦えばいいのに・・・てか焼き払う必要ないじゃろ。
こうしてみると、義政の手元に廻ってきた爆弾を義政が放置して爆発させた挙げ句「俺関係無いよ?」ツラしてたのが悪い気がしてきたつーか結局内ゲバばっかりじゃないですかやだー!!(世の常)
都焼き付くしってこれ以前あるのか?関ヶ原よりやべえじゃん
小学校の喧嘩みたいな感じで当事者忘れてどんどん膨れ上がったって感じね。
細川ってこん時にはもういたのかー
細川氏は足利氏の支流で鎌倉時代からある名家です。ちなみに斯波氏も畠山氏も足利一門です。
京の首都機能を奪い取った戦両軍の総大将勝元と宗全は娘婿と舅花の乱で描かれてたけど?
源氏は本当に日本に迷惑をかけるなあ
悪夢の始まる‼️
足利成氏と畠山義就とが戦ったらどっちが強くて勝つのだろうか???ということをふと思いました^^。
京都を火の海にした夫婦喧嘩
教科書端折りすぎだろ…
ぐちゃぐちゃで笑う
グダグダ過ぎて逆に笑える
斯波義廉が応仁の乱一番の被害者だな管領経験者が行方不明とは
勝手に争え!
便秘便なら 即理解!
これ、10周はすべきねおけ
分かりやすくしてもこれだけややこしいのですね、参考になりました。
もはや誰と誰が何と戦ってるのかも分からなくなってきます。
仲 良 く し ろ
もしも全世界が仲良しだったら平坦な歴史が続くのだろうか
覚えることが大変だもんな
確かにこいつらの喧嘩のせいで歴史の勉強で覚えることが増えてると思うと
全員敵は身内
身内ほど恐ろしい敵はいない
応仁の乱はややこしいから、これはありがたいです。
ほんとに感謝!
ブラタモリでやっていたな。わずか7mの橋の両脇に両軍の本陣を設置して、毎日戦をしていた。話し声が分かる距離に両軍の基地があったなんて想像できない。ドラマでやれば面白い。
このチャンネル一人で編集とナレーションやってるってマジですか?凄すぎますわ
ありがとうこれからも応援よろしく
@@ああ-v2i2g誰やねん
高校の授業や教科書では政局的な人間関係やロジスティックについては何も語られないので、応仁の乱がどのような物だったか本質的な理解ができませんが、短い時間でここまでまとめてあるのは素晴らしい。室町幕府は江戸幕府のような制度による行政能力が乏しいにもかかわらず、その代わりをなすはずの最終意思決定する統治者の政治力・経済力・軍事力が弱かったことが、南北朝から戦国時代までぐだぐだが続いた理由でしょう。
そもそも学校で教える習う必要あるのかな。
応仁の乱は当時の京都住人が「そもそもこの大規模の争いは何で始まって、何で終わったのかそれすら謎」と
手紙に残す位兎に角グダグダの内乱。
1 た1
幕府の権威が失墜し、国内の諸勢力をまとめ上げる存在が失われてしまった
それが根本的な理由だ
対立の原因も多岐に渡り、将軍家の後継争いだけではなく。幕府内部の対立や守護大名同士の対立
さらには大和国内部の対立の国人の対立などが複雑に絡み合って生じていた。
それだけにいったん、火が吹けば当人同士も止めようがなかったのだろう。
結局、戦争が終わったのは、誰もが疲れ果てて戦う気力を失った時だった
で、千本の塔婆
が塔婆が立ったから千本通りとなったそうですほ
確かにグダグダで有名ですね。外国の戦争も結局誰の後ろ盾が誰とかでぐちゃぐちゃになっていきます。
応仁の乱は何がなんだかだったが解りやすく解説してくれてもやっぱり何がなんだかだった
学校で習う何十倍の情報量なんだ笑
テスト前だからテストに出るところ(教科書に記載されているところ)だけ学べばいいはずが面白すぎて高校日本史では深堀りしないところまで見てしまう、、😮💨今回も面白くわかりやすい動画をありがとうございます!
わかりやすくて助かります
応仁の乱に興味があったので‼️
これだけわかりやすく整理してくれてもなおゴタゴタするから、如何に応仁の乱が入り込んでるかわかりますね!
応仁の乱、教科書読んでも、登場人物が多い上に「ざっくりと」しか書かれてないので、この半年ずっとこの動画をお待ちしていました。
斯波氏は越前などの守護大名だったが。家臣であった朝倉隆景に追放され、家臣の織田氏と共に尾張に逃れた
その家臣の織田氏から織田信長が登場し、斯波氏は尾張からも追放されてしまったわけだ
後に織田信長は浅井長政と連合を組んだ朝倉家と戦い勝利し、越前を追放された父祖の屈辱を晴らしたわけだ
応仁の乱から日本各地で
守護大名戦国大名が現れるようになる
今って学習に関しては良い時代になったよな。
一回、観ただけじゃ誰が何の為に行った戦か、分からなくなるなw
畠山持富絶対優しい
よく理解していなかった応仁の乱が、少しずつ理解できました。ありがとうございます。
日本史の中で南北朝と応仁の乱は、人間関係等が複雑で本当に解りづらいです。応仁の乱は誰かが天下統一したとかハッキリした決着がないのも、また理解を難しくしています。
まず足利幕府というのが権力基盤が弱い政権だったことが解りました。会社で言えば社長(将軍)が思うがままに会社を動かせず、重役(管領等)が強い権限を持っていたと。その重役(守護大名)が本社・京都に出向している隙に、地方にある自分らの所領を家臣(守護代等)に強奪される下剋上こそが戦国時代の始まりだったのでは?
三管領家に代わり足利幕府体制で「政権交代」を果たした戦国大名は三好長慶でしたが(→14代将軍・足利義栄を擁立)、信長・秀吉・家康の覇業成就により、日本は真の統一国家になったのではないでしょうか。
途中で担いでる御輿が入れ替わるとかいう珍現象
自分の息子を勝元の養子にするほど仲の良かった山名宗全が、なぜ勝元と戦うようになってしまったのか詳しく知りたいです。
解説分かりやすい。「応仁」は歴史理解度とプレゼン力が問われますね。
少し意外なのは、今回、朝廷側がほとんど表に出てこないことです。室町初期には南北分裂で相当混乱させたのに。
裏で駆け引きをしていたと思ったほうが理に叶いませんか?朝廷もDevide and Conquer を戦略にしてきた歴史があって、この時だけ関わらなかったと言うのもおかしくないかな?幕府内に権力闘争があって幕府を二分にするチャンスなんて利用しない手はないでしょう?この頃の朝廷に野心はなかった?。。。
後花園天皇はけっこう積極的なんですよね
凄くよくまとめてくれてるのに少しでも作業動画的に聞くと途端に理解出来なくなる応仁の乱って凄いわw
応仁の乱キター‼︎
これ見て思ったのは朝令暮改やべえってことだな。上にいる奴らがことごとく「やっぱ家督こっち」「やっぱこっちにつく」をやりすぎて反乱の目をどんどん育ててる。
教科書では「東軍の細川勝元と西軍の山名宗全に分かれて約11年争った」くらいの簡単な説明で終わってたのにこんなややこしかったんだ…
最近、伊勢宗瑞の小説よんでて、この時代結構面白いな。って、思うようになった
わかりやすかったです!
応仁の乱編、首を長くして待っていました!時の将軍が風見鶏になっている時点でこの幕府だいぶ終わってますね。
当時の将軍は何事も一人で決められるほど影響力は大きくなかった。
斯波氏や畠山氏の家督争いに介入して、支持する側をコロコロと変えたのも
有力大名の勢力を削ろうとした思惑もあったようだが
なにより幕府内部の派閥対立に将軍が煽られてしまった結果らしい
理解出来ました本当に分かりやすかったですありがとうございます🥹
タイムマシンに乗って現場を見に行きたい🔥
ホントこのころに生まれてなくて良かったとつくづく思います.笑.家を焼かれたりした庶民はさぞ大変だったことでしょうね.
これから戦国時代に入ってくると思うと楽しみ
奥深いですね。
とても分かりやすかったです。 昔から応仁の乱の経緯はどうにも説明のしようがないと聞かされていましたが、こんなふうに個々の思惑が推定できたのはいつ頃のことなんでしょか?
日本全国47都道府県に心霊スポットが出来るきっかけは応仁の乱だと言われてます!
こうして見ると争いが絶えない国
室町時代の京都って南北朝や応仁の乱で散々に争いが起きて焼け野原になるなど酷い目にしかあってない
斯波氏と畠山氏の対立が激しくなり、大名と貴族との対立も激しくなった結果、応仁の乱は起き、細川勝元と山名宗全が京都を中心として戦闘を行い、御所を襲ったりした。そして、戦闘が全国に拡大した。とのことか
山名氏の子孫と細川京兆家の子孫は共に豊臣家に使えて大阪の陣で味方として戦うのであった
いつの世にも糧道を絶つのは、定石にござりますな!
なかなか嗣子に恵まれなかった義政が、遅くに正室日野富子に嫡子を得たことでさらにカオスになるのだけれど、その義尚が若くして亡くなるという元の木阿弥が実に悲しい ま、でも京洛の庶民は意味もわからず立て続けの戦に家財を焼かれ続けたんだろうなあ‥
なんでさっきまで東軍だった奴がそんな簡単に西軍に移るんだよww
義政しっかりせい!www
そりゃ教科書じゃ分からんわけだ。
実に面白い! だけどこれを全部覚えるのは至難の業だ
おおにんのらん⇄七面鳥
ややこしい~むなしい~心
最終的に義政の後継者争いと言うよりかは細川と山名の争いってことですか?あまりどっちが義視、義尚に着いていたとかは知らなくていい感じですか?義視が東軍から西軍に変わったりして難しい…
ややこしすぎて笑うww
これ、現代の人間が説明を聞いても混乱するんだから、情報伝達手段が限られている当時の人々は理解不能に陥るでしょう。
跡形もなく滅亡してゆく守護大名と成り上がる戦国大名
とてもじゃないけど14分の内容とは思えない濃さ
斯波と畠山のそもそもな部分がよく分かりました。
けど、この時代って、どうして武力での内紛があちこち起きるんだろうか。
守護と守護代の対立、家督を巡る対立、役職を巡る対立、色々あるけど、
武力を用いた対立が多すぎる。鎌倉から室町になって、何がどう変わってしまったがゆえにこうした武力による対立が恒常化していったんだろうか。
史学科でこうしたことを学びたかった。。
鎌倉時代まではまだ朝廷の力も強くて、鎌倉幕府も地方政権という意味合いが強かったのが特徴です。
しかしその朝廷が後深草天皇が始祖の持明院統、亀山天皇の始祖の大覚寺統に分裂し鎌倉幕府も両統迭立で進めていきます。
やがてそれが大覚寺統の後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕と建武後醍醐政権が樹立しました。
しかし建武後醍醐政権は武士より公家を重用して、それが武士達の不満となり後醍醐天皇に対抗すべく足利尊氏を擁立し、その足利尊氏が持明院統を支持して南北朝の動乱となりました。
(通説ではそうみたいですけど、後醍醐政権は公家より足利尊氏をはじめとした武士を重用したとか…ただ後醍醐天皇の恩賞がどんぶり勘定だったことが武士の不満だったようです。)
こうなると朝廷の力が弱まり武力での解決する方がポピュラーとなりました。
変な話応仁の乱のそもそも原因は鎌倉時代の朝廷の分裂から始まったとも言えますし、その朝廷の対立が室町幕府の成立とそれまた室町幕府の分裂…
更には各守護大名の分裂が戦国時代へと進んでいくことになりました。
戦国時代の原点は鎌倉時代…更には平安時代はじめの桓武天皇の政策まで遡ることになると思ってます。
更には東日本大震災と同規模だった貞観地震も朝廷が地方に無関心になって武士の台頭に繋がったとも言えます。
鎌倉時代から室町時代になってなにがどう変わったかというより、鎌倉時代のうちから武力による解決が顕著になり始めたと言った方がいいと思ってます。
@@コーティー
ありがとうございます。
天変地異が国政に及ぼした影響って、もう少し歴史で教えてほしいですよね。国内の不安、治安の悪化、一揆の頻発、これって政治だけではなく、機構によるものも多いはずだし、これも含めての日本史ですからね。
@@kumosukeponsuke
そうですね。
気候の変化や自然災害が日本史に大きく変更した事も大きいです。
貞観地震は1000年に一度の大震災だったことを東日本大震災の頃に聞いたことあって、その辺の政治情勢調べたら、貞観地震の影響で朝廷は諸外国との交流を無くしたみたいなんです。
その当時は自然災害につけ込まれるのも理由だったのかなって…
東日本大震災ではアメリカの友達作戦をはじめとした諸外国からの支援もあった時とは対象的でしたね。
貞観地震の頃の天皇は実は清和天皇で摂政はその祖父の藤原良房でした。
彼らの政策が関東や東北を無関心にさせて、その彼等の子孫の源頼朝が鎌倉で政権を立てたのは皮肉とも言えますよね。
しかも東日本大震災でも細川護煕元首相が都知事選に出馬してこの時は落選してますけど、彼も清和天皇や藤原良房の子孫にあたりますからね。
その細川護煕も脱原発・東京五輪返上論を当時から唱えてましたけど、今のコロナ禍でそれも現実味帯びてることも皮肉ですね。
武器普及や戦闘技術の向上も要因かと思います。この頃から戦国末期までに日本は世界有数の軍事大国になります。ただ政治対立→軍事強化の逆もありえるので因果は証明しづらい。
戦国時代がなぜ戦ってるかわからなかったけど NATOとかソ連とかそれに似たもつれが日本の中にもあったって感じですね
応仁の乱 1467年
家(1)世継ぎで(4)
無益な(6)争い
長引いて(7)
「人世虚しい」の方が覚えやすいか…
情報量多いけど何も入って来ない.....どうでもいいグダグダの争いじゃねえか!
ついに学習がUA-cam高校に追いついてしまった、、どうしよう
早く江戸解説が見た〜い
弥三郎派と義就派なんですか?教科書には政長と義就となっていて分からなくなってしまいました。
確か赤松政則方が嘉吉の変で失って山名領になってた播磨旧領回復のために和平を反対して
そのまま切り取ったって聞いたけどな
これ武士の抗争として見るよりや○ざの抗争として見た方がしっくりしますwww
疑問に思っていたが両軍20万が対峙したのに、応仁の乱は10年も続き、関ヶ原の戦いはわずか1日、実質半日で勝敗が決したのか?
後南朝が最期に確認された戦ですね
応仁の乱を是非NHK大河でやってほしい。( ´∀` )
やりましたよ。1994 年の「花の乱」。
@@MEMORYOF1980視聴率は、よろしくなかったですね
権力に取り憑かれた男たちの争い
強力して何かを成した事は道や橋以外にあるのか?
応仁の乱は足利幕府で起きた家督争いが原因で発生した。京の町は焼かれ、金閣寺や清水寺も焼かれた(8月13日01:24)
結局は応仁の乱は単なる権力争いだったね
やっぱり複雑な争いでしたが乱が勃発したのは幕府の周りに天才的な策士がいなかったためだと思います。
激しいマウントの取り合いで振り上げた拳下ろせなくなった結果がこれ
どうやったら二年半も籠城できるの?
そもそも出てくる人みんな名前が似すぎてて誰が誰かわからなくなる
内ゲバに次ぐ内ゲバ..
山名政豊は山名持豊(宗全)の「孫」説が有力ではないでしょうか。「子」説もあるようですが。
義政の代わりに義輝や義昭が将軍だったら、もう少しマシな顛末になっていたのかね。
この頃の京都の住人の生活の様子がなかなか想像できない😅焼け野原の上に掘っ立て小屋でも建てて凌いでいたのだろうか・・いずれにしても,いつの時代も弱者が犠牲に(T_T)
中学生カップルかってほど引っ付いたり離れたりするやん
義教ほどではないけれども、義政も気が短い方なんですかね…🤔
この時代の人たちって封建制という固定社会の中でみんな好き勝手に生きてるカンジがして、なんか好きなんだよなぁ。江戸時代の武士みたいに堅苦しくない。
どーーーーーーーーーしてもケンカしたいのね。この人達
結局みんな、他人の家の喧嘩に介入しすぎて騒動がでかくなるんだよなw
8:13
この頃ってある意味北朝鮮みたいな感じだったんだと思うわ。俺らが想像する以上にこの頃の将軍って金正恩みたいな感じだったんたと思うぜ(笑)
この時代の日本は裏切りと争いの世だね
京都の観光してると色んな所で「応仁の乱の為に焼き払われ再建されました」というフレーズを見て、大嫌いだった戦です。郊外で戦えばいいのに・・・てか焼き払う必要ないじゃろ。
こうしてみると、義政の手元に廻ってきた爆弾を義政が放置して爆発させた挙げ句「俺関係無いよ?」ツラしてたのが悪い気がしてきた
つーか結局内ゲバばっかりじゃないですかやだー!!(世の常)
都焼き付くしってこれ以前あるのか?関ヶ原よりやべえじゃん
小学校の喧嘩みたいな感じで当事者忘れてどんどん膨れ上がったって感じね。
細川ってこん時にはもういたのかー
細川氏は足利氏の支流で鎌倉時代からある名家です。ちなみに斯波氏も畠山氏も足利一門です。
京の首都機能を
奪い取った戦
両軍の総大将
勝元と宗全は
娘婿と舅
花の乱で描かれてたけど?
源氏は本当に日本に迷惑をかけるなあ
悪夢の始まる‼️
足利成氏と畠山義就とが戦ったらどっちが強くて勝つのだろうか???ということをふと思いました^^。
京都を火の海にした夫婦喧嘩
教科書端折りすぎだろ…
ぐちゃぐちゃで笑う
グダグダ過ぎて逆に笑える
斯波義廉が応仁の乱一番の被害者だな管領経験者が行方不明とは
勝手に争え!
便秘便なら 即理解!
これ、10周はすべきねおけ