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ミサ曲ハ長調は、ベートーヴェンの曲の中でも大好きな曲の1つなのですが、滅多に演奏される機会がないのが不思議でした。こんな歴史があったのですね。
私もこの作品好きです!上演がうまくいかなかったのが侯爵が気に入らなかった理由のひとつみたいです。
なぜこのチャンネルがまだ7000人ちょいしか登録者がいないのか理解できねえ。30000はいてもおかしくない良チャンネル
ありがとうございます!
シューベルトの場合には、ベートーヴェンとは異なり、実業家的なことはすべて、友人たちがやっていてくれたのですよね。実業家的才能がないのに、あれだけの活動ができたのは、友人たちの力が大きかった、と改めて痛感します。
なるほど。19世紀の作曲家の作品数が18世紀のそれよりも格段に少ないのも、作品の大規模化や様式的な変化以外に、実務や他の仕事に時間を取られるいうこともあったということなのでしょうね。シューベルトはつい助けてあげたくなるような人だったんでしょうね。人徳でしょうか。
@@クラシック音楽奇譚 ウィーン国立歌劇場の指揮者でもあったマーラーは、「料理人はまず食材を揃えるところからやらなければならない」とこぼしています。有能な歌手たちを揃えるのに苦労していたらしい。マイヤーベーアもそうですね。-19世紀に入ると、歴史的意識が高まり、過去の作品の発掘や研究が盛んになる。近代的音楽学研究も始まります。シューマンによるシューベルトの《ザ・グレート》の再発見、メンデルスゾーンによる《マタイ受難曲》の再発見、ブラームスによる校訂作業などなど。自作の出版も本格的になるし、シューマンは音楽批評を置き、ブルックナーはウィーン大学で作曲を教えていましたし。一方、ヴァーグナーは楽劇の台本を書き、音楽祭を主宰し、リストのように自作を引っ提げて欧州各国を大々的に演奏旅行する人も現れる。音楽家が貴族のお抱えではなくなり、市民社会が音楽家のパトロンになるのに伴い、音楽家の在り方が根本的に変わって、多様化し、様々な雑務も必要になったのだと思います。*****シューベルトと友人たちとの関係は、シューベルトが友人たちの友情に一方的に支えられていたというより、ある意味、相互依存だったのかもしれません。まず、コンヴィクト時代から作曲を始めてサリエリにも師事していたシューベルトは、友人たちの集まりでの音楽係だった。コンヴィクトのオーケストラの世話係として楽譜を準備し、友人たちのダンスの集まりではピアノに向かい、即興でダンスの伴奏を弾き、友人たちが退屈していると即興でリートを書き、知人宅での内輪のコンサートでは毎年、自作の交響曲を初演し……。コンヴィクト時代の友人であるシュパウンは、コンヴィクト時代、貧しくて五線紙が買えなかったシューベルトに五線紙を買い与え、コンヴィクトを卒業して役人となってからも、シューベルトのゲーテ歌曲集をゲーテに送付したり、彼のリートをディアベッリ社から出版したり、シューベルトの居酒屋のつけ払いを一軒一軒返して回ったり、と何かと世話をしている。ショーバーはシューベルトをフォーグルに紹介して、ケルンテン門脇オペラ劇場から《双子の兄弟》の委嘱を取り付けるきっかけをつくり、自作の台本でオペラを書く計画を持ち掛けているし、バウエルンフェルトは、《双子の兄弟》の初演に好意的な批評を書いて、シューベルトのプロ作曲家デビューを後押ししている。マイヤーホーファーは、父親の家を追い出されたシューベルトを自分の部屋に住まわせ、《双子の兄弟》の作曲に従事させているしね。-でもそれは、友人たちがシューベルトの才能に期待していたからだけではなく、シューベルトが作曲家として稼げるようになってからは、金銭感覚のないシューベルトの収入を友人たちが管理することで、逆にたかっていたのでは、という説もあるのです。ある意味、友人たちにたかられていたから、シューベルトは自作をあれだけ出版しても、何も財産らしいものもなく、最後は梅毒で寂しくなくなることになったのではないか、とも。ただ、仮に収入の大半を友人たちに巻き上げられていたとしても、日常生活の心配を何もせず、友人宅に居候し、気ままに居酒屋ですべてつけ払いで食事し、音楽のことしか考えず、作曲だけしていたようなシューベルトは、幸せだったのかもしれません。
@@erikasono565 集られてた可能性…😅たしかにちょろまかすのは簡単でしょうね。寄らば大樹の影ではないですが、彼をダシにして自分が文筆業などでのしあがろうという下心も透けて見えますね。打算と献身と友情、いろんなものが混ぜ合わさった関係だったのかもですね。ところで19世紀に古い音楽の研究が進んだというお話ですが、今ちょうど、ベートーヴェンのミサソレムニスを書いていて、こんな論文を読んでいました。www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/fujimoto02.pdfこの7ページ目に、コンヴィクトには古い教会音楽を推奨し、過去の巨匠の音楽を理念としていた、こういう教育が19世紀に新たな教会音楽の展開を生んだというようなことが書かれていました。ここに、コンヴィクトが出てきたことが私にとっては意外で、教育が与える影響の大きさに感じ入りました。
@@クラシック音楽奇譚 忘れてほしくないのは、コンヴィクトで学んでいたのは、シュパウンやバウエルンフェルトのように、将来官僚候補になるような優秀な若者だけではなく、シューベルトのような宮廷礼拝堂聖歌隊員もいたということ。つまりは、当時のウィーンの帝室の管轄下でエリート教育される若者が一緒くたに寄宿舎制で教育されていた機関がコンヴィクトだったということです。宮廷礼拝堂聖歌隊員、今のウィーン少年合唱団ですが、彼らの教育と演奏活動、つまり宮廷礼拝堂のミサのために、当然そこには古い教会音楽の楽譜が集められていたということですね。-これは何もウィーンだけの話ではありません。私の在学中に音楽学研究所所長だった教授(私の指導教授ではなく、大学の方)の父君は高名なモーツァルト研究者でしたが、ナチス党員。おかげで私は、外国人嫌いの彼に散々苦労させられました。でもその教授はお父さまが着手した新モーツァルト全集の校訂を仕上げただけではなく、博論は確かザルツブルクの聖ペーター教会所蔵のものだったと思うのですが、中世以来の教会音楽のコレクションの研究。それで教授になってからも、中世のネウマ譜や定量記譜法を必修として課し、州内の修道院などに所蔵されている中世以来の写本の研究などにために、ゼミ生を連れてゼミ旅行に行ったり、と、バッハ以前の宗教音楽の研究に熱心でした。-記譜法史についても著書もある方です。何としてもこれを若い世代にきちんと教えたいという使命感は見上げたもの。私も、日本で学部1年生の時に、皆川達夫先生のもとで、記譜法史の特殊講義に、大学院生に混じって、学部1年生からは二人だけ参加し、秀の成績をいただいています。一緒に参加していたクラスメートは、能楽師の奥さんになっており、夫君名義で中学の音楽の教科書に能楽の四つ割り譜などの特殊な記譜法の解読法を執筆しています。私は、ドイツでもこの主任教授のもとで定量記譜法を中心とした記譜法史を勉強し直して、優の成績をいただいています。それ以外にも古い音楽のゼミで2つ単位を取得することも課されています。それにも拘らず、日本人なんてどうせラテン語もできない、古い音楽の写本のことなどわからないだろうと散々馬鹿にされ続けましたからね。私もキリスト教教育は受けているのですが、この主任教授らのようにバリバリのカトリックではないから、典礼の細かいところ早狩わからないわけですよ。もともとここの大学の音楽学は中世音楽研究に優れていたことは知っていたのですが、そんなことを勉強しに来たつもりではなかった私は、そんなこんなで散々苦労させられる羽目に。-ただ、年数にすれば、西洋音楽史は、バッハ以前の特に教会音楽の方が、バッハ以降の歴史より遥かに長く、写本などの蓄積も日本人には想像もつかないほどのものがある。それが、欧州中の教会や修道院、それにコンヴィクト、つまり神学校のようなところの図書館に眠っていて、研究もされていた。だから古い音楽の研究が19世紀に急に始まったわけではないのでしょうが、教会や修道院、神学校の中でしか行われていなかったものが、19世紀に入って脚光を浴びたということだと思います。そうした欧州の古い歴史研究には、外国人の我々はやはり圧倒されます。-この主任教授の外国人嫌いは、非国際的としてドイツでも有名らしい。それはもちろんいいことではないけれど、まぁ、こういう古い欧州の文化遺産を大切にする人にとっては、我々のような東洋人が気とも馬鹿にしたくなるだろうな、とは思いましたね。*****シューベルトの友人たちのうち、シュパウンやバウエルンフェルトのようにエリート官僚になった人は経済的にも安定していたのでしょうが、マイヤーホーファーのような詩人は貧乏でした。なので、その貧乏なマイヤーホーファー宅に1818年秋、父親の家を飛び出したシューベルトが居候し、その直後からケルンテン門脇宮廷オペラ劇場からは《双子の兄弟》、アン・デア・ウィーン劇場からは《魔法の竪琴》の委嘱を受け、作曲料が入る。《双子の兄弟》の分だけで、1819年7月に手付金150フローリン、1820年7月に作曲料500フローリン。1820年秋からはリートの出版も。なので、マイヤーホーファーの分の生活費もシューベルトが払っていたことは想像に難くない。1821年には、ショーバーの台本によるオペラ《アルフォンソとエストレッラ》の作曲のために、シューベルトは二避暑地に人で旅行に出ている。ショーバーはスウェーデン貴族でお金持ちだったはずですが、こうした旅行代金だって、だれが払っていたのかわかりませんからね。(笑)-残念なのは、晩年、梅毒が悪化したシューベルトは、兄フェルディナントと旧友シュパウン以外の友人たちのほとんどから見捨てられてしまったこと。シューベルトのリートを広め、《双子の兄弟》の委嘱を取り付けたといわれる宮廷歌手フォーグルも、自分がもう歌手として落ち目だったからシューベルトを利用したともいわれていますし。資料を読み込めば読み込むほど、純粋すぎて人に利用されてばかりのシューベルトが可哀そう、と私などは思ってしまいます。
この時期のベートーヴェンは世情が混乱するほど、創作意欲が増進していたような様相がある。世情の混乱は日常生活上は不便ではあるが、自立した芸術家にとっては、ふんだんな刺激が得られる環境でもあり、ことの善悪だけでは評価しにくいい要素だ。平穏な時代であったら、ベートーヴェンも革新的な音楽への挑戦には躊躇していたかもしれない。モーツアルトが脱皮仕切れなかったのは、このような切迫感を持った外的刺激が不足していたからかも。
@@2001banekuro 生きていくために必死だったのだと思います。もし耳が聴こえたらピアノを弾いて指揮すれば簡単にお金になったろうに、それが出来なかったというのは想像を絶する困難だったと思います。
ミサ曲ハ長調は、ベートーヴェンの曲の中でも大好きな曲の1つなのですが、滅多に演奏される機会がないのが不思議でした。こんな歴史があったのですね。
私もこの作品好きです!
上演がうまくいかなかったのが侯爵が気に入らなかった理由のひとつみたいです。
なぜこのチャンネルがまだ7000人ちょいしか登録者がいないのか理解できねえ。30000はいてもおかしくない良チャンネル
ありがとうございます!
シューベルトの場合には、ベートーヴェンとは異なり、実業家的なことはすべて、友人たちがやっていてくれたのですよね。
実業家的才能がないのに、あれだけの活動ができたのは、友人たちの力が大きかった、と改めて痛感します。
なるほど。19世紀の作曲家の作品数が18世紀のそれよりも格段に少ないのも、作品の大規模化や様式的な変化以外に、実務や他の仕事に時間を取られるいうこともあったということなのでしょうね。
シューベルトはつい助けてあげたくなるような人だったんでしょうね。人徳でしょうか。
@@クラシック音楽奇譚
ウィーン国立歌劇場の指揮者でもあったマーラーは、「料理人はまず食材を揃えるところからやらなければならない」とこぼしています。
有能な歌手たちを揃えるのに苦労していたらしい。マイヤーベーアもそうですね。
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19世紀に入ると、歴史的意識が高まり、過去の作品の発掘や研究が盛んになる。近代的音楽学研究も始まります。
シューマンによるシューベルトの《ザ・グレート》の再発見、メンデルスゾーンによる《マタイ受難曲》の再発見、ブラームスによる校訂作業などなど。
自作の出版も本格的になるし、シューマンは音楽批評を置き、ブルックナーはウィーン大学で作曲を教えていましたし。
一方、ヴァーグナーは楽劇の台本を書き、音楽祭を主宰し、リストのように自作を引っ提げて欧州各国を大々的に演奏旅行する人も現れる。
音楽家が貴族のお抱えではなくなり、市民社会が音楽家のパトロンになるのに伴い、音楽家の在り方が根本的に変わって、多様化し、様々な雑務も必要になったのだと思います。
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シューベルトと友人たちとの関係は、シューベルトが友人たちの友情に一方的に支えられていたというより、ある意味、相互依存だったのかもしれません。
まず、コンヴィクト時代から作曲を始めてサリエリにも師事していたシューベルトは、友人たちの集まりでの音楽係だった。
コンヴィクトのオーケストラの世話係として楽譜を準備し、友人たちのダンスの集まりではピアノに向かい、即興でダンスの伴奏を弾き、友人たちが退屈していると即興でリートを書き、知人宅での内輪のコンサートでは毎年、自作の交響曲を初演し……。
コンヴィクト時代の友人であるシュパウンは、コンヴィクト時代、貧しくて五線紙が買えなかったシューベルトに五線紙を買い与え、コンヴィクトを卒業して役人となってからも、シューベルトのゲーテ歌曲集をゲーテに送付したり、彼のリートをディアベッリ社から出版したり、シューベルトの居酒屋のつけ払いを一軒一軒返して回ったり、と何かと世話をしている。
ショーバーはシューベルトをフォーグルに紹介して、ケルンテン門脇オペラ劇場から《双子の兄弟》の委嘱を取り付けるきっかけをつくり、自作の台本でオペラを書く計画を持ち掛けているし、バウエルンフェルトは、《双子の兄弟》の初演に好意的な批評を書いて、シューベルトのプロ作曲家デビューを後押ししている。
マイヤーホーファーは、父親の家を追い出されたシューベルトを自分の部屋に住まわせ、《双子の兄弟》の作曲に従事させているしね。
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でもそれは、友人たちがシューベルトの才能に期待していたからだけではなく、シューベルトが作曲家として稼げるようになってからは、金銭感覚のないシューベルトの収入を友人たちが管理することで、逆にたかっていたのでは、という説もあるのです。
ある意味、友人たちにたかられていたから、シューベルトは自作をあれだけ出版しても、何も財産らしいものもなく、最後は梅毒で寂しくなくなることになったのではないか、とも。
ただ、仮に収入の大半を友人たちに巻き上げられていたとしても、日常生活の心配を何もせず、友人宅に居候し、気ままに居酒屋ですべてつけ払いで食事し、音楽のことしか考えず、作曲だけしていたようなシューベルトは、幸せだったのかもしれません。
@@erikasono565 集られてた可能性…😅
たしかにちょろまかすのは簡単でしょうね。寄らば大樹の影ではないですが、彼をダシにして自分が文筆業などでのしあがろうという下心も透けて見えますね。
打算と献身と友情、いろんなものが混ぜ合わさった関係だったのかもですね。
ところで19世紀に古い音楽の研究が進んだというお話ですが、今ちょうど、ベートーヴェンのミサソレムニスを書いていて、こんな論文を読んでいました。
www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/fujimoto02.pdf
この7ページ目に、コンヴィクトには古い教会音楽を推奨し、過去の巨匠の音楽を理念としていた、こういう教育が19世紀に新たな教会音楽の展開を生んだというようなことが書かれていました。
ここに、コンヴィクトが出てきたことが私にとっては意外で、教育が与える影響の大きさに感じ入りました。
@@クラシック音楽奇譚
忘れてほしくないのは、コンヴィクトで学んでいたのは、シュパウンやバウエルンフェルトのように、将来官僚候補になるような優秀な若者だけではなく、シューベルトのような宮廷礼拝堂聖歌隊員もいたということ。
つまりは、当時のウィーンの帝室の管轄下でエリート教育される若者が一緒くたに寄宿舎制で教育されていた機関がコンヴィクトだったということです。
宮廷礼拝堂聖歌隊員、今のウィーン少年合唱団ですが、彼らの教育と演奏活動、つまり宮廷礼拝堂のミサのために、当然そこには古い教会音楽の楽譜が集められていたということですね。
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これは何もウィーンだけの話ではありません。
私の在学中に音楽学研究所所長だった教授(私の指導教授ではなく、大学の方)の父君は高名なモーツァルト研究者でしたが、ナチス党員。
おかげで私は、外国人嫌いの彼に散々苦労させられました。
でもその教授はお父さまが着手した新モーツァルト全集の校訂を仕上げただけではなく、博論は確かザルツブルクの聖ペーター教会所蔵のものだったと思うのですが、中世以来の教会音楽のコレクションの研究。
それで教授になってからも、中世のネウマ譜や定量記譜法を必修として課し、州内の修道院などに所蔵されている中世以来の写本の研究などにために、ゼミ生を連れてゼミ旅行に行ったり、と、バッハ以前の宗教音楽の研究に熱心でした。
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記譜法史についても著書もある方です。何としてもこれを若い世代にきちんと教えたいという使命感は見上げたもの。
私も、日本で学部1年生の時に、皆川達夫先生のもとで、記譜法史の特殊講義に、大学院生に混じって、学部1年生からは二人だけ参加し、秀の成績をいただいています。
一緒に参加していたクラスメートは、能楽師の奥さんになっており、夫君名義で中学の音楽の教科書に能楽の四つ割り譜などの特殊な記譜法の解読法を執筆しています。
私は、ドイツでもこの主任教授のもとで定量記譜法を中心とした記譜法史を勉強し直して、優の成績をいただいています。それ以外にも古い音楽のゼミで2つ単位を取得することも課されています。
それにも拘らず、日本人なんてどうせラテン語もできない、古い音楽の写本のことなどわからないだろうと散々馬鹿にされ続けましたからね。
私もキリスト教教育は受けているのですが、この主任教授らのようにバリバリのカトリックではないから、典礼の細かいところ早狩わからないわけですよ。
もともとここの大学の音楽学は中世音楽研究に優れていたことは知っていたのですが、そんなことを勉強しに来たつもりではなかった私は、そんなこんなで散々苦労させられる羽目に。
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ただ、年数にすれば、西洋音楽史は、バッハ以前の特に教会音楽の方が、バッハ以降の歴史より遥かに長く、写本などの蓄積も日本人には想像もつかないほどのものがある。
それが、欧州中の教会や修道院、それにコンヴィクト、つまり神学校のようなところの図書館に眠っていて、研究もされていた。
だから古い音楽の研究が19世紀に急に始まったわけではないのでしょうが、教会や修道院、神学校の中でしか行われていなかったものが、19世紀に入って脚光を浴びたということだと思います。
そうした欧州の古い歴史研究には、外国人の我々はやはり圧倒されます。
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この主任教授の外国人嫌いは、非国際的としてドイツでも有名らしい。
それはもちろんいいことではないけれど、まぁ、こういう古い欧州の文化遺産を大切にする人にとっては、我々のような東洋人が気とも馬鹿にしたくなるだろうな、とは思いましたね。
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シューベルトの友人たちのうち、シュパウンやバウエルンフェルトのようにエリート官僚になった人は経済的にも安定していたのでしょうが、マイヤーホーファーのような詩人は貧乏でした。
なので、その貧乏なマイヤーホーファー宅に1818年秋、父親の家を飛び出したシューベルトが居候し、その直後からケルンテン門脇宮廷オペラ劇場からは《双子の兄弟》、アン・デア・ウィーン劇場からは《魔法の竪琴》の委嘱を受け、作曲料が入る。
《双子の兄弟》の分だけで、1819年7月に手付金150フローリン、1820年7月に作曲料500フローリン。
1820年秋からはリートの出版も。
なので、マイヤーホーファーの分の生活費もシューベルトが払っていたことは想像に難くない。
1821年には、ショーバーの台本によるオペラ《アルフォンソとエストレッラ》の作曲のために、シューベルトは二避暑地に人で旅行に出ている。
ショーバーはスウェーデン貴族でお金持ちだったはずですが、こうした旅行代金だって、だれが払っていたのかわかりませんからね。(笑)
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残念なのは、晩年、梅毒が悪化したシューベルトは、兄フェルディナントと旧友シュパウン以外の友人たちのほとんどから見捨てられてしまったこと。
シューベルトのリートを広め、《双子の兄弟》の委嘱を取り付けたといわれる宮廷歌手フォーグルも、自分がもう歌手として落ち目だったからシューベルトを利用したともいわれていますし。
資料を読み込めば読み込むほど、純粋すぎて人に利用されてばかりのシューベルトが可哀そう、と私などは思ってしまいます。
この時期のベートーヴェンは世情が混乱するほど、創作意欲が増進していたような様相がある。
世情の混乱は日常生活上は不便ではあるが、自立した芸術家にとっては、ふんだんな刺激が得られる環境でもあり、ことの善悪だけでは評価しにくいい要素だ。
平穏な時代であったら、ベートーヴェンも革新的な音楽への挑戦には躊躇していたかもしれない。
モーツアルトが脱皮仕切れなかったのは、このような切迫感を持った外的刺激が不足していたからかも。
@@2001banekuro 生きていくために必死だったのだと思います。もし耳が聴こえたらピアノを弾いて指揮すれば簡単にお金になったろうに、それが出来なかったというのは想像を絶する困難だったと思います。