【国鉄時刻表】1946年2月 上野駅東北本線常磐線 JAPAN UENO station ;TOHOKU JOBAN LINE time table 1946
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- Опубліковано 11 жов 2024
- 【時刻表の紹介】
1946年2月ダイヤ改正後
上野駅 東北本線・常磐線時刻表です。
【内容の修正】
(1)
0:32
普通 盛岡行きの途中駅の到着時刻に大きな誤りがありました。
上野(5:10)→大宮(5:50)→宇都宮(7:45)→福島(12:53)
→仙台(15:24)→盛岡(21:13)
(2)
11:06
普通 小山ゆき (527) 到着時刻に誤りがありました。
(誤)翌日 22:58 →(正)22:58 (当日に到着します)
ご指摘いただいた方、ありがとうございました。
【動画の説明】
1945年8月に迎えた終戦。
鉄道関係者の戦いは、終戦後も続きました。
終戦後の混乱の時期、鉄道も同様に混乱状態にありました。
特に石炭不足をはじめとする、設備の不足は深刻でした。
急激に回復する移動需要に何とか応えようと
当時の鉄道関係者が知恵を絞った努力の結晶。
その時刻表をご覧ください。
当時の雰囲気を味わうための参考としていただければ幸いです。
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#国鉄 #鉄道 #昭和21年 #日本国有鉄道 #発車時刻表 #時刻表 #東北本線 #東京駅 #戦前 #戦後 #過去鉄 #上野駅 #ひたち
前にリクエストしたやつ!ありがとうございます!!!
全てを焼き尽くされた大東亜戦争から僅か6ヶ月でこの運転ダイヤ・・・。
当時の鉄道員の「粋と意気」を痛感しました。
動力物資も乏しい中での決死の運航計画・・・天晴です(^^)/
お忙しい中での動画アップ、ありがとうございます。
運転中止の列車が目立ち、いかに社会全体が厳しい状況に置かれていたかがわかります。
私が気になるのはやはり601列車です。地域輸送と長距離輸送、更には郵便等の貨物輸送も担っていたのでしょうね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、私も601列車は乗り通すための列車というよりは、地域輸送や荷物の輸送が主だったのかなと思いました。
戦後の厳しい時代のダイヤ、買い出しで汽車に群がる様に乗車する人々の映像を思い出します。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
生きるために精一杯だった時代ですね。平和であることの素晴らしさを実感します。
偶然、今日は上野6:08発→宇都宮→黒磯→新白河→郡山→福島→白石→仙台13:08着/仙台14:40発→原ノ町→勝田→柏21:26着の行程で東北本線・常磐線の普通列車旅をしており、増結で土浦に数分停車した時に動画upに気づいて拝見しました。時期的に混み合う区間もありましたが、上野~宇都宮と勝田~柏はグリーン車も活用し、新白河~白石間はありがたいことにシートが柔らかい701系に乗れたこともあり「思ったよりお気楽」なんて考えていた矢先のこのテーマ、心が痛みました…
確か、まだこの頃はヤミの買い出しなどがあった時期だったと思います。福島在住だった曾祖父が町長を務めていたのが同時期で、事前に電報で連絡してきた人たちに食料を渡すために最寄り駅へ出向き、警察官が見回りに来ても手出しさせないように顔を利かせていたという話を聞いたことがあります。ただ、機関車を付け替える駅で警察が待ち構えていたりして、無事に関東まで運べない人も多かったそうです。土浦から柏まで、そんな曾祖父の話を思い出しながら動画を繰り返し眺めていました
この当時は上野に向かう上り列車はヤミ米摘発の場と化していたのですね。
焼け残った高価なものを現地で米と交換しても摘発で没収。それをなんとか逃れようとする人々。
そんな中でも都心部では闇市があちこちに立ち、ギリギリのところで食料を得ていた方も多数いらっしゃったことと思います。食べることが精一杯だった時代の方々から見ると米余りや食品ロスはとんでもないと怒られることでしょう。
適量を残さずに、と言うのも現代人に課せられた課題と言えそうですね。(鉄道とは関係ありませんが)
時刻表からも、当時の世相が見てとれますね。終戦直後ということで、闇市に買い出し、まさに食うための列車だったんですね。現在の乗り鉄や食べたいものが食べられる世の中に感謝です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
大変貴重なお話ですね。なんとかして手に入れた「コメ」が帰路で摘発され持ち帰ることができなかった無念さが伝わってきます。
コメントをいただいてから調べてみると、豊橋市のとよはしアーカイブに闇市と買い出しについての記録がありました。関西からも豊橋駅に「さつまいも」を買い出しにくる人々が殺到した様子を残す貴重な記録となっていました。
いつもありがとうございます。
石炭の配給が少なく、かつ車両も戦災や故障で稼働率が低いなか最低限の輸送を確保しようと言う国鉄の苦心の現れとも言えるダイヤですね。
このころ祖父が外地から復員してきました。東京に戻った際に家族が小牛田に縁故疎開したことを伺って一路北へ。
仙台に戻って鉄道の電気関係の職務に携わりました。後に仙山線の交流電化の試験にも携わったそうです。
一度父と東北福祉大学の鉄道ミュージアムの方から交流電化のお話を聞いたことがありますが、コロナ禍で閉館してしまいました。
歴史というものは体験をその人が生きているうちに聴き、記録しておくことが大切だったことを今更ながら痛感しております。
“歴史というものは体験をその人が生きているうちに聴き、記録しておくことが大切”
まさに、これだと思います。中身の善悪ではなく、どのような事柄が重なって今があるのかを知ることは大切です
毎回貴重なお話や、誤りのご指摘をいただきありがとうございます。コメントをお返しできない時が増えておりますが、毎回楽しく読ませていただいております。
仰る通りで、当時の歴史は写真などに残ってはおりますが、その時代をまさに生き抜いた方の体験というものは徐々に失われていってしまうことを痛感致します。
過去の時刻表をテーマに動画を作成するようになってから、さらにそのような気持ちを抱くようになりました。
21:00発の普通小山行到着が翌日22:58着なんてどんなルート通るんだよ。凄すぎるよ。
多分当日着と思われ...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
申し訳ありませんが完全に誤りでした。
現在外に出ておりますので、帰宅しましたら訂正文を概要欄に記載致します。
ご指摘ありがとうございました。
早朝5時10分発の盛岡行きの列車も途中の駅の到着時間に大きな違いがあるような気がします。
TSUYOS185様
完全に違う列車の時刻と取り違えておりました。
概要欄に訂正文を掲載させていただきました。
ご指摘ありがとうございました。
様々な物質が不足していたことから長距離列車と言えどオールモノクラス編成の列車が多く、移動も大変なものだったことでしょうね。
京都〜米原でさえ2時間を要しているので、隣県への移動でさえちょっとした旅だったのかもしれません。
21:00発の大阪行きですが、上野〜金沢と敦賀〜米原を分断して運行していたということでしょうか?もしかしてこの金沢までの列車が後の急行能登もしくは特急北陸のご先祖様的な列車とかでしょうか?ちなみにこのルート、今の北陸新幹線そのものですよね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
この601列車ですが、昭和22年の時刻表には601列車自体が姿を消してしまっています。代わりに上野始発の米原行きの603列車が登場しています。この603列車は1960年頃までは活躍したようです。
時刻表の情報しか手がかりになるものがないため、断定はできませんが、運用上の都合で分割されていたのではないかと思います。
1945年9月
601レ
上野発2100、金沢着翌1105
何故か高崎線頁に米原着翌1707となっており
これは
232レ 敦賀発1544、米原着1707
北陸本線内で完結する列車の誤植です
1946年8月(1946年5月1日改正)
601レ
上野2100発、大阪翌2018着
但し、米原大阪間および金沢福井間運転休止とあります
ということは、
601レ上野2100発、金沢翌1105着
車番不明 福井1335発、米原1707着(これが232レかもしれません)
1946年11月10日改正
準急605レ
上野発2000、金沢着翌852
603レ
上野発2245、米原翌2050着
実はこの列車別表に上野、軽井沢間が運転中止となっております
軽井沢発406
1945年、1946年は恐らく石炭の質もあり予定していた上野発2100の米原行きは232レの時刻で企画されましたが、準急が設定され運転されずじまいと思われます
首都圏の場合隣県へは旅というより買い出し列車の役割もありました。
他の方のコメントにありましたが、帰りは混雑している列車の停車駅で抜き打ち検査。焼け残った高価なものと『コメ』を交換しても検査で没収という事態もありました。
九州の祖母は、海で塩を作って山間部の農家に持って行って
野菜や芋と交換したと言っていました。
行きは良くても帰りが鬼門なんですよね
@@tomoyankun さん
こちらこそいつも興味深い時刻表をUPしてくださり、ありがとうございます。
601レめっちゃ短命な列車だったんですね。当時の時代背景を踏まえると、様々な事情がありそうですね。
603レは戦後の混乱期から高度経済成長期に人々の生活を支えた列車ということになりますね。仮に全線通しで運転されなくても、走行する沿線の地域で重宝されたことでしょうね。
コメントが遅くなり申し訳ない。
お、北の玄関口「上野」ですね。
当時は鉄道最北端の稚内までだいぶ時間がかかってたんですか…。
同時刻発車の列車もあったんですね。
上野駅の大きさに驚きです。
日本海側を通り、大阪に行ってみたいです。
2012年~2014年のニコニコ超会議号で大阪発日本海側周りの上野行きが運行された実績がありますね。ただ動画とは違い横軽が廃止されていたので、山科から湖西線へ入り、北陸本線を長岡まで行って方向転換して上越線と高崎線を通って上野まででした。JR東海で客車列車を運転できる機関士が既にいなかったためこのルートとなったそうです。
新潟、仙台の所要時間を考えると新幹線ってすげえなあ
22時10分発の201列車の逆方向の青森発202列車は、有名な「ヤミ列車」でした。松戸駅で一斉摘発されるニュース映画が残っています。
上野 5:10
大宮 12:37
仙台 23:30
盛岡 21:13
仙台と盛岡入れ替わってる?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
別の列車の時刻と混同しておりました。
概要欄に訂正文を記載させていただきます。
普通 盛岡行きの途中駅の到着時刻に大きな誤りがありました。
上野(5:10)→大宮(5:50)→宇都宮(7:45)→福島(12:53)
→仙台(15:24)→盛岡(21:13)
ご指摘ありがとうございました。
満州接続列車の701レ!長岡も新潟も焼け野原だったんだろうな。
601レ普通列車大阪行きって後の特急白鳥(上野白鳥)?
後に「特急はくたか」に分離し現在は「新幹線はくたか」になってる列車?
南サハリンに連絡できる稚泊航路も大泊(コルサコフ)を経由して乗り換えて豊原(ユズノサハリンスク)に行ける秘密ルート的な存在ですからね。つい最近(2014年春のダイヤ改正)まで実際にあったのが怖いぐらい現ロシア国有鉄道豊原線と連携されていました。
この時点では運休ですが、八時半発の急行の青森行きは後の青葉号です。その後仙台止まりになり、仙台から数両の客車が常磐線経由のみちのく号に連結され、青森に向かいました。
@@TSUYOS185 「ある機関助士」で出てきた急行みちのくですね。確か水戸で乗務員交代ですよね。(水戸で交代する運転手、機関助士の本拠地が現隅田川機関区水戸派出所にあたるため)
@@channelsada3849 さま
ある機関助士が封切られた頃はギリギリで青葉号からみちのく号への客車リレーが行われた頃です。
1963年の6月に上野から仙台の青葉号は電車化されました。
11:10「今では考えられない経路」が今の北陸新幹線米原ルート案そのもの
復員の方々、買い出しの方々の苦労がしのばれます。涙が止まりません。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
整備が十分に行えていたとは思えませんから、きっと遅延も頻発していたのでしょうね。
当時の方々の苦労や困難を想像すると胸が痛くなります。
まず一言「通勤・通学ましてや旅行用ではなく、復員のためのダイヤ」である。
まぁ1946年の2月時点では多くの学校が休校、今みたいなサラリーマンの通勤も殆ど無かったし。
2024年現在と比較して、どこ行くにしても、かなり多くの所要時間がかかっている😮
衝撃的だったのが、5時始発の勝田行きが3時間8分もかけていると言う事。今なら鈍行でも2時間20、30分。特急ひたちなら1時間ちょいで勝田に着く。知らない人のために言うと、水戸の次の駅(いわき、仙台方面)が勝田である。
熊谷や高崎に行くにしても時間がかかっている事から、当時は隣県に行くのも一苦労だったに違いない😔🤓
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、現在の鉄道とは役割が違っていたことは念頭に置かなければなりませんね。
大正時代よりも所要時間が延びている区間もありました。終着駅までなんとかして走らせることに注力していたのでしょうね。
東北線と常磐線は当時全線非電化の時代でしたね。(ちなみに東北線が全線電化されたのはこのダイヤ改正から23年後です。)
この当時から少しずつ東北線と常磐線が電化される兆しが見えてきました。さらに、12年後にはキハ81がデビューする訳ですから、東北線と常磐線は速達化の道を歩むことになります。(特に常磐線はSL時代から速達化ダイヤが得意な理由がこちらから由来だったりします。)
その23年半後はキハ181も東日本で唯一のロングラン特急にあたる「つばさ」でデビューするなど(お披露目は意外と特急しなの。)、世代交代も行われた時期が少し迫ってきたカモしれませんね。
電化となるとまずは東海道線でしたね。戦前は沼津までだったのが昭和24年には静岡、その後浜松、名古屋、米原、そして戦後11年でやっと全線電化。東北本線や常磐線は完全に後回しでした。
昭和33年にやっと大宮から宇都宮の電化が完成、それからわずか10年で青森まで複線電化されました。この当時は変電所の建設が少なく、高圧電力を線路ギリギリまで通す交流電化が主流でした。車両に変電設備を付けるという高価なもので列車本数が少なければそれでよかったのですが、今は仙台あたりでは首都圏並みの列車本数に。今後50年、100年を考えると地磁気に影響のある常磐線や水戸線やつくばエクスプレスは別として、列車本数の多いところは直流に、少ないところは電気式気動車でも良さそうな気がします。あくまで夢物語ではありますが。
高崎線でさえ非電化の時代でしたね。(因みに高崎線が電化するのは6年後の1952年)、東北線宇都宮までが電化するのは山陽本線の姫路電化と同じ1958年(今回の12年後)、常磐線は石岡の地磁気観測所の問題もあり更に3年後の1961年でした。因みにワイドビューの副称はJRになってからで特急しなのが正解です。
高崎線より先に、上越線がこの時刻表の翌年の1947年に全線電化されています。
山岳路線であることと、長いトンネルがたくさんあるからではないでしょうか。
群馬新潟県境の清水トンネル前後の水上-石打間は、1931年の開業時から電化されていました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
清水トンネルは煤煙による乗務員の窒息を防ぐ意味で、開業当初から電化されていたようですね。
@@tomoyankunさま
いつもありがとうございます。
既に戦前の時点で常磐線は平(今のいわき)まで複線化され、常磐炭田からの石炭輸送だけでなく東北への急行のスピードアップに役立ちました。1934年には上野から青森への急行は最短で12時間台でした。
戦後このレベルに達したのは1958年の特急のはつかり号でした。それまでは急行のみちのく号で14時間。戦前のレベルに復したのは高度成長期に入る頃でした。いかに戦争の爪痕が深かったかがわかるデータです。
上野5:10発、大宮12:37着!?
だよね。
並走する京浜東北線だと東京から大宮まで戦前期でも40分なんだけどね。
何処をどうやったら、7時間もかかるんだろ?
ちなみに東京から大宮までの営業キロは30キロ強、マラソンなら3時間は余裕だよねぇ。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
申し訳ありません。記載ミスでした。
概要欄に訂正文を掲載させていただきます。
ご指摘ありがとうございます。
@@tomoyankun時代が時代なのであり得る話なのかと思いコメントした為、雑な指摘のような感じになってしまい申し訳ありません。
沢山の情報をまとめて動画作成の為少なからずミスもしてしまいますよね。
今後も動画楽しみにしています!
戦後の厳しい時代のダイヤ、買い出しで汽車に群がる様に乗車する人々の映像を思い出します。