歴史雑学
歴史雑学
  • 105
  • 232 108
壮絶 三木城の干564 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
三木合戦は、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利氏に寝返った別所長治を攻めた戦いである。 この戦いは「三木干564」と呼ばれる徹底した兵糧攻めが特徴で、約2年間最長の籠城戦の末、長治が降伏・切腹して終結した。
今回は、その戦いの詳細について、背景・経緯・城内の状況といった視点から語っていく
#戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів: 19

Відео

テルモピュライの戦い 300人対20万人 #雑学 #世界の雑学 #movie #history
Переглядів 4,9 тис.7 годин тому
スパルタの300人が、何十万人ものペルシア軍を相手に三日間も持ちこたえた、伝説のテルモピュライの戦いは、単なる戦争の一場面ではない。それは、自由のために命を捧げた者たちの物語である。彼らは、戦いの結果がどうなるかを知りながらも、退くことはなかった。彼らは、ただの兵士ではなかった。彼らは、ギリシャの誇りそのものだった。 今もなお、テルモピュライの地には碑が立ち、そこには次の言葉が刻まれている。 「通りすがりの者よ、スパルタに告げよ。我ら、祖国の命に従い、ここに眠る。」 この言葉が語るように、テルモピュライの戦士たちは死んでもなお、ギリシャの誇りとして生き続けている。そして彼らの物語は、今日まで語り継がれ、勇気、誇り、自由の象徴として歴史に刻まれているのだ。 #雑学 #世界の雑学 #movie #history
鬼神の如き猛将 ― 典韋 #三国志 #三国志演義 #世界の歴史 #movie
Переглядів 26716 годин тому
戦乱の世において、一騎当千の勇士と呼ばれる者は数多くいた。しかし、その中でも、ただ武勇に優れるだけでなく、主君に対する忠義を最後の瞬間まで貫き通した男がいた。名を典韋。魏の創始者・曹操に仕え、その命を懸けて戦った猛将である。 #三国志 #三国志演義 #世界の歴史 #movie
ホトトギス鳴くまでまてない 徳川家康  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 130День тому
「徳川家康は鳴かないホトトギスを待った」は嘘だった!?本当の家康は超冷酷な策略家だった! 戦国三英傑といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。 その性格を表す有名なエピソードとして、次の「ホトトギスの句」が広く知られています。 一般的なイメージ 織田信長:「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」(短気で冷酷) 豊臣秀吉:「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」(策略家で機転が利く) 徳川家康:「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」(忍耐強く、辛抱の人) これを聞くと、 「家康は、じっと耐えて最後に勝利を掴んだ慎重派」 …というイメージを抱きがちですが、これは完全に後世の創作で、実際の家康はそんな人ではありません! #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
自由を勝ち取った奇跡!マラトンの戦い #雑学 #世界の雑学 #世界の歴史 #movie #history
Переглядів 2,5 тис.День тому
アケメネス朝ペルシャの拡張政策、イオニアの反乱、そしてペルシャ戦争の発端は、古代ギリシアとペルシャ帝国の運命を決定づけた重要な出来事である。ダレイオス1世の野望はギリシア世界の独立心と激突し、この対立が第一次ペルシャ戦争を引き起こしたのである。これらの背景を理解することで、マラトンの戦いが持つ意義の深さがより明確になる。 #雑学 #世界の雑学 #世界の歴史 #movie #history
秀忠の不運 上田城の合戦 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 41414 днів тому
上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相 昌幸は「表裏」の人と称される策略家であり、思い切った行動に出る。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
信玄公が認めた副将 内藤昌秀 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 51114 днів тому
「内藤昌秀(昌豊)」武田家中で副将格に評された闘将 織田信長に怖れられ、徳川家康には尊敬されていたという甲斐国の戦国大名・武田信玄。信玄の家臣には才能豊かな武将が多く、江戸期には「武田二十四将」の武者絵が描かれています。その中のひとりで、四宿老にも数えられるのが、今回ご紹介する内藤昌秀です。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
鬼神のごとし 立花宗茂  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 1,2 тис.14 днів тому
最後の武人【立花宗茂】─関ヶ原ですべてを失いながら旧領を回復した武将─【知っているようで知らない戦国武将】 斜陽にあった大友宗麟への忠義を全うして豊臣秀吉の直臣になった立花宗茂は、その秀吉をして「その忠義は鎮西(九州)一、その武勇もまた鎮西一」と言わしめ、さらには「東の本多、西の立花。ともに古今東西無双の者」と、徳川四天王の筆頭・本多忠勝と並んで誉め讃えられたのが、立花宗茂である。13万2千石の大名から無一文・一介の牢人になり、流浪の身を経て、最後には旧領に返り咲くという奇跡的な復活を成し遂げた宗茂の生き方は、爽やかで、常に前向き、ポジティブな人生であった。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
天才 大谷吉継  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 1,3 тис.14 днів тому
秀吉が「100万の軍勢を預けたい」と褒めた知謀の将 〜大谷刑部少輔吉継〜 石田三成の盟友ともされる大谷吉継については、その出生や父祖について様々な説があって定まってはいない。ただ、三成の取り成しで15歳で秀吉の小姓となり、後に越前敦賀5万石の大名になったことや、関ヶ原合戦で西軍に属して討ち死にしたことなどだけが確かなこととされる。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
牢人の子から水軍の将へ:加藤嘉明伝 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 77321 день тому
牛馬の仲買人だった加藤嘉明は、なぜ水軍の将になれたのか? 〜加藤左馬助嘉明〜 四国征伐で長宗我部軍を破り、その後も水軍の将として功績を上げる 加藤嘉明の父・三之丞は、三河国・徳川家に仕えていた。家康が松平元康と名乗っていた時代(人質として駿府の今川家で暮らしていた頃)を経て、今川義元が桶狭間合戦で織田信長に討ち取られると、家康も独立を果たした。その後の永禄6年(1563)9月、三河に一向一揆が起きて、当時22歳であった家康は、家臣団までもがこの一揆に加わったために苦労した。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
森長可 伝説の鬼武蔵襲来!  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 1 тис.21 день тому
尾張国に生まれた森長可――幼き頃からその瞳には、燃え盛る火のような激しい光が宿っていた。武蔵坊弁慶にあやかり“鬼武蔵”と恐れられた彼の生涯は、常識や規律とは無縁の、破天荒な物語で彩られている。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
越後の嵐を制した謙信の父!長尾為景 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 36028 днів тому
長尾為景の人生は、まさに波乱に満ちたものであった。彼の生きざまは、戦国時代という激動の時代における下克上の象徴であり、その背中を追いかけた上杉謙信の礎ともなった。 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
武田滅亡の序章・高天神城落城 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 1,5 тис.Місяць тому
武田滅亡の序章・高天神城落城 #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
知略の毛利 厳島の戦い #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 535Місяць тому
知略の毛利 厳島の戦い #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
小谷城落城の真実  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 296Місяць тому
小谷城落城の真実  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
賤ケ岳七本槍の伝説  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 702Місяць тому
賤ケ岳七本槍の伝説  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
武田家臣団二十四将 土屋昌続  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 1,9 тис.Місяць тому
武田家臣団二十四将 土屋昌続  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
愛されなかった徳川の次男・結城秀康   #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 967Місяць тому
愛されなかった徳川の次男・結城秀康   #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
桶狭間 信長の逆転劇 尾張の大うつけ 天下への道  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 413Місяць тому
桶狭間 信長の逆転劇 尾張の大うつけ 天下への道  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
第4次川中島の戦い  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 808Місяць тому
第4次川中島の戦い  #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
「座ることが示した立ち上がる力」ローザ・パークス    #雑学 #世界の雑学 #世界の歴史 #movie #history
Переглядів 50Місяць тому
「座ることが示した立ち上がる力」ローザ・パークス    #雑学 #世界の雑学 #世界の歴史 #movie #history
赤備えの英雄!井伊直政   #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
Переглядів 1,7 тис.Місяць тому
赤備えの英雄!井伊直政   #戦国 #戦国時代 #日本の歴史 #movie #history
織田信長 予言に彩られた悲劇                    #戦国時代 #歴史 #世界の歴史 #日本の歴史 #history #movie
Переглядів 3952 місяці тому
織田信長 予言に彩られた悲劇                    #戦国時代 #歴史 #世界の歴史 #日本の歴史 #history #movie
魏の五将軍、楽進の知られざる生涯と武勇
Переглядів 7712 місяці тому
魏の五将軍、楽進の知られざる生涯と武勇

КОМЕНТАРІ

  • @brzm45
    @brzm45 День тому

    明石掃部は通称で諱は全登(たけのり、てるずみ)守重など複数あり陪臣ながら主家宇喜多家が60万石近い大大名だったため四万石を知行していた。キリスト洗礼名はジュスト、関ヶ原の大戦時は前哨戦の杭瀬川で三成の家老島左近と共闘して武名を挙げ西軍の士気を上昇させる。無類の戦上手として知られ特に鉄砲隊の運用能力は群を抜いていた。本戦では宇喜多軍の前線で指揮を執り福島正則隊はじめ東軍諸隊と交戦し余力を残しながらも善戦、一歩も引かなかったが小早川秀秋の側面攻撃を受けて縦横に攻撃を受け秀秋と刺し違えて死ぬという秀家を諭して落ち延びさせ自らも戦場を離脱…大坂の陣の気運が迫ると秀頼の招きに応じて入城し真田、後藤、毛利、長宗我部我等と大坂五人衆と世に謳われる。最終決戦となった夏の陣、天王寺、岡山口の戦いでは圧倒的戦力差を覆す幸村の策により船場にて300の手勢で待機。幸村や毛利勝永の大坂方先鋒が東軍先鋒をギリギリ迄引き付け手薄になった家康本陣を船場で待機していた明石軍が川を下り一気に家康本陣を側面から強襲して家康の首を取る作戦であったものでしたが連携の上手く取れなかった大坂方が敵を引き付けきれず戦端が切られてしまったためこの幸村の奇策は発動されず明石勢は動く事が出来ませんでした。まさに家康の首を取るキーマンは明石勢だった訳ですがもしこの策が発動されていれば…戦の趨勢はまたわからないものになってたでしょうね。結局戦後は消息不明となり幕府は執拗にいわゆる「明石狩り」を行い行方を追い続けたらしいですね

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e День тому

      @@brzm45 コメントありがとうございます。

  • @邦宏中川
    @邦宏中川 3 дні тому

    陣立てがポイントで吉川広家が塞いでいて邪魔だか、要で大軍を擁する南宮山が参戦しないと勝ち目は無いと思います。忠実で信頼の出来る動ける人を置いとくと違うように思います

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 дні тому

      @@邦宏中川 コメントありがとうございます。忠義と信頼は大切ですね。

  • @アニマスピル
    @アニマスピル 7 днів тому

    これを見ていたらいきなりauの上げすぎ謙信のメールが送られてきた?

  • @清水義政-n8k
    @清水義政-n8k 9 днів тому

    森長可の墓は何処?

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 9 днів тому

      コメントありがとうございます。現在のお墓は、岐阜県可児市兼山にある臨済宗の寺院で可成寺(かじょう-じ)となっているようです。

  • @夜霧-d5h
    @夜霧-d5h 10 днів тому

    顔良は関羽に劉備の所在を伝えようとして一方的に斬られたという説もありますからねぇ

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 10 днів тому

      @@夜霧-d5h コメントありがとうございます

  • @滝川一益-c3g
    @滝川一益-c3g 11 днів тому

    東軍の勝利を知ってるからそう思うけど😅 もしかしたらワンチャンあったかもしれななぁ〜

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 10 днів тому

      @@滝川一益-c3g 急所ついたコメントありがとうございます。

  • @藤寅-v5q
    @藤寅-v5q 15 днів тому

    関所の役人斬ったんだから、依怙贔屓せずに罰するべきじゃねぇ?

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 15 днів тому

      @@藤寅-v5q コメントありがとうございます。

  • @柳田-d5b
    @柳田-d5b 17 днів тому

    大谷刑部は石田三成は盟友ですね。 子孫の方々もご存命ですよね。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 17 днів тому

      @@柳田-d5b コメントありがとうございます。

  • @かとう蛇
    @かとう蛇 17 днів тому

    消息不明ということで、徳川三代将軍家光の時代まで執拗に「明石狩り」が行われた、そうです。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 17 днів тому

      @@かとう蛇 コメントありがとうございます。

  • @東京テレタビーズ
    @東京テレタビーズ 21 день тому

    怪力や戦闘力もさる事ながらニュータイプ並みの危機察知能力の持ち主で 非番の時も勘で曹操の危機を察し実際曹操を刺客から救った

  • @正木茂雄
    @正木茂雄 24 дні тому

    後に越前福井、越後高田、出雲松江など合わせ100万石を越えた。将軍の兄にふさわしい家柄。

  • @MUSASI40
    @MUSASI40 28 днів тому

    後のの歴史を見れば信じられないけど 北条早雲 氏綱とは親しく 交流してたんだよな

  • @正木茂雄
    @正木茂雄 29 днів тому

    この城に天守閣なんてないから😮

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 29 днів тому

      @@正木茂雄 コメントありがとうございます。技術不足でございます。ご容赦くださいませ。

  • @シバタ-c3r
    @シバタ-c3r Місяць тому

    大名になれたのは❗福島正則・加藤嘉章・加藤清正・脇坂泰治だけで脇坂泰治だけ明治まで存続した!福島正則はお家断絶するが僅なら旗本として生き残る?

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@シバタ-c3r 福島家は旗本のようです。

    • @シバタ-c3r
      @シバタ-c3r Місяць тому

      @aiu-t3e そのようですね

  • @将棋好き-j6r
    @将棋好き-j6r Місяць тому

    特に好きな武将

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@将棋好き-j6r コメントありがとうございます。

  • @山P-j9u
    @山P-j9u Місяць тому

    キョウイの軍略はどのくらいすか?白起や王翦と比べる事出来ます?

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@山P-j9u コメントありがとうございます。

  • @ケニー木村
    @ケニー木村 Місяць тому

    何と言うか、ほら。 もっとこう、ライトに深掘りしてくれたほうがありがたいのだが。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      コメントありがとうございます。

  • @komatsu2199
    @komatsu2199 Місяць тому

    歴史は好きで嗜む程度ですが 結城秀康はその生い立ちから考えると 比較的恵まれ優遇もされていたと思いますよ。 少なくとも不当には扱われていない。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@komatsu2199 コメントありがとうございます。早く亡くなられたのが残念ですね。

  • @峻-k5k
    @峻-k5k Місяць тому

    今度はショートでもいいので私の好きな武将の一人であり、父の負の遺産に振り回された悲運の男・武田勝頼の動画を投稿して欲しいです。 私が思う信玄の負の遺産と家督継承前後の勝頼の状況 同盟や和睦を平気で破って他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用は地に落ちている。  極め付けに信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから織田との関係修復は無理。 その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖をされた。 徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康が上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。 浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。 今川義元や北条氏康、織田信長などは嫡男がある程度の年齢になったら実権こそ握り続けるものの家督を譲り、部分的な政務を任せていたが、信玄は信虎追放や義信事件がトラウマになっていたのか、生前に勝頼に家督を譲ったり、勝頼の官位官職への任官活動を熱心に行わなかったり、戦においても勝頼の扱いを信濃先方衆扱いにしたりと勝頼への権威付けや権力移譲が不十分。 信濃侵攻や川中島の戦い、甲相駿三国同盟の破棄からの度重なる戦や金山の枯渇によって財政が悪化。 その対応策が領内への重税や他国に侵攻して乱取りを繰り返す以外にない。 こんな状況でどうすればいいの?って思います。 毛利元就を引き合いに出して勝頼を実力がないとか色々言ってこき下ろしている人がいますけど、この状況をなんとかするのは毛利元就だろうと信玄だろうと絶対に無理だろうと私は思います。 勝頼を無能だとか凡庸とか言う人には、じゃああなたが勝頼の立場や状況だとしてどうするのか、その結果どうなったと思うのか、その行動の結果の責任を取れるのか、責任を取る覚悟があるのか聞いてみたいです。 私じゃ行動を起こす事さえできずに家臣達に殺されていたと思います。

  • @峻-k5k
    @峻-k5k Місяць тому

    最近の研究では勝頼は信玄時代よりも昌景を厚遇していたとも言われてますから、真偽は分かったものではないですね。 昌景も内心では前の御館様(信玄)は織田との全面衝突というとんでもない負債を御館様(勝頼)に押し付けたなとか思っていたのではとか思いました。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@峻-k5k 「負債を押し付けた」は納得の表現ですね。

    • @峻-k5k
      @峻-k5k Місяць тому

      @aiu-t3e 結果的にそうなってしまっただけで、信玄の川中島以降の行動もその時点では最善あるいは最良ではあったと思います。 このまま手をこまねいていたら、遠江だけでなく駿河まで家康に取られてしまうかもしれない、もしかしたら駿河を北条が奪う事になるかもしれない。 そうなったら武田はいつまで経っても海に面した港を手に入れる事ができず、塩や鉄砲、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料・硝石の交易に不利で貧しいままですから。

  • @パッチ-t9v
    @パッチ-t9v Місяць тому

    越後勢の勝ちだよ🥹

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@パッチ-t9v コメントありがとうございます。典厩を討ち取ったのは大きかったですね。

  • @仁人松本
    @仁人松本 Місяць тому

    彼女の事を歌った曲がネヴィルブラザーズのシスターローザという曲です、しかもPVはスパイク・リーが手掛けています

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@仁人松本 コメントありがとうございます。

  • @aiu-t3e
    @aiu-t3e Місяць тому

    1. 赤壁の戦い後の曹操追撃失敗 背景: 赤壁の戦い(208年)で周瑜は孫権・劉備と協力し、曹    操の大軍を撃退した。しかし、勝利後に曹操を徹底的に追撃しなかった。 問題点: 曹操の軍は疫病と兵糧不足で壊滅的な被害を受けていたにもかかわらず、周瑜は徹底的に追撃しなかった。その結果、曹操は北方へ逃げ帰り、再び中原を支配する基盤を取り戻した。 結果: 曹操が中原の覇権を維持したことで、呉や劉備陣営がさらなる圧力にさらされることとなった。 2. 劉備への油断 背景: 周瑜は赤壁の戦い後、荊州を孫権の勢力圏に組み込むために劉備を利用しようとした。劉備に孫権の妹を嫁がせることで、同盟関係を強化しつつ荊州を手中に収める計画だった。 問題点: 劉備はこの結婚を利用して孫権陣営との絆を深めつつ、自身の勢力拡大を進めた。周瑜は劉備の野心を軽視しており、結果として荊州を失う原因となった。 結果: 劉備は荊州を足掛かりに益州を攻略し、呉と対立する強大な勢力を築いた。 3. 荊州奪還計画の失敗 背景: 荊州は地理的にも経済的にも重要な拠点であり、呉にとって欠かせない領地だった。しかし、周瑜の時代に荊州を取り戻すことはできなかった。 問題点: 周瑜は劉備から荊州を奪還する計画を立てていたが、それを実行する前に病に倒れた。また、劉備と諸葛亮の政治的な機略を過小評価していた。 結果: 呉は荊州を取り戻せず、後に関羽との対立が深まり、三国間の緊張が激化した。 4. 夷陵への出兵計画の挫折 背景: 荊州奪還のために夷陵地方への攻撃を計画していたが、周瑜が病死したため、計画は中断した。 問題点: 夷陵は荊州南部の要衝であり、ここを抑えられれば呉の勢力拡大が可能だった。しかし、周瑜がこの計画を実行する前に死去したことで、後の呉に大きな支障をきたした。 結果: 荊州奪還の夢は実現せず、呉はその後も劉備勢力に圧迫され続けた。 5. 劉備との協力関係の不安定化 背景: 赤壁の戦いで共闘した劉備とは一時的に良好な関係を築いたが、周瑜は劉備を警戒し、排除しようと画策した。 問題点: 周瑜は劉備に対する敵意を隠さなかった。これにより、呉と劉備の同盟関係は脆弱になり、対立の原因となった。 結果: 同盟関係の不安定さは、後に荊州を巡る争いを引き起こし、三国間の関係を悪化させた。 6. 曹操への過信 背景: 赤壁の戦いでの大勝利が、周瑜に曹操への侮りを生じさせた可能性がある。 問題点: 曹操の戦略的柔軟性や政治力を過小評価していたことが、呉の長期的な戦略に悪影響を与えた。 結果: 曹操はその後も勢力を維持し、呉や劉備にとって常に脅威であり続けた。 7. 内政への貢献不足 背景: 周瑜は主に軍事面で活躍したが、内政にはほとんど関与していない。呉の基盤強化には内政の充実が必要だった。 問題点: 周瑜が内政面に注力していれば、呉の統治基盤がさらに強固なものになっていた可能性がある。 結果: 後の呉の統治には課題が残り、戦争に頼らざるを得ない状況が続いた。 8. 個人の嫉妬心による判断の偏り 背景: 諸葛亮の才覚を恐れ、「天下二分の計」を提案した諸葛亮を排除しようとしたとされる。 問題点: 周瑜の嫉妬心や敵対心が戦略の柔軟性を欠かせ、劉備との協調関係を壊す原因となった。 結果: 呉と劉備の協力体制が弱まり、結果的に呉の孤立を招いた。 9. 性急な戦略立案 背景: 周瑜の戦略は大胆で迅速だったが、長期的な視点に欠ける部分があった。 問題点: 特に劉備や曹操との関係において、性急な行動が後の問題を引き起こした可能性がある。 結果: 周瑜の戦略が短期的な成功を収めても、その後の展開に不利をもたらしたことがある。 10. 若くして病死 背景: 周瑜は35歳という若さで病死した。 問題点: 呉にとって彼の早世は大きな痛手だった。彼の計画や指導力が長期的に活かされることなく失われた。 結果: 周瑜の死後、呉は一時的に指導層の混乱に見舞われた。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Місяць тому

    尼子経久の出雲守護は京極吉童子丸の死後に室町幕府に許可貰った形

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      コメントありがとうございます

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    小西行長が、海賊とは? 文禄の役では、攻めて北朝鮮まで行ったけど、補給路が断たれて撤退し、講和したという。 小西行長公が、海賊だったのは驚きですね。 九鬼嘉隆・村上武吉・松浦鎮信達は海賊大名です。 古くは、河野通有とかも水軍の御家人、田口成良なんかも、阿波水軍の大将として有名でしたね。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 小西行長公は海賊というより海戦で活躍した武将かな思っています。m(_ _)m

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    この人は、身分の低い木下藤吉郎こと羽柴秀吉が嫌いでならなかった。ウマが合わなかったのでしょう。でも降伏して秀吉に嫌々ながらも臣下の礼を取った。秀吉公の温情だったけど、武勇に秀でた人材を欲しかったのも事実。九州攻めで大功あげて、肥後一国の領主に抜擢されたけど、国人一揆が激化して鎮圧したけど、政治のやり方が間違った様な解釈されたので、自刃に追い込まれた。これって、秀吉公の謀略みたいに思いますけど。 織田信長の家来衆は、豊臣秀吉公にコテンパンにされています。前田利家公だけですよ、破格の待遇は。それだけ支えてくれた恩を決して忘れていなかった秀吉公の気持ちなんですね。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 丹羽長秀公、池田恒興公も長生きしていたらどのような扱いをされていたかわかりませんね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    瓶割り柴田と異名のある柴田勝家公、織田信長最古参の武将として歴戦の強者。北近江から北陸方面司令官として、越善加賀能登と統治を任せられ、善政を敷いて領民に慕われたとも。 羽柴秀吉嫌いのお市の方は柴田に嫁いで期間は短かったけど、生涯を全うできたほうでしょう。自刃は止むを得ない選択でしたが、勝家公の家紋は雁金、2つの雁金紋だってありますからね。勝家とお市、年は離れていますが、ロマンスカップルでしょう。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      周囲の寝返りが早かったですね。見方がもっといれば・・・

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    赤壁の戦いと同じですね。 風と火で攻める。 火は人の心を恐怖にさせます。 m(_ _)m

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    立花宗茂と誾千代夫妻の大河ドラマ見てきたいなぁ。 立花宗茂公のことは、やたら話題に登ってこない。 さみしい限りですね。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 「気は優しくて力持ち」の素晴らしい人物ですね😀

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    怯れられていた武将ですね。 ある意味、こんな武将の討死は気性の荒い者にとってはやれやれみたいなもの。幕末の人斬りみたいな存在。猛将であったので敵も一目置いていた存在だった。m(_ _)m 慢心もあったのかもしれませんね。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 常に勝てると思うほど強かったんでしょうね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    上杉謙信公の養子の上杉景勝公。名臣直江兼続の城主として有名な人ですが、この人はやたら無意味な出兵をしたくなかった人であった。秀吉公に降伏して、五大老に上り詰めたけど、やはり徳川家康公には敵わなかった。相手が200万石以上の大名と太刀打ちできるわけない。追撃して罠にはまったら上杉家中は大変な被害を受けただろう。上杉そのものが、天下を狙うような家風でなかった。毛利も上杉も、前田も。天下を治める器でないことをよくわきまえていたんだと思いますよ。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 なるほど。皆、己の力量を考えて天下と天秤にかけていたんですね。

    • @佳宏藤村
      @佳宏藤村 Місяць тому

      @aiu-t3e さん。 家臣の統制は結束はあっても、経済的な発展を促す家臣が少なかったことも挙げられます。武士道精神の塊の家中では、経済的な余裕を見せることはなかなかできなかったのだと思います。 秀吉公に降伏する前は、越後でも、武将の離反等が相次いでいましたからね。m(_ _)m

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    この動画の説明にある様に、経久公は、家臣によく褒美を与えたそうです。この松がすばらしいと家臣がほめたら、松を切って薪にしたという話もあります。人に物を出すことで人はついてくる。ただし、晩年は毛利元就と三男興久との関係が悪化した。 足利尊氏も、家臣に褒美を分け与えた。重臣の一人に自分の甲冑を与えたりして、悪党の代名詞みたいな征夷大将軍ですが、実際は違うんです。 話はそれましたが、経久公、殺戮がひどかったからではないでしょうか? 家臣に裏切られるのは? m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      悪い話はすぐに伝わるので家臣は恐怖を感じたのではないでしょうか?

  • @inunekoyasai
    @inunekoyasai Місяць тому

    八丈島いっちゃったけどね

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@inunekoyasai 八丈島に送られて50年近く。きっと悔しさだけを残したんでしょうね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    佐竹義重公、知勇に優れた武将として歴史に残っていますが、彼の甲冑の毛虫の前立なんか熊の毛皮をモチーフにした力強さがありますね。 彼のことを東関東の虎と呼んでもいいと思います。 彼の武勇は伊達政宗に劣るとも劣らぬ。ただ、一国大名として存続できたのですから、只者ではありませんよ。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 豊臣政権、徳川政権を生き抜いたことはスゴイ事だと思います。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    嫡子の信親を相当溺愛して、将来は後を任せる事だったのが、九州征伐で不慮の死を遂げた。それも、軍監だった仙石秀久の性急な作戦のおかげで。 この人も辛かったし、家臣団の争いが勃発した。ダメは盛親の死によって長宗我部は滅んだ。ただ隠れて残党はいたけど? m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      嫡子の信親がもし早くに逝去しなければ・・・また違った四国になっていたでしょうね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    春日虎綱、高坂弾正昌信ですね。 信玄公に相当かわいがられたみたいで、衆道の間柄とも? 海津城の城主として、後には海津城は、松代城と名前を変えて、真田信之が城主として移封されて、明治維新まで続きましたね。m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      ありがとうございます。m(_ _)m

  • @yugureyamanaka2730
    @yugureyamanaka2730 Місяць тому

    リクエストで、千利休とも競い合った安土桃山時代の伝説的な茶人の『丿貫』(へちかん)も検討してみてください。 数々の奇行をもって知られた。久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)によれば、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が主催して行われた北野大茶湯の野点において、丿貫は直径一間半(約2.7メートル)の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜ったという。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      コメントありがとうございます。『丿貫』について検討させていただきます。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @yugureyamanaka2730 様 『丿貫』は自分自身で書いたものを出来るだけ回収し燃やしてしまったので後世に資料が残っていないようです。現代のネット社会であっても茶人『丿貫』を探し出すことは非常に困難であります。権力に媚びず、利休を「権力に擦り寄る」人間とバッサリ切り捨てるなど常人では考えられない逸話を残しておられるようです。豊臣秀吉が認めるほどの大人物だったのでしょう。このお方を表現する力を現在の小生は持ち合わせていないと考えました。リクエスト頂きましたがお応えできないことをお詫び申し上げます。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 Місяць тому

      @@aiu-t3e  返信ありがとう  もし可能でしたら、次の候補で、長曾我部元親の孫にあたる柴田 朝意(しばた とももと)を、検討してみてください。母は長宗我部元親の娘・阿古姫です。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、大坂城を脱出したものの、伊達勢に捕らえられてしまう。伊達政宗の判断で助命された。伊達騒動の主要人物の一人。通称の柴田外記(げき)で知られる。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 Місяць тому

    毛利氏は、尼子に対して誠意を示しても、尼子の殺戮するやり方に憤りを覚えた。大内氏に仕えたほうが、身の危険が助かるかもしれないと思ったけど、井上一族の横暴、興元の実家の高橋氏の介入。まず、兄の毛利興元の実家から横槍介入して滅亡させないと安定しない。高橋は、流れ矢に当たって死んでいる不運な武将だった。 本当に、正念場として地固めは、宍戸元源殿長年の確執の和解で娘を隆家に嫁がせてからだと思います。宍戸元源は、中国地方でも、山内直通とともに屈指の猛将勇将でした。その方々と婚姻することはどれだけ毛利の力になることか。m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e Місяць тому

      @@佳宏藤村 鋭い考察ですねm(_ _)m

    • @佳宏藤村
      @佳宏藤村 Місяць тому

      ​@@aiu-t3eさん。 おほめの文章ありがとうございます。m(_ _)m

  • @石井ひさえ-b2d
    @石井ひさえ-b2d 2 місяці тому

    挿し絵が日本っぽくないのが 残念ですね😢

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@石井ひさえ-b2d コメントありがとうございます。努力していきます。

  • @石井ひさえ-b2d
    @石井ひさえ-b2d 2 місяці тому

    徳川家康が1番!恐れたのが 伊達政宗ミタイです🎉

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@石井ひさえ-b2d 家康も江戸近くに国替えさせませんでしたね。

  • @石井ひさえ-b2d
    @石井ひさえ-b2d 2 місяці тому

    義光と書いてヨシアキと読むなんて!勉強になりました🎉😅

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@石井ひさえ-b2d コメントありがとうございますm(_ _)m

  • @Shi-l2j
    @Shi-l2j 2 місяці тому

    義光の妹が伊達政宗の母・義姫です

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      因縁ですかね?

    • @初音初雪-b6d
      @初音初雪-b6d 2 місяці тому

      政宗の伯父で一番有名有力者ですね。政宗は血縁であっても良好な関係ではないのは残念です。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@初音初雪-b6d 「もし関係が良好であれば…」ですね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 2 місяці тому

    義侠心のある勇将だったんですね。 甘寧興覇勇猛な人物として知られています。割合呉の家臣には粗暴な将軍が多いです。m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      呉をまとめていた国主はすごいですね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 2 місяці тому

    宇喜多直家が羽柴秀吉に将来を託したことは、正解でしたね。 直家は家を守るためには手段を選ばず、狡猾で残忍な一面を持っていた。 年取れば、頭の回転も脆くなる。 そして。秀家は智略はあまりなく武辺一辺倒だったけど、家臣同士の派閥争いで苦慮したようです。先をみる目がなかったのでしょうね。 m(_ _)m

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 2 місяці тому

    山内一豊は、武辺ものだけど、城をあげるというのは、堀尾忠氏の言ったことを真似ただけだけど、やはり年取れば只者ではなくなってくる。 山内の当世具足が残ってますけど、なかなか渋い。渋いとはカッコいい。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@佳宏藤村 堀尾氏が評定に行く途上に行ったと聞いています。堀尾氏はビックリしたことでしょう( ゚д゚)

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 2 місяці тому

    武田勝頼公は、父親の武田信玄公より劣るとの家臣団の噂話を聞いていたのでは? かなりコンプレックスがありプレッシャーもあったと思う。 山県昌景は紛れもなく名将。赤備えは後の井伊直政の赤鬼と呼ばれ、武田家臣団を編成したものだから勇猛である。青備えはなかったのだろうか? 知っている人教えて。m(_ _)m

    • @峻-k5k
      @峻-k5k Місяць тому

      北条五色備えの中に青備えがあったそうです。 話は変わりますが、私が山県昌景の立場だとしたら長篠の戦いで決戦を主張する、あるいは決戦に賛同します。 撤退したら信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。 戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 自分達も陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場なのに、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができなくなってしまう。 そうなったら陪臣や民達は不満を抱いて一揆や反乱を起こすかもしれない、そうなったらその事を勝頼に咎められて領地や城を失ってしまうかもしれないからです。

  • @アソビニン-b8u
    @アソビニン-b8u 2 місяці тому

    ピラミッドがオーパーツと言われてるけども職人か何十年も掛けて作れば可能な気がしてる

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@アソビニン-b8u そうですね。

  • @佳宏藤村
    @佳宏藤村 2 місяці тому

    戦国武将伊達政宗公は、やはり生き残るために智略を用いた偉い武将でしたね。そして弟を暗殺して独裁したけど、ただ多くの家臣を許したことも見逃せない。毒蜘蛛と異名を取り二度も政宗公を裏切った大内定綱を許して家臣とし、定綱はそれに死にも物狂いで応えた。カリスマというものが伊達政宗公にあったのやも。名将と言われた蒲生氏郷や最上義光には見当たりません。 m(_ _)m

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      伊達政宗公は「生まれた年月や出生地が違えば・・・」の代表格なんでしょうね。

  • @エンテイロン
    @エンテイロン 2 місяці тому

    どんなに優れた武将も馬鹿な殿の一言で死ぬ事がある。

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      本当に残念な時代でした。

  • @川上哲朗-t2e
    @川上哲朗-t2e 2 місяці тому

    大河ドラマで見たの覚えてます😂🎉

    • @aiu-t3e
      @aiu-t3e 2 місяці тому

      @@川上哲朗-t2e 私も見ていました。😄