Thank you for this. Its rare to find someone who is so passionate and elucidates the details! I'll have to save this and re-watch it because I don't remember many of the names of the characters. I had the theory that many of the delusions were metaphorical, touching upon the nature of self-delusions natural destructive qualities. I analyzed it myself on more of a principle level and I think I may have missed details in my own theories. I'm positive Mitsuhiro Maniwa is the old man... but what this means isn't clear to me. I had observed that Shonen Bat represented the growing danger of each individuals self-deception. I applied this to my own life in order to make sense of it. In my own life, I had always strove to be a good person. But there was a danger in this... of avoiding the understanding that we as individuals are inherently selfish and evil. This dark outlook I avoided at all costs. The irony of avoiding this understanding was that it allowed me to casually fail and make mistakes without trying to TRULY improve myself. I had no foundation for seeing reality as it was... It was like walking on quicksand. The more I lied to myself and denied that I was trying to do good, the more I sunk deeper. It was only when I really hurt someone else through my own selfish behavior, that I finally stopped to look and realize that I as a human being was struggling to escape my own weakness... my own ego... and the suffering I inflicted on others. I knew that I couldn't be redeemed with the way I was traversing through life on my own... so I had to accept humbly that I was a bad person. Normally, this might be seen as negative... but this realization allowed me to fix a true foundation under my feet. I now could stand on the understanding of how I and others actually were... and then I could correct and reorient my actions and attitude in life. I was finally free to fight my darkness once I could SEE the darkness... And I could correct my course when I finally respected the evil nature within me. Then goodness could be applied. To me... The manifestation of Radarman was Maniwa's application of this concept. He somehow saw that he was no hero... but this somehow felt like the foundation for him to build his own positive deception on top of that... POSITIVE IMAGINATION. Ideals grounded on reality. Faith but not self-delusion. Breaking away from reality AFTER understanding it. Somehow there is a difference between: these concepts I just listed ...and the negative SELF-DELUSION of Shonen Bat. Maniwa was the only one I noticed boldly utilizing this understanding. It was very subtle... but these concepts changed my life. I remember before my life's breaking point- I would feel an uncomfortable feeling of "SHEEPISHNESS" when I would try to be good. I was empty before. But once I accepted my darkness... I began to fight like Radarman against it. Another delusion... but a totally different effect. Thank you for reading! -------------- ありがとうございます。これほど情熱を持って詳細を説明してくれる人は珍しいです。登場人物の名前をほとんど覚えていないので、保存してもう一度見ます。私は、妄想の多くは比喩的なものであり、自己妄想の自然な破壊的な性質に触れているという理論を持っていました。私自身、より原理的なレベルで分析しましたが、私自身の理論の詳細を見逃している可能性があると思います。馬庭光弘が老人であることは間違いありません...しかし、これが何を意味するのかは私にはわかりません。 私は、少年バットが各個人の自己欺瞞の増大する危険性を象徴していることに気づきました。私はこれを自分の人生に当てはめて理解しました。 私自身の人生において、常に良い人であろうと努力してきました。しかし、これには危険がありました...私たちは個人として本質的に利己的で邪悪であるという理解を避けることになります。私はこの暗い見通しを何としてでも避けました。皮肉なことに、この理解を回避することで、自分自身を真に改善しようとせずに、何気なく失敗したり間違いを犯したりすることができました。現実をありのままに見る根拠がなかったので…流砂の上を歩いているような感じでした。自分に嘘をつき、良いことをしようとしていることを否定すればするほど、私はさらに深く沈んでいきました。自分の身勝手な行動で本当に他人を傷つけたときになって初めて、私は人間として、自分自身の弱さ、自分のエゴ、そして自分が与えた苦しみから逃れようともがいていたことに、ようやく立ち止まって見つめることに気づきました。他の人については。私は自分一人で人生を歩んできたやり方では救われないことを知っていました...だから私は自分が悪い人間であることを謙虚に受け入れなければなりませんでした。 通常、これはネガティブに捉えられるかもしれません...しかし、この気づきにより、私は自分の足元に本当の基盤を整えることができました。私は今、自分と他の人が実際にどのような状態であったかを理解することができました...そして、人生における自分の行動や態度を修正し、方向を変えることができました。闇が見えるようになったら、私はついに自分の闇と戦うことができるようになりました...そして、ついに自分の中の邪悪な性質を尊重することができたとき、私は自分の軌道を修正することができました。そうすれば、善意を適用することができます。 私にとって…レーダーマンの発現は、馬庭がこの概念を応用したものでした。彼はどういうわけか自分がヒーローではないことを理解していました...しかし、これはどういうわけか彼がその上に彼自身の前向きな欺瞞を構築するための基礎のように感じました... ポジティブな想像力。現実に基づいた理想。信仰はありますが、自己欺瞞ではありません。現実を理解した上で現実から離れる。 どういうわけか、私が今列挙したこれらの概念と、少年バットの否定的な自己妄想との間には違いがあります。この認識を大胆に利用しているのは馬庭だけだった。 それは非常に微妙でした...しかし、これらの概念は私の人生を変えました。人生の限界点に達する前のことを覚えています。善良であろうとするときに、「卑劣さ」という不快な感覚を感じていました。以前は空いていました。しかし、一度自分の闇を受け入れたら…私はレーダーマンのようにそれに対して戦い始めました。別の妄想...しかし、まったく異なる効果。 読んでいただきありがとうございます!
皆さん、こんにちは。初めまして。この長いコメントを読んでいただくことに感謝します。本日は少し長い文章ですが、よろしくお願いします。 このアニメを初めて見たのは、子供の頃、アメリカのアダルトスイムで放送されていた時でした。(アダルトスイムはアメリカで成人向けのアニメとドラマを放送するテレビプログラムです。)少年バットのイメージしか残っていなかった... でも、大切な情報や人生の理解が足りなくて、あまり役立ちませんでした。 14年経った今、世界は絶望と自己欺瞞に沈み、私たちの悪なわがままな性質を知るようになりました... でも、この闇を理解と改善への希望と共に受け止めて立ち向かうことを選ぶなら、その闇は祝福になります。闇を祝福と見るのは、私たちが自分自身の利己的な本性と向き合う基盤として機能し、真実の自己を偽らずに認識することで、他人の過ちを許すことができるようになるためです。 もし自分の悪に夢中で生き続けたら、本当に自己改善はできなかっただろう。また、世界の絶望と希望のない状態を学んだ... 希望の光を見るのはほとんど不可能です... でも、それもまた贈り物でした。(贈り物とは、これが自分自身の成長につながる機会を与えるためです。)自分自身の光を創り出さなければならないということを知ったからです。そして、世界は不完全で、自分自身の不完全を認めて初めて、他の人に同情を持てるようになるということも学んだ。 そのアニメでは、話を分割して、「ハジケ」と呼ばれる狂気の小説を挿入します。(ハジケは、物語の中で突然現れ、現象を解決するシナリオの変化です。)およそ、物語を書き直し、別の終点または現実に繋ぐためです。これは何かによってパラノイアエージェントと並列します。パラノイアエージェントでは、自己欺瞞が少年バットを暴れ者にしています... しかし、このシリーズでは、この暗闇に立ち向かうことは、現実の否定を認識するだけでなく、私たちの創造力や想像力を積極的に活用することを含みます。このプロセスは、単なる対処メカニズムではなく、変革的な力として描かれています。 警察の「三柳充弘」は、自分を勇者として想像しなおし、現実に足を地につけながら他の欺瞞と戦います。彼は現実からの脱出が常に破壊的ではないことを示しました... それは前に進む方法になれる。コツは現実に足を地につけ、それに理想という驚異的な像を上に重ねることです。歴史に名を残す戦士のように、わずかな勝利の可能性を信じて戦うことを想像してください。 彼もボボボの「ハジケ」と同じようにしていました。私はそれが今私たちに必要なことだと感じます。現実に目覚めて... それを忘れずに。そして現実の上に希望を夢見ます... アメリカからの日本の兄弟姉妹への愛を!あなたの美しい芸術と物語、知恵に感謝します!
世界の答え「平沢進」 地球の答え「平沢進」
その通りですね !
マロミがアニメ会社について解説入れる所すごく好き
一番最後のお爺ちゃんの圧倒的猛者感。
ちょうどさっき全話見終わってOP聞きに来た!! OPめっちゃ好き
曲だけに意識行きそうだったけどOPもなかなかヤバいな、、、 ちょっとスプーン3杯分くらい心抉られた
なんかめっちゃ狂気となんか、絶望感じる😨
論理空軍聞いたあとこの動画みたら頭痛が治った ちょっとの不調なら薬より効くかもしれん
i love this sm!
オープニング映像から狂気の世界。
後半の方の、アニメ制作で追い込まれる人の話好きだったわ、
susumu classic gem
この曲とパレードは師匠が我々のような下民に聴くことを許された曲の中でも相当むずい
今敏作品少なすぎてあまりの悔しさにやるせなくなるのが年に数回来る
異世界転生ラッシュ以前の一昔前のアニメっておもろかったよな
怖いのはオープニングだけで、思ったよりかは明るくて見やすかった。狂気は感じたけど 8〜10話の短編っぽい話好き コメ欄の汚いシロバコでワロタ
作った狂気ではなく、もともと人間に内包された狂気を描いているから、この作品は怖いの。
その狂気は、ポジティブなものに変えることができ、そして変えるべきです!三柳充弘はその一例です。現実を受け入れることが第一歩です... 現実に忠実でありながら現実から距離を置くことが第二歩です。
一昨日から五月蝿いくらいの大きさでボタン押し続けてるんだけどどこまで聴いても独特の高揚感が感じられて好きなんだよな
一回も見たことないけどなんかおなかいっぱいだし鳥肌立った
Masterpiece
一番好きなエピソードだからMAD助かる
地球ネコとこの曲繋がってるように感じるんよな
今敏さんが師匠に地球ネコの様な曲を作ってほしいとお願いしたようです
今さんも平沢も その辺のクリエイターなんか歯牙にもかけないほど狂気の描写が巧いから もっと色々作って欲しかったんだけどなぁ 惜しい監督を亡くした
なんで長調なのにこんなキショいんだよなんでだよ平沢進だからか?
しかし、これはなんとクソな曲だろう👌👌😎👍👌👌
この曲聞くと怖いって思うの私だけですかね…😢 なんかただ漠然と、だけど確実に死が迫ってきているような恐怖を感じる…
Like the final battle is approaching. It's positive, yet eerie...and liberating... 最終決戦が近づいているように。ポジティブだけど不気味で…解放している…
この独特な世界観のアニメに歌がマッチしてたなぁ
逆でしょ逆。低レベルなアニメばっか見てたから昔の世代は駄目な日本しか作れなかったんだよ(笑) あと最近のアニメはって言うけど最近のアニメは全世界で支持されるよ?言うけど(笑)昔のゴミアニメは誰も見てないけどね(笑)
高レベルなアニメ見てたら日本は発展するって言いたいの?現実とアニメの区別はしっかりつけような?
レーダーマンってカッコいいよね
全くその通りです!彼は自己欺瞞という問題をポジティブなものに変える鍵です。
オープニングの感じからホラー、グロ系と思われそうではあるけど、ちゃんと最後までアニメ観た人なら感動モノの名作だと思うんじゃないかな。 確かに恐怖要素はあるけど、トラウマになるほどでは無い。 特に8話は一番良かった。ストーリーの本筋にはそんな関係ないからこの回だけ観ても損はない。
この人の曲は無条件で平沢進の世界に引き込まれるから耳で聴くだけじゃなく頭でその世界を想像できる
Absolute Cinema
ラーイーヤー ラ ライヨラ 空 に 見事 な キノコ の 雲 ラーイーヤー ラ ライヨラ 小道 で 餌 を はむ 小鳥 の 午後 は 木漏れ日 の 芝 に 手 を 触れて 君 と 語ろう ほら ランチ の べンチ の 上 で 夢 は 花咲く 波 の 音 を その 胸 に 憂鬱 は 沈めて 橋 を 明日 に 伸ばし 津波 など 案ずる こと なく ラーイーヤー ラ ライヨラ あんなに 見事 な 飛行機 雲 ラーイーヤー ラ ライヨラ 人気 の 通り に 人 行く 午後 は 微笑み で しばし 手 を 取れば 君 と 歩 こう ほら「万事 に 休す」 の 声 も 風 が かき消す 明日 の 日 は かまわず に 行く先 は 任せて 胸 に 鍵 を 掛けて 雪崩 など 信じる こと なく ラーイーヤー ラ ライヨラ 夢 に 見慣れた 炎 の 雨 ラーイーヤー ラ ライヨラ オフィス の 窓辺で 目覚めた 午後 は 木漏れ日 の 芝 に 誘われて 君 と 出かけろう ほら ランチ の べンチ の 上 で 夢 は 花咲く 草 に 吹く 風 を 聞き 憂鬱 は 投げ捨て 明日 も 晴れ と 信じ 夢 見 など 案ずる こと なく ラーイーヤー ラ ライヨラ 空 に 見事 な キノコ の 雲 ラーイーヤー ラ ライヨラ 小道 で 餌 を はむ 小鳥 の 午後 は ラーイーヤー ラ ライヨラ ランチ の ベンチ で 育てた 夢 ラーイーヤー ラ ライヨラ 木漏れ日 の 日に 生まれた 午後 よ
この曲自体が私の魂に涙を誘います... 日本語が分からなくても、この感情の波を感じます。翻訳された歌詞を詩のように読むと同じことが起こります。 (私は英語を話す人で、翻訳ツールを使っています ^_^;; )
爽やかに狂ってる歌 カッコイイ 聞いてる間は現実逃避できる😢
社会風刺化したジブリ感ありそう。どこで見れるんだ?
Dアニメストア
高校生の頃に見たけど、全然意味分からなかった。でもこの曲は好きでずっと聴いてる。今見返せば理解できるかね
本当にその通り... 皆さんにはもう一度見直すことをお勧めします。今は以前よりも意味が重要だと思います。
聖戦士は偽だったがある意味正しかった
マジで... 私たちは皆、自己欺瞞に陥りやすい利己的な生き物ですが、これを知っていれば、以前よりも自分自身や他人をより良くするために利用できます。
2024年3月18日 違法か合法化もわからないこのアップロードの最終話のコメント欄を開き、自分の考えと同じ考えを探したのは私だけではないだろう。いくつかのサイトやコメントを確認し、考察を拝読したが、私の考えと同じものを見つけることができず(ないとは言っていない)、気持ち悪くなってしまったため、ここに記すことにする。2024年現在、またそれ以降、この作品が作られてから長い時間が経ったためどれだけの人が見てくれるかわからない。加えて、英語のコメントが多いこのコメント欄で、私の日本語の長文がどれだけ読まれるかはわからないが、変な使命感で書き連ねるとする。なお、事実ではないし、私の妄想に過ぎない。妄想であるからこそ、全て納得できた。そんな私の妄想を読んでほしい。 結論から言うと、この話は全て馬庭光弘=謎の老人の経験に基づいた妄想である、というのが私の解釈だ。一部考察にて、馬庭が最後、謎の老人の跡を継いだ、妄想廃人になってしまった、この世界はループしているなどの考察があったが、どうも腑に落ちない部分がある。第一に、馬庭が老人の跡を継いだ説だが、全く同じ数式を同じ筆跡で書くことは不可能ではないだろうか。第二に、あの世界はあくまでも現実に基づいた世界であると思われる。なぜなら、少年バットの一連の事件はファンタジーやSFの力を借りず説明されており、基本的に訳の分からない部分は登場人物の妄想である。つまり、世界のループなどありえないのだ(妄想を除いては)。以上が、巷の解釈が納得いかない根拠である。 ここからが「すべての話が馬庭光弘=謎の老人の妄想説」の根拠である。 根拠:老人が少年バットの事件やそれに関わる事実を予知している。 根拠:馬庭に妄想力があること。 根拠:話の主人公が馬庭であること。 根拠:第一話(妄想が始まる前)と最終話(復興後)の映像がほとんど同じであること。 根拠:最後に自分自身(馬庭)が老人であることに気づくこと。 根拠:現実世界ではありえないすべての現象が妄想であれば説明がつくこと。 根拠:馬庭と老人の接触を描く多くの描写。 根拠:第七話の全て(詳細は後程) 以上の観点が、馬庭=老人の妄想であれば全て納得できるのだ。ここまでは考察であり、ここからは妄想だ。老人(馬庭)はおそらく、本当に少年バット事件を担当した元刑事だ。バット事件の真相は、サギの幼少期の妄想代理人が大人になってから蘇ったことを起点とする一連の集団妄想事件。以下は被害者:犯人(考察含む)だ。 サギ:妄想 川津:サギ 牛山:狐塚 鯛良:妄想 蝶野:妄想 蛭川(男):狐塚 狐塚:馬庭 蛭川(娘):妄想 第十話以降は割愛(ほぼ妄想)。 ポイントは、狐塚が自殺でも、少年バット(妄想)でもなく、馬庭の犯行であるという点だ。自殺であるとすれば、収監場所の檻が開いている点、あそこまでの出血量の説明が難しい。それに、自殺できる人間に少年バットは手を下さない(第八話参考)。少年バット(妄想)による犯行であれば、死ぬことはできないだろう(自殺を除いて)。思い返せば、少年バット(妄想)の犯行で人が死ぬことは一部例外を除いて存在しない。少年バットは自殺で現実逃避が困難な人物に、都合よく現れる存在であり、基本的に殺すことはない。そこで生まれる可能性は、馬庭が殺したという線だ。 ではなぜ馬庭は狐塚を殺したのだろうか。それは、少年バットの真相解明のためである。猪狩は一連の事件を狐塚による犯行として解決を図っていた。しかし、妄想力豊かな馬庭には、一部の事件が各被害者の妄想であることに気が付いていた。それを証明するには?そう、狐塚が妄想(少年バットによる犯行)で死んでくれるのが一番早い。狐塚が死んだ後も少年バットによる事件が続くからだ。おそらく、その妄想力と狐塚を殺した罪悪感から、精神を崩壊させてしまったのではないだろうか。いや、狐塚の事情聴取の時点で崩壊していたのかもしれない。いずれにせよ崩壊した精神のまま、妄想にふけりながらマロミと少年バットの招待を突き止めたのだろう。その後、精神病院に入り、我々が見せられていた話を何度も妄想しているのではないだろうか。 以上が私の妄想と推論から導いた根拠である。 第七話を見ると、老人=馬庭という可能性を感じざるを得ない。狐塚の聴取の間、馬庭は妄想の中で老人に会いに行く。老人は馬庭と同じPCに囲まれた部屋にいて、そこから被害者の名前を冠した食材の料理を食べていく。鷺、蛙(川津)、鯛、最後に蝶だ。注目していただきたいのは、蛙(川津)の犯人は少年バットではなく、サギツキコである点だ。川津は実際にはサギによって被害にあった。その証拠は事件発生直後のサギの手に鉄パイプが握られていたことだ。つまり、老人は予知できていると思われていたが、それは事実でないことも含まれる。何が言いたいかというと、老人の予知は馬庭の認識に基づくものであるということである。馬庭は川津が慰謝料の取り立てに悩む少年バットの被害者だと考えていた。しかし事実は、サギの被害者。つまり、馬庭と老人の認識が同じであることがわかる。 第七話にはほかにも馬庭の犯行をほのめかすシーンが描かれている。追い詰められたところに少年バットが現れるという言葉とともに、自分が少年バットに殴られるシーンは自分が追い詰められていることを意味する。それに加えて、何度も同じソファで悪夢から目覚めるシーンが描かれている。馬庭が妄想と妄想内での夢と、そのまた夢と、、、筆者自身理解が及ばない部分が多いが、同じ体制で夢から目覚めることはあり得ないことから、全て老人=馬庭の妄想であると考えられる。リビングの隣の部屋が通信室になっていることも妄想であれば納得できる。 この妄想が面白い点は、猪狩と馬庭の現実と妄想に対する向き合い方が皮肉的な部分だ。猪狩は各被害者の妄想を否定して、全てを狐塚の犯行として決めつけた。これは、事件が妄想であるという現実から逃避していることになる。一方で、馬庭は狐塚の妄想に付き合ったあげくに、各事件を被害者の悩みとして少年バット(妄想)と向き合った。つまり、事件が妄想であるという現実に向き合うために妄想にふけっていた。果たして、どちらが妄想の中でどちらが現実なのか。どちらが現実から逃げずに妄想と戦ったと言えるのだろうか。 以上が「すべての話が馬庭光弘=謎の老人の妄想説」である。根拠が薄い部分もあるが、妄想なので悪しからず。ただ、この妄想をもとに見返してみると、妄想がまた膨らみ、観ているあなたがまさに私の妄想代理人、なんてことに、、、、思い返せば、この妄想代理人という題名、はじめは少年バットが妄想を実現してくれるからだなんて考えていたが、これは老人=馬庭の妄想を生きる各登場人物の事なのかも。あるいは、こんな妄想を繰り広げている私たちのことなのかもしれない。 最後に、物語全体の解釈を添えて。私はマロミをネットの世界だと考える。自分の妄想の世界にふけることができ、現実を逃避できる。だが、その妄想に依存しても生きていけなくなった時、人は消えたくなってしまうのかもしれない。しかし、死ぬ決意はおそらく、とてつもなく勇気がいることだと思う。その勇気すらも持てない人が、少年バットという妄想に逃げるしかなくなってしまうのではないだろうか。 早く寝るために急いで書いたものなので、誤字脱字はご了承ください。 皆さんの感想、批評、お待ちしております。 ペンネーム:馬庭光弘の代理人・大詐欺師 より
そうだよ
@@user-wmsmtepaumdpw124 というと?
Thank you for this. Its rare to find someone who is so passionate and elucidates the details! I'll have to save this and re-watch it because I don't remember many of the names of the characters. I had the theory that many of the delusions were metaphorical, touching upon the nature of self-delusions natural destructive qualities. I analyzed it myself on more of a principle level and I think I may have missed details in my own theories. I'm positive Mitsuhiro Maniwa is the old man... but what this means isn't clear to me. I had observed that Shonen Bat represented the growing danger of each individuals self-deception. I applied this to my own life in order to make sense of it. In my own life, I had always strove to be a good person. But there was a danger in this... of avoiding the understanding that we as individuals are inherently selfish and evil. This dark outlook I avoided at all costs. The irony of avoiding this understanding was that it allowed me to casually fail and make mistakes without trying to TRULY improve myself. I had no foundation for seeing reality as it was... It was like walking on quicksand. The more I lied to myself and denied that I was trying to do good, the more I sunk deeper. It was only when I really hurt someone else through my own selfish behavior, that I finally stopped to look and realize that I as a human being was struggling to escape my own weakness... my own ego... and the suffering I inflicted on others. I knew that I couldn't be redeemed with the way I was traversing through life on my own... so I had to accept humbly that I was a bad person. Normally, this might be seen as negative... but this realization allowed me to fix a true foundation under my feet. I now could stand on the understanding of how I and others actually were... and then I could correct and reorient my actions and attitude in life. I was finally free to fight my darkness once I could SEE the darkness... And I could correct my course when I finally respected the evil nature within me. Then goodness could be applied. To me... The manifestation of Radarman was Maniwa's application of this concept. He somehow saw that he was no hero... but this somehow felt like the foundation for him to build his own positive deception on top of that... POSITIVE IMAGINATION. Ideals grounded on reality. Faith but not self-delusion. Breaking away from reality AFTER understanding it. Somehow there is a difference between: these concepts I just listed ...and the negative SELF-DELUSION of Shonen Bat. Maniwa was the only one I noticed boldly utilizing this understanding. It was very subtle... but these concepts changed my life. I remember before my life's breaking point- I would feel an uncomfortable feeling of "SHEEPISHNESS" when I would try to be good. I was empty before. But once I accepted my darkness... I began to fight like Radarman against it. Another delusion... but a totally different effect. Thank you for reading! -------------- ありがとうございます。これほど情熱を持って詳細を説明してくれる人は珍しいです。登場人物の名前をほとんど覚えていないので、保存してもう一度見ます。私は、妄想の多くは比喩的なものであり、自己妄想の自然な破壊的な性質に触れているという理論を持っていました。私自身、より原理的なレベルで分析しましたが、私自身の理論の詳細を見逃している可能性があると思います。馬庭光弘が老人であることは間違いありません...しかし、これが何を意味するのかは私にはわかりません。 私は、少年バットが各個人の自己欺瞞の増大する危険性を象徴していることに気づきました。私はこれを自分の人生に当てはめて理解しました。 私自身の人生において、常に良い人であろうと努力してきました。しかし、これには危険がありました...私たちは個人として本質的に利己的で邪悪であるという理解を避けることになります。私はこの暗い見通しを何としてでも避けました。皮肉なことに、この理解を回避することで、自分自身を真に改善しようとせずに、何気なく失敗したり間違いを犯したりすることができました。現実をありのままに見る根拠がなかったので…流砂の上を歩いているような感じでした。自分に嘘をつき、良いことをしようとしていることを否定すればするほど、私はさらに深く沈んでいきました。自分の身勝手な行動で本当に他人を傷つけたときになって初めて、私は人間として、自分自身の弱さ、自分のエゴ、そして自分が与えた苦しみから逃れようともがいていたことに、ようやく立ち止まって見つめることに気づきました。他の人については。私は自分一人で人生を歩んできたやり方では救われないことを知っていました...だから私は自分が悪い人間であることを謙虚に受け入れなければなりませんでした。 通常、これはネガティブに捉えられるかもしれません...しかし、この気づきにより、私は自分の足元に本当の基盤を整えることができました。私は今、自分と他の人が実際にどのような状態であったかを理解することができました...そして、人生における自分の行動や態度を修正し、方向を変えることができました。闇が見えるようになったら、私はついに自分の闇と戦うことができるようになりました...そして、ついに自分の中の邪悪な性質を尊重することができたとき、私は自分の軌道を修正することができました。そうすれば、善意を適用することができます。 私にとって…レーダーマンの発現は、馬庭がこの概念を応用したものでした。彼はどういうわけか自分がヒーローではないことを理解していました...しかし、これはどういうわけか彼がその上に彼自身の前向きな欺瞞を構築するための基礎のように感じました... ポジティブな想像力。現実に基づいた理想。信仰はありますが、自己欺瞞ではありません。現実を理解した上で現実から離れる。 どういうわけか、私が今列挙したこれらの概念と、少年バットの否定的な自己妄想との間には違いがあります。この認識を大胆に利用しているのは馬庭だけだった。 それは非常に微妙でした...しかし、これらの概念は私の人生を変えました。人生の限界点に達する前のことを覚えています。善良であろうとするときに、「卑劣さ」という不快な感覚を感じていました。以前は空いていました。しかし、一度自分の闇を受け入れたら…私はレーダーマンのようにそれに対して戦い始めました。別の妄想...しかし、まったく異なる効果。 読んでいただきありがとうございます!
昔何度か見たことあったけど、怖いような面白いようなわかるような話でついつい見てた
1:53
I keep watching this lol
入試まで1週間しかないのに数式吐くシーンで不安になり落ちる予感しかしなくなった と思ってたら受かった。
よかった
おめでとやで
今の時代こそこういう作品が必要
世界が終わる時に流れて欲しい
これってどういうアニメなんですか?
最高に平成
監督が天才
サムネのお姉さん好き
カタルシスを感じる!
ナベツネの話しまた見たいな