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日子坐王その四 但馬故事記と日子坐王
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#但馬故事記 #日子坐王 #彦坐王
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#日子坐王 #彦坐王 #丹後風土記
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#日子坐王 #彦坐王 #欠史八代
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#日子坐王 #彦坐王 #丹波道主
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#富雄丸山古墳 #蛇行剣 #ニギハヤヒ
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歴史を追いかける意味
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#卑弥呼 #吉野ヶ里遺跡 #邪馬台国
歴史が動く瞬間!吉野ヶ里遺跡に刮目せよ!!
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#吉野ヶ里遺跡 #邪馬台国 #卑弥呼
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令和考古学の幕開け!富雄丸山古墳と富王長髄彦
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#富雄丸山古墳 #盾形銅鏡 #長髄彦
弥生王墓の重要性について(書籍紹介もかねて)
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КОМЕНТАРІ

  • @猫型ガンダム日常決戦仕様

    要約すると、大国主命とすせり姫のブライダル時に神前結婚した時の神様なのかな?

  • @keisuzuki1524
    @keisuzuki1524 20 днів тому

    明治のはか泥棒が骨もってって隠したのでナガスネヒメ出ないと思う モリヤなんちゃらと天理と京都博物が怪しい🤔🤔🤔

  • @keisuzuki1524
    @keisuzuki1524 20 днів тому

    な~んにも知らないわたくしめにもピンとくるような大和霊園のナガスネヒメ事件ありましたね~~

  • @110nari8
    @110nari8 Місяць тому

    最近、カルト的で不気味な四国起源説がありますが、その肝心の徳島には、「おふなとさん」というクナト信仰のメッカで、四国全体で1000基あるうち700基が徳島に集中しています。 阿波の本質は出雲信仰になっています。

  • @abeyoshihiro0921
    @abeyoshihiro0921 Місяць тому

    ナガスネヒコ=出雲の一族は結構信憑性が高い 理由は出雲大社 出雲大社の元々の名前は杵築大社と言います そして杵築神社というのが、富雄丸山古墳から1kmほど北にあります ニギハヤヒの本拠地のあった白庭台のすぐ近くです

  • @bemilesaway
    @bemilesaway Місяць тому

    日子坐王(ヒコイマスオウ)と玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)の戦いの詳細、とても面白かったです。 以前酒呑童子伝説の回でも触れられてましたが、敗れたクガミミノミカサが離散した先の地域近くに住んでおります。 地名が残る付近に丹後式の墳丘墓と倭国大乱期の高地性環濠集落が見つかっているので、間違いないと思います。 大丹波チャンネルのおかげで、高志深江国と旦波(タニワ)地域との繋がりに気づけました。近々、丹後半島へ赴きたいと思います。いつも興味深い内容の動画をありがとうございます🙌

    • @bemilesaway
      @bemilesaway Місяць тому

      余談ですが、おそらく陸耳(クガミミ)というのは、「くぬがみみ」だと思います。 後の北陸道を「くぬがみち」と言いますが、若狭湾から見て陸の地を指す地名として「陸(くぬが/くが)」が用いられているようです。 なお、耳(ミミ)というのは『福井県史』によると古い官職名が敬称化したもののようですね✍️

    • @bemilesaway
      @bemilesaway Місяць тому

      追記ばかりであれですが、但馬地域の伊伎佐(いきさ)神社の更に西の因幡国側には、陸上(くがみ)という地名が定着していて、とても興味深いです✍️

  • @ピーソニ
    @ピーソニ 2 місяці тому

    羽根は、丹波道主命のこと?比地は、比治のことだと悟りました。ありがとうございます。

  • @サイノカミ
    @サイノカミ 2 місяці тому

    出雲王国第8代・ヤチホコ王、斐川町神庭に王宮、宗像家の次女・タギツ姫を娶る、前218年頃に娘婿・徐福(スサノオ)の陰謀により遭難し平田・猪目洞窟で監禁餓死する。石川県河原田川河口(輪島)開拓を7代王・アメノフユギヌに継続して行った。又、少名彦・ヤエナミツミと共に薬草の普及を住民に教えたようだ。神話名・大国主の履歴。

    • @nakabunken
      @nakabunken 2 місяці тому

      出雲口伝ですね^_^

  • @森岩光
    @森岩光 2 місяці тому

    家系としては 仁徳天皇の前迄は 現在の皇室とは直接的な関係のない 親戚筋のよその話。 数次の王朝交代を無理やり万世一系にしたから 無理が、、、

  • @サイノカミ
    @サイノカミ 2 місяці тому

    八千矛王(大国主)の長女・高照姫(アメノミチ姫)は年老いてから息子・五十猛(カゴヤマ)が住む丹波に移住して亡くなったと、出雲で伝わっています。

  • @guitarradegato1799
    @guitarradegato1799 2 місяці тому

    丹後地方には出雲系氏族も多い事やろうし浦島太郎のモデルの浦嶋子の伝承になった海部氏所縁の史跡も在るんとちゃう?🤔

  • @明日語郎
    @明日語郎 2 місяці тому

    長脛彦(=大彦)は倭国大乱の時の人物です。大彦は、信濃で没したという伝説があり、伊賀や伊勢遺跡を渡り歩き、日高見億を興したという言い伝えがあります。少なくとも大彦と古墳の年代は、不一致です。

  • @OKcomputer-uc7bj
    @OKcomputer-uc7bj 2 місяці тому

    古墳とは何ですか?そこの権力者の墓。<それは恐らく後に古墳と呼ばれる盛り土に権力者を祀ったんでしょう。お墓のために盛り土を作ったんじゃないってことです。それは稲作をするために山地を平らにした際の残土と考えるのがごく自然です。古代の人だって王を祀るためだからと言ってあんな巨大な…非経済的なことはしないでしょう。じゃ、なぜ前方後円墳などの決まった形を取ったのかは、よくわかりません。 古墳時代の3~4世紀に新田開拓の大事業があったんですよ。卑弥呼もその後継の豊受大神もその辺の時代なんですよ。紀元前ということはないと思います。

  • @文月-o1x
    @文月-o1x 3 місяці тому

    個人的には、火明ー天香具山ー天村雲と繋がる、彦(日子)は王の名だと思います。 饒速日と長脛姫の子孫、鬱色謎(穂積氏)が孝元天皇の皇后、その皇子の開化天皇の皇后が伊香色謎命(大綜麻杵の子/阿波)なので、この時期から物部勢が力をつけて、皇位の外戚争いに丹波勢と争ってるようにも視えますね。

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      コメント有難うございます◎僕も日子坐王の名前の「日子」の意味するものについては、重要に思います。丹波も「旦波」という表記が古いです。「旦」は日の出、また後裔に日下部がいたりしますね。 僕も欠史天皇の少ない情報から何を見出せるかは、非常に大事だと思います^_^

  • @森岩光
    @森岩光 3 місяці тому

    彦坐大王。 大和王国(奈良盆地の地方政権) 登美王朝(出雲王国の分家) 3代目の大王。 孝元 (登美の大田多祢彦。大田田根子、八咫烏。 三輪大王) が 九州から進攻してきた 外敵の物部を利用して内乱に明け暮れていた 海(アマ)王朝(神武~孝霊) 勢力図を大和から一掃させて、 大王に即位。 この際、 大和を喪失した 大王の孝霊 (桃太郎の本当のモデル) は 出雲王国から 播磨~吉備を攻めとり大吉備国を建国、 更に出雲王国に進攻して蹂躙した (第一次出雲戦争) 傍系王族、尾張家や海部家は 中京地域に。 海部家はここで尾張家と分かれて 父祖創業の故地、 丹波に回帰して 大丹波王国を建国。 この際、隣の但馬を攻めて北部地域を奪取した。 磯城の登美本家は 木津川沿いの 岡田(岡田加茂)に退去。 大彦(皇太子)は 伊賀~東近江に盤きょして 野洲を都にして クナト王国(中国人は狗奴国とした)を建国して 物部軍と対峙するも 猛攻の前にクナト王国は瓦解滅亡。 大彦は北陸方面に 御子のヌナカワワケは太平洋側の2方面に分かれて退去。 物部はそれらを執拗に追撃し続け、 やがて東北地方で合流した大彦の子孫勢力は 強力な日本国を建国して 関東以南の 大倭国(大和朝廷)と鎌倉時代まで対峙、並立した。 物部は大和を席巻はしたものの 老練な出雲族に懐柔され丸め込まれて 第一次東征は 結果として失敗に帰した形となり 大和入りした物部の半数が九州に帰した。 3世紀半ば~末に掛けて 再び物部は他勢力を巻き込んで東征を開始。 (第2次物部進攻) 大和王国登美王朝の 3代目、彦坐大王は 時に既に高齢であり 後事を 彦タツ命→彦道主(彦ミチウシ)大王に託して隠居。 九州連合勢力の猛攻に 大和の維持が困難となり 大和王国登美王朝勢力は 丹波に退去して進攻勢力と対峙するも 滅亡を余儀なくされた。 この際、彦道主大王は 侵略者の 物部イクメ王(垂仁天皇。リアル神武)に ヒバス姫を差し出して降伏した。 彦道主大王は即位前の彦タツ命に改名して因幡の宇部神社に隠居。 彦道主大王→彦タツ命を護衛したのが 武内(宿禰)大田根命 (皇室 (武内家。 本姓は海(アマ)家。)の祖先の一人) 武内(宿禰)大田根命が 三角縁神獣鏡を造らせた(100枚) 九州連合勢力が大和に進攻する前夜の危急存亡の秋に それを見ていた 登美大王家が今度半400枚以上を造らせ、 それを大和王国登美王朝に与する者や勢力、 与力して欲しい勢力等に盛大にばら蒔いた。 その効果は直ぐに現れた。 九州連合勢力(総帥は女王、宇佐の豊玉姫命)が九州を出た直ぐに ↑の建国の経緯から 大和王国登美王朝とは犬猿の仲、ややもすると敵対関係に有った 吉備王国が 大和王国といつの間にか修好して 知らぬ間に大和側に付いていて 九州連合勢の皮算用に反して 行く手に立ち塞がり、頑強に抵抗してきた (結局、三角縁神獣鏡の何枚~何十枚?で 大和王国登美王朝は約10年程の命脈を贖い、永らえた形)

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      出雲口伝も宗教になりつつありますね^_^

  • @wanderismvlog
    @wanderismvlog 3 місяці тому

    いやぁー今回も面白かったー! 複数の国を治めた人が大国主。なるほど、合衆国の大統領みたいですね! 天皇家と丹波の関係も気になりますねぇ~。次回が楽しみです!

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      いつも、有難うございます^_^大国主の解釈、一見根拠不足のようですが、古事記でも大己貴は因幡の八神姫を娶り、根之堅洲国で須勢理姫を娶ったことで、スサノオも大己貴を大国主と呼んだわけです。二国のお姫様をもらったので大国主です。その後、ヤチホコが沼河比売を娶りますが、出雲口伝でも特にヤチホコを大国主と位置づけることにも納得です^_^

  • @きれっと
    @きれっと 3 місяці тому

    しんすけさん、いつも配信ありがとうございます 楽しみにしています 垂仁天皇の時に奈良の纏向遺跡付近に纏向珠城宮を築いたとされていますが、相撲神社のもっと奥に穴師坐兵主神社がありますが、どうもヒコイマスオウと関係と関係がありそうですね😮 穴師も鉱山系の名だし、こちらも気になります 蛇穴(さらき)に通じる名前でもあるし、、 ヒバス姫のお墓が、平城京の真北の佐紀古墳群にあるのもたぶん何らかの意図がありそうですよね

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      いつも、有難うございます◎ 奈良には特に「〇〇坐〇〇神社」といった「坐」という字のつく神社が多いです。他の地域にもちらほらありますが、奈良は突出して多く、ほぼ全てが式内社です。これらの謎についても動画でも触れようと思っています^_^

  • @オトヱ
    @オトヱ 3 місяці тому

    楽しみにしていました〜! 情報量多くて、何度も南返せる回ですね! 繰り返し拝見して、考察深めて行きたいです! ありがとうございます♪次もとっても楽しみです◯

  • @佐藤正文-k2b
    @佐藤正文-k2b 3 місяці тому

    今回の動画、気合い入ってましたね✨日子坐王~丹波道主や当時の時代背景の話しなど何回聞いても面白いですね✨引き込まれました。前回のコメントで伊奈波神社さん紹介され、調べたら日子坐王~丹波道主さんなど関わりのある凄い😱神社でした。私は阿波説ファンですけど、大丹波さんきっかけに深い古代背景知る事ができありがとうございます🙏阿波説とWスタンダードになりそう😂🤣 次回待ってま~す‼️

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      Wスタンダード、広い視野と歴史観をお持ちの証!素晴らしいです^_^

    • @佐藤正文-k2b
      @佐藤正文-k2b 3 місяці тому

      @@nakabunken 寛容で優しいコメントありがとうございます😊✨ また古代史の奥深い話し聞かせて下さい。✨

  • @auntheforest
    @auntheforest 3 місяці тому

    王👑

  • @春野文博
    @春野文博 3 місяці тому

    🌿先生 おはようございます。🌻 お元気そうでなによりです。🍀先日 浜坂の鮑の神社にお参りしてきました。🐸 風車が参道にたくさん飾ってありました。🌺

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 3 місяці тому

    崇神天皇より前は出雲王朝だったという感じなのか?そうすると出雲口伝の信ぴょう性がかなり増してくる感じだなあ

  • @uruwashikihitomi
    @uruwashikihitomi 3 місяці тому

    待っておりました!🎉何回も聞かせてもらってます!

  • @morinokinoco2619
    @morinokinoco2619 3 місяці тому

    ありがとうございます。 また新たな知識が身につきました

  • @tatumi727
    @tatumi727 3 місяці тому

    待っておりました!ありがとうございます🙏✨

  • @まきんこ-f4r
    @まきんこ-f4r 3 місяці тому

    王、玉、主、皇 とても面白かったです♪ 漢字の成り立ちってとても合理的なんですね。✨ 入婿の垂仁天皇の第二皇后の日葉酢媛命から続いていくビッグネームの方々 続きを楽しみに待ってます。💓

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      有難うございます、漢字の話はこじつけでもありますが(^_^;)でも漢字から想像できる歴史や文化は意外と多いと思っています◎

    • @まきんこ-f4r
      @まきんこ-f4r 3 місяці тому

      船→舟+八+口 ノアと3人の息子セム、ハム、ヤペテとそれぞれの妻4人 👆これと同じくらい説得力ありました!👏

  • @黒嵜潤一郎
    @黒嵜潤一郎 3 місяці тому

    こんにちは。豊受大神は稲作の技術と養蚕を伝えた神様だと聞きましたが、丹波、丹後地方で古くから養蚕を行なっていた地域はどこかにありますでしょうか。

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      コメント有難うございます、豊受大神は五穀や桑蚕の種を伝えたと丹後風土記等にありますが、その頃(弥生時代)の丹後の遺跡で、絹や絹を織る道具が出土しているようです。有名な扇谷遺跡と今市古墳と、他にもあるかもしれませんが、養蚕の痕跡まではちょっと僕は分かりません◎丹後ちりめんや、綾部市(丹波国何鹿郡)のグンゼも有名な繊維製品企業ですね、あと丹波国桑田郡もありますね◎

  • @tatumi727
    @tatumi727 3 місяці тому

    続きが気になっています!配信お待ちしております!

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      有難うございます、近々収録いたします、お待たせして申し訳ありません(^_^;)

  • @kikunoya7223
    @kikunoya7223 3 місяці тому

    こんにちは はじめまして。私は地元に住む現在70歳を迎えようとするものです。扇谷集合住居跡の場所で子供のころから山に基地を作ったりして遊んでいたのですが 当時山の中に堀がいくつもあり 細い道で堀の間を通って山の上にあがった記憶があります。親に良く尋ねたものでした 戦争中の防空壕だったの?ってね。 大雨で山の一部がずって子供のころ遊んでいた時に 私が弥生時代の土器 道具を見つけ峰山小学校に届けたのが始まりとなり扇谷集合体が見つかることになりました。 昔から古い歴史物には興味があり 扇谷集合帯のそばにあるため池の土手から古い土器を拾ってきたものでした。 扇谷から出たものとは違い いろいろな模様が施された 土器で良く集めたものでした。焼きも甘く壊れやすかったのを覚えています。 ここ最近 丹後の古代史に興味が湧きいろいろと勉強をしています。 私の母の出が神明山古墳の真下 高野神社のすぐそばであったことも影響して 神明山に上がっては土器を集めたいたのが 古代に興味が湧く脳へのすりこみになったのかなと思います。 私の体の中に一片の丹後王国のdnaがあるのでしょうか 貴殿のお話に大変にひかれました。 まだ皆さんが知らない 調査のされていない古墳など 本当にたくさんあります。もっともっと調べて丹後王国のことがわかればと思っています。 今は扇谷集合帯の真下 峰山の駅前で暮らしています。

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      コメント有難うございます。子供の頃から丹後王国の断片で遊ばれていたなんて、僕はそういうのに興味を持ったのが25歳ぐらいからなので、とてもうらやましいです^_^ 扇谷遺跡、峰山駅はまさに古代丹波の中枢地、旧丹波国丹波郡丹波郷字丹波にお住まいとなると、完全に丹後王国民であられますね^_^ お母様は神明山古墳の麓のご出身ということは、古事記に唯一丹波の大県主由碁理とある大県主一族の遺物が、ご実家の下には眠っているのではと、、うらやましい^_^ 僕も丹後をうろうろしていると、ここは弥生時代の台上墓だな、と思う場所や神社を見かけます。弥生時代の遺跡や出土物は、質・量ともに福岡県が他を圧倒していますが、これは開発に伴う発掘調査件数が圧倒的に多いからで、もし丹後が福岡並みに調査をしたら、福岡に匹敵するのではと思います。 丹後には大和の歴史、九州天皇家の歴史を上回るような遺物が大量に眠っていると思われますが、それをガツガツ調査することはなかなか難しいと思います。赤坂今井墳丘墓のその適例ですよね。 丹後の地元民の方、丹後王国民しか知らないような細かい話や体験を、また教えていただけたら嬉しいです^_^

    • @kikunoya7223
      @kikunoya7223 3 місяці тому

      @@nakabunken 丹後に足を向けられたとき お寄りください。友達にとても勉強をされている方がいて一緒にお酒を飲んで話を聞きたいと思います。 旧峰山町は低い山に囲まれて 竹野川に注ぐ小川が中央に流れていて 旧峰山町を取り囲む山はすべて古墳だと思われます。山遊びをしていたら たいがい土器が落ちていましたので。又、神社があるところはかならず古墳のようです。

    • @kikunoya7223
      @kikunoya7223 3 місяці тому

      @@nakabunken それと 丹後半島を空撮した動画があるので参考になればご覧ください。kikunoya 7  海の京都で引っ張れると思います。

    • @nakabunken
      @nakabunken 3 місяці тому

      有難うございます、お店ですか?きくのやさんですかね?ぜひお伺いしたいです^_^お邪魔するときはお電話しますね^_^☆

    • @kikunoya7223
      @kikunoya7223 3 місяці тому

      @@nakabunken はい。お話が聞けるのを 楽しみにしています。

  • @古屋公夫-s9s
    @古屋公夫-s9s 3 місяці тому

    富雄丸山古墳の被葬者は孝霊天皇の妃の千千速真若毘売命です。  千千速真若毘売命は紀元99年に生まれ138年に崩御されました。  千千速真若毘売命は邪馬台国の女王卑弥呼の母親の立場に当たります。  邪馬台国の女王卑弥呼の正式な名前は倭母母曽毘売命です。  倭母母曽毘売命は孝霊天皇の皇女です。  倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ、98年に崩御され箸墓古墳に葬られました。

  • @eguchikou7544
    @eguchikou7544 4 місяці тому

    いつも興味深く拝見しております。 母方の実家が宮津(とはいえ山の方ですが)ということもあり丹波には何か感じずにはいられません。 別のチャンネルですが、丹波を最近取り上げられているようです。ご存知かもしれませんが… ua-cam.com/video/lkx_DJiUoRU/v-deo.htmlsi=7ZG_FCn7F-lWiLXQ

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます◎ 宮津市は古代史の宝庫ですね!ご実家のあたりも掘れば何か出てくるかもしれませんよ^_^ 他チャンネルの紹介有難うございます、僕はUA-camで古代や神社のことを全く調べないので、編集クオリティの高さにビックリしました(^_^;)

  • @moviefine9501
    @moviefine9501 4 місяці тому

    出雲口伝で香語山さんの生い立ちがわかりました。香語山さんのことをいろいろと教えてください。六甲山の瀬織津姫の謎につながると思いますので。

  • @00simaya40
    @00simaya40 4 місяці тому

    出雲大社の大柱は 平安時代の領主だつた佐々木源氏(別名:出雲源氏)であろう源氏が神主に言い伝えにある 高天原に届かんばかりの本殿を造ろうではないかと誘い建てたと言われて居ますね。

  • @yosi3629
    @yosi3629 4 місяці тому

    こんにちは。初めてコメントします😊 ヒコイマス王について知らないお話ばかりで楽しく勉強させてもらってます! ご存知かもしれませんが、出雲王家の伝承ではヒコイマス王は磯城王朝(ホアカリの孫の海村雲とヤマトに移住した出雲王家がヤマトで始めた王朝)の大王で、息子のヒコミチヌシの時代、九州から物部勢力(垂仁)が攻めてきたために亀山に遷都したとありました。 ヒコミチヌシは磯城王朝の正統であったことを誇りに思っていたそうなので、出雲の神を祀るのも納得です。 みなさんもコメントされてますが、大国主というのは役職名なんでしょうね。 これからも動画楽しみにしてます😊 今後も動画楽しみにしています!

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます◎ 出雲口伝本は「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」などは僕も持っています^_^道主の都跡が和仁下神社ともありましたね。ただ出雲口伝本には但馬故事記についてはなかったかと思います。 日子坐王は大国主同様、一人の人物ではなく、初期大和の大王家の尊称だと考えています。したがって日子坐王はホアカリでもあり、スサノオでもありますね。彼らには興味深い共通点があるので、また動画でお話しさせていただきます^_^

  • @教えてあげない
    @教えてあげない 4 місяці тому

    丹後の日下部さんは、今でもあわびを食べないそうです。 1000年以上子々孫々受け継がれてるねは、すごい

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      さすが日下部さん^_^梨の方もサイコーです^_^☆

  • @ssmm9359
    @ssmm9359 4 місяці тому

    おはよう御座います☆ 但馬古事記の内容は仰るようにとっても興味深いですね楽しかったです☆ 土蜘蛛さん達も出雲族かなと思っていたのに彦坐王が祀ったのが出雲八千矛夫婦 神 最終的に大国主になるストーリー なんか出雲族との繋がりがありそうですね 大国主とは単一の神名じゃなくて沢山の小国を纏める役職名であったり、またその御方の世襲であったりするのかもしれませんね☆ また次回楽しみにしております 奥様の鮑へのツッコミもナイスでした👍

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます◎ この日子坐王と土蜘蛛の争いは後世のリライト版があり、その一つが飛鳥時代の表米親王と新羅の賊の争いです。この表米親王も但馬の海上でアワビに助けられます。表米親王は日子坐王を出自とし、日下部氏の祖ともされる人物で、但馬には親王を祀る表米神社、俵米神社が複数あります。またアワビたちの王は大海竜王神として但馬の赤渕神社に祀られています。 僕もクガミミら土蜘蛛は出雲族の可能性を捨てきれませんが、上記の伝承では新羅の賊として完全な外敵に置き換えられていますね。僕の中で一番可能性を感じるのはクガミミは八岐大蛇、日子坐王はスサノオ(ホアカリ)の伝説のリメイクだということです。 大国主はおっしゃるような理解で僕も同じです、吾郷清彦氏の説も同じですね^_^☆

  • @netmuti8289
    @netmuti8289 4 місяці тому

    日子坐王の子孫は苗字こそ変ってますが全国的に知らない人はいないでしょう。 しかも現在の坐王は鮑に助けられて無くサザエに助けられている。 貝類に助けられるのは、坐王の定めなのでしょうね。

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      現在の坐王!サザエの援護があるのですか^_^!それは知りませんでした(^_^;)

  • @qwerty-td6qt
    @qwerty-td6qt 4 місяці тому

    ありがとうございます このチャネルで古代の大丹波に興味を持って私も遺跡や古社巡りを行ったのですが、日子坐王や丹波国風土記や但馬故事記等の文献は全く知らなかったので、大変に勉強になりました どちらもWebに公開されている様なので、暇を見て原文を勉強します 考古学や神話から見ると、どうも大丹波から阿波・紀伊・伊勢・尾張、そして房総の安房・上総へと広がったアマテラス族がいて、これらが集結して纒向遺跡や箸墓古墳を築いた様に見えます アマテラス族は元は出雲族だったものに、弥生期に半島から太陽信仰を持った渡来人が混血して融合した民族に見えます そこから考えると、記紀の神武も崇神も架空の話で、実際は纒向から天理一帯の初期大和王権とは、実際は彼らアマテラス族による祭祀国家だったのではないかと思います 神武や崇神は天孫降臨神話を持った扶余民族系の始祖神話で、これは5世紀に九州から河内に東征してきた饒速日命・物部の王朝でしょう 彼らによって倭国の古代史が神武を始祖に書き換えられていたところに、7世紀の壬申の乱にて政権を取り返したアマテラス族が修正を加え、国名も日本に改めて今の記紀神話になったのではないかと推察しています つまり、大丹波こそが日本の始まりだろうと

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      大丹波に興味を持っていただき有難うございます◎大和はまさに色んな民族が「大きく和した」国のように思います。弥生時代後期、赤坂今井墳丘墓を作った勢力は、その後各地に進出したと考えられますが、その後の展開はとても複雑で、僕の中ではなかなかこれと確信できないことが多いです(^_^;)しかし古代丹波が日本の古代史の中心に関わっているのは間違いないと思っています☆

  • @佐藤正文-k2b
    @佐藤正文-k2b 4 місяці тому

    お疲れ様です。但馬故事記、拝見しました。平安期に復元されたので鮮明に残ってますね。伝承、口伝の名残りが粟鹿神社となり、日子坐王墳墓のある神社と知りました。一度は行ってみたいですね但馬~丹波~亀岡と出雲、渡来系ルートなんですね‼️次回も楽しみで〜す。😃

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      有難うございます、粟鹿神社はすごくずっしりくる神社なので是非お勧めします^_^☆

    • @佐藤正文-k2b
      @佐藤正文-k2b 4 місяці тому

      失礼します。粟鹿神社の動画、数本観ました。派手さ華やかさは無いですが、しっとり感があり1700年前の雰囲気にのみ込まれそうな神社⛩️ですね、ワビサビの世界✨‼️誠に勝手ながら質問宜しいでしようか‼️😅出雲口伝の動画も観てるのですが、その中で初期大和王権(磯城王朝)10代天皇は日子坐王であった、第二次物部東征で大和~亀岡~丹波~但馬と戦いに敗れ、10代天皇に崇神天皇(物部イエニ)にすり替えられた❓他の系図では日子坐王の子→丹波道主で娘が(日葉酢姫)→垂仁天皇の后とありました。各古代史動画観てると、頭の中🤯しっちゃかめっちゃか‼️😂

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます。 出雲口伝本に「崇神が日子坐王とすり替えられた」と書かれてありましたかね?また読み直しておきます。ただ丹波道主がイクメイリ彦に追われて天理(和仁)から丹波桑田郡に戻ったという話は覚えています◎ 僕はそもそも欠史八代皇統の総称が日子坐王であると考えていますので、十代天皇が日子坐王であるという説は首肯できます。 垂仁天皇が丹波道主の娘らを妃にしたのは、丹後王家に婿入りしたことを意味します。美濃に伊奈波神社という古社がありますが、この神社の祭神を見れば、丹波道主族か垂仁天皇のどちらを正統に見ているかが一目瞭然です。天皇家はあくまでも古代の一豪族であり、当時それと同等あるいはそれ以上の雄族は沢山いたはずだろうと思います^_^ 日子坐王(丹波道主王)の系譜は古事記に詳しくありますが、先代旧事本紀の国造本紀も彼らの後裔氏族の分布を知るために非常に重要な資料となります^_^

    • @佐藤正文-k2b
      @佐藤正文-k2b 4 місяці тому

      丁寧で分かりやすい解説ありがとうございます🙇古代豪族などは婿入りも勢力拡大を図る手段ですね。垂仁天皇が丹後王国に婿入りだったんですか‼️丹後とは海部系で初代大王「天の村雲」と言われてる所ですね。大丹波チャンネルの言う通り当時は天皇制など確立してなく豪族の一部だったのでしょう。他では狭穂彦の反乱があり妹(狭穂姫)の遺言で垂仁天皇の后に日葉酢姫にされたと言う話しもありますね。🔶あと「崇神が日子坐王とすり替えた」は言葉足らずですみません🙏美濃の伊奈波⛩️神社(初耳)チェックして観ます。失礼しました。

  • @fujisan1006
    @fujisan1006 4 місяці тому

    日子坐王興味深いお話しでした。 何故出雲の神様に繋がるのか? 日子坐王も出雲も阿波で繋がるようです。 この動画は美濃から日子坐王を見てますがこちらの大丹波さんのチャンネルと照らし合わせながら見るととても面白いです。 ua-cam.com/video/seyqovMOrF8/v-deo.htmlsi=DLvSb0wNT1H8RI1i

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます。美濃は日子坐王やその後裔を祀る神社が沢山ありますね!僕も何度か足を運びました☆日子坐王の公式の陵墓は美濃にありますね◎

  • @kameshikou
    @kameshikou 4 місяці тому

    アワビしか頭に残ってないです😅

  • @春野文博
    @春野文博 4 місяці тому

    🌿とても関心を持って視聴させて頂きました。ありがとうございます。🍀何気なく立ち寄った浜坂の神社、朝来の赤磐神社、由来書きに鮑の話がありました。在但馬の私にとっても想像を超える古代の物語です。🐸先生、第二弾 待ってます。🐸

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      有難うございます、但馬は僕もフィールドワークがまだまだ不十分ですので、お気づきのことがあれば教えて下さい☆

  • @かき-v6v
    @かき-v6v 4 місяці тому

    とても興味深い話ありがとうございます。 日子坐王の後裔の日下部氏系の家では鮑を食べてはいけないと今も伝わるようですが、日子坐王の時代から受け継がれてると考えると凄いですね!

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます◎ この動画で紹介した赤渕神社の社伝にも「近隣ではアワビを食べない風習がある」と書いてありました。赤渕神社の社伝によれば、アワビは大海竜王神(赤渕神社祭神)の使いだそうです、面白いですよね^_^☆

  • @nonchemi6182
    @nonchemi6182 4 місяці тому

    阿波、もしくは、淡からの助っ人がいた、ということなんですかね。 ちなみに、アワビは元々ビ(ピ)と呼ばれていて、阿波で捕れるピのことをアワビと言った、という説を聞きました。😊

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます◎僕は但記でのアワビ族は出雲族に属する一族ではないかと思っていますが、皆さんのご意見はとても参考になります、有難うございます^_^☆

  • @きれっと
    @きれっと 4 місяці тому

    いつも面白く解説していただきありがとうございます 最近、丹羽が歴史のなかでもとても重要な地域だということをこのチャンネルを通して知ることができました 鮑=飽は海人族をあらわす言葉ということを聞いたことがあります もしかしたら、古代人は浸水を防ぐ役割であわひを使用いた?! 出雲大社の御神体、気になりますね 最近、鮑の膜の構造を模して、スマホの強化ガラスなどに採用されているので興味深々

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      コメント有難うございます◎僕はアワビ族は縄文系のアマ族であり、出雲系の人たちではないかと思っています。 但馬の赤渕神社にも俵米親王(日子坐王)とアワビの伝承があり、祭神の一柱が大海竜王神となっています。 阿波とのつながりを感じられる方が多いかもしれませんが、僕の知る日子坐王の足跡からすると、アワビは淡海(近江)とも関係付けたくなります。 ちなみに日子坐王は、丹波、丹後、但馬、淡海、淡路の「五タン」を統一した大王だとする説もあります^_^

  • @まきんこ-f4r
    @まきんこ-f4r 4 місяці тому

    初めて聞くお話でした!🚢🚢🚢🚢 鮑❣️きっと何かの集団を擬人化した物なのでしょう。 鮑‥阿波美 とも書くそうなので、やはり忌部と海部は古代から仲良しなのかなと思いました。🤝 続報待ってます♪

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      有難うございます、僕もアワビをトーテムとする一族だと考えています。和仁族、宇佐族などと同じですね^_^

  • @yofu6405
    @yofu6405 4 місяці тому

    今日も興味深いお話ありがとうございました。鮑のお話での奥さんの「漫画やん」のツッコミに笑いました。

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      有難うございます^_^☆

  • @まーちゃん-n7y
    @まーちゃん-n7y 4 місяці тому

    川守郷(現在河守)の出身です。与謝の大山(大江山)の話が出てきましたがこの山は丹後国と丹波国の境ではありません。現福知山市大江町が丹後国の最南端になります。また、大江町は福知山市に吸収合併される前は加佐郡でしたが北部大江山地域は与謝郡です。丹後風土記残欠は偽書扱いを受けていますが、学者の人達が現在の価値観で評価しているのは残念です。書かれた当時は言論の自由などなく、本当の事を書けば梵書となり、焼き払われていたと思います。巧みに登場人物や時代をズラして偽装しています。これは、風土記を書いた人の知恵です。特に川守郷の記述に登場する4人は重要です。ヒコイマスは残念ながら丹後には来ていないと思います。この話の中で最も重要な人物は土蜘蛛にされた匹女です。彼女こそが同じ風土記の青葉山に登場する笠津姫だと考えています。彼女の悲劇を伝える話だと思っています。彼女が埋葬された場所を探しています。

  • @春野文博
    @春野文博 4 місяці тому

    🌿先生の説が 日本の学説になれば嬉しいです。🍀

  • @wanderismvlog
    @wanderismvlog 4 місяці тому

    こんにちは!(こんばんは)今回も面白くて2回見ました。 青葉山は若狭富士と呼ばれていますね。昨年実際に見てすごく美しい山だと思いました。 酒呑童子のお話は大分県にもありますね!大分の酒呑童子は鬼を退治する側ですが(笑) 四道将軍はヤマトが遣わせたというのが定説ですが、日子坐王は丹波王国の歴代王なんじゃないかと思っています。名前も実は天照国照日子坐だったりして。 日子坐王が大国主に!びっくりですが、もしかして出雲大神宮に関係しますか? 次回も楽しみです!

    • @nakabunken
      @nakabunken 4 місяці тому

      おはようございます◎ 残欠風土記と但馬故事記において、主人公ともいえるのが日子坐王と火明命です。両者の活躍には時代差があるはずですが、密接な関係を感じます。日子坐王(丹波道主王)は丹後王家の代名詞でしょう^_^