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しろちゃんねる
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末森城(愛知県名古屋市千種区) 信長の父、織田信秀の居城
天文17年(1548年)、織田信秀は末森城を築城して、これまでの居城であった古渡城から拠点を移したと「信長公記」に記されている。東山丘陵から伸びる標高43メートルの舌状台地上丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城されている。
信長が父の葬儀のときに仏壇に向かって遺灰を投げつけたという逸話はこの時期のものである。
名古屋市の閑静な高級住宅街の一角にあるにもかかわらず、ほとんど完全な状態で保存されている戦国期の平山城です。
信長が父の葬儀のときに仏壇に向かって遺灰を投げつけたという逸話はこの時期のものである。
名古屋市の閑静な高級住宅街の一角にあるにもかかわらず、ほとんど完全な状態で保存されている戦国期の平山城です。
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沓掛城(愛知県豊明市) 桶狭間の戦いの前日、今川義元が陣を置いた城
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永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は上洛を目指して駿府を出発。5月17日、今川方の最前線拠点の一つ沓掛城に入り織田領進撃のための準備をしました。松平元康(後の徳川家康)はここから大高城への兵糧入れに向かいます。 そして、5月19日の午前10時頃、今川義元は沓掛城を出て大高城に向かったと言われています。
桶狭間の戦い関連の城砦群 (愛知県名古屋市緑区)
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大高城と鳴海城:今川義元が尾張攻略のために築いた城。5月19日未明、松平元康(後の徳川家康)は大高城に兵糧を入れるために出陣し、途中、丸根砦と鷲津砦を攻略します。 丸根砦:織田信長が大高城の押さえのために築いた砦。大高城の東方わずか800mの位置に築かれている。 鷲津砦:同じく織田信長が大高城の押さえのために築いた砦。こちらも大高城の北東方わずか800mの位置に築かれている。 丹下砦:織田信長が鳴海城の押さえのために築いた砦。鳴海城の北、600m弱の位置にある。 善照寺砦:同じく織田信長が鳴海城の押さえのために築いた砦。鳴海城から東方600m弱の位置にある。 中島砦:同じく織田信長が鳴海城の押さえのために築いた砦。鳴海城の南西約500mの位置にある。 織田信長は5月19日未明に清州城を出陣。丹下砦を経て午前10時頃善照寺砦に入ったと言われている。信長は善照寺砦に「おけはざまやま」の今...
大高城(愛知県名古屋市緑区) 桶狭間の戦いの前夜、徳川家康が兵糧入れを成功させた城。市街地にあるわりに保存状態抜群の城。
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永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は、駿河・遠江・三河の兵45000を引き連れ駿府城から出陣します。同年、5月17日には沓掛城(愛知県豊明市)に入り織田領進撃準備をします。この時、松平元康(後の徳川家康)には味方の最前線基地であった大高城への兵糧入れを命じます。松平元康は織田方の砦であった丸根砦を突破して無事大高城への兵糧入れを成功させ、そのまま大高城に籠城します。 翌日5月18日午前、今川義元は沓掛城を出発して大高城へと向かいます。途中、高台となっている「おけはざまやま」で休息をとっている間に織田信長の急襲にあい、首を取られていまうのです。この瞬間、もし松平元康が大高城ではなく、今川義元とともに「おけはざまやま」に居たら、おそらくそこで命を取られてしまい。後の江戸幕府も開かれなかったのでしょう。そういう意味で徳川家康は若いころから運に恵まれた人だったと言えるのかもしれません。
桶狭間古戦場 ~桶狭間古戦場とされているところ2か所あります。名古屋市緑区と豊明市です。~
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現在、桶狭間古戦場とされているところ2か所あります。愛知県名古屋市緑区と同じく愛知県豊明市です。名古屋市の方は桶狭間古戦場公園、豊明市の桶狭間古戦場は国史跡となっています。 その中間にあるのが、今川義元が陣を敷いた「おけはざまやま」と呼ばれる高地です。 永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は上洛のため駿府を出発します。5月17日には今川方の最前線の城である沓掛城(愛知県豊明市)に入ります。翌日は今川軍が籠城している大高城(名古屋市緑区)を助けるため西方向に移動します。その途中、おけはざまやまで軍を休ませているときに織田信長の急襲を受けます。前日までいた沓掛城に戻ろうとした兵は豊明市で討ち取られ、大高城側に進んだ兵は名古屋市緑区の方で討ち取られたのではないでしょうか。
清洲城(愛知県清須市) 桶狭間への出陣、清洲会議等、重要な戦国史上の舞台となった城
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桶狭間への出陣、清洲会議等、重要な戦国史上の舞台となった城です。 また、歴代城主は、織田信長→織田信忠→織田信雄→豊臣秀次→福島正則等々、そうそうたるメンバーです。 一度は足を運んでおきたい城ですね。
楽田城(愛知県犬山市) ①日本最古の天守閣と②小牧長久手の戦いにおける秀吉軍の拠点
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①最古の天守閣があった城 小瀬甫庵の『遺老物語(おきなものがたり)』によると永禄元年(1558年)に楽田城中に高さ5メートルほどの壇を築き、その上に2階櫓を構築し内部に神仏を祀り、それを殿守(=天守)と呼んだそうです。桶狭間の戦いの3年前のことです。 ②小牧長久手の戦いにおける秀吉軍の拠点 天正12年(1584年)3月 から11月まで続いた小牧長久手の戦いでは、豊臣秀吉が楽田城に陣を起き、小牧山城の徳川家康と対峙しました。
小牧山城(愛知県小牧市) 信長と家康による2つの異なった小牧山城の使い方
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小牧山城って?知ってますか?小牧山城と言えば、「どうする家康」にも出てきた家康vs秀吉の小牧長久手の戦いに登場するお城。でも、元は織田信長が築いた城です。そう、信長も小牧山城と家康の小牧山城は別モノです。 1)信長の小牧山 織田信長の居城と言えば、良く知ってる人でも、清州城⇒岐阜城⇒The 安土城!と思っていませんか?しかし、信長は美濃攻略のために、永禄6年(1563年)7月に居城を清州城から小牧山城に移すのです。山頂の本丸を守るために山腹に無数の帯郭を巡らし、家臣団の屋敷を山のふもとに置く。そして、屋敷ごとぐるっと土塁と空堀で囲むという小牧山城の基本的な形は1563年に出来上がりました。城下町は城の南方、清州の方向です。その後、齋藤道三を倒して美濃を手に入れた後、小牧山城の築城から4年後に拠点を岐阜城に移していきます。 2)家康の小牧山城 それから10年以上後の天正12年(1584...
関ヶ原の戦い 陣跡と古戦場訪問 杭瀬川古戦場から関ヶ原決戦地まで
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの舞台を合戦前夜の杭瀬川古戦場から関ヶ原決戦地まで訪問しました。大垣城から家康岡山本陣までの距離感(4.5km)、三成笹尾山本陣から決戦地までの近さなど 司馬遼太郎の「関ヶ原」の舞台が手に取るようにわかりました。
大垣城(岐阜県大垣市) 関ヶ原の戦い前哨戦の地
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して拠点とした城です。関ケ原の戦いの前日、徳川家康は大垣城の北西4.5kmの位置にある岡山(お勝山)に本陣を置き、近郊の杭瀬川で全焼戦が繰り広げられました。その夜、徳川家康は石田三成を関ケ原まで引くづりだすことに成功し、明朝から関ケ原の戦いとなるのです。 大垣城は、江戸時代に作られた女性たちの籠城生活を記した「おあむ物語」の舞台となった城でもあります。
紀伊國坂 小泉八雲「のっぺら坊(Mujina)」の舞台
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街灯が登場する以前、紀伊国坂のあたりは夜になるとたいそう暗かったため、当時の人は日没後はこの坂を避けて遠回りをしていたそうです。
浜松城・引間城 古城(引間城・曳馬城)を西側に拡張する形が築かれた家康の城
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浜松城は古城(引間城・曳馬城)を西側に拡張する形が築かれました。両方の城の位置関係などを動画とともに説明します。
三方ヶ原古戦場
Переглядів 305 місяців тому
徳川家康が、武田信玄に大敗を喫した 家康公の人生最大の危機とも言われている戦い。 1573年、上洛の途上にあった武田軍を徳川・織田の連合軍が迎撃しようとしたが大敗してしまう。
難波田城(埼玉県富士見市) 扇谷上杉氏の重臣、難波田弾正の居館。城の中心部は宅地化され馬出曲輪周辺が復元されている。
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難波田城は扇ガ谷上杉氏の重臣、難波田弾正による築かれた平城です。難波田弾正は深大寺城を築いて北条氏と最前線で戦った武将でもあります。難波田弾正の頃は居館程度の規模でしたが、上田氏の居城となったころから城域が拡張されて現在知られている縄張になったと考えられています。城の構造は埼玉県の平野部に存在する忍城や岩槻城のように低湿地帯に築かれた半水城のような平城です。現在は城の南側の馬出曲輪を中心とした部分が復元整備されています。
躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)
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戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって領国支配の拠点として機能しました。
基肄城(きいじょう、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町)。天智4年(665年)に大野城(福岡県)とともに築かれた日本最古の山城。2024年3月30日
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基肄城(きいじょう、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町)。天智4年(665年)に大野城(福岡県)とともに築かれた日本最古の山城。2024年3月30日
大野城 飛鳥時代に築かれた日本最古の山城。いわゆる朝鮮式山城です。(2024年3月30日)
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大野城 飛鳥時代に築かれた日本最古の山城。いわゆる朝鮮式山城です。(2024年3月30日)
堀秀治陣跡 名護屋城周辺の陣屋跡の中で保存状態が最高!(2024年3月30日)
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堀秀治陣跡 名護屋城周辺の陣屋跡の中で保存状態が最高!(2024年3月30日)
高見城/四津山城(埼玉県比企郡小川町) 長享の乱の舞台。山内上杉家と扇谷上杉家の決戦の地!
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高見城/四津山城(埼玉県比企郡小川町) 長享の乱の舞台。山内上杉家と扇谷上杉家の決戦の地!
腰越城(埼玉県比企郡小川町) 石積み、堀切、囮虎口などの遺構が残る松山城の支城
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腰越城(埼玉県比企郡小川町) 石積み、堀切、囮虎口などの遺構が残る松山城の支城
青山城(埼玉県比企郡小川町) 出枡形、食い違い構造の空堀、馬出、石積み等、様々な築城技術が使われています。
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青山城(埼玉県比企郡小川町) 出枡形、食い違い構造の空堀、馬出、石積み等、様々な築城技術が使われています。
鉢形城 (埼玉県大里郡寄居町) 関東の戦国時代幕開けとなった長尾景春の乱の舞台
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鉢形城 (埼玉県大里郡寄居町) 関東の戦国時代幕開けとなった長尾景春の乱の舞台
直鳥城(佐賀県神埼市) 環濠集落から発展した平城。直鳥環濠集落クリーク公園として整備されている。
Переглядів 147Рік тому
直鳥城(佐賀県神埼市) 環濠集落から発展した平城。直鳥環濠集落クリーク公園として整備されている。
姉川城(佐賀県神埼市) 佐賀平野の湿地帯にある姉川集落に作られた平城。クリークに囲まれた環濠集落から進化したユニークな城です。
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姉川城(佐賀県神埼市) 佐賀平野の湿地帯にある姉川集落に作られた平城。クリークに囲まれた環濠集落から進化したユニークな城です。
I'm happy to hear that you enjoyed my movie and enjoyed Japanese culture. Please let me know if you have further question.
I love you japan japanise people very good people long live japan long live japan india freindsheep mans of the world unity worlds all people brotherhood
難波田憲重の生涯を探究しています。大変貴重な内容をありがとうございます。
マップ付きでわかりやすかったです。立派な山城跡ですね。
一度だけ行った事がある。橋の入口付近にあった豆腐屋はまだやってる かな?防空壕も山の上にはあったよな
同じく地元です。動画ありがとうございます。 このあたりの里山はどこもそうなんですが、竹の侵蝕とナラ枯れの被害が目立ってきています。表土の流出もあり三沢川沿いでは前日の台風大雨時に土砂災害も起きています。
地元です。最近登ってないので助かりました。説明板が設置されてるようになっていたとは。廓跡はちょっと横にあってわかりにくいけど、わりとはっきり遺構が残ってる。 当山を下山した先は、読売ランドのすぐ下。菅仙石という地名で、小沢、菅、仙石という、民主党政権時の幹部が勢揃いした地名ということで日刊ゲンダイにも取り上げられたことがある
✕めいごうとうげ 〇なごうとうげ
私の住む町です。😮
昔その辺に住んでました、無量寺からの道子供の頃走り待ってました
山城跡を歩くと堀跡や土塁はかなり堆積物で埋まり崩れて当時の面影はありませんが深く這い上がる事は困難です。