![雨車ダークネスピアノ](/img/default-banner.jpg)
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雨車ダークネスピアノ
Japan
Приєднався 6 лис 2015
ピアノで弾いたものを上げたりします。DIYです。
Відео
モンサルヴァーチェのように #ピアノ演奏
Переглядів 2111 годин тому
#ピアノ演奏 まだあまりよく知らないですが、モンサルヴァーチェという素晴らしいスペインの作曲家のような雰囲気で弾きたいと思って弾いたものです。
【ご愛嬌cover】 Ginger Root/ Holy Hell #1人デュオ
Переглядів 5818 годин тому
#一人デュオ #gingerroot 大好きな曲で弾いてみたのですが、どうもうまくはいかない。
素晴らしいです!
自然の流れを感じます。 6:49←お気に入りパート
素晴らしい!どうしたらこんなに構造的に魅惑的なハーモニーを続ける事ができるのかといつも思います。
ただただhappy.
T H A N K S ! ! ! !
フリードリヒグルダの自作エクセサイズを思い出しました。
その曲は聴いたことがないので調べましたが、ほんとに素晴らしいですね、グルダはだいぶ前にその存在と一部の曲を知ったきり、いままで聴かないでいましたが、こんなにグッドなコンポーザーピアニストだったとは。またありがたきお言葉です。
❤❤❤
namaste
good night my friend
素晴らしい!!!!!!!!!!
面白いです❤凄い!
入りのリズムいいね
So good. Thanks for covering hakushi’s song👍
凄い!!❤🎉🎉美しいです😮
good
Что.. это?
This is my piano performance in improvisation. On Solo Duo. The title means "Did you close the water main valve, people of our land Hokkaido?"
EX NIHIL NIHILO FIT!!!!!!
染みるものがあります。
4×3のポリっぽいかなと思ったけど違うのね
@ そこのところ実は自信ないので、もう一度今度は0.5倍速で聴いてみたんですよ。それでわかった衝撃の事実聴きたいですか、わかりました、話しましょう。 アウトロのあのヒップホップ的なドラムパターンらしきものが、1度目のサビの間なんと2倍速で演奏されているじゃないですか。たまげました。アウトロのあれは、単に衝動的に出てきたものじゃなくて、モチーフとしてあらかじめ用意されていたものだったとは。 なお、0.5倍速で聴いてみても、私の上記の説明に、確定的な自信が持てませんが、私の耳で聴く限り合っていますし、そう捉えると、長谷川白紙氏の他の曲のリズムの様式とも調和するので、まあそうなのだろうなというところです。 で、ここも実はポリリズムであること自体は正しくて、ただそれが、直感的に一見捉えられる8分×4と2分3連×3のポリリズムではなくて、4分×3と付点8分×4、つまり3×4のポリリズムとなっているところがミソだと思うのです。 こういうリズム感の根底にあるのは、要は2分3連と、付点8分×2+8分×1要するに3-3-2のリズムの類似性だと思うのです。 ラテンアメリカ調の3-3-2のリズムは、よくアマチュア奏者が2分3連の直感的な代替として弾く傾向のあるリズムですが、長谷川白紙はどうもこれに含まれた何がしかを捉えていているところがあると思うのです。それでここで出てくる付点8分をそのまま伸ばしていって、付点8分×4+4分×1というリズムを作ります。そうすると、ちょうどこの尺が4分×4、つまり4/4拍子の1小節間にピッタリはまることになります。 類似のリズムでよくあるのは、付点8分×4+8分×2のリズムで、これはロックな感じがすると思います。長谷川白紙はどうもこの定型を使わないようで、最後の8分×2を4分×1にしてやることで、その直前の付点8分音符までもが何か妙に引き伸ばされて聴こえるという効果を生んでいるようです。現に、「砂漠で」に出てくる印象的なあのリズムは、ぱっと聴いた感じ5連符か何かではないかと聴こえます。 「行っちゃった」の当該箇所においては、さらに上に言った付点8分のリズムから3番目のものを抜き取った結果出てくるリズムが使われていて、さらに何か妙なことになっています。 と同時に、先ほど発見したように、アウトロのリズムが2倍速超高回転で動いているのだから驚きです。あのリズムの独特のニュアンスはこんなところから出てきているのか、と。
鼻歌シリーズ好きです
@@otonoameharuka きもい声につきあっていただき恐縮でございます。ありがとうございます。きもいといいつつ歌いたくなるんです
@ 素敵な歌声です!
gog
旋律にメロメロです。
幻想的です
damn what a banger
アレンジがほんとうに素晴らしいです、、氷のとける瞬間のような、、
wonderful❤❤
WONDERFULL
It's great, thanks!
1 もともと個性があるのではなくて、述語的一般的なもの単に映すものであるものの自己否定として我々の個性がその都度成り立つのではないか。個性なく本能あってもよいが、本能的働きを統合統制する機能がなければ世界はただの現象に過ぎず、認識者は行為すると言うことができない。行為することができるというのは、責任を持つ一つの主語的あるものが存在するからである。しかしその成り立つ由来を考えると、それはあくまでも述語的なもの一般的なものの自己否定すなわち本来あらざるべきものとしてしかしその都度には存在せざるを得ないものとして成り立つのだということが言えないか。本能を体系づけることがあるから我々の体験とか行為というものは成り立ち得るのであり、それは主語的なものに根差していなければならない。しかしそれが単に主語的なものであれば、認識者は単にその外側に出、統合的主語も単なる現象であることになり、したがって行為というものはそこに存在し得ない。主語的なものがもともとそれ自身述語的なものであるのでなければ、そして述語というのは優れて主語的である方向に存在ししかし同時に単に主語的なものにより枠縛りできない或る開きとしてあるものとしてあるのでなければ、行為というものすなわち優れて主語的でありながら述語的なものすなわち認識者が「その中」に入っているということが成り立ちようがない。単に映すものが単に映すものでありながら同時に主語的なものに含まれているということが我々の現実の行為というものであり、それがおそらくメルロ=ポンティの言う<肉>の概念である。ただ単に映すもの述語的なものと言うのでは、それは現象に対して責任を持たない。しかし現実にはその映すものでしかないものが、現実そのものに総体的に全体的に統合的に責任を持つものであり、行為するものなのである。これは、優れて主語的なものがそうであればあるほど同時に述語的として主語的には限定できない開きを持ったものでなければならないということである。主語的と述語的と二つの方向が行き来できるものとしてあるのではなく、矛盾的自己同一がその己の様を自覚化するかしないかという二項が、行き来できるものとしてあるのみであって、自覚化しないという局面においては主語的なものと述語的なものは分かれるが概念においてはすでに統合されており、自覚化されているという方向においては、この二極は矛盾的自己同一そのものとして肉として自覚されて行為そのもののさなかにあるものとして存在するのである。行為は明らかに述語的なもの一般的なものの自己否定であり、それはあるいは宗教的には受肉ともいわれるべきものだろう。しかし主語化されることなくして、述語的なものは己を立てることすらできない、なぜなら立てるとは主語的なものとなることであり、主語的なものの王となることだからである。しかし真に述語的なものは同時にすでに主語的なものによって捉えられない開きとして存在する。 (段落境)
2 この構造を構造として理解するときに、魂の経験の構造、すなわち霊体が同時に霊界にあり、幽体が肉体に被さって存在し、個人的な感覚は幽体的感覚に司られるのに対し真の霊的視野を霊体が持っているというこのあり方が想起される。霊体は司馬遼太郎の言う「公」からものごとを眺めている。((「司馬遼太郎 太郎の国を物語る」ua-cam.com/video/nw10_pW_oEo/v-deo.htmlfeature=shared 2024/11/24アクセス))幽体的感覚が、その機関となればよいが、それはしばしば「私」的なものに引っ張られがちである。だからそれはしばしば自分にとって外的なものを自分の主として、それもある意味では公ではあるのだが、真の意味で「ステイト」とはなれないという意味で、私的な領域を以て自己のおいてある全体となすという傾向がみられる。それは幽体そのものの立場も結局自己を真に生かさないということであり、霊界ではなく幽界の気を強く受けるということである。しかしそれがあくまでも「公」的なものとして働く限り、かえって幽体的なものも自己を真に活かし、同時に他者のために己を働かせることができ、個と全が弥栄えることになる。魂すなわち人生の統合的機関は、そもそも人生というものを単に私的ではなくもともと公共的なものとして見る。幽体的本能にとって都合の良いものではなく、真に広い目より見て価値のある人生を我々肉体的経験をする魂に提供しようとする。それが結局は個も全も弥栄えるあり方であることを知っているためにそうなるのである。「ステイト(公)」においては、どんな下っ端の者もそれに平等に働き手として加わることができるというようなことを司馬は上掲の映像において述べているが、確かに単に外的なものを主としている限り単に実体的に主従は定まってしまい、いかに「公儀」のために適した思考と能力を持った者が「下っ端」の立場に居ようとも、公なるものが機関でない限り、そういう者は真に公儀のために働くことができず、公儀は公儀自身を自己破綻させざるを得なくなる。これは主語的なものが述語的なものを支配しまた排除するということであり、これを日月神示の用語で「岩戸閉め」と言う。
3 真の「公」においては、主語的なもののいかなるものの内に、全体を弥栄えさせる鍵が眠っているかは知れない。そうであるがために、公なるものは、できるだけ私的実体的要素を排し、己をただ機関として働かせることに努めなければならないのである。本来私的なあり方が公としての意味をも持っていたという封建的あり方は、そもそもその領主なる存在がそれだけの無私なる心を有し、己を機関として働かせることができるだけの責任能力を持っていたということがあったから実現可能なことであったのであり、私的なものが公的なものを上回る反転世界、岩戸閉めの世界の有様においてはこれが一応公なるものを実現するための機関の形式であった。((下の者にとっての「親しみやすさ」もこのようなあり方の成立のための重要なファクターであったろう。))真のステイトにおいては、その時々の「公の目的」すなわちその時々に真に全体を活かしめるものにとってのそれに応じて、機関である組織の内実が定まってくるのであり、人選も実体的なものではなく、流動的に、ただ機関の必要に応じて定まってくるのである。実体的なその時々の目的に応じてその責任者としての責任を取るというやはり本質的には非実体的なあり方が、機関の本質である。目的というものも、目的という述語的なものに本体をおく限り、単に主語的ではなく、本質的に実体的ではない。その時々に現れる目的というものにこそに公儀なるものの実体性の本質をおくというあり方は、この観点からみて、実に理にかなっていると言うことができるだろう。それは公儀なるものすなわち世界なるものの真の姿、その本質への洞察に基づいている側面が強くあると考えられるのである。さらに進んで言えば、公儀のためにある機関というのは、人間が人間として生活している限りにおいて限定的に存在しているということがあるのみであって、それ自身もいかに中立的なるもの無私なるものだからといって不変のものあるいは永遠に自己維持するものとしてあるのではない。機関とは常に中立的なものであり、そして人と人とを結んで必要なことを行わせることのできる場でしかないため、その実というものは機関というものはこれをどこまでも持たないようにしなければならず、実はあくまでも公儀の目的の方になければならず、その目的にしても目的が解消されれば消えるものでなければならず、さらには機関という一つの公儀のための大目的そのものも、その必要が解消されれば自ずから消えてしまうものでなければならない。というのも、人間は空気の振動や紙などに書かれた文字を媒介にしてコミュニケーションをするものであるが、いずれ人間においてテレパシー能力の発達が著しくなった世の中においては従来の形での機関というものは必要なくなると考えられる。というのは、機関とはそもそも無自性であり、単に人と人とを関係させることのできる最低限の場であるのみだからであり、この関係させるということも、テレパシーによって従来よりも容易になるならば、明らかに従来型の機関というものは必要がなくなると考えることができるからである。とは言ってもその過渡期においては、従来型の機関のあり方というものにもまだ役目は残っており、それはまだ発達し切らないテレパシー能力において偽りの交信が多発するものと考えられるために、はっきりと可視化した公儀の確認機構としての従来の機関型の法や取り決めの表現法が必要になってくると考えられるのである。従来の機関をただ廃するという考えに固執するのもまた非機関的であると言うことができる。 (段落境)
4 実在するものは述語的なものでしかないが、その自己表現として仕方なく主語的なあり方が生じてくるものと考えられる。公儀はその性あくまでも述語的なものであるが、諸目的として主語化されるとき、それは行為の機関として働く。しかし行為というのものの帰結する主語性を見ると、その主語性とは無なのである。その結果は述語的に、更なる公儀を生み出すものとなり、それがまた主語化されることにおいて新たに行為が生じる。行為の結果としての述語的有様というのは、本来全てのものの還る場所であるが、いったん主語的なものを通している以上、それは単に述語的ではなく、世界は主語的に自己を表現し得たと言うことができる。その結果としてさらなる公儀が受肉するのである。そこから世界なるものを徹底的に主語的にみる立場も生まれてくるが、しかし真の姿はあくまでも述語的なものでしかなく、主語的なものは自己表現の機関として考えられる。機関そのものを実体化して考えるときに、あるいはそれが実体化して働くときに、主語的独断の立場が生まれる。しかし主語的なものを無限進歩的なものとして捉えるならば、それはただちに主語的なものをその性述語的なものとして捉えることにもなり、少なくともそれへの道はそこにひらかれる。この精神を以て批判的と呼ぶのである。述語的なものはもともと自己表現の機関のためとして主語的なものの含蓄を己の内に有している。そのために主語的なものが本体と考えられがちではあるが、そもそも主語的なものは自己のうちにその本体を持つことはできないのである。しかし本体とは単に述語的なものでなく、あくまでも主語的なものを本体として機関として自己表現されねばならないがゆえに、主語的なものは形式としての本体と考えられる。これに対して実体としての本体を述語的なものに考えることができる。様々なものが述語されるのはその性無だからである。様々なものが主語化されるのは、それらが主体という唯一のものの自己表現だからであり、主語という最大の述語がそこにはかかっている。主語は述語の系列の大なる部分と考えられる。主語が述語を包むというのは主語が深く述語的であるということである。しかしこれが行為の方向、機関の方向にあると考えられるときそれが主語的なものとなり、その性をたどって自覚的方面にこれを考えるときこれが述語的なものとなる。主語とはくさびで、述語とはこれが解消されることである。述語運動がなければそもそも主語的なものは己を体系づけ己を己自身のうちに深めてゆくことはできない。深い主語が発見されることは、述語運動によるのである。述語なるものが本体的方向にあることはわかったが、しかし本体と言う限りは、それは対象的に考えねばならぬようにも思われる。しかしこれが捉えられるその形式は、必ず述語運動を深く経なければならないというようなものである。主語とか世界という唯一述語が、元型といわれる心理学的概念の実はもっとも深いものである。それは端的にそれ自身であることにおいて、無限の述語運動を前提するものであり、したがってそれの端的な全体というものは存在し得ないが、そのことを以て全体となすというものである。
5 元型とはここから発する純粋数の生み出す概念であると考えられる。一にして多であるということから、それは生じてくると考えられる。一が一であるとき、それはすでにニである。ニが一であるとき、それはすでに三である。この展開は無限に続く。この運動は実在の唯一運動として根源論理的ではあるが、この無限数展開のどこまでを一つの論理式として捉えるかによって元型的認識が変わってくるのであり、それは古今東西さまざまな神秘思想のよって立つところではないかと思われる。この根源数には、それぞれ性格を見ることができ、そういうものがやがて男性的とか女性的といった肉体的理解に降りてくることになるのである。根源数は全て唯一述語として同一であると言うこともできる。三位一体とはこうした見地からも理解することができるのではないか。しかし同時に対象化は常に見えざる奥行きに面している。小数が無限に一を目指し続けるように、一というものの持つ含蓄が最も大なるものとも考えることができる。初源なるものが最も未来にあるものと考えることができる。数が単に多なる一々の集合でなく、端的に15とか27とか「一つのもの」として書かれることができるのは、それらがそれぞれ独特に「一」であるものだからである。実在とは主語的なもののみならずその運動を含めた総体を言うのであり、かといって運動という主語をそこに含めることはできず、主語的なものはしたがって常に部分的なものとならざる得ずそのことを以て全体と言うのである。運動というものを運動そのものとして包むものがゼロであると考えられる。ゼロをゼロとして立てるときにはそれはすでに一種の一になっているのだが、ゼロの本性はそれによっては捉えられないということがわかる。一が立たなければゼロもゼロとして立たないのである。しかもゼロは一に先立って存在しなければならない。このような存在の形式を述語的と呼ぶことができないだろうか。ゼロが一に先立つということだけを捉えれば対象的に矛盾的絶対者というものを考えて、その自己展開として精神現象学的世界を考えることができる。しかし捉えられたゼロとはすでに一種の一であってみれば、このような概念も批判的に乗り越えられねばならない。述語的なものは述語的なままに、主語的なものは主語的なままに他己同一として理解される必要がある。ゼロが限定された無限としての内容を持ったものとみなされる余地があったため、共産主義が生まれたと考えることができる。現に精神現象学的一貫展開というあり方は、精神の究極到達内容を前提しているかのようである。それは一種の限定されたものである。無論ヘーゲルの真意はそこにはなかったはずであるが、彼はおそらくこのような真概念についてただ「批判的」な形式によってのみ自覚的であることができた。しかしこれについてただ直接自覚的であることによって自覚的であることのできる道も存するのではないかと私は考える。論理は形式であるため、理解を超越することができる。形式を形式として定めてしまえば、それがいかに矛盾的なものであろうと、その形式性に居直ることができる。私はその道を述語的論理に求めてみたい。論理は純粋形式であって、純粋内容であるこの世界と、ただ形式上「同一」であると言われることができ、そのために論理はその本性始めより矛盾的なものでなければならない。だがそれは理屈はわからなくとも、技術的に使用することができる。論理は全ての現象を根源含蓄に還元することができる。故にそれは世界の法に沿ってある。自然科学の法則も、もとこのように根源含蓄的なものでなければならない。世界が自己自身にこのような還元を許しているということは、述語的でしかない世界が自己自身を主語的に限定することによって自己表現するということを意味している。主語的なものが立つことによってのみ述語的なものも立てられるのだが、しかしまさにそこにおいて述語的なものが先立って存在していなければならない。 この稿は、そのような道を進むための一つのお膳立てとして書いたものである。
6 メモ:虚心のうちに自己はない。しかし後から反省して「私」の虚心であったことがわかる。ところがこのとき主語的に、私というものをはじめからあったものとして立てざるを得ず、虚心というのをそのような私の特殊的心理状態として理解せざるを得ない。しかしそれについて考えることもできるのも、概念の働きによってのみ、すなわち私というものがなくなる場所においてのみであって、この資格から考えれば私なる主語的なもの実体的なものの独立性はどこにも存在し得ない。ではその概念の場所とは「私」においてあるのであろうか。もしそうなら概念とは概念と呼ぶことのできないものであることになる。そもそも実体的私を包み高次に立つものが概念でなければならないのである。であればこそ私というものが他者を包み世界そのものの自己表現として世界内行為をすることが可能なのである。私が全てに先立つかのように考えられるのは、反省においてまた行為において概念の分け御霊を与えられるからである。分け御霊とは述語的なものの自己限定作用である。それが自己限定的なものでなければならないわけは、それは他のものによって限定されていないものであり、自己から自己を限定するほかないからである。 (段落境)
infelizmente aqui no Brail a triste trilha sonora é: FUNK, SERTANEJO, FORRO E SAMBA. Triste a descultura da população do meu país.
Obrigado! ブラジルにはボサノヴァという偉大な文化的遺産があると思います。 私はジョアン・ジルベルトのように旋律を奏でられたらなと思っています。
SI LA CHÂINE EST PETITE, CÉST QUE LE CONTENU EST VRAIMENT EXCELENT!!!!!!!!!
👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏 illimité 👍
楽譜を拝見してみたい❤
@@mnc1259 ありがとうございます。即興演奏なので楽譜はありません。楽譜を書いた曲はまた別にあって、この演奏よりは保守的なスタイルですが、次のようなものがあります。もしよろしかったらそちらの方もご覧になってください。 ua-cam.com/users/shortswz6BfEAO5Ko?feature=shared また楽譜に書いてあって、演奏や打ち込みをしていない曲もありますので、いずれそちらの方もアップできたらと思います。
フランス近代音楽ファンとしては Brabo!!!です❤
♥♥♥♥♥♥
the sound of the piano in 0:00 goes fire
oyasumi
曲名通りイメージですね、4:14からの和音進行がいかにも古い時計台を思わせるような良い雰囲気ですね!
好きな曲です
凄い!!!!!!!!!!天才ですね🎉どうやったらこんな風に弾けるのでしょうか😮
@@haganobuakisolopianochanne665 ありがとうございます。言い過ぎですよ。
君もサナトリア村の一員にならないか?
凄い😮!!ー!!
すばらしい和声感覚!!!!細部の流れも丁寧で美しいです😍
最後好きです
nice piano
🫶
どことなく、クラシックな感じもするし、ポケモンな感じもするし、ジャズな感じもする。
なんかあつ森とかでかかりそう!妙に不思議な感じ
ALTER EGOっていう、自分を見つめ直すためのゲームがあるんだけど、 そのゲームのbgmをさらに進化させた感じ。 こころの内側、奥底な感じ。
@@takutoP1202 ありがとうございます。 そのようなものがあったのですね。勉強になります。
@@雨車ダークネスピアノとても引き込まれました
浮遊感だけでできてますね、