- 139
- 281 129
白潰チャンネル
Приєднався 1 лют 2021
また放置しておりました。申し訳ありません。
コメントもたまに確認するのみになっております。お返事返せなかった皆様、申し訳ありません。
2024年以降の動画に関し、住民がいらっしゃる集落や、定住ではなくても通いで耕作に来られている集落の動画は、すぐには更新しない方針に改めました。
愛媛県を中心に、山中に眠る消滅集落や城跡などを探索しています。過疎の最前線の姿をアーカイブしていきたいと思っています。
コメントもたまに確認するのみになっております。お返事返せなかった皆様、申し訳ありません。
2024年以降の動画に関し、住民がいらっしゃる集落や、定住ではなくても通いで耕作に来られている集落の動画は、すぐには更新しない方針に改めました。
愛媛県を中心に、山中に眠る消滅集落や城跡などを探索しています。過疎の最前線の姿をアーカイブしていきたいと思っています。
山の神巡りシリーズ4 46三社神社 河の子天満天神社 長輔神社 41正八幡神社 面河若山地区
石鎚スカイラインへ向かう愛媛県道12号近辺の神社を巡って来ました。
山の神巡りの神社は2つですが、山奥らしい秘境の神社も多数ある地域ですので、その中から2つご紹介しています。
河の子の天満天神社は、河の子集落篇でもご紹介していますが、環境が一変しておりましたので、ご興味のある方は是非ご覧下さい。
山の神巡りの神社は2つですが、山奥らしい秘境の神社も多数ある地域ですので、その中から2つご紹介しています。
河の子の天満天神社は、河の子集落篇でもご紹介していますが、環境が一変しておりましたので、ご興味のある方は是非ご覧下さい。
Переглядів: 627
Відео
山の神巡りシリーズ3 14十二社神社 11大元八幡神社 17御調神社 13三訪神社 露峰地区 2024年7月
Переглядів 3425 місяців тому
愛媛県上浮穴郡久万高原町の露峰地区周辺の4社を巡ってきました。 動画は参拝した順になっていますが、久万町の中心側から巡ると、十二社、大元八幡、三訪、御調の順となります。 お参りされる場合、大元八幡以外は国道380号から見えないので、手帳で場所を確認してから目指して下さい。 もし、大山祇神社を車で目指す場合、普通車で登るのは危険ですのでお薦め致しません。 私は歩いて登りましたが、かなり時間がかかりました。 道は峠まで一本道なので、迷う事はないと思います。 山の神巡りのスタンプ手帳は下のURLからPDFファイルがダウンロード出来ますので、印刷してご使用下さい。 ehime-jinjacho.jp/kumastamp/images/KUMASTAMP_c.pdf
山の神巡りシリーズ2 28尾崎神社 30松原神社 29宮柱神社 旧美川村日野浦地区 2024年7月
Переглядів 3625 місяців тому
山の神巡りシリーズ第二段は、旧美川村の日野浦地区周辺の三社です。 収録した順番で回るのが最もスムーズなルートだと思います。 いずれも車で乗り付けられますが、主要道路からはズレた所にありますので、偶然通りかかるような場所ではありませんので、訪れる場合は地図でご確認の上、ご参拝下さい。 ✳︎✳︎✳︎動画内で「ごうしゃ」と言う言葉を使っていますが、郷社とは村社よりも上の社格であり、私がごうしゃと読んでいるのは無格社と呼ぶべきもののようです。✳︎✳︎✳︎ 山の神巡りのスタンプ手帳は下のURLからPDFファイルがダウンロード出来ますので、印刷してご使用下さい。 ehime-jinjacho.jp/kumastamp/images/KUMASTAMP_c.pdf
山の神巡りシリーズ1 ②高殿神社 ⑤金刀比羅神社(西明神) 愛媛県上浮穴郡久万高原町 2024年6月
Переглядів 5195 місяців тому
久万高原町の山の神巡りと言う、町内46社を巡るスタンプラリーの神社へ行くシリーズです。 今回は②高殿神社と、⑤金刀比羅神社(西明神)です。 高殿神社は国道33号沿いにあり、良く目立つ場所にあります。 金刀比羅神社は高殿神社から近いのですが、参道の石段が林の中に沈んでおり、見つけるのに少し苦労しました。 ✳︎✳︎✳︎動画内で「ごうしゃ」と言う言葉を使っていますが、郷社とは村社よりも上の社格であり、私がごうしゃと読んでいるのは無格社と呼ぶべきもののようです。✳︎✳︎✳︎ 山の神巡りのスタンプ手帳は下のURLからPDFファイルがダウンロード出来ますので、印刷してご使用下さい。 ehime-jinjacho.jp/kumastamp/images/KUMASTAMP_c.pdf
赤蔵ヶ池(鵺伝説の地) 愛媛県久万高原町旧美川村 2024年6月
Переглядів 1,8 тис.5 місяців тому
平家物語のサイドストーリーの伝説が伝わる、山奥の池です。独特の雰囲気がありますが、現在は綺麗な公園として整備されており、道も改修されて訪れやすくなっていました。 源三位頼政親子が住んでいた史実ではないとされていますが、別人の源頼政がいた可能性は否定できないと言う見地で、伝説の地を巡りました。
千里城跡 愛媛県伊予郡砥部町川登
Переглядів 1,4 тис.6 місяців тому
古典芸能の世界では有名な大森盛長(彦七)の主城だった千里城跡です。 砥部町の皆さんにはお馴染みの彦七ですが、お芝居の内容以外は耳にする機会も少ないので、こうした史跡を巡ると、いろいろな発見があり面白いです。 河野通清の弟の城だった?と言うのは、なかなかセンセーショナルな情報でした。 動画内で喋り忘れたのですが、千里城は河野氏滅亡の後も残すべき城(伊予十城)に選ばれるのですが、江戸時代に入って一国一城令が出された事で廃城となったそうです。
大除城跡 久万高原町菅生 2024年6月
Переглядів 3,2 тис.6 місяців тому
戦国時代に上浮穴郡一帯を治め、長宗我部軍の侵攻から守り切った大野氏の主城である大除城跡です。 かなり大規模な山城跡なのですが、全国的にも珍しい登り石垣が一部残っています。 日本で唯一、完全な形で登り石垣が現存するのは松山城だけです。何か関連があれば面白いのですが、時代的には無理がありそうですね。
横山城跡 愛媛県松山市五明 2024年2月8日
Переглядів 1,4 тис.10 місяців тому
五明地区のレインボーハイランドから行ける身近な城跡です。 以前、ご紹介した麓集落に説明板がありましたが、そちらからは道がありません。 当時の山城の姿がよく残っている貴重な史跡です。
天山三山 愛媛県松山市 2024年2月6日
Переглядів 2,6 тис.10 місяців тому
加藤嘉明が徳川家康に築城許可を求めた際、第一候補として挙げた場所が天山でした。 紀元前91年に創建されたと伝わる天山神社と、懐かしい遊具の残る児童公園の山頂でした。 鎌倉幕府倒幕の端緒となる戦いの舞台だった星岡、古墳が発掘された東山と、小山を巡りました。
別府三社 愛媛県松山市別府 2024年2月4日
Переглядів 82710 місяців тому
岩子山縦走路編の最後に行った福水神社は、別府三社の上津社でもあります。 ここから、中津社である飯岡神社、下津社である清水八幡神社と向かいます。 三社の縁起も興味深いものがありました。
衣山縦走路 愛媛県松山市衣山 2024年1月28日
Переглядів 8 тис.10 місяців тому
衣山と言う駅や住所がある事は、松山市民にとってはお馴染みですが、意外にも衣山と言う山がある事は馴染みが少ないのではないでしょうか。 標高こそ低いですが、見晴らしの良いポイントもあり、お散歩感覚で走破できます。
潮見山 標高125m(潮見城跡) 愛媛県松山市吉藤 2024年1月31日
Переглядів 1,3 тис.10 місяців тому
愛媛県道40号沿いにある小山です。山頂の林の中に潮見大権現の小さな社が隠れています。 戦国時代の1572年、城主の大内信泰が、攻めてきた織田信長配下の山岡対馬守を撃退したと伝わります(真偽不明)。
花見山城跡(祇園神社) 愛媛県松山市堀江町 2024年1月27日
Переглядів 1,3 тис.10 місяців тому
ボイラーで有名なミウラ工業の近くにある、標高30m足らずのピークにある城跡です。 河野氏の時代には重要な地域だった堀江地区にあります。 葛篭葛城跡の動画でご紹介した、村上吉高の墓にあった手書きの地図に「片山城跡」と記載されていた小山にも行ってみました。登り口付近に隠れキリシタンの墓が残されています。
葛篭葛城跡(要害山) 愛媛県松山市堀江町 2024年1月27日
Переглядів 1 тис.10 місяців тому
戦国時代、河野配下の村上吉高が城主を務めたものの、河野家を裏切って秀吉についた来島村上氏の一族だったために、河野氏に討たれたと言われています。 村上吉高の死後、すぐに廃城になったとされる説や、河野配下の乗松内蔵允が城主になるものの1585年に河野氏が滅亡した事で廃城になったとする説などがあります。 山頂付近は藪に覆われており、冬枯れしていても突破は大変でした。
面木山(立烏帽子城跡)1 郷集落の白山神社 愛媛県東温市 2023年2月28日
Переглядів 961Рік тому
面木山(立烏帽子城跡)1 郷集落の白山神社 愛媛県東温市 2023年2月28日
人がいなくなればすぐ荒れますね。
私は黒藤川で育ちました。今も墓参りに行ってますが…赤蔵ヶ池は懐かしいです❤ 『ヌエ退治の絵』は黒藤川中学校の側面に大きく画かれていました(現在は黒藤川小学校跡地で公民館になってます)……色とりどりで素敵だったのですが…取り壊されてしまい残念です。懐かしい映像+知的なお話に感謝しております。今後も楽しみにしております🎉
広い道路から入ってすぐも麓になります。
衣山かぁ~。生きていれば百歳をはるかに超える祖母が言ってたけど..首切り処刑場の跡地というだけでなく、部落や朝鮮学校がある、そういう土地柄だから、墓地のほか、精神病院や伝染病病院が軒を連ねて建てられた、そういう土地だったと。戦前は、処刑場に続くこの通は、うっそうと気味の悪さを感じさせる、通りたくない道だったと聞かされました。だから、家は建てるなと。今から半世紀も前に聞いた話です。不思議と、衣山は、電車による踏み切りでの死亡事故が多かったんですよね。今はだいぶん開かれて、便利な町になってますね。
ここの土居家の由来についての一考‥・いろいろな資料をつなぎ連想してみました 河野氏の家老、大野直昌の家臣で、大野ヶ原の笹が峠の戦いで討死した勇将「土居方玄」の家筋かもと思いました それは 土居方玄は 「伊予国久米郡石井郷南土居(現在の愛媛県松山市)に生まれる。 家系は土居孫九郎通成を始祖とする、伊予豪族である河野氏の支族土居氏で、方玄は浮穴群土居氏分家の2代目当主」 とあります・・・ 一年ほど前に旧上浮穴郡、久万高原町大川にある元庄屋の土居家に伺い、ご主人の土居さんに話を伺いました・・・ 話によると,「惣川の土居家はうちの分家です・・愛媛県の土居姓の本家はうちなんです」と言う事でした 主家を失った家来筋が帰農して その後地元の庄屋になった‥・そんなパターンは各所で有りますし、 恐らく河野氏が秀吉の四国平定で小早川隆景に引き取られてしまい、・・帰農した そう言う事ではないかと思われます、土居方玄の直接の主家大野直昌も 久万高原町がベースグランドであったようですので・・同じ 旧上浮穴郡、久万高原町大川にある土居家本家の庄屋が有るのもうなずけます
郷土の歴史が好きであちこちしている地元のものです・・・あぞがいけは何回も行きました 一週間ほど前にも、仕七川ーみのがわーから訪れて、帰りは筒城ー沢渡ー橋ー33号ー御三戸ー松山 で帰りました、 それから 近所に自称、河野氏の家老大野直昌(久万高原町明神の大除城の城主)の末裔と言う方がいます 姓も大野さんです 聞くところによると 土岐氏の流れを汲んでいると言っています、 因みに明智光秀も土岐氏の流れを汲む家だと言ってますね それから 近所に(砥部から小田へ抜ける道国道379号線の中田渡地区に,新田義貞の三男、新田義宗が落ち延びて住んでいた と言う言い伝えがあり、その方を祀った新田八幡神社があります それから、久万高原町西谷地区、県道303沿い猪伏峠手前に、大成城(別名、猪伏城)跡が有ります、ここは 河野氏の支城で土佐の一条氏の配下津野氏と国境線の小競り合いをしてたそうです 城跡には(源の何某)と言う人の像が建てられています 城主は中川主膳の守で名のある部下は、中川,菅、高岡,氏と言います この三氏は秀吉の四国平定での落城後、帰農し、面河村の祖で大味川6人衆として語り継がれています 白潰さんの「言い伝えは大事にしたい」とのご意見はその通りだと共感します この白潰チャンネルさんのコーナーでの非常に興味深いお話でいろいろと、連想が繋がってきます、有難うございます
1970年代の仕七川中学校の卒業生です 1学年2クラス70名でした 横山のクラスメイトは国道(当時県道)利用の自転車通学で トンネル付近(当時トンネルなし)の左カーブを右に入ってました 懐かしいです
岩子山西側の人工的な崖ですが、戦前~戦中の採石採土跡かもしれません。当時、岩子山で採取された石や土砂は帝国海軍松山基地造成の為、敷設された線路をトロッコで現在の松山空港付近まで運ばれたと聞いた事があります。記憶違いであればごめんなさい。 垣生山の南西、鯛崎に近い山中(帝人の保養所跡?の近く)に松山基地に清水を供給するための貯水槽が有ります。40年前、小学生の頃に実際目にしました。コンクリート製の結構な規模のモノで、落ちたら助からないなと思った当時の記憶が残っています。 水は現在の垣生浄水場の場所から配管で送られていたみたいです。終戦近くには貯水槽を爆弾で壊そうとする米海軍の艦載機と、それを阻止するために設置された日本の機関砲との攻防が繰り広げられたと元海軍の方に伺いました。この辺りは戦争に関連した跡が今でも残っていますね。
母の実家が有り54年位前まで祖父母が暮らしてました。正月、盆には行ってました。
かれこれ40数年前になりますが 同級生がおりました とても懐かしく拝見させて頂きました 有難うございます
はじめまして。動画を拝見して驚きました。平井は私の実家がある所です。一番下の家がそれです。25年前に両親が私と同居してから空き家になりました。私が子供の頃には川に下りていく方にはすでに全く家がなかったので、下の3軒と上の集落だけでした。 想像以上の荒れ具合いで驚きましたが、とても懐かしくて嬉しかったです。大変な悪路の中、撮影ありがとうございました。🥹
その麓集落で生活してる者です。 そこの生活のチャンネルもやってますのでよければ覗いてください
落出から稲村に向けて上がっていくところですね。 小学生の頃、学校からの帰る途中で何度か登ってました。 過疎が進む前の柳谷村は黒字自治体だったので、寄付者も多くいらっしゃったようです。
白潰さん、この上に存在する大成城址も探訪して動画アップしてください。全国に4万カ所あるといわれる中の「難攻不落」の砦です。
三津浜小学校出身です!観月山公園、小学生の頃よく行っていました! 遊具もたくさんありました。 おそらくこちらの公園で遊ばれたのではないでしょうか?渡し舟に乗り港山に向かう時は冒険の気分でした✨子どもの頃にタイムスリップしました、ありがとうございました😊
石の柱はおそらく幟を立てるための柱なのでは
祖母が生まれ育った田舎です。廃屋になってますが、まだ祖母の実家がある事に驚きましたし、お墓も地元の方でしょうか?!きれいに掃除して下さっていて、久しぶりに米之野の風景みました。 ありがとうございます。
松山市に、杉立町があります。今は、誰も住んでないと思いますが、かなり、山です。是非、行ってみてください。
実家が映ってます。夏の時期、33号線から登ってくる道は、ちょうど草刈りをした後でした。 2024年8月現在定住者は高齢者4人の限界集落です。今も週イチで松山市から帰省しています。 稲村弾正さんは春先に祭事を行ってましたが、コロナを機に集まり事は行わないようになりました。
動画ありがとうございました。消滅集落には様々な生活、物語があります。今でもその頃の楽しかった事、苦しかった事、人々の笑い声、話し声を求めて訪ねる人もいます。その道をきれいに保ってくれている方達がいるのですね。すべての消滅集落ありがとう。私たちはこれからもずっとずっと忘れません。 撮影お疲れ様でした😊
吊橋を渡って右に行くと昔は草原に行けたんだけどなぁ(途中に家が2軒あった)。三十年前(小学生3年生くらいかな)は郵便のカブが上がって行ってた記憶がある。小学生のときに坂を上がって正八幡神社の手前の橋に出てきたの覚えてる。それと、画像に映ってた長輔神社の発起人の新吉は曽祖父です。毎月墓参りには行くのですが、それだけですからね。行ってくれてありがとうございます。
あそこにもお家があったんですね。発起人をされたと言うことは末裔の方でしょうか? 道は綺麗に刈られて、掃除道具も吊り橋の側にありましたので、大事にされている神社なのがわかりました!
@@shiratsueお世話になります。曽祖父も曾祖母も渋草から来たみたいですね。それから、ピザ屋の真ん前の階段登って行くと渋草まで通じてるようです(今は道はないようですが)。ちなみにもうひとつ、60年前ぐらいには、あの吊り橋を渡って左にいって山道通って仁淀の椿山に行ってたらしいです(父が行ってた)。色んな道があったようですが、昭和50年代の村誌にも記されてますが、もうその当時には道が道ではなくなった旨記されています。まぁ、数年後にはこの辺りも人がいなくなるでしょうね。
面河渓は懐かしいですね。50年前は週末は長い渋滞が出来るほど賑わってました。 当時、愛媛で他に遊ぶところは奥道後とか滑床くらいでした。 面河に行く間も農家の人が露天みたいなの出しててとうもろこしとか売ってましたね。
昭和の登山ブームの頃は凄かったみたいですね!今でも民宿の跡がたくさん残ってますが、寂しい限りです。
総東風神社は、数十年前の火災後に地元民で再建した神社ですよ!企業さんはあまり関係していませんので誤解の無いように、
火事に遭われてたんですか! それは災難でしたね。とても綺麗な神社だったのですが、地元の皆さんがご尽力されていたんですね。 大変失礼を申しました。
氏子総出で、山から寄付された材木を切り出したり、建築の手伝いで労力の提供等など、寄付金以外の現物提供等、まだ住民も若くて氏子の数も結構いましたから。
UP有難うございます。高殿神社は「長州大工」が造ったとされていますね。 なぜ、久万高原町の神社の拝殿は壁がないのか不思議です。 長州大工は実質的には現在の山口県周防大島町の宮大工のことですが、周防大島町の彼らが造った神社はすべて拝殿は壁か戸があり、風雨を防ぐ造りです。このチャンネルの紹介の神社にはほぼ拝殿に戸がありませんが、ケチったわけではないと思うので、このようなスペックだったのでしょうかね? 高殿神社の奥殿は長州大工の重厚な細工が施されていますので、一式が現地のオーダーだったのでしょうね。
そう言う知識は全くないので、そう言うものなのかなと漠然と捉えておりました。 アルミサッシで補強された拝殿もいくつか見られるのですが、頻繁に管理に訪れる事が出来なくなった為に、元は壁無しだったのを改造したんでしょうか。 今まで考えたこともなかったので、いい気付きになりました。 ありがとうございます!
楽しく拝見しました。 尾崎神社はやはり頼政とは関係ないでしょうね。 勝手に想像すると、尾崎神社は名からすると大除城主大野直昌の従弟、尾崎丹波守の関連かと見ています。
大野家奮記によると、尾崎丹波守は大野直家の築いた宇津城主(大洲)を引き継いだとありますので、中黒岩からは遠いですね。 息子の七郎直昌が、笹ヶ峠の戦い(これも虚構とされてますが)に従軍し、大野家奮記では戦死。予陽河野家譜では大野直昌と共に反転して長宗我部元親を撃退した事になっています。 もし、後者を膨らませれば、その恩賞として中黒岩の地を賜ったとか言う話になるのかな?
頼政伝説がどのように生まれたか興味深々ですね。 少なくても頼政が従三位になって以降でしょうが、話の出典が源氏物語の底本である、(保元、平治、治承物語)の発刊以降で伊予で源姓賛歌が発生した時期とも言えるでしょうね。となると、源姓美濃土岐家が浮穴郡一帯(上下含む)を領分とした時期かと思われます。これは土岐光定が比定されますね。(~弘安4.1281.8/11)法名定光、興源寺と号す 伊予国荏原村住居す。余談ながら、 後に大野通繁の時、興源寺の僧を伴い、大野家親族、土岐美濃守成頼に再興依頼して大野家再興を果たします。美濃土岐家の伊予分領は本国よりも領地は広かったとされますが、河野豫洲家の家来であった平岡氏の侵略により大半が河野家領と化したとされます。美濃土岐家からは親族大野家に平岡の侵略を防ぐようににとの依頼が再三ありましたが、如何せん力不足とされます。大野紀伊守利直(直家)の代で漸く平岡氏をねじ伏せるとします。 尚、宇都宮氏支配下の大津(大洲)と大野氏の支配の領地への疑問が呈されていましたが、宇都宮氏が入府するのが、豊房の代で1330年とされますが、伊豫大野家初代の大伴吉良麿(喜)が939年に伊予、粟津郷八多喜へ下向し宇津へ拡大し更に後世、小田まで拡大し最後に久万大除城へ本拠地を構えますが、秀吉に四国征伐で総下城となったとされます。宇都宮氏とは領境は接していたのでしょうが、直接トンパチした形跡は途中ではありません。最後に大野直昌(ナオシゲ)の時に末弟の大野直之(直行)が宇都宮家家老であったが、姫を貰って宇都宮家を継承したとします。ただ、大洲市史は乗っ取りと判断しているようで直之の評判は悪いですね。 宮廷でのヌエ退治とよく似た話は「大野系図」にも出てきます。こちらはヌエではなく鬼とされます。 また、大野家記録の最大の虚構とされるのは「笹が峠の合戦(大野が原の戦い)」は無かったとされる話ですね。私はこれは虚構ではなく史実と思っています。この話を虚構にしてしまったのは久万町史を書いた伊藤さんですね。伊藤さんは根拠として江戸中期の大野家子孫の大野和五郎直尚が手記で否定しているから間違いないとして他の古文書との考証もせず、町史を書き、周りの町村史はこれを鵜呑み転載し、最後に愛媛県史編纂委員であった同氏は県史でも大野が原の戦いを完全否定してしまったので現在の愛媛県ではこれ説が正史とされてしまいました。そもそも、古くは大野が原の戦いとする表現も無ければ、笹ケ峠の戦いとする表現もなく 当初は「一丁原の戦い」の表現が最古であり、次に、小田(太田)から一丁原へ抜ける笹が峠の戦いと表現され、最後に一丁原一帯を大野が原とし「大野が原の戦い」と変化していきましたね。大野和五郎の時代には笹が峠の戦いとされていたらしく、当時、五つあった「笹が峠」を探索して間違った笹が峠を比定して、戦いは無かったと手記に書きました。これを真に受けたのが伊藤氏です。 「大野が原の戦い」もUPを予定してくれているようなので、とても楽しみです。 長くなりました、ごめんなさい。
大変お詳しいご説明をありがとうございます。とても勉強になりました。 大野が原の戦いについて、私もあの時期、一条氏の伊予攻めの直後で疲弊している時期に、土佐統一前とは言え、長宗我部元親が伊予攻めをしなかったとは思えないので、戦いがあった可能性は高いと思っています。 ただ、だいぶ脚色されたものが笹ヶ峠の戦いとして残されたのではないかと思っています。 特にあの時期の元親が騙し討ちをすると言うのは、あまりにもらしくないです。戸次川の戦い以降なら分かるのですが。
いつも楽しく拝見させていただいている松山在住の人間です! 趣旨が違うかもですが、東野お茶屋跡の紹介動画希望です🙇💦
現在、旧柳谷村に引っ越してしまったので、松山市の史跡に立ち寄る機会は激減してしまいました。 藩政期の史跡はほとんど触れてこなかったのですが興味は持っております。 機会があれば!
毎回楽しく見ています。私は伊豫久万の大野家を探索していますので大変勉強になります。三位頼政のヌエ伝説は虚構ですが地元では楽しく語られているようですね。大族美濃土岐家との関連に触れられていますが、w私もそう思います。これからもどんどんUPしてくださいね。
コメントありがとうございます! 死んだはずが生きていたパターンがほとんどの中で、出世前に住んでいたという頼政伝説はなぜ発生したのかに興味を持っております。 大野家の記録も虚構とされるものが非常に多いので、逆に色々と想像を掻き立てられる、面白いテーマですね!
久万高原町在住のものです。 いつも楽しみに拝見しております。 私も山の神巡りや城祉探索をしています。 情報提供できるかもしれません。 よろしければ連絡いただければと思います。 info@kids-seminar.com
🌻 予子林(よしはやし)😂じゃないです〜(よこばやし)😂と言うんです。(笑)
よこばやしなんですね! 教えていただきありがとうございます!!
40年前、西谷駐在所に勤務してました。西谷小学校・柳谷中学校・西谷郵便局懐かしいですね😂 赤子の河原!二年前ですが、人が入る気配もありませんでしたね😢限界集落…どんどん人が居なくなるんでしょうね!何かが起こらないと朽ち果てる定めの地域に…残念無念です🥺
40年前ですか! トンネルが抜ける遥か前ですが、今よりもはるかに賑わっていたんでしょうね。 西谷全体で住民数は100名くらいだそうです。 ただ、コロナ後、急激に四国カルストの観光客は増加していますので、まだ、チャンスはある地域だと思います。
タイはバンコクからこんにちは🙏 はじめまして朝から観行っちゃいました(チャンネル登録済み) 道後湯の町生まれで母方の里がグーグルマップに出て来る(旧柳谷村立中津小学校跡 体育館)のある秘境ですw 幼いころよく夏休みに帰郷する母に連れられ盆踊り大会に行ったことを思い出しました 母親の実家は左上の方にある大宮八幡神社さんに上がっていく手前を左に入った小さな集落ですが 夏休みに帰郷したおりラジオ体操へ行ったら誰も居なくて一人でやったのを思い出しました 前方の景色は雄大で四国カルストが大きくそびえ立っていました もしまたの機会がございましたらこちらの久万高原町中津 の方も散策して動画を観られれば嬉しいなと思っています
お母様が中津のご出身なんですね! 中津の皆さんには良くしてもらっております。 中津地区はすでに何本かは撮影しております。溜まったらまとめてご紹介できたらと思います!
@@shiratsue はい楽しみにしておきます
4年前に銚子ダムの帰りに城跡の標示を見付けて登ったときは道も頂上広場も荒れ放題でした。きれいになっているのでまた登ってみたいです。
ちょっとした空き時間で登れる、愛媛では最大規模の山城跡ですので、気軽に登れる程度に整備されてるのはありがたかったです!
松山出身の者です😊子供の頃行ったことがあります。懐かしかったです、動画ありがとうございました
こちらこそ、ご覧いただきありがとうございました!
このような山奥にもメガソーラー出来ているのに驚きました。 多くは中国の業者ですが、能登の地震もそうでしたが壊れると中国に逃げちゃいます。 メガソーラーの寿命が来ると、会社潰して知らんぷりですね。解体は自治体が費用負担で行います。
Googleマップで山を見ていると、年々増えているのが良くわかりますね。 山はあっという間に草も伸びますし、ほったらかしにできるわけでもないので、この先どうなるのかしんぱいです。
4年前、気候の良い時に上の祠まで行き、駒猪を観てきました。
10年前に北東から尾根伝いでいくと城址隣の峰に新四国27番札所がありました。正しい道で行くと石垣や新四国26番札所が見られるのですね。また行ってみようと思いました。貴重な情報ありがとうございました。
あのピークは主郭よりも明らかに高くて、城郭図にも暗部が堀切となっているので気になっていました。情報、ありがとうございます。 ちょっとヤブが深そうだったので、冬枯れする時期に行ってみます!
10年前は主郭の東側2つ隣の峰から尾根道が有って夏でも行けました。主郭隣の標高710㍍の峰には石積が有ってその上に地蔵2体と新四国第27番の標柱がある狭い平地があり、西側直下に瓦製の祠がある狭い平地が有ります。これらともう一つ東隣の峰も郭跡なのかなと勝手に思っていました。今は様相が変わっているかもしれませんので行かれるようでしたらお気をつけて。
祠がある平地と言うのは気になりますね。かつては城館か、動画冒頭のたいでんがあって、その跡に祠を祀った可能性も考えられそうです。 道を教えてもらった方が、たまたま大野氏の末裔のお家の方だったので、お会いできる機会があれば尋ねてみます!
はじめまして! 遥か昔、立野は炭焼きがメインなとこでしたよ。
乙成ですか?おつなる…と聞いています。 違ってたらごめんなさい
地元民です。 おつなるですね。
こんな場所もあったんですね、動画ありがとうございました
何度か行きました😊大好きな場所です、動画ありがとうございました
🌻 今日わ!いつも有難うございます!へぇ〜石鎚山⛰️⛰️も見えるんだ‼️ここは知らないですわ〜!アッ!🗺️地図があるんやね。ホンマに急な階段やこと。石鎚山🏔️⛰️に登るの?違うよね。険しいね〜⛓️⛓️鎖がある。私も高いとこ無理‼️‼️UA-cam大変な📷仕事よね。肱川〜〜野村線!こんなとこがあったんよね。嶽山⛰️🏔️ア〜土井家🏠!聞いた事あるんじゃけど・・城川町やもんね。ここ!昔の初恋❤の方が居ってんやけど❤行ってみたい(笑)😛山頂に🌉赤い橋?怖〜〜💢💢こんな所迄!UA-cam撮る為に🙏ご苦労さんやわ〜気を付けて帰って来なさいよ〜😂😂 エーッ!でしょ😼 ハッハッハーッ〜🍱🍱お弁当を広げるんは🤦♀️
🌻いつも懐かしい野村町の周辺!UA-cam!楽しみです♪有難うございます♪ずっと見させてもらってます。 ハッハッハーッ! 「いらん事」懐かしい田舎の言葉!惣川村ね〜従姉妹が居ます!こんな立派な建物があったんやねと。城川町にも同級生がおるんです♪
私も松山を中心にバイクでいろんなところに探索に行くのが好きですが。こちらの大西旅館は愛媛のキングオブ廃墟と思っています。川の対岸からみた威風堂々とした佇まいは儚くも美しいまさに廃墟の王者。昔は今治に河南病院がありましたが。今後も楽しみに拝見させていただきます。くれぐれも探索にはお気を付けて。
もう少しカメラをゆっくり、船酔いのように気分が悪くなります。
20年ほど前に気まぐれにここを訪れて、石段を上がっていったことがあります。頂上の祠までは行きませんでしたが、中殿の廃墟があるところまで行きました。まっすぐの参道はなかなかの疲労感でしたね。当時加工していたイチョウの葉に皮膚がやられて微熱や湿疹で難儀をしていたのですが、この苦行の日😁を境に快方に向かったのを思い出します。祭神の肩書にある「薬学の神」のご利益でもあったのかな。
白滝は母方の祖母宅がありました。動画を見ましたがもう無くなってました((+_+)) 死ぬ前にもう一度白滝に行って、おばあちゃんにありがとうと伝えたいです
槙谷小学校は廃校後、暫く画家の松田一先生(2018没)が使われてました。絵画グループでの活動をされていたのを思い出しました。いつまで使われていたのかは不明ですが。
びっくりしました。川の子は私の生まれたところで生家もばっちり映ってました。15歳で川の子を離れ愛知県に就職をし、73歳になりましたが、久々の感動です。ありがとう。白潰チャンネルがんばれ’’
興味深く拝見しています。 御声が聞きやすく歴史考察も素晴らしい。 私は来年辺りから年金入ってきだしたら 四国で 小さなお遍路民宿が出来ないかと思っています。 情報がありましたら教えて下さい (笑)