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神宮寺明日香
Приєднався 3 кві 2024
新潟交通の変遷を身近に感じてもらいたく発信しています。
新潟交通をこよなく愛する方はもとより、
新潟交通関係者の方にも、
過去の情報をサクッと得られるようにと思い活動を始めました。
温故知新。
この動画を歴史的資料として活用し 知識を深め、新潟交通をもっともっと愛してください!
がんばれ新潟交通!
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バッチバチの競り合い!西小針線とJR越後線の昭和時代の改正を斜めに見るとおもしろい!
昭和59年のバス、鉄道のダイヤ改正を考察します。
ラグビーの試合になぞらえてみました。
#新潟交通 #国鉄 #JR越後線
ラグビーの試合になぞらえてみました。
#新潟交通 #国鉄 #JR越後線
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Відео
第3のターミナルだった古町。賑わっていたあの頃バスはどう対応してたの?すごかった光景5選をランキング!
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最盛期の古町と新潟交通の関係を深掘りします! 音声:COEIROINK つくよみちゃん 地図データ:Google map 時刻表データ:1979,1988年版新潟交通時刻表 #新潟交通 #古町
反対向きに出発進行!終点の方位に逆らって進む、反抗的な路線!過去の路線です。
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まわり道をする系統は数あれど、この2つは伝説級です! 音声:COEIROINK:つくよみちゃん 地図データ:Google map 時刻表データ:1979,1988年版新潟交通時刻表 #新潟交通
インパクトのある神路線ベスト5!クセが強くて今や再開不可能!過去の路線です。
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過去に存在した路線で、一風変わった路線、個性的な路線を独自の視点でカウントダウン! 時刻表データ:新潟交通 音声:COEIROINK #新潟交通 #新潟駅 #新潟駅バスターミナル
新潟からの長~い路線バス3選をランキング!1980年時点です!
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1980年はまだまだバスを利用する方が多かった時代。それからの10年で環境はだいぶ変わりました。好景気により車社会となり、長距離路線は軒並み廃止され、バス路線の効率化が図られました。 この動画では、かつて存在した長距離路線からバス全盛期を顧みる内容となっています。 音声:COEIROINK:つくよみちゃん 時刻表データ:新潟交通 #新潟交通 #長距離バス #路線バス
とてもレアだった光景5選をランキング!昭和時代の新潟駅前バスターミナル
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昭和時代の旧新潟駅前バスターミナルは、現在と比べるととてもおもしろい運用方法でした。平成、令和時代の旧新潟駅前バスターミナルでは見られなかった光景をカウントダウンしてみます。 COEIROINK:つくよみちゃん #新潟駅 #新潟交通 #新潟駅バスターミナル
【非公認】新潟交通 PV風動画を勝手に作ってみた。
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新潟交通を応援するために、わたし動きます! PV風動画の第一弾。 カラオケの背景映像っぽい…。 心地よい音楽と、新潟交通の素敵な映像をどうぞ。 がんばれ!新潟交通の運転手さん! Special Thanks Prod. 林のまーすぃ 使用楽曲 STORY ua-cam.com/video/Z5s38fi04B8/v-deo.htmlsi=WjCuLZR_vZic8PKD #新潟交通 #新潟駅 #バス
【記録映像】廃止ひと月前の新潟駅BT 味わい深い昭和感!スイッチバックだけじゃない魅力のドキュメント
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コアなバスファンでない方にも知って欲しいという視点で制作しました。 昭和の要素がたっぷりな新潟の名所がまたひとつ消えてしまいました。 2024年2月より撮影。 #新潟駅 #新潟駅前バスターミナル #スイッチバック #バスセンター
第2位で紹介されている新潟〜弥彦線ですが、当時の寺尾線系統では幕式運賃表が整理券なし・1〜35までの近郊?バージョンと、1行多い整理券なし・1〜41までの長距離バージョンがあり(+古めの車両では紙の三角運賃表も)、新潟〜弥彦線は整理券番号40まであったので後者の車両しか運用に就くことができないという事情から、確か北村製作所ボディ、いすゞBU04Dのサッシ窓・後折戸車両(昭和50年か51年式)が専ら運用に就いていた記憶があります。同様の理由で曽根経由巻行・間手橋経由巻行も後者の車両で、こちらは三菱ふそう車(北村ボディと呉羽ボディがありどちらもバス窓)が運用に就いていたような。
@@boulevard7537 すごく詳しいですね! そのとおりです。自分の知識の言い方で言わせてください。 いすゞのCMJ?のようなバスで、前ドアは、4つの窓だったような? 後扉は折戸、だけど、バス窓じゃないから少し新しめ? 歳をとって記憶が薄れてきましたけど、そんな感じに思っていて、このコメントを見て、ドンピシャだと確信しました。 貴重な情報をありがとうございます✨
越後線増発したとはいえ肝心の電車は全国からかき集めた中古車ばかり 当時冷房付きの115系はたった2編成しか無かったからなあ・・・ 一方の新潟交通は冷房付きの新車を導入 今ほど暑くなかったにせよ、やはり冷房付はありがたかった
クセ強ではありませんが、昭和時代に存在していた長距離路線、新潟(バスセンター)〜寺尾〜弥彦線が印象に残ります。 幕式の運賃表が整理券なしと1〜41まである中、新潟市中心部では40まで埋まるというインパクトの強いものでした。 あと、巻行も曽根経由と間手橋経由がありました。後者は本数がかなり少なかったような。。。
@@boulevard7537 その41番整理券持ってます!弥彦発のバスに古町から乗車した時のものです。あれから40年、インク消えかけです(笑) 別動画(どこまで行ってたの?長距離路線ベスト3)で弥彦線に触れてますので、そちらもぜひご覧ください。
@@神宮寺明日香 別動画の方もコメントさせていただきましたが、弥彦行に関しては幕式運賃表の関係で運用に就ける車両が限られていましたね。確か昭和55年式から整理券機がオレンジから銀に変わり、同時に整理券番号のインクが紫から赤に変わっていたはずで、お手持ちの整理券番号は紫色の印字ではありませんか?
@boulevard7537 詳しい!詳しすぎる!素晴らしい知識ですね! そのとおりです。 先日整理しましたが、整理券をだいぶコレクションしてたようで、0〜41まで結構順番通り揃えてました。 その中には紫と赤のインクがあったり、黄色の紙を使用してたり、番号によっては縞々文字になってたり…。 整理券一つとっても色々あったなーと思いました。
当時沿線に住んでいましたので、当時の思い出も相まってワクワクしながら閲覧しました。 ただ、一連の競り合いに関係した昭和60年のバス路線改編は、県庁移転も絡んでのことだったので、そこも触れてほしかったなと思いました。
新潟交通の昭和40年代の新潟市内バス路線図がみたいのですが、手に入りますか?😊
持っていません・・・。
沼垂、懐かしいです。 シモマチの実家へ行くとき、よく乗りました。明石通りのバス停から乗ると、栗の木バイパスへ入ってすぐ、何もないところで止まって時間調整するのが蒲原町のバス停でした。そこから万代町通りに入ってわざわざ八千代橋をとおり、往路は西堀、帰路は東堀と違う経路でした。今では西堀も東堀も対面通行なので、一方通行時代を知らない人にとってはナンジャソリャ的な路線ですね。
情報ありがとうございます。 そう、蒲原町の時間調整ですが、今あんなところでバスが駐車していたらひんしゅくものです。 当時だからできたんでしょうね。
小針売り込みたいなら地震や大雨の災害大策はキッチリしなよ❗️砂山の上だからねそこは🎵越後線は複線にするのがムズそうなのと川の橋での横断が今でも手間🦧🤖11、12系統とは久しい👺
新潟交通は市内限定で周辺地区は高い、時間設定でたらめ、路線設定が旧態依然、周辺のあからさまな切り捨てが半世紀前から当たり前で越後交通のエリアになって欲しいと子供の頃願ったものです。(吉田在住者)新潟交通には県央の住人はマイナスの思いを持っている人が多いと思います。
なんか新潟交通のバスの色って、我が地元の臨港バスの昔の色に似てる。
ごく一部に西小針線じゃない路線が混じってるんだがw その場所の(比較的)近くに住んでいる者で、徒歩数十秒の場所にもバス停あるけど、路線が複合してるために、バスが来た!→別路線でしたってのがよくあるから、なんか改善案ないかね? 音声だと近くの住人にも迷惑だろうし。 バスロケーションシステムってのもあるみたいだけど、軽く調べたけどよくわからないし、今の今まで知らなかった。 鉄道は「どこトレ」で気軽にわかりやすく調べられるが、バスはホントにわからない。 その辺もっとPRし、なおかつ気軽に見られて見やすいシステムが欲しいトコロ。
@@どんがらドリフトP ファーストカットから西小針線じゃないバス停使ってますし、あんまり突っ込まないでくださいww😅 どこトレに対応するのが、NAVITIME提供のにいがたバスiだと思います。 それに頼りすぎなのか、いくつかのバス停で、バスロケが故障している箇所が見受けられます。 スマホユーザーでない方への配慮として、故障しているバス停は修理してほしいと思いますね。
西鉄にもありますね、新バスシステムは今もブラッシュアップしながら現役
関屋以西の宅地化と駅増設に貢献。 万代橋、古町等の繁華街、越後線空白時間、駅から離れた場所への利用時に路線バスの需要はあると思う。 兼六園・香林坊~松任の北鉄バス、長野~善光寺下の長電バス、盛岡市内~いわて沼宮内の県北バスのように使い分けできる。
西部営業所から11・12系統の新潟駅行きは昭和63年以前からあったはずです その西部営業所も今や移転してありませんが…
@@49panta 分かりづらいセリフでした。説明します。 (セリフ)時代は昭和62年、1987年、国鉄は翌年に民営化を控えていました。 ↓ (字幕)駅の開業は昭和63年 ↓ (まだ説明は昭和62年が続いている) ↓ (セリフ)バスは国鉄に先手を打つのでした。 (↑つまり、昭和63年の鉄道より先に11系統新潟駅行が存在していることを説明) 分かりづらい説明をしないよう気をつけます。
数年前まで越後線/西小針線沿線に住んでいた者です。国立大や多数の高校が沿線にあり、県内でも特に活気があるエリアで、若い人も多く乗ってました。車を持つ前はよく使っており、荷物が多かったり天気が悪いときはドアtoドアの新潟交通、早く移動したいときは越後線と使い分けてました。ともに車両は新しめできれいですし、移動は快適でした!天気さえ良ければまた住みたい…
現万代シテイから加茂行きは80年代には廃止になってたのかな。 加茂には新潟交通が運営していたスキー場(猿毛岳スキー場)がありそこまで運行していたとか何とか? 猿毛バス停脇の猿毛岳の林道を自転車で走ってみたけどこんな山道しかも当時はまだ舗装もされてなかっただろう場所をバスが走ってたなんてって思いましたね。
@@品川快特 凄いエピソードありがとうございます! 加茂、しかもそんな所まで直通していたとは時代ですね〜。
@神宮寺明日香 「1960年代の新潟交通路線網」というサイトをご覧下さい。そのサイトによれば バスビルから加茂営業所へ行く路線が何通りもあったり加茂駅前から加茂の奥地の桜沢(いまのローソンがある場所)まで行ってたり、その桜沢が規模は小さいながらもターミナルになってたりとなかなか面白い事になってました。ローソンがある場所はかつて空き地だったのでそこがそうだったのかなぁと思って60年代の航空写真を見るとまだ田んぼで70年代にやっと空き地になってました。可能でしたらこの当たりのことも動画にしていただければなぁと。ご検討の程宜しくお願い致します。
@品川快特 ありがとうございます。確認してみますね。
新潟交通のことをナメてた。すごいな。都バスより進んだシステムを採用してたとは。そういえばいまも都バスは連節バス未導入なのに対して新潟交通は賛否両論あれど採用してますしね。 コロナ禍の影響もあってか利用客の減少による経営赤字、運転士不足など苦しいこともあり、またもし新潟市からの補助金が経たれたらいよいよ会社存亡の危機でしたけど、 佐渡金山の世界遺産登録の影響でなんとか黒字に盛り返してきた新潟交通ですけどこれからも頑張って欲しいですね。新潟交通は蒲原鉄道バスと並んで自分の好きなバス会社なので。
数年前まで冬の時期に強風が吹くと越後線が遅れたり運休になったりすることがあった。 信濃川と関屋分水を渡れず途中の駅で止まってしまった時、途中で電車を捨ててバスに乗り換えたことがある。 バスってありがたいな。
新潟駅から新津・豊栄・内野と各地への20分ヘッドは、インパクトが大きいですね。 新潟交通には、大打撃です。 それにしても16キロは、富山では高岡や八尾や滑川くらいですので、同じ打撃がありますね。
バスで言えば、笹津線も早い段階でバスロケでしたかね? 自分の中では、富山地鉄のドル箱路線かなと思っています。
@@神宮寺明日香 さん、笹津線は1986(昭和61)年からで、富山高岡は1985(昭和60)年からです。
@@待ち受けライティ 高岡の方が早いのですね! 失礼しました。 笹津線と高山本線の関係も面白いですね。 八尾を通らない代わりにバスは大沢野の集落を走る。 41号線は直線的に笹津へ向かう。 相手は非電化。 なんだか、この動画当時の新潟に似ています。
凄いマニアックなチャンネルですね! バス通学していた1980年前後に、朝の女池線には中条営業所の車両が入っていた記憶があります 和合町から東中通まで乗っていましたが、普段の女池線では見られない巻き取り式の運賃表示器が存在感凄かったです なにぶん小学校低学年の記憶力なのでうろ覚えなところもありますが、ナンバープレートも「新2」だったし、新型車両に比べて遅かった印象が強いです…
@@sskeane はい、マニアックであり、ニッチなチャンネルです😅 さて、情報いただいた件ですが、それはスポットで入っていたのではないですかね?一時期的な? 私ももう少し後の時期に通学で女池線を使ってました。その時は遠い所だと、内野営業所のバスが充当されている便がありました。 いずれにせよ、その頃の中条営業所のバスは、三菱呉羽のふるーいバス、もちろんナンバーは、新2でしたから、女池線に入っていたら浮いちゃいますね! 凄いエピソードありがとうございます!
今思い返してもいつも朝7時30分くらいの便に入ってたような覚えがあります 間合い運用だったんですかね… 内野営業所の車両もありましたね、逆に寺尾の友達の家にバスで向かった際、南部営業所の車両が紙の運賃表掲示して、文献カード状のホルダーを操作していたのも甦ってきたwくだらない記憶ですが意外と思い出せるものですね
@@sskeane ホルダーを操作ってのを、自分も今思い出しました!ありましたね! 何て説明していいか困りますねw 動画内でも時刻表出してると思いますが、中条発の一番バスが6時10分→東堀着8時です。そのバスもすぐに中部営業所に入ると思うんですよね。 中条線に入る逆運用の中部営業所のバスでしょうかね? それにしても、朝1、2番の新潟発の便以外は、中条の折り返しを使うと思うんですけど…。う~ん。どうだったんでしょう??? また懐かしい記憶が思い出されたら、いつでもコメントくださいね!
かなり前に、新潟~津川線があった様な気がする。R49をひたすら津川に向けて行く様なバスがかなり昔にあった記憶がある。80年代以前なのかもしれない。
@@beetle36861 あってもおかしくないですね。それがまず水原で分割されて、更に…みたいになったんだと思います。ソースがないので言い切れないのですが…。
昭和45年の時点では、津川への直通便がありました。
@v-silver4123 貴重な情報をありがとうございました!
旧バスセンター(現テレコムビル)の時の一番奥の乗り場から津川行が出ていましたね。旧バスセンターもスイッチバックで入庫し、出発後は一通の関係でぐるっと一周して各方面に行っていた。左折左折で東港線に出て駅前通りへ。
@@beetle36861 自分はその世代でないのですが、バスビルって言ってませんでしたか? 古いバスの幕回しを見ていたら、新潟(バスビル前)っていう幕が現れて、子どもながらにバスセンターの前のことかな?って思ってました。
昔の新潟交通の路線で良く乗っていた線は、入船営業所発入船営業所行きかな。 入船営業所~古町・東堀(八千代橋)~流作場五差路(駅前通り・東大通り)~蒲原町・沼垂四つ角~流作場五差路(駅前通りでUターン)~万代(八千代橋・西堀)~入船営業所。 完全な循環バスだったな
@@beetle36861 8系統ですね! 乗ってましたか! 入船のふるーいバスが充当されてたイメージが強いです。別の動画で触れてますので、ぜひ見てみてください。【一風変わった神路線】という動画です。
この動画は歴史的価値(新潟市の)がある。 素晴らしい配信ありがとうございました。
@@ハクシャセイショウ 様。 ありがとうございます。うれしいです。寒い中撮影した甲斐がありました。
10系統ってスニーカーバスではなかったですか?四半世紀以上前に乗った記憶が…。 南循環の南部営業所の位置や西循環の西部営業所の位置が気になりますね。
@@急行フィット はい!そのとおりです。いすゞの小型バスを使っていました。 ただ、スニーカーSという愛称は、2系統のバスだけに与えられたものだったかな〜とおぼろげに記憶してます。
@@神宮寺明日香 がんセンター~入船営業所もスニーカーバスで走っていたような…。
@@急行フィット そうだと思います!5系統のがんセンター線ですね。 資料を確認せずにお返事してしまいますが、先程の回答と同じですが、スニーカーS車両は、伊勢丹号、三越号、大和号(側面にロゴをあしらった帯があった)と、沿線各地の百貨店に広告の協力を得ていた関係で、5系統のような他路線でスニーカーSが走行することは広告主との契約の関係でないはずだと思います。 なので、いすゞ小型バスをスニーカーSとは別に数台用意して(百貨店の広告帯なし)、それを5系統と10系統に充てていたと思います。 あと、これは自分の主観ですが… スニーカーS含め、5.10系統の小型バスが可動する時間が早朝、夜間にない事と、運転士さんが、やけにお歳をめしているように思えて、定年後の再雇用の方が担当されてるのかなぁって思っています。 運転業界って第一線を超すと、そういう持ち場が変わることが多いのです!
スニーカーって車内が本当に狭かったです 最初から乗客が少ない路線用に作られたんだろうが当時はそのような車両を作る余裕もあったとも言える
当時の社内報にスニーカーS運転手として採用されたが方いたと覚えています
母親が中条線に乗ってたと教えてくれました。築地付近で降りて、山(砂丘)を一つ越えて、父親(私の祖父)の実家に行っていたらしいです。
@@急行フィット その世代の人にはやっぱり利用されてたんですね。バス、ここで言えば長距離系統も、今より身近に感じられる存在だったんですね〜。
いまやW7(大野・白根線)ですら毎時1本程度になってしまったのに、80年代には大野経由新津ゆきだけでもほぼ毎時1本運行されていたことに驚きを隠せません。
@@うみねこ-l3l 昭和恐るべし!ですね。
1980年だともう短いですよ 1960年頃だと首都圏で東京発熊谷とか佐原発土浦経由古河とか走ってましたから
@@真喜志宏美 昭和30年代ですか!古き良き時代ですね!
@@神宮寺明日香 ちょうど1980年頃に図書館で過去のバス路線図をみつけて見入ってました 当時は東京から新潟も長野も青森も路線バスだけ乗り継いで行けたみたいです
「急行新発田」 地元民ではないのでよくわからないけどラッシュ時の交通状況が影響したのでしょう。新々バイパス経由が先に廃止になったのもそれが理由ではないかと。日東道経由の高速バスが存在しないのも同じ理由でしょう。 「高速横浜」 神奈中だったら復活できそうな気もするが、もっとも高速バス事業からほぼ撤退状況なので厳しいか。
@@コニーデ 高速バス事業も旬を過ぎましたね。高崎線好きだったなぁ😅
臼井経由新津行きは、大野、白根方面のバスで唯一バックモニター、つまり車両後部にカメラの付いたバスでした。 狭い道を走るのに他のバスに比べて大きめの車両だったことを覚えています。 細かいことを言うと、大野仲町は国道沿いではなく商店街の方へ入ります。 動画の路線図ではそのまま信濃川の方向へ抜けていますが、実際は国道8号線へ戻り大野大橋を渡ってから左折して真柄医院前へと走っていました。
@@becyn 様 大野大橋を渡った後にバスが左折する様な大きな交差点がないように思えたのと、桜町にバス停があったので、そのように表記しました。 でも実際は橋の南詰の細い道を左折してたのでしょうかね? ご指摘ありがとうございます!
バスの路線図を個人的に作成しているのですが、新潟交通は新バスシステム以前、越後交通は2010年代以前は情報が少なく停留所も省略されているので、きちんとすべての停留所が掲載されている案内図が羨ましいです。21世紀生まれとしてはことさら気になる路線ばかりです。
@@allways_just_a_parson 様 なかなか興味深い作業をされてますね! このシリーズの動画が少しでもお役に立てればいいのですが…😣 全バス停名気にしておきます!
当時の佐渡汽船行き乗り場の扱いがむごい。これで駅名標に「周遊指定地佐渡のりかえ駅」とよく表示できたものだな。 観光バスではないが、蔵仕立ての車体の小型バス急行「北方文化博物館」行きも走っていたね。
@@コニーデ 『蔵仕立て』っていう表現が良き良き😁 茶色というか地味な色の帯をまとってました!
巻線はギリギリ知っていたがその先もあったのか。しかし月岡や弥彦のような温泉が終点でかつ、急行や高速化されても需要がないのは時代の流れの悲しさよ。
@@コニーデ クルマ社会…😭 新潟都市圏人口爆増で復活させたい!😁
弥彦方面の路線の衰退に関しては、モータリゼーションの進展が最大の理由ですが、1984(昭和59)年の越後線・弥彦線の電化開業も多少は影響したのかな?とも考察したくなります。
@@kiha110oykot 様。 確かに越後線電化に伴ってダイヤが大幅に変わりましたね! 越後線内野、白新線豊栄、信越線新津までの短距離路線が目立つようになったのも、この時の改正でした。 その後新潟交通のダイヤ大幅見直しがあったので、経緯からすると国鉄のダイヤ改正がきっかけだったのかもしれませんね!
「稲葉・亀田」線 牡丹山線は昔親戚の家に行くのに利用していたが、上木戸新町で降りていたので稲葉までのルートは知らなかった。当時の方向幕は経由地最大2か所しか表示していなかったのもあるがなぜ終点との距離が近いのに稲葉なのかは謎。大江山だったらある程度分かりやすい気もするが。 「大野・新津」線 平島に行くのに1度だけ乗った。大野仲町より先は今となってはとてもバスが通るようなルートとは思えないが意外と需要があったようだ。ルートの一部であろう「子成場-出戸」間は臼井橋改修で間隔がわずか約50m程になっているが統合できないものか。地元民の反対で実現できず今に至ると推測する。 新津行のルートはほかに「小杉・新津」線もあったので新津行のバス路線は最大4路線あった。雪で鉄道がストップした場合の為にも残る2路線も廃止だけは避けてもらいたいものだ。
西部営業所(現在のイオン新潟青山SC)付近から大野方面に向かって 市内線方面に入る変態路線もありませんでしたか?
@@crayon_1116 様。 おそらく、西部営業所〜帝石橋〜笹出線〜バスセンター線だと思います。 1979年時点で存在してました!
新潟駅発〜明田(みょうでん)行き、あったのわかりますか? 1980年代後半、母親の実家に行くのによく使ってました。 まだ新潟西バイパスが開通してない時代で、市役所、関屋、国道8号(西大通り)を通り、曽和の交差点まできたら、西川沿いの市道を通るルートです。 とにかく1時間近くかかっていました。 2000年以前に廃止になっていると思います。 追記、失礼しました。 新潟交通のホームページみましたら、赤塚駅行きで明田は1日3、4往復はまだあるんですね。 私が子供の頃は明田止まりだったので。
@@ヤサイマーク様。 コメントありがとうございます。はい、明田系統の資料も持ち合わせています😊 ただ、どのようにしたら面白く紹介できるか悩んでいまして、明田ゆきを紹介する動画を計画できていません。 ただ少し違ったカタチから紹介できないかと思っているので、そこで紹介できたらなと思います。その時はまたぜひ見てください! 私も中野小屋集落の狭隘(きょうあい)路線が好きで、区バス扱いになった後の赤塚駅行に乗車したことがあります。 とても味わい深い路線でした。明田ゆきと姉妹系統?の赤塚上ゆきの誕生秘話などもお話したい気持ちはあるのですが知りたい人いる?って思って躊躇してました。 貴重なコメントありがとうございます✨
厳密に言うと槇尾から先は西区のコミュニティーバス扱いです、直通で走っているので分かりづらいですがバス停表示がオレンジ色になってます。 当初は内野四つ角、曽根経由で巻まで走ってました。
古町行きなのに実際は本町や東堀などが終点なのは初見ごろしだよな。 いかに使用休止になったのに未だに撤去されないバス停がいかに多いかがよくわかる。 旧「新堀通」・「広小路」とかはずっとあのままだろうな。
@@コニーデ 知り合いのバスが詳しくない女子が言ってましたわ、『古町』行バス停で待っていたら、いつもと違うところで降ろされたと…😅 広小路なんて上屋付きの豪華なバス停なのにもったいないっすね。
とても興味深い動画、ありがとうございます。 横浜から新潟行きのバスは1回乗ったことがありますが、あまりの渋滞と腹痛で地獄だったことを思い出しました。 下の方のコメントで次第浜行きの件が触れられておりますが、子供の頃、次第浜行きに乗ってみたかったのものの、夢かなわず廃止となりました。大人になってから車で次第浜のバス停に行きましたが、やはりバスと違って味気なかったですね。
@@Alfsiron こちらこそ、コメントまでくださってありがとうございます✨ 渋滞の中の腹痛は考えたくもないですね、恐怖すら感じます💦 自分は横浜→新潟の2回いずれも元日昼便乗車だったのですが、どちらも満席、帰省ラッシュの名残り混みだったのかもしれませんが、需要はあったのかなぁと思ってました。でも短命に終わったのは、やはり渋滞が要因にあったのではと思ってしまいますね。 自分も大人になってクルマで過去の気になる土地へ向かうことがありますが、バスで行くのとは違うと感じます。 運転士さんが大きなバスで目的地まで連れて行ってくれるのが醍醐味なんですね😊
万代バスセンターの、カレーはまだありますかね。 笑
@@ジルヴィルヌーブ 時間によってはとても行列ができていますのでご注意を!
古町バス停は、1番街(中心は8番街)だったり、隣町の東堀にあったりするので、営業所でバスターミナル地図をもらうのが必須。 私が住んでいた時代、古町営業所の前は新潟大学行き(この沿線に住んでいた)だった。
@@ユミコ-i9cさま。 待合室後の施設を、古町営業所と呼んでいたのですね? それは新潟交通旅行センター古町営業所ということでいいでしょうか? 今回この動画では、資料に基づいて古町旅行センターと紹介しました。 当時は、その旅行センターの前に長い列ができていましたね☺️ 旅行センターの他、普通の営業所業務もしていたのか、気になっています。ただし、定期券販売はしていないと資料にはありました。
昔、高校生の時、ここで定期を購入した記憶が。旅行業務はしていたか覚えていない。正式名称は覚えていない。ただ、皆営業所と言っていた。映像から見ると、私が住んでいた時よりバス停は少なくなっているみたい。
@ユミコ-i9c 返信ありがとうございます。 私の持っている公式資料によると、1988年時点の古町旅行センターでは定期券の販売は行っていないと記されています。 私も90年頃に定期券利用をしていましたが、万代バスセンターでしか定期券販売していなかったと記憶していますので、その前後は行っていたのかもしれません。 情報ありがとう御座いました!
@@神宮寺明日香 私が高校生だったのは昭和50年代です(年が解ってしまう)。古町から少し行った所に高校が数校あり、私はその中の一校に通っていました。古町は少し歩くけど歩けない距離ではないのでここで定期が買えてよかったです。(万代シティだとバス料金別に払って行かないといけない) ただ、新潟交通バス料金高い。
@ユミコ-i9c お歳を詮索するようで申し訳ありませんでした💦 持ち得ている資料から動画を制作しているのでお許しください!
松浜は、循環山ノ下ホームページのリンクにありましたね。
@@待ち受けライティ さま 今でも見れますか? 教えてもらって見に行きましたが、リンク切れてたような…😥
@神宮寺明日香 さん、今では検索しても出てきませんね。
@@待ち受けライティ 以前楽しませてもらったサイトだけに残念です😥
古町にバスセンターを作れば広島市中区そごうの脇のバスセンターみたいに繁盛していたのにセンスないなあ(笑)
@@小口潤也-w7q 様 広島バスセンターでしたっけ?広電ワールド😄 確かに三越、大和デパート脇にバスセンターがあったら万代とはまた別のかっこよさがあったと思います!
江戸時代からの土地持ちが多く、敷地を確保するのが困難だったようです
古町→佐渡汽船線でふと思い出したのですが、昔 信濃町→学校町→古町→沼垂→新潟空港?下山営業所? 線があったような気がします。 (小学校ぐらいの記憶なので自信がないですが…) それから昔西循環(当時の11A系統・12A系統)に乗ったとき 運賃表示器に「市内均一」「170」 しか表示されない時期があったような気がします。 この動画を見て、それは前乗りと後乗りがあった時代だったから なのかなとふと思いました。
@@かかぽん-o5y 信濃町〜空港線、どなたかもコメントくださいました。下山の5Eを使用していたと自分は記憶してます。空港運用時間は空港ゆき、時間外は下山営業所ゆきだったのではないでしょうか? その頃上京しており、自分うろ覚えです😅 運賃表示器、そんな表示がありましたか😳 前乗りの均一路線があるなんて、新潟も大都市みたいでかっこよかったですね〜!🤭
昔は、古町は新潟の東京!って言われてたのに…
@@mazakuramaru0512様。 三越、大和、カミーノ…歩いてる人多かったですしね。当時自分は学生だったんで、古町行けば誰かいるみたいな感覚でした。
横浜線の運行経路が環八経由だったのが驚き。 下山営業所は懐かしい。事務所はプレハブだったような。謎系統の新潟空港ー信濃町線も担当していた。
@@にゃん子バス本舗 空港↔信濃町線、確かに謎ですね! 下山の5Eを使ってたような…??? うろ覚えです。
中央循環 昔は最終便が早かったんですね 西循環 西部営業所は昔青山にあったんですね 南循環 このルートが2年で廃止になったのはある意味納得 南部営業所は紫竹山付近にあったんですね
@@かかぽん-o5y 様 昔の営業所巡りを企画してますのでお楽しみに〜!
最後の番線にある次第浜行きが抜けている。 バスセンターから聖籠の次第浜行きが出ていた
@@政光小山 『最後の番線にある次第浜行が抜けている』がどこを指しているのかわかりませんが、次第浜行が万代のバスセンターから出ていたのは昭和54年の資料から承知しております。最後の番線とは動画のどこを指しているのでしょうか?
14番線とか16番線だったような気がします。
@@政光小山さま。 返信ありがとうございます。 ただ、この動画のどの部分に抜け落ちていた所があるのかわかりません。 間違えは訂正しなくてはならないですが、動画内の何分あたりとか、何を説明している部分で抜けているとか具体的に指摘してもらえないと、私も訂正できかねます。 恐れ入りますが、以上をふまえて、もう一度返信くださいますか? 間違えがあれば訂正します。
間違いはないです。 次第浜行きを入れて欲しかったな というくらいです。動画は興味深かったです。 ありがとうございます。
@政光小山 そうでしたか。間違えなくてホッとしました。 バスセンター10番線は、次第浜行のほかにも今では無い路線がたくさんあります。 太郎代、島見町どまり、ガス化学、新川…。 そういった過去の路線を紹介する動画も計画しますので、またぜひご覧になってください!
初めまして、大変良かったです。以前新潟市に住んでいて西小針線を利用していました。古町待合場所前にバス停ありましたね。結構並んでいた記憶があります。ドル箱路線って聞いていました。あと銀太郎という名称には笑えました。確かにバスボディーカラーは銀色ですが太郎って!?(笑)懐かしい話題ありがとうございました。これからも楽しみにしています。新潟交通❤
@@takashishigiyou8682 嬉しい言葉をもらいました。ありがとうございます。作って良かったなぁって思いました😊 西小針線ユーザーうらやましいです。自分は新しいバスがくる西側路線を横目に古〜いバスばかりくる東側行ユーザーだったので、柾谷小路をへだててその差に萎えていたものです😅 それにしても西小針線、有明線の列は凄いものがありました。銀太郎の動画も作ってみたいと思っているので、また見てくださいね😊
戦後まもなく古町に住んでいたお袋の話によると現在カレーで全国的に有名な万代シテイのバスセンターは本来古町につくる予定だったそうです。 しかし地元民の反対にあいやむなく万代に変更したと。当時の古町はガチで首都圏のような賑わいでプライドが高く郊外線専用のバスセンターが 田舎と直結してる感じで受け入れがたかったようです。昔は古町に行くことを「新潟に行く」と言っていました。古町以外は新潟じゃなかったんですね。 バスの行き先表示も「新潟(古町)行き」がありましたし、なんというかそういう時代だったという感じです😅
@@shiaashinoko8267 様。 これは凄い情報を頂きました✨ このコメントで1本動画作れますね😄 このコメント、これを見た方全員に読んでもらいたいなぁ! バスセンターの古町計画、すごく信憑性高いですね!いくら万代の土地が新潟交通であふれかえっていたとしても、当時の古町の勢いを無視してまで、本当に万代で独自の街が成功するのか?昭和の古町の勢いを知っている人間としては不思議に思ってました。結果今現在はこうなってますが、新潟=古町というのが、この先にまた芽生えたらいいなぁと思っています😊 コメントありがとうございます✨
0:51に出てくる新潟交通の案内図を持っています、S51年高校生の時に始めて新潟に行った時に入手したものですが改めて見直すと街が大きく姿を変えていることが分かります。パット見ただけでも小林デパート→三越→閉店、市役所はNEXT21ですね。この頃は柳都大橋やみなとトンネルは無く対岸との連絡は万代橋が最も下流だったと記憶します。あとこの頃はバスの屋根は赤ではなく銀色でした。
@@N--jv3go 様。 昭和51年とか、いい時代ですね! 本当に古町が賑わっていた時代です。 屋根が赤くない、銀バスと呼ばれていた時代ですね!
駅南は住んでる人多いからなんとかしてもう少し路線を確立してほしいですね〜
@@plum6184 確かに、もっと充実していてもおかしくない地域ですよね〜🤔
北高校体育館前……なぜ体育館w
ですね〜😂 北高校線開設当初は、北高校前だったのに、わざわざ北高校体育館前に変更、次の石動を北高校に変更→初期設定にもとに戻す。 そんなあわあわした流れでした😅