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日本史オンライン講座
Japan
Приєднався 16 тра 2020
高校日本史を社会人向けにアレンジしたオンライン講座です。講座は2系統あります。一つは、兵庫県の県立高校を退職して非常勤講師をしている私(松本)が、高校日本史を市民講座向けに作り直した「社会人のための高校日本史」「系図で学ぶ日本史」など。もう一つは、私がオンラインで大学の先生方に教えていただいているライブを録画・編集した「研究者と学ぶ日本史」。講師は秦野裕介先生と金子哲先生。お二人とも中世の研究者です。高校の社会科の教師が、生徒として授業を受けるという珍しい動画です。
【Amazonアソシエイトについて】
当サイト「日本史オンライン講座」は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。
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保元の乱 源為義が崇徳方、源義朝が後白河方になる理由【日本史ミニ知識】
保元の乱で、源為義は崇徳上皇方、源義朝は後白河天皇方に別れます。藤原忠通・藤原頼長、平清盛・平忠正も上皇方・天皇方に別れます。忠通・義朝・清盛が後白河方に属している理由はなにか。
#保元の乱 #源義朝 #平清盛 #日本史ミニ知識
保元の乱 ua-cam.com/video/5NlXz0Q_URo/v-deo.html
保元の乱 ua-cam.com/video/u9oLnAwJ-D0/v-deo.html
#保元の乱 #源義朝 #平清盛 #日本史ミニ知識
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Відео
詮子が兼家を警戒するのは何故か 藤原兼家と三条天皇の意外な関係 【光る君へ見てからライブ最終回】
Переглядів 18715 годин тому
藤原兼家が花山天皇を出家させて一条天皇を即位させます。ところが、国母の詮子は父の兼家を警戒して自ら派閥を作ろうとする。詮子は何故兼家を警戒するのか。光る君へ見てからライブで、解説が曖昧だった部分を補って、光る君へ見てからライブの最終回にします。 #光る君へ見てからライブ #定子 #藤原道長 #三条天皇 #藤原頼通 光る君への時代背景 ua-cam.com/video/TsZ2eq2iCmk/v-deo.html 彰子と頼通 ua-cam.com/video/Kxo011X06l8/v-deo.html ua-cam.com/video/Cn2xZsunIdE/v-deo.html ua-cam.com/video/bZxpfiTSkb4/v-deo.html
関ヶ原の戦いから大坂の陣へ 水軍の戦い 【徳川海上権力論5】
Переглядів 10823 години тому
関ヶ原の戦いは、西軍の海と陸の作戦発動から始まる。毛利水軍と九鬼義隆の水軍は伊勢湾で活発に行動した。関ヶ原の戦いから大坂の陣ので、徳川水軍の戦いと拡充を振り返る。 関ヶ原の戦い ua-cam.com/video/nywLrMpek8s/v-deo.html 徳川幕府 ua-cam.com/video/-_uYNYlIK2k/v-deo.html 大坂の陣 ua-cam.com/video/sClM08MV4CY/v-deo.html #解説は秦野裕介立命館大学研究員 #小川雄 #徳川海上権力論 #日本史オンライン講座 #研究者と学ぶ日本史
琉球王国の衰退 明の海禁政策緩和と薩摩の琉球侵攻【研究者と学ぶ日本史】
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1553年、嘉靖大倭寇が始まると明朝は海禁の緩和に転じた。明朝は東南アジアの諸国との貿易を認めるようになり、琉球の中継貿易は衰退した。ポルトガルの参入も打撃となった。琉球は日本への依存を高めていき、1609年、薩摩の琉球侵攻を経て、琉球は中国と日本の二重外交を行うようになる。 琉球王国 ua-cam.com/video/PJwWmcSTQgA/v-deo.html #琉球王国 #社会人のための日本史 #解説は立命館大学の秦野裕介授業担当講師 琉球王国 ua-cam.com/video/9AntDeIhRYM/v-deo.html 琉球王国 ua-cam.com/video/EuGJqx_XmgQ/v-deo.html 琉球王国 ua-cam.com/video/qupjkMJKxwI/v-deo.html 秦野先生のプロフィール sengokukomonjo.hatenablog.c...
大坂の陣と水軍 豊臣方に水軍はあったのか 【徳川海上権力論】
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大坂の陣で、豊臣方と徳川方の水軍はどのように戦ったかを見ていきます。 関ヶ原の戦い ua-cam.com/video/nywLrMpek8s/v-deo.html 徳川幕府 ua-cam.com/video/-_uYNYlIK2k/v-deo.html 大坂の陣 ua-cam.com/video/sClM08MV4CY/v-deo.html #解説は秦野裕介立命館大学研究員 #小川雄 #徳川海上権力論 #日本史オンライン講座 #研究者と学ぶ日本史
江戸幕府初期の水軍 徳川の全国政権化を支えた水軍の拡張 【徳川海上権力論】
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関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は全国政権にふさわしい水軍に拡張を図ります。 関ヶ原の戦い ua-cam.com/video/nywLrMpek8s/v-deo.html 徳川幕府 ua-cam.com/video/-_uYNYlIK2k/v-deo.html 大坂の陣 ua-cam.com/video/sClM08MV4CY/v-deo.html #解説は秦野裕介立命館大学研究員 #小川雄 #徳川海上権力論 #日本史オンライン講座 #研究者と学ぶ日本史
水軍と関ヶ原の戦い 毛利水軍・九鬼水軍の伊勢湾制圧作戦 【徳川海上権力論】
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関ヶ原の戦いは、西軍が海陸で展開した作戦の最終局面でした。西軍の毛利水軍と九鬼嘉隆の水軍と伊勢湾を制圧しますが、岐阜城が落城して西軍の作戦は齟齬をきたし、石田三成・宇喜多秀家は関ヶ原で小早川秀秋を補足する動きにでます。 #関ヶ原の戦い #解説は秦野裕介立命館大学研究員 #小川雄 #徳川海上権力論 #日本史オンライン講座 #研究者と学ぶ日本史 関連動画 大坂の陣 ua-cam.com/video/sClM08MV4CY/v-deo.html ua-cam.com/video/w4U8-eIwlnQ/v-deo.html ua-cam.com/video/i3JsZ2N_toY/v-deo.html ua-cam.com/video/QLHFNaXwZHA/v-deo.html
琉球王国 明の海禁体制と中継貿易【研究者と学ぶ日本史】
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1429年、尚巴志が三つの地方勢力を統一した。琉球国を明の海禁政策のもとで東アジアの中継貿易に進出し、那覇は海外貿易のハブとして繁栄した。中国の技術を導入した大型の琉球船の行動範囲はジャワ・インドシナに及びマラッカを中継してインド洋の物資をも扱った。 #琉球王国 #研究者と学ぶ日本史 #解説は秦野裕介立命館大学授業担当講師 琉球王国の衰退 ua-cam.com/video/N4QeOxoYhTc/v-deo.html 琉球王国 ua-cam.com/video/9AntDeIhRYM/v-deo.html 琉球王国 ua-cam.com/video/EuGJqx_XmgQ/v-deo.html 琉球王国 ua-cam.com/video/qupjkMJKxwI/v-deo.html 秦野先生のプロフィール sengokukomonjo.hatenablog.com/entry/206...
応天門の変 伴善男は脇役、主役は藤原基経・良相・順子【研究者と学ぶ日本史】
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応天門の変で大納言伴善男が失脚します。ここまでは、高校の教科書。実は、伴善男の背後には太皇太后や右大臣がいたのです。 メンバー限定動画の一部を公開します。メンバーはライブ配信及び録画の全てを視聴できます。 #解説は秦野裕介立命館大学研究員 #応天門の変 #伴善男 #研究者と学ぶ日本史 ua-cam.com/video/bN5PmDulylo/v-deo.html ua-cam.com/video/9laynoA3c-Y/v-deo.html ua-cam.com/video/WMDX0TmqjtQ/v-deo.html
王朝国家 「光る君へ」の時代背景と、まひろが見た新しい中世の幕開け 【彰子・頼通が直面していた課題は何か】
Переглядів 67012 годин тому
藤原忠平が作り上げた王朝国家。摂関政治は王朝国家というシステムの上で行われました。しかし、藤原道長薨去の半年後に起こった平忠常の乱から、王朝国家は変質し、やがて、荘園公領制・院政・武家の台頭、中世に時代は転換していきます。 彰子と頼通の時代 ua-cam.com/video/Kxo011X06l8/v-deo.html #光る君へ #藤原頼通 #彰子 #日本史オンライン講座 ua-cam.com/users/liveMP8-JdHz2Hw ua-cam.com/video/CWSM4OswTMU/v-deo.html ua-cam.com/video/Rnhn6CNDPQo/v-deo.html
彰子と頼通 二人が生きた時代は摂関政治から院政への転換期【光る君へラストライブ】
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藤原道長の後、彰子と藤原頼通が摂関家を主導した。平忠常の乱の勃発、後朱雀・後冷泉に続く皇子の確保、王朝国家の行き詰まりなど二人の前には多くの課題が待ち受けていた。 「光る君へ」の時代背景 ua-cam.com/video/TsZ2eq2iCmk/v-deo.html #光る君へ見てからライブ #彰子 #藤原頼通 #平忠常の乱 ua-cam.com/users/liveMP8-JdHz2Hw ua-cam.com/video/CWSM4OswTMU/v-deo.html ua-cam.com/video/Rnhn6CNDPQo/v-deo.html
継体天皇 謎に包まれた武烈天皇から継体天皇への皇位継承 【日本史ミニ知識】
Переглядів 75316 годин тому
継体天皇 謎に包まれた武烈天皇から継体天皇への皇位継承 【日本史ミニ知識】
武田水軍 武田信玄は、駿河侵攻後どのようにして水軍を手に入れたのか 【日本史ミニ知識】
Переглядів 21219 годин тому
武田水軍 武田信玄は、駿河侵攻後どのようにして水軍を手に入れたのか 【日本史ミニ知識】
武田水軍の誕生 今川滅亡後に短期間でどように水軍を育成したのか 【徳川海上権力論3】
Переглядів 27721 годину тому
武田水軍の誕生 今川滅亡後に短期間でどように水軍を育成したのか 【徳川海上権力論3】
豊臣政権下の徳川水軍 小田原城包囲から関東転封・朝鮮出兵へ 【徳川海上権力論4】
Переглядів 40321 годину тому
豊臣政権下の徳川水軍 小田原城包囲から関東転封・朝鮮出兵へ 【徳川海上権力論4】
織田信長 家督継承から本能寺の変まで 【社会人のための高校日本史2024】
Переглядів 1,6 тис.День тому
織田信長 家督継承から本能寺の変まで 【社会人のための高校日本史2024】
織田信長を主人公にした映画・テレビ・小説 どの時代に人気があったのか 【織田信長9】
Переглядів 323День тому
織田信長を主人公にした映画・テレビ・小説 どの時代に人気があったのか 【織田信長9】
徳政令の終わり 債務は支払わなければならない時代へ 【研究者と学ぶ日本史 徳政令6】
Переглядів 27014 днів тому
徳政令の終わり 債務は支払わなければならない時代へ 【研究者と学ぶ日本史 徳政令6】
藤原道長と紫式部 史実重視と大人の恋愛を絡ませた傑作大河ドラマ 【光る君へ見てからライブ】
Переглядів 49714 днів тому
藤原道長と紫式部 史実重視と大人の恋愛を絡ませた傑作大河ドラマ 【光る君へ見てからライブ】
来年の蔦屋、浮世絵、田沼政治ものに期待されますか?田沼をメインに、吉宗が御三卿を作った魂胆?とかから始めると面白いと思います。
有意義なお話ありがとうございました。大変勉強になりました。
光る君への最後の10分間の時代背景の開設を、序盤は彰子頼通の時代、中盤は天武持統桓武檀林皇后が目指した皇統の解説とともに、後半は後三条天皇になり円融皇統と冷泉皇統が合流し、その皇子が白河天皇で外戚と切り離された摂関家が生まれ、忠平から始まった摂関政治は終焉し天皇に再び権力が集中してゆく、系図を駆使しての詳細解説、本当に論理的でイメージしやすかったです。1年間、解説をありがとうございました。よいお年をお迎えください。
松本さん、毎回、配信を楽しんで拝聴しています。忠平がシステムを作り、兼家、道長はオペレートし頼通は政治的問題に対処(政策をうった)したというところをこれから拝聴し感じとりたいと思います。冬至に拝聴しています。
大和川水系から、琵琶湖淀川水系へ。
一年間ありがとうございました。摂関政治がわかるようになりました。中宮や天皇が身内の摂関は強大な権利を持つことが改めてわかりました。兼家も道隆も身内贔屓で官位をどんどん上げたことや律令制を超えて皇后中宮を並立したり、貴族の同意もありますが自分に引き寄せる道長。后がねに恵まれず養女にのぞみをかける頼通。単純に娘を入内させて権力を得ることばかりではないことが松本先生の解説動画で詳しくわかりました。ありがとうございました😊
光る君へ見てからライブ、1年間ありがとうございました。楽しかったです。 ところで、先行研究で紫式部一族は常陸国の利権を有していたそうです。紫式部のおば(父為時の姉妹)は平維将に嫁ぎ、維時はその間に生まれた可能性があるそうです。 源氏物語に常陸介が何人か出てくるのは親戚からの影響なのかもしれませんね。
水谷千秋氏の、継体天皇論を、いま読んでます。水谷氏の論は、継体天皇は傍系の王として皇位を継いだ、という立場です。ただ、それが万世一系と言い切れるのか?本来皇位につけるのは、当時天皇の皇子、というのが普通であり、5世王では皇位につく正統性に不足があったらしい。そのため、ずいぶん記紀では作り話も作られたし、先帝の娘を皇后として迎えることで、正統性を担保した。
王朝が、代わってますね。北九州系から、出雲越系へ。まあ元々連合政権だから、主導権が、移動したとも、言えるけど。
(19)話は前後しますが、門司合戦(1586~1592)の話をする前に、 すでに滅んでしまった大内氏と大友氏が現在の大分県杵築市山香町山浦で戦った 勢場ヶ原(せいばがはら)の戦いのことをコメントさせていただきます。
皇后(大后)は、手白香皇女・橘仲皇女(手白香の妹)・石姫皇女(橘仲の姫)と姉妹・母子で引き継がれ、男子の欽明天皇(手白香の皇子)・敏達天皇(石姫の皇子)に対になりますね。敏達が石姫と合葬御陵は象徴的です。
畿内説は倭人伝記述には合致しませんね。それは 四国にありますよ。墓もね。どちらも山上にね。
16:35 両統迭立を終わらせて一本化し皇統を安定させたのが道長の隠れた功績、というのが「なるほど」と思いました。両統迭立と言えば有名な持明院統と大覚寺統くらいしか知りませんでしたが、光る君へとこちらのチャンネルのおかげで平安時代の円融系と冷泉系でも両統迭立が発生していたというのを初めて知りました。 余談ですが、現代のクウェート王家でも両統迭立状態が発生しているというのを先日ニュース報道で見ました。皇位&王位を巡る争いが人死にの出る戦闘までエスカレートしてしまう前に政治的な妥協を図って両統迭立をする、という知恵は古今東西で行われているんだなぁと興味深かったです。
先生の顔が図や文字に重なりよく見えません。
有難うございます。楽しみにしていました。尾張地方に住んでいる身としては、ワクワクしています。これからもよろしくお願い致します。
今年は、これまで何本か作ってきた信長の動画の集大成の気持ちで作りました。
戦後は平和を希求する家康、高度成長期には信長と人気が移ったとのことですが、戦前は江戸時代からの決別、立身出世、大陸への進出なんかで豊臣秀吉がもてはやされていたとのことで、その時の人気の武将はその時代に何が求められていたかを反映していますね、現代は昔だったらサブキャラの武将に人々の好みが色々別れているのは、個人主義が広まってきたことの反映なのでしょうか
追記です。 松本先生へ。 上杉三郎景虎は北条氏康の6男であり、北条氏政とは異母兄弟の中であります。1570年4月に上杉家の養子になる前は北条三郎という名前でした。 上杉三郎景虎に関してですが、私は謙信は上杉家当主として考えていなかったと思います。 1572年以降上杉三郎景虎の文書は出てこなくなるからです。再び上杉三郎景虎の文書が出てくるのが謙信死後の1578年5月から1579年3月の御館の乱の間です。 上杉三郎景虎方には前関東管領の上杉憲政がいます。事実、御館には上杉憲政が1579年3月17日まで滞在してます。 黒田基樹先生は1571年12月に越相同盟破綻後も上杉三郎景虎が上杉家にいたのは小田原北条氏が上野国確保のため 滞在させていたという考察を出していたかと思います。 (詳しくはウィキペディアを御覧下さい) 上杉謙信にとっても三郎景虎がいれば小田原北条氏と再び和睦するにはうってつけの人物ですし、外交的には利用できます。したがって、これまでの通説通り上杉三郎景虎を関東管領に、越後国主兼上杉家当主を上杉景勝にするという構想があったとする考えも間違っておりません。 謙信は1578:年1月に陣触を出した時は関東方面への出兵でした。上野・下野両国には由良成繁等北条氏に味方する国衆がいたからです。 憶測ですが、関東方面へ出て、小田原北条氏と三郎景虎を使って和睦し、それから北陸から畿内へ織田氏の勢力と激突するというのが、上杉謙信の室町幕府再興の作戦だったと思います。
松本先生へ いつもお疲れ様です。 加賀・越中一向一揆と越後長尾(上杉)氏の関係について時系列でまとめます。 1、1506年9月に越中国般若野にて越後国守護代・長尾能景(謙信の祖父)が越中一向一揆に敗北し戦死。 2、1520年に越後守護代・長尾為景(謙信の父)が越中一向一揆に味方した越中守護代の神保慶宗を敗死に追いこむ。越中守護・畠山尚順から越中東部の新川郡の守護代に長尾為景が任命される。 3、1521年に長尾為景は越後国に一向宗(浄土真宗本願寺教団)禁制を命じる。 4、1523年、室町幕府管領・細川高国の斡旋により加賀・越中一向一揆と能登国守護・畠山義総と越後国守護代の長尾為景の和睦が成立する。 →これ以降、越後国でも為景の一向宗禁制により信濃国北部に逃亡した一向宗(本願寺)末寺が越後に帰国する。 5、1540年に為景は大和国奈良の興福寺一乗院を仲介して大坂本願寺に贈り物をするが、本願寺宗主の証如に断られる。(為景は1541年12 月に死去) 6、1553年9月下旬から12月 かけて長尾景虎(上杉謙信)が一回目の京都上洛を果たす →この時、長尾氏の親戚であり謙信にも味方する北信濃の領主・高梨政頼が本願寺末寺の本誓寺(現在は上越市にあります)の旦那を勤めていた。この年の4月迄に高梨氏は大坂本願寺の証如と謁見してます。 高梨氏の旦那寺である本誓寺の住持・超賢が加賀・越中一向一揆の協力を取り付けて謙信の上洛途中の路地の安全を確保出来ました。 11月には本願寺証如と長尾景虎(謙信)の面会も実現してます。 7、1559年、4月から8月にかけて長尾景虎(上杉謙信)は二回目の京都上洛を果たします。関白・近衛前嗣(前久)や将軍・足利義輝とも交流し、義輝は景虎(謙信)に関東管領の事はよく相談して進退を決めるように。と依頼がありました。 8、二回目の京都上洛の成功を祝い、長尾景虎(上杉謙信)に太刀を披露するという出来事がありました。 10月28日には越後国の長尾上杉氏の一門衆・譜代・国人領主61名が、11月13日には信濃国から上杉方(高梨氏・村上氏)の領主、武田方の北信濃・東信濃の領主10名以上(真田幸綱等)を春日山城に祝儀の太刀を披露しました。 1560年3月15日には佐野・正木・宇都宮等の関東地方国人領主30名が謙信に祝儀の太刀を贈呈してます。 9、1560年、武田信玄は上杉謙信に上洛の協力をした加賀・越中一向一揆の調略をします。武田氏の使僧・長延寺実了(実了は甲斐国の本願寺末寺の僧侶)を北条氏や加賀・越中一向一揆のもとに派遣し、加賀・越中一向一揆は調略により武田信玄に味方するようになりました。 ここから15年間、武田氏と北条氏と加賀・越中一向一揆との連携で関東・信濃・北陸と謙信の包囲網を作られ身動きが取れなくなり、四面楚歌の状態に陥ります。 10、上杉謙信の北陸方面牽制のため、1565年3月に武田信玄と本願寺顕如が上杉打倒の軍事同盟を結びました。 11、しかし、1573年4月に武田信玄が亡くなり、1575年5月に武田勝頼が三河国長篠設楽原で織田・徳川連合軍に大敗、信長は8月に越前一向一揆を滅亡させて北陸に進出します。 軍事的領域が近くなった上杉謙信は織田信長との同盟をスルーし、将軍・足利義昭からかねてから要請があった武田勝頼と本願寺(加賀・越中一向一揆)と和睦を決意します。10月でした。 11、1576年5月に上杉謙信-大坂本願寺-毛利輝元の同盟が成立し第三次信長包囲網を形成し、織田信長にとって最凶の包囲網となり謙信が織田軍に手取川で勝利し、加賀・越中一向一揆は上杉謙信の配下になりました。
時々このようなお話を聞いておかないとぼんやりした頭になってしまう自分である。 つい金属供出の始まりは1941年12月8日以降のことだと思っていました。ユーウツです。
ありがとうございます!
ありがとうございます
織田有楽斎の子孫の系統ですが、織田秀実子爵夫人は久邇宮朝彦親王の第九王女の純子(あつこ)女王でした。
これまで太閤検地に関しては、1反を360歩から300歩に減らした話などからして、少しでも多くの税を徴収したいと考える秀吉の思惑みたいに意地悪く捉えがちでした。 しかし、松本先生のご説明を受けて、時代を経るにつれて1反あたりの米の収穫量も増え、家族4人あたり6反という比較的余裕を持って生きていける生活の糧を秀吉が太閤検地で保証しそれを日本全国に広げた事が、後の江戸時代の平和な社会の礎となったと考えると、秀吉や太閤検地のイメージも随分と変わります。 それでも、秀吉に関しては、朝鮮出兵や秀次事件など不快に思わせる面も多いですが・・・ 余程の大災害に巻き込まれない限り、普通に食べていける事が政府によって保証されれば、戦国時代のように戦争で人を殺してお金を稼ぐ必要も無くなる訳で、松本先生と百姓をされていた方のお話が、なぜ戦国時代に逆戻りすることなく平和な世が長続きしたのかに関する最も腑に落ちる答えに思えて、とても勉強になりました。
(18)高橋鑑種が謀反を起こした頃の中国地方の政治情勢を見てみると山口の大内氏はすでに滅び去り、それに代わって毛利氏が新しく台頭してきて彼らは最終的には九州博多の利権を狙っていました。日明貿易による利権をゲットしたかったのです。そのため九州に進出し、大友氏の勢力を博多から追い払う必要があったのです。
(17)<高橋鑑種の謀反>は大友氏にとって非常にショッキングな出来事でした。それはこの高橋鑑種こと一万田親宗があまりにも有能な武将だったからです。かれは幼少から宗麟の近習として仕え、1556年、肥後南関での小原鑑元の謀反、また1557年の秋月文種の謀反を鎮圧して活躍、その見返りに宗麟から筑前御笠郡(2000余町)を賜り、太宰府の近くの宝満山城の城督となり、四王寺山中腹にその支城・岩屋城を築きました。
ありがとうございます!
ありがとうございます。
箸墓古墳が卑弥呼の墓なら。何故古事記、日本書紀に卑弥呼のことが記載されてないのだろうか? そんな有名な女王のことが皆無なのはおかしいのでは?ヤマト説は魏志倭人伝の記述とは合致しないのでは? そして、ヤマト説か?九州説か?とこの2つだけしか言われないのだろうか? 日本の曙は四国なのに。 阿波国名西郡神山町神領字高根に卑弥呼のお城がありました。山の上です。また、卑弥呼の墓は気延山にあります。
卑弥呼の墓が阿波にあったら良いですね。
ありがとうございます!
ありがとうございます。
延喜式による区分けで、駿河国は上国でしたが、当時すでに梅ヶ島金山があったんですね 甲斐国の金山はまだずっと先の話ですが
美馬先生松本先生ありがとうございました。貴族の姫君はじめ女性の名前は何十年も音読みで慣れていましたので、光る君への訓読みが自分はしっくりきません。学会等では訓読みが今は主流なんでしょうか?
私も光る君への訓読みにはなじめません。美馬先生も秦野先生も音読み主流で、でも「ひのとみこ」「ほうじょうまさこ」があるから・・・という感じです。訓読みだったかも知れないが、読み方がわからないので音読みにしていたのかも。今度、秦野先生に尋ねてみます。
内容は大変興味深いのですが、お話しの仕方が少し聞き取り難く感じました。 松本先生のような話し方が聞き取りやすいです。
スマホからなんですけど 大丈夫ですか?
zoomアプリ 入れましたが 日本史オンライン講座にどうやって入るか わからないので UA-camで メンバーします
全てではないと思いますがGoogleMAPで忠魂碑を検索すると画像や揮毫主を観る事が出来ますね。
刀伊の入寇はなぜ学校の歴史の時間では教えないのですか。 当時はこういう事件は頻発してたからですか。
1:16:25 忠魂碑の件、詳しくありがとうございます。軍国主義だとして壊したというのはちょっと自分には理解出来ない所業です。残念なことです。自分は全く軍国主義だとは思わなかったので。