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映画 中之島 製作グループ
Приєднався 13 жов 2020
大阪の中心を流れる淀川。その支流である堂島川と土佐堀川の豊かな水の流れに抱かれた中洲中之島は、江戸時代に始まり明治、大正、昭和にかけて開発され、人々が集まり栄えてきた。それぞれの時代を代表する名建築物と美しい景観によって、「大阪の顔」と呼ばれるこの街の真の姿を映像化しようと、1972年、「映画〝中之島〟製作グループ」が結成された。映画プロデューサーの高比良 昇氏を中心に、商業映画やコマーシャルフィルムの作製に従事する関西在住の若い監督やカメラマン約20人が、自分達の住む街大阪を映像化する試みのために、日頃の仕事を離れ、資金を持ち寄って結集した
76年、様々な困難を乗り越え、4年の歳月をかけて映画「中之島」は完成。現在ではすでに姿を消した数多くのすぐれた建築物を映像に留め、大阪の文化と歴史・経済・社会を丁寧に描いた貴重な作品に仕上がった
この作品は大きな話題を集め、大阪を愛する人々との間に強い心の絆を生んだ。そして映画「中之島」の制作をきっかけに、地域の文化遺産を伝える仕事を自分達のライフワークとして、「大阪文化シリーズ」と銘うった映画づくりに取組むことになった。80年に完成した第2作は、今日の大阪大学の源であり上方の学問の中心であった適塾の歴史を描いた映画「適塾」を、85年には、400年の歴史を誇る商人の街の姿を描いた第3作「船場」を完成。その後、第4作「大坂城・その歴史と埋もれた謎」、第5作「茶の湯と大坂人」と、3〜4年に1本のペースで次々に作品を生み出していった。
「大阪文化を考えるつもりで始めた映画づくりではなかった」と高比良昇さんは言うが、自分達が本当に撮りたい映画を求めてゆくと、心から愛する大阪がテーマに浮かびあがってきたのは当然の成りゆきともいえよう。
1998年5月、第6作「大坂城平成の大改修 築城の歴史とその変遷」は完成した。しかし、その2ヵ月後に高比良 昇さんは亡くなった。病魔と闘いながら最後まで執念を燃やし続け、上映用の映画のパンフレットもすでに用意されていた。まだ60歳だった。現在、「映画〝中之島〟製作グループ」はご子息の剛氏が代表代理として後を引き継ぎ、映像に記録された大阪の歴史と文化をより多くの人々にみてもらうために、これまでに作製された作品の管理・貸し出し、ビデオの販売などを行っている。
info@with.jp.net
76年、様々な困難を乗り越え、4年の歳月をかけて映画「中之島」は完成。現在ではすでに姿を消した数多くのすぐれた建築物を映像に留め、大阪の文化と歴史・経済・社会を丁寧に描いた貴重な作品に仕上がった
この作品は大きな話題を集め、大阪を愛する人々との間に強い心の絆を生んだ。そして映画「中之島」の制作をきっかけに、地域の文化遺産を伝える仕事を自分達のライフワークとして、「大阪文化シリーズ」と銘うった映画づくりに取組むことになった。80年に完成した第2作は、今日の大阪大学の源であり上方の学問の中心であった適塾の歴史を描いた映画「適塾」を、85年には、400年の歴史を誇る商人の街の姿を描いた第3作「船場」を完成。その後、第4作「大坂城・その歴史と埋もれた謎」、第5作「茶の湯と大坂人」と、3〜4年に1本のペースで次々に作品を生み出していった。
「大阪文化を考えるつもりで始めた映画づくりではなかった」と高比良昇さんは言うが、自分達が本当に撮りたい映画を求めてゆくと、心から愛する大阪がテーマに浮かびあがってきたのは当然の成りゆきともいえよう。
1998年5月、第6作「大坂城平成の大改修 築城の歴史とその変遷」は完成した。しかし、その2ヵ月後に高比良 昇さんは亡くなった。病魔と闘いながら最後まで執念を燃やし続け、上映用の映画のパンフレットもすでに用意されていた。まだ60歳だった。現在、「映画〝中之島〟製作グループ」はご子息の剛氏が代表代理として後を引き継ぎ、映像に記録された大阪の歴史と文化をより多くの人々にみてもらうために、これまでに作製された作品の管理・貸し出し、ビデオの販売などを行っている。
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【大坂城 平成の大改修 築城の歴史とその変遷】 映画「中之島」製作グループ 第6作 平成10年 1998年
第6作 【大坂城 平成の大改修 築城の歴史とその変遷】 平成10年 1998年 50分
大阪の中心を流れる淀川。その支流である堂島川と土佐堀川の豊かな水の流れに抱かれた中洲中之島は、江戸時代に始まり明治、大正、昭和にかけて開発され、人々が集まり栄えてきた。それぞれの時代を代表する名建築物と美しい景観によって、「大阪の顔」と呼ばれるこの街の真の姿を映像化しようと、1972年、「映画〝中之島〟製作グループ」が結成された。映画プロデューサーの高比良 昇氏を中心に、商業映画やコマーシャルフィルムの作製に従事する関西在住の若い監督やカメラマン約20人が、自分達の住む街大阪を映像化する試みのために、日頃の仕事を離れ、資金を持ち寄って結集した。
76年、様々な困難を乗り越え、4年の歳月をかけて映画「中之島」は完成。現在ではすでに姿を消した数多くのすぐれた建築物を映像に留め、大阪の文化と歴史・経済・社会を丁寧に描いた貴重な作品に仕上がった。
この作品は大きな話題を集め、大阪を愛する人々との間に強い心の絆を生んだ。そして映画「中之島」の制作をきっかけに、地域の文化遺産を伝える仕事を自分達のライフワークとして、「大阪文化シリーズ」と銘うった映画づくりに取組むことになった。
1980年に完成した第2作は、今日の大阪大学の源であり上方の学問の中心であった適塾の歴史を描いた映画「適塾」を完成させ、85年には、400年の歴史を誇る商人の街の姿を描いた第3作「船場」を完成。その後、第4作「大坂城・その歴史と埋もれた謎」、第5作「茶の湯と大坂人」と、3〜4年に1本のペースで次々に作品を生み出していった。
「映画〝中之島〟製作グループ」の作品は、単なる記録映画にとどまらない。豊富な資料の検討に加え、町の古老や識者から熱心に話を聞き、ごく身近なものも見つめ直してゆく地道な姿勢を続けている。完成した作品は無料で公開され、要望に応じて貸出され、幅広い人々に地域の文化遺産を伝え、その意義を問いかけているのである。
「大阪文化を考えるつもりで始めた映画づくりではなかった」と高比良昇さんは言うが、自分達が本当に撮りたい映画を求めてゆくと、心から愛する大阪がテーマに浮かびあがってきたのは当然の成りゆきともいえよう。映画と大阪への熱い愛情を原動力に、地域における「現代の語り部」の役割を担いながら、「映画〝中之島〟製作グループ」の活動は進められていった。
1998年5月、第6作「大坂城 平成の大改修 築城の歴史とその変遷」は完成した。しかし、その2ヵ月後に高比良 昇さんは亡くなった。病魔と闘いながら最後まで執念を燃やし続け、上映用の映画のパンフレットもすでに用意されていた。まだ60歳だった。現在、「映画〝中之島〟製作グループ」はご子息の剛氏が代表代理として後を引き継ぎ、映像に記録された大阪の歴史と文化をより多くの人々にみてもらうために、これまでに作製された作品の管理・貸し出し、ビデオの販売などを行っている。
連絡先メースアドレス:info@with.jp.net
大阪の中心を流れる淀川。その支流である堂島川と土佐堀川の豊かな水の流れに抱かれた中洲中之島は、江戸時代に始まり明治、大正、昭和にかけて開発され、人々が集まり栄えてきた。それぞれの時代を代表する名建築物と美しい景観によって、「大阪の顔」と呼ばれるこの街の真の姿を映像化しようと、1972年、「映画〝中之島〟製作グループ」が結成された。映画プロデューサーの高比良 昇氏を中心に、商業映画やコマーシャルフィルムの作製に従事する関西在住の若い監督やカメラマン約20人が、自分達の住む街大阪を映像化する試みのために、日頃の仕事を離れ、資金を持ち寄って結集した。
76年、様々な困難を乗り越え、4年の歳月をかけて映画「中之島」は完成。現在ではすでに姿を消した数多くのすぐれた建築物を映像に留め、大阪の文化と歴史・経済・社会を丁寧に描いた貴重な作品に仕上がった。
この作品は大きな話題を集め、大阪を愛する人々との間に強い心の絆を生んだ。そして映画「中之島」の制作をきっかけに、地域の文化遺産を伝える仕事を自分達のライフワークとして、「大阪文化シリーズ」と銘うった映画づくりに取組むことになった。
1980年に完成した第2作は、今日の大阪大学の源であり上方の学問の中心であった適塾の歴史を描いた映画「適塾」を完成させ、85年には、400年の歴史を誇る商人の街の姿を描いた第3作「船場」を完成。その後、第4作「大坂城・その歴史と埋もれた謎」、第5作「茶の湯と大坂人」と、3〜4年に1本のペースで次々に作品を生み出していった。
「映画〝中之島〟製作グループ」の作品は、単なる記録映画にとどまらない。豊富な資料の検討に加え、町の古老や識者から熱心に話を聞き、ごく身近なものも見つめ直してゆく地道な姿勢を続けている。完成した作品は無料で公開され、要望に応じて貸出され、幅広い人々に地域の文化遺産を伝え、その意義を問いかけているのである。
「大阪文化を考えるつもりで始めた映画づくりではなかった」と高比良昇さんは言うが、自分達が本当に撮りたい映画を求めてゆくと、心から愛する大阪がテーマに浮かびあがってきたのは当然の成りゆきともいえよう。映画と大阪への熱い愛情を原動力に、地域における「現代の語り部」の役割を担いながら、「映画〝中之島〟製作グループ」の活動は進められていった。
1998年5月、第6作「大坂城 平成の大改修 築城の歴史とその変遷」は完成した。しかし、その2ヵ月後に高比良 昇さんは亡くなった。病魔と闘いながら最後まで執念を燃やし続け、上映用の映画のパンフレットもすでに用意されていた。まだ60歳だった。現在、「映画〝中之島〟製作グループ」はご子息の剛氏が代表代理として後を引き継ぎ、映像に記録された大阪の歴史と文化をより多くの人々にみてもらうために、これまでに作製された作品の管理・貸し出し、ビデオの販売などを行っている。
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中之島案内か
内容に反してBGMがやたらかっこいい
キモチワル
「セイタロ、アキナイちゅうもんはな・・・」ー成駒屋!!!
丁稚さんが手にしてる飯碗や小皿が、なかなか良品 私の先祖の一系統は大阪で宝石屋、もう一系統に酒屋をしていた家があるので、なんとなしに懐かしい思いで観させてもらいました
todd様うわぁええしの子やったんですね
@@森野狐丸 さん そんなもんではありませんけど😂 今日ちょうど、1人で大阪に来れる機会があり、中之島を少し歩けました 大阪城のまわりもぐるっと歩けて 楽しかったです
@@todd-ut9sj ああ、良かったですね。中之島の地下の食堂には寄りはりました?今日はお天気わるなかったですか?寒くなかったですか?風邪などお引きにならぬ様、お氣を付けください。もう昭和の雰囲気が無くなって寂しいですが中之島辺りはまだ微かに残っていますね。返信ありがとうございました。
安土城 復元 計劃 報告 要望
適塾は緒方家の海運業の失敗により借金のかたで日本生命の所有となった。補強復元工事の際両側の建物が邪魔になり立退きとなった西側が現在の商社双日の元となる日商岩井の日商本店ビル(日本生命所有) 東側が創業間もない民家を利用した八木通商本店だった立退きを迫られた八木通商は大阪財界と死闘を繰り広げ非課税で何倍もの土地建物を手に入れる
「徳川の天守台の上には秀吉が築いたであろう天守閣」 いやいや、豊臣タイプを唄うのであればせめて壁は黒く塗ろうよ
正に花登筺さんのドラマの世界 全然当時は先祖もウチは庶民でしたけど この言葉には懐かしさ キレイな大阪弁がある時代 いいですよね〜ヽ(*^ω^*)ノ
藤本義一って11PMでしか見たことないけど映画作ってた?本人かな。こんだけ水浸かってるとか大分昔だな。大阪も結構古い建物 残ってるけど耐震あるから直せば使える。未だに創価学会が太閤園の建物壊して安い会館作るとか納得いかんわ。
この時代は玄米だよね、日本人には完全栄養食で、タンパク質の不足分はおそらく馬並みに腸内で腸内細菌が作り出していたのかも、町人、武士とも植物系主体の粗食でありながら、欧米化した栄養素の豊富な現代食に恵まれた現代人よりも一段も二段も上の圧倒的体力的持久力を持っていた不思議、飛脚も駕籠かきも現代人には不可能、体力持久力は自衛隊より上の武士の戦闘力、精神論でない科学的な理由があるはず。
大阪には今でも文楽義太夫、地唄、生田流箏曲、山村、吉村、楳茂登等上方舞、四天王寺の舞楽、いっぱい値打ちのある文化財ありまっせ。維新橋下は文楽を弊履のように粗末にしましたなあ😂維新は恥ずかしい限りです。早く大阪人は目を覚まさなあきまへん😂
桔梗紋瓦の考察から、急に同心屋敷に映像が変わるのが脈絡なくて驚いた。 しかも、その武家屋敷の所在地も保存措置などの説明もないのはなぜだろう。
ナニコレ
なんか75年ころの映像みたいな古めかさだなぁ
素晴らしい作品。ナレーションどなたですかね?近藤さん?
松 竹 梅女中さんをおさんどんという。
思春期の懐かしい地名が、素晴らしい動画で吉本興業の大阪が大嫌い。橋元も。
シャチに金箔 これは税金のむだでわ
今から、30数年前の画像が昭和に見えるな。
下女ってなんですか?女奴隷とか女召使いとかそんな感じ?
豊臣の天守は黒漆塗りで白漆喰はあまり使われてないけど、もし豊臣風に建てるなら、その様に造るべきでは?それから天守にエレベーターはいらない、竹に木を繋いだような物、城=天守の愚かな考えなのかな。
まだこの頃ははじけて6年でもバブル余韻が残ってたのか大阪市は財政の予算有り余ってたんだなぁ今じゃ無理かもしれないがだから今のような雅かつ壮麗豪華絢爛な天守閣に蘇生したんだな今の最も秀吉の城に近い気がする。にしても平成それも90年代後半なのに昭和感が半端ない映像だなリニューアル前の内部が視れる今じゃ貴重なものもあるが。
プロジェクトX が復活したらこの大阪城平成の大改修を取り挙げてもらいたい。
福沢諭吉さんをとても尊敬しています。そして適塾へも訪れたいと念願しています!!
貴重な資料
これを見て豊臣大坂城も再建しないかなと思いました 黒と白の大阪城天守が2本並ぶ姿は荘厳だと思います。
完成当時の大阪城を観たかった。昭和の城と軽視してたので、反省してます。
大変勉強になりました。素晴らしい番組でした。
まさか飯テロがあるとは😂
凄く古めかしい映像ですね。。。 平成元年って思ってた以上に昔なんですね。。。
お上から強制されて始めた倹約な暮らしがいつのまにかアイデンティティになったということなのか。
徳川の天守台には徳川が建てた天守を再建すべき豊臣の天守は周りの櫓や城門と合わず違和感残ります。今の天守は取り壊すべきでどうしても豊臣の天守をというなら木造で元の場所に再建するのが筋。あとエレベーターなんていりません。豊臣や徳川の天守にエレベーターありましたか?姫路城天守にエレベーターついてますか。違和感ありすぎです。
大阪=道頓堀と西成(それも偏った一部だけ)とたこ焼きみたいになってる昨今大阪のこういう面も映像で残してくれてるの有り難いです
流石、正宗!調べてたんだなーーー!
とにかく素晴らしいにつきます、大阪に住んで良かった‼️
博多のはなしやな?
障害者の事も考えるとは、素晴らしい
昔大阪城に行ったときには確かお城は鉄筋コンクリートでエレベーターが有ったがあ・・???? あれ大阪城じゃ無かったのかな??
未来に関しては大坂城要らないですね。南海地震で街ごと消えますから。新名神辺りと残っても阪和道ぐらいかな。他の大阪府は壊滅します。無駄な投資。
20年以上も前の作品ですが、文化財を守ろうとする心は失ってはいけない。今の子供達に説明しながら見せてあげたいです
がんばったな。
大坂の陣が行われたのは秀吉の先見の明ですね。 3の丸の堀。凄いですね。冬の陣のあと徳川に埋められたんですね。
金箔は金沢の物かな?
3枚重ね張りとは写真集で書いてあったが。
すばらしい巧の技・・・よく記録が、ありましたね~
🔥
This is not a major repair, it is a major humiliation at all. A fake monument built with reinforced concrete.
エスパー小林先生に言わせると最狂最悪の心霊スポット😭
墓石や石棺などをむやみに持ち去って転用してはいけないことが分かります。他人の物を取ってきてまで何かを得てはいけないという教えですね。
素晴らしい(^^)