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遠くの山が本当にきれいです。あれは何の山ですか。
林佑介
歌の無いライブでは興味半減
7000短里、12000短里は良い線ですが、方向はどうして分かったのでしょうか。恐らく三平方定理を使っているので、南中に対し36.8度の方向の宮崎市と思います。ただし、宮崎に邪馬台国があったのではなく、単に女王國と名付けただけでしょう。230223
コメントありがとうございます。 私は宮崎でなく良港のあった薩摩川内と思っています。 方向で経度測定が難問でしょうが緯度と同様8尺(1尺でも同じ)棒で日時計を作り、鏡を利用して離れた地点の正中時を光で知らせ同時性を高めれば時差から経度差を求めることができる。 高度差1000mあれば100Kmは見通せるのでこれを何段か重ねれば1分以内の精度位で経度だせるのでは。
@@kazohashi2011 返信感謝です。私も測量地は宮崎市と同緯度の川内だと思います。好奇心で言えば上甑島でしょう、どうも九州本島での測量を禁じられていたようで、魏の測量点は海岸線で小島があるところです。しかも、係留するため潮待ちができる砂浜のあるところのようです。 山頂はガイド無しで登るのは困難で、登っても木などが視界を妨げる場合も多いはず。測量は一寸千里法を使えば、簡単です。沙里院と川内の八尺棒の影長差は9.6寸つまり9600短里を示します。魏は見えない先の方向3:4:5比のピタゴ三角定理(句股術)を使いますので、9600短里に5/4を掛けたのが12000短里で、3/4を掛けると東西7200短里が得られます。 この交点12000短里の地が宮崎市で、計算上の場所なのでそこに立つことはできません。しかし、これで九州本島の大きさを調べることができます。ただし、宮崎市の近くに出向き、川内と同じ緯度で、東が海であることは確認したと思います。推測ですが、禹跡図(うせきず)との関係で、緯度を知るため短里の必要があったのだと思います。230224
@@wajin5695 短里は東夷伝では統一して使われており、中国本体は長里で統一。理由は分かりませんが考えられるのは陳寿が東夷の国々をリスペクトしており、 数字が大きくなるように仕組んだ?
@@wajin5695 宮崎だと景行天皇の九州巡行(宮崎付近はもめごと少ない)と斯馬国、巳百支国以降の傍国の比定が難しくなる。
@@kazohashi2011 魏は長里と短里を断りなく使い分けていようです。大陸の都市間は道沿いは長里(曲路)であり、海を跨ぐ倭国は短里(最短距離・鳥道)です。話が飛びますが、古代中国では、禹跡図(うせきず)のような精密地図を創るために、周時代より測量事業を営んでいたようです。禹跡図には74×71本の線でマス目があり、どうも1マスが500短里のようなのです。 短里は一寸千里法を使うので、南北距離が容易に測れます。一方、長里は真南に真っ直ぐに進むのも難しく、海峡を跨いでの測量は不可能です。(もし可能なら、手法を知りたいものです)地図の絵柄は短里で配置し、距離を長里で書き込んだと云うことです。 禹跡図には朝鮮半島と日本がありません、地図に無いところが、短里で表記されています。ほか、インドのサータヴァーハナ朝方面も短里での記載です。 たぶん岡田先生の発案と思うのですが、洛陽から沙里院の5000里に7000千里を足して12000里と、数字を大きくしたという説がありますが、根拠となる原典を未だ見出せません。沙里院5000里は曲路で、7000里は直路なので、種類の違うものを足し合わせる暴挙はしないと思います。 短里は、一寸千里法の80対16の影長からの派生で、1000対200と同比率です。16寸の影長を、16寸×200里×400mとすると、北回帰線までの距離に近いです。本来は長里の200里を千短里としていたのですが、地球が丸いことから実際には175里辺りが千短里となったようです。計算は長くなるので、別の機会とします。230224
ここならコロナは無縁のようでいいですね。
デカルト?私は栄西禅師の「大いなる哉心や」を思い出しました。
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遠くの山が本当にきれいです。あれは何の山ですか。
林佑介
歌の無いライブでは興味半減
7000短里、12000短里は良い線ですが、方向はどうして分かったのでしょうか。恐らく三平方定理を使っているので、南中に対し36.8度の方向の宮崎市と思います。ただし、宮崎に邪馬台国があったのではなく、単に女王國と名付けただけでしょう。230223
コメントありがとうございます。 私は宮崎でなく良港のあった薩摩川内と思っています。 方向で経度測定が難問でしょうが緯度と同様8尺(1尺でも同じ)棒で日時計を作り、鏡を利用して離れた地点の正中時を光で知らせ同時性を高めれば時差から経度差を求めることができる。 高度差1000mあれば100Kmは見通せるのでこれを何段か重ねれば1分以内の精度位で経度だせるのでは。
@@kazohashi2011 返信感謝です。私も測量地は宮崎市と同緯度の川内だと思います。好奇心で言えば上甑島でしょう、どうも九州本島での測量を禁じられていたようで、魏の測量点は海岸線で小島があるところです。しかも、係留するため潮待ちができる砂浜のあるところのようです。 山頂はガイド無しで登るのは困難で、登っても木などが視界を妨げる場合も多いはず。測量は一寸千里法を使えば、簡単です。沙里院と川内の八尺棒の影長差は9.6寸つまり9600短里を示します。魏は見えない先の方向3:4:5比のピタゴ三角定理(句股術)を使いますので、9600短里に5/4を掛けたのが12000短里で、3/4を掛けると東西7200短里が得られます。 この交点12000短里の地が宮崎市で、計算上の場所なのでそこに立つことはできません。しかし、これで九州本島の大きさを調べることができます。ただし、宮崎市の近くに出向き、川内と同じ緯度で、東が海であることは確認したと思います。推測ですが、禹跡図(うせきず)との関係で、緯度を知るため短里の必要があったのだと思います。230224
@@wajin5695 短里は東夷伝では統一して使われており、中国本体は長里で統一。理由は分かりませんが考えられるのは陳寿が東夷の国々をリスペクトしており、 数字が大きくなるように仕組んだ?
@@wajin5695 宮崎だと景行天皇の九州巡行(宮崎付近はもめごと少ない)と斯馬国、巳百支国以降の傍国の比定が難しくなる。
@@kazohashi2011 魏は長里と短里を断りなく使い分けていようです。大陸の都市間は道沿いは長里(曲路)であり、海を跨ぐ倭国は短里(最短距離・鳥道)です。話が飛びますが、古代中国では、禹跡図(うせきず)のような精密地図を創るために、周時代より測量事業を営んでいたようです。禹跡図には74×71本の線でマス目があり、どうも1マスが500短里のようなのです。 短里は一寸千里法を使うので、南北距離が容易に測れます。一方、長里は真南に真っ直ぐに進むのも難しく、海峡を跨いでの測量は不可能です。(もし可能なら、手法を知りたいものです)地図の絵柄は短里で配置し、距離を長里で書き込んだと云うことです。 禹跡図には朝鮮半島と日本がありません、地図に無いところが、短里で表記されています。ほか、インドのサータヴァーハナ朝方面も短里での記載です。 たぶん岡田先生の発案と思うのですが、洛陽から沙里院の5000里に7000千里を足して12000里と、数字を大きくしたという説がありますが、根拠となる原典を未だ見出せません。沙里院5000里は曲路で、7000里は直路なので、種類の違うものを足し合わせる暴挙はしないと思います。 短里は、一寸千里法の80対16の影長からの派生で、1000対200と同比率です。16寸の影長を、16寸×200里×400mとすると、北回帰線までの距離に近いです。本来は長里の200里を千短里としていたのですが、地球が丸いことから実際には175里辺りが千短里となったようです。計算は長くなるので、別の機会とします。230224
ここならコロナは無縁のようでいいですね。
デカルト?私は栄西禅師の「大いなる哉心や」を思い出しました。