sada是诗人
さださんの詩(詞ではなく詩)には琴線に触れる何かがあります。家族の歌を作ったらさださんに敵う人はいませんよ。
ウクライナはアメリカの支持を後ろ盾にしてロシアを挑発し、ロシアがその挑発に乗った時にはアメリカに裏切られ、戦争の道をたどった。 耳障りの良い『愛国心』の名の下に、他国を挑発する行動は、結局愛しい人を不幸にする。 自分と価値観の異なる他者を排除するのではなく、共存する道を探る。 それが愛しい人を不幸にしない唯一の道だと信じている。
かっこ良いわ😂🎉💞 大好きです‼️💞❤
まほろば🎉💞 恥ずかしながら初めての素敵な曲なのです‼️💞ありがとう😉👍️🎶 さださんの曲は知ってる限り大好きです‼️💞 これからも知りたいです‼️💞🤩
お婆ちゃんが好きなさださんのこの歌が心に染みる年齢になりました。
おかあさん、ありがとう、
44年前、中3の時にコンサートに行きました。 まほろば、1番好きな曲が聴けました。 話も面白かったです😂
すまんけど言わした貰うけど特攻隊は、お母さんって言う散ったんやで
先月、さだまさしさんのコンサートツアー51に遊びに行きました! 僕はまだ21歳というまだまだ子供で世代は違いますが、さださんの歌や演奏、トークにとても魅力されました😭 特に「1989年の渋滞」と「まほろば」がとても素晴らしかったです。 元々父の影響で知ってはいましたが、今回のライブでより一層好きになりました! また遊びに行きたいです。
ファンでない友人に良い歌を知って欲しくて東京ガーデンシアターに招待したのですが驛舎の後半からうとうとし始め途中何度も寝ていましたが まほろば 空蝉 ひき潮 は聴いてほしくて起こしました 笑
太郎✨2024年11月21日 2:51am記💧
お母さん、悦子さん 有難うございます!
🎉🎉Bravo!🎉🎉 🎉🎉Bravo!🎉🎉
89歳で亡くなった母、53で亡くなった父・・。産んでくれて育ててくれて本当にありがとうございます。貧乏だった頃もあったけど母と父の子供でよかったです。今、49ですが母と父、戦争で亡くなった母の兄の分まで生きます
母が亡くなって一年が経ちました。寂しくて寂しくて泣いてばかりでしたが、亡くなって4ヶ月後にお腹に赤ちゃんがきてくれました。母がきてくれたと思って今は大事に育ててます。母の分の思い出をこれからは娘と作っていきます。
平和への祈り❤ 産まれてきた感謝 全ては 命のバトンを受け継いで 今 私達は存在している。
母を思い出しないてしまいました。
😵💨其で🇯🇵現状視てカルテル元凶の社会性を母が望む国だったと自負出来ますかね。まー個々に到達する最終章わ異なるが己の人生成功だけの喜怒哀楽でわねその日暮らしの人夫と変わらぬだろに。もっと世界大局視れないかな➰。
うたかた、蜘蛛の糸、髪に霜、全てがもろいもの。君を捨てるか、僕が消えるか、いっそふたりで落ちようか。 愛する人を守るなら僕が消える、それが本心。けれど、うそじゃない、本当でもない。それが人なんだろう。 結局は相手を子供を守りたい、ただそれだけで生きている。いつか息をしなくなっても。
母は、90歳人なり、小さくなりました。 腰痛がきつく、動きもかんまんになりながら 小さく暮らしています。 😂
宅間さん ステキ!
福田幾太郎さんのクレジットが流れるの悲しいけどな😢 合掌🙏
母親は、心筋梗塞で死にました。辛そうにくるしそうに😂死んで行きました:さみしい。私もです。
悪いけど、この歌と関係ないコメントはやめたほうがいいですよ。
母が昨日逝きました。母と一緒に聞いています。自然と泣いています。
35の時に突然母に死なれました。今年、私は58歳になります。40代は母を思い返すことも少なかったように思いますが、最近になってなぜか母が恋しくなります。1300gで生まれてきた私をよくぞ育ててくれました。
母は、嫁に来てから、最後まで辛い人生でした😭 …お袋、ごめん😣 俺もそちらに行くから、よろしく😢
名曲ですね🙋
名曲ですね😌
ウクライナー平和
長崎出身でお盆に帰省する度に精霊船を担いでいました。 周りを見ると担いでる方々が泣きながら笑い故人を送り出してます。本当に素晴らしい行事ですよ。
母は亭年55歳。病弱で家庭不和で本当に大変な人生だった。あれから、30年近く僕も来年55歳。なんとかがんばっています。いつも、いつも、これから、これからだけど、人様のために生きていきますありがとう。
魂の叫びのような歌声に圧倒され引き込まれます。 特に最後のまんげつ〜🌕️ 最高です。大好きです❣️
いつも、ありがとうございます。 少し、長くなります・・・ 1962年、名護市辺野古で生まれました。現在、62歳。 7か月早産、未熟児で生まれ「脳性小児麻痺」を発症。 病院に駆けつけたとき、ドクターから「長くは持たないかも…」と言われ 両親は、放心状態がつづいたそうです。 当時30歳の母のことを思うと、何とも言えない気持ちになります。 そういう状況にありながらも、両親は 私が少しでも元気に育つようにーと 沖縄整肢療護園が主催した コザ市中の町公民館で開かれた 「家庭療育通園会」に、週2回、片道2時間もバスに乗り、 3か月も通ったとのこと。私が1歳8か月のこと。 訓練の成果が良く『やっと座れた 〇〇ちゃん…』との見出しで 載った「琉球新報」の新聞記事を大事に保管していました。 当時の我が家には自家用車がなく 母が毎回、私を抱っこして 沖縄バスに乗り、中の町公民館へ通ったそうです。 そして、私が座ることができたとき 「やったー!! 〇〇〇〇」と大きな声と大粒の涙を流しながら、 訓練の先生と大喜びをしたそうです。 そんな母も、春3月 93歳で 天国へ旅立ちました。 私が生まれ育った 母への恩返しは、まだまだ終わっていません。 62歳の私は、これからの人生をしっかり生きること。 毎日、感謝の気持ちを 天国の母に送り続けて、生きていきます。 ありがとうございました。
@@nana-ch7-v ありがとうございます。 お互い、これからの人生をしっかりと生き抜くことが、1番の親孝行だと思います。 毎日を、楽しく すごしていきましょう。
交通事故で人を殺した連中に、彼のように本当に償いたいと思う連中は皆無! だって「ごめんなさい、許してください」って被害者側に言っちゃうんだからさ
奈良公園と神鹿は今、世界中の観光客から インバウンドで最も注目されている地域です。 この曲の舞台なので、とてもうれしい。
この曲を聞くたびに、母を想い出し、涙が、あふれます。だいすきなきょくです。
若い頃に聴いていたのと歳を重ねた今、聴くのとでは印象が変わりますね。 自分が亡くなった後に、子供達に思い出してもらえたら幸せです✨ 切なくて素晴らしい歌です✿
涙かどりません…こんな切ない詩…償いはけっして簡単ではないけれど…。
先週、母が2年半の闘病の末、亡くなりました。 今年、還暦の3人兄弟の駄目長男です。約10年間、引きこもりもあって心配ばかりさせていましたが、 いつも応援してくれてました。 入院する直前で自宅で母を看取りました。亡くなる1か月前から弱っていく母を兄弟皆で介護できて 最後の親孝行ができました。涙もろく、母の事を思うとつらいですが、残りの人生を悔いなく生きていきます。
佐田さんの歌詞は日本の美しい言葉で満ちています‼️うれしいです
さだまさしはロックだ この曲は特にそう
3ヶ月前に母が他界しました。旅立つ前に本当に小さくなった母の手をさすりながら耳元で、お母さん大好き、って言うと母は涙を必死に堪えているようでした。明るくてしっかり者で我慢強かった母。今までありがとう。この曲を聴くと涙が溢れてきます。さださん、素晴らしいです。
お母さまにきちんとお気持ち伝えてお見送りできて何よりでしたね。ほんとうに良かったです。コロナ禍で入院中の母を面会は勿論、看取ることはかないませんでした。あの時期その様な経験をされたかたは多かったのではないかと思いますが、苦労して私たち姉妹を育ててくれた事を思うと看取りできなかった事は今も切なくて申し訳なさが心に押し寄せてくる事があります。
このオーケストラはすごいですね!
この状況この静寂の中で途中までとはいえアコースティックギター一本だけでアルペジオのみの伴奏を一定のテンポでミスなく弾く度胸は私にはないかな。 場数を踏んだプロミュージシャンはいろんな意味ですごいです。 素晴らしい演奏、心に響くギターの音色はさすが石川鷹彦氏
この歌を聴くたび亡き母を思い出します。😂
母がまだ若い頃 僕の手をひいて この坂を登る度 いつもため息をついた ため息つけば それで済む 後ろだけは見ちゃだめと 笑ってた白い手は とてもやわらかだった 運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど そうゆうことって確かにあると あなたをみててそう思う 忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の 母の人生 いつかしら僕よりも 母は小さくなった 知らぬまに 白い手はとても小さくなった 母はすべてを暦に刻んで 流してきたんだろう 悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに 運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど めぐる暦は季節の中で 漂い乍ら過ぎてゆく 忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の 母の人生
母はいつも私のために頑張ってくれた わがままな私 お母さんごめんなさいそしてありがとうです 母の日の私の言葉です
親孝行したい時には 親はなし。昔の人はいい事を言う😌そういう事を考え始める迄は 自分の家族の事や生活で目一杯なんだが、それも言い訳か?この歌を聴いて久しぶりに父や母の事を想いたい😞
いい歌だね〜 しみじみ
特養で仕事してますが、この曲がいつも頭の片隅にあります。まっさん、面会に来て!
sada是诗人
さださんの詩(詞ではなく詩)には琴線に触れる何かがあります。家族の歌を作ったらさださんに敵う人はいませんよ。
ウクライナはアメリカの支持を後ろ盾にしてロシアを挑発し、ロシアがその挑発に乗った時にはアメリカに裏切られ、戦争の道をたどった。 耳障りの良い『愛国心』の名の下に、他国を挑発する行動は、結局愛しい人を不幸にする。 自分と価値観の異なる他者を排除するのではなく、共存する道を探る。 それが愛しい人を不幸にしない唯一の道だと信じている。
かっこ良いわ😂🎉💞 大好きです‼️💞❤
まほろば🎉💞 恥ずかしながら初めての素敵な曲なのです‼️💞ありがとう😉👍️🎶 さださんの曲は知ってる限り大好きです‼️💞 これからも知りたいです‼️💞🤩
お婆ちゃんが好きなさださんのこの歌が心に染みる年齢になりました。
おかあさん、ありがとう、
44年前、中3の時にコンサートに行きました。 まほろば、1番好きな曲が聴けました。 話も面白かったです😂
すまんけど言わした貰うけど特攻隊は、お母さんって言う散ったんやで
先月、さだまさしさんのコンサートツアー51に遊びに行きました! 僕はまだ21歳というまだまだ子供で世代は違いますが、さださんの歌や演奏、トークにとても魅力されました😭 特に「1989年の渋滞」と「まほろば」がとても素晴らしかったです。 元々父の影響で知ってはいましたが、今回のライブでより一層好きになりました! また遊びに行きたいです。
ファンでない友人に良い歌を知って欲しくて東京ガーデンシアターに招待したのですが驛舎の後半からうとうとし始め途中何度も寝ていましたが まほろば 空蝉 ひき潮 は聴いてほしくて起こしました 笑
太郎✨2024年11月21日 2:51am記💧
お母さん、悦子さん 有難うございます!
🎉🎉Bravo!🎉🎉 🎉🎉Bravo!🎉🎉
89歳で亡くなった母、53で亡くなった父・・。産んでくれて育ててくれて本当にありがとうございます。貧乏だった頃もあったけど母と父の子供でよかったです。今、49ですが母と父、戦争で亡くなった母の兄の分まで生きます
母が亡くなって一年が経ちました。寂しくて寂しくて泣いてばかりでしたが、亡くなって4ヶ月後にお腹に赤ちゃんがきてくれました。母がきてくれたと思って今は大事に育ててます。母の分の思い出をこれからは娘と作っていきます。
平和への祈り❤ 産まれてきた感謝 全ては 命のバトンを受け継いで 今 私達は存在している。
母を思い出しないてしまいました。
😵💨其で🇯🇵現状視てカルテル元凶の社会性を母が望む国だったと自負出来ますかね。まー個々に到達する最終章わ異なるが己の人生成功だけの喜怒哀楽でわねその日暮らしの人夫と変わらぬだろに。もっと世界大局視れないかな➰。
うたかた、蜘蛛の糸、髪に霜、全てがもろいもの。君を捨てるか、僕が消えるか、いっそふたりで落ちようか。 愛する人を守るなら僕が消える、それが本心。けれど、うそじゃない、本当でもない。それが人なんだろう。 結局は相手を子供を守りたい、ただそれだけで生きている。いつか息をしなくなっても。
母は、90歳人なり、小さくなりました。 腰痛がきつく、動きもかんまんになりながら 小さく暮らしています。 😂
宅間さん ステキ!
福田幾太郎さんのクレジットが流れるの悲しいけどな😢 合掌🙏
母親は、心筋梗塞で死にました。辛そうにくるしそうに😂死んで行きました:さみしい。私もです。
悪いけど、この歌と関係ないコメントはやめたほうがいいですよ。
母が昨日逝きました。母と一緒に聞いています。自然と泣いています。
35の時に突然母に死なれました。今年、私は58歳になります。40代は母を思い返すことも少なかったように思いますが、最近になってなぜか母が恋しくなります。1300gで生まれてきた私をよくぞ育ててくれました。
母は、嫁に来てから、最後まで辛い人生でした😭 …お袋、ごめん😣 俺もそちらに行くから、よろしく😢
名曲ですね🙋
名曲ですね😌
ウクライナー平和
長崎出身でお盆に帰省する度に精霊船を担いでいました。 周りを見ると担いでる方々が泣きながら笑い故人を送り出してます。本当に素晴らしい行事ですよ。
母は亭年55歳。病弱で家庭不和で本当に大変な人生だった。あれから、30年近く僕も来年55歳。なんとかがんばっています。いつも、いつも、これから、これからだけど、人様のために生きていきますありがとう。
魂の叫びのような歌声に圧倒され引き込まれます。 特に最後のまんげつ〜🌕️ 最高です。大好きです❣️
いつも、ありがとうございます。 少し、長くなります・・・ 1962年、名護市辺野古で生まれました。現在、62歳。 7か月早産、未熟児で生まれ「脳性小児麻痺」を発症。 病院に駆けつけたとき、ドクターから「長くは持たないかも…」と言われ 両親は、放心状態がつづいたそうです。 当時30歳の母のことを思うと、何とも言えない気持ちになります。 そういう状況にありながらも、両親は 私が少しでも元気に育つようにーと 沖縄整肢療護園が主催した コザ市中の町公民館で開かれた 「家庭療育通園会」に、週2回、片道2時間もバスに乗り、 3か月も通ったとのこと。私が1歳8か月のこと。 訓練の成果が良く『やっと座れた 〇〇ちゃん…』との見出しで 載った「琉球新報」の新聞記事を大事に保管していました。 当時の我が家には自家用車がなく 母が毎回、私を抱っこして 沖縄バスに乗り、中の町公民館へ通ったそうです。 そして、私が座ることができたとき 「やったー!! 〇〇〇〇」と大きな声と大粒の涙を流しながら、 訓練の先生と大喜びをしたそうです。 そんな母も、春3月 93歳で 天国へ旅立ちました。 私が生まれ育った 母への恩返しは、まだまだ終わっていません。 62歳の私は、これからの人生をしっかり生きること。 毎日、感謝の気持ちを 天国の母に送り続けて、生きていきます。 ありがとうございました。
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交通事故で人を殺した連中に、彼のように本当に償いたいと思う連中は皆無! だって「ごめんなさい、許してください」って被害者側に言っちゃうんだからさ
奈良公園と神鹿は今、世界中の観光客から インバウンドで最も注目されている地域です。 この曲の舞台なので、とてもうれしい。
この曲を聞くたびに、母を想い出し、涙が、あふれます。だいすきなきょくです。
若い頃に聴いていたのと歳を重ねた今、聴くのとでは印象が変わりますね。 自分が亡くなった後に、子供達に思い出してもらえたら幸せです✨ 切なくて素晴らしい歌です✿
涙かどりません…こんな切ない詩…償いはけっして簡単ではないけれど…。
先週、母が2年半の闘病の末、亡くなりました。 今年、還暦の3人兄弟の駄目長男です。約10年間、引きこもりもあって心配ばかりさせていましたが、 いつも応援してくれてました。 入院する直前で自宅で母を看取りました。亡くなる1か月前から弱っていく母を兄弟皆で介護できて 最後の親孝行ができました。涙もろく、母の事を思うとつらいですが、残りの人生を悔いなく生きていきます。
佐田さんの歌詞は日本の美しい言葉で満ちています‼️うれしいです
さだまさしはロックだ この曲は特にそう
3ヶ月前に母が他界しました。旅立つ前に本当に小さくなった母の手をさすりながら耳元で、お母さん大好き、って言うと母は涙を必死に堪えているようでした。明るくてしっかり者で我慢強かった母。今までありがとう。この曲を聴くと涙が溢れてきます。さださん、素晴らしいです。
お母さまにきちんとお気持ち伝えてお見送りできて何よりでしたね。ほんとうに良かったです。コロナ禍で入院中の母を面会は勿論、看取ることはかないませんでした。あの時期その様な経験をされたかたは多かったのではないかと思いますが、苦労して私たち姉妹を育ててくれた事を思うと看取りできなかった事は今も切なくて申し訳なさが心に押し寄せてくる事があります。
このオーケストラはすごいですね!
この状況この静寂の中で途中までとはいえアコースティックギター一本だけでアルペジオのみの伴奏を一定のテンポでミスなく弾く度胸は私にはないかな。 場数を踏んだプロミュージシャンはいろんな意味ですごいです。 素晴らしい演奏、心に響くギターの音色はさすが石川鷹彦氏
この歌を聴くたび亡き母を思い出します。😂
母がまだ若い頃 僕の手をひいて この坂を登る度 いつもため息をついた ため息つけば それで済む 後ろだけは見ちゃだめと 笑ってた白い手は とてもやわらかだった 運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど そうゆうことって確かにあると あなたをみててそう思う 忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の 母の人生 いつかしら僕よりも 母は小さくなった 知らぬまに 白い手はとても小さくなった 母はすべてを暦に刻んで 流してきたんだろう 悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに 運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど めぐる暦は季節の中で 漂い乍ら過ぎてゆく 忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の 母の人生
母はいつも私のために頑張ってくれた わがままな私 お母さんごめんなさいそしてありがとうです 母の日の私の言葉です
親孝行したい時には 親はなし。昔の人はいい事を言う😌そういう事を考え始める迄は 自分の家族の事や生活で目一杯なんだが、それも言い訳か?この歌を聴いて久しぶりに父や母の事を想いたい😞
いい歌だね〜 しみじみ
特養で仕事してますが、この曲がいつも頭の片隅にあります。まっさん、面会に来て!