みちのく漂雲の記
みちのく漂雲の記
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みちのく歴史紀行、吾妻連峰土湯峠、不戦を目指した峠は、戊辰東北戦争始まりの地になった
土湯峠は、標高1,240mの、吾妻連峰と安達太良連峰との鞍部にある。寛文9年(1669)、会津藩は物資を福島から阿武隈川の水運を利用し、江戸や大坂に送るため、福島と会津を結ぶ最短コースとしてこの峠越えのルートを改修した。
明治12年(1879)に里道一等に指定され、昭和4年(1929)に福島県道に編入された。その後昭和34年(1959)に磐梯吾妻道路が開通し、昭和37年(1962)には国道115号となった。
平成元年(1989)に土湯トンネルを含む土湯バイパスが開通し、現在の峠は、観光道路のスカイラインに抜ける観光ルートとして利用されている。
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みちのく歴史紀行、源義経逃避行-2、鳴子に啼き子伝説を残し、栗原寺-平泉へ
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義経一行は、本合海で舟を下り、現在の新庄に入った。当時は、現在の新庄の中心地は湿地帯で、鳥越八幡宮あたりが中心だったと思われる。 義経一行は、鳥越から東に進み、「亀割峠」を越えることにし、新田川沿いの道を進んだ。その途中、この判官神社の地で一休みし、後世、この地は「休場(やすんば)」と呼ばれるようになり、判官神社が建立された。 亀割山で、北の方が義経の子を無事に出産したため、今なお安産の神として信仰されている。この神社には弁慶が握ったという手形がついた石が伝えられている。 一行は身重の北の方を支えながら亀割山に分け入り、峠を越えたところで北の方は産気づき、やむを得ず大木の下に皮を敷き、お産場所と定めて宿にした。お産が始まり、北の方が水を欲しがり、弁慶が谷を下り、ようやくに水を見つけて汲んで戻った。しかしその時、北の方は息も絶え絶えだった。弁慶は汲んできた水を北の方に飲ませ、朝まで八幡...
みちのく歴史紀行、源義経逃避行-1、義経主従は鼠ヶ関に上陸し、最上川を遡った
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源義経は、兄頼朝から追われる身となり、文治元年(1185)11月、西国での再起を期して大物浦(だいもつのうら)から船出した。しかし主従は嵐に遭遇し、天王寺の浜に漂着した時、従うものは 愛妾の静御前のほか、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤忠信、伊勢三郎ら10数名に過ぎなかった。 一行は雪の吉野山にわけ入ったが、役行者以来の女人禁制の山であり、義経は弁慶らの諫言を入れ、静御前とは別れなければならなかった。義経は一時、中院谷(ちゅういんだに)に身を潜めていたが、鎌倉の意を受けた吉野山の衆徒が攻め寄せた。 このとき、平泉以来の郎党の佐藤忠信は、死を覚悟の殿を申し出、義経の身代わりとして、義経愛用の「緋縅の鎧に白星の兜」を身につけ、鬼神のごとき戦い、京の義経の館に戻り、鎌倉の六波羅勢と戦い討ち死にした。
みちのく歴史紀行、浄土庭園と弁慶の墓、伝説に生き伝説に消えた怪力無双の豪傑
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平泉の毛越寺境内に武蔵坊弁慶の墓と伝えられる五輪塔がある。文治5年(1189)、義経の居館、高館が攻められ、このとき弁慶は最後まで義経を守り、遂に衣川にて立往生したとされ、遺骸はこの地に葬られたという。後世、五輪塔わきに、中尊寺の僧が詠んだ歌碑も建てられた。    色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊 広く伝えられる弁慶の生涯は、『義経記』を始めとした、後世に成立した創作を基にしたもので、さらには江戸期の歌舞伎などにより拡散していったものと考えられる。当時の文献の吾妻鏡には、源義経の郎党として佐藤忠信らの名とともに「弁慶法師」「武蔵坊弁慶」の名が見られるが、出自や業績、最期等については全く触れられてはいない。
みちのく歴史紀行、幻の金山長慶金山、田代岳湿原のさらに奥、秋田藩が隠した金山
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秋田県能代市の長慶寺は、長慶天皇の伝説に関わる、幻の金山「長慶金山」の麓にあったとされる寺である。長慶金山は、田代岳より左奥にある長慶森から南に分かれた長慶前山を中心とした鉱山といわれている。この長慶寺はその田代から移ってきたと伝えられている。 田代岳山頂には田代山神社が鎮座している。津軽の猟師彦之丞が、獲物を追って田代岳山頂まで来たところ、そこで水田を発見した。呆然としているところに白衣白髭白髪の翁が現れ、この翁を白髭大神として祀ったのが、田代山神社の始まりと伝えられる。田代岳山頂付近には、「雲上のアラスカ庭園」と呼ばれる高層湿原が形成され、120を超す数の池塘が散在し高山植物の生息地であることから、その美しさから田代山信仰は始まったようだ。 仁寿2年(852)、慈覚大師が再興し、建武元年(1334)、陸奥兼出羽守の北畠顯家が、山麓の長慶金山を開発稼行し、田代山神社を再建、宝暦10...
みちのく歴史紀行、さすらいの長慶天皇、南北朝合一後の七戸周辺の暮らしの痕跡
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南朝方として活躍した八戸南部氏ではあったが、北朝方が優勢になるにつれ、南部氏の中心は次第に三戸南部氏に移りつつあった。八戸南部氏の第8代当主の南部政光は、明徳4年(1393)南北朝合一がされると、甥の長経に八戸の地を譲り、七戸城に移った。 七戸の南東方向およそ4里のところに鶴喰若宮八幡宮がある。この若宮八幡宮がある地を、地元の人々は天皇山と呼んでおり、南北朝時代に潜幸してきたといわれる長慶天皇の伝説を伝え、長慶天皇を祭神として祀っている。 長慶天皇は、南朝の勢力をもりかえそうと、南朝方の八戸南部氏を頼りこの地へ到った。しかし、すでに北朝方の勢力は大きくなっており、この地も安泰の地ではなかった。そのため、一旦津軽地方へ逃れ、後日また、この六戸の地へ戻って来たと伝えられる。
みちのく歴史紀行、気仙沼の皆鶴姫伝説、日本人は義経を愛し、周囲の悲しい女性たちをも愛した
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現在の気仙沼市を含む本吉地方は、金を産出し、また平泉藤原氏にとって重要な湊でもあり、藤原秀衡の四男の本吉四郎高衡が治めていた。この時期、平泉には源義経が身を寄せており、おそらくは義経は度々この地を訪れていると推測でき、義経にかかわる伝説が多く伝えられる。 源義経は源義朝の9男で、頼朝の異母弟であり、幼名を牛若丸と称した。父義朝は平治の乱に敗れ、母や兄弟とは離され、出家するべく遮那王と名付けられ鞍馬寺にあずけられた。しかし遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、金売り吉次の案内で平泉に向かう途中、近江国の鏡宿で自らの手で元服を行い、源義経と名乗った。 気仙沼市の観音寺は、前九年の役の際に源義家と戦った安倍の貞 の家臣の金氏一族の菩提寺であるが、義経の恋人である皆鶴姫の菩提寺として、義経の牌子が安置され、義経の使用したという笈が伝えられている。
みちのく歴史紀行、義経出陣・白河の関、庄司戻しの桜涙の別れはみちのく動乱の始まりだった
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福島県白河市 宿の白河関は、いわき市の勿来関、鶴岡市の念珠ヶ関とともに、奥羽三関と称される古代関で、白河の関は、古くより陸奥への関門として歴史にその名を残しているだけではなく、歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所で、西行や宗祇など、有名な文化人がこの地を訪れている。 前九年、後三年の役で知られる源頼義、義家父子はこの地から奥羽に入り、金売り吉次とともに平泉に向かう源義経もこの地から陸奥に入り、また義経は治承4年(1180)、頼朝の挙兵に駆けつける際にもこの地を通った。
みちのく歴史紀行、庄内の修験道金峯山、役行者が空を飛ぶ時代、自然への崇敬の中で神仏と出会った?
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金峯山は、庄内平野の南縁にそびえる海抜458mの、四季それぞれの趣を見せる名峰である。山頂からは鳥海山、出羽三山、日本海が見渡され、また眼下には鶴岡周辺の広々とした美田や点在する集落など、壮大な景観が広がる。国指定名勝として、庄内海浜県立自然公園にも指定されている。 金峯山の歴史は古く、天智天皇の時代(671頃)、役小角が山頂に金剛蔵王権現を祀ったのが始まりと伝えられる。 役小角は、舒明天皇6年(634)に、現在の奈良県御所市茅原で生まれたとされ、生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。17歳の時に孔雀明王の呪法を学び、その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
みちのく歴史紀行、和賀氏伝説は消えず、頼朝長子千鶴丸伝説、和賀氏滅亡後も本堂氏に伝えられる
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源頼朝の落胤の忠頼の子の忠明は、忠頼の死後、母方の刈田平右衛門に養育され、15歳のときの建歴2年(1212)に奥州和賀郡へ下向し、二子に城を建て、和賀氏となった。その後、鎌倉期・南北朝期・室町初期にかけて、毒沢氏・春山氏・成島氏・関口氏らが分派し、戦国期に向かっていくことになる。
みちのく歴史紀行、名家葦名氏断絶、九尾の狐の祟りか、七色稲荷が守る葦名家墓所
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かつては会津を中心に強大な勢力を誇っていた葦名家の墓所が、秋田県仙北市にある。 葦名氏は、相模の豪族三浦義明の子佐原義連がその祖とされる。三浦氏は治承4年(1180)の石橋山の合戦には頼朝を助け、その後の平家追討、奥州攻めにも参陣し、それらの戦功により佐原義連は会津、河沼、耶麻の諸郡を与えられた。 しかし「和田の乱」や「宝治合戦」において宗家三浦氏は滅亡した。この一連の争乱のなかで、三浦佐原氏は北条氏に与し没落をまぬがれ、三浦宗家の名跡は、佐原盛連の子盛時によって再興された。 盛連の四男の光盛が惣領となり、相模の葦名にちなんで、葦名氏を名乗るようになった。南北朝期、葦名直盛のときに会津に下向、その後、現在の会津若松城の地に館をつくり本拠とした。
みちのく歴史紀行、文覚上人・遠藤ヶ滝、時代の魁の聖人か、誇大妄想の破戒悪僧か
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福島県大玉村の遠藤ヶ滝は、不動尊が祀られた堂の脇から、杉田川渓谷の遊歩道を約30分登ったところにある。この滝は、昔、文覚上人(遠藤盛遠)が深山霊谷で滝に打たれ荒行を修めた場所といわれている。遠藤ヶ滝不動尊は山岳修行道場となり多くの修験者が訪れた。滝への途中には女人堂碑が建てられており、昔はその先に女性が足を踏み入れる事は禁じられていた。 遠藤盛遠は、摂津源氏傘下の武士団である渡辺党遠藤氏の流れで、俗名を遠藤盛遠といい、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていたが19才で出家した。この出家した理由はこの地では次のように伝えられる。 承安(1171~74)の頃、遠藤時遠の息子に盛遠という若武者がいた。盛遠には、源渡(みなもとわたる)という親友がおり、渡の妻は、袈裟御前(けさごぜん)と呼ばれる絶世の美女だった。
みちのく歴史紀行、新選組の山南敬介、宮城野の果て無き夢と、若き現実の挟間で
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幕末期に、新選組の総長として名を残しながら、結局は切腹して果てた山南敬介は、仙台藩出身で養賢堂で学んだと言っていたようだ。しかし、当時の仙台藩には、「山南敬介」の名はなく、また「山南」の姓も見られない。 近藤勇の天然理心流試衛館に他流試合を挑み、近藤勇に敗れた。この時、近藤の腕前や人柄に感服し、以後は試衛館の門人の、土方歳三・沖田総司・永倉新八らと行動を共にするようになった。 文久3年(1863)、将軍警護と尊王攘夷を目的に清河八郎が浪士組を組織すると、山南は近藤らとこれに参加して上洛した。芹沢鴨や近藤勇らは、京都守護職を務めていた会津藩預かりとなり壬生浪士組を名乗るようになり、山南は土方歳三と共に副長に就 した。
みちのく歴史紀行、順徳上皇の天子塚、佐渡に流された上皇の御陵、承久の乱異聞
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順徳天皇は、承元4年(1210)、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位したが、それまでと同様に、後鳥羽上皇による院政が継続される。 後鳥羽上皇は、源頼朝亡き後の政治を朝廷に戻そうとしており、順徳天皇は、父上皇以上に、鎌倉幕府打倒に積極的だった。順徳天皇は討幕計画に備え、承久3年(1221)4月に第三皇子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇となった。同年5月、父上皇の、執権北条義時追討の院宣を受けて承久の乱を起こしたが、倒幕は失敗に終わった。 戦後の7月、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、順徳上皇の子の仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位した
みちのく民話伝承、龍泉洞と宇霊羅山、龍の山に伝えられる小さな恋の物語
Переглядів 7218 місяців тому
龍泉洞は、標高604mの宇霊羅山(うれいらさん)麓にあり 、 全体が典型的なカルスト地形の中にあり、日本三大鍾乳洞の一つである。全長は2.5km以上とも5km以上とも言われており、現在、そのすべては確認されていない。水深98mの第3地底湖、120m以上ある第4地底湖等、全部で7つの地底湖を持っている。また龍泉洞の水は、世界でも有数の透明度であることでも有名である。 この龍泉洞の起源伝説として、次のような話が伝えられている。 昔、あるとき、宇霊羅山(うれいらさん)麓から、シュー、シュー、シューと変な音が聞こえだした。何の音か、その音は、だんだん大きくなるばかりで、一向に止みそうになく、昼も夜も、シュー、シュー、シューと鳴り続けた。
みちのく歴史紀行、尾去沢鉱山、光る怪鳥伝説と、貪官汚吏の権化の井上薫
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みちのく民話伝承、八郎太郎生誕伝説、十和田湖の主になった悲しみの八郎太郎
Переглядів 2088 місяців тому
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みちのく歴史紀行、島原藩松倉重頼の墓、弾圧に抗した切支丹一揆、島原の乱の顛末を伝える
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みちのく歴史紀行、会津の切支丹史跡、篤き信仰心は、石仏に紛れ込ませた
Переглядів 2698 місяців тому
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みちのく民話伝承、大蟹伝説の林観音堂、伝説も吞み込んだ大津波、復興後の新たな風景
Переглядів 648 місяців тому
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みちのく歴史紀行、長井伊佐沢の久保桜、妻を亡くし子も亡くし、家をも捨て桜を残した
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みちのく歴史紀行、佐竹義宣室の正洞院、熱い空回りの自害、佐竹家に悲しさだけを残した
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みちのく民話伝承、津軽の炭焼き藤太、民話が政治になった、津軽家家紋に咲いた近衛家の牡丹
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みちのく歴史紀行、戊辰駒ヶ嶺と旗巻峠、列藩同盟の崩壊と仙台藩最後の抵抗
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みちのく歴史紀行、戊辰浜通りの戦い、走りながらの戦い、心の勝利への意地の戦い
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みちのく歴史紀行、環海異聞世界一周、平民が見聞した世界、近代化には寄与できなかった
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みちのく歴史紀行、戊辰磐城の戦い、列藩同盟軍は、勝てるはずのない戦いを戦った
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みちのく民話伝承、犬の宮・猫の宮、ムジナを退治した高安犬、大蛇を退治したタマ
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みちのく歴史紀行、遠野郷の阿曽沼氏、南部氏の謀略、そして誰もいなくなった
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みちのく歴史紀行、遠野郷の阿曽沼氏、中央の情勢を見ながら、新しい世に対応できなかった
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КОМЕНТАРІ

  • @シバタ-c3r
    @シバタ-c3r 19 днів тому

    むごたらし戦

  • @kmdk3611
    @kmdk3611 21 день тому

    動画の最後に出てくる宗徳字の先が尖がった墓石は、杉山源吾の墓ではなく、その子の吉成の墓ですよ。 墓石にはっきりと『吉成』と彫られています。 源吾の墓は所在不明です。以前、宗徳寺の住職さんに直接お尋ねしたところ、源吾の墓は境内の何処かにある可能性もあるが、長い年月が経っており、はっきりとは判らないとの事でした。 杉山家を語る以上、大切な情報だと思うのでお伝えします。

  • @にゃると大先生
    @にゃると大先生 Місяць тому

    消さないでw生きてますよw

  • @Y.F.S.J
    @Y.F.S.J 2 місяці тому

    若狭にもやはり甲斐武田氏の分家若狭武田氏がいました。

  • @Y.F.S.J
    @Y.F.S.J 2 місяці тому

    山辺町観光協会の説明板によると、人々は信安公の治世を心から感謝して、玉主明神と尊称して仰ぎ見たと書いてあります。

  • @Y.F.S.J
    @Y.F.S.J 2 місяці тому

    チャンネルの話では武田信安は、京都から来たとなっているので、甲斐源氏の武田氏の分家の安芸(広島の)武田氏の出身でしょうか。京都には安芸武田氏がいたのですが。

  • @Y.F.S.J
    @Y.F.S.J 2 місяці тому

    武田信安公の霊廟の山辺町観光協会の説明板に、武田信安公は甲斐源氏、武田信玄公の祖父の弟とあります。説明板記載を省略...武田信安公は越前吉崎の本願寺八世の蓮如上人を訪ねて三年修行し、上人から「本西天興」法師の法名と「南無阿弥陀仏」の直筆の六字名号を授けられ、玉主明神と呼ばれた。この説明板の記載は、観光協会の公的な文章なのですが。

  • @釣り先生
    @釣り先生 2 місяці тому

    この手の話になると必ず西側の不備に行き着く実際山中を探索していただきたい。竜の口渓谷、金剛沢、笊川の深さや足場の悪さ、人が一人しか登れない様な狭く急進な稜線、大群で攻め入るのは不可能。どの稜線を登るにも、行き着く先は青葉台の一箇所。陣が待ち構えます。さらに広瀬川の城から見て対岸の地形を調べれば、川に降りられた場所はわずかです。ここも大群では無理です。述べられた愛子方面同様、南西の茂庭方面も迂回はかなり困難です。ちなみに、貞観地震での経済対策で、サンファンバウティスタ号の建造や塩竈中心の塩田開発、江戸へ送る米作りの水田開発に資金を注ぎ込んた。と聞きました。

  • @しょういちサイトウ
    @しょういちサイトウ 3 місяці тому

    アメリカ南北戦争にならなければ、イギリス、フランスの経済復興に利用される事もなかった。。

  • @shin-i-chikozima
    @shin-i-chikozima 3 місяці тому

    どうして日本人に恐怖感を持っていなかったのか不思議で仕方がない

  • @Jun-ou3nf
    @Jun-ou3nf 3 місяці тому

    長文です。 佐藤幸徳中将は英軍の将校の発言などで、軟弱な男、卑劣な男どと書かれていますが、お門違いも甚だしい。 佐藤中将はノモンハンなどの戦闘に参加した猛将でがる。 佐藤は決まってしまったインパール作戦の出発にあたり、主要将校を集めて訓示した... 「我々がひとたびインドビルマ国境を越えて進撃すれば、インド4億の民衆は、決然として我が方に馳せ参ずる。イギリスの圧政から解放される。これが歴史の必然というものである」 「今や我ら唯突進あるのみ、猛進あるのみ、挺進あるのみ以て上聖明に副え奉ると共に1億国民の待望に酬ヰんのみ。」 - 烈兵団長 佐藤幸徳 という一方、日本陸軍には珍しい近代的な合理主義者でもありました。   「元来私は玉砕などといった思想は持っていない。玉砕は作戦の失敗を意味するもので、名誉と考えるのは誤りである...食料。戦闘力の無い状態で頑張るのは馬鹿げたことで、そんな時は戦力の温存を図るべきである...」 「わざわざこちらからインドに攻め込まなくても英印軍は必ずアラカン山脈を越えてビルマにやってくる。マラリア患って未開の地をふらふら彷徨いながら出てくるのだから、労せずしてこれを一挙に補足殲滅できるではないか...」 とも言っていた。 まったくその通りである。 戦後英軍の将校が牟田口宛に手紙で「31師団が手薄なディマプールに攻め込んでいたら、英軍は危機に陥った...」と述べた。牟田口は天のお告げと喜んだ... そんな結果論をいまさら言っても仕方が無いのである。 それに31師団の目標はコヒマで、それより西に行ってはいけないと言う大本営命令があったのです。  それでも佐藤師団長は、「うちに友軍の飛行機が毎日3機来てくれたら、オレはディマプールやなくてカルカッタを占領するぞ!」と毎日言っていたそうです。 敵の鉄量は日本のそれと桁違いで、一発撃つと1000発反撃させらせる状態。 英軍はM4戦車を繰り出してくるのに、日本軍は日露戦争当時の31式山砲で砲弾は一日に数発だった。 敵の陣地を攻略し沢山の物資を鹵獲したのに反撃してきた敵の攻撃で破壊されたのだ。 英軍は援軍が増大する。日本軍は食糧は言うに及ばず弾薬も尽きた。 とりあえず、物資をチドウィン河を渡り、アラカンの山を越えて、人力で一つ一つ運ぶ日本軍とトラック数百台で舗装された道を運ぶ英軍。もう勝敗は決まっていたのである。 独断撤退で 更迭を受けた佐藤は、クンタンの軍司令部におもむき、対応した木下高級参謀に「牟田口はおるか?牟田口を斬る」と凄んだらしい。さいわい牟田口は前線視察にでかけていた。 「俺は多くの兵隊を食料も弾薬もないところで犬死させたくないのだ。兵たちが腹いっぱい食べられるところまで独断で退ってきた。 自分は軍法会議で銃殺覚悟でやって来た。オレの死によって兵たちを救わなければならんと思ったのだ。貴様ら無能な参謀にそれがわかるか...」と言って後を去った。 日本軍の将軍の多くは自分の功績を上げるために、将兵の屍をなんのためらいもなく無造作に積み上げるたのに対し、佐藤将軍は将校も兵も大切にしたのである。 一兵卒のコヒマ撤退の手記には佐藤師団長が登場する。 地下足袋に巻き脚絆。無精髭の大男がぬっと背後に立ってる。 師団長だ... 「今は撤退なのだ...体を大事にな...」と言って、タバコを1本づつ私たち兵隊すべてにわたしてくれた。(インパール 上村喜代治) 大樹の下で焚火をたいて暖をとっていると、体格のよい将校が無遠慮に割り込んできた... なんと師団長だった。「敬礼!」と立ち上がると、 「敬礼などよい。寒いんで、キンタマあぶりをさせてくれ...」 「ずいぶん苦労をかけたな。ウクルルまで頑張れよ。体を大事にな...」 タバコを焚火の小枝で火をつけて一服すうと、「まわしてすえよ」「くれぐらも体を大事にな...」 (列兵団インパール戦記 斎藤政治) その人柄が垣間見れます。

  • @lakeman6655
    @lakeman6655 3 місяці тому

    この時代では正しいグレイトな判断ですね。

  • @東雄輔-q1q
    @東雄輔-q1q 3 місяці тому

    不忘山、頂上の写真が動画にもありますが 眺望が良くてハクサンイチゲも咲き乱れて いい山なんですよね… 山形市に研究所があるとは初耳です。

  • @littlesun2896
    @littlesun2896 4 місяці тому

    😢😢😢日本の親友達の犠牲者を忘れない。 満洲の民族解放を実現することを祈り

  • @littlesun2896
    @littlesun2896 4 місяці тому

    ❤😢モングルは独立していることできた。 満洲の独立はまだです。 満洲😢

  • @shingoyoshikawa7594
    @shingoyoshikawa7594 4 місяці тому

    誤)腐臭 正)俘囚 この誤字はガッカリです。

  • @菅野勝敏
    @菅野勝敏 4 місяці тому

    細谷十太夫の陣羽織を真似たスカジャン作りたい!

  • @F1driver6809
    @F1driver6809 4 місяці тому

    ハルと招待された少女たちの姿を「安っぽいお人形さんの洋」と評しているとこを配慮して、省いてしますね。

  • @nsmt-s7j
    @nsmt-s7j 5 місяців тому

    貴重な映像ありがとうございました。

  • @信二-f9q
    @信二-f9q 5 місяців тому

    各地に伝承あるんだ

  • @鈴木三郎-u4l
    @鈴木三郎-u4l 6 місяців тому

    1:55 横浜住んでるけど、マジで共感する。

  • @kazuhikoikebe6102
    @kazuhikoikebe6102 6 місяців тому

    日本でキリスト教が流行らなかった理由が分かりますね。 自分が飼っていた鶏が絞められるのは、見るに忍びない。 実に八百万の神が宿る国の人々の情の発露だと思います。

  • @shoichironomoto25
    @shoichironomoto25 6 місяців тому

    波のギラギラで読みにくいよー😢😊

  • @izy01106
    @izy01106 6 місяців тому

    テレビ番組の映像を無許可で転載してる動画ばかりの中で、そのようなことはせず良い動画でした。

  • @散策ぶらタカセ
    @散策ぶらタカセ 7 місяців тому

    鎌倉軍、平泉軍共兵力、桁が違うとかんじます。

  • @林清英-d6k
    @林清英-d6k 7 місяців тому

    祖母から聞かされた3/10の悲惨な東京大空襲の話、火の中を逃げ回ったらしい、このB時の29の恐ろしさ 知らぬが仏とはこの事、墜落現場の慰霊碑などもっての外、どこにそんな義理立てが必要か判らない😓😓😓

  • @fumikami7341
    @fumikami7341 7 місяців тому

    最上義光の息女駒姫の悲劇は悲しい出来事です 理不尽極まりないないです。 池田輝政妹の秀次正室若政所(官位正二位)は連座を免れたようです。 京都三条にある瑞泉寺には、何度も参り手を合わせた次第です 秀次事件に関して調べ学びました。 最上義光他に秀次と親しかった大名、与力大名、家老大名等は、後の関ヶ原合戦でほぼ全員東軍方になったようです。 大名、武将らは内心豊臣秀吉を恨んでいたでしょうね。 何と言っても豊臣秀次は、正二位左大臣関白の官職ですから朝廷内では天皇の最側近及び豊臣政権内で独自の勢力を形成しつつあったようです。内政には秀次の決裁、承認が必要。 駒姫の肖像画を見るといつも切なくなります。母の大崎夫人の悲壮感もです。 山形に建立された駒姫、大崎夫人の菩提寺、駒姫のお墓の写真動画ありがとうございます。

  • @TIshida360
    @TIshida360 7 місяців тому

    この動画でガンガラ穴と紹介されている海蝕洞は正確にはガンガラ穴ではありません。象岩にうがかれた2つの洞窟です。ガンガラ穴はドローンか舟で海側から見なければ見ることはできません。上部は「賽の河原」と言われる岩場になっている岬の下部に空いた洞窟になっています。舟でその中に直接入ることができ、そのために小野茶右衛門が海賊船を隠したといわれる伝説につながっているのでしょう。

  • @junjikawaguchi2440
    @junjikawaguchi2440 8 місяців тому

    イザベラ・バードの紀行文の中で一番感動するのは、バード達が食事の為に鶏を買った所、暫くして売主の女性が鶏を買戻す為にお金を返しに来たと言うエピソードです。

  • @夏人ジェーニャ
    @夏人ジェーニャ 8 місяців тому

    有難うございます。5月のGW平泉は義経東下り…心君が義経役…、北条政子の夢に…金色堂を護れ…と顕れ 泰時は御成敗式目一条に…寺社の修理・建立…を定め→伊達綱村も伊達騒動の始末に中尊寺ゆかりの寺社を保護したと仄聞。 したと

  • @夏人ジェーニャ
    @夏人ジェーニャ 8 місяців тому

    有難うございます。GW平泉は義経東下り…福フッ君が義経役です…。

  • @安岡惠美
    @安岡惠美 8 місяців тому

    ありがとうございます。 日光金谷ホテルにイザベㇻ・バード女史が逗留したことは本で知りました。坂道をのぼった処にある金谷ホテルは今も当時のよすがを知ることができます。当時、バード女史が奥日光湯元まで行ったとなればなんとなんと勇敢な探検家なのだろうと思います。様々偏見の眼差しもありますが、このお話はとても好感が持てます。生け花と現代の投げ入れの違いに気づいたバード女史の美意識の変化とともに、野蛮と優雅について現代の私たちの感性に反省を促されます。ところで、写真のお雪さんは左手薬指に指輪をしておられますね。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 8 місяців тому

      >写真のお雪さんは左手薬指に指輪をしておられますね。< 詳しくみていただきありがとうございます。この写真は、当時の中流女性のイメージとして選んだものだったと思います。この「金谷ホテル」での多くの記述では、日本人の知性と感性に驚いているようですね。

    • @安岡惠美
      @安岡惠美 8 місяців тому

      @@みちのく漂雲の記 私たちも改めて先人の知性と優美さに学びたいと思います。良い機会を頂き有難うございます。

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke 8 місяців тому

    会津って松倉家の墓もあるんですね。竜造寺の墓もあるし。。 また行ってみたいです。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 8 місяців тому

      会津には、蒲生氏郷以来の切支丹史蹟が多ありますよね。猪苗代町の天子の欅などは感動モノでした。

  • @小栗上野介-c8v
    @小栗上野介-c8v 9 місяців тому

    京都守護職程度の出費で金庫が底をついていたことは別にして、頑迷な松平容保を中心に上士による厳しい身分制度を敷いた体制(高遠以来の九家が藩政を牛耳った)では、薩長のような下級武士の出番もなく、また、隣接の小藩からのおびただしい略奪、領内では過酷な重税などの一連の金策で地元周辺の農民からそっぽを向かれた会津では農民は藩を守るどころか、官軍に協力するものが続出する負の連鎖。金策の為にビスマルクに北海道を売ろうとするは、国内最大の贋金をつくるは、藩祖、保科正之の遺訓など守ろうともしない。 「ならぬものはならぬ」という議論不要、上司の命令絶対の藩風。さらに、実践経験もない筆頭家老、西郷頼母を総大将に、3000名の兵力を擁する列藩同盟軍が薩長軍700名の守る白河城の戦いを仕掛けたのにまさかの惨敗。この動画の先の戦いは、地の利があるはずの会津防衛戦でも、官軍側が多くの斥候を放ち、母成峠を突くことを決めるが、会津は、官軍の動きの監視を怠り、一日で峠を抜かれてしまった。挙句の果て、期待の佐川官兵衛(家老)までもが、精鋭1,000名を率いての出陣前夜に藩主から賜った酒に酔い、早暁に出撃が遅れて、会津攻防戦の最重要の戦闘である「長命寺の戦い」で大敗を喫した。 謹慎する徳川将軍家の命にも逆らう、松平容保の意地のせいで、多くの悲劇を生んだ会津戦争。この動画にあるように、必要のない戦いだったかもしれませんね。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      詳しくご覧いただきありがとうございます。仙台藩などの列藩同盟側の多くは富国強兵、開国を目指し、列強諸国の植民地主義に対応しようという中で、薩長を中心とした新政府軍は、すでに薩英戦争、馬関戦争などで、攘夷の愚かさを認識しながらも、戊辰戦争に入ってしまったのでしょう。その意味で「必要のない戦いだった」といえるでしょうね。ただし、新政府が旧体制を短時間で廃し、近代化を成し遂げたのは、薩長を中心とした新勢力の中の旧勢力をうまく近代的な民主的な勢力に置き換えることができたからかもしれません。

    • @小栗上野介-c8v
      @小栗上野介-c8v 9 місяців тому

      @@みちのく漂雲の記 さん 薩長肥などはかなり進んで考え方を持っていたと思いますが、日本の天皇制がその前提にあると思います。というより、そんなことを言ったのが会津出身の山鹿素行。古学の父と呼ばれた偉人ですが、中国では禅譲や放伐などの易姓革命で王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われていますが、万世一系の天皇が支配している日本ではそのような悲劇は抑えらえています。蛇足ですが山鹿素行は江戸幕藩体制の大成者でもある名君、保科正之に追放されています。

  • @中野博-l3o
    @中野博-l3o 9 місяців тому

    私の母親の地元旧泉藩でも陸路を重点的に警戒していましたが小名浜に薩摩兵が上陸し裏をかかれる形で退却しました泉藩は幕府側です戊辰戦争における磐城泉藩の戦死者は3名でした

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      >私の母親の地元旧泉藩< そうなんですか。戊辰東北戦争の記憶は、まだまだ生暖かく残っているようですね。

  • @shibamofumofu4983
    @shibamofumofu4983 9 місяців тому

    BGMの音量が大きいので下げてほしいです。 耳に障って、折角の話が入り辛いです。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      この先作成のコンテンツのBGMは、5ポイントほど音量を下げています。解説の少ないコンテンツでは、BGMの音量を上げるような希望もあり、どちらにも対応できるように、画面下部に文字を出力しておりますのでよろしくお願いいたします。

  • @西塚幸史-y2d
    @西塚幸史-y2d 9 місяців тому

    上がりきらないうちに 4:30 上陸を阻止する様な攻撃を加えなければ負けですね‥

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      新政府軍に対して、列藩同盟軍は、あらゆる面で準備不足だったようですね。

  • @山田国雄-s4m
    @山田国雄-s4m 9 місяців тому

    福島県は原子力緊急事態宣言を解除したら住めない地域か帰還困難区域。デブリの取り出しには300年掛かる。ALPS処理水は基準値を3割しか満たさない。戊辰戦争は未だに終わらず。薩長を帰還困難区域にしろ。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      >戊辰戦争は未だに終わらず。薩長を帰還困難区域にしろ。< 原発被害と薩長を結びつけるのは無理があると思いますよ。気持ちは少しはわかる気がしますが。

    • @山田国雄-s4m
      @山田国雄-s4m 9 місяців тому

      @@みちのく漂雲の記 核戦争が怖くないよ。日本全国が戦術核で帰還困難区域に成ったら本望だよ。薩長を帰還困難区域にしろ。

  • @fumikami7341
    @fumikami7341 9 місяців тому

    杉山源吾のエピソードとその子息のエピソードは薄っすらと認識してましたがこの動画で深く知識を得ました。 石田三成の子孫たちは血筋なのか優秀ですね。 秀吉座像は革秀寺で安置され白い布で包まわれ江戸期はずっと開帳することがなかったと認識しています。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      石田三成に対する津軽為信の実直さや、杉山源吾や辰姫に対する津軽信牧ら津軽人の思いに感激し、この動画を作成しました。

  • @市村雄基-w9n
    @市村雄基-w9n 9 місяців тому

    藤原実方は百人一首に載るほどの有名人です

  • @市村雄基-w9n
    @市村雄基-w9n 9 місяців тому

    最上は徳川と手を組んで正解だった

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      >最上は徳川と手を組んで正解だった< 最上藩改易までのプロセスを考えると、なにか割り切れないものを感じます。

  • @fumikami7341
    @fumikami7341 9 місяців тому

    初めて知るエピソードです。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      確定的ではありませんが、この航路の一直線に、日本の原爆研究の痕跡があるようです。

  • @みちのく漂雲の記
    @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

    この「伊達騒動-4」と間違って「伊達騒動-3」をアップしていましたので、修正アップいたしました。

  • @山田久夫-z1u
    @山田久夫-z1u 9 місяців тому

    多賀城は陸奧国衙ではない。多賀国府なる文言は六国史に存在しません。東鑑文治五年の条は虚構である。文治三年の頼朝奏上にある通り平安時代の諸国の国衙体制は平安時代の先例に任せ受け継がれた。従って陸奧国国衙も先例に従い国衙の長官は陸奧守である。日本史総攬ⅱ(新人物往来社)平安・鎌倉時代を通し間断無く陸奧守補任記録が確認できる、従って、陸奧国衙に留守職がおかれたとする「みちのく歴史紀行」誤りである。大伴家持の言上によれば多賀は名取以南十四郡から離れた場所にあった事が記されている。従って、現在多賀城跡とする場所は続日本紀にきされた多賀城跡ではない。勿論、同所から出土されたとされる多賀城は偽物である。偽物の根拠は神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任ぜられおらず、虚偽が記されている。 出土場所、碑文の誤謬から多賀城碑は偽物と考えて間違いない。安美美典氏の真贋論争「多賀城碑」でも江戸時代に作られた偽物と推定されている。 東北の歴史観は偽多賀城国府説により歪曲されてしまったのである。 六国史に記された本当の多賀城は大崎市宮沢遺跡と考えられる。貞観の大津波は海口から数十百里(約40~50km)内陸部の多賀城城下まで浸水させた。国土地理院地形図で標高を調べると大崎平野、宮沢遺跡付近まで海抜10m程度の低地が広がっていることが確認でき、貞観の大地震の記録文と矛盾なく合致する。 留守職が置かれた国の親王が国司の下向がななったために留守職がおかれた。例えば,常陸国や上野国などにおかれた。陸奧国に置かれた記録は見られない。南北朝動乱期の史料に陸奧国ないでの留守氏の活躍と会津の所領没収や虚空蔵楯で畠山氏と友に敗北したこと記されている。 残念ながら(名族留守氏、国府多賀城の守護者)とする説は妄説と考えられる。あまり、ネットで宣伝するような説ではない。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      山田さんご無沙汰でした。 >多賀城は陸奧国衙ではない。多賀国府なる文言は六国史に存在しません。東鑑文治五年の条は虚構である。< 以前、この件に関しては、議論の混乱を避けるために、山田さんの「国府」の定義を求めました。これに対し山田さんは「国司がいた場所」と、簡単明瞭にお答えになりました。もちろん、陸奥守だった伊達政宗が在城していた仙台城や若林城が「国府」のはずもなく、山田さんの「国府論」はその定義の段階から議論になりません。もしこのまま山田さんの「国府論」をお続けになるのなら、blog「みちのく悠々漂雲の記」mitinoku.biz/に数多く掲載している、大和朝廷の進出から、蝦夷の抵抗、多賀城の経済と交通、建設時の多くの伝説など、視野を広くご説明ください。

  • @moritaakira3802
    @moritaakira3802 9 місяців тому

    青森県の八甲田山を境に太平洋側は南部地方と言います。 東北町は津軽でもなく、津軽弁も話しません、南部と津軽は違います❗ 青森県は全部津軽ではございません、西と東はまったくの別物で今で中が悪いです

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      >青森県の八甲田山を境に太平洋側は南部地方と言います。< そうですね。ここは、南部地方から津軽地方周辺を周遊したとご理解いただければ幸いです。今後ともご愛顧のほどをよろしくお願いいたします。

  • @fumikami7341
    @fumikami7341 9 місяців тому

    みちのく漂雲さん こんばんわ 琉球・沖繩の歴史を学ぶ者にとってこのYou Tube動画リピートして視聴してます。 ・第二尚氏ルーツは、舜天王の孫の義本の系統。したがって清和源氏の流れを汲むものと言われてます。 ・時の天下人豊臣秀吉・徳川家康らは、琉球と明国との関係は、朝貢しなきゃ交易出来ないから朝貢してるだけの関係、形式的概念の関係だったと理解していたと思います。また日本をルーツにする遠く離れた南の島。明国は琉球に実質支配もしていない。明国自体ランドパワーの国なので海洋国の琉球を実質支配は無理と推測します。 ・敗れた尚寧王は徳川家康・徳川秀忠に拝謁する道中に使われる乗物は鳳輦だったようです。天皇しか乗れない興を乗せて国賓待遇と遇しました。 ・尚家の紋は左三つ巴だと記憶しています。 尚家の王が八幡社を深く信仰されたからとも言い伝えがあります。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 9 місяців тому

      >琉球・沖繩の歴史を学ぶ者にとってこのYou Tube動画リピートして視聴してます。< 沖縄やアイヌの文化を独自の文化、被害者の文化ととらえているところに大きな誤りがあると思いこの動画を作成アップしました。沖縄を被害者とする琉球処分などは、会津をはじめとした東北地方と比べればはるかに優遇されたものと思います。

    • @fumikami7341
      @fumikami7341 9 місяців тому

      ​​​@@みちのく漂雲の記 みちのく漂雲様 おっしゃる通りです。東北地方から比べると遥かに明治の琉球処分については厚遇されています。 琉球国を統治していた尚家は明治天皇から侯爵の爵位を受けて皇室の藩屏となりました。本来なら男爵から伯爵の爵位だと思います。 尚家の直系前当主・現当主を知る方から話を伺いますと、尚家の長い歴史で一番の光栄だったことは、中国から王の位を貰うことではなく明治天皇から爵位を受けたことが尚家の誇りであり光栄なことと述べておられました。 沖繩のマスメディア、県内大学、学者、研究者らが述べる被害者史観、華夷秩序史観には酷いものがあります。県民は洗脳に近いものがあります。 江戸期琉球国の安全保障を担っていたのは薩摩藩だったことと何度かの大飢饉の度に薩摩藩から多大なる支援・援助又琉球王府の財政悪化改善の為に島津氏が『薩摩藩の長崎商法』の実施、江戸期に首里城が焼失した際に薩摩藩から20000本近くの屋久杉の材木無償提供、五代秀堯の『琉球秘策 』全く教えません。沖繩県側からこのような記述がありません都合悪いのでしょうね。 よく耳にされる「琉球処分」というのは、五代秀堯の執筆したこの『琉球秘策』の「琉球ノ処分ハ…」という始まりの文言から生み出された造語であり、これが原因で戦後に多くの誤解が生じていると言われているようです。 正当な沖繩の歴史のYou Tube動画ありがとうございました。

  • @Emily-zs5yq
    @Emily-zs5yq 10 місяців тому

    石巻まで逃げられたなら義弟の北畠顕家が鎮守府将軍だったから安全だったかもしれませんね。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 10 місяців тому

      >石巻まで逃げられたなら< 石巻周辺には護良親王の伝説が各所に伝えられていますが、地元でも忘れられているものが多いようです。

  • @fumikami7341
    @fumikami7341 10 місяців тому

    興味津々な動画がいっぱいあるので他の動画も視聴させてもらいます。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 10 місяців тому

      >興味津々な動画がいっぱいあるので他の動画も視聴させてもらいます< 政治的にねじまげられている歴史が特に東アジアに多くあるように思っています。そのようなコンテンツも時々アップしようと思っております。

  • @user-xp7kj6sg6j
    @user-xp7kj6sg6j 11 місяців тому

    本2回読みました。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 10 місяців тому

      現在の日本人の多くにも、当時の日本人の生きざまを見習ってほしいと思います。

  • @BLUE-cz9pk
    @BLUE-cz9pk 11 місяців тому

    素晴らしい動画を作成していただき感謝いたします。 郷土史のことを深く知ることができました。

    • @みちのく漂雲の記
      @みちのく漂雲の記 11 місяців тому

      今後ともご愛顧のほどをよろしくお願いいたします。