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薩摩琵琶同好会
Japan
Приєднався 9 лют 2022
薩摩琵琶同好会は、大正十三年五月十一日に薩摩の古来の正しい薩摩琵琶を継承発展させるため、鹿児島在住の琵琶同人が結集し、発足致しました。鹿児島市山下町の四恩館での発会式を兼ねた第一回弾奏会は、樺山資光(迷悟もどき)、赤崎尚志(松囃)、松下正治(武蔵野)、福島三郎(灘廻)、濱田天村(月下の陣)、森永一(月華)、武田一雄(じ蛾)、飯牟禮寿長(老蘇の森)、萩原秋彦(花紅葉)、湯前敬介(小督)、浜田隆一(広瀬中佐)、有馬純雄(墨絵)、若松長義(台湾入)、飯牟禮寿長(乃木大将)が参加され、小夜の更けゆくにつれ、撥音も冴え、聲も澄みて、満座をして緊張せしめたのは往時の座頭講に見える図であったと、記録されています。
第71回市民文化祭参加 島津義秀「木崎原合戦三段」1
元亀三年(1572)五月日向の宿敵伊東義祐の軍を木崎原において大敗せしめ島津氏九州制覇の基礎を築いた木崎原合戦の様を五段の語り物としたものである。作者はわからない。初段にはこの合戦の原因となった伊東勢の木崎原に討って出る趣き、及び野尻城主福永丹波守祐友が伊東義祐に出陣を思いとどまるように諫言したが、いれられなかったこを述べる。第二段は飯野城主島津忠平の軍勢が木崎原に伊東勢を迎え討つ壮烈な合戦場面、三段は勇将柚木﨑丹後守の自害の様と伊東義祐の敗退、四段は伊東義祐が福永丹波守を攻める次第、五段は福永丹波守と内山城主野村重綱とが紙屋の里に落ち行くまでを述べる語り物である。
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第71回市民文化祭参加 山下剛「城山」1
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勝海舟(1823-1899)作の琵琶歌「城山」によって、薩摩琵琶は薩摩大隅のローカルな特殊な文化財であったものが、全国的なものとなった。また「城山」は、薩摩琵琶のレッテルとなり、一面、西郷隆盛並びに薩軍に対する鎮魂歌となった。「城山」は、明治16年の夏、勝海舟の友人高﨑正風が、たまたま上京中であった薩摩琵琶の名人西幸吉を高﨑邸に招いた際、勝海舟が西の弾奏した「小敦盛」「武蔵野」を聴き、感動のあまり涙を流しながら、あわせて西郷の偉さについてしみじみと語ったことが縁となり、西に「ひとつあなたにお願いがある。私は西郷の城山陥落の歌を作ってみたいから、あなたの琵琶で、永く後世に残してもらいたい。宜しく頼みます」と語った。同席の高﨑正風が歌詞の添削を引き受けることとなった。勝は文章家であったので、出来上がったものに、高﨑はわずかな手入れをすれば良いというつもりであった。西南の役戦後、四年目に西...
第71回市民文化祭参加 濱田眞民「妙円寺詣りの歌」2
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徳川家康の東軍と豊臣側の石田三成の西軍が戦った「関ケ原の戦い」(1600年)、島津義弘は京都に居り太閤検知からの縁で親しかった石田三成側の西軍に加わった。島津家当主の義久と忠恒は動かず、九州での加藤清正に攻められた宇土の小西勢には加勢した。妙円寺詣りの歌は、関ケ原合戦で西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊が、敵中突破による前進退却を多くの犠牲を出しながら決死の「島津の退口」を勇猛にも成し得たことを称えたものであり、義弘公の菩提寺である妙円寺に鹿児島城下の武士たちが40kmと歩き参拝したことを記念して作られた。 鹿児島の南日本新聞社の前身である「鹿児島新聞社」が大正四年に懸賞付き募集で発表したものであり、池上真澄の作詞に佐藤茂助が作曲した。 外様大名である薩摩には、関ケ原関連の琵琶歌は無い。そこで、この歌を琵琶調で弾奏したものである。
第71回市民文化祭参加 赤崎紳一「木枯」1
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琵琶歌「木枯」の作者:土屋大夢(1866-1932)本名:元作、豊後国日出藩出身、時事新報社、大阪毎日新聞社、大阪朝日新聞社、東京朝日新聞社、大阪時事新聞社に勤めたジャーナリスト、文筆家。韓国、南満州を視察、1909年には二度の世界一周旅行をしている。薩摩琵琶の名人である永井重輝は関西居住であり、永井の愛器「伴どん琵琶-木枯」での琵琶音に触れ感動し、この琵琶「木枯」を題した琵琶歌を作成したと思われる。松尾芭蕉の同期の江戸時代前期の俳人の池西言水に「木枯の果てはありけり海の音」がある。
第71回市民文化祭参加 岡田浄教「小督」1
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平家物語中最も詩的な一挿話として有名な小督の条を歌う。高倉天皇の寵愛ことにめでたかった小督が平清盛の威勢の主上に及ぶことを恐れ、嵯峨野の奥に隠れたのを、主上が源仲国に命じてその所在をたずねさせ、仲国は小督の奏でる琴の音にみちびかれて、その隠れ家に至ると言う筋立てである。作者高崎正風は鹿児島生まれ。八田知紀門下の歌人としてしられた。明治二十一年御歌所設置にあたり、初代の所長となった。
第71回市民文化祭参加 天吹同好会1
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天吹は、布袋竹(ほていちく、鹿児島ではコサン竹と呼ぶ)の根に近い部分を使います。長さ三十センチ、直径約二センチ、三つの節と表に四つ、裏に一つの孔が開いています。管尻から一節の間が指二本、一節と二節の間が指四本、二節と三節の間が指六本、そして三節から歌口までが指四本分の間隔と伝えられており、三節と二節の節は抜かれ、一節は三ミリ程度の孔があいています。全体としては尺八を小さくしたような感じですが、尺八と決定的に違うのは歌口の構造です。尺八は外側(皮目)を削り作製しますが、天吹は内側を削り皮目を残します。自然の竹をしかも指何本分というようなおおまかな作り方ですので、当然一本一本の音は違っており、完全な独奏楽器です。音色は「小鳥がさえずるような・・・」と例えられるように可憐な音がしますが、実際吹いてみると音を出すのはなかなか容易ではなく、一番難しい楽器とも言われています。吹けば吹くほど聞けば...
第71回市民文化祭参加 永島山斗士之「木枯」
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琵琶歌「木枯」の作者:土屋大夢(1866-1932)本名:元作、豊後国日出藩出身、時事新報社、大阪毎日新聞社、大阪朝日新聞社、東京朝日新聞社、大阪時事新聞社に勤めたジャーナリスト、文筆家。韓国、南満州を視察、1909年には二度の世界一周旅行をしている。薩摩琵琶の名人である永井重輝は関西居住であり、永井の愛器「伴どん琵琶-木枯」での琵琶音に触れ感動し、この琵琶「木枯」を題した琵琶歌を作成したと思われる。松尾芭蕉の同期の江戸時代前期の俳人の池西言水に「木枯の果てはありけり海の音」がある。
第71回市民文化祭参加 室谷治代「墨絵」
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琵琶歌作者:諏訪兼利は島津家第十九代島津光久の家老であり、歌人として知られている。琵琶歌「墨絵」は、世間の無常を説き、仏法の功徳を述べて仏道へのすすめを歌う。古来端唄の王とされて来た名曲である。冒頭の「心とは何を云うらん不思議さよ墨絵に書きし松風の音」は、琵琶歌「木枯」にも使用されており、道歌である。この形とほぼ等しいものに後撰夷曲集・十・釈経に「心とは何をいふらん不思議さよ墨絵にかける松風の音」(夢窓国師)がある。
第71回市民文化祭参加 吉田雅章「赤壁」
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琵琶歌作者は、香川景樹(1768-1843)。因幡国(鳥取県)の生まれ。若くして百人一首の注釈を手掛け、儒学を学ぶ。26歳の時、学者を志し、大阪を経て上洛、本居宣長や小沢蘆庵に邂合し、歌人として身を立てる。斬新な歌論を展開した。桂園派と呼ばれる。琵琶歌「赤壁」は、蘇軾(東坡)の著名な「後赤壁賦」を画いた絵に題した長歌反歌を、琵琶の詞章にとりなしたもので、原作は景樹の歌集「桂園一枝」に見える。「鶴の毛衣」は鶴の羽で作ったという衣服。隠者などが着る服である。この歌、後赤壁賦に、蘇軾が再び赤壁に遊んだその夜の夢に、羽衣をまとった一人の道士の訪問をうけ、問答をして、その道士が赤壁の遊びの折、近くを鳴きながら飛びすぎていった鶴だと思いあたるという旨の条があるのにもとづくと思われる。 )
第71回市民文化祭参加 白尾國英「松囃」
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琵琶歌の作者は、薩摩藩初代藩主:島津家久(忠恒1576~1638)。正室は島津義久の娘の亀寿である。和歌、連歌、茶の湯を嗜み、武術は、示現流の流祖:東郷重位に学ぶ、文武両道の藩主である。島津家初代の惟宗忠久(1179-1227)は、源頼朝より島津荘(日向)下司職に 命され、更に守護職となったが、京都の近衛家は島津家と島津荘の本家であり、長い期間の絆を保持している。薩摩という中央政権の手の届きにくい僻地でありながら、海に面し、海外の情報に接しやすく、また、京都の文化にも敏感であり、文化的素養も家久は豊かであり、年の初めを寿いでいる。「島津に暗君なし」
第71回市民文化祭 竹内ゆい・路美子
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薩摩琵琶歌「金剛石」は、明治20年3月の昭憲皇太后作唱歌です。華族女学校(現在の学習院)に唱歌を下賜されました。良き友と勉学をはげもうと教育指針を示されています。薩摩琵琶初心者は、必ずこの曲を最初に習います。小学校五年生の竹内ゆいが歌に挑戦致しました。鹿児島の四百年来の伝統である薩摩琵琶。皆さんも気軽に参加ください。
第71回市民文化祭参加 田中拓哉「送別」
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作者:吉水経和(1845-1910)は、14歳から薩摩藩士郷田正之丞、後、中村四郎太から琵琶を学んだ。明治3年26歳で藩校造士館から遊学のため上京。明治十年西南の役の後、薩摩琵琶研究会を西幸吉と設立。日本の近代化とともに大衆に受け入れられる薩摩琵琶を模索した。古来薩摩琵琶は、人士の教育の場である郷中教育に用いられており、西幸吉の純粋正派琵琶とは異なる道を歩むこととなった。明治政府では御歌所に出仕し、当時、海外へ派遣される人々の為にこの琵琶歌「送別」を作ったと思われる。
第71回市民文化祭参加 榊順子「春日野」
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島津日新(1492~1568)作と伝えられる古歌です。めでたい句を重ねた祝言の曲となっています。春日野にようやく芽吹き始めた若草ので始まる。新古今和歌集に載せる「春日野の下萌えわたる草の上につれなく見ゆる春の淡雪」(権中納言国信)の歌によると思われる。「秋津国」は秋津洲と同じで日本の別称。近年は、国際情勢の多難や異常気象を感じさせますが、日本は「五風十雨」「時津風」ちょうどよい頃に吹く風、五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降るなど順調な気象を得て、天下泰平の世でありたいものである。
第49回秋季薩摩琵琶弾奏大会山下剛(小敦盛二段)
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源平一の谷合戦における敦盛の最後を島津兵庫頭忠平(島津義弘)公が、二段の語り物に構成したものである。薩摩は昔より「上井覚兼日記」にも見られるように能楽をよく楽しみ、京都の文化に通じており、この「小敦盛」も幸若舞曲との縁の深さを思わせる。初段は、敦盛一の谷のいでたちから、熊谷直実が敦盛に戦いを挑むまでを叙し、二段では源氏の武将、成田・平山・蒲生・佐々木・武蔵坊など源氏一族の声々の中で、敦盛の最後を叙す。
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