東北未来ウォーカー
東北未来ウォーカー
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【 古きを訪ね 新しきを知る 】会津フットパス「善龍寺奈与竹碑を巡る」
歴史・文化が残る魅力あふれる会津は、多くの観光客が押し寄せる人気のスポット。
そこには、見るものを飽きさせない驚きの風景や歴史など他とは違う見所が満載です。
今、会津で人気を集めている「会津フットパス」を柗井 綾乃様にご体験いただいております。
[コース紹介]
善龍寺奈与竹碑を巡る
鶴ヶ城体育館→小田山忠霊堂→芦名家廟所→恵倫寺→建福寺→善龍寺
▼「会津フットパス」HP
aizu-footpath.com/
▼「会津フットパス」を紹介している他の動画もございますので是非ご覧ください。
ua-cam.com/video/hL2mzrZ2yqw/v-deo.html
[フットパスのルール・注意点]
その地域で培われてきた景観の中を歩くことになります。
⾵⼟や⽂化を維持管理してきた地域の⽅々への敬意を忘れずに楽しんでください。
・出会った⽅へ挨拶をしましょう。
・ゴミは持ち帰りましょう。
・動植物や⽥畑に植えられた作物、草花等を採取しないでください。
・家畜や農具などに触れないようにしましょう。
・⽥畑や樹林地、屋敷地等の私有地に⽴ち⼊らないようにしましょう。
・気象条件の変化や野⽣動物には気を付けましょう。
・特に⼭あいの樹林では蜂や蛇、毒虫等にご注意ください。
#会津 #観光 #歴史  #文化 #人気 #フットパス # 柗井綾乃
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Відео

【絵付けを体験】大林素子が紹介する「会津絵ろうそく」
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北国の厳しい冬に彩りを与える華やかな「絵ろうそく」花がない会津の冬に人々は「絵ろうそく」を花の代わりとして飾り春の訪れを心待ちにしていました。 江戸時代中期の明和年間創業以来、昔ながらの技法を受け継ぎ「絵ろうそく」を作り続けている 山形屋本店様を会津若松市観光大使である大林素子様にご紹介いただきます。 ▼会津絵ろうそくの制作過程や山形屋本店10代目薄(うすき)様の想いなど、守り継がれる伝統工芸品「会津絵ろうそく」を詳しく紹介している動画もございます。 是非こちらもご覧ください。 【伝統の火を灯し続ける】会津絵ろうそく ua-cam.com/video/86aD_T3JwLA/v-deo.html [会津絵ろうそくの歴史] 会津におけるろうそくの歴史は古く、今から約500年ほど前、 当時の領主芦名盛信が漆の植樹・栽培を奨励したことに始まったといわれています。 漆樹の樹液は漆塗料となり、...
【地域の魅力発見!】大林素子が巡る会津フットパス
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歴史深く自然豊かな会津は、多くの観光客が押し寄せる人気のスポット。 そこには、見るものを飽きさせない驚きの風景や美味しいグルメ、地元の方の温かいおもてなしがあります。 今回も、会津で人気を集めている「フットパス」の魅力を前回に引き続き大林素子様にご紹介いただきます。 [コース紹介] 飯盛分店駐⾞場→大龍寺→いにしえ夢街道→天寧寺→新選組隊⻑墓→いにしえ夢街道→会津慶山焼→飯盛分店駐⾞場 [撮影店舗] ■会津慶山焼 株式会社やま陶 0242-26-2507 ■りんどん 0242-29-7171 ■おにやんま 0242-85-7789 ▼10/26(土)にイベントも限定開催予定、詳しくは「会津フットパス」HPでご確認ください。 aizu-footpath.com 【イベント概要】 2024年10月26日(土)限定開催! 1年を通してこの時期にだけ体験できる洞門くぐり & 飯盛山フットパス...
【会津のひとが 会津でつくり 会津でひらく こだわり朝市】あいづ朝市編
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【伝統の火を灯し続ける】会津絵ろうそく
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会津におけるろうそくの歴史は古く、今から約500年ほど前、当時の領主芦名盛信が漆の植樹・栽培を奨励したことに始まったといわれています。 漆樹の樹液は漆塗料となり、その実からは蝋が採取されたため、以来「漆器」と「ろうそく」は会津の誇るべき産業となりました。 その後、江戸時代には藩主である松平氏が財源として活用した為、会津産のろうそくは日本中に行き渡りその品質の良さは広く世間に知られることになりました。 さらに、ろうそくに絵を付けた絵ろうそくが考案され、当時の大名や神社仏閣等で長年愛用されてきました。 特に婚礼の際には一対の絵ろうそくが灯され、これが「華燭の典」の語源になったともいわれています。花のない寒い会津の冬には仏壇に供える花の代わりに絵ろうそくを飾るようになりました。 撮影店舗 : 会津絵ろうそく 山形屋本店 電話番号 : 0242-22-5769 #伝統工芸品  #伝統技術  ...
【鎮魂の祈りを後世へ】会津慰霊祭
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近代日本に繋がる明治維新の戊辰戦争で戦死した会津藩士殉難者の埋葬は先人の血の滲むような努力により1869年に始まりました。 先人の思いを引き継ぎ戊辰殉難者の霊魂をまつるために長い歳月を重ねながら関係者の多大なるご尽力により行っている祭典(慰霊祭)になります。 [撮影場所] ・飯盛山 ・長命寺 ・善龍寺 ・阿弥陀寺 [白虎隊墓前祭 秋季祭典] ▼公共財団法人会津弔霊義会様のHPより要約・一部抜粋引用 飯盛山には、会津鶴ヶ城を望んで自刃した白虎隊十九士、各地で戦死した白虎隊士のほか 同時期に戦死した少年武士らが祀られています。 白虎隊の霊を慰めるため、公益財団法人会津弔霊義会様主催のもと 飯盛山の白虎隊士墓前で毎年4月24日と9月24日の春秋2回、白虎隊墓前祭を行っています。 [戊辰殉難者長命寺 秋季祭典] ▼公共財団法人会津弔霊義会様の活動のご案内より要約・一部抜粋引用 長命寺は、戊辰...
飯盛山地区周辺の魅力 【きはらんしょ】春も絶景の会津へ
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福島県会津地方には桜の名所が数多くあり、 特に飯盛山地区には山々を背景に情緒溢れる風景や、 昔から人々に愛され続けている自然など寒い冬を経て咲く桜は絶景です。 例年4月中旬から下旬に掛け見頃になり、多くの人を楽しませてくれます。 「時間によって趣が変わる桜」や「風情を感じる桜」をお楽しみください。 [ 撮影場所 ] ・石部桜 ・飯盛山の太夫桜 ・飯盛山地区 [ 石部桜 ] 大河ドラマ『八重の桜』のオープニングに登場した桜です。 樹齢約650年のエドヒガンで中世会津の領主葦名氏の 重臣、石部治部大輔(いしべ じぶだゆう)の庭にあった桜と伝えられています。 10本の幹からなる枝張は広いところで約20m、雄大に枝を広げるその姿は圧巻です。 [ 飯盛山の太夫桜 ] 飯盛山に咲くエドヒガンで石部桜と共に会津の二大老樹の一つとされています。 寛永3年(1626年)蒲生忠郷公在城の頃、 若松城下の...
伝統の復活!懐古の情がわく出ヶ原和紙
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西会津町にある出ヶ原(いづがはら)集落。 その名はかつて伊豆の国から来た者が紙漉きを伝えたことに由来しています。 出ヶ原和紙は西会津町出ヶ原地区を中心に作られ、 江戸時代には会津藩の公文書用紙に使われていたといわれています。 一度は生産が途絶えたこの和紙を先人の想いや流れを引き継ぎ 滝澤徹也氏と地元有志が復活させました。 西会津町で育まれた材料を使い、多くの工程を伝統的な方法で すべて手作業で行っています。 和紙づくりの特集は数あれど、 ここまで密着させていただいた撮影動画はあまりないものと考えています! 数日に渡って滝澤徹也氏のご協力の元、完成しました本動画を是非ご覧ください。 [作業工程] 1.楮(姫楮)/蒸し剥ぎ 2.すべ取り/雪晒し 3.煮熟/チリより 4.手打ち/叩解 5.舟水づくり/紙漉き 6.圧搾/紙干し
飯盛山地区周辺の魅力・飲食店舗編:飯盛山周辺の旨い店 ポタジエ様
Переглядів 4379 місяців тому
飯盛山地区周辺のお店や飲食店をご紹介する企画動画! 【飲食店舗編:ポタジエ】 飯盛山周辺に旨い店あり 地元の野菜を使った シェフこだわりの 料理の魅力をお伝えいたします! 🏯会津若松市の飯盛山周辺は歴史観光グルメが豊富✨ 😋地元の方の舌をうならす名店「レストラン ポタジエ」のご紹介! 🥬地元の農家が作る野菜を味わうことができるコース料理が提供されています! 👨‍👩‍👦‍👦 女性客や家族連れなど多くのお客様が訪れています✨ 🏠 「レストラン ポタジエ」は飯盛山から歩いて5分ほどの場所に位置し、シェフの渾身の料理を楽しめるお店です✨
飯盛山地区周辺の魅力・飲食店舗編:飯盛山周辺の旨い店 お食事処 更科様
Переглядів 6859 місяців тому
飯盛山地区周辺のお店や飲食店をご紹介する企画動画! 【飲食店舗編:お食事処 更科 様】 飯盛山周辺に旨い店あり 魅惑のソースかつ丼の魅力をお伝えいたします! 営業時間 : 11:00~15:00 定休日 : 毎月第2水曜日 🍜 会津若松市の飯盛山周辺は歴史観光グルメが豊富✨ 🍛 男性からの人気高い創業40年の中華料理店「お食事処 更科」のご紹介! 🥢 看板メニューはソースカツ丼で、40年間変わらぬ味が特徴! 👨‍👩‍👦‍👦 地元住民やサラリーマンなど多くの客が訪れています✨ 🍲 もやしラーメンや持ちラーメンも人気で、体を温める冬の味覚として愛されています 🏠 「お食事処 更科」は飯盛山から歩いて5分ほどの場所にあり、優しいご夫婦がお客様をお迎えしています✨
飯盛山地区周辺の魅力・店舗編:飯盛分店様
Переглядів 76910 місяців тому
飯盛山地区周辺のお店や飲食店をご紹介する企画動画! 【店舗編:飯盛分店 様】 戊辰戦争で自刃された白虎隊ゆかりの地として知られる飯盛山の山上で 150年以上前から茶屋・土産店を営んでいる飯盛分店様の紹介動画です。 フリーリポーター:鈴木 美伸(すずき みのぶ) さんに 白虎隊墓守第5代目のオーナーにナビゲーターいただき 会津・飯盛山の魅力をお伝えいたします! 🎶 飯盛分店のすぐ上に白虎隊士のお墓があり、お店があるのはお墓を守るためです。 🎵 店内には白虎隊の資料も展示されています。飯盛山自体は1700年前の前方公園墳でもあり、地元の歴史も学べます。 🍛 店内で会津ならではのグルメも楽しめます。特にソースカツ丼が人気です! 🎶 人気のお土産トップ5をご紹介✨ 🎵 会津餅はゆべしは全国のお菓子の博覧会で名誉金章を受賞!歯応えがあり、懐かしい美味しさです。 👨‍👩‍👦‍👦 飯盛山から会津若...
飯盛山地区周辺の魅力・店舗編:会津慶山焼様
Переглядів 63910 місяців тому
飯盛山地区周辺のお店や飲食店をご紹介する企画動画! 【店舗編:会津慶山焼 株式会社やま陶 様】 歴史を紡ぐ伝統工芸を伝える会津慶山焼 株式会社やま陶様の紹介動画です。 福島県伝統的工芸品指定を受けている窯元で 会津若松で唯一の窯場を持つ株式会社やま陶 様です。 フリーリポーター:鈴木 美伸(すずき みのぶ) さんにナビゲーターいただき 会津慶山焼の魅力をお伝えいたします! 🎶 飯盛山から車でおよそ5分、繊細な色合いの陶器が並んでいます✨ 🏺 会津慶山焼は鶴ヶ城の屋根瓦が始まり、時代を経て土の質が特に重視されています! 🎨 上質な土と淡い色合いな陶器が人気を集めています! 🌸 ピンク色の陶器シリーズも人気で、不規則で淡い模様が桜吹雪を思わせます🌸 👪 陶芸教室では修学旅行や親子での参加が多く、手作りの体験が楽しめます✨ ✨ 完成した茶碗は店舗で焼き上げられ、手作りの良さを体感できます!
第1回 郷土を歩こう!歴史ウォークフットパス イベント編
Переглядів 56410 місяців тому
第1回 郷土を歩こう!歴史ウォークフットパス 開催の様子です! 日時:2023年10月21日(土) 7:00~12:30(予定終了時間) 集合場所:飯盛分店第2駐車場(あいづ朝市会場)      会津若松市飯盛3-15 [イベント概要] 地域魅力再発見を目的としまして、地元で10年以上ボランティアガイドのご経験のある鈴木氏を招聘し分かりやすいガイドをいただきながらフットパスコースを歩きます。 ※飯盛山地区界隈の、地域の皆様のご協力を得ながら実施致します。(地域の皆様感謝申し上げます。) 午前の部#01 集合/7:00 コース散策(約2時間程度):7:30~9:30 午前の部#02 集合/10:00 コース散策(約2時間程度):10:30~12:30 ※各定員:30名 参加費用:500円 ※モニターイベント価格です。 本イベントは、地域の皆様のご協力を得ながら当委員会が企画・運営を行う...
飯盛山 戸ノ口堰洞門くぐり編
Переглядів 1 тис.10 місяців тому
会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃れてきた洞穴です。 ▼戸ノ口堰土地改良区様のHPより要約・一部抜粋引用 戸ノ口堰の起源は、八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎 内蔵之助という人が猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考えから 時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、 藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったといわれています。 江戸時代 1623年(元和9年)から1693年(元禄6年)の間に、 開墾からはじまり猪苗代湖から飯盛山まで水路が延伸しました。 さらに、1832年(天保3年)戸ノ口堰の大改修が行われます。 当時、他の堰(雁堰)からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等 として利用していましたが、日照り等の気候条件が重なると 渇水してしまい、安定的な水の確保ができにくい背景がありました。 会津藩から5万5000人を集めて大改修です。 開路後、212年経過。...
会津フットパスPV
Переглядів 64310 місяців тому
福島県会津若松市飯盛山地区で2023年10月に開催しました 第1回 郷土を歩こう!歴史ウォークフットパス PV動画です。 少しでも地域の魅力が伝わると嬉しいです。 ▼ホームページはこちらです。 是非ご覧になってくださいますと嬉しいです。 aizu-footpath.com/
大林素子が語る「会津 飯盛山地区」歩いて地域の魅力発見『フットパス』#02
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大林素子が語る「会津 飯盛山地区」歩いて地域の魅力発見『フットパス』#01
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大林素子が語る「会津 飯盛山地区」歩いて地域の魅力発見『フットパス』#01

КОМЕНТАРІ

  • @けんちゃん-n1e
    @けんちゃん-n1e 4 дні тому

    もっと会津の歴史を知りたくなりました😊 柗井さんのphotoも素敵です📷✨

  • @佐藤光一17
    @佐藤光一17 2 місяці тому

    大林素子さんは歴女、会津っ子になってしまった? 頑張って下さい!😁

  • @佐藤光一17
    @佐藤光一17 2 місяці тому

    50年前、高校時代の遠足から飯盛山に行ってないな~😂 悲劇の場所だから足が進まない😢

  • @佐藤光一17
    @佐藤光一17 2 місяці тому

    大林素子さんは会津っ子になってしまってるな~ 歴史には、うとい私だが若松に帰省すると心が落ちつきます😁

  • @佐藤光一17
    @佐藤光一17 2 місяці тому

    50年前の高校時代に遠足で飯盛山に行ったよ、階段を登り振り返ると若松市内が見るから、いいんだな~! 大林素子さんは会津っ子になているよ😁

  • @makaiouzi
    @makaiouzi 2 місяці тому

    旅の予算(笑)

  • @のん-s6n8e
    @のん-s6n8e 3 місяці тому

    会津で朝市が開催されているのは知りませんでした。ほんわかした雰囲気が伝わってきて、行ってみたくなりました!また、こだわりの農家さんもとても印象的でした。いつも素敵な動画をありがとうございます!

  • @上田正利-o2f
    @上田正利-o2f 6 місяців тому

    戊辰戦争の歴史的を改めて知り、日本の歴史勉強しました、ありがとう御座います、機会有れば是非再度訪問したいですね、ありがとう御座います、

  • @高橋雄一-d6r
    @高橋雄一-d6r 8 місяців тому

    会津の未来に想いを寄せ、尊い命が当時、白虎隊の年齢で13~14歳の白虎、他 青龍、朱雀隊に ご冥福と哀悼の意を表します。あなた方先人の侍魂は令和の会津が大切に致します。

  • @飯盛豊-e6b
    @飯盛豊-e6b 9 місяців тому

    🎉凄いね🎉

  • @飯盛豊-e6b
    @飯盛豊-e6b 9 місяців тому

    🎉凄いね🎉

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 9 місяців тому

      有難う御座います‼️ 和紙づくりの大変さを皆さんに見て頂きたかったです。こうした手間隙や心を込めて作る和紙。だからこそ価値があるのです!😆💕

  • @magurosan-261
    @magurosan-261 9 місяців тому

    すごい美味しいお店です

  • @のん-s6n8e
    @のん-s6n8e 10 місяців тому

    ソースカツ丼、めっちゃ美味しそう!食べに行きたくなりましたー

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      東北未来プロジェクト実行委員会の飯盛です。 有難う御座います! 飯盛分店はプロの料理人がおりますので是非食べにおいで下さい!

  • @のん-s6n8e
    @のん-s6n8e 10 місяців тому

    会津若松に窯があるのは知りませんでした。陶芸体験をしてみたくなりました!

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      コメント有難う御座います。 東北未来プロジェクト実行委員会の飯盛です。 こうした本当に地元を愛し一所懸命伝統を守っているところがうまく知って頂けるようにUA-camチャンネルを立ち上げました。 是非、陶芸体験にいらして下さい!

  • @上田正利-o2f
    @上田正利-o2f 10 місяців тому

    店内改装したのですね、益々繁盛!

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      コメント有難う御座います。 東北未来プロジェクト実行委員会の飯盛です。 実は、改装は一切しておりません。季節やお客様の年齢層でお土産台のレイアウトを変えているくらいです。 レイアウトを変えるだけで随分雰囲気が変わるかも知れませんね。

  • @小栗上野介-c8v
    @小栗上野介-c8v 10 місяців тому

    白虎隊士の像。「目にしたのは煙の中で見え隠れする鶴ヶ城」という解説がありますが、そもそも、全員が自刃(1人は蘇生し行方不明)したのだから、誰も真相を知らない筈なのに、鶴ヶ城が燃えたと勘違いし、自刃したという話をでっち上げた、カネのためのなら何でもアリの会津観光史学を象徴するモニュメントになってしまいました。 後に蘇生した飯沼貞吉は長州藩士に庇護され、電信技士として活躍、そして、証言を残した。即ち、城が燃えたというのはテキトーな作り話であり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」ことが判明しています。そして、飯沼貞吉は仙台で死去。飯盛山には遺品(歯と髪)を葬った墓がありますが、他の白虎隊の墓から離れたところに立っています。そして、白虎隊の隊長、日向内記は若い隊士を置き去りにして一人で城に逃げ、生き永らえたが、そのことを恥じたのか、喜多方でひっそり暮らしたとされています。

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      小栗上野介様。 初めまして。 白虎隊墓守の五代目、飯盛山の飯盛尚子と申します。 色々と間違えた史料や世間の無知なガイドのせいで自己解釈をされこんがらがっておられるようで精神的に病んでおられましたらすみません。お察し致します。 貞吉は行方不明にはなられておりません。真実を伝えると貞吉に都合が悪くなってしまうので伝えずに噂をまとめた無知な方が作った真実に基づいた少し作り話になっております。貞吉が長州へ行った本当の理由も自身の自伝にも遺せなかったでしょう。それは、ご自身の子孫たちの為でもあります。 とはいっても、そもそも白虎隊が二十名しかいないという先入観で皆さんが勝手に解釈されている方が多いことに、飯盛山で参拝の皆さんとお話するとこちらが驚いてしまっております。 どうしても飯盛山で自刃された白虎隊のお話がクローズアップされてしまい、他の白虎隊のお話を皆さんが知らないということに誤解が生じてしまうのでしょう。 白虎隊は343名おられます。 この飯盛山のお話は、貞吉のお話をもとに語り継がれ、そして貞吉のように生き残られ子孫を沢山残されている生き残っている過半数以上の白虎隊が後々責められ叩かれないように、どちらも悪く云われないお話になっておりますので、実際は城が燃えていると勘違いはしておりませんし、自刃されたのも十九名ではなく十六名。 ですので、この動画も勘違いとは伝えておりません。 生き残ったほとんどの白虎隊の為についた少しの優しい嘘を『でっち上げ』『金儲け』という解釈でとらえるほど心が荒んでしまったあなたに心からお見舞い申し上げます。 本当の史実は、今は皆さん長生きされても既に亡くなられておりますので、そうした方々に死んでまでムチを打つような心の持ち主にはあまり歴史を語って欲しくないものですね。 史実は、直接亡くなられた白虎隊を知り埋葬禁止令を破り埋葬した私の祖先や蘇生した貞吉と直接話をしている同じ祖先を持つ墓守しか知りません。 このお話は、墓守が語る本当のお話として差し障りないくらいで別でUA-camを制作中です。 あなたの文献やガイドの話の知識と実際関わり真実をしる私のお話とすり寄せたいお気持ちがあれば、そして都合の悪いお話を聞いても既に亡くなられた方々を叩くようなことが無ければどうぞ私のところへおいで下さい。 そして、白虎隊の遺骨御霊の眠る墓前へ白虎隊に会いに来られ手を合わせてあげて下さい。

    • @小栗上野介-c8v
      @小栗上野介-c8v 10 місяців тому

      @@飯盛星藍 ご返信有難うございます。 私は30年ほど前に会津若松の観光をしましたが、飯盛山では「かなりきつい階段ですので有料のベルトコンベアに乗りましょう」という録音が流れる中、白虎隊士に申し訳ない気がして、敢えて、階段を上りました。そして、会津観光のハイライトの白虎隊士の墓や城下を眺める隊士の像を案内してもらいました。隊士の像の前では、ガイドさんが、ここ(像から少し離れた地点)から城下が見えますが、城下が焼失したときに、お城が燃えたように早合点してしまったので、容保公や家族と一緒に死のうと命を絶った」と言ったお話を聞かせてもらいました。しかし、「会津の上士を中心としたインテリの若者が、そんな勘違いをするのかな?もう少し、本当に城が燃えているか、調べてたら、こんな悲劇は生まれなかったのにとその時は、ふと、そんな感想を持ちました。ただ、後に飯沼の顛末記が話題になり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」(因みに顛末記の原文も自刃となっている)、即ち、彼ら皆で議論をし、極限まで考え抜いた末の結論であることが判明しました。若き隊士たちの勘違いという当時の会津の観光ガイド(そしてそのストーリーに沿った像)や資料に書かれたことが事実でなかったことに、白虎隊士の名誉が守れた気がして安心しました。貴方の言われるような少しばかり嘘を言ってよいと言う理屈では、自刃した白虎隊士を貶めることになります。また、他の生き残った白虎隊士の死を選ばなかったという選択をした若者を守るなんて、会津の敗戦から1世紀近くになっても、その嘘を言い続け、多くの観光客にそれを伝えたことは、やはりおかしいでしょう。 さて、自決した白虎隊士の数字については、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、レファレンスのデータベースがありますが、「白虎隊士中二番隊の20人が自刃、19人が亡くなったが1人が生き残った。資料によってはまず16人が自刃し、ついで4人が自決したとするものと、先に3人、その後17人と書いてあるものがある。自刃した場所を「飯森山」と書いている資料がある。」と書かれてあり、国会図書館の公開データが間違っていると仰るなら、しっかりした資料等に基づいて、是非とも修正するように動かれてください。 もし、自刃が16人でその他3人は自刃以外だということであれば、因みにこの国会図書館の資料の異説の「自決」は当時使われていない言葉ですが、互いが刺し違えたとか、銃(薬物はないだろう)で命を絶ったと言う区別を殊更強調する必要性はありますか?悲劇の若者は19人と生き残った飯沼貞吉であり、16人説を唱える貴方は悲劇を矮小化していませんか?因みに『補修會津白虎隊十九士傳』は、そんなことに拘らず、単に 飯盛山で亡くなった19人についての氏名と略伝、附記として「蘇生者」1人の氏名と略伝が記されていますが、悲劇は16人でなくあくまでも19名と飯沼貞吉で良いのではないでしょうか? ついでに飯沼貞吉は密かに実家には自分が生存していることを手紙で伝えていますが、勿論、密かにご家族とお会いになった可能性はあるかもしれませんが、殆どの会津の方々には知らなかったと認識しています。行方不明ではないと断言する貴方の説をとるなら、それを知っていた会津の方々が、飯沼一家を不忠だとして冷遇したしたと言うことでしょうか?生き残ったほとんどの白虎隊の為についた少しの優しい嘘と言うのは主語は誰ですか?また教えて下さいね。

    • @小栗上野介-c8v
      @小栗上野介-c8v 10 місяців тому

      @@飯盛星藍 ところで、白虎隊の悲劇の原因は何だとお考えですか?墓守である貴方なら、裏付けのある深遠なお考えがあるのでしょう。是非、お聞かせください。 薩長土や岩倉具視のせいと言うのは、会津観光史学の面々と最近の明治維新陰謀説で小説以外、殆ど聞かれなくなりましたが、観光史学については、後述します。また、優柔不断な徳川慶喜の裏切りだということを言われることも多いですが、本来は、藩祖保科公の遺訓に沿うならば、慶喜を説得ないし、従うべきで、慶喜の謹慎の邪魔をし続けたことは、会津藩主としての歴史上、最大級の不忠だと思いますが、、、。 白虎隊隊長(白虎士中二番隊頭)の日向内記の敵前逃亡?飯沼貞吉の残した手記には、批判こそないが、ちょっと恨みがましく書かれているように思います。日向隊頭のことは会津の方はどう考えていらっしゃるのでしょうか?中間管理職としては苦しいので同情すべきところもあるのですが、二本松少年隊は隊長が早々に戦死してしまい、悲劇を大きくしてしまったところがありますので、やはり、日向の責任は重いでしょう。 私の感覚では、藩祖保科正之の遺訓、特に、「大君(将軍家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国(他藩)の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」に縛られ過ぎたという意見も根強いですが、、ただ、容保公は徳川慶喜の謹慎の姿勢に対し、不満を明らかにし、やがて、慶喜から遠ざけられるが、その後も、上野や宇都宮外に兵を差し向けるなど、慶喜の意向を無視し続けた。藩祖の遺訓を守らなかったのです。 寧ろ、藩祖保科正之は徳川の幕藩体制の完成者であり、殉死を禁止、焼失した江戸城天守閣の再建をさせないなどの例があるように、極めて、柔軟な大政治家でした。会津藩士はその家訓の背景にある藩祖の合理的な精神こそ学ぶべきだったように思うが、そうはさせない会津藩の組織が問題だったのではないかと考えています。 即ち、保科正之は信州高遠から引き連れてきた「高遠以来」の家来を重用し、以来、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないとわずかの例外を除いてその家老職に就くことはできなかった。少数支配は史上最大の帝国を築いたジンギスカンの例を見る前もなく、厳しい身分制度をつくり、さらに「ならぬものはならぬ」という議論を封じる藩風が出来上がる。薩長土と異なり、個別の戦闘は別にして、下級士族が活躍する場面が、なかったこともそれを裏付けます。 さて、白虎隊の悲壮な覚悟と悲劇はいつしか美談となり、会津にムッソリーニ(会津ではローマ市民からの贈り物と表現しているようですが)とナチスドイツから記念碑が贈られました。そして、ナチス党内の青年組織ヒトラーユーゲントという若者たちまでが会津を訪れました。また、会津出身の畑俊六は元帥陸軍大将、A級戦犯(終身刑)、陸軍の横暴の片棒を担いだという非難を生涯受け続けることとなった彼は、いわゆる「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」で有名な戦陣訓の発案者ですが、この戦陣訓の文言は白虎隊士が自刃した理由と重なります。若い隊士に罪はないどころか、彼らなりに十分議論を重ねて出した崇高な気持ちだったと思いますが、そんな白虎隊の美談が独り歩きしてしまったのが、彼らにとって、一番の悲劇ではなかったかと思ってしまいます。

    • @小栗上野介-c8v
      @小栗上野介-c8v 10 місяців тому

      @@飯盛星藍 俗に会津観光史学と言われる捏造についてもお考えを教えて下さい。昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと司馬遼太郎が会津でシンポを行ったのが起因となり、 更に当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館長 故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口・鹿児島に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。 更に、会津びいきの作家(早乙女・星・宮崎各氏)による史実歪曲が、史実を知らない一般の人々を洗脳し、会津こそ正義で、薩長土などは悪とレッテルを貼ってしまった。最近ではどちらも正義と言った議論もありますが、会津観光史観は本当に悪質で歴史を歪めたように思います。少し、以下、極力、事実がどうだったのか確認しながら、調べたものなのですが、羅列させて頂きます。 ①王政復古から小御所会議での旧幕府に対する薩摩の無理難題を反故にすることに成功していた徳川慶喜の命に逆らって大軍を京都に送り、鳥羽伏見という最悪の戦いのきっかけをつくった。 ②鳥羽伏見以降、慶喜と朝廷に逆らって、謹慎もせず、上野や宇都宮戦争に兵を差し向けた。 ③世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、仙台藩を激高させ、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を殺害し、公家の奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が監禁した。 ④仙台藩家老の但木土佐が戦争回避に動き、会津藩と交渉、会津藩も新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否し、明治新政府に、謝罪を拒否する回答書を示した。 ⑤先制攻撃をしたのは会津で、西郷頼母を総督として、幕府直轄領であった白河城を占領。 ⑥会津では薩長の内、薩摩に対しては西南戦争で恨みを果たしたが、長州は今でも許せない?と言いう声が根強いが、会津戦争の主力は薩土であり、長州の主力は北越戦争で手間取り、山縣有朋が会津に入ったのは会津の降伏の僅か4日前である。長州の蛮行は記録として残っていないし、新政府の残虐行為のほぼ全ては会津観光史学(会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家)等による捏造・誇張が多い。 ・白河以北一山百文と言って東北を馬鹿にした?(原敬が扇動演説の中で創作したという説が有力で、実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような資料・根拠はない) ・会津藩士が埋葬されなかった(埋葬されたと言う具体的な記録「戦死屍取仕末金銭入用帳」が出てきている) ・新保雪子が大垣藩に凌辱された(元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死した) ・白虎隊も婦女隊の悲劇も、銃砲飛び交う中、薙刀で戦わるような決定をした会津藩の首脳の頑迷さが原因。 ・武川 信臣は 家老内藤信順の三男。彰義隊に呼応し、新政府に捕縛され「君と親の重きめぐみにくらぶれば 千引の石の責はものかは」という言う句を残した。獄中で「容保公と親の為に拷問もものとせず」なんて書いてしまうと、主君と親に累が及ぶから、こんなこと書くわけがないでしょう。現物はあるのですか?あるとしたら、それはそれで、不忠者ですが、、。 ⑦長年の放漫財政に加え、京都守護職就任以降の出費もあり、会津領民に重税を課しただけでなく、新潟や福島でも会津は蛮行・略奪を繰り返した。(郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市、二本松市、郡山市)、二本松に対する軍事行動は、方針が定まらない同藩への威嚇だったようですが。ただ、ビスマルクに北海道を売ろうと会津が交渉していたことが、プロシア側の資料で明らかになったことには驚きました。 ⑧他に例のない空前の贋金づくりを行いました。江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造、藩への上納額は60万両(1千億円超)に達した。

    • @小栗上野介-c8v
      @小栗上野介-c8v 10 місяців тому

      @@飯盛星藍 朝敵となった会津はその後冷遇されたと言う方が多いのですが、しかし、飯沼貞吉(白虎隊の集団自決の唯一の蘇生者)は長州藩士の楢崎頼三に、山川健次郎(東大総長)も長州藩士の奥平謙介に養育されます。また、健次郎の兄の浩は土佐藩の谷干城に重用され、陸軍少将(男爵)に、さらに会津の下級武士だった出羽重遠は薩摩の東郷平八郎や山本権兵衛に可愛がられ、当時としては殆どいなかった海軍大将にまで昇りつめる。日下義雄は飯盛山で自刃した石田和助の兄だが、長州の井上馨の知遇を得て海外留学、その後、長崎県知事や福島県知事を歴任する。維新の立役者である薩長土肥以外で、会津ほど厚遇されたことは殆どないだろう。悠仁親王にもつながる池上四郎(元大阪市長)も井上馨が支援した。山本覚馬は薩摩藩に助けられ、後に、長州の槇村正直京都府知事の支援がないと同志社の設立もなかったかもしれない。妹の八重が新島襄と結婚したのもこの槇村の紹介。山田英夫は、松平容保の三男で、長州出身の乃木に可愛がられ、軍事参議官副官(乃木希典陸軍大将附)後に、陸軍中佐ですが、英夫は山田梅子(長州の山田顕義の長女)を妻とし、山田伯爵家を継いだのです。 その他にも事例が多いのですが、こんな話もあります。長州藩の奥平謙輔が盟友、前原一誠とともに萩の乱を起こしたとき、維新前後の恩義を感じた会津藩士の実に14名がそれに呼応、千葉県庁を襲撃しようとし、失敗、首謀者の永岡久茂は獄死、井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀3名が斬罪となり、中根米七切腹(思案橋事件)したのです。長州藩が凄惨な蛮行を行ったなら、命を懸けて、萩の乱に呼応しますかね。 最後に山川健次郎らを養育した長州藩士、奥平謙輔はかつて西国を周遊していた秋月悌二朗と長州で出会い、意気投合。会津藩降伏後となりますが、奥平は猪苗代に謹慎中の秋月に「会津藩と敵対し戦わなければならなかった不幸を嘆き、会津藩の徳川幕府に対する忠義を讃え、今後は朝廷の為に尽くして欲しい」と言う内容の手紙を送った。因みに手紙を届けたは、河井善順という会津の真龍寺の僧侶。 手紙を受け取った秋月は謙輔を会津藩への理解者として見込み、越後に居る謙輔を密かに訪ね、藩主父子の助命や会津藩士の将来について頼んだ。謙輔は秋月の期待に応えるよう努力すると約束し、さらに二人の会津少年(のちの東大総長山川健次郎と陸軍少佐になる小川亮)を書生として預かった。 ついでながら、手紙を届けた川井善順は会津の真龍寺の僧侶で修学のために一時、京都の西本願寺に入るが、その際、本願寺は禁門の変の際に敗走した長州藩士を匿ったために西本願寺が京都守護職松平容保によって攻撃されそうになった際に、会津出身である善順が知己の会津藩士らに懇願して攻撃を中止させたことのある長州藩の恩人だったのです。

  • @飯盛豊-e6b
    @飯盛豊-e6b 10 місяців тому

    いいね おらが里の気持ちになってます 福島最高🎉❤

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      豊さん 有難う御座います‼️😆✨💍✨

  • @yosihikoadumi
    @yosihikoadumi 10 місяців тому

    会津の歴史大好きな大林さん、鈴木さんと知り合いになり、ラッキイですね。 鈴木さんは会津の歴史には凄く精通しており、毎日勉強しているみたいですよ。 大林さんこれからも大いに会津を発信して下さい。

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      東北未来プロジェクト実行委員会の飯盛と申します。 この度はコメント有難う御座いました! 大林さんも、鈴木さんからもっと勉強させて貰いたいと! 大林さん、本当に会津が大好きで会津の為ならと今回の撮影にも快く参加して頂きました。

    • @yosihikoadumi
      @yosihikoadumi 10 місяців тому

      鈴木さんに伝えておきます。 しかし大林さん、鈴木さん良いコンビになりますよね?

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 10 місяців тому

      ロケ中、私たちも2人の掛け合いが良い感じだと話していました。 またお願いしようと思っております。

  • @飯盛豊-e6b
    @飯盛豊-e6b Рік тому

    すばらしい所が 沢山ある福島県をもっともっと 教えて下さい 楽しみです🖐️🖐️

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 Рік тому

      東北未来プロジェクト実行委員会の飯盛と申します。 早々にコメントを頂いたにも関わらず、お返事遅くなり大変申し訳御座いませんでした。 素子様へもお伝えさせて頂きます。 皆様の応援コメントや『いいね』は大変励みになります。 少しずつですが情報発信させて頂きますので、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

  • @佐々木崇-n6i
    @佐々木崇-n6i Рік тому

    大林さん 会津の素敵を沢山発信して下さい。 楽しみに、そして応援しております!🏐

    • @飯盛星藍
      @飯盛星藍 Рік тому

      東北未来プロジェクト実行委員会の飯盛と申します。 早々にコメント、素子様への応援コメントを頂いたにも関わらず、お返事遅くなり大変申し訳御座いませんでした。 素子様へもお伝えさせて頂きます。 皆様の応援コメントや『いいね』は大変励みになります。 少しずつですが情報発信させて頂きますので、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

    • @飯盛豊-e6b
      @飯盛豊-e6b Рік тому

      @@飯盛星藍 頑張って下さい 福島はいい所です もっと発信して下さい✌️